スヴェン達を乗せた荷獣車が豪雨の中、鋼鉄の大橋を進む。
梅雨の豪雨がファザール運河を増水させ、濁流が激しく流れ荒波がファザール橋を波打つ。
激しい水飛沫がファザール橋に振り撒かれ、窓から眺めていたスヴェンがぼやく。
「随分と降るな」
「そりゃあ梅雨だもん」
確かに梅雨ともなれば豪雨に見舞われても可笑しくは無いが、どうにもエルリア城出発から今日までいい旅路とは言い難い。
こんな雨の日もきっと何かの前触れなのだろう。漠然とした思考でファザール運河に視線を落とすと、激流に流される少年の姿に思わず眉が歪んだ。
ーーフェルシオンまで平和に行きてぇもんだ。
スヴェンの内心とは裏腹に、少年の存在に気付いたミアが声を張り上げる。
「スヴェンさん! 運河に人が! ど、どうする!?」
そんなものは見捨ててしまえと言いたいが、これからレーナと会う約束も有る。
問題は極力避けたいがあの少年が何らかの事件に巻き込まれた可能性が高い以上、レーナの身を護る為には仕方ないと言えた。
スヴェンは荷物から丈夫な縄を取り出し、
「荷獣車を停めろ」
言われたミアはすぐさま手綱を操りハリラドンを停め、スヴェンは荷獣車から飛び出し、素早く車輪に縄を巻き付ける。
そして少年の位置と大橋までの距離を確かめたスヴェンは、躊躇無くガンバスターと縄を片手に激流が流れるファザール運河に飛び込んだ。
命綱をしっかりと握り締め、濁流に身体を流されまいと耐える。
やがて流れに身を任せた少年が近付き、スヴェンはその身体を受け止め、命綱を伝ってファザール橋に上がるのだった。
▽ ▽ ▽
ずぶ濡れの身体をそのままに、少年を荷獣車の中に運び込んだスヴェンは眉を歪めた。
腹部から血を流す青みのかかった黒髪に紳士服を着こなした少年。服を捲り上げれば、鋭利な刃で貫かれたが故意に致命傷が避けられている。
それよりも問題は水を大量に飲み込んだ少年の息も無く、出血で弱りきっていることだ。
呼吸の確保と治療を優先すべきだと判断したスヴェンは拳を握り、拳を少年の腹に叩き込んだ。
衝撃で血が噴き出るが代わりに少年が、
「げほ……がはっ……おえっ!」
水を吐き出し、荒々しく息を吸い込む。
「ミア、コイツを治療してやれ」
「……うん。それは良いけど、もう少し優しく助けてあげてよ」
「人工呼吸が嫌な時はこの手に限んだよ」
「……かなづちの私は気を付けないとダメじゃん」
運動神経は悪くないと思っていたが、意外にも泳げないとは。
意外に思いながらスヴェンはその場をミアに譲り、防弾シャツを脱ぎ出した。
桶の上から防弾シャツを絞り水を捻り出す。このままズボンから水分を絞り出したいが、生憎と側にはミアが居る。
今は防弾シャツだけで我慢だ。そう思考を浮かべるとーー治療を行うミアと視線が合う。
ミアの歳頃なら異性の身体に興味を持つこと事態が自然だ。ただ、治療魔法を使用している彼女が意識を逸らして大丈夫なのか?
そんなふと沸いた疑問をミアに訊ねた。
「……意識を治療に向けなくていいのか?」
「私ぐらいになると治療魔法はよそ見しても余裕だよ」
ドヤ顔を浮かべているが、高揚した頬までは誤魔化せない。
スヴェンはミアにジト眼を向け、
「……ソイツの華奢な肉体でも眺めてろエロガキ」
「え、エロガキとは失礼な」
反論するミアを無視し、素早く防弾シャツを着ては、タオルを取り出し濡れた髪を拭く。
すると治療を終えたミアが立ち上がり、
「はい、治療完了。呼吸も安定してるけど、先ずは温かいスープを飲ませてあげないとね」
そう告げてはそそくさと先頭に戻って行った。
▽ ▽ ▽
身形を整え、少年に温かいスープを飲ませてからしばらくして豪雨は嘘のように晴れ、曇り空の隙間から陽射しが差し込んだ。
「うっ……こ、ここは?」
漸く意識を取り戻した少年が起き上がり、不思議そうに辺りを見渡したかと思えば突如血相を変え、
「そ、そうだ! お嬢様!? お、お嬢様はどうなったのですか!」
事実も何も知らないスヴェンは少年の頭にチョップを叩き込んだ。
痛みから頭を抑え、悶絶する少年にスヴェンはため息混じりに訊ねる。
「お嬢様とやらは知らねえが、アンタの名は? その身形から見て何処かの使用人にも見えるが……」
「……あっ、すみません。取り乱してしまって……ボクはアラタ。ユーリ様の一人娘、リリナお嬢様に支える使用人です」
ユーリ、リリナ、そしてアラタの名を記憶したスヴェンは手綱を握るミアに視線を向けた。
「ユーリ様と言えば、フェルシオンを王家から任された貴族様だね」
そんな貴族の一人娘に何かが起こり、アラタは負傷しファザール運河に流されたと。
何らかの事件がフェルシオンで起きたのは明白だが、スヴェンは考え込む素振りを見せながらアラタに質問を重ねる。
「何でアンタはファザール運河に?」
「……恐らく、フェルシオンの水路で刺された時に……あの都市の水路はファザール運河と繋がってるから」
「刺した奴の顔は見たのか?」
「名前までは知りませんが……あれは、間違いなく魔族でした……きっとお嬢様はまた連中にっ!」
アラタは力足らず、リリナを護り切れなかった不甲斐なさに怒りから拳を強く握り締めた。
それは血が滲むほどで、そんな怒りを抱くアラタにスヴェンは真っ直ぐと見詰める。
「あー、お嬢様が囚われた理由やソイツを実行した犯行勢力に着いてはどの程度知ってんだ?」
「お嬢様を攫った連中の正体までは判らないけど、お嬢様を誘拐した理由は旦那様が知ってるはず」
「アンタは聴いてねえのか?」
「今回の件に関しては旦那様も酷く動揺なさってましたから、何も教えてくれませんでした」
理由を他者に、例え娘の使用人であろうとも答えられない要求が何か。
スヴェンは封印の鍵絡みかと推測したが、それなら邪神教団が魔法騎士団を牽制する為に公言する可能性が高いと思えた。
なら今回は邪神教団では無い別の組織か。それとも魔族が魔王解放の為に犯行に及んだのかまでは推測の域でしかない。
この件はレーナの耳にも入れておくべきだろうと判断したスヴェンは、自身やミアの素性を隠した上でアラタに訊ねた。
「あー、質問を重ねるが、なぜアンタはファザール運河に?」
「それは……旦那様の私兵部隊とお嬢様の救出を試みたんです。それで、お嬢様を連れ出すことまでは成功したのですが、出口ももう少しという所で魔族に……っ」
「他に仲間は同行してなかったのか?」
「……? いえ、大所帯で乗り込んでもすぐにバレてしまいますから救出は自分一人でした」
単独侵入による救出。救出対象が一人だけならそれも可能だったが、最後に魔族に阻まれたことを考えるに、恐らく魔族が協力していたことまでは掴めなかったのだろう。
「……お嬢様は誘拐されてからどれぐらい経つんだ?」
「それは、二週間と五日程になりますかね」
それは丁度メルリアで三千人の子供が誘拐された時期と重なる期間だ。
同時期にフェルシオンでも事件が発生し、更にゴスペルがフェルシオンで人身売買を計画していた。
何らかの繋がりを感じるが、偶然の可能性も有る。
考え込むスヴェンにアラタは不思議そうに訊ねた。
「あの、先から質問ばかりですが……貴方方は騎士団の人ですか?」
「いや、単なる旅行者だ」
「旅行者が事件を詳しく……?」
こちらを疑う眼差しにスヴェンは、それも当然な眼差しだと受け止めた。
リリナの救出作戦に失敗した直後に、質問責めに合えば疑うのも仕方ない。
「俺が気にしてんのは、旅先に安全が有るのかどうかだ。旅行ってのは楽しく心穏やかに行きてもんだろ?」
「……それもそうですね。すみません、変に疑ってしまって」
随分と素直な姿勢なアラタにスヴェンは、彼の人の良さに一株の不安を抱いた。
正直に言えばスヴェンの素性は怪しい点ばかりだ。それを疑いもせず信じ込むアラタに、あまり情報を与えるのも得策とは思えない。
スヴェンが質問は終わりだと言わんばかりにアラタから視線を外すと、今度はアラタがスヴェンを真っ直ぐ見詰め、
「あの! ボクの傷を治療したのは何方でしょうか!」
スヴェンはミアの方に視線を向け、
「そっちの自称美少女が治療したんだよ」
「自称とはなによ!」
こちらを振り向き、反論するミアにアラタが顎に指を添え、
「貴女は皮膚を削がれ、潰された両目を治療できますか!?」
突如アラタから飛び出した物騒な単語に、リリナの身に何が起こったのか容易に察したスヴェンはミアを見つめた。
ーー確かにコイツなら治療できそうな気がもするが、どうなんだ?
できるのかできないのか、そう視線で問う。するとミアは、
「どんな状態にもよるけど、眼球の細胞が少しでも残ってればそこから再生治療も出来るし、削がれた皮膚だって生きてる限りは元通りに治療できるよ!」
自信満々に胸を張って答えた。
動き回る喧しい細胞治療装置。スヴェンは内心でミアをそう評しつつも横目でアラタに視線を向ける。
すると彼は希望を見出した様子で眼を輝かせ、何かを決意したのかはっきりと告げた。
「お嬢様は必ずボク達が救出します! だからその時は、貴女に治療を依頼してもいいでしょうか!?」
「良いけど、フェルシオンに長居てるとも限らないよ」
確かにフェルシオンに滞在する目的は、レーナの護衛とエリシェとの合流だ。
それが済めばフェルシオンに滞在する理由も無ければ、魔王救出を急ぐ旅だ。
項垂れるアラタを他所に、スヴェンは見え始めた港町に視線を移しーーレーナの目的次第にもなんのか。
アラタが抱える事件に関わるのはレーナ次第だと、スヴェンは人知れずため息を吐く。