孵化逆
夢を見る、遠き彼方に過ぎ去った過去の疵痕を。
夢を見る、七夜黄理の最期の瞬間を。
夢に見る。
七夜の森で出会ったあの赤き鬼神との死合いを。
夢の中で七歳の矮躯を起き上がらせる。
ぼんやりと目覚めた場所は、あの時の七夜の森だった。
それゆえ此処が夢の舞台だと即座に気づく。
虫の囀りさえない無音の夜。夜闇がべったりと周辺に貼り付いている。真っ暗な世界を照らすのは蒼く不確かな月明かり。雲がかかってしまえば、あっという間に闇に染まってしまうほど弱々しい月光だけが七歳の黄理の道標だった。
月の光を背負って七歳の矮躯は夜の森を粛々と進む。
しばらくして静寂を砕く破壊音と肌を焼くような殺意の奔流が、幼い姿の黄理をかつての末路に妖々と誘う。
小さな足取りがようやく辿り着いた場所は、死が荒れ狂う鉄火場だった。
殺意が爆ぜる、木々を薙ぎ倒して独眼の鬼神が闇に紛れる影を襲う。蜘蛛のように駆ける影は赤い鬼神を恐れるように、だが確実に殺さんと決死の急襲を試みる。攻撃は面白いように鬼神を打ち付けるが、あれは魔の最高位“紅赤朱”。人間の殺傷を想定した攻撃で、ヤツの表皮は穿てない。
殺すということを探求し、それのみを極めようとしてきた七夜の最高傑作も“あれ”は手に負えない。
あれこそ破壊の究極だ。
全ての形あるモノ、終わりあるモノを粉々に砕く破壊の宿業を背負って生まれた怪物である。あれを殺すとしたら、人の頸木を打ち壊さなくてはならない。あれは人間の技巧、常識の範疇では殺しきれない。
あれに終止符を刻めるとしたら、それは同系統の極点であらねばならない。
全ての形あるものを終わらせ、終わりあるものを終わらせるような業の極みになくては破壊の究極に届かない。“破壊の究極”に比肩する“死の究極”に至ることが必要となる。
殺人という業でも、まだぬるい。人も、時間も、空間も、形あるものは当然のこと、形無きものであろうと殺せなくては死の究極とは言い表せない。
やがて、小さな黄理はかつての自分、大人の黄理が最期に敵手の首を穿つ瞬間を見ようと死の嵐の暴風圏内に踏み込んだ。次の瞬間には七歳の矮躯など血煙と化す絶命域をてくてく、と何事もないように歩いて行く。
紅赤朱と七夜黄理の人影が重なり合う。
そして赤い鬼神の鋼の皮膚を貫こうとする蜘蛛の一撃が放たれようとしたところで、世界に亀裂が入った。ステンドグラスを床に叩きつけたみたいな、細かく乱れきった
途端、暴威を振るっていた独眼の魔は砂塵に撒かれるように掻き消えた。
七歳の黄理に焦点を合わせた最期の晩の七夜黄理は突き放すように戯れ言を零す。
『他人の空似だ。自分と他人の見分けもつかんのか。よく視ろ、餓鬼が』
「……夢見が悪い」
とても重苦しい夢を見た。夢を見る質でもないのに鮮明に浮かんだ悪夢。
あまりのろくでもなさに耐えられず自身を強制的に叩き起こしたみたいだ。
既に内容が薄れつつあるが、不快感だけが残留してしまっている。
どうして不快なのかという理由が分からない分、よりたちが悪い。
寮のベッドから不機嫌そうに身を起こした黄理は、洗面台で顔を洗い意識を切り替える。濡れた顔を拭こうとタオルを探そうとして、同室の年上のリリベルがそっとタオルを差し出してきた。
「ありがとう、でもそこまで気遣われるような大したヤツじゃないぞ、俺は」
「総長は非常時、私たちリリベルの全指揮を担う方です。この程度はどうかご容赦を」
「……そうか、じゃあありがたく甘えさせてもらう」
気づいたら、かつてと同じように多くの者たちが己へ傅く現状に陥っている。七夜の頭領となったのは、上の兄も下の妹も頭領を担うには問題があったから引き受けた。だが、リリベルの総長に関しては俺より優れた指揮能力を持つ人間がいるはずだ。
虎杖司令の茶目っ気で、ただの暗殺者でしかない俺には過ぎた役を押しつけられた。
部屋を出て、より一層それを実感する。顔、名前も知らない多くのリリベルたちは俺を見るやいなや、即座に背筋を正しすみやかに礼をしてくる。
一介の暗殺者には過分な礼だと思うが、一礼をした後にこちらを尊敬の眼差しで見てくるゆえにどうも拒絶しにくい。自分を嫌っていた者たちもいたことにはいたが、何故か任務を終えてから特に覚えのない謝罪をして嫌悪の態度を一転させる。
今では多くの者が“総長”と好意と敬意の思念を漂わせて呼んでくる始末だ。
七歳の餓鬼には、過剰なほどの尊敬が集められている。
こう、上手く言えないが居心地が悪いように感じてしまう。
果たして、俺という存在は彼らの感情の色彩に見合う価値を持っているのだろうか?
今ほど浄眼の存在を疎ましく思ったことはない。
俺自身は人に好かれるようなことを何もしていなかったはずだ。俺は暗殺者として変わらずに在るだけ。そんな殺人者が何故、好意や敬意を抱かれるのか、俺はそれが本当に不思議でならない。
殺しの上手い下手が何の役に立つというのだ。
何も残さず、何も為さない無用の長物だろうに。
堂々巡りの思考が黄理の脳内を錯綜している。以前、模擬戦をした白金の少女との会話や、京都で出会った懐かしい顔つきの少女と組んだ共同戦線から、日が経つに連れて俺という存在が歪み、軋んでいくのを自覚する。
変わらずにあろうとしているだけなのに、それに耐えかねて自分の中の形容できないナニカが歪んでいく。変わらないとする自分に罅が入っていく気分だ。何故だろう、変化しないということはあらゆる他の干渉を受けないはずなのに、こうして俺は経年劣化で悲鳴をあげる機械のように歪み、壊れていく。
不思議とそれは恐れも、違和感も感じさせない感覚と同期していた。
これは良いことの先触れか、はたまた凶事の前兆か。
『七夜総長、緊急事態発生につき作戦司令部へ招集命令が発令。至急、作戦司令部へお越しください。繰り返します──』
「凶事の方だったかな?」
館内放送はけたたましく、俺の名前をうんざりするほどに呼びつける。緊急事態、それも虎杖司令の司令室に行ってからではなく、直接作戦司令室へ呼びつける急ぎよう。切羽詰まっているのは確からしい。
作戦司令部は蜂の巣をつついたような喧噪の只中にあった。誰も彼もが事態の解決に向けてできること、もしくはそれ以上のことを懸命に務めている。
ただ、こうして懸命に動く人たちの働きは、全てが殺人に寄与する行いだ。いくら治安維持や国家安寧というお題目を並べても、事の本質というやつはそう簡単には覆らない。何より、こんな殺人者が呼ばれた以上、殺しの仕事が来るのは当然と言えば当然か。
司令部の中央に座る虎杖司令は、俺の姿を視認すると不敵に笑いながら振り返ってくる。
待ちくたびれたと言わんばかりに。
「来たか」
「そりゃ、呼ばれましたから。でも、今日の慌ただしさは異常ですね。なんですか、国会議事堂に戦闘機でも落っこちましたか?」
「それよりも最悪だ。打つべき一手を誤れば、この国が焼け野原に変わる」
「じゃあ、俺のやることは火事場泥棒の始末で?」
「火事を未然に防ぐのさ」
虎杖司令はにやりとあくどい顔つきでモニターを見据える。
モニターには、首都のシンボルである電波塔が映し出されていた。画面端の日付や時刻から見て、ドローンは今現在の状況を観測しているのだろう。電波塔からは多くの人々が警察に誘導されて脱出している光景が見える。
モニターの中に見慣れたベージュの制服の人影も幾つか確認した。リコリスがいながらここまで大々的に事件へ発展するとは驚きだ。国会議事堂、皇居、都庁に東京駅、首都主要施設には治安維持のためリコリスが密やかに警護に当たっている。
都市迷彩である制服を身に纏い、秩序に紛れ込んだ暗殺者たち。
それらの妨害をはね除けた時点で、テロリストたちも相当やっかいな敵だと分かる。
「電波塔を多数のテロリストが占拠。銃はもちろん、爆薬まで装備して準備は万端らしい。おまけに奴ら、とんだ隠し玉を用意しているようだ。七夜、すぐに現地へ飛んで事態の収拾に当たってもらおう。現地に君の相棒となる者が到着次第、行動開始だ」
「相棒?リリベルから人手を出すんですか?」
いいや、と虎杖は首を横に振った。
「この事件はこれまでの意思決定では対処できない可能性があると提言があった。上層部は今回の事件において少数精鋭による短期決着を望んでいる。投入人員は二名。
ただの足手まといなら七夜の邪魔になると突っぱねたろうが、リコリスから出された人員は七夜に互する逸材。これでは文句の付けようもないと上層部の粋な計らいに虎杖は口を尖らせた。
「よもや、あの模擬戦の彼女と現場で邂逅することになるとは。……最強のリコリス、“錦木千束”。……それも今回は肩を並べる相棒として巡り会う、か。因縁だな、七夜」
「千束が、相棒?」
虎杖司令の話を切欠に錦木千束の姿が思い起こされていく。柔軟かつ、しなやかゆえに高い剛性を秘めた小柄な体躯。日だまりのように温かく溌剌と笑う、以前は敵として銃火を交えた相手。黄理が持ち得なかった答えを既に見出していた陽光のような少女。
彼女のことを思い出そうとすると、七夜の森で朽ちていくことを選んだ息子が脳裏に浮かんで、すぐさま消える。
泡沫の夢のように薄れ去ってかき消えた。
殺しに卓越した適正を示しながら、それを使わぬ事を選択した者たち。
七夜黄理の息子なら、錦木千束なら、俺とは違う選択を選べるのだろうか。
もし、七夜黄理と異なる選択をしたのなら、その選択は誰かに誇りたくなるようなすごいものに違いない。俺には選べなかった選択と決意を守りたい。
殺人者には過ぎた願いだと思うが、それを間近で見届けたいと今の俺は願っている。
でも……俺も、まだ
「精一杯やるしかないか」
「──ふむ、お前がそのような気負いをするとは珍しいな」
「気が抜けているよりはマシでしょう」
「君らしくないが、まぁいい。寮の外に車を回した、現場までは送らせよう。事件の詳細な情報も車に置いてある。それと、以前に要望のあった追加装備も車の中だ。途中で確認するといい」
「了解。それじゃあ、いってきます。虎杖司令」
黄理の去り際の言葉を聞いて、椅子に座っていた虎杖は驚きのあまり目を点にした。無機質な殺意の結晶のようだった子供が、それこそただの子供のようなセリフを口にして駆けていく。虎杖はあっけにとられた表情で小さく笑った。
「いってきます、か。……変わっていくものだな、子供というやつは」
寮を出ると、そこには普通の乗用車が停められていた。運転手のリリベルはルームメイトの青年で、わざわざドアを開けるためだけに車から降りようとするがそれを制止してさっさと車に乗り込んだ。
後部座席には事件概要の書類がクリアファイルに入っている。事件の概要をサラッと確認するが、小難しい話でどうも読み切る気力が湧かない。どうにか最後まで読み進めた後は、そっと後ろの方に放り投げた。
そして書類の置かれていた場所の横には大きなアタッシュケースが置かれている。
以前、あれば便利程度に言っていた追加装備が完成したらしい。
いや、追加装備といっても巻き取りの出来る
開いた箱の中には緩衝材に詰められた奇妙な形状の銃と、専用と見受けられる予備カートリッジ。あと七夜の二文字と
文鎮らしきものは別にいい、たぶんこれが仕込みナイフだろうから。
余分な文字やエンブレムの彫り込みが気にはなるが使うのにさして支障はないから気にしないことにしよう。軽く重心を確かめるために持ってみると、握り心地にしろ、重心の位置にせよしっくり来る。底部に触れてから軽く振るとパチンと刃が飛び出す。
なるほど、“これ”は要望どおりだ。
けどワイヤ-は、どこいった?
箱をもう一度よく探ると説明書らしいものが出てくる。いわくDA技術開発部門の最高傑作。この銃っぽい見た目のものは、
拘束した獲物を接近させるために、成人男性二人分の重量は巻き取れる高性能小型巻き取り機も内蔵されているのだとか。
なんだか本来の要望がおまけみたいに扱われている気がしないでもないが、この際ナイフだけは余分な機能がないことを喜ぶべきだ。
刃部が火薬で飛び出し射出できるなんて言われていたなら、そこらのホームセンターで適当な刃物を用意しているところだ。
仕込みナイフ、そして鋼線銃及び予備カートリッジを付属していた腰部ホルスターに収納。
両袖に仕込んである棍の位置はそのままに、胸元のホルスターに入れられたベレッタの弾薬を再度確認した。
予備の弾倉はあることにはあるが、やはり俺には銃より近接武装の方が性に合っている。もちろん銃も使う時は使うが、やはり扱い慣れた得物に軍配が上がる。
鞄は邪魔なので寮に置いてきた。手持ちの弾薬だって常日頃から使っていないのだ。
鞄の予備弾薬なんて、余るに決まっている。
機動性の邪魔になる以上、持ってくる必要性を感じない。
武装確認はこれで全て済んだ。元より身軽であることに重きを置く暗殺者。手持ちの装備がごちゃつくのは不本意だが、今回の事件でどれが不要で必要かを確かめるとしよう。
装備の確認が終わると、電波塔に着くまで空きの時間が出来てしまった。元より饒舌な人間ではない。運転手のリリベルもそれを察して沈黙したまま電波塔に車を走らせる。
なんとなく車窓から、首都の支柱のようにそびえ立つ電波塔を見やる。
近代国家、日本の技術的な
平和で安全、素晴らしき東京。日本人は規範意識が高く、親切で穏やか、法治国家日本の首都、東京には今日も明日も、これまでと変わらない安寧が続く。
社会を乱す敵性存在は許容されず、存在していた事実さえ残してはならない。
殺し殺して、平和を保ち続け、全ての危険は最初から無かったことになる。
退魔の仕事をしていたときから、何も俺は変わっていない。
結局、殺すだけが能の殺人者だ。
気がつくと、以前と同じような選択肢の輪に閉じ込められている。七夜の頭領も、リリベルの総長も、暗殺者としての在り方さえも決まっていたかのように同じところに納まっていた。ぐるぐるとかつてと変わらぬ円環の中、閉ざされた袋小路に入り込んでいる。
既視感さえ感じさせる暗闇の円環。
そんな中でも、燦然と輝きを放つ存在に出会えたことは殺人者には相応しくないほどの幸運だ。その幸運と巡り合わせてくれたこの街を、一介の暗殺者が守れるというのなら身命を尽くすとしよう。
“リリベルの使命ね”、内心でバカにしていたフレーズを思い出す。
そんな綺麗事のために、命を張る瞬間が来るなんて思いもしなかった。
これは確かに馬鹿馬鹿しい、けど……素敵な選択だ。
「まったく、人生ってのは上手く回るもんだな」