時は遡り、六月六日のコロシアム襲撃事件が収束した夜二十一時。
前髪を撫でながらリリナは空に浮かぶ月に三日月のように口元を吊り上げ嗤う。
誰も警戒しない、誰も言動を疑わず信じ込む。こんなに楽な潜入が今まで有っただろうか?
ゴスペルの取引相手ーーあの食えない男が提案した成りすまし計画を利用する形だったが、現状の計画は手筈通りに進行している。あとは邪魔者を始末し目的を達成するまで。
しかし今回の計画は完璧とは行かなかった。邪神教団の司祭の一人としていずれ、最高幹部の枢機卿に昇り詰めるには計画は完璧に完遂しなければならない。
「……忌々しいわね」
なぜ計画に誤算が生じたのか。それも一つではない複数の誤算がだ。
最初の誤算は計画通りに使用人アラタに救出され屋敷に生還できなかったことだ。
司祭の一人エルロイが寄越したアウリオンが余計なことをしたが為に多少の計画を変更せざる負えなかった。
アウリオンに自身をユーリの屋敷に運ばせ、彼が待ち望んだ娘の生還を演出することに。
だが親としてユーリが素直にリリナの生還を喜ぶなら良かったが、流石はエルリア王家から封印の鍵を任された守護者の一人だ。
彼は娘の生還を素直に喜ばず、逆に本物かどうか疑心に満ちた眼差しで疑ったのだ。
ーーユーリに軽い催眠魔法を施し、疑心を回避したことはできだけど。
お陰であらゆる来客を追い返すように命じられなくなり、あろうことか生きていたアラタによって治療師ミアを招く事態にもなった。
そして屋敷を訪れたスヴェンとレヴィと名乗る二人の人物。
「警戒対象として報告すべきか、秘密裏に始末しておくべきか」
後者のレヴィは取るに足らない少女に過ぎないが、あの護衛として同行していた男は遥かに危険な存在だ。
魔力量自体は自身の半分にも満たないが、警戒すべきは身のこなしとあの底抜けに冷たい瞳だ。
あんな瞳をした人間は恐らく決して多くはないだろう。それにっとリリナは息を吐く。
一体どれだけの人間を殺し続け、平然として居られるのか。
ある意味で一番狂った男だとリリナはスヴェンに最大限の警戒心を向ける。
「現段階で不要なリスクは避けるべき、か」
スヴェンとレヴィよりも治療師ミアを最優先で始末すべきだ。
彼女は全身の皮膚、潰された眼球を元通りに再生してしまえる。それはどんな治療師と比較しても異常な領域に達している程だ。
邪神復活のためにエルリアは最大の障害になる。あのオルゼア王一人にでさえ、当時の枢機卿と十二人の司祭の内半分が殺されーー犠牲を払い、忘却の魔法で己が誰で何者なのか忘れさせ、数年間行方不明にさせることがやっとだった。
そんな化け物が健在の状態で国王として復帰したのも頭痛の種だ。
加えて娘のレーナも化け物級の召喚師だ。恐らく魔王アルディアを人質にしなければ、邪神教団は本拠地ごと世界地図から消滅していた可能性がずっと高い。
そんな化け物二人に対して多大な犠牲を払ってまで致命傷を負わせたとしてもミアが生きている限り、恐らくエルリアの王族は討ち取れない。
ーー国境線にエルリア最高戦力の魔法騎士団長、彼女を釘付けにしてもまだ足りないなんて。
邪神教団の司祭としていずれ討つべき敵に対する対策は講じておく必要が急務だが、今は計画に集中すべきだとリリナは逃避するように思考を切り替える。
ユーリには計画通り服従下に入れ、封印の鍵を取りに行かせる。そこまでは可能として、このまま何食わぬ顔で潜伏生活が可能かと言えば、結論から言えば不可能だ。
自身はリリナという小娘の皮膚を被った偽者に過ぎない。本物のリリナが持つ記憶も交流も知らないからだ。
リリナの全身の皮膚を用意したのはあの男だがーー口調と仕草、癖や口癖に近しい交流関係を徹底的に調べ事前の準備を重ねた結果、邪神から授かった変身魔法も合わさりリリナを演じている状態に過ぎない。
いずれ記憶と知識不足からボロが出る。特にアラタは用済みのゴスペルとあの男を合わせて始末しておく必要が有る。
「決行するなら早い方が良いわね」
そうと決まればリリナの行動は速かった。
▽ ▽ ▽
父ユーリが詰める執務室前でリリナはドアをノックし、
「リリナですわ。お父様に伝えるべき火急の知らせを伝えるべく参りましたわ」
「火急の知らせ……? 入りたまえ」
ユーリの返事に応じて執務室に踏み込む。
そして優雅に一礼してからユーリの目前に近付き、書類に羽ペンを走らせる彼に顔を近付けた。
「そんなに顔を近付けてどうしたんだい?」
こちらの瞳を見て訊ねるユーリにリリナは薄らと嗤う。
事前に瞳に仕込んだ魔法がリリナの瞳に現れ、ユーリが咄嗟に椅子から立ち上がるも既に手遅れだ。
「我が命に従い、秘匿されし封印の鍵を譲渡なさい」
たった単純な命令をユーリに告げる。彼は『なにを馬鹿な事を』そんな疑念に満ちた表情を浮かべるが、リリナの瞳から放たれた妖しい輝きがユーリの瞳に映り込む。
瞳を介して対象を服従状態に置く洗脳魔法の一種がユーリの思考を侵蝕する。
「……こ、ここれは……ぐっ! いや、洗脳されて……なる、ものか」
服従させたい対象と眼を合わせなければならない魔法だが、条件さえ揃えば自身の魔力量以下の者なら簡単に支配下に置ける。
しかしユーリとリリナの魔力量はそこまで大きな差が無く、ユーリは服従魔法に抵抗するように髪を掻きだした。
リリナが内心で冷や汗を浮かべ、服従魔法を重ねかけるかと一歩踏み込んだ頃ーーようやくユーリは虚な瞳を浮かべ、その場で立ち尽くした。
「……鍵さえ手に入れば用済みになる男、念には念が必要ね」
彼の顔を動かないように両手で押さえたリリナは、再度洗脳魔法を施す。
二度の重複がユーリの自我に膨大な影響を与え、自我の崩壊を招く。
「封印の鍵を我が手に」
「……封印の鍵。ここに無い」
この屋敷の何処かに秘匿されているとは考えてはいない。そうでなければ邪神教団が苦労する必要もないからだ。
「封印の鍵を私の所に持って来なさい」
「……半日、お待ち」
言動に異常が現れ始めているが、半日程度で封印の鍵が譲渡されるなら取るに足らない問題だ。
「封印の鍵を私に譲渡したら、お前は私から離れた所で自爆なさい」
「しょ、ショうち」
命令を施されたユーリはそのまま執務室を静かに去り行く。
エルリア王家からフェルシオンを任され、封印の鍵の守護者を勤めた末裔があっさりと堕ちた。
これで計画の成功が実現する。これも邪神から授かった特別な変身魔法と入念な準備のおかげだ。
しかしこの変身魔法は変身したい対象の皮膚を要するため、そう何度も潜入に使える魔法ではない。
だが一度対象の皮膚を自身に取り込んでしまえばいつでも自由自在に変身が可能になる。
リリナの皮膚を被った偽者ーーアイラが妖しい笑い声を奏でる。
そしてアイラは緊張した足取りでアラタにゴスペルが潜伏する南東の遺跡に向かうように尤もらしい理由を添えて告げた。
こうしてアラタが出立の準備に入る中、自身の寝室に戻ったアイラは上機嫌に嗤う。
これで事前に仕込んだ灼熱の魔法が発動する時、全ての証拠隠滅が完了する。
あとは邪魔者を始末するだけだが、ミアの治療魔法は邪神教団の役に立つ。
彼女の人格など不要だ。ユーリと同じように従順に従う人形にしてしまえば済む。
治療師として膨大な魔力量を有する邪神の生贄としても。
しかしこの計画には問題も有る。彼女は一度こちらと眼を合わせようとしなかった。恐らく瞳に宿る魔力に反応してだろう。
もしも明日、会いに行って服従魔法が施せないなら始末するしかない。
そうなれば関係性は不明瞭だが、スヴェンとレヴィが事件を嗅ぎ付け敵対する可能性も有る。
ならばミアの始末は別の者達に任せれば調査の手がこちらに伸びる前に、アイラは封印の鍵を持って本拠地に帰還できる。
「明日の方針は決まりね」
行動方針が決まれば後は思い描いた結果を現実にするために、アイラは更に策謀を巡らせる。