二年目の夏。
夏の陽射しが青い海と真白な砂を照らし、スヴェンは倍率スコープ越しにため息を吐く。
砂浜から少し離れた森の中でスコープ越しに砂浜で遊ぶ彼女達を監視しなければならないのか。
「ため息だなんて無礼なヤツね、魔王様の水着姿なんてそうそう拝めるものじゃないよ」
魔力の弓矢を構えるリンにスヴェンは視線を移し、黒基調の水着を着ながら尻尾を揺らす彼女にまたしてもため息が漏れる。
「アンタはこんな所に居ねえで遊んで来たら如何だ?」
「旦那が魔王様の側に付いてるならアタシは遠方から護衛……まあ、不逞な輩が居ないって判れば遊びに行くけど」
スヴェンは倍率スコープ越しから赤基調の水着を着こなした魔王アルディアと彼女に引っ張られながら海辺を歩くアウリオンの姿を目視した。
その側には白基調のビキニタイプの水着に長い金髪を海風に靡かせたレーナの姿が有れば……青基調のビキニタイプの水着に浮き輪を身に付けるミアの姿も有る。
なぜ南のリゾート地、それもアルセム商会が経営するリゾート地に居るのか。
それは単に魔王アルディアがレーナを夏の旅行に誘ったことがきっかけなのだが、やはりなぜ自分が場違いのこの場所に居るのかが時折り判らなくなる。
こうして倍率スコープ越しに覗き込み銃口を向ける必要も無いにも関わらず、自身はこうして自然体で銃口を構えているのだ。
「なんで俺は此処に居るんだ?」
「はぁ〜? あんたがレーナ姫に誘われたからでしょ」
「そうなんだがなぁ」
確かにそれは間違いない。
ただ護衛依頼としてなら同行すると断りを入れたのも事実だったがーー姫さんのあんな顔を見て見せられちまったらなぁ。
結果としてスヴェンは折れる形で以前エルロイから譲り受けたリゾート地の招待状を使って同行することになった。
そこまでは良かったが、折角の旅行ならと自身を家族と呼ぶラウル達も誘えば彼等には試験が近いという理由で断られてしまったのだ。
試験なら仕方ないが自分だけ楽しむのも何か違う気がしてならない。
だからなのかスヴェンは砂浜に到着早々に森の中に潜伏し、遠くからレーナ達の護衛を始めている始末だ。
頭では休暇を楽しむべきなのは判っているが、諸々の疑問や魔王アルディアの行動につい身体が勝手に動いてしまったのだ。
「……しかし魔王もよくアルセム商会が運営するリゾート地でバカンスなんざ思い付いたな」
「ああ、それね。アタシも意外だったけどエルロイの奴が魔王様にお詫びとして宿泊券を贈って寄越したのよ」
「まあアイツは今でもアルセム商会会長の皮を被ってるからな……しかし、此処のリゾート地は他の王族も利用してるんだとか」
「まあ有名らしいけど、今日明日の宿泊予定客に他国の王族は来ないからその辺は安心してもいいんじゃない? ま、貴族なら魔王様にちょっかいをかける輩も居るだろうけど」
ナンパを心配するリンにスヴェンはまさかっと肩を竦める。
スヴェンから見ればあの場所に居る三人は単なる少女にしか見えない。
立場を抜きにしても海辺で海水を掛け合うただの少女にしか見えないのだ。
「そんなに心配することか?」
「あんた、それ本気で言ってるの? だとしたらその目ん玉はガラス細工よ……アタシから見ても魔王様もレーナ姫、そそれにミアも可愛い!」
「いや、ミアはともかく2人は王族として顔割れしてんだろ」
「確かに2人とも顔割れしてるわよ。けどね? この気に近付きたいって考える輩は割と多いのよ」
リンの言うことも一理有る。
魔王アルディアとレーナを口説き落とせれば王族との婚姻に繋がるだろうーーしかしスヴェンには二人が簡単に口説き落とされるとは思えなかった。
まず魔王アルディアのアウリオンを見る眼は、確かに異性に向ける感情を秘めた眼差しだからだ。
それは表面上から観察したたげでも判るほどに魔王アルディアのアウリオンに対する感情は判り易い。
逆にリンが向けるアウリオンに対する感情も。
「魔王の方はアウリオンしか眼中にねぇだろ」
「……まあそうね、宿泊部屋だってわざわざ手回した程だし」
到着早々に波乱を呼んだ宿泊部屋の部屋割りにスヴェンは深々とため息を吐く。
いま思い出すだけでも頭が痛い。
順当に考えれば自身とアウリオンが同室が必然的だが、なぜか部屋割りはアウリオン、アルディア、リン。そして自分とレーナ、ミアの部屋割りにされていた。
文句の一つも言いたい所だが、レーナとミアは承諾し魔王アルディアにも小声で『スーくん、今晩は邪魔しないでね?』と忠告されてしまっては大人しく承諾するほか無かったのだ。
「……はぁ〜酒と海鮮料理が唯一の楽しみか」
「スヴェンも海ぐらいは満喫したら? ほら呼んでるし」
こちらに向かって手を振るレーナとミアにスヴェンは仕方ないっと肩を竦め、二人の背後に近寄る四人組の男性に警戒心が宿る。
倍率スコープ越しから男の一人がレーナとミアに声をかけ、背後の三人が下卑た視線を二人に向ける。
「自殺志願者か?」
「自殺志願者ね、魔王様も威嚇してるし……止めないと人死が出るわ」
リゾート地を血に染めては後でエルロイに何を要請されるか分かったものではない。
スヴェンは銃口を四人組に狙いを定めーー予め装填していた.600Nマグナム弾を撃つ。
四発の銃弾が四人組みを気絶させ、そんな光景を目撃していた他の宿泊客がレーナ達から距離を置く。
これで彼女達にナンパなどしようものなら如何なるか理解しただろう。
「アタシの出番は?」
「アンタの魔法は加減が難しいだろ」
「……一応ミアが居るから死人は出ないわよ」
「ナンパ如きで死にかける身にもなってみろよ」
スヴェンは倍率スコープから視線を外し、ガンバスターを背中の鞘にしまう。
そして立ち上がったスヴェンはリンと共に一度レーナ達の下に向かった。
▽ ▽ ▽
レーナ達と合流したスヴェンは浮き輪で海面に浮くミアに、
「アイツは泳げねぇが、大丈夫なのか?」
安全性に付いてレーナに訊ねる。
「うーん、波も穏やかだしひっくり返ることは無いんじゃないかしら」
今は波は穏やかだが時として高波にもなる。
そうなればミアが浮き輪ごとひっくり返されるのは眼に見えているが、それ以前に彼女は波に委ねて流れてる状態だ。
いくら浮き輪が有ろうとも砂浜まで彼女が自力で戻って来ることは不可能に近い。
「いや、アイツは自力で戻って来れねえよな」
「……? ミアは泳げないって聴いていたけど、浮き輪が有っても駄目なの?」
普通なら浮き輪で身体を水面に浮かせながらバタ足で泳ぐことは可能だが、ミアのかなずちはかなり重症な部類だ。
「アイツは運動神経はかなり優れてるが、それ以上にかなずちなんだ」
「……うたた寝してるけどあの子は自分の状況に気付いてるのかしら?」
穏やかな波に委ねてうたた寝してしまうのは仕方ないことだ。
しかしまだ二百メートルも流されていないが、このまま放置すればいずれミアは守護結界の範囲外に流されてしまうだろう。
「いざとなればミーちゃんを飛んで助けられるけど」
「事が起こる前に連れ戻すか」
また溺れられても面倒だ。
スヴェンが背中の鞘を取り外し、パーカーを脱ぎ捨てその時だった。
突如発生した高波にミアが浮き輪ごと飲み込まれたのは。
ーーおいおい、なんつうタイミングの悪さだよ!
スヴェンは舌打ち混じりに海に飛び込み、ミアが居た場所まで泳ぐ。
海中を潜り進み、海の魚が泳ぐ光景を目にしながらミアが居た場所と高波ーー彼女の気配と魔力を頼りにスヴェンは泳ぐ速度を早める。
そして程なくして海底に沈んだミアを発見したスヴェンは思わず呆然としてしまった。
高波の衝撃によって身体が流されたのか、あるいは浮き輪に水着が引っ掛かり外れてしまったのか。
歳頃の少女にとって上半身裸は良くないだろう。
スヴェンは一旦ミアを抱き寄せ、背中に背負いながら周囲を見渡した。
浮き輪の姿もミアの水着の上部を探すもその姿は見えず。
仕方なくスヴェンは一度海面に浮上し、背中に背負ったミアの腹部に肘を打つ。
「うっ!? ……げほ! げほっ! あ、あれ? スヴェンさん?」
「気が付いたか……状況はアンタの身形で察しろ」
「えっ? っ!?」
自身の状態を察したミアが恥ずかしさのあまり、スヴェンの背中に密着した。
だが何も感じない。鎖骨の硬さが背中に伝わるだけで彼女から伝わる甘い香りさえスヴェンはなんとも思わない。
スヴェンは改めて周囲を見渡すことで、少し離れた位置に浮かぶ水着の上部を発見しそれを彼女に渡すのだった。
「うぅ〜もしかして見たの?」
涙混じりに唸るミアにスヴェンは息を吐く。
隠しても見てしまった事実は変わらない。
「うつ伏せの状態で沈んでりゃあ回避も出来たが悪いな」
正直に告げ、ミアは黙ったまま身体を密着させたまま。
何故水着を早々着けないのか。僅かに生じる疑問は砂浜でこちらを観ている他の宿泊客達の様子で嫌でも理解が及ぶ。
特に男連中は少し離れた距離からでもミアの状態が良く見えているのか期待を寄せた眼差しでこちらを凝視するばかり。
流石にミアの様子に気付いたレーナ達も男連中の眼を逸らそうと動いているが、いかせん人数が多過ぎる。
丁度良く身を隠せる場所は無いかと周辺に視線を移せば、泳がなければ近寄れない丁度いい場所が有るではないか。
スヴェンはミアを背中に隠しながら砂浜と森の中間に位置する岩陰に向かった。
▽ ▽ ▽
岩場と森に囲まれた小さな浜辺に到着したスヴェンは背負ったミアを降ろし、彼女から背を向けたまま距離を取る。
すると背後から濡れた布が皮膚に擦れる音が小波に混じり聞こえた。
ミアの吐息と砂利を踏む足音、手早く着付けたなら後はレーナ達と合流するだけ。
「……またアンタを背負うことになるがーー」
背後を振り返りミアに語り掛ければ、彼女の紅く染まった頬と熱を帯びた眼差しにスヴェンは思わずたじろいでしまう。
「……私はこんなに胸が熱いのに、スヴェンさんは無反応なんだね」
羞恥心混じりにこちらを咎めるミアにどう反応すれば正解なのか、いやこの場合においては正解など無いのかもしれない。
ミアが強く羞恥心を示している原因も上半身裸で背中に密着した事が原因だからだ。
時折り自身の成長にコンプレックスを見せていた彼女の悩みは生憎と自身には判らないが、成長の悩みについては理解が及ぶ。
以前までならそれで他愛の無い会話で終わらせることもできたが、ミアの瞳から感じる熱はそれだけじゃないことを鮮明に物語っている。
「アンタにとっちゃあ死ぬほど恥ずかしいだろうが、俺にとっちゃあ知人が溺死するかの瀬戸際だ」
「生死が関わった状況で裸体一つ意識するほど余裕なんざねぇのさ」
実際にはミアの裸体を見たところで心が何も感じないだけでは有るが嘘は付いていない。
「……私は此処に辿り着くまでずっと胸が爆発するかと思ったよ。だけどそれは相手があなただからなんだよ?」
それは自身に限らず非常に恥ずかしいと思うのだが、彼女の内に秘めた感情がそうさせるのだろう。
スヴェンはミアが抱いてしまった感情を否定しようかと迷うも、心が抱く感情は否定しようが無い紛れもない事実だ。
心の欠落を抱える自身が否定してはならない感情の一つだ。
「アンタも姫さんも男の趣味が悪いな」
本当に趣味が悪い。
彼女達は真っ当な人生を歩み生きていたはず。それなのに心の欠落を抱えた外道に好意を抱くなど悪趣味にも程が有る。
「そうかなぁ〜それでも私とレーナは心からスヴェンさんが好きになっちゃったんだから仕方ないよ」
羞恥心を宿しながらさっぱりと語るミアにスヴェンは肩を竦める。
「まだ帰還までは時間は有るが、それまでにアンタらが諦めてくれることを祈るさ」
「それこそ私とレーナがスヴェンさんの帰還を諦めさせる可能性だって有るでしょ?」
ミアの宣戦布告とも取れる言葉にスヴェンはため息を吐く。
既にラウル達は自身のことを家族だと評している。
過去の経歴も明かさず敵は問答無用で殺す外道を家族の一員だと。
最初は同居状態の延長線から始まった単なる家族ごっこの類いかと思ったが、ラウル達の胸の内は違った。
三人とも本当の家族と離れ、別れを経験している。
内に潜む寂しさが家族という関係性を求め互いをそう呼ぶようになったのだ。
ラウル達は心の底から本気でスヴェンを家族として認識している。
依存とも違う心の底から求める一つの関係性を否定することも拒絶することもできなかった。
家族という関係性が自身の意志に杭を打ち込まれた感覚、更にそこに二人の少女が向ける好意が畳み掛けるように襲うのだ。
デウス・ウェポンに帰還し全てに決着を付ける。
そのためには折れるわけにはいかない。
「俺がそう簡単に折れると思ってんのか?」
「折ってみせるよ」
強気に宣言するミアにスヴェンは思わず笑った。
ミアの背後で盛大に波打つ砂浜、そしてこちらに強気な表情を浮かべているがーーあぁ、アイツの表情が速攻で崩れると思うと笑えるな。
「なんで素敵な表情で笑ってるの?」
「いや、随分と強気に言っちゃあいるがアンタは此処からどうやって戻るつもりだ?」
スヴェンの指摘にミアの肩が強張り、強気な表情は一瞬で崩れーーまるで捨てられそうになった仔犬のような眼差しを向ける始末だ。
「……ふっ、冗談だ。アンタをこんな所に置いて行ったら姫さんにどやされちまう」
「むぅ! スヴェンさんって意地悪なところあるよね!」
陸続きのこの場所から戻るにはミアを背負って海を泳ぐか獣道の森を通る他にない。
あまり遅くなっては要らぬ誤解も与えるっと考えたスヴェンはミアを背負い海を泳ぎ始めるのだった。
そしてレーナ達と合流したスヴェンとミアは昼に海の幸をふんだんに使ったバーベキューに舌鼓を打つことに。
▽ ▽ ▽
夕暮れが訪れホテルの豪華なディナーを心ゆくまで堪能したスヴェンは寝室が近付くに連れ、魔王アルディアの策略に恐れ慄く。
彼女が何を企み今回の旅行を企画したのか、スヴェンは察したうえでアルディアに小声で問う。
「……アンタの目論見は察したが、姫さんが遊びに行かねえとは考えねえのか?」
「その辺は抜かりは無いよ。既にレーちゃんとミーちゃんは魔法に掛かってるからね」
「あ? そいつは夜にアンタらの部屋を訪ねねように暗示でも施したってことか」
目的の為なら友人に魔法を掛けることも厭わないアルディアにスヴェンは呆然と立ち尽くした。
女の恐ろしい一面もそうだが、背丈の低い容姿から想像も付かない計画を実行に移す辺り彼女もまた魔王なのだ。
アルディアの計画に未だ気付いていないアウリオンの背中にスヴェンは思わず同情心を向けた。
「ん? どうかしたか?」
「いや、なんでもねぇさ」
「そうか、ああそうだ。今夜は共に飲むか?」
「悪いが遠慮させてもらう」
率直に断るとアウリオンは残念そうに肩を竦め、リンと共に505号室に入って行った。
そんな彼の後を追うようにアルディアもドアの前に立ち、
「それじゃあみんなお休み!」
笑みを浮かべて室内に入って行く。
あの笑みの奥底に隠された真相を知るスヴェンは内心で深いため息と共にアウリオンの冥福を祈る。
「……? 何かしら友達が遠くへ行ってしまうようなこの感覚は??」
「気の所為だろ」
スヴェンはそのまま504号室の鍵を開け、そのまま室内に歩む。
そしてソファの傍にガンバスターを鞘ごと立て掛け、そのままソファで寛ぐように座り込んだ。
このまま寝てしまえば現状に付いて頭を悩ませずに済む。
スヴェンは本能から眠りに就こうと眼を閉じるも、二人の不満気な視線が嫌でも突き刺さる。
「スヴェン。せっかく同じ部屋なのだから少し大切な話をしない?」
大切な話にスヴェンは眼を開く。
何か新しい依頼がっと期待して視線を向ければ、彼女達の高揚した頬に落胆気味に肩を竦める。
「スヴェンさ〜ん? 流石にもう少し有るでしょ」
「……大切な話ってのがアンタらの好意だとかならパスだ」
「違うわよ。ほらこんなに大きなベッドが在るじゃない」
確かに部屋には大きいベッド一つ。それこそ四人が眠れるほどのサイズの物だ。
二人の歳頃の少女と同じベッドで眠ることなど外道としては不可能。
「ソファで十分だ。それに着替える時は声をかけろよ」
「ふーん? それじゃあ私もソファで寝ようかしら」
「やめてくれ。王族のアンタをソファに寝かせたとなりゃあ……それこそ多方面から怒りを買いかねない」
「そこまで言うならベッドで寝るけど……っと大切な話だったわね」
「大切な話ってのは仕事か、それとも明日の予定か?」
どんな内容なのか先んじて訊ねるっと二人はゆっくりと首を横に振る。
まるで示し合わせたような一体感さえ感じさせる動きにスヴェンは訝しむ。
「スヴェンは魔法大国エルリアにおけるフルネームの意味は理解してるわね?」
「あぁ、呪いの半減以上に大切な者に明かす風習だったか」
他国でも呪いの対策として採用されている方法だが、スヴェンは初対面のアウリオンからフルネームを告げられたことを思い出す。
当然だが他国とエルリアではフルネームの重みが違う。
「婚約者や大切な者に教えるのもそうだけど、個人に対する信頼の証しでも有るわ」
信頼の証しとしてフルネームを明かすのはそれはそれで危険性が伴う。
元々フルネームを知る目的で近付いた手合いに騙され、明かしてしまった際のリスクは計り知れないだろう。
そこは考えても切りがないが傭兵の性で考えられずにはいられない。
「信頼の証しとして預けるにも人を見抜く観察眼は必要だな」
「そうね、例えば一切の過去を明かさない異界人でも心から信用したなら教えても良いのよ」
二人の眼は本気だ。本気で自身にフルネームを明かそうとしている。
「明かされた所で俺が返せるもんはねぇぞ」
「そういう貸し借りとか仕事の話じゃないの。本心からの気持ちは理屈抜きで説明できないのもあなたは分かってるでしょ」
スヴェンはミアの言葉に眼を瞑る。
レーナがこの話を切り出した時点で既に二人ともフルネームを明かすことを決めていたのだろう。
それこそどんなに否定しようとも二人の硬い決意を折ることは難しい。
いや、手が無いわけではない。
レーナとミアを傷付け自身に見切りを付けさせる方法は有るが、それをやってしまえば最後だ。
何よりも自身の心は二人を傷付けたくないっと訴えかけている。
ーー去年の俺なら躊躇しなかったんだがなぁ。
冷徹に徹しきれない。
テルカ・アトラスに召喚されてから魔法技術を習得し技術を磨いたが、それ以上に自分は弱くなってしまったようだ。
弱くなってしまった自身に不甲斐無さを感じる反面、なぜか心に奇妙な温かさを感じる。
二人から向けられる感情が欠落した心を埋めていると云うのか。
リノンでは感じられなかった感覚、それを意味することは判らないがそう悪い気分でもない。
短い思考の末に悩んだスヴェンは眼を開く。
強い意志を宿した眼差しで此方を見詰める二人。
これは信頼の証しとして受け取るしかない。それが何を意味するかも含めて。
「分かった、アンタらのフルネームを教えてくれ」
二人は互いに顔を見合せ、やがて頷きミアから口を動かす。
「改めてになるけど私の名はミア・ウィルグスよ」
自身の名を告げたミアは枕に顔を埋め、唸り声を発しながら悶絶してしまった。
それほどエルリアでは重要な意味を持つのだから無理もない。
ベッドで悶絶するミアを他所に落ち着き払ったレーナが咳払いを一つ。
スヴェンは彼女の方に視線を向けーー既に顔がかなり赤いが大丈夫なのか?
レーナは火照る頬のまま意を決したのか、ゆっくりと告げる。
「私はレーナ・ウェルトレーゼ・エルリアよ。エルリアは国名、ウェルトレーゼはお母様の姓なの」
「なるほど……だからレヴィなのか」
「えぇ、安直だったけれどフルネームには繋がらないもの」
「そりゃあオルゼア王以外は推測すら無理だろ」
そんな事を告げれば既に火照りも冷めたのか、レーナは落ち着いた様子で微笑みーー不意に小首を傾げた。
「隣の部屋から軋む音が聴こえるわね」
スヴェンは部屋の内装と間取りを思い出す。
確か壁の向こうは505号室。ベッドは丁度壁越しに背中合わせになるように配置されていたはず。
「……そいつは間違いなく壁の向こう側からか?」
「え、えぇ……んー? 何故かしらアルの所に行こうと思えないのよね」
今は行くべきでは無いだろう。
隣室から聴こえる軋む音だけでは断定出来ないが、魔王アルディアが事前に魔法で人払いをしている。
つまり隣室で行われているのはそういう事なのだ。
「あー、やらなきゃならなねぇがやる気が起きねぇ。そういう日も有るだろ……特にアンタは日頃から働き過ぎなんだ」
「そういうもんなのかしら? でもまぁ休暇目的でき来てるから公務のことは忘れてミアとシャワーを浴びて来るわ」
そう言ってレーナは未だ悶えているミアを正気に戻してからシャワー室に向かった。
一人残されたスヴェンは激しく軋み始める壁に向かって深いため息を吐く。
スヴェンはひと足先に微睡に身を委ね、浅い眠りに就くのだった。
後日、魔王アルディアが婚約を公表し世界を大いに賑わせたのは必然だったと言うべきかもしれない。