“何はともあれ、挨拶をしてみよう”
迷ったまま立ちつくしていても、何も始まらない。ここは勇気を持って、前進しかない!
それに十メートル前まで来て、今更引き返すのも流石に格好悪い。
「ねぇ、君、ここで何してるの?道に迷っちゃった?それともデートの待ち合わせとか?」
初めて出会う同年代の少年に好奇心を隠せなくなった千束は、距離を一気に縮めてぼんやりとした彼の前にまで迫る。
「別に、そっちには関係な……いってこともないか」
少年は傍らに置いていた赤の制服に素早く袖を通して、同じく赤の制服を身につけた千束に相対する。少年は千束のような凄まじい洞察力がなくても、分かるほどに真っ直ぐな視線で彼女の瞳を真っ向から見つめてきた。
その強い意思のこもった目を見つめ合ってしまった千束は思わず、顔を赤らめそうになる。千束は赤面しそうになるが少し息を止め心を落ち着けようとする。赤い制服を着たということは、暗に自分が何者かを知らせるため。分かりにくい気遣いだったが、それでもその実直で律儀な性格は千束に好感を持たせるに足るものだった。
特に千束は常日頃から、裏で陰口ややっかみをコソコソ言われている分、こういうストレートな意思表示は非常に好ましいと思う性格になっている。他には文句も感謝も真っ向から言うフキ、司令という立場故、問答無用でこっちに真ん前から嫌みを言う楠木。
育て親である先生は、何故か千束を見るとき一緒に別なモノを見ているような気がするがそれはあまり嫌なモノではないので例外とする。いつか彼も真っ直ぐに自分だけを見てくれるような日がくるはずだと千束は確証もなく明るい未来を信じている。
こういった自分の意思を迂遠にせず、直截な物言いをしたりする真っ直ぐな姿勢の人間を千束は知らず知らずのうちに好んでいた。
「たぶん、私たちさ……お互いの名前を知ってると思うんだけど、やっぱりきちんと自分で名乗って挨拶しない?だって、名前も教えてもらってない同士でいきなり模擬戦とか正直、ないでしょ」
「──ないか?別段、困るようなことは無いと思うけど」
「あーるの~。ん、あれ、ないんだっけ。あるんだっけ?どっちなんだい!」
「いや、俺に聞かれても」
そこまで言って、ようやく彼はしょうがないという感じで自己紹介を始めた。
「同い年のファーストなんて、お互いそう多く心当たりがあるわけないと思うけど。お近づきの印ってことで……ファーストリリベル、七夜黄理だ。今年で七歳になった。七夜でも黄理でも好きなように呼んでくれ。どうぞ、よろしくお見知りおきを」
ニヒルな笑みと共に頭を恭しく下げる。それはまるで、大人が子供を相手にするような偉ぶった所作だった。しかし、同じくらい、いやなんなら背丈は自分の方が若干勝っていることから子供っぽいように見えて面白い。
「私、錦木千束でっす!君と同じファースト、あと今年、七歳になりました。私のことは千束って呼んで!……そんでもってよろしくね、黄理!」
そういうと、微笑みの花を咲かせた千束は噴水のふちに座り、横をぽんぽんと叩いて黄理を呼ぶ。黄理もまだ、やることがないためか、大人しく彼女の横に座った。
「黄理って今日の模擬戦で私と勝負するんでしょ。私のこと情報収集とかしなくていいのぉ?私、ファーストだし、すっごい強いんだぜ~。ちゃんと知っとかないと火傷するかもよ」
「情報収集って、たかが模擬戦だろ。死ぬわけじゃなし、そこまで過度に熱は入れられないな」
「あーそれは分かる。私も、ど~も朝からやる気が出なくてさ。それなのに、周りはリコリスの評価がー、とか面子がー、なんて別に私一人でどうこうするものじゃないでしょーよ!」
「へぇ、随分と心配性なお友達に恵まれたもんで」
「友達?ちゃうちゃう、これ言ってたのは、ただのルームメイトで腐れ縁なだけだしぃ」
「そういうのが友達じゃないのか。まぁ、違うって言うなら首は突っ込まないけど」
七夜黄理は呆然とした感情の薄い少年で、話しかけても目に見える反応は中々少ない。それでも千束は初めて出会った少年へ楽しそうに話しかけている。
「黄理はさ、どうしてこの噴水のところにいたの?うちの名物だから見に来たとか?」
「……別に。うちの司令に模擬戦開始までは自由にしていろって、右も左も分からない場所に放り出されてね。仕方ないんで、適当に居心地のいいところ探していたら、たまたまここに流れ着いただけさ」
「流れ着いたって漂流者かよ~。えっと、リリベルの司令ってもしかして適当なの?リリベルの作戦とか大丈夫?根性論でなんとかしろー、なんて無茶振りされてない?」
「リリベルを知っているのか、ってファーストだから当然か」
もち!とピースサインを出してくる千束に、ようやく黄理は少しだけ、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「そういえば、聞いたよ~。黄理、初めての任務で七十七人を倒したって。殺しはやり過ぎで私的には、ちょっち素直にすげーとか言いにくいけど。もしかして、七十七って狙った?七夜って名前に合わせたとか~?」
殺しに否定的な部分に黄理は少し、首を傾げるが千束の質問に真摯な返答を送る。
「そんなアホな話があるか。単に出てくるヤツらをこつこつやっていたら偶々、その数に落ち着いただけさ」
「言うね~。自信満々じゃん。でも、どうして一人でそんなことしちゃったわけ?仲間を守ろうとしてとか?それとも現場でなんかあった?」
「ん、いや……その、なんていうか……」
ここに来て、ようやく七夜黄理の表情に変化が見える。どこか、恥ずかしがっているような、下らないと思っているような気配。
「なになに?聞かせてよ。機密だっていうなら聞かないけど」
「くだらない理由だよ。聞いたら、まず間違いなく笑うぞ」
「え~、そんな面白いの?でもねー、千束さんの笑いの沸点高めだから。この私を爆笑させたら、大したもんですよ」
小さな胸を最大限、反らして千束は黄理の次の言葉を待つ。
「言ったな。なら、遠慮無く言うけど。……あの時は月の綺麗な晩でさ、それを眺めていたら、現場に置いてけぼりにあって……仕方なく一人でどうにかするしかなかったんだ」
簡潔に事実だけ語られて、本人が下らないと思っている出来事を聞き他の人間はどう思うか。
大抵、よりくだらないと思うは世の常だ。
「……それマジ?っふふふ、あっはは!!何それ、すっごいしょ~もない!月を眺めていたら、現場に置いてかれたって詩人じゃなんだからさ!っていうか、仲間もそれをほっといたのか~。薄情だなー、も~」
楽しそうに笑っている彼女は思いきり体をそらしており、今にも噴水の中に落っこちそうな勢いだ。バランスをとるため前へ伸ばしていた千束の手を黄理はそっと握った。面倒がかかる子供だな、と黄理は千束を微笑ましく見つめる。
自分に娘がいたら、此処まで明るく育ったのだろうかととりとめないことを考える。
「模擬戦前に噴水に落ちて、万全の状態じゃありませんでしたってのは勘弁してもらいたい」
七夜黄理が握った手を見て、顔を赤くした千束はにへらと笑みを零す。自分より少し背の低い少年の年齢にそぐわない丁寧な優しさが嬉しくなり、思わず表情に出てしまう。
「もしかしたら、体調が悪くなってれば良かったなんて思うかもよん」
近づく前に感じていた嫌な気配や暗澹な雰囲気は、こうして近づいてみると彼の素朴さと純真さ、子供っぽさであっという間に上書きされてしまっていた。まるで先生や機嫌のいい時のフキと話すような心躍る時間。
そんな時間は矢のごとく流れすぎてゆく。
「なら、そんな後悔をさせるくらい手強い敵であってくれ」
そういって黄理は立ち上がった。噴水から近くの時計を眺めると、もう模擬戦開始の時間になりそうだ。
“しまった、司令室に行くの頭から抜けてた!おまけにフキだって見つけてない!”
「まっず!?ごめん、私司令室に行かないと!」
「こっちもぼちぼち虎杖司令が呼ぶ頃合いだ」
二人して噴水を立ち上がるが、千束は急ぎで走りだし黄理はのんびりと動き出す。
「急ぎなんだろ、こっちはもうちょいのんびりやってから行くよ」
「う~~、余裕綽々だなぁ。もぅ。あんまり呑気に来すぎて、不戦勝なんてことにならないようにねぇ!!」
それだけ言い残し、千束はこの場を後にする。取り残された黄理は、誰もいないことを確認して、両手の袖から黒い棍を瞬間的に取り出す。取り出されたそれをくるりと一回転させると、その武装は手品のように即座に消え、袖に収納される。
「なんて無様、と言ってもあんな子供には酷な話か」
会話の最中、いくつかのはっきりとした隙が見え、無防備なその姿に黄理は呆れた声を零す。こちらにその気があれば、彼女は容易く骸を曝していただろう。もっとも、ここがリコリスたちの本拠地であることを考えれば、まず多くの少女たちが襲ってくるはずだ。
まぁ、例え全てのエージェントが総動員されても、完全に建物の内部を把握した七夜の暗殺者を補足するのは不可能であろうが。この場で模擬戦の相手と話せたのは貴重な時間だった。
暗殺者でありながら、ああも感情を剥き出しにする存在がいることは驚きだ。
それに、彼女は殺人をどこか厭っている気配……いや、信念のような軸が見え隠れしている。
自分も殺しは、もう特段上達しようという暗殺者としての向上心は無くなった。積極的には行わないが、仕事でなら必要に応じてと言うところ。自分はもう歩む道を変えられないのだろうかと思うと、何故か過去に忘れ去ってきたせがれの顔と先ほどの少女の顔が重なった。
容姿、性別、性格も違うのに、なぜなのか。
……いいや、それより。
自分と同様に史上最強などと謳われる暗殺者にしては、底抜けに明るく奇妙な存在で興味が出てきてしまう。あと少しすれば、彼女と模擬戦で軽く手合わせをする。願わくば、“かの紅赤朱がごとく生の実感を味わわせてくれるような相手であるように”。そう願いながら黄理も自分の上司の元へと歩き出していくのであった。
「はーい、ぎりぎりセーフ!千束が来ましたぁ!」
「もろアウトだ、馬鹿たれ」
司令室へ元気よく入室した千束の前には、デフォルトで不機嫌そうなフキの姿があった。
「あ~、ひょっとしてフキってば司令室にいたんだ~?あちこち探し回っちゃったよ」
「お前なぁ、そんなことで模擬戦前の相手の情報収集を疎かにしたのかよ。ったく、ほんとにアホなヤツだよ。お前は」
「え~、でもフキが此処にいるって事は私のために相手の情報収集とかしてくれちゃってたり?」
「さてね、もっともお前が時間ギリギリまで寮を徘徊してたから、そういうのも無駄になるかもな」
「徘徊って、これまた人聞きの悪い。あ、先生も見てくれたんだ。ごめんね、模擬戦前に顔出すの遅れちゃって」
「あぁ、いや私も書類整理が終わったところでな。時間があったから、こっちに来たんだが……だいぶ、機嫌の悪いのがいるから注意するんだぞ、千束」
“機嫌の悪い人?あ~~”、フキと先生以外に、というかこの部屋の最高責任者である女性が青筋立てて仁王立ちしている。
「随分と余裕だな千束?模擬戦前に役立つであろう相手の情報を無視して、なんの情報アドバンテージも無しに戦おうとは大した自信じゃないか」
「げっ、楠木さん。あはは、いやぁ何もしてこなかったわけじゃないよ。相手の情報収集をしようと直接、アタックしかけてきたとこなんですよ。じ・つ・は!」
「なに?七夜黄理に遭遇したのか?」
「うん、噴水のとこでぼーっとしてたね」
「相手の方も情報収集をしないとは、つくづく似ているようだな。お前たちは」
呆れ果ててモノも言えないとばかりに吐き捨てる楠木に、ご機嫌そのものの千束は果敢に話を盛り上げようとする。
「それはどうかな。直接、話してみたんだけど、あれけっこーな天然入ってますよ奥さん。天然純度100パーセントですよ、まず間違いなく」
「誰が奥さんか、誰が」
楠木が頭に手を当てていると、入れ替わりで横からミカが千束に声をかける。
「ふむ、しかし千束。今回は相手の情報を見ておくべきだったな」
「先生、え?そんなにあの子の射撃の腕、やばそうだった?」
「……いいや、どちらかといえば射撃をしている場面は映像になかった。情報として送られたのは相手の奇襲戦の映像だ。くやしいが、通常速度の映像で見ると何が起こっているか分からなかった。スローモーションにしてようやく少し画面に映り込むなんて、ホラー映画のモンスターじみている」
「隠密?黄理ってどんな感じで戦ってたの?」
「ふむ、此処に来て興味が出てきたか。だが、それはこの段階では言えないな」
「ええぇ~、なんでぇ?!せ~んせ~い」
「相手の情報収集を怠るものは戦場では命取りになる。実際は情報を十全に掴めないときの方が圧倒的に多いが、とにかくそういうことだ。今回は遅刻の代償ということで、相手を知らぬまま模擬戦に挑むように」
「そ~んな~、せんせい。お願い、おせーてぇぇ。黄理に格好良く、油断したら負けちゃうかもよ、なんて見栄切っちゃったの。これで負けたら完璧ピエロじゃーん」
「ざまぁ」
「フキ、なんつったゴラァ!」
「ざまぁみろっつったんだよ!相手のこと調べようともせずに自信満々なお前んピエロっぷりは爆笑もんだ!」
“なんだと~”と、じゃれ合う二人を楠木が止めて、どうにか落ち着いた時、司令室の扉が開く。現れたのは、口元にひげを蓄えた壮年の男性、ここにリリベルを指揮する虎杖司令とリコリスを指揮する楠木司令、組織の長の両名が顔を合わせる。
「お忙しいところ失礼する、楠木司令。それで……準備の方は整っているかね」
「お久しぶりです虎杖司令。模擬戦の手はずは万全に終えてあります。それに本日、そちらのリリベルの相手をするリコリスも丁度、こちらに。ああ、つかぬことをお聞きしますが、そちら側のリリベルはどうしました。迷子であるというなら、館内放送をかけますが」
「気遣い、痛み入る。そうだな、そちらのお嬢さんが準備万端というなら、こちらも憂いなく相手ができるというものだ。それでは、“来い、七夜”」
その声と同時に闇に紛れた隠行をしていた七夜黄理が音無く天井から楠木たちの背後へ回る。“なんとなく”で気配を察知した千束は後ろを振り向いた。
「黄理?あれ、いつの間に」
「……へぇ、こんなあっさりバレるなんて。びっくりだな」
悪びれもせず、意外そうな声色でミカと千束の間を七夜の少年が通り抜けていく。
千束に遅れて、楠木、ミカ、フキに周囲のオペレーターが気づいて驚愕する。七夜黄理の一切違和感も気配も感じさせなかった隠密行動。もし彼が悪意ある敵で銃でも持っていたなら今の数瞬で間違いなく暗殺は成功していただろう。
「いや、びっくりしたのはこっちだって!なんでわざわざ背後から現れる、お前はジャパニーズホラーの幽霊か!」
「いやぁ化けて出るには、まだ日が高いかな」
「そーゆう問題じゃねぇ」
口を尖らせた千束の文句を表情のないままに立っている七夜黄理は黙って受け止める。
「驚いた……完全に気配を絶った七夜の隠行を見破るとは。なるほど、史上最強を冠するリコリスというだけはある」
真剣に驚いた風情で顎を擦りながら感心する虎杖の言葉を受けた千束は少し浮かれてしまう。
「えっ?そんな、褒められると照れちゃうな」
「照れてる場合か、お前だって辛うじて気づけたのは、背後を取られてからだろ」
浮かれる千束を宥めるようにフキが背中を小突いた。二人の喧嘩が始まりそうになるが、部外者がいる手前で派手にやろうとはしないようだった。ただし、互いに千束がフキの右足を踏むと、次にフキが左足を踏み出す。
微笑ましくもある、じゃれ合いを行いつつも模擬戦開始の時間が訪れる。
七夜黄理と錦木千束は、互いに別々でキルハウスへと向かい、武装を整える。残された大人たち、それにキルハウスで千束の様子を見ているフキに、多くの野次馬をしているリコリスたち。役者と観客は出揃った。
楠木が直々に試合の説明をマイクで伝える。
「定刻となった。模擬戦を開始する。使用するのはペイント弾で、制限時間は一時間。その時間内にペイント弾を受けた者は敗北として模擬戦を終了とする。また、相手を過度に負傷させる動きがあった場合、その時点で模擬戦を中断。危険行為を行った者の敗北とする」
「おや、たった一発で模擬戦は終わらせると?それはいささか、もったいなくはないかね」
「長々とやっても仕方ないでしょう。現場ならば一撃をもらってしまえば、その時点で終わりです。極めて実戦的ではありませんか」
「実戦的か、そう言われてはぐうの音も出ないな。まぁ先ほどの七夜の隠行を見破った錦木千束の能力、なるほど最強のリコリスというのも誇張ではないらしい。これならば、七夜と戦っても、あっさり戦闘が終わることはないだろう」
愉しそうに口元を歪める虎杖の横で楠木は勝負の行方に思いを馳せる。
「DAの史上最強同士、どのような決着に落ち着くとしても我々の予想など容易に上回ることでしょう。わずか七歳という若さで歴代に並ぶもの無しと謳われた規格外のファースト。果たしてどちらが勝つか」
「興味深い、と言ってしまうのは業が深いのだろうな。ともかく、模擬戦を始めよう。こと此処に至っては我らの心情は勝負の趨勢になんら影響しないのだから」
千束と黄理の両名はキルハウス内で互いに別々の位置から模擬戦の始まりを待つ。
待つ時間は全くといっていいほど感じなかった。
勝負開始を告げるランプが点灯する。
夕焼けのような赤、日向のような黄、そして空のような青。
勝負の開幕を告げるブザーが鳴る。
「はじめよっか!」
千束は素早く、駆け出して索敵を開始する。
勝ちを狙うなら敵の索敵より先に相手を探し出さないとならない。
ミカは七夜黄理についての情報をあまり話さなかった。遅刻した罰だと言って情報は開示されなかったが、しかし、ほんの僅かながら明言していた。
“送られた七夜黄理の情報にあったのは奇襲戦法だったということ”。
確かにあれほどの隠密技術を用いての奇襲は脅威となる。
銃をコンパクトに抱えるようなC.A.Rシステムの構えで千束は勢いよく走り出し、黄理の索敵を始めた。
一方で、七夜黄理は銃をだらんと下ろした姿勢のまま、開始位置の部屋にあるドアに蹴りを入れる。その蹴りによって出た音は、自分がここにいるぞという宣戦布告であり、黄色と白の合わさった日差しのような髪の少女に対する呼び出しでもあった。
自分は相手の位置が分からず、相手は自分の位置を大まかに察することができる。あまりにも不利な展開。それを最強のリリベルは表情を変えぬまま行う。
「誘ってるねぇ。いいよ、のってあげる」
千束もその音を聞いて、相手の位置を把握した。音のした方角へ走る。何故か、黄理は隠密をしての奇襲戦法を捨てた。間違いなく罠に違いない。奇襲を得意とする人間が無策に相手へ居場所を知らせる愚行。
よほどの自信か、勝ちの算段がなければできない行為だ。
だが、それは自分も同じこと。相手の姿が見えれば攻撃は容易く回避できる。服の上から目視できる筋肉の動き、動き出す先を見つめる瞳孔、脚捌き。
黄理を正面から見ることができれば、行動の先読みをして、ペイント弾を全弾打ち込める。
罠に落ちて尚、相手を真っ向から打倒する算段はつけた。
いよいよ、音がした部屋の前に到着した。
千束は銃を構えながら部屋の扉を全力で開ける。
「おっ邪魔しまぁぁ!?」
開こうとすると、扉は壁との接合部が壊れていたのか、開かずにそのまま倒れてしまう。なるほど、先の大きな音は扉を破壊する音だったのか。
呑気に思考を巡らせながらも、千束は適切に部屋の状況を瞬時に把握した。
倒れた扉の先、部屋の真ん中には、こちらへやってきた千束をぼんやりと見つめる七夜黄理の姿があった。
銃を構えもせず、だらっと腰の下まで下げている脱力姿勢は完璧に隙だらけ。
隙があり、見たところ完全にやる気のない体勢。
銃を上げて、構えてから照準を合わせるのが、どれほど早くてもこれなら相手の攻撃を避けるまでもなく倒せる。
千束が銃を撃とうとしてから、ようやく黄理に動きがあった。脚の方に緊張、リリベルの指定制服であろう灰色のズボンの上から、壁に向けて跳躍しようという動きが予測できた。その動きを読み切り、黄理が銃の向ける先に来たところを偏差で撃とうとして。
七夜黄理の姿を見失う。
千束が銃を向けるより素早く壁面を蹴り、狭い室内を複雑な機動で走り抜ける。まるで屋内に糸を張り巡らせ、それを手繰るかのごとき高速立体移動。ありえないことに初速から、完全に最大の速度を叩き出している。
二秒、完全に視界から七夜を見失った千束は、三秒目にようやく相手の影を目で捉える。
“うっそでしょ!?”
常人の動きではない。単に屋内を飛び跳ねるのではなく、壁面を強烈な鋭角のジグザクに走り、かと思えば緩やかな弧を描いた挙動を見せる。まるで獣の俊敏さを持つ蜘蛛のような動きに、千束はまず愕然とし次に感嘆する。
“人って、あんな風に動くことができるんだ”
それは初めて、野生の動物の躍動を見た子供のような感想。しかし、七夜黄理の躍動は、人として積み重ねられた多大な技術を背景にして成り立つものだ。それを理解できる目を持つ人間からすれば、賞賛の声を上げたくなるほどの華麗な動き。
縦横無尽に部屋を躍動する姿は、目で捉えるのが厳しい。卓越した予知洞察の目を持つ千束だが、実際のところ動体視力は天才の領域にはあっても人外のそれに遠く及ばない。七夜黄理は誰にも語っていないが、元より彼が相手にしていたのは魔と人の混血。
怪物的な混血の殺害を常とした彼にとって、単なる天才を幻惑するなど容易いことだ。
「じゃあ、お疲れさん」
七夜黄理の空間を三次元的に最大限活用した動きは、千束を完全に翻弄し魅了した。その隙をつき、黄理は無駄口と共に銃の引き金をひいて、ペイント弾を射つ。
「えっ?……うわったぁぁ!?」
しかし、それは誤りだった。
七夜黄理の言葉を耳にした千束は、それを元にどうにか攻撃される方向をおおよそ察知、思い切り背後に飛びずさり、攻撃を回避する。普段から僅かな動き、紙一重で銃撃を無駄なく避ける千束には、ありえないほどのおおげさで無様な避け方。
されど、無様とは言え完全に意識外の死角から放たれた銃撃を千束は回避した。
黄色のペイント弾が千束のいたところを鮮やかに染め上げる。
『避けたか。我ながら下手だね、どうも』
空のマガジンが床に転がり、リロード音が聞こえてくる。
千束は銃を構えなおし、再び部屋の中に入るがそこには黄理の姿はなく声だけが僅かに残響して完全に気配が途絶えた。
「あっぶなー。出会って数秒で負けるとこだった」
そう、先ほどの七夜黄理らしくない無駄口が、錦木千束を敗北から救った。
暗殺者がわざわざ声を出してから標的に襲いかかるという不手際。常の彼なら有り得ない行動、それはほんの少しでも言葉を交わした少女に対するハンデのつもりか、それとも声をかけても勝利するという自負の現れか。
結果として七夜黄理を見失いこそすれ、錦木千束はこうして負けずに立っている。
相手の認識を欺く七夜の業。それに黄理の手心があったとはいえ僅かながら抗った彼女の素質は間違いなくリコリスにおいて並ぶモノなき天与の才。しかし、それを上回るのは、七夜黄理という規格外の暗殺者。
リリベルにおいて史上最強を当然のごとく冠する少年。先ほどの僅かな交差を経て言語ではなく体が理解した。七夜黄理が歩んできた実戦の数は、錦木千束の上を軽々といく。あれではファーストのリコリスがどれほどいても、十把一絡げに撃退されるだろう。
危うく負けかけた千束は、黄理の実力を自身より上のものと暫定的に見積もった。
千束は静かに笑いながら思索を巡らせる。
自分より実戦経験豊富で強い敵から勝ちを拾わなくてはならないという状況。
所詮、ただの模擬戦だ。勝っても負けても、得られるモノは大きくないかもしれない。
でも、あの少年の前で格好悪いところは見せられない。彼と出会った瞬間に自身は目と意識を奪われた。引き寄せられるような不思議な感覚。今この瞬間だって、彼のことを考え続けている。
自分はこんなにも黄理のことで頭がいっぱいになっている。
自分の時間を、感情を、こんなにも七夜黄理という今日初めて出会った人間が満たしている。
でも、黄理の記憶、心の中を自分はどれほど占めているのか?
あっけなく負けて、彼の中で取るに足らないモノとされることが嫌だ。
子供じみた理由だが、千束は七夜黄理に自分のことを魅せきれないまま負けてしまうことが嫌だった。
負けたくない。
今、千束を動かしているのは、ただそれだけ。
彼我の実力差、史上最強のリコリスという称号、どれもどうでもいい。
すべきことは既に決まっている。
ただ、七夜黄理という存在に
「魅せつけてあげる、私の全てを」
そうは言っても実力に差がある以上、真っ向からぶつかるのは厳しいものとなる。
それでも、攻めなければ勝利に手は届かない。
ならば、
“追いかける、追撃しかない”
“無策で動かない、機を伺う”