Lycoris A moon eclipse   作:悪事

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 大変、長らくお待たせしました。千束ルート、開幕です。今回の分岐は両方、書いております。皆様の選択した方、優先でお読みください。




Can only end one way【2】√C

 

 

 “しっかたないなぁ、特別に協力してあげよう!”

 

 

 黄理がパラパラと興味なさそうにめくっていた女性モデルの宣材写真集を取り上げ、わたしは高らかと、伽藍の堂のバイトに参加する名乗りを上げた。視界の端で、腰を上げようとしていたたきなが、おろおろとしてから静かに席に座り直している。

 

 

 わたしはそれの意味するところを深く考えず、黄理の頭を捕まえたまま橙子さんの方に眼差しを送る。

 

「ハハッ、まったくありがたい限りだ。本音を言うとこちらも助かる。よくぞ、この唐変木相手に決心してくれた」

 

「べっつに~~。伽藍の堂の売り上げが大変だと、黄理の食生活とか、引き受ける仕事の内容とか、諸々のグレード下がっちゃうわけだし、此処は千束さんが一肌脱いじゃる!」

 

「いや、モデルだから着るんじゃない?」

 

「よけ~なこと言うな~」

 

 うりうりと──。

 

 黄理のほっぺを引っ張ることで、野暮な事を言わせないようにした。わたしたちのじゃれ合いを見た橙子さんは不意に、薄く笑うと封筒をこっちに投げて寄越す。すかさず、受け取ったそれにはチャペルでの撮影予定日や、当日にドレスを貸し出してくれる案内などが記載されていた。

 

 ドレスのカタログはただの写真だというのに、どれもこれもキラキラ素敵なものばかり。

 

 マジか、ウェディング……ドレス、ほんとうに着られるんだ。

 

 どんな種類とか、デザインのものがあるのかな~、なんてカタログをザ~っと眺めていると、橙子さんは封筒をたきなや、クルミ、ミズキにも渡している。おや?

 

「ああ、それと参列者役も必要でね。四、五人ほど用立てる必要があったのだが。丁度いいから、お前たちも遊びに来るといい」

 

 えっ、みんなも来れるんだ!てっきり、私たちだけかと思ったけど、いや、黄理とわたしの二人っきりってのも良いんだけど、みんながいて賑やかで、楽しくなるなら、大歓迎だ!そうだ、先生も誘わないとな~。

 

 

 

 内心、いや見てわかる程度にはウキウキしている千束を背に、ようやく頬から手を除けてもらえた七夜黄理は呆れた調子で目をつぶる。そう、伽藍の堂の上司である蒼崎橙子は今の条件こそを着地点として目論んでいたのだろう。まったく段取りがいい、というか橙子さんは自分の都合の良いように人の段取りをいじるのが上手いのだ。

 

千束か、たきな。どちらかを雇えば、リコリコのメンバーもなんだかんだと付き合いがいいため、なし崩しで誘えるという算段。

 

 ミズキもウェディングドレスでないのなら、と前向きな調子だし、クルミも楽しそうだとノリ気である。たきなは何か、考え事をしているようだが、真剣にバイト関連の書類に目を通していることから断りはしないのが分かる。

 

「最初から全員を巻き込む前提だったんですね…」

 

「そりゃ、めでたい行事だ。頭数は多い方がよかろう?」

 

「まぁ、そうなんでしょうけど」

 

 黄理は橙子のからかい交じりの言葉を聞いて、改めて敵わないと肩を落とす。むしろ、こういう人心掌握の分野で蒼崎橙子に勝てる人間の方が珍しい。ふと、ゼクシィを手に取った黄理はチャペルのステンドグラスの写真を見て、“お仕着せ人形なんて俺には向かないのだけどなぁ”、と言葉にならない弱音を内心で零すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 晴れ渡った青空、夏の盛りだというのにカラッとした気持ちの良い空気。近くに噴水があるからだろうか、風は涼やかでとても過ごしやすい。よく手入れのされた芝生は涼風を受けて、水面を波打つように葉を揺らしている。好天一色、空模様は今日いっぱい変わることはないだろう。

 

 まさに祭事、祝い事には絶好の吉日。

 

 都内某所、ある結婚式場のチャペルへと続く階段の前。

 

 そこにはリコリコのメンバーが揃って、今日という日に合わせて着飾っている。

 

 

 特別なハレの日ということもあり、普段の制服や和装と異なる装いを着こなしている。例えば、金髪をワンサイドアップにまとめるクルミは、艶がかったはちみつ色のカジュアルワンピースを着て、不貞腐れた表情をしていた。

 

 クルミの服装はなんというか、完全に七五三の児童のそれだ。似合ってはいるし、年相応といえば聞こえはいいのだが、服装が幼稚過ぎるためか不服さを隠してもいない。

 

「おい、ボクだけジャンルが違くないか?」

 

「はははっ、似合ってるわよ~。背伸びしてない年相応って感じかしら」 

 

 高笑いをあげるミズキは、若草色をベースとし、白い造花のブローチを胸元に付けたフォーマルドレス。スカートにはクローバー柄のレースがあり、華やかでありながら派手さを決して見せない装い。

 

 落ち着いたドレスの着こなしは、大人ならではといったものか。

 

「ハッ、世の中、外見なんて一面にしか目のいかないヤツばっかりだ」

 

「重要な判断材料でしょ~がよ」

 

 クルミに向かって、ミズキが威嚇するように唸っているのを見かねて、もう一人、ちゃんとした方の大人が仲裁に入る。

 

「コラコラ、二人ともいい加減にしなさい。リコリコの全員が揃ってお呼ばれしたんだ。此処で不機嫌になっては、借りた衣装ももったいない。せっかくの祝いの場なんだから」 

 

 普段より着ている紫の着物ではなく、派手過ぎず地味にならない程度に明るい紫陽花色のスーツ。リコリコの店長であるミカは、和装から洋装に着替えても(さま)になっている。締めたネクタイは赤と青の線が交差したもので、彼がそれを選んだことには彼なりの思うところでもあったのか──

 

 そんなミカのとりなしに、感情の見えぬ言葉遣いでたきなが話に入ってきた。

 

「……あくまで、そう“演出”しているだけですよ」 

 

 どこか遠い目をした黒髪の少女は、冷めた様子で青空を見上げている。

 

 また、そんなたきなも例にもれず、素晴らしいと絶賛されうるドレスを完璧に着こなしていた。青みの強い、少し暗色に近しい色合いの青を基調として、落ち着きと貞淑な雰囲気を醸す丈が長いスカートのパーティードレス。彼女が身に纏う色合いは、どこかある少年の瞳の色に類似しているようにも思えた。

 

 

「…おい、なんか、たきなが地味におっかなくないか?」

 

「そりゃ、あんたにわからんかもしれないけど、見知った顔が自分を差し置いて結婚するなんて、気に食わないと思って然るべきでしょ!」

 

「いや、然るべきじゃないぞ。……クルミ、ミズキの話は鵜吞みにしなくていい。せっかくのめでたい日なんだ。此処は、心から祝福を──」

 

 ミカは微笑みながら、本日の檜舞台にあたるチャペルを落ち着きはらった面持ちで見つめている。すると、横合いからそれをからかうような声と共に、グレーのスーツと青のネクタイを締めた男性、いやリリベルの指揮官たる虎杖が現れたのだ。

 

「ほう?君は正直、複雑な心情かと思っていたが、存外、冷静というか落ち着き払っているな。気が動転していたら慰めようと思っていたが……完全に杞憂だったな」

 

「いっ、虎杖さん!?」

 

「虎杖のおっさん、あんた本業とかどーしたのよ?偉い人間が随分、暇してるじゃない?」

 

「めでたい日にそういった野暮な事をさせない程度にはうちの組織にも情というものがある」

 

「どーだか……」

 

 組織、なんてきわどい単語を聞いて、ミズキは深堀りしないままに聞き流す。しかし、一応、一般人としてリコリコに居候しているクルミは、背筋に冷や汗が流れるの感じながら、息を殺している。

 

 ここにきて、虎杖が自分は何者かと匂わせるような口ぶり。これまでリコリコの日常でも、決して口を開かなかった自分の職業、いや所属する組織についての言及に、心臓が痛いくらいに音を鳴らしている。

 

 

 考え過ぎだろうか?いや、それでも警戒するに越したことはない。

 

 そんな、クルミが気配を必死で殺そうとしている様子に対して、虎杖はおどけた素振りで片眼を閉じた。

 

「安心したまえ、クルミくんが何者かを詮索する気はない」

 

「……そーいうのは、詮索を既に終えているからって相場が決まっているもんだがな」

 

 無言のまま、なぁなぁで済ましてくれれば、クルミとしても安心だったのだが。

 

 此処で敢えてクルミの正体に関して、後ろ暗いことがあると示唆する言動は、それ自体が正体を調べ終えていることの言及無き断定に相違ない。

 

「さてね?どのみち、今日の祝いの席には似つかわしくないし、今後、リコリコで語らうにも相応しくなかろう。詳しいことは私の胸に秘めておくとしよう。ただ、強いて言うなら……以前、橙子も言っていたことだが、もう少し名前はひねった方がいい。消息を絶った時期に、似た名の人物が不意に現れる。DAでなくとも不審に思うさ」

 

「決定的なワード出すなよ……」

 

 “DA”、リコリス、リリベルの統括を行う秘密組織の名称。それを明言したということは、間違いなく自分の正体を知られているとクルミに理解させた。まぁ、橙子も以前より勘づいている節はあったし、それを知ってなおリコリスの本部に自分を売ってないことから、すぐさま殺されることはないようだ。

 

 それなら、まぁいいかと思う程度にはクルミの心胆は据わっており、早速、虎杖の服装を“気合入れすぎだろ~”なんて茶化しに行くくらいに落ち着いていた。

 

 

 

 虎杖の唐突なクルミの正体に対する発言で、大人組はやりにくそうに表情を硬直させていたが、クルミやたきなは平然と虎杖と談笑している。

 

「虎杖さんも、ご招待されていたんですね」

 

「ああ、と言っても黄理本人ではなく橙子からだがね。聞かされた時は驚いて、それから呆れたよ。まったく、黄理はいくつになっても、こういう祝い事や様々な事柄に無頓着で困る」

 

「分かります。やっぱり、黄理くんのそういう横着、というより抜けてるところは昔からなんですね…」

 

「普段から財布落としたり、携帯を無くしたりしてるから、ありゃ完全に性分だろ。ボクとしては、一生治らない類いのものと見た」

 

「クックックッ、違いない」

 

「お~い、そういう笑い方してると悪の組織の親玉みたいだぞ?」

 

「ブフッ!?こらっ。クルミ!」

 

「まぁ──事実には即しているな」

 

 ニヒルに笑うクルミと慌てふためくミカたちへ、虎杖はにこやかに微笑み返す。余裕たっぷりな虎杖のその笑みは先の揶揄が僅かに含まれたセリフを、平然と受け止めたことの証左でもあった。しかし、ミズキやミカは、クルミの命知らずな軽口に説教を始める。虎杖こそはDAの男系暗殺者、リリベルの指揮を行う東京支部の司令なのだ。

 

 洒落に、戯言、冗談、戯れも、どれが虎の尾になるか分からない以上、踏み出すこと自体をタブーとすべきだろう。

 

 

 

 緊張感が緩んでいるか、張っているか、微妙な空気となった頃合いを見計らったのか、くすんだ赤髪を揺らして蒼崎橙子も顔を出す。纏うドレスは、大胆に肩を晒しながらも派手になりすぎないよう黒を基調としている。暗い印象を与えないためか、ドレスの胸元には橙色のリボンが幾何学的模様になる結び方で留められていた。

 

「──ふむ、参加者は全員、揃ったようだな」

 

 凄瓏とした橙子の立ち姿は、その美貌ゆえに迫力と言う他ない雰囲気が漂う。普段、かけている眼鏡は外しており、幾分か鋭く尖った目つき。はっきり言ってカタギに見えない立ち居振る舞い。それにより、チャペルという平穏の舞台にそぐわないほどに物騒な気配を発している。

 

 

 本人もそれを自覚していたのか、取り出した眼鏡をおもむろにかけると、あらたまってリコリコの四人、そして虎杖へ手を振ってきた。

 

「ふふっ、今日は伽藍の堂(ウチ)の仕事を手伝ってくれてありがとう。黄理と千束ちゃんの晴れ舞台を観ていってね、ほんと見ものよ?」

 

「見ものか、二人を見世物にした君がいうのもどうかと思うが……そうだな、千束くんや黄理が着飾る姿はまさしく見ものだろうよ」

 

「そうですね、千束のドレスも楽しみですが、黄理くんのタキシードも気になります。ああ、二人が並ぶ場面はさぞかし絵になることでしょう」

 

「……二人のそういった服装は、これまで見たことがないので想像できません」

 

 本当は“想像できない”、ではなく“想像をしようとしない”のだが、それがどういった心情から来ているのかをまだ幼い情感しか持たぬたきなでは知りようもない。むっすりと、隅に視線を避けるたきなに、大人たちは複雑そうな顔で苦笑いするに留めた。

 

 クルミさえ軽率に口を開こうとしない辺り、たきなの身に纏う張り詰めた雰囲気は、よく研がれた刃の切っ先に類似する。

 

 幾多に及ぶ刃の刺さるような緊張感に覆われた場の空気を入れ替えるため、クルミは自分のふとした疑問の消化をすることに。

 

 その質問とは──。

 

「そういえば、ウェディングドレスは白と相場が決まっているが、新郎側は?黄理のヤツ、どんな格好で来るんだ?」

 

「やっぱ、白のタキシードとかじゃない?ウェディングドレスと揃えてくるとか。まぁ、黄理がそれを着てるのはまったく想像もできないけど……あいつ普段は制服と作務衣ばっかだし」

 

 二人は敢えて橙子に聞こえるくらいの声量を出し、彼女が口を滑らしてくれることを無言のままに期待する。そして、黙っている必要もないため、このチャペルの依頼を持ってきた蒼崎橙子は軽快に口を滑らした。

 

「ああ、黄理の服装は白のタキシードじゃないのよ。あの子ったら、ほんとうに白のタキシードが似合わなくてね。いや、試しに着せてはみたものの似合わな過ぎて笑っちゃったわ」

 

 ぴくり、とたきなが黄理の白のタキシードの話を耳にし、肩を跳ねさせるが、それをスルーしてミズキは軽快に笑った。

 

「あ~、確かにあいつなら白のタキシードが似合わなくても不思議じゃないわね」

 

「そうだな、ミズキの婚活が上手くいってないのと同じくらいには不思議はないな」

 

「めっちゃ不思議じゃい!」

 

 クルミの発言を否定しようとして、会話の脈絡が混迷に陥る。そんなミズキの発言を額面通りに受け取ったたきなの瞳には不可解の三文字が浮かんでいた。

 

「前言撤回が早いですね」

 

 たきなや虎杖、ミカたちの呆れた視線もなんのそのと、ミズキのテンションはより高く、やかましいほどに上がっていく。ちなみに橙子とクルミの目は愉快という感情の色合いが浮かんでいた。

 

「わたしが良い相手に巡り合ってないのは、不思議じゃないの。複雑で、難しい、事情があるのよ。そう、例えるなら、ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題、リーマン予想のように難解で、複雑なわけってのがあるの。お分かり?」

 

「ミレニアム懸賞問題かよ……」

 

「数学界の史上最難問と一緒くたにするのもどうかと思うわよ?」

 

「橙子の言う通りだ。流石にそこまでの栄誉と同一視するのは過分だろ」

 

「過分じゃねーよ!適切だよ!」

 

 橙子とクルミへ吠えかかるミズキに対し、たきなの爆弾発言が起爆する。

 

「ちょっと待ってください。そうなると難解すぎて問題の解決にミレニアム(千年)単位の時間を要するのではないでしょうか?」

 

「…わたしが千年経っても結婚できないって?」

 

 約一名を除く全員が一瞬のうちに噴き出し、約一名にあたるミズキは唖然としたまま凍り付いた。解凍後、どれほどやかましかったのかは、たきなの疲れ切った表情から察しの付くところである。

 

 

 

 

 雑談もほどほどにして準備が整ったのか、揃った面々はチャペルの中に通される。チャペルの奥、天井に近しい位置には美麗な太陽と月の重なったステンドグラスが存在し、明るい黄色や青色の光を透過させている。太陽と月、そのモチーフを重ね合わせ、黄色と青色の光が複雑に織りなす乱反射は、空間そのものを神秘的に染め上げていた。

 

 長椅子に腰かけようとすると、そこで橙子がミカを不意に呼び止めた。

 

「ああ、ミカさんはあっち──」

 

 橙子の指し示した先はバージンロードの始まる地点。つまり、ミカへ新婦のエスコート役を任せたのだ。呆然、それはそうだ。ミカは事前に介添え役の話を聞かされていないし、いきなり言われても思考が動き出さない。

 

 ようやく、動き出したミカの思考回路が真っ先に弾き出したのは、“自分などでいいのか?”という陰鬱で後ろ向きな思い。

 

「……いや、いやいや今日は千束と黄理くんが主役なんだ。私が写真に写っても仕方ないだろう」

 

「でもねぇ──」

 

 反応芳しくないミカへ、橙子は肩を竦めて笑い掛ける。

 

「これ、新婦様たっての希望なのよ」

 

「なに?千束、の…」

 

「そっ、だから、行ってあげたらどうです?思うところがあっても、そんなの気にしてたら、やりたいことなんてできないでしょ?」

 

 屈託なく笑う橙子のその言葉は、ミカにとってもなじみ深いもので動き出そうとする足に絡みついた複雑な心情が綺麗に祓われた気がした。それから、とん、と優しく背中を押され、ミカは振り返る。背を押した虎杖はミカを祝福するようにイタズラっぽく笑いかけた。

 

 他にも、クルミやたきな、ミズキは“早く準備をしろ”なんてジェスチャーで急かしてきた。この場にいる皆の後押しを受け、ミカは胸の鼓動を忙しなく鳴らしながら、バージンロードの出発点に立つ。

 

 

 

 

 しばらくして、チャペルの鐘が荘厳かつ高らかに鳴る。チャペル内のスピーカーからは、新郎の入場を告げるアナウンス。開かれた扉より、静寂と黒を纏った青年が歩いてきた。青年が纏うのは、良く仕立てられた黒のタキシード。

 

 夜空を織り込んだような黒鴉色のタキシードは、まだ少年の面影が僅かに残る黄理の姿を、より大人びたものに変える不可思議な魔力があった。キャンドルに揺らめくほの暗い篝火だけが光源の薄暗いチャペルでは、目を反らしてしまえば消えてしまいそうなほど不鮮明な立ち姿。

 

 それゆえに、七夜黄理の姿には目を離すことを許さぬ魔性の気配が醸し出される。

 

 普段の気の抜けた雰囲気は、纏ったタキシードによって見ている側の人間が背筋を正すほどに誠実な威厳へと変化していた。七夜黄理がバージンロードを歩いていく姿に、たきなの瞳は引き寄せられ、同時に魅せられた。

 

 “まだ”、七夜黄理が魂のうちに宿す魔性に。

 

 惑わされていた意識が戻ると、たきなは壇上に向かっていく黄理の後ろ姿を目の当たりにして、寂しいような、嬉しいような、おかしな気分を味わうのだった。

 

 

 

 やがて、チャペル奥の壇上に立った黄理は静かに蒼黒の瞳を伏せる。

 

 

 そして、新郎が壇上に上がったことを合図としてもう一人の主役が現れた。開かれた扉より差し込む外の日差しと共に、人のカタチをした純白の光輝がチャペルに差し込む。否、それは光という現象に見まがうほど美しい純白のウェディングドレスを着こなし新婦に扮した錦木千束だった。

 

 

 薄っすらと黄色を帯びたプラチナブロンドにかかり、(かんばせ)を秘め隠す純白のヴェール、髪を纏めるのは常の赤いリボンではなく色とりどりの華飾り。

 

 朝焼けに輝くもっとも美しい陽光を織りこみ作り出されたのではと思うほど、目映(まばゆ)いウェディングドレスを彼女は華麗に着こなしている。腰回りにはオレンジのリボンが付けられ、スカートは大胆にも太腿を見せつけるような丈の短さ。背面は床につくほどには長いのに、正面から見ればウェディングドレスに負けないくらい純白かつ健康的に輝く千束の脚線美。

 

 見る者の時が停止するほどに魅力的な、美しさ。

 

 

 この場に集った面々の意識が錦木千束という少女に奪われ、ミズキが、クルミが、たきなが、虎杖が、この場面を撮ろうとしているカメラマンやチャペルのスタッフたち、それぞれが感動に息を呑んだ。

 

 そして長い間、錦木千束の成長と眩しい日々を見続けてきたミカも、その一人。彼は忘我のまま、瞳に優しい熱の感覚を覚える。その熱が一筋に流れたとき、彼は自分が泣いていることに気が付いた。

 

 あぁ、まさか自分が千束のウェディングドレスを見ることができるなんて…。

 

 燻ぶる罪悪感を押しのけ、胸にあるのは幸福の実感。

 

 ヴェールで顔を隠したままの千束は、自分が薄っすらと涙を零していることに気づかぬまま、嬉しそうにスカートを靡かせるようにクルリとターンをして微笑みかけてくれた。

 

「どうよ~、せんせい?この格好、なっかなかのもんでしょ~」

 

 とんでもない、そんな言葉では言い表せないくらい……。

 

 きれいだ、その一言を言おうとするが声にならない。いま、声にしてしまえば、涙を帯びた声になるのが分かってしまった。わたしは声が震えだしそうなのをどうにか堪えて、別の言葉を選ぶ。

 

「……中々なんてものじゃない 上々、いや最上だよ」

 

「えへへ~~、せんせいに褒めてもらっちゃった」

 

 照れ笑いをした後、千束は眼前に伸びる赤絨毯のバージンロードを前に改めて姿勢を正す。輝き(ドレス)を纏った千束が(おごそ)かな所作で、白手袋に覆われた手を差し出した。

 

 

 そっと割れ物を扱うように、大切な宝物に触るように差し出された手を取る。

 

 もう、迷いは一片たりとも存在しない。

 

 いまはただ、やりたいことを最優先に────

 

 私は千束と共に、赤い花道を歩き出した。

 

 

 

 

 

 傍らに、親であり、教師であり、良き同胞であるミカを連れ、千束はバージンロードを歩ききる。チャペルの壇上へと上がり、ステンドグラスの下で新婦と新郎は、互いの正反対な真紅の瞳と、蒼黒の瞳を重なり合わせた。

 

 黄理も、千束もお互いの見たこともない装いに見蕩れ、見惚れて息を呑む。向かい合う両者、見慣れぬ相手の姿にぎこちなく口ごもる。不意を突いて口火を切ったのは、ウェディングドレスを着た千束の方だった。

 

「ふっふ~んふっふふ~!ど~だっ!」

 

「分かりやすく浮かれてるな」

 

「これが浮かれずにいられますかって。ドレスだよ。しかも純白のウェディ~ング!──ほら、ほら、ほれほれ~。似合う?似合うでしょ、似合ってるでしょ~」

 

「質問したなら、最後まで質問の(てい)を崩さない方がいいと思う」

 

「も~、そんなんじゃなくて………………どう?……感想は?」

 

 丈の短いスカートを持って、その場で身を(ひるがえ)す純白の美貌。

 

 少しばかり不安に揺らめく瞳は、純白のドレスの中で色彩豊かな美しい赤色を輝かせる。千束の瞳は、目の前で口を噤んだ青年の感想を待ち望んでいた。千束の赤い虹彩が突き刺さり、黄理はようやく観念した。己が口下手であることを重々、理解している。

 

 拙い言葉で今の錦木千束を形容することは、非常に気が進まない。

 

 でも、そんな言い訳を許さないくらい、錦木千束の晴れ姿に心を撃たれてしまった。負けた、そんな思いが心中に浮かんだ以上、此処で口を噤むのは潔くない。

 

 意を決し、未熟ながら言葉を尽くすことへと黄理は挑戦する。

 

「──幸せ、かな」

 

 

 

 言葉にするのに、躊躇いを見せていた黄理はようやく、わたしの目を見て短いが、それでも確かな言葉にして伝えてくれた。頬が赤い、熱い、嬉しい、照れ、喜び、羞恥、それらで、にやけそうになる口をどうにか、すました状態で留めて“不満だぞ~”って見える風に胸を反らす。

 

「それ……わたしじゃなくて黄理の感想でしょ。今はわたしの感想を聞いてるんだけどな~。もっと、この華麗かつ偉大で、凛々しいウェディングモードの千束を褒め称える言葉はないのかな~?」

 

「……お前なぁ、わかんないか?」

 

 

 今度は黄理が拗ねた口ぶりで、顔を背ける。怒らせちゃったかな、なんて思ったけど、堪えきれない様子で笑い出した黄理の柔らかな表情に、わたしは。

 

 “わたしは、また恋をする”。

 

 

 

「だからさ、今の千束の姿のことだよ。もし、“幸せ”ってヤツに形があるんだとしたら、きっと……今の千束の姿の事なんだと思ったんだ」

 

 どきり、と鳴らないはずの有り得ない鼓動が全身に響いた。

 

「馬子にも衣装、って茶化す気だったんだけど。参った、ほんとうに参った。あぁ、それと降参ついでにもう一言…………千束のその恰好は、きっと見た人の人生を救えるくらい、すごいものだと思う。というか、思わされたよ」

 

「………………」

 

 悪戯っ子のように笑い、こっちの顔が赤いのもおかまいなしに黄理は嬉しそうに笑顔を向ける。パシャリ、遠くで聞こえるシャッター音。ミズキたちの声もした気がするけど、いまは真剣に何も考えられない。

 

 黄理が新婦の、黒タキシード着てるだけでもキャパギリギリなのに、まさかの鈍ちんで、唐変木の申し子である黄理が、こんな素直な直球を持っていたなんて。

 

 心臓にストライク。メンタルの許容範囲を場外ホームラン。守備でも、攻撃でも、なんか予想外過ぎた。

 

 

「……えへへ~、千束さん大勝利っ!」

 

「はいはい…………そういえば俺の感想は言ったけど、千束の方はどうなんだ。今の俺の格好、なんか感想とかある?」

 

 黄理がふと、思い出したように感想を求めてくれたことに、じぃんと体の奥に甘い痺れが生まれた。ウェディングドレスのスカートをふわりと揺らし、自分にできる最も魅力的な笑みを浮かべる。

 

「黄理のタキシードの感想ねぇ~」

 

 溜めて、焦らして黄理の反応を見ようとしたが、やりたいことの我慢だけはどーにも苦手。ただ、胸の高鳴りのまま、心と体の動くまま、直感と反射で言葉はもう既に口を突いていた。

 

「────すっごく似合ってる!!」

 

 

 満開の花さえ嫉妬するほど美しく温かな笑み。

 

 満面の笑みをした新婦は新郎に祝福の言葉を贈るのだった。

 

 

 

 それからわたしと黄理は宣伝写真を撮るため、カメラを持った男性の言う通りに立ち位置を変えたり、姿勢を正してみたりする。幾つかのシチュエーションに沿った場面を撮りたいということで、用意されていた指輪をお互いに嵌めて指輪の交換を演じてみた。

 

 ほんとうに黄理が用意したものってわけじゃない。チャペルにあった宣伝用の小物なんだけど、黄理に嵌めたときも、黄理に嵌めてもらったときも、やっぱり嬉しくて仕方ない。カメラのレンズに向けてしまう表情も、きっと浮かれてしまっているんだろう。

 

 フラワーシャワーの場面では、降り注ぐ花弁を頭に被った黄理がファンシーすぎて、みんなで笑ったし、ブーケトスではミズキがスライディングまでして奪りにいったにも関わらず空振って、放心状態のたきながちゃっかりキャッチしていた。

 

 楽しくて、嬉しくて、めでたくて、いっぱいの写真をとってもらった。そして、最後の撮影ということでわたしたちはチャペルの中へ。

 

 

 壇上に上がったわたしたちは、カメラマンの男性から次に撮る写真のシチュエーション。誓いのキスをするように、注文を受けた。

 

 ……受けちゃった。

 

 

 

 みんながいるし、大体、カメラマンとか、スタッフの人もいる中でキスしちゃうんだと、思考がぐるぐる回り出す。そりゃ、子供の頃はほっぺにキスとか、してみたりしたけど、ほんとうにするんか……口にしちゃうのか。

 

 

 わたしの葛藤もなんのそのと黄理は躊躇うことなく、わたしが被っている半透明な純白のヴェールをそっとめくり上げた。ヴェール越しではない赤の瞳が、蒼黒の瞳と鏡写しに交錯する。黄理の瞳の中に移りこんだ私の瞳。

 

 もっと覗き込めば、さらに黄理の瞳が映るのかもしれないけど、離れたところにいるカメラマンさんの“お願いしまーす”なんて呼びかけでようやく覚悟を決めた。

 

 黄理の真摯な眼差しに全幅の信頼を預け、そっと目を閉じわたしの全てを彼に委ねる。黄理の顔が近づく予感、周囲の視線は意識から遠のき、いま心には震えるほどの恥ずかしさとちょっとの好奇心。

 

 漠然としたあやふやな“IF”に思いを馳せる──。

 

 

 黄理の息遣いとわたしの息遣いが距離を縮めて、重なり合う……そのとき。

 

 

 

 チャペルの正面扉がけたたましく開き、見慣れない平服の男が乱入してきた。状況把握のため目を開こうとしたわたしを抱きしめたまま黄理は、闖入者である男から隠して庇う体勢を取った。

 

 飛び込んできた普段着の男性は、バージンロードを無作法に踏みしめてくる。

 

 唐突な見知らぬ顔の登場に、先生やミズキ、クルミにたきなも困惑した様子。一方、虎杖さんは一瞬だけ呆けた表情をしたあと、したり顔で笑って橙子さんへ視線を向ける。橙子さんはというと冷たい表情を保ち、そっと正面扉前へ陣取った。

 

 

「その結婚ちょっと待てぇぇぇ!!」

 

 憤怒にその形相を歪めた男は、チャペルに喧しく響き渡るくらいの大声で“結婚”に対して物申した。男の血走った凶眼は、一目で危険な思考状態を報せるようにひどく混濁している。その足取りは、ふらふらと不安定そのもの。

 

「よくも、よくもオレを、おれを裏切って……」

 

 男の物騒な言葉を聞いた千束は真剣に困惑する。そして、千束よりも早く反応したミズキは驚愕をその場にいた全員の意思を代弁した。

 

「はぁ!?まさか、千束のヤツ二股!?」

 

 さすがにその不名誉なセリフは看過できず、千束が首を横に振って返答。

 

「しとらんしとらん!!え、えっ、なに!?ほんと、なにがどーいうこと!?」

 

 現れた男は、懐からプラスチック製の、3Dプリンターか何かで自作した銃らしきものを取り出す。見た感じ作りは荒く、しかし、最低限の機能は確保してあるのが分かる。荒事に慣れたリコリコの全員の背筋に冷たい緊張が生じた。

 

 背に庇われた千束が一歩引いて状況を確認すると、橙子と黄理だけは冷静であり、この突飛な展開に(いささ)かも動揺もしていないことに気付く。

 

 いいや、むしろ、この展開を待っていたかのような。

 

 その考えを決定づけるよう、橙子は鋭く黄理へと呼びかけていた。

 

「ようやくお出ましか…黄理!」

 

「あいよ」

 

 刃と聞き違うほど鋭利な呼び声に、軽薄な調子で黄理が応じる。もっとも間近にいた千束さえ気づけなかったタキシードの裾に隠匿されている仕込み武器の棍を取り出すと、臨戦態勢の構え。

 

 それを見た乱入者は反射的に、銃の引き金を引いて発砲。弾丸は銃口の先とは見当違いの誰もいない方に放たれた。あまりの外れっぷりに、敵であるはずの黄理も呆れる。

 

「うわ、まともにライフリングも切られてないのか。かえって、やりづらいな」

 

「……黄理、まさか今回の結婚の依頼って」

 

「まさかも何も、いつも通り物騒な依頼だよ」

 

「────やっぱりかぁぁ!薄々おっかしいなとは思ってたけど!疑わなかったんだけどっ!伽藍の堂でやるお仕事、もう少し選んだ方がよくない!?」

 

「愚痴と文句は後で聞くよ、それで千束、銃は?」

 

「持ってるわけないだろぉう!?花嫁がそんなん持つかぁ!!」

 

 とさかにきてる千束の声を聞き、そして姿を見た乱入者の男は、唖然として何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くしている。それはそうだろう、男からすれば標的であるはずの花嫁が別の女性になっているのだから。

 

 嵌められた、そう理解するのに長い時間は不要で、男は自分の計画が失敗したことと、もう標的を襲うことができないことだけを脳裏で咀嚼すると、せめてこの場にいる人間をできるだけ多く殺傷しようという自暴自棄に方針を変えた。

 

 だが、その実行を最強のリリベルが許すはずもなく。

 

 手に持っていた棍が影も霞む勢いで投擲、男の持つ自作銃が弾かれ床に落ちる。唯一の武器である銃を弾かれ、何もできなくなったことを理解すると青い顔をして一目散に背を向けて逃げ出していく。

 

 脱兎、あまりに情けなくも(いさぎよ)い遁走に、さしもの黄理や橙子も目を点にする。逃げた男が扉の目前まで駆けていったとき、ハッと思考を取り戻した黄理はたきなの名を呼ぶ。

 

「たきな!!」

 

 黄理の凛としたよく通る声がたきなの耳朶を叩いたとき、行動は既に終わっていた。

 

「はいっ!」

 

 普段のサッチェルバッグではなく、小物入れのポーチに収納していたシルバーモデルのM&P9を抜き、ドレス姿のたきなが遅滞のない自然な動作で射撃を行う。

 

 もちろん、その射撃はDAで育まれた針の穴に通すほどの精密さと、リコリコで培われた“非殺傷(命、大事に)”を両立する急所を外した一発だった。足をかすめるように撃たれた男は、もんどりうって床に転がり、跪いたところに橙子が迷い無く足底部で相手の顔面を蹴り抜いた。

 

 

 いわゆるヤクザキックを顔面で喰らった男は今度こそノックダウン。倒され沈黙した男を、チャペルのスタッフ、に扮したクリーナーらが回収していく。標的を受け渡した橙子は、リコリコのメンバーたちの物言いたげな視線を放置して、ゆっくりと伸びをする。

 

「くぅぅ~~~~。これにて、一件落着ね!」

 

 

 

 

 

 依頼は無事に解決した。主にわたしの乙女心と、黄理への信頼度的なサムシングを大幅に削って。パジャマを着たわたしは頬を大きく膨らませて、今日のチャペルで撮ってもらった写真データを普段は映画を見る用テレビのスライドショーで確認。

 

 ブーケトス前、マジの野球部張りに腰を下げた姿勢でブーケを狙うミズキ。一歩引いたところで応援に回っている先生とクルミ、虎杖さん。思いがけずブーケをキャッチしてしまい、ぽかんとした表情で困惑しているたきな。

 

 花びらを頭から被って、複雑そうに顔をしかめている黄理。

 

 

 自室へと帰ってきてから、時刻は深夜に差し掛かる。今日の結婚式のデモ撮影に見せかけた偽装工作が終わった後、わたしたちは言いたいことは色々とあったけど一旦は解散することにした。まぁ、わたしだけは納得いかなかったんで、黄理を拉致って説明してもらったけど。

 

 説明、もしくは尋問でも可。なんでも伽藍の堂が引き受けた仕事は、チャペルの修繕ともう一つあったらしい。外務省のお偉い人の娘さんが結婚間近になって、不審者に付け狙われているという情報が入った。リリベルを知る外務省高官の人は、伽藍の堂へ依頼を出して不審者の捕獲を依頼。

 

 ついては捕獲のための(おとり)

 

 いや食いつかせるためのエサが必要だったわけで。

 

 

「……なぁ、頼むから許してくれ、別に悪気があったわけじゃないんだ」

 

 黒の作務衣姿で、項垂れている黄理は神妙な顔で謝り続けている。でも、大人しく許すもんか、てゆーかこの場合だと悪気なしでやったことの方が大問題だし。

 

「ふーんだ、知らないもんねー!」

 

「なぁ、千束、おーい」

 

 ぷいっと千束は首を背けたまま、黄理の呼びかけに不機嫌そうに口を尖らせた。

 

「…大体、嘘で女の子の唇を奪おうとするなんて、ズルいんじゃない?」

 

 そう、最後の誓いのキスの撮影は、あともうちょい、不審者の男が空気を読んで乱入を遅らせていたら、最後まで……いや、最後までしたら、まずいって話!

 

 ──それはともかく。

 

 ズルい、昔から黄理の方が千束へ向けて言うセリフを今度は千束の方から言い放ったことに黄理は、驚きと不思議な愉快さを感じていた。もっとも、千束はそれだけいうと、拗ねた様子で顔を背けてしまう。

 

 その幼稚な拗ね方を見た黄理は、からかい混じりに千束の名を呼ぶ。

 

「お~い。千束。千束さーん、千束や~い、ち~さ~と?」

 

「…………もう!そんなに呼んでも許さないものはゆるさ──」

 

 ふわり、いきなり髪にかけられた半透明で真っ白な光のごとき一枚布。

 

 何も言わぬまま純白のヴェールをかけた黄理は、それをめくり。

 

 そっと唇を重ねた。

 

 静かに、だが確かに鳴ったリップ音。刹那、しかし確実に存在した唇に感じる暖かな体温と感触。彼の突然の行動に圧倒された千束が実感と理解をするよりも先に、黄理は立ち上がって意地の悪い表情で口角を緩めた。

 

 

「ズルいって言われても暗殺者がズルいなんて今更だろ?それに暗殺者から目を離すなんて、ちょっと油断しすぎなんじゃないか?」

 

 黄理は言いたいことを言い、やりたいことを済ませると千束の再稼働を待たずして、彼女の部屋を軽やかに出ていく。部屋を出たところで意識を取り戻したのか、扉の向こうから困惑の憤りに叫び散らす声が防音設備を飛び越えて聞こえてきた。

 

 

 ひょっとすると銃まで引っ張り出しているかもしれないと、黄理は一息を吐く。非殺傷弾を食らうなんて一度で十分。そして、非殺傷弾の一発は旧電波塔のてっぺんで既にもらっている。説得や会話で懐柔なんて器用な真似ができない以上、ここは尻尾を巻いた方が良い。

 

 マンションの転落防止柵、その手すりに黄理は腰かけると、座った状態で背中側に重心を傾けて、地上数十メートルを落下していく。途中の手すりや雨どいを壊さない慎重な加減で着地を繰り返し、階段、エレベーターを使わず糸でも使って降下したかのように地上へと七夜の蜘蛛は降り立った。

 

 頭上に見えるは銃を握った手を振り回して顔を真っ赤にした千束の姿。怒り心頭な千束に向かって軽く手を振ると黄理は、満月に照らされた夜道で機嫌も良さそうにステップを踏む。

 

「まったく、日常ってのも難儀なもんだな…」

 

 

 どうして、あのとき自分は千束に口づけをしたのかと黄理はふと頭をひねるが、今宵は理由など考えるだけ野暮なことかと肩をすくめて思い直した。

 

 

 そう、なにせ今夜は────。

 

 

 こんなにも月が綺麗だ。

 

 

 

 

 






 中庸・秩序→中庸・善

 稚拙で、描写不足ながらも、どうにかめでたい場面を書ききることができました。まだまだ、話は半分にも至りませんが今後も応援のほどをお願いします。つきましては皆様の祝辞の言葉をいただければ、光栄です。

 次話はたきなルート、たきなと黄理のラブコメをお楽しみください。
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