第四章“錦木千束、七夜黄理”暗殺計画。
本編前、最後の寄り道となります。
短くしようとは思いますが、今月が忙しいため本編開始は今しばらくお待ちください。それでは第四章、始まり始まり。
日常は微睡みに似て
東京、日本の首都であるこの街は自分のような田舎者からすれば、とてつもなく奇妙な場所だと感じた。地面をわざわざ草木も生えないアスファルトで覆って、遠近感が狂うほどに高い高層ビル群が軒を連ねている。街が四季によって様々な宣伝や飾り付けを行うのは、見ていて面白くはあるが目まぐるしい。
無機質なくせに人間の生活に反映されて変化し続ける様は、機械仕掛けの生物のようだ。
本当に都会とは不思議なものだと考えながら、少年はひっそりと街の中へと埋没する。
東京で過ごして、もう十年以上を越えているが東京の変化と突拍子も無さは未だに慣れない。
特にハロウィンのときなんて、ひどいもんだったと先月ようやく十五歳になった七夜黄理は街並みを呆然と見つめる。15歳になって初めてのハロウィンの夜、渋谷で起こった事件では滅多に驚かない黄理も唖然とするほどだった。
騒々しくも退屈はしない日常と非日常の二重螺旋。
ああ、今の自分は、かつての自分と比べて変わったのだろうか?
折に触れ、事あるごとに考えてしまう常態化した意味のない疑問。
……いや、考えても明確な答えがない迷いに時間を費やすのは、千束ではないが“もったいない”と思う。今は目的地まで寄り道をしないのが吉と見た。
少年と青年の狭間にいる彼は、かつて暗殺者を辞してからの七夜の森での生活を思い返す。
特別な刺激はなく、何も変わる必要がなかった七夜の森での生活。
退屈ではあれ、他者を脅かすことのない平凡な日々。
自分の分身かと錯覚するほどに似ていたせがれの顔を思い出しかけ、思考をばっさりと切る。それから、今の生活だって上々なものだと考え直した黄理は目的地のある錦糸町へと足を伸ばす。
錦糸町駅北口を通り過ぎてから、ふと彼は上を見上げた。
遠く離れた景色にはワイヤーに繋がれ、壊れた時のまま縛り付けられたみたいに
旧電波塔は、八年前から依然として東京の景観の中に存在し続けている。
単純に撤去にかかる費用を政治家が捻出したがらないことだったり、諸外国からテロに屈しなかった日本という国のシンボルなどとおだてられ、今もなお旧電波塔は当時の姿を維持している。
「あれからもう八年か。……ガキに物覚えがついて、一人旅ができるくらいには十分な年月が過ぎたろうに」
八年、一口にいうと無味乾燥としていて、本当にそんなに時間が過ぎたのかを疑ってしまう。
けれど、自分の部屋に置かれた雑貨や押しつけられたDVD、興味の無い今時の服や流行の小説などが黄理に年月の経過を教えていた。そして来店するごとに変わっていく喫茶リコリコは、一瞬一秒という過ぎ去る日々を大切にしている彼女によく似て、行ってみるだけでも“面白い”。
木造建築でありながら、ステンドグラスなどがあるモダンなデザインをした喫茶リコリコ。かつて、史上最強のリリベルと呼ばれた少年は、ポケットから手を出して、リコリコの扉をそっと開いた。
中に入ると、リコリコの看板娘こと千束がお座敷で何かをしているのが最初に目に飛び込んできた。黄理が来店した瞬間、彼女はテーブルの片付けられたお座敷席で、思い切り体を反らして抱えていた人形を畳へと落としていた。
見惚れてしまうほどの綺麗なジャーマンスープレックス。
目を擦って、もう一度お座敷席を見つめる。
いや、なんでジャーマンスープレックス?
「やっほー黄理。いらっしゃ~い。ん?どしたどした?」
あまりの驚きで立ち止まってしまっていたが、千束の声でようやく意識が再起動を果たす。
上下逆転したままの千束が呑気に挨拶をしてくるが黄理としては何がどうなっているのか分からない。
「どうしたも、こうしたも、何やってるんだ千束?」
「ふっふん聞いて驚け、これでも仕事してるんじゃい」
「新メニューにジャーマンスープレックスでも採用したのか」
そういうと黄理はカウンターでコーヒーを淹れている店長、ミカへと訝しげな視線を送る。物言いたげな彼の目線を受けたミカは、苦笑するのみだ。客側のカウンターには、ミズキというもう一人の店員がいるがカウンターに突っ伏して微動だにしない。
あれは、もう少ししてからでないと動き出さないな、と慣れてしまった黄理はカウンターに腰掛けた。お座敷を見てみると、給仕用の和服のままジャーマンスープレックスをした千束を熱心にカメラで撮っている常連、漫画家の伊藤さんがいるのを見て、経緯をおおよそ理解する。
「なるほど。伊藤さんの仕事の手伝いか」
「あっ、ごめんね黄理くん。どうしても必要な参考資料の撮影で千束ちゃん借りてるよ~」
「いえ、別にミカさんへ直接、注文するから問題ないですけど」
「借りてるって、コラコラ。私の所有権が私の手元から離れてることを問題視せい」
伊藤さんの物言いに呆れて、黄理はブレンドを注文した。ミカは珍しく黄理が緑茶ではなくブレンドを注文したことに目を瞠る。少し驚きはしたが腕によりをかけて淹れられたコーヒーの香りで、ようやくカウンターに突っ伏したミズキが錆び付いたパイプ椅子みたいに鈍い動作で体を起こす。
「あ゛ぁぁ、いらっしゃい~」
「どうもミズキさん、酒やけで声すごいですよ。声帯をアルコールに浸してでもいたんですか?ほどほどにしないと体に毒、って言うのはもう遅いか」
既に毒は巡りに巡って、彼女の体から活力とかやる気を奪ってしまっている。
呆れた黄理の視線に対して、ミズキの反論はこうだ。
「うっさいわね。酒は百薬の長っていうの知らないかしら?」
「その台詞を出すなら、“されど万病の元”の続きまで言ってください」
ミカは黄理にコーヒーを出し、ミズキへ水の入ったコップを押しつけた。水を一気に飲み干したミズキは、そのままカウンターで唸っている。此処まで悪酔いしているのは珍しいが、黄理は後ろで伊藤さんと話をしている千束をコーヒー片手に見物する。
そんな黄理の視線に気づいた千束は乱れた髪の毛を両手で隠そうとしている。頭部をお座敷に当てたことで、彼女のトレードマークのような赤いリボンがほどけていた。
「ちょ、あっち向いてて!髪の毛がぼさぼさして恥ずいんだから」
「ジャーマンスープレックスしてるのを見られる方が恥ずかしいと思うけど?」
「だぁぁ!乙女心というのを勉強しろ朴念仁め!」
「乙女がしそうにない所作をしておいて、その台詞はないだろ」
黄理に吠えかかった千束は颯爽と赤の給仕服を翻して、店の裏手に引っ込んでしまった。おそらく、髪の毛を整えるためなのだろうけど、こうなると店側にいるのは酒の抜けきっていないミズキと、足の不自由なミカさんだけがフロアを管理することになる。
今、店にいる客は漫画家の伊藤さんと赤い学生服の七夜黄理だけ。
忙しい時間帯でなくて良かったと思いながら黄理はコーヒーに口を付けた。温かく、体に染み渡るような味わい。初めての頃とは雲泥の差だ。よく考えるとコーヒーの味こそ、この店で最も変わった部分かもしれない。
だが、昔から変わっていないことが一つある。
黄理はミカを見て、ぼんやりと“いつまで足の不自由なフリをしているのだろう”と考え込む。七夜黄理は人体解体の
杖をついて店を切り盛りするのは、大変だろうになんでそんなことをしているのかずっと疑問には感じていた。けど、ミカさんが何も言わない以上、無口な黄理が質問をすることはない。
敢えて不便なことに身をやつすのも個人の自由。
殊更に言及するまでのことではない。
やがて、ドタバタという足音を鳴らし更衣室の姿見で髪の毛を整えてきた千束がフロアに帰還する。薄く黄色がかった白髪、色素の薄いプラチナブロンドとワンポイントの赤いリボンを見せつけるように千束が胸を張って芝居がかったポーズを取る。
「見よ、これぞパーフェクト千束さんだっ!」
「別に普段通りの格好だけど?」
髪の毛は整えられ、和服はピシッと綺麗に着こなされている。だが、その姿はいつもの見慣れた錦木千束だ。パーフェクトなんて枕詞を冠するほどでもないと思うのだが、伊藤さんはノリよく拍手をして、千束はまんざらでも無さそうにしている。
「美味しいです、ミカさん。やっぱりブレンドが一番良い味を出してますね」
「ふむ、そうかな?ブレンドは注文が多い分、良く淹れているから上達の具合が分かりにくい。でも、そういってもらえて嬉しいよ。気が向いたら、アメリカンやウィンナーコーヒーも試してみてくれ」
華麗にスルーされ、ミカと茶飲み話をしようとしている黄理に千束が口を尖らせる。
「うぉい、私の方にも反応しろってーの!」
「俺にどんな反応を求めているんだ、まったく」
「うっさい!二日酔いに響くでしょーが!あたた──」
それは完全に自業自得、というか酒を抜いてからフロアに立てよ、と千束は冷めた視線をミズキに向ける。黄理はコーヒーに舌鼓を打ち、のほほんと脱力している。ひなたぼっこでもしてる猫みたいな少年の姿を見て、千束は彼の横に座る。
気を抜いて、日の光に照らされている黄理の姿を千束は幸せそうに見つめていた。穏やかで熱っぽく、焦がれるような瞳の揺らめきは彼女が七夜黄理という少年に特別な思い入れをしているのが分かる。
気づいていないのは視線を向けられている
黄理に並々ならぬ感情を抱きながらもそれを言葉にしない千束。千束をいつも目で追っているのに指摘しても、その感情が何なのかを理解してない黄理。
そんな二人のくすぐったくもあり、じれったく感じる独特の距離感。互いに相手を心の深いところまで許容しているのにも関わらず、決定的な結びつきまでは及んでいない関係性。当人たちからすれば、ぬるま湯のように心地よい微妙な関係に落ち着いているのだろう。
しかし、見せられている側はやきもきして仕方ない。
ミズキは二日酔いで痛む頭を抱えて、二人を睨み付ける。
「ったく、じれったいわね~。もういっそ、どっちでもいいからガバッと行きなさいよ。ガバッと」
「コラ、止めなさいミズキ。そう茶化すものじゃない」
「じれったいって何がです?というか、喫茶店に似つかわしくない擬音で何を勧めているんですか」
「あん?そりゃ当然、あんたと千束の、」
黄理の隣にいた千束が、彼の向こう側のカウンターに座るミズキに向け、“しぃ”と身ぶりを行い余計な発言を差し止める。
「ほんとっ、じれったいわね。あんたら」
半眼で千束のジェスチャーを聞き届けたミズキは、席を立って店員らしくレジの方に向かった。黄理はミズキの発言の趣旨を理解していないらしく、理解不能だと言いたげに首を傾げている。そんな黄理を視界に入れつつ、千束は本当に鈍い彼のことを愛おしそうに見ながら、気づいてくれない黄理の額を指で軽く
額を小突かれ、不服そうな黄理と機嫌良く彼と話をする千束の組み合わせ。
一連の流れを見て、リコリコの常連である伊藤は二人の少年少女の未だ恋仲ならぬ逢瀬を眺め、漫画でならどういう風に発展させたものかと考え込む。そして、何時も通り野暮なことはするまいと大人の矜持がそれを止めるのだ。
まぁ、一番の理由は恋愛漫画は自分の専門とするジャンルではないということなのだが。
喫茶リコリコ。歓楽街としての側面が名高い錦糸町において珍しい、のんびりとリラックスできるタイプの喫茶店。コーヒーの香りが店内に広がっており、内装やメニューは和洋折衷、店の一角には面白そうなボードゲームが山積みとなっている。
面白い物、取り入れたら楽しそうな物を雑多にかき集めたこの店は、訪れるだけで楽しい気持ちにしてくれるお気に入りの場所。また、そんな楽しげな店の雰囲気に負けず劣らずリコリコの店員もみんな、個性豊かだ。
どうして喫茶店を経営するに至ったのか謎な、黒い肌に和服を纏った大柄の男性、ミカこと店長。
酒や結婚の話でもちきりな残念美人のミズキは、さっぱりとした憎めない性格のせいか美人であっても鼻持ちならないという印象を抱かせない。
そして、看板娘の錦木千束。プラチナブロンドを靡かせ、輝かしいほどに生命力に満ちあふれた女子高校生。愛嬌に溢れ、物怖じせず店を訪れた全ての人を心の底から歓迎する姿は多くの人から好かれ、気軽に接することのできる理想の看板娘だ。
溌剌とした彼女は、そこにいるだけで雰囲気を良くしてくれる。
そして、今カウンターで千束ちゃんと仲むつまじく話し込んでいる男子高校生も店の一員とでも言えるような存在だ。“七夜黄理”、カウンターにある幼少期の千束と店長、そしてこの場には居ない常連である男性と共に笑う彼を含めた四人の写真から察するに、千束ちゃんとは子供の頃からの付き合いなのだろう。
体格からは男性的な力強さは感じさせず、しなやかな体躯をしている。赤い制服の上からでも分かる平均よりも細い肉体。病弱とは行かないがやや頼りなさげな印象。千束と同様の赤い制服を着ていることから、どうも同じ学校に行っているらしい。
制服に刻まれている校章は微妙に細部が異なるが、男女で違いでもあるのだろうか。
それはともかく。
僅かにクセのある黒髪と光の加減によって蒼みがかった黒に見える双眸は神秘的といえばいいのか、日本人のくせに日本人らしからぬ虹彩だった。プラチナブロンドで赤色の瞳をした千束ちゃんと似通っている。容姿は格好いいというより、あどけない?
街中を歩いていれば、世の女性の目を惹く顔だちなのだけど、もう少しだけしゃっきりしている方がいいと思うのは余計なお世話かもしれない。
「伊藤さん、そういえば参考資料なんて言ってましたけど、どんなシーンを想定してたんですか?」
「気になる?えっとね~、主人公の女の子が立ちはだかる屈強な武闘家をジャーマンスープレックスで倒す場面を描こうと思ったんだけど、いやどうしても実物の資料が欲しくてさ。千束ちゃんに相談したら、やってくれるって話になったのよ」
「横で話を聞いて、マジかよ安請け合いも大概にしろって言いたくなったけどね」
「そういうなよミズキ~。前に橙子さんの置いてったマネキンがあったおかげで、平穏無事に済んだわけだし!」
「……一つ聞くが、無かった場合あんた誰にジャーマンかますつもりだった?」
「えっとぉ。伊藤さんは写真撮るから除外でしょー。コーヒー淹れなきゃいけない先生も除外っと」
「まさか、お客さんに味のことを評価される以外でコーヒーを淹れていて良かったと思うことになるとはな」
「待てコラ。そうなると後は自動的に……」
「まぁ、だよね。そうだよね。消去法で残された被害者は一人しかいない。凶器はお座敷の畳で、考えられる動機は漫画を描くため。まっ被害者の実名は言わぬが花ということで」
「物騒なところに咲く花だ。気を付けた方が良いミズキさん。運勢が悪かったのなら、あそこで叩きつけられていたのは貴方だったかもしれない」
「呑気に言いやがって……黄理、あんた他人事だと思わないことね!千束だって隙があれば、あんたの腰にしがみついてそのまま──。いや、“好き”があるのは最初からかぁ~」
「だぁぁ!?それは洒落にならんぞミズキィ!」
「人にプロレス技をかける想定だって洒落じゃ利かんわ!」
追い掛ける千束と逃げ回るミズキ。店長が止めに入るまで面白いからもうちょっと眺めることにする。そこでふと、無表情のまま首を傾げる黄理くんの姿が視界のうちに入った。
「隙?俺ってそんなに無防備に見えます?」
「う~ん。この場合、あるのは千束ちゃんの方ね。でも黄理くんも大概にしとかないとダメだぞ。鈍感系なんて、今時流行らないから」
「これでも危機には敏感な方だと自負しているんですけど、ミカさんも俺は鈍感な方だと思います?」
急に話をふられた店長は、大人びた笑みで黄理くんの疑問に真摯に応じる。
「まぁ、そうだな。気の緩んでいる人間というものは鈍くなりがちだが、集中して周りの人や事柄を見れば、ちゃんと答えは出るものだ」
千束ちゃんの恋心に触れないまま話題を綺麗に纏め上げる。この手腕は、やはり年の功というべき見事なものだと感心する。だが、要領を得ない説明に黄理は首を傾げ、コーヒーを味わいながら先ほどの“自分の油断”と取れる行動について考え込んでいた。
しばらく考え込んでいた黄理くんのポケットからスマホの着信が鳴る。彼はスマホを取り出すと“橙子さんか”と呟いて席を立つ。蒼崎橙子、黄理くんのバイト先の店長で、なんでも芸術家と建築デザインの二足のわらじを履くリコリコの常連客。
くすんだ赤い髪に、琥珀色の瞳を持つ絶世の美女。絵になるといえばそうだが、あの女性の場合は漫画やイラストというより絵画という方がしっくり来る。
たまに中二階で、こけしとかビスクドール、ボトルシップなどを作っているのを見るに、細かな作業を好む芸術家肌なのだろう。たまにボドゲをやるときも、ノリ良く付き合ってくれるリコリコきっての“眼鏡美女”だ。
そんな雇い先の女性に呼び出されたらしい黄理くんはレジにブレンド代を置いて、足早に店を後にしようとする。だが、その前にはたと立ち止まって。
「ごちそうさま。……それじゃあ、また来るよ」
彼は律儀に言い放つと、微笑みながら颯爽と退場していった。
無愛想な黄理くんだが、ああやって笑うのを見るとやっぱり格好いいんだなという事実を実感させられる。私が学生だったなら、熱を上げていたかもしれない。実際、黄理くんの満面の笑みを見た千束ちゃんは、耳まで真っ赤に染まっていた。
「あんた、あれだけで茹で上がるとか、
「あー、聞こえない聞こえなーい!」
真っ赤な顔で耳を塞ぐ千束ちゃんとそれをからかうミズキさん、そして、それとなく二人を落ち着かせる店長。騒々しくはあれど、決して集中力に悪影響を与えない喧噪をBGMに、私はノートPCを開いてネームの書き直し作業に没頭するのだった。
殺風景な一室で黄理はそっと得物である棍を制服の袖から出して構える。自然体でだらりと下げられた両手の構えは逆手と順手、相対する獲物の想定外の動きに対応できるよう考えられた構えだ。けど、今回は敵の動きを想定する必要はない。
剥き出しのコンクリートが空間の大部分を埋め七体のマネキンが置かれた部屋。手入れがされていなければ、廃れて忘れ去られたブティックかと勘違いしそうな場所。此処は伽藍の堂の二階部分。蒼崎橙子お手製の防音処置がされた訓練用のスペース。
煙草をくわえた橙子は、手にストップウォッチを握っている。そして、彼女が目を細めたとき、黄理は僅かに前傾姿勢に入った。と言っても僅かな変化、ほんの少しだけ顎を引いた程度しか変わりはない。
しかし、七夜黄理という
「──行け」
橙子の凛とした冷たい合図。即座に応じるのは従順な赤い毛並みをした蒼眼の猟犬。橙子の持つストップウォッチのタイマーが回り出す。同時に黄理の中にあった
認識できる総てのものに
この瞬間、世界が落っこちて割れたのだと冗談交じりに言われれば納得しそうな情景。黄理は慣れたもので、この欠陥だらけの世界で全力の踏み込みを行い前方にある七体のマネキンに牙を剥いた。
距離は十メートルをゆうに超えるが、七夜黄理からすれば一息の間に詰められる。
目に見えない糸に牽引されたかと誤認するほど面妖な加速と移動。刹那、一体目のマネキンの懐に潜り込んだかと思うと、黄理は鎖骨の部分から心臓目掛けて棍を突き刺し次の獲物に向かう。二体目、三体目に向かって獲物である棍を投擲する。
尖った部分などない無骨な棍が、鉄板をも貫くほど研ぎ澄まされた
片方は左よりの眉間に、もう片方は右眼球部に刺さったかと思うと二体のマネキンは刺さった部分からぼろぼろと崩れて壊れていった。
寿命を迎えた器物のお終い。それはあまりにも不自然で奇怪な終焉だった。
流れるように腰から
離れた獲物を仕留めるなら優秀だが、やはり自分の場合は接近戦の方が手早く済ませられる。
七体目、最後の獲物。四体目から六体目のマネキンに銃弾が着弾するより早く、黄理は手元の
ギラリ、と眠っていた刃が光を反射して切断の喜びに猛る。
全脚力を最後の獲物に向かう推進力に使い、七体目の頭上に出現。頭頂部から下顎まで伸びる線にナイフを通す。羊羹よりも柔らかい感触でナイフはマネキンを切り裂き、そのままつい手癖で両肩、胸から腰、最後に膝から脛までをナイフでバラバラにして着地。
黄理が着地すると同時に、四体目から六体目が弾丸の衝撃を受け後方に倒れ込む。床へ倒れたマネキンたちは、どれも一発の銃弾で原型も判別付かないまでに崩れていた。見るも無惨な七体のマネキンたちを見下ろし、黄理は再びパチリと音を鳴らしてナイフの刃をしまった。
「しまった。最後のは余分だったな。もう少し無駄を
「まだ削れる余地があることが驚きだよ」
時間にして、およそ4秒フラット。
ストップウォッチの計測をそこで止めた橙子は、煙草の火を消して崩れ落ちたマネキンたちの死因鑑定を行う。どれも一撃の下にありえない末路を迎えた人形たちを眺め、事が終わればゴミのように打ち捨てる。
いや、事実として不燃ゴミなのだが、人間と似た形をしているだけに絵ヅラが恐ろしい。
「橙子さん、おっかない顔してますよ」
「優しい顔をする必要があったか?──あと黄理、人間と同等の強度に重量、弾力性を持つマネキンを毎度、此処まで微塵に刻むお前には言われたくないぞ」
「いや、人間相手にはしませんよ。こんなことすれば、人間は死んでしまうじゃないか」
「人間という生き物はね、可能性だけで恐怖できるんだ。
そして黄理は、しないと言うだけで実際にできるかについては何も言及していない。彼の不殺の信念は理解しているが、どうもちぐはぐ過ぎる。DAに引き渡せば始末されるのに、問答無用で捕獲したターゲットをリリベルに引き渡したり、殺していない相手でも手足の一、二本は欠けていることがあったりと。
生きていればどうでもいいやというほど敵対者、あるいは救出した者に対する無関心。
虎杖司令も、蒼崎橙子も薄々は感じていた。
錦木千束との出会いは黄理の暗殺者としての在り方を変えはした。
けど、命に対する彼の価値観は未だに変化していない。それが悲しいやら嬉しいやら。橙子は新しい煙草を加えると、“やはり今回も意味不明としかいえないな”と黄理の暗殺技能を評することにした。
「黄理、確かお前は極度に集中していると物質の脆い部分が見えるんだな?」
「見えてるっていうか、感じ取っているような、なんとなくそこにあるような」
「曖昧に過ぎる。もうちょっと上手い表現はできないのか」
「無いものをどう説明付けろと?……目には見えないけど、そこに確かにあるっていう風にしか説明できませんよ。こう、壊れやすい部分に線とか点があって、触れたらまずいことになるなとしか言い表せないといいますか」
「まずいと感じているのに触れるのかお前。しかし視覚ではなく知覚か。どうも感覚派の天才じみた説明だな。改まって説明を聞いてみても要領を得ないところなんて典型的だ」
「その、面目ない」
DAに要請された七夜黄理の特殊技能について詳細なレポートの提出。橙子は“黄理の物質を破壊、切断する技能については本人の高い資質による特異なもの”と前の書類をそのまま流用することに決めた。
「リコリス、リリベルにしても、なんというか時々、お前らのような変わり種が出てくる。銃弾を目で見て回避する観察眼の持ち主とか、鉄だろうと人体だろうとバターみたいにすっぱり切り捨てる奴とか。いや、というかお前のは異常だ。前者はどうにか科学や物理的に説明することができても、お前のそれはオカルトに足を突っ込んでいるぞ」
「そうですかね、別に好きな形に切れるわけではないし使い勝手は悪いと思いますけど」
「まぁ直接触れないと解体できなかったり、お前の意思で線や点の位置を変更できなかったりと法則性自体はあるようだが……それを差し引いてもお前の感覚はオカルト、超常的な事象に足を突っ込んでいるよ」
「橙子さんほどではないと思いますけど。何をどうすれば、DAからあそこまで怖がられることになるんですか?」
「言ったろ、人間は可能性で恐怖する生物だ。上層部はありもしない可能性で勝手に私を怖がっているだけさ」
「前に虎杖さんから、橙子さんは単独で“先進国の国防機能を電化製品のスイッチを切る感覚で落とせる”なんて物騒な話を聞きましたけど?」
「おいおい、ハリウッド映画の見過ぎか。大体、そんなことをして私に何の得がある?無意味なことには手を染めない主義なんだ。国家の破壊なんて非生産的な計画、今どきテロリストでも考えないさ」
無意味なことには手を染めない。
なら逆説的に意味が生じればやりかねないということで。
黄理はそこで働き者な想像力を休暇に出すことにした。考えても意味のないことにエネルギーを使うのはもったいない。そもそも眼前に立つ“人形遣い”と恐れ称えられる蒼崎橙子を敵にした場合、自分の勝ち目なぞ露ほどにもありはしないのだから。
勝負の舞台に上がるより先に悲惨な末路に送り込まれるのがオチだ。
敵に回してはいけない存在がこの世にはいる。
例えそれが錦木千束でも、リリベルの大隊規模戦力でも、リコリスの総員だろうと、蒼崎橙子は自分の敵対者を皆殺しにする。その絶対に鈍らない決意と判断力、そして“人心掌握”の技能を以てすれば、人命の数千から数万など数のうちにも入らない。
「俺のことをオカルトだとか非常識とかいうけど、橙子さんだって大概だ」
「お前の能力よりは、私の方が論理的説明はつくぞ」
「その論理、飛躍しすぎて地球上では使えないんじゃないか」
「お前も失礼な奴だな。大気圏内には収まってるさ」
「またそれはギリギリですね」
棍を回収し、ベレッタの弾薬も補充した黄理は四階の事務所があるフロアに移動した。四階、橙子が使うデスクの上には分厚い要望書と様々な仕事の見積もり、依頼書が山脈と化している。
橙子はこの中から黄理が行うことのできる仕事を見つけて彼に丸投げした。
黄理に押しつけられた仕事は興信所の案件。猫探しと浮気調査。なんというか、非常に牧歌的な仕事だ。てっきり橙子さんの受けた仕事だから、カルト集団の撲滅とか政治家のスキャンダルを追うマスコミの処分とかそんなものだと思ったのだが、考えていたより穏便な仕事に黄理はほっと一息をついた。
猫の写真、あとある男性の浮気調査先についての情報がある茶封筒を持って黄理は伽藍の堂を後にしようとする。だが、そこで眼鏡をかけた橙子さんが、“あっ”と思い出したかのような声で黄理を呼び止める。
「あっ、黄理。言い忘れてたわ。なんか、リコリス側にあんたの暗殺命令が出たらしいから、しばらくは身の回りを気を付けるようにね~」
「……それ、言い忘れていいレベルではないと思うけど……まぁ、言ってくれただけ御の字か。分かりました、じゃあしばらく気を付けて生活しますね」
“明日、雨降るよ”くらいの感覚で自分の暗殺指令が出ていることを知った黄理は、“じゃあ折りたたみ傘持っていきます”くらいのノリとテンションで猫探しと浮気調査に乗り出した。
重ねて宣言することではあるが作中、最強の人物は蒼崎橙子である。