それは春の風が花の香りを運ぶ夜のこと。
酒を呷る客を背にスヴェンは、
「もうどうすればいいか判らないっ!」
酔ったラオに思わず同情の眼差しを向けた。
アトラス教会を去った後、夕暮れまで城下町を歩いていた所をラオとレイに捕まり今に至る。
そもそもラオにはたまに飲みに誘われるが彼がここまで酔うのは珍しい。
エルリア魔法騎士団の業務で何か有ったのは明白だが、原因が判らない以上何も言う事はできない。
「それで何が有ったんだ?」
酒を呷るラオを他所に静かに呑むレイに訊ねる。
すると彼は深々とため息を吐き、疲労を感じさせる眼差しを向けた。
「……フィルシス騎士団長の鍛錬がより厳しくなったんだ。具体的には個々の実力向上を目指した鍛錬方法なんだけど」
「ん? 実力向上は良いことじゃないか」
自身もフィルシスの鍛錬を受けて確実に技術を身に付け、実力向上に繋がった。
時間が許すならまた彼女と鍛錬の日々を送るのも悪くはない程に、自身にとって戦場の次に生を実感できる時間だ。
「そうなんだけどね、新人が保たないんだ」
「退職者が増えてんのか?」
「そうじゃない。怪我人が絶えず医務室に運び込まれて治療師に世話になってね……その度にミア達から小言を言われるのさ」
退職者は出ていないが怪我人が絶えず、治療師の業務負担に繋がる。
だが今後の脅威に備えれば戦力強化を図るのはフィルシスにとって当然の責務だろう。
ここ三年の内に変わったモンスターの組織的な行動、指揮官を中心に人類を襲うモンスターの対処は戦力向上が必須とも言える。
個人の強大な力を頼るより個々の実力を伸ばした方が全体的に損失を抑えられ、戦力向上と共に一種の安息を人々に与えられるのだ。
だからフィルシスは厳しい鍛錬を課す。
しかしあまり厳しくし過ぎても潰れるだけで意味を成さない。
「フィルシスの考えは聴いたのか?」
「……それがさぁ『王族と民を護ることに繋がるでしょ? それに私が出来ることはキミ達にも出来る筈だ』なんて言うんだぜぇ?」
「天才は周りも同じ領域に立てると考えちまうからなぁ。それ以上にフィルシスは変な所で天然だ」
自身の実力を周囲に結果として要求してしまうのもフィルシスが努力家の天才故にだ。
それでも退職者が出たという話は一切耳にしないが、殉職者が出るという話は耳にする。
鍛錬で実力が向上しようとも人は死ぬ時は存外あっさり死んでしまう。
個人の実力向上は謂わば経験や自身の能力から窮地に立たされた状況下で切れる手札を多く用意し生存率を向上させるものだ。
それでもやはり人は簡単に死ぬ。
実力も有無もそうだが、部隊長の指示一つでたちまち全滅に追い込まれることも。
ーーああ、アイツも無意識の内に部下を死なせたくねぇ一心で鍛えてんだろうなぁ。
「……いや、さっきの失言だな。アイツは努力家で民、部下想いなのはアンタらも判ってんだろ?」
スヴェンがそう問いかけると二人は静かに頷いた。
フィルシスが休暇を使ってまで鍛錬に明け暮れる様子を二人は重々理解している。
その傍らで各所の騎士団の詰所に出向き相談に乗る事もあれば、村人の困り事を解決することも有る。
だからこそ無茶な鍛錬にも文句言わずに付いて行くのだろう。
それはそれとしてラオの愚痴は他にも有りそうだ。
「で? ラオは一体何を悩んでんだ?」
「鍛錬の厳しさはこの際良いんだ。問題は武具の修繕費に伴う予算の増加、施設の修繕費を始め諸々費用が掛かる」
「あー、必要経費だろ」
「姫様とオルゼア王は容認してくれてるが、財務大臣や執政官がもう少し予算を抑えろと騒ぐのだ! それをなぜいつも俺の所にっ!!」
それはラオが常日頃から不在のフィルシスの業務を請け負っているからでは?
そんな口から出かけた言葉を飲み込んだスヴェンは静かに酒を呷るレイに視線を移す。
「フィルシスが怖いからラオに行ってんのか」
「そうみたいなんだ。あと治療師部隊から怪我人増加に対する苦言もね」
どの世界も中間管理職は苦労を背負う。
スヴェンは酒を呷りながらラオに視線を向ける。
「いっそフィルシスを騎士団長から降ろすか?」
わざとらしく悪人顔で最も手っ取り早い方法を囁くとラオが顔を顰める。
「それは無理だ。エルリア魔法騎士団長は指揮統率力は当然として他者を寄せ付けない圧倒的な武力が求められる。フィルシス以外に騎士団長に相応しい者は居ない」
実際に今のエルリア魔法騎士団団長はフィルシス以外に有り得ないだろう。
彼女はそれだけ民からも信頼されファンも居る程だ。
エルリア国内の人気度合いで言えばレーナの次に人気かもしれない。
それにフィルシス個人の名を聴いた野盗が降伏するほど彼女は抑止力として機能する。
個人が抑止力として機能するのはある意味で騎士の理想の形かもしれない。
ただ一年目の秋にグレンと呼ばれる野盗がフィルシスに狙いを定めたことも有った。
その点を踏まえればやはり個人の名だけで全ての敵を止めることは難しいのだ。
フィルシスでそうなのだから他の騎士が団長に就任した後は野盗被害が増加する可能性が高い。
「僕もラオ副団長に同意かな。彼女だからこそ騎士団長は勤まるし、何よりも何かと部下想いだからね」
レイの言葉にラオが酒を呷りながらしみじみと頷く。
そして付き合いが長いからなのか、
「しかし団長も結婚しておかしくはない歳頃……誰か嫁の貰い手は居ないものか」
まるで娘の結婚相手を心配する娘のような事を言い始めた。
実際にラオとフィルシスはそれだけの歳の差が有る。
付き合いが長いからこそ彼女の人生を気にかけてしまうのだろう。
「見合い話は来るらしいが、どれもピンと来ねえとか言ってたな」
「騎士団の間でも団長は姫様に次ぐ高嶺の花だからなぁ」
確かに実力、職務、実績、気取らない性格を考えればそうなのかもしれない。
しかし恋愛事態がよく判らない自身が出来ることは、今のラオの話を静かに聴くことだけだ。
スヴェンとレイはラオの吐息と日々の不満に対する愚痴に耳を傾けながら酒を呷るのだった。