エレベーター内ではむせかえるほど血の匂いがこもり、ひどく息苦しい。熱を持った鉄錆色の空気で息が詰まる。そんな状況に反する形で耳につけたインカムから冷たい声が聞こえた。司令部の決定事項。常の冷厳とした覇気が薄れた楠木司令からの通信は延空木に残った四人のリコリスたちへ撤退を命じる。
『降下しろ、あとは上に残った二人に任せるしかない』
セカンドリコリスの負傷、リコリスの痕跡をこれ以上残さないための措置、優先順位を考えれば、フキは頷くだけでこの任務を降りることができる。サクラの出血を考えれば、離脱できるのは幸運だろう。
けれど、東京支部の多くのリコリスたちの命を奪った仇敵であり、テロを起こした真島の処理をたった二人に任せているという事実がフキの決断を迷わせる。本当にそれでいいのか、と。しかも上に残った千束についてはもうまともに戦えるような身体ではないのをリコリコで働いていたがためにフキは知っていた。
二カ月、いや此処までの運動量を考えれば、アイツの寿命はどれほど残っている?知らなければ良かった、なんて呆けた考えが浮かんでは沈んでいく。
リコリコにいかず千束の事情を知らなければ、黙って引き下がれたのか……。拳を握る、意味はない。歯噛みする、意味はない。なによりも決断を下せないこの時間こそ、意味がない──。
「司令…………千束の……心臓は……」
『二度は言わん』
いよいよフキは何も語れなくなる、真島が上にいても手出しできず、このまま降下するしかない状況。
「フキさん──」
たきなの澄んだ菫色の虹彩がフキの迷いに揺れる眼差しに交差する。
たきなの選択は決まっていた。フキは決断するしかなかった。
「ダメだ!命令だっ……」
「なら、以前と同じく私の独断ということで」
“たきなが行くなら”とエリカまで立ち上がって主張する。
「わ、私も行くっ」
「ダメだ!……現場リーダーは私だ。決断は……私が下す」
どちらを選んでも片方を見捨てる羽目になる。フキが痛感している苦しみを前に、たきなは穏やかながらも鋭い指摘で、何も諦めないための決断を提示した。
「はい、だからフキさんにお願いしているんです。今、千束たちを助けに行けるのは私で、サクラを助けられるのは貴方です。私たちで決めましょう。後悔しないために、なにも諦めないために」
「………………」
フキは足元で苦しそうに呼吸を重ねているサクラを見て肩を落とす。自分は千束を助けにいけないらしい、けどまぁ。
千束を救えるヤツを後押しできるなら……この決断にも意味はある。
「上にいるアイツらを……千束を頼む」
エレベーターの天井、点検用扉を開いて、たきなが上に上がろうとする。上に行こうとするたきなの背中へ手を当て、何も言わずフキが天井向こうへと押し上げる。たきなは振り返らなかった。フキは彼女の離れていく背中を見届けることしかできない。
それで良かった──。
フキは満足げに振り返らない彼女を見送り、たきなは背を触れた感触に後押しされて第二展望台へと続く梯子を登り始めた。
第二展望台では、絶え間なく銃撃と打撃の応酬が錯綜していた。特殊兵装の中継によって複雑な軌道を描く狙撃弾、突如として出現し千束たちを潰そうとする斥力場、そして絶大な威力で飛んでくる義手の拳打。黄理の幻妙な体術から繰り出される棍の打撃、突き。千束の超絶の観察眼による回避と超至近射撃。
状況は絶妙な力関係で拮抗していた。
互いの攻め手を潰す勢いの攻勢がねじ伏せ、変則的な技巧の数々をそれ以上の特異性が凌駕する。怪物たちは互いの特性と能力を高め合いながら、獲物を仕留めようと食らい合う。真島は千束と銃撃戦を交わすが、真島の実弾は一発も当たらず千束の非殺傷弾だけが時たま命中する。ただ命中したところで防弾チョッキにより衝撃が透らないわけだが。
「クッソ、んだよ。そのへなちょこ弾は……!」
「当たってばっかのくせにっ!」
またフランジブル弾が真島へ命中した。真島の義眼による未来予測と千束の人間観測による未来予測が拮抗して、互いの読みの精度を高めたり、あるいは外し合ったりしている。千束は弾丸を完全にかわし続けているが、真島は非殺傷弾を受ける頻度が上がりつつあった。
真島の被弾は防弾チョッキを着ているための余裕から来ていた。急所以外の回避に思考のリソースを回す必要のないための命中。対し、千束は相手の弾丸一発一発を常に全神経を総動員して回避し続ける。ダメージを僅かとは言え真島は蓄積しつつあるが、精神的な疲労の度合いでは千束が不利なのは間違いない。
ならば、と黄理が援護射撃を行っても、軌道を読まれきっており掠りもしなかった。やはり、真島に命中し得るのは千束のフランジブル弾だけらしい。迫る狙撃弾と斥力場をかいくぐり黄理は苛立たしそうに舌を弾く。千束の戦況にばかりかまけてもいられない。
神算鬼謀の狙撃手と仮面の怪人。
真島と並ぶ怪物を二名同時に相手取っているのだ。
窮地の度合いは千束と何ら変わらない。
黄理にはこの窮地の打開策を分かってはいた。殺せばいいのだ、相手は自分と同等かそれ以上の怪物。気遣っていられるほどの実力差は無いし不殺では二人の魔人を抑えきれない。
脳内では正しい殺害までの想定が回っている。もっと惨酷に、冷酷に、無慚で、無慈悲な戦術を振るえ。頭蓋を潰し、上がった血しぶきを眼眩ましに死角を作れ。残虐な肉体の損壊で相手の挙動に一拍の躊躇を差し込め。急所を狙え、加減をするな。獲物の立場、人間関係、思想を考慮に入れるな。
──しかし、それはもう俺には許されていない。かといって常識的な格闘戦での打開案も思いつかず。常識はずれで、でたらめな一手を打たなければならない。
影胤とティナの曲芸じみた射撃、攻撃に対し、刻一刻と苦境に立たされつつある黄理は己の持つ浄眼と並ぶ特異な体質の制御に四苦八苦していた。
いつからか、備わっていた死という概念への“気づき”。
万象の死を感じ取る超常の認識力、“境界を手繰る”。
意識をより研ぎ澄まし、深く世界を知覚する。特別な動作も、呼吸も、掛け声も不要。注意を払うだけで世界はあっけなく死に絶えるのが黄理にとっての常。
黄理の見つめる全てには亀裂、いいや赤い線が氾濫している。のたうつように鼓動する赤い線が世界に広がり、命が認識上で断絶する。意識を研ぎ澄ましたときだけ認識できる命の断絶線。あの赤い線こそ世界に遍在する
生と死を明確に分かつ
黄理が不意に近くの窓ガラスを棍で軽く触れる。それだけで特殊な硬質加工の展望台の窓ガラスがくしゃり、と音を立てて崩れていく。欄干をなぞるだけで、なぞった箇所が名刀で切り付けられたと思ってしまうほど鮮やかな斬痕を残す。こけおどしはこれで十分、黄理はゆっくりと見せつける様にひたりひたりと二人へ歩き迫っていく。
ティナも影胤も思考が一致した。
“接近、いや触れられるのすら危険”と。ティナが狙撃銃を発砲し、影胤もまた銃を構える。放たれた弾丸がシェンフィールドの補助で弾道を変化させた。
黄理は弾道の変化した狙撃弾を回避し、棍を蛭子影胤へ発砲の妨げとなるように投擲する。仮面の魔人は、斥力場を作りもせず大げさな横跳びでちっぽけな鉄の棒きれを避けた。黄理の異能を断片的にでも知る者からすれば、彼の攻撃は一手一手が脅威、致命即殺の攻撃。実際は線をなぞるや、点を突くといった過程を踏む必要があるのだが、知らぬ者から見れば牽制の一振り、咄嗟の悪あがきでさえも即死の危険を秘めているという勘違いが発生する。
蛭子影胤の形振り構わぬ回避によって生まれた隙を縫って、黄理は此処まで温存していた隠密という自分が得意とするカードを切る。七夜黄理という暗殺者の最大の武器、格闘術でも、異能でもなく、隠行こそが最大の武器。
暗殺者の基礎技能にして奥義とされる業。“気配遮断”。特に七夜黄理の技術は生物としての気配を完全に殺し、卓越した完成度から式神の類いかと見紛う練度を誇る。
此処まで真っ向勝負に付き合ったのも、隠れ潜むことをしなかったのも、たった一度、一瞬の隠形の効果を最大限に高めるため──。
七夜の一族が積み上げた業、それに練り上げられた職人芸が異能めいた最新技術に競り勝つ。
ティナ、影胤の二人の知覚を抜け、隠形を為した黄理は足音一つ立てないまま、棍を片手に天井から急降下。影胤の背後に立つ/飛来した棍を手にして両肩へ棍を叩きこむ。ぐしゃり、という確かな破砕の手ごたえに仮面の男が呻き、膝をつく。
傍らにいたティナが狙撃銃を取りまわそうとするが遅い。
蹴り脚が跳ね上がり、狙撃銃を蹴り上げる。首から胴体まで無防備になったティナは無理な体勢から発砲。その
獲物を仕留めそこなった落胆より、うっかり殺ってしまわなかった安堵が勝る。というか、黄理は途方に暮れていた。
“さて、此処からどう立ち回るか”。
蛭子影胤は体が鍛えられていたのが分かっていたから、好き勝手に蹴りや打撃を叩き込めた。だが、おそらく眼前の少女、ティナ・スプラウトを叩きのめそうとすると、自分の技ではうっかり殺っちまう公算の方が高い。
どうするかと思考し、黄理は自分の体の変調に首を傾げた。
いやに調子がいい。感覚神経は鋭敏になり、治癒能力が向上したのか旧電波塔で負った痛痒が消えていた。筋力も通常では使われていないものが稼働し始めている。
自分の好調に戸惑う黄理はかつて橙子の語った内容が事実であったことを思い知らされていた。
蒼崎橙子の死の線に対する考察、分析。
そういえば/橙子さんが何か言っていた気が──。
ふと/思い浮かんだことがあった。
『慣れておけ?……“線”を見ることに?』
伽藍の堂のソファに寝転んだ黄理は雇用主の無茶ぶりに顔をしかめる。
『ああ、お前が割と本気で嫌がってるのも理解の上で言うが、それでも使い慣れておけ。後々、役に立つかもしれん』
『かもしれん、って。……そんな不確かな都合でやれって言われても困るんですが。俺の線とか点を補足するヤツは、使い続ければ慣れるとかじゃないんです。使うたびになんか取返しがきかなくなるような、もう後戻りできないような……感じ?』
ぼんやりとした顔で手を振っているため、深刻度は伝わりにくいが基本は何でもハイハイ頷く黄理が拒絶する時点で相当ヤバいことだけは橙子も理解する。
『昔から聞いてるが、相変わらず要領をえん。ふむ、感じ取っているモノの情報量の重さが精神と脳の処理能力を圧迫して、観測者の認知機能を削っているのかな……?だとしても線や点を見ないために意識を薄弱にしているのが一番の問題だろうに。お前、日常だと意識を半覚醒状態で回してるだろう?』
『まぁ、そんなに集中したりすることもないから』
橙子が顔をしかめる。普段の黄理は実は重篤といっていい状態にある。思考があやふやとし、視線はぼんやりとしているほうが多い。うっかりや忘れ物が多いのも黄理の状態を顕著に示している。いくら黄理が凄腕の暗殺者とはいえ、気の抜けた日常で不意打ちを受ければひとたまりもない。
いや、人間が関与していれば、思念の探知から黄理も不意打ちを対処することは可能なのだが、橙子は敢えて先ほどの発言の意図を説明する。
『死の淵を見たものはより強靭になる、という俗説を聞いたことは──?ふむ、ただの妄言と切って捨ててもいいが、これにはいくばくかの事実も混じっていてね。遥か昔、侍は刀を抜いた時点で肉体を殺し合うためのものに変え、精神を生き残るためだけに動くものにしたという話がある。自己暗示と生存本能、それが戦いに無駄な“人間”としての機能を排除し、戦闘に特化した器物へと変革させた』
橙子の話を聞いて、“何をバカな”と思った黄理はすぐその考えを改めた。よく考える必要もなく、その実例が間近にいるではないか。
“錦木千束”、幼いころ先天性心疾患により命の危機にあった彼女は、銃弾を避けるという異常な特異性を発現させている。通常の生きていくうえで不要な能力が、リコリスという命の危機が頻発する環境に適応した結果だとすれば──?
『このような変革は何故、発生するのか。それは、死を回避するため通常生きていくうえで不必要な感覚や機能が開かれるからだ。ただ、お前の場合は順序が滅茶苦茶になっているらしい。死を回避するために脳が死の理解度を上げている。そのせいでお前の精神や肉体は“
『でも、橙子さん。やっぱり線を継続して感じ取ることは難しい。……線は、死そのものだ。触れれば、見れば、その分だけ死に近くなる……』
『──観測者のお前の意見だ。尊重はしよう。……死や魂などの高次の情報というヤツは、人間の処理能力を大幅に超過しているらしい。お前の言う“線や点”がいい例だ。無意識、あるいは意識的にかは不明だが、自己が認識しきれない情報を“線や点”という簡素な情報に置き換えている。概念化の難しい情報を自分の概念の追いつく範囲の感覚に代替させ、脳の負荷を低減させているのだな』
橙子さんが煙草をくわえ、火を点ける。
『死の概念を知覚するのに人間の基底論理と処理能力は容量不足ということか』
紫煙の向こうで吐かれたセリフはすとんと俺に納得を与えてくれた。
『お前の言う“線と点”は観測の限界というわけだ。そうだな、
首を横に振った。そんな横文字ばかり使われても困る。案の定、どこか呆れた表情の橙子さんはため息をついてから滔々と説明を開始する。
『認知の限界、生きる者が決して越えられない
『──断崖絶壁のへり、でしょうか』
『それだ』
自然とその形容が口をついていた。言ってから、その適当な例えが的を射ているという実感を覚えた。超えた先には何もなく、死へと真っ逆さまになるのは俺の感じた心証通り。朧げな発言だったが、橙子さんは頷きを返し話の纏めに入る。
『無理を承知で繰りかえそう。線や点を捉える技能を更に砥ぎ澄ませ。そうすれば、お前は更に強くなる。きっと、お前にはそれが必要だ。お前は……千束と共に生きていくのだろう?』
妙に好調となった黄理は、ティナ・スプラウトと武器を構えたまま睨み合う。互いの一挙手一投足を逃さぬような相対。少女の背後では二人の
流れ弾が飛ぶが、黄理はそれを首の動きだけで透かす。僅かな挙動、それに攻撃をねじ込む狙撃手。発砲は二発、ボルトを即座に駆動させ疑似的な高速連射を成立させた。タイミング、角度、速度の異なった弾が来る。
黄理は動かざるを得ない。棍を握り、ティナの待ち構える前方へ疾走。
読めている、前進は凶。前は少女が織りなす絶対の死地であることは明白だ。けれど、俺は前に出るしか/まだ道はあった。俺だけでは創り出せない活路が。
意図を察してくれるか、成功するかなんて考える暇もなかった。
手にした双棍を素早く打ち付け合い、派手に音を鳴らす。自分以外、三者の視線が殺到する。その中に一つ、夕焼けみたいに赤く光る瞳と蒼い眼が刹那、交わる。言葉は要らなかった。
千束は非殺傷弾を発砲しながら真島を追い越し、黄理はさらなる加速でティナの頭上を跳躍し乗り越える。勢いのまま千束が滞空するシェンフィールドを二個撃ち落とし、黄理は真島に棍での打撃を入れる、が二発を叩き落とされ、棍が手元を離れた。
止むを得ず、真島の胴を蹴り飛ばすが手ごたえがない。使い慣れた棍にはもう目もくれずに懐から銃を取り出した。過去の七夜の一族の頭領であった“
黄理と千束の二人は入れ替わった対敵を前に、無言で銃を構える。
連携、助け合いなんてものと縁遠い真島は先の交代劇を見て、笑みを深める。直前の合図、一瞬の交錯、入れ替わったお互いの敵への正確な対処。何よりそれらのことを一瞬で済ませる手際。
「えらく、
傭兵である自分たちとは違った強みを持つ黄理たち。改めて、強いと痛感させられる。だが、相手が自分より強かろうと、賢かろうと、特別であっても、人数で劣っていても勝ちは捥ぎ取る。負けん気、いや真島を突き動かす情熱が、漆黒の虹彩の中で廻る幾何学模様を一層、加速させた。
黄理の射撃を前に、真島は何とも言えない表情で苦笑いを浮かべる。先ほどの千束の銃撃に比べ、黄理の射撃はあまりに精彩に欠けている。素人よりはマシだが、練達というにはちと厳しい。
「お前、リコリスらほど射撃が上手くねぇな。よく狙え、足とかが良いんじゃねぇの?」
「あいにく銃は苦手なんでね──」
黄理の発砲を躱しながら、真島が細い欄干の上、並行台さながらにバランスを取りながら接近してくる。迫る真島の放った黒鉄の剛腕。カートリッジが爆裂し、絶大な推進力となって義手の拳打がカッ飛んでくる。思念の先読みでさえ回避の困難な速度、迫る死の気配を前に黄理は手すりの向こう側、第二展望台中心にある半円状のガラス張りの空間へと飛び込んだ。
ガラス床を滑り落ちていく黄理、その頭上から真島は小さな楕円状の物体を放り込む。それは炸裂し、効果範囲へ鉄片を撒き散らす殺傷武器。
ピンの抜かれた手榴弾が起爆する。
「黄理──!?」
爆炎が上がり、頑強なはずの展望台のガラスに罅が奔った。しかし、爆炎をかいくぐって黄理は外縁部を駆け抜ける。這い上がろうとする黄理に向けられる狙撃銃とリボルバー、千束はティナと真島の発砲を阻止するためだけに非殺傷弾を撃つ。
真島は回避に成功するが引き金を引くタイミングを失してしまった。一方、ティナの肩には赤い粉塵が上がり銃口があらぬ方に向かう。二人の魔人の妨害を受けず弧を描く床面を利用し、遠心力の加速で黄理が戻ってくる。
その瞬間、千束は胸を押さえてふらり、と体勢を崩した。体幹はゆがみ、たたらを踏んで近くのガラス窓に倒れ掛かる。致命的な隙、回避も抵抗も不可能な状況。
息が荒い、呼吸を重ねてもそれが身体を巡らない。命として還元されていないのだ。足が自重にすら耐えかねて壁にもたれかかったまま、ずるずると膝から崩れ落ちる。
「ぁ、はぁ、はっ……ひゅ……」
過去に過ぎ去ったはずの死の
“君は君を動かす理由を手放した”。
血が泥に代わったようだ。肺はちっとも動かない。指先は壊死してしまったのか、足は棒切れに代わっていたらしい。動かないはずの心臓はとっくの昔にがらくたになっていて──。
「こ、んなときに……」
自分が今、真っすぐに立っているかもあやふや。胸の中心、そこにあるはずの人工心臓に手を当てる。
「もうちょっと、がんばんなさい……」
視界が明滅し力が抜けていく。自分さえ支えきれず、前のめりに倒れ──。
床に這い蹲る寸前、倒れかけた千束を黄理が受け止める。
青年は足を止め、天を仰いだ。
生き残るための疾走を捨てて、黄理は立ち止まった。愛する女を抱き支えるために。この瞬間、七夜黄理は生存を放棄する。如何に七夜の体術が優れていようと、それは術者の異様なまでの“軽さ”が根幹にあってこそ。人一人を抱えて動き回れる馬力なんて持ち合わせておらず、千束を見捨てることもできない。
“そうなるとできそうなのは、
千束をかき抱いたまま、黄理はゆっくりと膝をつく。
座り込んだ二人を見下ろし、真島は──。
リボルバーの引き金を引いた。連続する射撃音が第二展望台に響く。
けれど、その銃撃は誰も傷つけることなく、弾丸は近くに置いてあった自動販売機を貫通。中にあったジュースの缶が転がり出てくる。
真島は缶を拾い上げ、手に取ると。
「よくねぇ音しやがって……休憩だ」
敵であるはずの真島が寄越したジュースを、回復した千束が不機嫌そうな顔で受け取る。黄理もそれに倣い、コーヒーの缶を手にした。この気の抜けた急展開に狙撃銃を持った少女、ティナが不可解そうに首をかしげているが、やがてため息をついて年上たちと同じく缶を拾う。
カシュ、とプルトップの開く音がする。
こんな不可思議な状況を作った真島はマイペースにジュースに口をつけて胡坐をかいていた。先ほどまでの殺気立った様相と打って変わり、ひどくリラックスして缶を傾けている。
訳が分からず、千束は疲れた声音ながらも真島に文句を言う。
「一体、何がしたいんだよ……」
「これだよ」
「答えになってない」
「ですね、そちらのお兄さんの言う通りです」
「なんだ、わかんねぇの?」
真島の不可解な休戦要求は、千束・黄理だけでなく陣営を同じくするティナにも意味の分からないものと認識されていた。やれやれ、と億劫そうに真島は此処に至るまでの理由をあっさりと言葉にする。
「命がけの勝負さ。俺が唯一、恐怖を感じたヤツらとのな」
「
「それだけならすぐやるさ。ちょーし悪いオマエとやり合ってもつまらん。だからまだ、くたばるな」
「まったく面倒をかけてくれる……」
「どーかん……とりあえず、時計止めなさいよ」
真島は懐で作動し続けているスマホのタイマーをチラ見する。その上で千束の悪態をにべなく拒否した。
「そりゃできねぇ相談だ。……なんも知らねぇ連中にモザイクなしの現実を見せないとなぁ」
「──それが、アンタのしたいことなの?」
「これでも俺なりに“セカイ”ってのを守ってんだぜ?自然な秩序を破壊するお前らからな」
そう言いながら真島は床に散らばった缶を一つ一つと重ね積み上げていく。慎重にバランスを取りながら。
「壊してんのはアンタらテロリストでしょーよ」
「そう、お前らが壊すから俺も壊す」
「壊す以外にバランスを取る方法は無かったのか」
黄理はそこでようやく真島という男に本心から語り掛ける。ある意味で、この場にいる誰よりも自分に酷似し、かけ離れてしまった存在であるがゆえに。
「さぁな。あったかもしれねぇ。でも、俺は“壊す”以外のやり方を知らなかった」
積みあがった缶の塔を真島は片手で払い崩してしまった。四方八方に転がった缶を、真島は何に重ねているのだろうか。分かるのは真島くらい、いや彼本人も分かっていないからこそこの凶行に出てしまったのかもしれない。
「……バランスを取ってるだけだ。別に何でもかんでも嚙みつくほど節操なしじゃねぇ。DAやアラン機関みてぇなのが消えれば俺も後腐れなく消えてやるさ」
「しぶしぶ悪人を演じてるっていうの?それにしちゃ、やけにノリノリに見えんですけど~」
「悪党やってるつもりはねぇよ、正義にも興味はねぇけど。俺はいつだって弱い者の味方だ。もしDAが劣勢だったなら、俺はお前らに協力してたぜ。……まっ、そっちは願い下げだろうがな」
「アンタですら自分を正しいと思ってんのね。本当のワルはやっぱ映画の中だけ、か」
「だから映画は面白いんだろ?ヒーローは正義の名の下に好き勝手暴れられて、その大義名分に相応しい悪党が法の外で好き勝手してる。もっとも現実は正義の味方だらけだ。イイ人同士で殴り合う。それがこのくそったれな世界の真実だ。お前らの言う正義も悪も大した違いはねぇのさ」
真島のご高説を聞いたうえで黄理は堂々と正面切って否を告げた。
「さてどうかな。少なくとも正義の味方は爆弾使って雑に問題を解決しない」
「マジかよ、やっぱ正義は性に合わねぇわ」
嘯く真島を無視して千束は隣に座っているティナに視線を向ける。
「わたしは傭兵ですから特に信念や思想みたいなものはありません。ただの依頼です。それ以上でも以下でもなく」
「ツれねぇなぁ、そこは俺と付き合いが長くなったからとか、リップサービスくらいねぇのかよ?」
からからと笑う真島に後ろめたさの色はなく、ただ自分の信じたことをやり遂げようとする単純明快な決意に燃えていた。
よろよろと力のない足取りで旧電波塔を後にしようとしているアラン機関のエージェントたち二人。姫蒲は失意に暮れる吉松に肩を貸して旧電波塔を降りていこうとする。千束との訣別、疲労と負傷など様々な影響から吉松の視界は霞み、前を向いているはずなのに頻繁に目線が意図せぬ方向に揺れてしまう。
しばらくして、姫蒲はコツコツと杖を突く音が迫っていることに気が付いた。自分たち以外にこのタイミングで旧電波塔に現れる存在。それをただの一般人だと決めつけるようなおめでたい思考を彼女は持ち合わせていない。
やがて現れたのは夕焼けを背にして佇む大柄で屈強な男の姿。吉松は立ち塞がるように立つ、かつて愛した男より伸びる影を踏み自分の命運が尽きたことを知る。
「──ミカ」
「──シンジ、そいつが千束を襲った女か」
彼自身、抑えきれぬ怒りが溢れたのか、声には常ならぬドス黒い感情が垣間見えた。主、いや自分に突き刺さった敵意から姫蒲はミカを主に仇なすものと認識。
肩を貸していた吉松を静かに下ろすと手にしていたナイフを片手に体を引きずってミカへ飛び掛かる。首、頸動脈を狙うナイフの軌道。だが、これまでの痛手の影響ゆえナイフの動きは余りに緩慢でミカは余裕を以て杖で凶器を弾き飛ばした。
七夜黄理より受けた痛打が今も姫蒲を内側から徐々に壊し続けている。立って歩いていることさえ驚愕だというのに戦意は薄れることなく、彼女は勝ち目がないと理解しながらもミカへと立ち向かう。
しかし、ミカの反撃は何者より早かった。組み付こうとする姫蒲のダッキングに対し、ミカは冷静なまま“両足で踏ん張りを効かせ”姫蒲の脇腹を砕くように杖を叩きつける。姫蒲の体から鈍い打擲音が鳴る。
転がっていった姫蒲は吐血して尚、ミカを恐ろしい眼で凝視し、無理を押して立ち上がろうとする。心も、肉体も屈していない。
ミカは打ち棄てた杖を拾う素振りも見せず、両足で地に足を付けショットガンを構える。長らく引いていなかった引き金は思いのほか軽く、イヤになるほど手に馴染んでいた。ショットガンに装填されているのは千束のものと同じ非殺傷弾。
赤い粉塵が弾着の衝撃で広がり、姫蒲が手すりに激突する。
それでもミカは手を止めようとしなかった。非殺傷弾は幾度となく、彼女が意識を失うまで発砲された。
“幾度となく”、だ。
吉松にとって、それは在り得ないことだった。足に大きなハンデを抱えたミカが、杖や支えもなくショットガンを連発できるなど。
いくら信じられなくても、眼前にある事実は決して変わらない。ミカは杖をつくことなく両足でしかと立ち尽くしていた。
「お前、足は……」
「戦士は全てを明かさぬものだ。愛する者には特にな」
吉松は力の抜けた声で笑ってしまう。
「お前は嘘ばっかりだな」
「……全て、千束のためだ。そうだろう、シンジ」
積み重ねた嘘と時間。それはただ傷つけるためではなく、千束を、自分たちの子供を守るために張り続けた大人としての矜持でもあった。
「──わたしは、わかってもらえなかったよ」
吉松は千束に以前与え、そして訣別の証に返されたチャームを取り出す。夕焼けを浴び、なお金色に輝く梟のチャーム。アラン機関とチルドレンを結び付けていた証が吉松の手にあるという事実、それは千束の出した結論を雄弁に語っていた。
「見ろ、返されてしまった。私はもう要らないみたいだ」
「そうじゃない。……私たちに千束が必要だったんだ」
「……盲点だったな、それは。導くのが私の、我々の役目だった所為か」
薄く笑う吉松にミカは内心の動揺を押し殺し、言葉を紡ぐ。
「シンジ、導いてくれるのは子供たちなんだ。私たちが知らない世界に。あの子たちの選択を、邪魔してはいけない」
「つまり、ここでお別れか」
ミカは拳銃を取り出し、
「──そこにあるんだろう?」
シンジの胸元にある痛々しい手術痕。クルミが掴んだ事実、シンジが千束のものと同系同型の人工心臓を手に入れたことと結び付ければ、いいやシンジがどれほど千束を愛しているかを思えば、答えは明白だ。
「千束は信じなかったぞ」
長い付き合いだったからこそ、愛し愛されたからこそ分かることもある。
「……シンジは嘘を言わない」
理想のために、才能のために、千束のために、命すら
「今更、嬉しくないな……」
疲れたように失笑する吉松へ向けられた拳銃。それを構えたミカの目に流れる悲哀があった。けれど、構える銃に一切の揺らぎはなく。
どれほど心を揺さぶられても積み上げられた戦士としての時間があらゆるミスを己に許さない。
「狂わされたな、お前も。あの子に」
「──そうだな」
悲嘆に揺らぐ呟きの後、一発の銃声が轟いた。
「──ッグ!」
金属が金属を弾く硬質な音が鳴った瞬間、ミカの手にあった拳銃はその背後からの銃弾によって弾き落とされた。まさかの展開に吉松のみならずミカも振り返って、何者の介入かと目を見張る。
赤い夕焼けの向こう側から、毅然とした足取りでミカたちの方へ人影が歩み寄る。現れたのは赤い制服の青年たちリリベルを引き連れた壮年の男、虎杖司令だった。彼は冷ややかな眼差しで首をしゃくると、配下のリリベルたちが姫蒲、そして吉松を拘束し、連れて行こうとする。
「回収しろ、彼らは全貌の不明なアラン機関に対する情報源であり、牽制のカードになり得る。それに、我々を此処までかき乱して、ただ死なれるだけでは採算が合わん」
無理やり立たされた吉松はリリベルたちに引きずられて連れていかれる。ミカは思わず吉松を渡すまいと手を伸ばしたが、その手を虎杖に取られた。
「虎杖さん──!ダメだ、シンジは此処で私が……千束のために」
「千束くんのことを思うなら、なおのこと君が手を汚すべきではない。ミカ君、君は錦木千束の“先生”なんだろう?ならば、彼女の選択に恥じる行為をするべきではない」
虎杖の言うことは正論であり、綺麗事であった。吉松シンジが移植してしまった人工心臓を摘出しなければ千束が死ぬ。愛した人を殺すまでの覚悟を決めたミカにとっては、多数のリリベルの妨害も、虎杖の存在も立ち止まる理由にはならない、はずだった。
「橙子が既に手を打っている」
「なっ────?」
「本来ならば、即刻DAの隔離施設に放り込みたいところだが、残念ながら吉松は病院に送っておいた。ついでにあの女エージェントもな。既に摘出の準備は整っているとのことだ」
「摘出?しかし、それでは……」
シンジを殺さないということは、まさか黄理くんの支援に来たエージェントの命を奪うことかと危惧するが、虎杖は穏やかに笑って誤解を解いた。
「この件でこれ以上、死者を出す気はない。何をするかは知らんが橙子らしい詐欺まがいの魂胆があるのだろう。吉松も、あのエージェントも命だけは助けるとも。それ以外の全てはDAの下で厳正に管理させてもらうが」
シンジと姫蒲を連れていったリリベルたちがいなくなる。残されたのは、杖も持たず両足で立つミカと夕焼けを物悲しそうに眺めている虎杖だけとなった。
どちらも口をつぐんでいたが、先んじて虎杖が話し始める。
「聞いてくれ、黄理のヤツめ。とうとう、リリベルの総長としての権限を使ったかと思えば、リコリスを助けるためだけに命令を出したのだ。嗚呼、あの幼くも冷酷な暗殺者はもういない。寂しいようで、何処か誇らしく感じている自分がいる」
「──ええ、分かります。子供の成長というのは、いつだって我々の予想を軽々と飛び越えていく」
「そうだな……ミカくん、君に感謝を。君が“錦木千束”を導き、育てたおかげで、“七夜黄理”は大いなる成長を遂げることができた。私や橙子だけではああはならなかったろう。だからこそ、君へ──」
「いいえ、違うのです」
ミカは恥じ入った様子で顔を覆う。
「全ては千束の選択があってこそのものだ。私の役割なんて、ちっぽけで大した助けにもならなかった。私は嘘ばかりついて──」
ミカが悔恨と懺悔の独白を零そうとしたとき、その唇を虎杖が塞いだ。突然のことに混乱するミカは、やがて、目を閉じて上げていた腕をそっと下ろす。
夕焼けだけが子供たちの成長を見守ってきた二人の重なる影を見つめていた。