日が沈みかけ、月が登ろうとしている。やがて夜が来る。
夕焼けは夕闇へ切り替わろうとしていた。
延空木を巡る戦いに残された時間も少ない。何より千束自身の残された時間ももう僅かしか残されてはいなかった。それを承知で彼女は悠長なことに真島との会話を続ける。
「みんな、自分の信じた良いことをしてる。それでいーじゃん」
「よくねぇ、自然なバランスってもんが──」
真島の真面目な話を聞くより先に千束がたまたま開けたジュースになんか感動していた。
「うぉ、やっべ。これめっちゃ旨い!ちょっと皆も呑んでみ!」
ぽいぽいと千束は缶を真島たちへ放り投げて渡した。俺も千束から缶を手渡されるが……敵方の二人には新品の缶を渡したくせに、俺のは千束が口付けたやつと来た。
「俺の分はお前の飲みさしかよ」
「文句あんの~?」
まぁ、そこまで喉が渇いていたわけでもない。別にどうでもいいかと、一口飲んでみる。喉を伝う冷たい感覚と舌に乗る素直な甘み。何故だか味はひどく甘ったるいのに、不思議と好ましく感じる。しかし、此処で旨いとかいうと千束が調子に乗る気がしたので黙って飲み干すことにした。
沈黙した俺の代わり、というわけではないが意見の一致は敵の少女が口にする。
「……あ、美味しい、です。このジュース」
「でっしょ~!」
「……ちょっと甘すぎねぇか?」
それを聞き、千束が心底楽しそうな笑い声をあげてピッと真島を指差す。
「世界を好みの形に変えてる間におじいさんになっちゃうぞ、っと」
千束が不意に立ち上がろうとしたので、先んじて腕に手を添え彼女が立つのを傍らで支える。立ち上がった千束は展望台から眼下に広がる東京の街並みを見渡す。
千束の双眸にはどこか羨みながらも、慈しむような真紅の輝きが瞬いていた。
「今のままでも好きなものはたっくさん。大きな街の動き出す前の静けさが好き。せんせいと作ったお店。コーヒーの匂い、お客さん、街の人、美味しいものと綺麗な場所、いつも支えてくれた仲間……」
そこで千束は一拍を置く。真島を含む俺たちは平凡な、それこそ退屈なものこそを
「一生懸命な友達、“好きな人”。それが私の
「ちっせぇな、てめぇ
「ありますよー。私を必要としてくれる人にできるだけのことをしてあげたい。そしたら、その人の記憶の中に私が残るかもしれないでしょ?……私がいなくなった後も」
「ックク、んでお前を必要とする最後の依頼人がオレってわけだ」
「そーね、それはホントくそったれ」
口汚くなった千束の横で黄理が“やれやれ”と首を振る仕草をする。黄理の年上ぶった仕草に口を尖らせた千束が脇を肘で突ついた。命を削る殺し合いの鉄火場らしからぬ和やかなやり取りに真島も薄く笑みを浮かべた。
自然と笑っていた真島は、ふと思いついたように口を開く。
「そういや、てめぇにゃ聞いておきたいことがあったんだ」
「なに、ジュースの好みとか?」
「ちげぇよ」
飲み切った缶を放り投げ、真島は千束と同じく東京の街並みを見下ろした。この瞬間だけは彼と彼女の見ているものは同一であり、思想だけがどこまでもかけ離れていたのだ。
「なんだって殺しをやらねぇんだ?」
「……みーんな、そこらへん聞きたがるよねぇ」
「気にもなるさ。普通なら、殺しちまう方が楽だろう。なのにてめぇは好き好んで面倒な、苦労ばっかの道を選びやがる。殺しておけば、苦労もせずに厄介なことにもならねぇだろ?……なのに、どうしてだ?お前はなんでそんな道を選ぶ。楽になりたいと、楽をしたいと思ったことはねぇのか?」
千束は真島の質問を聞き切ってから、黄理の方を見る。かつて、幼いころの黄理に同じことを尋ねられたと感慨にふけり、千束はその時と同じく笑って真っ向から問いをねじ伏せた。
「殺さない理由?簡単だよ、“私が楽をするため”」
「……はぁ?意味わかんねぇ、殺しをしねぇってハンデが楽だってのか?」
「ハンデとか、そーゆー考え方じゃなくってさぁ。別に自分が苦労してるなんて思ったことないよ。単に殺すって事の方が面倒なの。殺した人のことをどんだけ気にしないようにって気を付けても、その時点で気にしてるでしょ。いちいち、よく分かんない他人の命で悩んでる時間は私にとってもったいなくて、すっげー面倒くさい。それなら、最初から“殺し”って選択肢を自分の中から外しといたほうがいいじゃん」
そう、千束に告げられるまで七夜黄理ですら誤認していた事実。真島も同様の誤認をしていたことに黄理は喉を鳴らして笑い始める。ぽかん、と間の抜けた顔で千束の話を聞く真島を見て、愉快さは一層増すばかりだ。
悪戯っぽく千束は口角を上げてウィンクをする。
「だから殺さない。──だって、楽したいからね!」
快活な口上に、真島は二の句が継げなくなった。
ああ、なんて分かりやすくて、なんと明快で、気持ちのいいバカげた理由か。
わなわなと震えてから真島は爆笑のあまり腹を抱える。そう、真島は錦木千束を誰よりも険しい苦難と懊悩の道を自分で選んで歩んでいる女だと捉えていた。修行僧みたく、厳しく困難なことをやり遂げる原動力は、どれほど崇高で胡散臭い綺麗ごとかと思っていたが予想は軽々と超えられた。
誰よりも苦労して戦ってると思っていた人間が、まさか誰よりも楽をして戦っていたとは──。
「おいおい、“殺さず”なんて御大層な流儀をやってる理由が、“楽したい”だぁ?アッハハハハ!!そんな俗な理由とかマジで笑えるわ。おまえ、サイッコーだよ」
「これに関しては……わたしも真島さんと同じ意見です」
「みーんな、これ聞いたら笑い出すんだよなぁ。なーにが面白いんだか」
「千束は面白い女だからな」
「その言い方はわたし面白くないんですけど~~」
「真正のバカ野郎だな、テメェ」
「頭だけじゃなくて目も悪いみたいだね、野郎じゃなくてレディだよ!」
「抜かせ、もちっと歳食ってから出直しやがれ」
お互いに悪態を交わした後、おもむろに真島はリボルバーを取り出す。言葉は尽くした。あとは暴力によっての決着となる。果たして勝利の女神、時の運はどちらに味方するか。やってみないことには分からないが……。
「日本のバランスを取り戻すヤツと現状維持するヤツ。──正義のヒーローは果たしてどっちだ?」
「ビルから落ちなかった方じゃない?」
「ヒーローがどっちとかに興味は持てないが、これ以上ビルから落ちるのは勘弁だな」
互いに銃を構え合う。今ようやく長い一日の陽が暮れる。引き金を引き、武器が振るわれて戦闘が再開。連射の発砲音とガラスやモノが壊れる雑音が夜空へと消えていく。
落ちてくるガラス片や薬莢により、事態がまだ終わっていないことを察した少女、たきなは足へ喝を入れて足早に階段を駆け上がっていく。
上から降ってくる音の濁流とガラス片をかき分けて階段をただ上る。千束たちと共に帰り、日常を生きていくために。彼女は前を向いてひた走る。
たきなの菫色の瞳には決意の灯が力強く光を放っていた。