①
濃厚な異臭がマスクを貫通し、湊友希那の鼻孔を貫いた。それは悪臭と呼ぶにはおおげさだったが、明らかな異臭だった。煙たく、鼻孔の中にこびり付く香りだった。鼻で呼吸をするたびに、軽いめまいが友希那の脳を襲った。顔をしかめる間にも臭いは友希那に入り込み、香ばしい息苦しさ、鼻孔が詰まる思いを友希那に与えていた。
友希那はすぐに、この臭いが埃臭さとカビ臭さが混合した臭いであることを理解した。学校の大掃除時などに嗅ぐことがある、嫌な臭いだった。
室内の壁際に積もっている灰色の埃が目についた。友希那はため息を吐いた。重い呼吸が肺からどろりと流れていった。来る病院を間違えた、と少しだけ思った。
しかし、すでに引くに引けない所まで来てしまったことを友希那は感知していた。この出入り口のすぐ近くにある、受付カウンターを介した向こう側に佇む受付係の女性の、飢えた野生動物のような眼光で悟っていた。この『黒花クリニック』に入る瞬間をばっちり見られている以上、滑りの悪い出入り口の引き戸を再度開き、踵を返すわけにはいかなかった。
友希那は小さく深呼吸をしてから明るい木目調の床を踏みしめ、カウンターへと向かった。よく視ると床には外の土で汚れている箇所が多くあり、友希那に床を踏むのをためらわさせた。
おかっぱ頭の受付女性。身に着けている薄桃色の看護婦衣服はサイズが小さいのか、身体のラインをくっきりと現わしていた。そんな彼女はがりがりに痩せており、三白眼の下には薄っすらとクマが浮いていて、肌は消しゴムのような色白だった。全体的に不健康そうな印象を友希那は感じた。
「あの、初めてなんですが……」
友希那は控え目に声を発した。こういう時にどのような言葉を出すべきなのかがわからず、口から出る無意識の言葉に任せた。
「……名前は?」
女性の声はぼそりと呟く程度の小さい声だったが、なぜか迫力があり、友希那の脳に棘として突き刺さった。
友希那は声を張った。
「湊友希那です」
「ん」
適当に答える女性はカウンターに置かれている紙にシャーペンを走らせた。その紙とは来院者の名前を記入するための紙だったが、正確な枠組みがあるわけではなく、適当な位置に適当に名前を書いているだけのようだった。名前の向きも大きさも何もかもがバラバラで、まるでデパートのボールペン売り場などで見る試し書き用の紙のように思えた。紙の上には友希那の名前以外にもたくさんの人の名前が並んでいた。また名前の中には上から横線を引かれているものもあり、おそらく診察に呼んだ人の名前は線が引かれるようだった。
友希那の名前は紙の隅の方に小さく書かれた。しかもカタカナだった。角ばった文字列を睨む友希那はその適当に少しの不安を感じた。
さっさと書き終えた女性はめんどくさそうなのっそりとした態度で口を開いた。
「ウチは初めてでもそうじゃなくても、問診票とか無いから。普通に待合室で待っててくれれば、そのうち呼ぶんで」
それは聞き流してしまいそうなほどにひどく端的で一方的な説明だった。ぶっきらぼうに言い放った女性はそれから右を指さし、「あっちです」と小声で呟いた。
無言で軽く一礼する友希那は心の底から、来る病院を間違えた、と思いながら待合室に向かった。
待合室に入室した瞬間に、より強い埃とカビの異臭が友希那の鼻孔を流れ、脳を叩きのめした。今度の臭いの中には埃臭さのほかに本能が拒絶するほどの鋭い悪臭があった。強烈な香水をいくつも混ぜ合わせたような、酸っぱいような甘いような、よくわからない臭いだったが、とにかく友希那はこの臭いが嫌いだった。微小な吐き気のようなものが喉元まで上がってきたが、友希那はぐっと腹に力を入れて吐瀉を戻し、無表情で室内へ進んだ。
待合室は学校の教室の半分ほどの広さだった。茶色いシミが浮いている白い天井には棒状の蛍光灯が設置されており、その白い光は天井と同色の壁と抹茶のような緑の床で構成されている室内を燦然と照らしていた。玄関同様引き戸になっている出入り口から見て正面の、一番奥の壁、その高い位置に黒の枠組みの時計が設置されており、現在の時刻である三時二十八分を正確にさしていた。
室内の至る箇所に、三人は座れる大きさの焦げ茶色のソファーが置かれていた。綺麗に並べられているわけではなく、位置は適当のようだった。また奥のスペースは子供向けの遊び場のようになっているらしく、床の色が親子丼の卵のような黄色になっていて、人形や車の模型などの玩具が置かれているのが見えた。
待合室には数人の受診者が居た。彼ら彼女らはそれぞれソファーに腰掛け、新聞を読んでいたり、スマートフォンをいじっていたり、目を閉じて物思いにふけっていたりと、極めて自由に過ごしていた。
友希那は静かに歩き、出入り口に一番近い、他に誰も座っていないソファーに腰を下ろした。少し硬い材質のソファーは、友希那の身体を無機質に受け止めてくれた。
友希那は喉の不調で病院に来ていた。しかしここは、いつも受診している馴染みのある病院ではなかった。いわゆる『かかりつけ医』として利用している病院は今日は定休日だった。しかし友希那の中に、後日改めて、という思考は無かった。ボーカリストとして命よりも大切な喉を一刻も早く治療したいという執念が友希那の足を動かし、その結果、普段は足を運ばない地域の、この見知らぬ病院に入った。
しかし友希那はすでに、この病院に入ったことを後悔し始めていた。不衛生極まりない異臭や壁と天井に広がるシミの不潔さも後悔の理由の一つだったが、なによりも気になったのが、病院で一番最初に接することになる受付の女性があんなにも雑な態度で職務に臨んでいるという点だった。あの女性は友希那の中のこの病院への安心感や期待感を完全に失わせていた。よく、人間関係などにおいて最も大事なのは第一印象だと聞くが、今なら全くその通りだと頷くことができた。
友希那は一刻も早く帰りたかったが、大事な喉の不調をそのままに過ごすわけにもいかず、仕方なく、診察に呼ばれるのを待った。
②
「ねえ貴女、始めてみる顔ね?」
「えっ……?」
座ったまま俯いていた友希那は突然現れた声に飛び上がる勢いで驚いた。そしてすばやく声の聞こえた左隣を見た。
そこには薄桃色のシャツに茶色のロングスカートを履いた一人の老婆が、いつの間にか友希那に寄り添うようにして座っていた。
「貴女、今日が初めてでしょう? どうしたのかしら?」
老婆はねっとりとした声色だった。滑舌が悪いらしく、聞き取るのに少しだけ苦労するくしゃくしゃとした声だった。
「え、えっと……。あの、貴女は……」
友希那はさりげなく距離を取りながらためらいがちに訊ねた。
「あらっ、もしかして、生理だったりするのかしらあ!」
なぜか頬を赤らめている老婆は楽しそうにぐにゃりとした笑みを作りながら、勝手な推測を口にした。その瞬間友希那にはこの老婆に対する生理的嫌悪が、スポンジに染み込む水のようにじんわりと広がった。
老婆の双眼には欲しかったオモチャを前にした純粋無垢な少年のような強い輝きがあり、熱のある語気には友希那のパーソナルスペースを簡単に侵食してくる勢いがあった。
「ああ、もしかして、もう身ごもっていたり? うふふ。そういうお年頃だろうものね。うふふっ」
老婆は両肩をカタカタと揺らしながら愉快に笑い出した。しわくちゃな唇が歪み、歯列やその中の銀歯が見えた。
他人の生理事情で勝手に盛り上がっているこの老婆に友希那は強い不快感を覚えていた。一刻も早くこの席から立ち去りたかったが、急に立ち上がるわけにもいかず、老婆から身体をさらに離し、必要以上のことは喋らないと自分自身に誓った。
しかし老婆は友希那が離れた分友希那に近づいて距離を詰めてきた。さらにそれだけではなく、さっきよりも身体を友希那の近くに寄り添って迫った。
「ねえ貴女、ここって内科なのよ。生理なら、産婦人科に行ったほうがいいわよ」
老婆はなぜかひそひそとした小声だった。
「い、いや……。別に生理とか、そういうのではないです……」
友希那は老婆から目線を離して素早く答えた。老婆の勢いについていけず、腹の底からひねり出したような掠れた声になった。
推測の域を出ない老婆の話が不愉快極まりなかった。
すると老婆はぐぐいと友希那の顔に自分の顔をよせた。その瞬間脳にガツンと来るどろどろに甘い香りが友希那を襲った。それは老婆のつけている香水らしく、様々なフルーツの香りを無理矢理混ぜ合わせたような香りだった。そしてそんな老婆の明るい口紅が友希那の眼前にあった。老婆は自分の右手を口元に添えた。それは内緒話をする際のポーズで、老婆は吐息混じりの小声で話し出した。
「大丈夫よ、オバさんもね、昔はヤりまくりのビッチだったの……」
「そ、そうなんですか……」
感情の籠っていない声で答える友希那は、この老婆の言う『ビッチ』が何なのかが全くわからなかった。また『やりまくり』という文言に関しても、何をやったのか見当もつかなかった。頬を赤くしたまま、ひそひそ声で語る老婆の姿から、とても重要で簡単には他言できない内容であることは何となく察せられたが、どれだけ思考を回しても言葉の意味だけはわからなかった。
友希那は薄い苦笑いを顔に作っていた。この老婆ことがはっきり言って迷惑だった。話す内容がよくわからないうえに、他人の懐へずかずかと入り込んでくる態度に嫌悪を感じていた。
そんな友希那の内心など知りもしない老婆は、その後も自分の身の上話をべらべらと語り出したり、かと思えば急に友希那のプライベートな内容に首を突っ込んだりとやりたい放題だった。また、老婆が喋るたびにそのおちょぼ口から唾液の小さな飛沫が飛び出し、友希那の黒のワンピースに湿った斑点をいくつか作った。それを視界の隅で確認した友希那は自分のお気に入りの服が汚されている事実にどこにも発散できない怒りを感じた。
「それでねぇ。そのタナカさんって人も、嫌味な人でねぇ……」
「そうなんですね……。はは……」
「そうなのよ! こっちが気遣って話しかけてるってのに、露骨に嫌そうな顔してねぇ……」
聞き取りにくい老婆の声で繰り広げられる無意味で退屈で迷惑な話を横で聞く友希那は、適当に相槌を打ちながら、あの受付女性に診察で呼ばれるのを今か今かと待った。
「貴女はもっと化粧とかするべきよ! 若い頃なんて一瞬なんだから」
「一瞬……。そうですね……」
老婆の饒舌によって憔悴した友希那は助けを求めていた。誰でも良いから自分とこの老婆の間に割って入り、なんでもいいからかき乱してほしかった。待合室には老婆の他に数名の受診者が居た。しかしその全員が、こちらには見向きもせずに自分の世界に閉じこもったままだった。誰にも助けを叫べないことによるストレスはすさまじかった。病院を間違えただけでなく、待合室での他人とのコミュニケーションまでもが最悪となると、今日という日が友希那にとっての、後にも先にも無い最大の厄日なのではないかと思えてしょうがなかった。
③
もう、このまま無理矢理にでも帰ってしまおうかと考え始めた時、奥の方から一人の少年がソファーに近づいてきた。赤いシャツに黒の半ズボンの少年だった。てくてくと歩く彼は、友希那に好奇の目を向けながら老婆の横まで来た。
「ああリョウタ! もうオモチャは良いのかい?」
突然現れた少年に老婆は優しい声を掛けた。そして少年の極めて短い頭髪が乗った頭部をゆっくりと撫で始めた。そんな老婆の眼力は今まで友希那に見せていた鋭いものとは違い、いくらか柔らかくなっていた。対する少年も安心感からくる温かい笑みを浮かべていた。
友希那はこの二人が祖母と孫の関係にあることを一瞬で見抜いた。
「おばあちゃん、この人だぁれ?」
少年は友希那の顔を指さしながら訊ねた。鼻が詰まっているらしく潰れた声だった。
「この人はねぇ、おばあちゃんのお友だちだよ」
老婆は柔らかい声で答えた。
友希那は少年の顔を何の気なしに見た。ふっくらとしている両方の頬と丸っこい目が特徴的な顔をしていた。背丈から小学四年生ほどだと予想した。
すると少年は友希那に一歩近づいた。老婆はその姿をニコニコとした笑みで眺めていた。
「へぇ……」そして少年は右手で友希那の顔を指さした。「お姉さんくらいの美人なら、ボクの女にしてやっても良いよ!」
少年は笑顔で、自信たっぷりの堂々とした声色だった。友希那は突然の理解不能な言葉に一瞬思考が停止し、どう対応すれば良いのかがわからなくなった。バットで後頭部を勢いよく叩かれたかのような激しい感覚だった。鋭く声を上げることも、身体を動かして反応することもできず、機能不全の脳の中では少年の言葉がただの音として響いていた。
数秒後、友希那の脳は徐々に思考能力を取り戻していった。そして目の前の少年が随分と大胆な告白のような何かを口走ったことを理解した。
「あんたっ! なんてこと言うの!」
それは老婆の声だった。しかし今まで聞いてきた柔らかくねっとりとしている上に悪い滑舌のせいで聞き取りにくい声とは違い、鮮明な怒気を孕んだ硬い怒声だった。待合室に轟いた大音声に友希那はぎょっとして老婆の方を見た。しわくちゃの老婆の顔面は赤のペンキを全体に塗ったかのように真っ赤に染まっており、激昂しているのが一目でわかった。
そして老婆は少年の顔面を勢いよく引っ叩いた。風船が割れるような、パシンッ、という乾いた音が響き、ブルンと震える少年の大きな左頬が一瞬にして赤く腫れた。
「あんたっ! それがっ! どんな意味なのかっ! わかってるのかい!」
泣き出しそうな少年の頬を老婆は追撃した。一撃目と同様の乾いた音が響いた。二度のビンタを受けた少年の頬は一回りほど膨れ上がっているように友希那には視えた。
しかし老婆のビンタは止まらなかった。少年の頭頂部の髪をぎゅっと握った老婆は三度目のビンタを右頬に放った。左同様にブルンと震える右頬はすぐに赤に染まった。
三度の攻撃を受けた少年はついに泣き出した。待合室にぶちまけられる少年の大声は友希那の鼓膜を揺らし、友希那は衝動的に耳を塞ぎたくなった。
少年の両目から溢れ出る涙が赤い頬を流れ、蛍光灯の白の光によっててかてかと輝いていた。頬だけではなく顔面全体が赤に染まっている少年は泣き止む気配の欠片すら無く、自分の中の痛みを訴える大泣きを休むことなくまき散らしていた。
「うるさぁあいっ!」
友希那は突然の轟音に身体を飛び上がらせて驚いた。煩すぎて脳が真っ白になった。そしてぎょっとしながら大声の発生源を視た。それは老婆の大声だった。しわくちゃの口を開いて声を放ち、それから少年の両肩を両手で掴んで前後に揺らした。
「黙りなさい! 迷惑よっ! め、い、わ、くっ!」
少年のことをガタガタと揺らす老婆は大声で続けた。雷鳴のような轟く声だった。シワだらけの身体のどこにそんな大音量を出すエネルギーがあるのか、友希那にはわからなかった。
大泣きを無理矢理あやしている老婆と、そんな老婆の近くに居る自分に他の受診者からの熱い視線が注がれていることを、友希那は肌で感じ取っていた。それは例えばライブの際に感じるような、お客さんたちからの期待の視線とは全く別の、あまり感じたくはないねっとりとした嫌な熱を孕んでいる視線だった。そしてそんな視線を認識した途端、友希那は自分の顔面が徐々に熱く煮えていくのを感じた。それは明らかな羞恥の心だった。文字通り顔から火が出る勢いで、その熱は背筋に流れていった。じわじわといたたまれなくなっていき、友希那は奥歯を噛みしめた。
「まったく……。どこでそんな言葉遣いおぼえたのやら……」ようやく泣き止んだ少年から両手を離した老婆は友希那の方を向いた。その顔にはさっきまでの灼熱の激昂の色はこれっぽちも残っていなかった。真っ赤だった顔面はいつの間にか肌色に戻っていた。
「ごめんなさいねぇ。ウチのバカ孫が……」
老婆は元通りのくしゃくしゃとした声で謝罪を発した。
「い、いえ……」
友希那は小さく会釈をしながら少年の方をちらりと見た。あんなにも強烈なビンタを何度も受けた少年が少しだけ気になった。
少年の両頬は赤く腫れていたが、泣き止んだらしい少年はまだ残る少量の涙を目頭に浮かべて黙りこくっているだけだった。自分に訪れた痛みに全力で耐えているような雰囲気だった。それを見た友希那は、この少年は普段からビンタなどの暴力を受けていて、故に耐え方を熟知しているのではないかと思った。
④
「おい! あんたっ!」
少年のどこも見ていない顔を眺めていた友希那は、声に反応して発生源である上の方を見た。
そこには大柄な男が立っていた。白の半そでシャツに迷彩柄の長ズボンという出で立ちで、なぜか全身汗だくだった。肌はこんがりと焼けていて、シャツから伸びる両腕は巨大なウインナーのように思えた。
友希那たちが座っているソファーの近くで仁王立ちをしている男は、友希那ではなく隣の老婆を睨んでいた。細めた目には力強く燃え上がる火炎のような光が浮かんでいた。
「何か用?」
友希那が口を開く前に、老婆が口を開いた。その声にはぶっきらぼうな雰囲気があり、明らかな敵愾心を向けていることがわかった。
「そ、そそ……。その子が迷惑してるだろぉっ!」
男は友希那を指さしながら大声で喚いた。その声はさっきの老婆の怒声よりも大きく、ほとんど咆哮だった。横で聞いていた友希那は再び周りからの視線を感じた。他の受診者がこちらを注目し、奇妙な人間を観察する冷たい目で自分たちを睨んでいるのがはっきりとわかった。友希那は己の中で羞恥の炎が再燃していくのを感じた。笑いものにされている感覚が友希那の顔全体をじっとりと赤く、熱くさせた。
男からの大声を受けた老婆もそれは同様らしく、顔はみるみるうちに赤に染まり、そして眉間にシワを寄せながら口を開いた。
「何よあんた! 他人のくせに、勝手に入ってこないで頂戴」
老婆は対面した男を突き放すような語気だった。
「アンタとその子だって他人だろ! とにかくさっきから煩いんだよ! 中身の無い迷惑な話ばっかしやがって! かと思えば今度は虐待かよ! どっか行けよ!」
男は早口でまくしたてながら適当なソファーを勢い良く指さした。老婆は埒が明かないと判断したのか、あるいは面倒だと思ったのか、隣で無言で佇んでいた少年を抱きかかえながら男が指さしたソファーへ移動した。そして新しいソファーに身体を預けると、これで満足か、と言いたげな顔で男を睨んだ。
老婆のことを鼻で笑った男は立ち去らず、友希那の隣に腰を下ろした。その途端友希那の鼻孔に酸っぱい臭いがやってきた。汗まみれの男が放つ強烈な体臭だった。
どかっ、と少しおおげさな動作で友希那の左隣に座ってきた男は、それから素早く友希那の肩に腕を回し、友希那の右肩をぎゅっと掴んだ。その瞬間友希那には男に掴まれた肩を中心に微細な電撃が走って悪寒が広がっていった。汗によって光沢を得ている不潔な腕が自分の身体に触れたことで、嫌悪感が胸を貫いていた。
友希那は男に対し、老婆の以上の警戒心を感じていた。それは汗による汚臭や過度なスキンシップによるものでもあったが、男が自分にとっての異性であるからでもあった。迷惑な老婆とその孫に絡まれていたところを助けてもらったのは事実で、それに関しては恩を感じていたが、男という存在の得体の知れなさは老婆以上であり、どう対峙すればいいのかが全くわからなかった。故に友希那は老婆と面した時以上に深く俯き、膝の上の両手を絡めてぎゅっと握りしめた。パニックになりかけている脳内に昨日観た猫の映像を流し、なんとか冷静を保った。
「いやぁ。災難だったね」
座り込むなり男は友希那に話しかけた。老婆同様にねっとりとした低い声だった。
友希那は無言で一度だけ頷いた。
俯いている友希那の顔を覗きこみながら男は訊ねた。巨大な体躯が自分に迫って来るような感覚に友希那は慄いた。
「そういえば、名前、なんて言うの?」
「湊、友希那です」
答えないわけにもいかず、友希那は低い声で答えた。声がとても震えていることが自分でもはっきりとわかった。
「ゆきなちゃんかぁ! よろしくね」
男は明るい挨拶をしながら太い素手を友希那に突き出してきた。どうやら友希那に握手を求めているようだった。
「はい……」
しかし友希那は小さく低い声で答えるだけだった。汗まみれの素手を握る気にはなれなかった。両手は膝の上に乗せたままで、絶対にここから動かすものかと強く握りしめていた。
男はあきらめたのか、さりげなく友希那に突き出した素手を戻し、ため息のような深呼吸をした。
「僕、これでも、芸能事務所にスカウトされたことがあるんだ! そ、それも、五回も!」
男は友希那の顔を見つめながら唐突に別の話題を持ってきた。そして俯いていることで垂れた髪で隠れている友希那の顔を、卑猥な光が湛えた瞳で覗き込んだ。
「へぇ……。そうなんですね……」
友希那は自分の膝を見つめながら答えた。しかし心の内ではスカウトの話は嘘だと思っていた。はっきり言って、この男の特別整っているわけでもない容姿で、芸能の世界を渡り歩けるとは思えなかった。
「まぁ、僕には他にやることがあるからね、その時は断ったんだ」
男は胸を張りながら続けた。
「ゆきなちゃんはさ、そういう、芸能関係の仕事とか、してないの?」
「い、いえ……」音楽関係の事をここで話す気にはなれなかった「そういうのは、特に……」
「そっかぁ……。いや、ゆきなちゃんとってもカワイイからさ、モデルさんかと思っちゃったよ。薄紫の髪もとっても綺麗だし、目元も綺麗だもん」
男はねっとりとした眼光で友希那の全身を見つめ、身体の全てを褒めた。右肩を握っている手に力が入り、抱き寄せているようになった。
「ありがとうございます……」
友希那は感情を乗せずに答えた。身体の隅々まで観察されている感覚はいい気分ではなかった。
「ああでも、おっぱ、いや。お胸は無い方なんだね」
男はぎらぎらとした光のある視線を下げ、堂々と友希那の胸部を見た。
「そうですね」
友希那は感情を入れずに答えた。確かに友希那は平均と比べて胸が無い方だった。しかし音楽が第一の友希那にとって、胸部の大きさなどどうでもよかった。大きいだの小さいだので盛り上がっている学校の女子たちのことが全く理解でず、そんなに大事なことなのかといつも思っていた。
「まあでも、ゆきなちゃんはスタイル良いし、モデルさんでも十分活躍できると思うよ!」
友希那は男の身勝手なアドバイスを聞きながら、どうして周りの人間は胸の大きさにこだわるのだろかと自問してみた。しかしそれらしい答えはでてこなかった。やはり自分の音楽の人生において、胸の大小の話題は無意味で無価値なんだと改めて思った。
「そうだ、ゆきなちゃん! 僕のこと、いくつだと思う?」
男は自分の顔を指さしながら訊ねた。
「え、と、歳ですか……?」
突然のことで友希那は呂律が回らなかった。
「うん。僕、結構知り合いから若く見られがちなんだけど、ゆきなちゃんはどう思う?」
「えっと……」友希那はそこで初めて男の顔をじっと見た。体躯同様に大きな顔面はシワに溢れていた。頬や唇はあの少年よりも大きく、眉間には切り込みのような深いシワがいくつもあった。
「四十代、とかですか?」
友希那は自分が思った年齢を正直に伝えた。
「あっはっはっは。友希那ちゃんは冗談が上手いねぇ。でも僕、まだまだ二十代なんだよ」
「えっと……。すみません」
「いやいや良いよ。全然。当てられない人も、たまにいるからさ」
その瞬間気まずい雰囲気が流れた。男は口を閉ざし、友希那から目を離してあちこちを見まわしていた。友希那はこの場から立ち去りたい衝動に駆られていた。顔面が熱く、耳の先まで真っ赤になっていることが鏡を見ずともわかった。歳を言い当てられないどころか、ニ十歳も上乗せしてしまったことに関しては素直な謝罪の念があった。
その時、待合室と廊下を繋ぐ引き戸ががらがらと開かれた。友希那は出入り口を素早く視た。そこにはあの受付カウンターに居た不健康そうな女性が立っていた。
「ミナトさん。どうぞ……」
友希那は男の手を振り払い、素早く立ち上がった。
⑤
待合室から逃げるように退室した友希那は、無表情かつ無言で歩いていく受付女性の後に続いた。
そこは学校の廊下と変わらない広さの、長い一直線の廊下だった。待合室のそれよりもシミが多い天井には等間隔で蛍光灯が設置されていたが、ほとんどが壊れているらしく、光を放っているのは数個だけだった。そのため廊下は薄暗く、不気味さが感じられた。木目の床を目を凝らして見てみると、黒い斑点のような物体が蠢くのを確認できた。なんだろうとより眼力を強めると、それらが小さな蟲であることがわかった。正体を理解した瞬間に寒気が友希那の身体を貫いた。踏まないようにだけ努めた。
友希那は歩きながら、この廊下がどれほど続いているのかを確かめたくなった。前を進む受付女性の歩く先をじっと視た。しかし薄暗さも相まって、先に行き止まりか、あるいは曲がり角の類を認めることはできなかった。それほどに長く、廊下だけった。一直線の空間には自分と受付女性の歩くコツコツという音だけが響いていた。左右のどちらの壁にも、こげ茶色の扉が等間隔で並んでいた。
やがて受付女性は一つの扉の前で止まった。そして友希那の方を振り向くと、「ここです」と小さく呟き、それ以上は何も喋らずに来た道を戻って行った。相変わらずの雑な対応に友希那はがっくりと肩を落とした。
扉には、『診察室』とだけ書かれた表札があった。右側に銀色の丸いドアノブがあり、友希那はそれを掴んで引いた。しかし扉はなぜかひどく重かった。友希那は自分が入り込めるほどの隙間を作るために腰に力を入れ、本格的に全身を使った。歯を食いしばり、ようやく出来た隙間に身体を滑り込ませることでやっと入室した。
入室した途端に今までとは別の異臭が友希那の鼻を貫いた。それは学校のトイレで嗅ぐ臭いに酷似していた。
室内には医者が居なかった。無人の診察室は寂しげな雰囲気に満たされていた。おそらく待っていればそのうち来るのだろうと思われたが、それでも友希那は一抹の不安を感じざるを得なかった。
友希那は入ってすぐの手前にある患者用丸椅子に腰を下ろした。待合室での老婆や男とのやり取りですっかり消耗していた友希那は落下するように椅子に身体を預けた。少し黒ずんでいる橙色の革の丸椅子はぐにゃりとした不思議な質感だった。
座りながら、友希那は辺りを見渡した。室内はありきたりな診察室だった。奥に伸びている長方形の部屋で、右側の一番奥まった位置には黄ばんだ白の扉があった。そんな右の壁沿いには他にベッドが置かれていた。反対側の右側には医者用のデスクと背もたれ付きの椅子、そしてそれの手前にいま友希那が座っている患者用丸椅子があった。
五分ほど待っても、医者が現れる気配はなかった。室内をくまなく見渡して一息ついた後、友希那は次にデスクの上を視た。一切の汚れが無い白いデスクの上には色も分厚さもそれぞれ異なる本たちが綺麗に並べられていた。背表紙に書かれた題名を見るに、全ての本は医学に関する書物のようだった。本の群れの横にはデスクに乗せられるほどの小さな骨格の模型と、同様のサイズ感の人体模型が置かれていた。これらを使用して患者に病気などの説明をするのだろうか、と友希那は思った。
するとベッドの奥にある黄ばんだ白い扉が、ガタンという大きな音を立てながら開いた。そして一人の背丈の高い白衣の男が入室し、無言で医者用椅子にどかっと座った。
椅子に深く座り込んだ男はスッと友希那の方を観た。少しだけ開かれた瞼の小さい隙間から覗く黒い瞳が、友希那の全身を観察していた。
そして男は口を開いた。「こんにちわ」
低く、威圧を感じる声だった。そして主治医の双眼の怪しい光が友希那を貫いた。その瞳はまさに狩りをする直前の、獲物を見定めた野生動物のそれだった。そんな眼光に貫かれた友希那はまさに蛇に睨まれた蛙だった。尖った恐怖から来る素早い悪寒が背筋を一気に駆け巡り、身体を震えさせ、友希那は今すぐにこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。しかし同時に、この診察室から逃げることなど絶対に不可能であることを、主治医から発せられている重苦しい圧力によって本能的に理解していた。
自分はすでに主治医という支配者によって捕えられてしまっていることを、友希那の脳はしっかりとわかっていた。
⑥
「こ、こんにちは……」
友希那は頭だけを動かした小さなお辞儀と共に軽く挨拶をした。そして主治医のことを観察し始めた。上半身は白のワイシャツに黒色のネクタイ、さらにその上から白衣を着、下はカーキ色のズボンと黒色の革靴を履いていた。顔面は縦に長く、黒の髪型はブロッコリーのようにもさもさとしていた。決して高くはない鼻梁と大きく分厚い唇からはおおからさを感じたが、高身長なためかやはり威圧感があった。顔に眼鏡の類は掛けておらず、その目元は小さかった。瞼を少ししか開けない所に不気味な印象を受けるが、覗く小さな瞳からは針のような眼光があった。
「私が、ここの主治医の、ペンウィー・ドダーです」
主治医はゆっくりと自己紹介をした。
「え、あの……。海外の方なんですか?」
意外だったため、思わず疑問がそのまま口から飛び出てしまった。
「はい。少々訳ありでして、今はここで主治医をやっています」
「そうなんですか……。よろしくお願いします」
今度の挨拶ははっきりと大きな声を出せた。共に添えたお辞儀もさりげないものではなく、しっかりと腰から曲げて頭を下げた。
主治医は息を吸い込んでから口を開いた。
「……さっそく診察を始めたいと思うのですが、今日はどういった症状で?」
主治医はのっそりとした喋り方だった。漂う空気感も重苦しいものだった。低い声は少しだけ聞き取りづらくあった。友希那は聴覚神経を研ぎ澄まして一言一言を逃さずに聞いた。
「ええと、喉の調子が少し悪くて……。私はガールズバンドのボーカルなのですが、昨日から喉に痛みがあって……」
友希那は前かがみになる勢いで自分の症状を訴えた。
「なるほど。それでは一度、実際に喉を診てみましょうか」
「お願いします」
すると主治医は椅子に座ったまま友希那に近づいた。椅子にはキャスターが取り付けてあるらしく、主治医はスムーズに友希那に迫った。大きな体躯の主治医の迫力は友希那に微小の恐怖を与えていたが、心の内で、「これは診察だ」と自分に言い聞かせて我慢した。
「マスクを取って、上を向いて、口を開いてください」主治医は白衣の胸ポケットからスティックライトを取り出した。懐中電灯をそのまま小さくしたような真っ黒の器具だった。
友希那は言われた通りにマスクを取り、上を向き、口を開いた。すると主治医が口内をスティックライトで照らしながら、隅々まで観察を始めた。
口内を覗いている主治医の顔が、至近距離で友希那の視界に現れていた。やはりのっぺりとしている顔面には生気が感じられなかったが、二つの瞳に浮かぶ眼光だけは驚くほど強く、生きるための意思のようなものを感じた。
主治医は友希那の口内、得に喉の部分をじっと診ていた。
「ああ……。確かに少し腫れていますね。ええ、これは薬が必要だ……。ああ、いや、待てよ……」そこで主治医の顔色が変わった。さっきまでの生気のない無表情から一転、珍しい生物を発見した学者のような濃い顔つきになった。眉間にシワが寄り、友希那の口内をよりじっくりと睨んだ。「これは……。ううん。これは少しまずいかもしれませんね……。ええ、ちょっとこれ、どうしようもないかもしれません」
「そ、それは……。どういうことですか!」
友希那は思わず声を発してしまった。心臓の鼓動が徐々に早まり、強く胸を打っていた。身体の芯が燃え上がっているような感覚になった。
友希那は、スティックライトの電源を切り、椅子を引いてデスクの前に戻って行く主治医に説明を求めた。
主治医はスティックライトを胸ポケットに戻しながら口を開いた。
「ええ。ちょっと普通じゃないってことです。専門の治療が必要かもしれませんね」
主治医の鷹揚さのある声に、友希那は、まるで石化でもしてしまったかのようにぴたりと静止した。脳内では思考が回っていた。自分にとって命と同等か、それ以上に大切な喉に重大な病気か怪我があるという事実が、嫌な寒気となって全身に鳥肌を作っていた。しかし額には汗が浮いていた。身体の芯は熱く、心臓は今まで経験もしたことがないほどに早く動いていた。今の友希那は自分が寒いのか暑いのかがわからなかった。それほどに脳が混乱し、絶望していた。そして友希那はこれからのことを考えた。絶望や焦りから、妄想できる未来も暗いものだった。喉の不調ということは、当分は歌唱の活動ができないということだった。それは湊友希那というボーカリストの停止を意味し、自分の音楽において、あらゆる面でマイナスにしかならなかった。
「……ほ、本当ですか?」
それは主治医の言葉から五秒後の友希那の声だった。ひどく震えていた。
「本当です」主治医は薄い微笑の声色だった。「本気ですよ、ええ」
「具体的には、何を……。すれば……」友希那は縋るようなか細い声で訊ねた。無意識に何度も唾を飲み込んでいた。初めてこの医者を見た時、漠然とした不審感や威圧から来る恐怖感を抱いていたが、今の友希那はこの怪しさのある医者にすら助けを乞う勢いだった。
「治療。と、いっても、今の医学の技術は素晴らしいですからね。そんなに大きな、例えば手術をしなくちゃいけないとか、そういうわけではありません。ただ、少し特殊な注射を一本、する必要があります」
主治医はゆっくりと説明した。
「注射……。そ、それだけで良いんですか?」
「はい。すみません。私のさっきの言い方だと、大きな手術とか入院とかが必要だと思われましたよね。でも大丈夫です。医学界隈で高く評価されている、喉周辺の怪我や病気に対する特効薬の注射を打てば、すぐに回復します。……貴女の音楽の活動にも、支障はないと思います」
「そうですか……」それが事実なら、友希那にとってはありがたいことだった。たった一回の注射で全てが終わると考えると、さっきまでの緊張感や絶望感が溶けるように消えていった。煩いほどに脈を打っていた心臓も落ち着きを取り戻し、そのゆるやかな鼓動に友希那は安心感を見出していた。
「それでは、さっそく注射をしましょうか」
友希那にとっては後光がさす仏様のようにも思える主治医は、薄っすらと笑っていた。分厚い唇から覗く銀歯の歯列が輝いていた。
この時の主治医の笑みは、全ての計画が上手く運んだ悪徳な策士のそれだったが、自分の喉の安明に歓喜している友希那は全く気に留めなかった。
⑦
「注射の準備をしてきます」と言い置いて、あの黄ばんだ白い扉から退室した主治医は、それから三分ほどで、ステンレス製のトレイを持って帰ってきた。「特殊な物なので、丁寧に扱わないといけないんです」と椅子に座りながら話す主治医の声は、先ほどの声よりもいくらか熱がこもっているような気がした。
友希那は主治医がデスクに置いたステンレスのトレイを見た。そこには一本の空の注射器と、黄色のビニールテープで栓がされている試験管があった。友希那の好奇心が宿っている視線に気づいた主治医は試験管を取り出し、「これが薬です」と、中のメロンソーダのような緑色の液体を指さして説明した。
試験管の中を友希那は凝視した。喫茶店などで飲むことができるみずみずしいメロンソーダのエメラルドグリーンの色の液体。しかしよく視てみると、その液体の中には白色の粒のようなものが浮いていた。粒は自由に液体の中を動き回っているように視え、友希那に不信感を与えた。
「それを、どこに注射するんですか?」
友希那は好奇心から訊ねた。液体に不確かな要素を見出してしまったため、心臓が跳ねていた。
「首元です。喉周辺に直接薬を流すイメージです」
主治医は注射器の準備をしながら答えた。
「あの……。どういう薬なんですか?」
「不安ですか? でも大丈夫です。確かに変ですが、特効薬というものはどれもそういうものです」
「そうですか……」
主治医のゆったりとした大らかな説明で納得するしかなかった。そういうものなのだ、と自分に言い聞かせ、逸る気持ちを静めさせた。
注射器に針を付け終えた主治医は試験管を持ち、栓の役割をしているビニールテープに注射針を突き刺した。テープを簡単に貫通した針をそのまま薬液の中まで進め、適当な位置でプランジャーを引き、シリンジ内部に薬液を入れた。
「準備できました。打ちましょう」
三本指で注射器を持つ主治医はいつかのように椅子に座ったまま友希那に近づいた。そして注射針の先端を友希那の首筋、中心から少し左にずれた位置にあてがった。ツンとした冷たさを感じる友希那は固唾を呑んだ。恐怖は一切無かったが、強い緊張感があった。主治医はすぐに針を友希那の皮膚の中へと進めた。微小な痛みが身体に広がった。友希那は思わず目を閉じた。主治医は無表情でプランジャーを押し込み、友希那の体内に薬を流し込んだ。
液体がドロドロと身体に入り込んでくる感覚が、友希那にははっきりとわかった。それは少しだけ気持ちの悪い不安定な感触だったが、すぐに身体の中に消えてなくなった。すると身体の芯がひんやりとし始めた。脳が、ぎゅっと小さく硬くなっていくような気がした。
ゆっくりと目を開けると、すでに主治医は針を友希那から引き抜き、トレイの上に空になった注射器を置いていた。
「大丈夫ですか?」
主治医の低い声がした。友希那は答えようとした。しかし口が思うように動かなかった。脳がぼうっとし、言葉を作り出して発音することができなかった。
「あのっ……。あう……」
友希那は呂律が回らず、酔っ払いのような細く言葉になっていない声を出した。
「ふむ……。おそらく、突然の異物に身体が驚いているんでしょう。すこし、こっちのベッドで休みますか?」
友希那には主治医の声が、何重にも反響しているように聞こえていた。まるで洞窟の中で対話しているような感覚だった。思考がゆったりとしているため、物事をしっかりと考えることができなかった。小さく頭を縦に動かし、おぼつかない足で横のベッドに仰向けで寝転んだ。
「大丈夫です。目覚める頃には、馴染んでる……」
こちらを見下ろす主治医が何を言っているのか、友希那には全くわからなかった……。全ての、乱雑に絡み合っている思考が緩やかに溶解して一つになっていった。いくつもの方向の感覚が混ざり合い、自分が立っているのか座っているのかがわからなくなっていった……。
脳が、完璧な液体になっているような感覚があった。視界がぼやけ、筋肉に力を入れる方法を忘れてしまった……。やがて、四肢の感覚が消えていった……。それは、四肢をゆっくりとちぎり取られたような感覚だったが、不思議と痛みは無く、むしろプチンという取られる際の感触が心地いいとすら、友希那は思っていた……。
次第に身体の芯の辺りが温かくなっていった……。それは、カイロを握りしめているか、あるいは湯たんぽを抱えている時に感じる柔らかい熱だった……。
全身に広がる熱に流されていく……。瞼が重く感じられ、無意識に下がっていく……。視界が閉じてゆき、同時に意識がどこかへと離れていく……。迫る暗闇包まれていく……。
やがて友希那は意識を喪失した。どこまでも広がって行く暗闇の温かさの中で、眠りに落ちていった。
暗闇だった。
友希那は暗闇の中に居た。どこを見ても真っ暗で、視界の全てを濃厚な黒色が覆っていた。自分が立っている地面すら、その境界線がわからなかった。まるで浮かんでいるような心地だったが、自分が床に足を付けて直立していることは理解できた。
自分の身体はよく視えた。
光など刺し込んでいないはずなのに、闇の中の自分の身体ははっきりと視えた。両手を動かし、足を踏み込む様がしっかりと観測できた。長い薄紫の髪も手に取って、存在していることを実感できた。
ここはどこだろう、と友希那は思った。しかし答えは出なかった。そして次に、自分はどうやってここに来たのだろう、と思った。しかしそれに関しても、具体的な記憶が出てこなかった。今より前のことを思い出そうとすると強い痛みが脳を襲った。友希那はこめかみを押さえながらしゃがみこみ、うずくまった。それほどに強烈な頭痛だった。小さい唸り声を上げていると、やがて頭痛は去って行く波のように、颯爽とどこかへ消えていった。
うずくまっている友希那はそのまま身体を前に倒し、手をついた。素手は黒色の地面にあたり、友希那は四つん這いになった。
そこでふと、頭部に温かいなにかが付着した。
友希那は思わず顔を上げた。そして、自分の目の前に現れた存在に目を見開いた。
それは異形の者だった。全体的な体つきは赤色の蛸に似ていた。しかし実際の蛸とは大きさが違い、友希那の背丈と同等くらいにはあった。蛸は地面に伸ばした八本以上はある無数の触手で直立していた。一本一本が地面の位置でゆるやかに外側に曲がり、まるで何本もの足があるようになっていた。触手たちに吸盤は無く、ただ赤色で細長いだけだった。触手が接続されている頭部はトマトのような球体で、正面には眼球が三つ、横に並んでいた。眼球周りは人間にそっくりだったが、鼻や口などはついていなかった。
友希那は立ち上がった。頭部に伸ばされた異形の触手の一本は、そっと友希那から離れた。
友希那はこの異形に対して、どうしてか温かい感情を抱いていた。恐怖の類は一切無かった。家族かバンドのメンバーか、あるいは大好きな猫と対している時のような、温い安心感を全身で受けていた。
すると異形が近づいてきた。地面に面する無数の腕をざわざわと波立たせながら接近してきた。一切怖くなかった。むしろもっと近づいてきてほしいと思った。しかしどうしてこの異形にこんな感情を抱いているのかは全くわからなかった。
友希那と異形は目と鼻の先の距離になった。異形は無数の触手のうち数本を蠢かせ、友希那の身体を抱きしめた。
友希那はされるがままに抱きしめられた。異形が友希那を引き寄せ、ぎゅっと力強く包み込んだ。
温かかった。異形の体温が友希那の全身に伝わってきた。友希那は目を閉じた。すると異形の触手がまた数本蠢き、友希那の頭を撫でた。
⑧
まどろみの中から友希那は覚醒した。
ゆったりとした速度で両瞼を開けると、白い壁のようなものが映った。カレーライスのルウのような色のシミが多く広がるそれを見つめていると、やがてそれが天井であることを理解し、それを皮切りに徐々に、眠る前の記憶が脳裡で蘇っていった。
友希那は上体を起こした。そして室内を見渡した。そこはやはり診察室で、自分は喉に関する特効薬を注射したことで眠りについたことを反芻した。夢の類は見ていないらしく、記憶を呼び起こすと注射の際のひやりとした感触が首筋に蘇った。
「ああ、目覚めましたか」
横で声がした。友希那はすぐに声の方向を視た。
そこには自分の喉を診てくれた主治医が背もたれのある椅子に座ってこちらを視ていた。薄っすらと開かれた眼にはやはり不気味さがあったが、友希那は眠る前ほどこの主治医に対して恐怖を抱いてはいなかった。自分の喉を救ってくれたことには確かな感謝を抱いていた。
「調子はどうですか?」
主治医は友希那の瞳を覗きこみながら訊ねた。
「ええ……。大丈夫です……」
友希那は途切れ途切れに答えた。そしてベッドから降り、直立になった。
「自分で立てるのなら、大丈夫なようですね」
「はい」
友希那は素早く答えた。
「……では、診察は以上になります。もしも何かあった場合は、お手数ですが再度この病院に来てください」
「わかりました。ありがとうございました」
友希那は主治医に対して腰を九十度曲げた礼をした後に、右手に握っていたマスクを着けて診察室を後にした。出入り口の扉はやはり重くて開けるのに苦労した。
長い廊下を歩いて進んだ。身体は注射を受ける前よりも軽いような気がした。
あの受付女性が居る受付スペースまで戻ると、すぐに女性から治療の値段を請求された。持ってきた金額をそのまま出すと、五円のおつりが返ってきた。
「ありがとうございました」
滑りの悪い引き戸の出入り口を開けると、外はすっかり夕暮れ時だった。そこで友希那は自分が凄まじい時間眠っていたことを思い知った。
雲一つ無い橙色の空を仰ぎながら、友希那は帰路を踏み出した。