Lycoris A moon eclipse   作:悪事

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 大変、長らくお待たせしました。たきなルート、開幕です。

 今回の分岐は同時投稿をしておりますので前話は千束ルートになっております。皆様が選択された方を先に読んでいただき、その後に興味がありましたら、もう一方のルートもどうぞ読んでいってください。




Can only end one way【2】√T

 

 

 

“微力ですが、協力できるかと思います”

 

 

 

 

 黄理くんがやる気もなさそうに見ていた、モデルの女性たちが変なポーズをしている本を取り上げて、私は黄理くんが出るアルバイトへの参加を希望する。ただ、私が挙手をしたところ、千束がなんだか慌てて辺りを見回してから、おずおずとレジの方に向かって行った。

 

 千束は特に用もないのに、レジをいじりながら目を泳がせている。

 

 はて、何がしたいのだろう?千束の変な行動に首を傾げるが、いつものこと(奇行)だと考えるのを中断した。いまはそれよりも、具体的な仕事の内容だ。

 

 黄理くんの隣に立った私は、橙子さんへ話を進めてくれるよう視線で促す。

 

「いやはや、想定よりすんなり決まってくれて助かる。正直なところ、今日中に決まるとは思いもしなかったからな。だが、たきな。本当にいいのか、この唐変木相手で?」

 

「……別に、結婚式場の宣伝のためなのでしょう?実際の法的拘束力や事実はないため、特別、問題はないかと思います。黄理くんに関しては……今更ですから、もう慣れっこです」

 

「なんか含みがあるな。俺、そんなにやらかしたことあったっけ……」

 

「今まで黄理くんのやってきたことを思い返して、胸に手を当ててみては?」

 

 

 私は出来る限り自然を装った表情で黄理くんの小さな声の文句を斬り捨てる。私と黄理くんの会話の掛け合いを見た橙子さんは、笑いながら肩を竦めると封筒を投げて寄越してくる。受け取ったそれにはチャペルでの撮影予定日や、当日にドレスを貸し出してくれる案内などが記載されていた。

 

 ドレスのカタログはただの写真だというのに目の錯覚か、不思議と全て光り輝いているように見える。同時にウェディングドレスについて。素敵なのはなんとなく分かるのだが、普段よりも足の可動範囲や行動に制限が掛かりそうだという感想が先に浮かんでしまった。

 

 多様過ぎる種類とデザイン、見ているだけで目が回りそうなカタログを簡単に眺めていると、橙子さんが封筒を千束や、クルミ、ミズキさんにも渡している。

 

 どうしたんだろう?

 

 

「これかい?撮影には参列者役も必要でね。四、五人ほど用立てる必要があったのだが。丁度いい、お前たちも遊びに来ないか?」

 

「マジで!?いいの~~!」

 

 レジとにらめっこをしていた千束が勢いよく顔を上げると、ご機嫌な調子で橙子さんの話に乗っかってきた。クルミやミズキさんたちの反応も悪いものではなく、これなら店長の参加も期待できるだろう。

 

 なるほど、確かに結婚式というなら周囲の人たちも必要になるかと納得で頷いた。正直な話、黄理くんと二人だけというのは……なんだか、こう。心臓に負担がかかりそうだったのだ。皆さんが来てくれるというなら、それに越したことはない。

 

 

 

 誰にも見られないよう安堵の吐息を付いたたきなを尻目に、七夜黄理は呆れた調子で蒼崎橙子に目線を向ける。そう、伽藍の堂の上司である蒼崎橙子は今の条件こそを着地点として目論んでいたのだろう。まったく段取りがいい、というか橙子さんは自分の都合の良いように人の段取りをいじるのが上手いのだ。

 

 たきなか、千束。どちらかを雇えば、リコリコのメンバーもなんだかんだと付き合いがいいため、なし崩しで誘えるという算段。

 

 ミズキもウェディングドレスでないのなら、と前向きな調子だし、クルミも楽しそうだとノリ気である。千束がやたらとハイテンション過ぎるのは……平常運転か。千束は封筒に入っていた結婚式場のパンフレットを掲げて、たきなに抱き着いている。

 

 

「最初から全員を巻き込む前提だったんですね…」

 

「そりゃ、めでたい行事だ。頭数は多い方がよかろう?」

 

「まぁ、そりゃ、そうなんでしょうけど」

 

 黄理は橙子のからかい交じりの言葉を聞いて、改めて敵わないと肩を落とす。むしろ、こういう人心掌握の分野で蒼崎橙子に勝てる人間の方が珍しい。ふと、ゼクシィを手に取った黄理はチャペルのステンドグラスの写真を見て、“お仕着せ人形なんて俺には向かないのだけどなぁ”、と言葉にならない弱音を内心で零すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 晴れ渡った青空、夏の盛りだというのにカラッとした気持ちの良い空気。近くに噴水があるからだろうか、風は涼やかでとても過ごしやすい。よく手入れのされた芝生は涼風を受けて、水面を波打つように葉を揺らしている。好天一色、空模様は今日いっぱい変わることはないだろう。

 

 まさに祭事、祝い事には絶好の吉日。

 

 都内某所、ある結婚式場のチャペルへと続く階段の前。

 

 そこにはリコリコのメンバーが揃って、今日という日に合わせて着飾っている。

 

 

 特別なハレの日ということもあり、普段の制服や和装と異なる装いを着こなしている。例えば、金髪をワンサイドアップにまとめるクルミは、艶がかったはちみつ色のカジュアルワンピースを着て、不貞腐れた表情をしていた。

 

 クルミの服装はなんというか、完全に七五三の児童のそれだ。似合ってはいるし、年相応といえば聞こえはいいのだが、服装が幼稚過ぎるためか不服さを隠してもいない。

 

「おい、ボクだけジャンルが違くないか?」

 

「はははっ、似合ってるわよ~。背伸びしてない年相応って感じかしら」 

 

「え~、ばっちし似合ってるよぉ~。めっちゃ可愛いって!」

 

「褒め言葉は同じなのに、ニュアンスでこうも意味合いが変わるなんてな」

 

 高笑いをあげるミズキは、若草色をベースとし、白い造花のブローチを胸元に付けたフォーマルドレス。スカートにはクローバー柄のレースがあり、華やかでありながら派手さを決して見せない装い。落ち着いたドレスの着こなしは、大人ならではといったものか。

 

 ミズキの横でクルミをベタ褒めしている千束は、大胆にも太腿を見せつけるミニ丈の赤いパーティードレスを華麗に着こなしている。赤という強い色彩だが、派手という印象よりも先に活発、天真爛漫といった晴れやかな印象を始めに抱かせる服装。

 

「世の中、外見なんて一面にしか目のいかないヤツばかりで困るよ、まったく」

 

「重要な判断材料でしょ~がよ」

 

「も~、二人とも拗ねない拗ねない。どっちもすっごい似合ってるんだから。まぁ、こぉの完璧美少女、千束さんには一歩、及ばないけど~」

 

「ん、だとコッラ!?及んでるどころか、追い越してるわっ!」

 

「……そこは謙遜で、三歩ほど引いておくべきじゃないか?」

 

「そんな考えは古いのよ、スーパーハカー」

 

「ボクとしては、お前のその言い回しの方が古いと思う」

 

 千束、クルミに向かって、ミズキが威嚇するように吠えかかるのを見かねて、もう一人、ちゃんとした方の大人が仲裁に入る。

 

「コラコラ、三人ともいい加減にしなさい。リコリコの全員が揃ってお呼ばれしたんだ。此処で不機嫌になっては、借りた衣装ももったいない。せっかくの祝いの場なんだから」 

 

 普段より着ている紫の着物ではなく、派手過ぎず地味にならない程度に明るい紫陽花色のスーツ。リコリコの店長であるミカは、和装から洋装に着替えても(さま)になっている。普段の和服と合わせた紫のネクタイを締めている姿は、どこから見ても立派な大人というに相応しい。

 

 ミカのとりなしで、ようやく三人娘、いや一人だけ娘と言うには厳しい女性もいるが、ひとまず三人は冷静さを取り戻した。ただ、冷静を取り戻したといっても、千束だけは嬉しそうにスカートを翻すよう、クルリと回り続けている。

 

「えっへへ~、ドレスでおめかしができるなんて伽藍の堂の仕事とは信じられないくらいの大当たり依頼じゃな~い?」

 

「いつまでクルクル回ってんのよ、あんたは…」

 

「まぁ、普段と違う装いで気分も昂揚するのは、わからんでもないが…」

 

 心の底から浮かれている千束に、一抹の不安を抱くミズキとミカ。

 

「千束、あんたは“いいの?”」

 

「ああ、今回の依頼。別にたきなと代わってもらっても……」

 

「──ミズキ、先生、そんな変に気を遣わなくても大丈夫だって。まぁ、ちょこっとだけ、ほんのちょびっと、たきなが羨ましいのはホントだけどさ。でも、あのときのたきなは、私よりも先に自分のやりたいことに正直になれたんだ。ふっふ~んっ、この元祖“やりたいこと最優先”が座右の銘な千束さんの先手を取ったんだよ~?」

 

 “それがすんごい嬉しいんだ!”。

 

 そう言って、たきなの心身の成長を一切の偽りなく喜ぶ千束の笑顔は太陽に負けないくらい眩しく輝き、息を呑んでしまうほど魅力的な威力を放っていた。しかし千束の、七歳の頃から胸に秘め続けていた七夜黄理への仄かな想いを知るミズキとミカは内心、複雑な心中に陥ってしまうのだった。

 

 やがて、うんざりした様子のミズキは、深くため息を零して益体もないぼやきでその場を濁す。

 

「あんたねぇ、古くから恋愛事じゃあ“幼馴染は負けフラグ”って言葉があるのよ?」

 

「…それ、大して古くないんじゃない?っていうかぁ、たきなとは別に何も勝負してないし、そもそも負けてないからね!!」

 

 ミズキに食って掛かる千束の姿は、先ほどの神秘性すら伴った美貌を薄れさせ、満面の笑みで場を明るく照らしている。

 

「まぁ、今日はたきながウェディングドレスなんて、大層な飛び道具で黄理に接近するんだ。式場で、結婚に物申すくらいの気持ちでいた方がいいだろう?」

 

「こら、クルミ。千束を変な方向に焚きつけるな。それに君が言う、“良い”って面白いとか、愉快そうって意味合いの“良い”だろう……」

 

「なんだ、バレてたか?」

 

「見え見えだ」

 

 そう言って場を締めたミカは微笑みながら、本日の檜舞台にあたるチャペルを落ち着きはらった面持ちで見つめている。千束もまた、ミカと並び立ってチャペルの方へと瞳を輝かせて、しゃんと背筋を伸ばして向き合った。

 

 すると、横合いから千束をからかうような視線・声と共に、グレーのスーツと青のネクタイを締めた男性、いやリリベルの指揮官たる虎杖が現れたのだ。

 

「ほう?千束君は正直、複雑な心情かと思っていたが、存外、冷静というか落ち着き払っているな。落ち込んでいたら如何したものかと思っていたが……完全に杞憂だったな」

 

「えっ、虎杖さん!?」

 

「なっ、虎杖さん!?」

 

「オイオイ、虎杖のおっさん、あんた本業とかどーしたのよ?偉い人間が随分、暇してるじゃない?」

 

「めでたい日にそういった野暮な事をさせない程度にはうちの組織にも情というものがある」

 

「え~。ホントかな~?」

 

「それな」

 

 組織、なんてきわどい単語が出たことに対し、千束、ミズキはあっさりした対応で受け流す。だが一応、一般人としてリコリコに居候しているクルミは、背筋に冷や汗が流れるの感じながら息を殺す。

 

 ここにきて、虎杖が自分は何者かと匂わせるような口ぶり。これまでリコリコの日常でも、決して口を開かなかった自分の職業、いや所属する組織についての言及に、心臓が痛いくらいに音を鳴らしている。

 

 

 考え過ぎだろうか?いや、それでも警戒するに越したことはない。

 

 そんな、クルミが気配を必死で殺そうとしている様子に対して、虎杖はおどけた素振りで片眼を閉じた。

 

「安心したまえ、クルミくんが何者かを詮索する気はない」

 

「……そーいうのは、詮索を既に終えているからって相場が決まっているもんだがな」

 

「虎杖さん、ひょっとして……クルミのこと調べた?」

 

 無言のまま、なぁなぁで済ましてくれれば、クルミとしても安心だったのだが。千束も一応、虎杖へ探りを入れるが虎杖はおどけるように軽く笑って誤魔化すだけ。

 

 しかし、此処で敢えてクルミの正体について後ろ暗いことがあると示唆する言動は、それ自体が正体を調べ終えていることの言及無き断定に相違ない。

 

「さてね?どのみち、今日の祝いの席には似つかわしくないし、今後、リコリコで語らうにも相応しくなかろう。詳しいことは私の胸に秘めておくとしよう。ただ、強いて言うなら……以前、橙子も言っていたことだが、もう少し名前はひねった方がいい。消息を絶った時期に、似た名の人物が不意に現れる。DAでなくとも不審に思う」

 

「ちょいちょい、DAは出したらあかんワードでしょ~」

 

「決定的なセリフを出すなよ……」

 

 “DA”、リコリス、リリベルの統括を行う秘密組織の名称。それを明言したということは、間違いなく自分の正体を知られていると千束とクルミに理解させた。まぁ、橙子も以前より勘づいている節はあったし、それを知ってなおリコリスの本部に自分を売ってないことから、すぐさま殺されることはないようだ。

 

 それなら、まぁいいかと思う程度にはクルミの心胆は据わっており、千束も虎杖が此処で短絡的な行動をしないというくらいには信用を預けている。ひとまずの危険性がないことを察した二人は早速、虎杖の服装に“気合入れすぎ~”なんて茶化しに行くくらいに命知らずなことをするのだった。

 

 

 虎杖の唐突なクルミの正体に対する発言で、大人組はやりにくそうに表情を硬直させていたが、クルミや千束は平然と虎杖と談笑している。

 

「まぁ、黄理も来るんだし、虎杖さんもそりゃ来るよね~」

 

「ああ、と言っても今回の招待は黄理本人ではなく橙子からだがね。聞かされた時は驚いて、それから呆れたよ。まったく、黄理はいくつになっても、こういう祝い事や様々な事柄に無頓着で困る」

 

「めちゃ分かる。もう分かりみがすっごい。黄理のそういう面倒なことの大部分を省くのとか、報連相で一番大事なポイントを抜かすところは昔からなんだよなぁ…」

 

「普段から財布落としたり、携帯を無くしたりしてるから、ありゃ完全に性分だろ。ボクとしては、一生治らない類いのものと見た」

 

「クックックッ、違いない」

 

「お~い、そういう笑い方してると悪の組織の親玉みたいだぞ?」

 

「あっ、確かに~!じゃあ、私とクルミで、お色気枠な悪の女幹部やんない~?」

 

「何が“じゃあ”だ。それにボクのどこに、どんな色気を見出す気だ」

 

「……えっと、華奢な手とか足とか?」

 

「ボクのは華奢とかじゃなくて、単に小さなだけだろ」

 

「まぁ──言われる前から一目瞭然だな」

 

 

 千束と虎杖、クルミを交えての軽快な会話だが、ミズキやミカは特に慌てる素振りも無く冷静な態度で佇んでいる。子供の頃からの長い付き合い、千束と虎杖の遠慮ない会話ならクルミが多少、礼儀的にまずいことを言ってもスルーされるだろう。そんな予測をする程度には、二人の大人たちは千束と虎杖の関係性に安心感と同質の信頼を於いていた。

 

 

 虎杖こそはDAの男系暗殺者、リリベルの指揮を行う東京支部の司令である。だが、それ以前に、千束たちは知っていた。慈悲や感情を任務中は抹消している彼も、七夜黄理が絡んだ場合は人間味というヤツを垣間見せるということを。

 

 クルミも、その雰囲気を感覚的に察し、危険にならない程度の冗談で虎杖と世間話に興じ、千束やミズキ、ミカたちもしばしの歓談に時間を潰すのだった。

 

 

 やがて緊張感が緩んでいるか、張っているか、微妙な空気となった頃合いを見計らい、くすんだ赤髪を揺らして蒼崎橙子が顔を出す。纏うドレスは、大胆に肩を晒しながらも派手になりすぎないよう黒を基調としている。暗い印象を与えないためか、ドレスの胸元には橙色のリボンが幾何学的模様になる結び方で留められていた。

 

「──ふむ、参加者は全員、揃ったようだな」

 

 凄瓏とした橙子の立ち姿は、その美貌ゆえに迫力と言う他ない雰囲気が漂う。普段、かけている眼鏡は外しており、幾分か鋭く尖った目つき。はっきり言ってカタギに見えない立ち居振る舞い。それにより、チャペルという平穏の舞台にそぐわないほどに物騒な気配を発している。

 

 

 本人もそれを自覚していたのか、取り出した眼鏡をおもむろにかけると、あらたまってリコリコの四人、そして虎杖へ手を振ってきた。

 

「ふふっ、今日は伽藍の堂(ウチ)の仕事を手伝ってくれてありがとう。黄理とたきなちゃんの晴れ舞台を観ていってね、ほんと見ものよ?」

 

「いやっほ~~!待ってました~!」

 

「見ものか、二人を見世物にした君がいうのもどうかと思うが……そうだな、たきなくんや黄理が着飾る姿はまさしく見ものだろうよ」

 

「そりゃ、そうだよ!なんつったって、全ての女の子の憧れ、ウェディングドレスだよ!?たきな、どんなウェディングドレス着るんだろ~なぁ。見る前から、すっごい楽しみっ。あと……黄理のタキシードも…………ちょっとだけ気になる、ような。気に、なんない?こともなくもなくない……かも」

 

「いや、どっちだYO!?」

 

「なんで、ラップ調なんだよ」

 

 ミズキが煮え切らない千束の物言いにラッパー調で問いを投げる。一歩引いたクルミは、千束、ミズキの両名を見て愉快そうな態度を隠そうともせず、一言のみツッコミを入れた。女性陣たちの奇妙な掛け合いを、虎杖はクルミと同じく楽しそうに見ているだけ。橙子もまた同様である。

 

 ミカは自分のみが、この場の雰囲気のかじ取りをするしかないことを無言で察し、千束が興味を隠そうとしている内容を、彼女に代わって話題に挙げた。

 

「そういえば、ウェディングドレスは白と相場が決まっているが、新郎側は?黄理くんは、どんな格好で来るんだ?」

 

「やっぱ、白のタキシードとかじゃない?ウェディングドレスと揃えてくるとか。まぁ、黄理がそれを着てるのはまったく想像もできないけど……あいつ普段は制服と作務衣ばっかだし」

 

 ミカとミズキの二人は敢えて橙子に聞こえるくらいの声量を出し、彼女が口を滑らしてくれることを無言のままに期待する。千束も態度や表情に出ないように、すました顔をしているが明らかに興味津々のご様子。一方、黙っている必要もないため、このチャペルの依頼を持ってきた蒼崎橙子は軽快に口を滑らした。

 

「ああ、黄理の服装は白のタキシードじゃないのよ。あの子ったら、ほんとうに白のタキシードが似合わなくてね。いや、試しに着せてはみたものの似合わな過ぎて笑っちゃったわ」

 

 ぴくり、と興味なさそうに振る舞っている千束が黄理の白のタキシードの話を耳にし、肩を跳ねさせるが、それをスルーしてミズキは軽快に笑った。

 

「あ~、確かにあいつなら白のタキシードが似合わなくても不思議じゃないわね」

 

「そうだな、ミズキの婚活が上手くいってないのと同じくらいには不思議はないな」

 

「めっちゃ不思議じゃい!」

 

 クルミの発言を否定しようとして、会話の脈絡が混迷に陥る。そんなミズキの発言を、千束が笑いつつ拾いあげた。

 

「そうそう、これは実に不思議だよ。なぜ、コーヒーが黒いのかくらい不思議ぃ~、ププッ──」

 

 千束のセリフが最後の方で含み笑いをした所為で、ミズキのテンションがより高く、やかましくなった。

 

「んな、簡単な問題じゃないわよ。いい?わたしが良い相手に巡り合ってないのは、不思議じゃないの。複雑で、難しい、事情があるのよ。そう、例えるなら、ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題、リーマン予想のように難解で、複雑なわけってのがあるの。お分かり?」

 

「ミレニアム懸賞問題かよ……」

 

「数学界の史上最難問と一緒くたにするのもどうかと思うわよ?」

 

「橙子の言う通りだ。流石にそこまでの栄誉と同一視するのは過分だろ」

 

「過分じゃねーよ!適切だよ!」

 

 橙子とクルミへ吠えかかるミズキに対し、千束は片目をつぶって腕を組む。

 

「え~、適切ってなると結婚が千年(ミレニアム)後くらいになるんでない?」

 

「…アタシの結婚は千年後か!!」

 

「いいじゃんかぁ~。千年の恋、もしくは愛?うんうん、ロマンチックだねぇ~」

 

「あんぽんたん!千年もかけたら、ロマンスも冷めるわ!」

 

 ミズキの心からのシャウトに、集った面々がドッと笑い出す。

 

 

 

 

 

 

 雑談もほどほどにして準備が整ったのか、揃った面々はチャペルの中に通される。チャペルの奥、天井に近しい位置には美麗な太陽と月の重なったステンドグラスが存在し、明るい黄色や青色の光を透過させている。太陽と月、そのモチーフを重ね合わせ、黄色と青色の光が複雑に織りなす乱反射は、空間そのものを神秘的に染め上げていた。

 

 長椅子に腰かけようとすると、そこで橙子が思い出したかのように表情を曇らせる。困ったように額に手を当てている様子に、千束が声をかける。

 

「どったの、橙子さん?」

 

「あ……う~ん、実は、その。…………介添え役、花嫁のたきなちゃんとバージンロードを歩いてくれる介添え役の人が見つからなかったのよ」

 

 橙子のカミングアウトに、ギョっとした面々は同時にバージンロードの開始地点を振り返る。それはつまり、新婦のエスコート役が不在という最大の窮地、大変な状況であるということを指し示していた。

 

「ちょ、ほんとに当日になっても決まってないの!?」

 

「いや~、なんだかんだでエスコート役は決まるかと思ってたんだけど、まぁ、成り行きに任せるとこうなるのねぇ。アッハハハッ」

 

「笑いごとじゃね~、マジでどうするわけ!こうなるとたきな、ひとりでバージンロードを歩く羽目になるわよ!」

 

「実際問題、どうするんだ?こうなったら、誰かが出ないといけないけど……」

 

 そういうクルミの顔は“自分はムリだぞ?”という困惑が顔に書いてある状況。ミズキも、“アタシは親族って雰囲気じゃね~し”みたいな表情で、千束に関しては同年代。ミカだと純日本系のたきなと食い合わせが悪いため、チャペルの宣伝という本旨から外れてしまう。リコリコの全員が頭を抱えだす一歩手前、スッと自然に一人の男性が長椅子から腰を上げて立ち上がる。

 

「ならば、私が出るとしよう。別段、立候補しても問題ないのだろう?」

 

「虎杖のおっさんがたきなのエスコート役!?」

 

「オイオイ、たきなのヤツ。バージンロードの開始地点で驚いてフリーズするんじゃないのか?」

 

「いやぁ、ありがたいわねぇ。此処は虎杖さんの好意に甘えるとしましょう~~」

 

「いや、いいのか?虎杖さんも、ほんとうに?」

 

「構わんさ。元より、橙子の依頼だ。なんらかのイレギュラーはあると想定していたよ」

 

 立ち上がってチャペルの正面、大扉前へと歩いていく虎杖。そんな彼の背中に向けて、澄んだ声音で千束は、虎杖へ鼓舞の言葉を力強く贈った。

 

「うん、たきなの隣…………臨時で虎杖さんに任せた!」

 

「───嗚呼、任された」

 

 虎杖の返答に満足した様子の千束は祝福するように陽気に満ちた微笑みを浮かべ、クルミやミズキ、ミカもまた虎杖の背中に信認の視線を静かに向ける。リリベルの司令、虎杖は落ち着いた様子でバージンロードの出発点に立つのだった。

 

 

 

 

 しばらくして、チャペルの鐘が荘厳かつ高らかに鳴る。チャペル内のスピーカーからは、新郎の入場を告げるアナウンス。開かれた扉より、静寂と黒を纏った青年が歩いてきた。青年が纏うのは、良く仕立てられた黒のタキシード。

 

 夜空を織り込んだような黒鴉色のタキシードは、まだ少年の面影が僅かに残る黄理の姿を、より大人びたものに変える不可思議な魔力があった。キャンドルに揺らめくほの暗い篝火だけが光源の薄暗いチャペルでは、目を反らしてしまえば消えてしまいそうなほど不鮮明な立ち姿。

 

 それゆえに、七夜黄理の姿には目を離すことを許さぬ魔性の気配が醸し出される。

 

 

 普段の気の抜けた雰囲気は、纏ったタキシードによって見ている側の人間が背筋を正すほどに誠実な威厳へと変化していた。七夜黄理がバージンロードを歩いていく姿に、千束の瞳は引き寄せられ、同時に魅せられた。

 

 “まだ”、七夜黄理が魂のうちに宿す魔性に。

 

 惑わされていた意識が戻ると、千束は壇上に向かっていく黄理の後ろ姿を目の当たりにして、寂しいような、嬉しいような、苦しいような、不吉なような、奇妙な気分を味わうのだった。

 

 

 

 大扉の前で虎杖を見つけて、目を見開きはしたがそれ以外は務めて冷静に粛々と歩を進めていく。やがて、チャペル奥の壇上に立った黄理は静かに蒼黒の瞳を伏せた。

 

 

 そして、新郎が壇上に上がったことを合図としてもう一人の主役が現れた。開かれた扉より差し込む外の日差しと共に、人のカタチをした純白の光輝がチャペルに差し込む。否、それは光という現象に見まがうほど美しい純白のウェディングドレスを着こなし新婦に扮した井ノ上たきなだった。

 

 

 

 艶やかな光沢と墨よりも濃い黒、煌星を散りばめた夜空のような黒い髪にかかる、(かんばせ)を秘め隠す純白のヴェール。美しい濡れ羽色の髪を飾るのは紫陽花(あじさい)色の華飾り。

 

 紺碧の海に照り返す光を織りこみ作り出されたのではと思うほど、目映(まばゆ)いウェディングドレスを彼女は華麗に着こなしている。胸元から腰にかけて広がるのは、華を模したレース柄。何よりたきなの身体のラインを存分に引き立て、より艶やかとするマーメイドドレス。首から鎖骨、背中から腰、腰から脚にかけてのラインをより美しく、より輝かしく演出している。

 

 

 見る者の時が停止するほどに魅力的な、美しさ。

 

 この場に集った面々の意識が井ノ上たきなという少女に奪われ、ミズキが、クルミが、千束が、ミカが、この場面を撮ろうとしているカメラマンやチャペルのスタッフたち、それぞれが感動に息を呑んだ。

 

 そしてチャペルの正面大扉の傍で、待機していた虎杖は“ホゥ”と薄く感嘆を零す。たきなは、バージンロードで自分を待っているのが、虎杖であることに驚くも、慌てぬよう冷静に、落ち着いて軽い会釈を(おこな)った。

 

「驚いた。まさか、これほどまでに美しい花嫁を黄理のヤツが射止めるとはね」

 

 虎杖の軽口に、ほんの少し頬を朱に染めたたきなは、なんでもないような冷静な調子で虎杖と目を合わせる。

 

「ありがとうございます……ですが、その……広報活動の一環です。あくまで伽藍の堂の依頼ということで、本当の結婚ではありませんよ?」

 

「それはそうだが、あの黄理が、わざわざ出向いているということが私としてはもう一つの大きな驚きなのさ」

 

「……それは、どういった意味の?」

 

「黄理は、こういった行事を好まない。暗殺者の(さが)か、本人の気質か、あれは目立つ立ち位置をひどく倦厭する──いくら依頼とはいえ、黄理がこういった面倒ごとを引き受けたのに驚いたものだ」

 

 たきなの菫色の虹彩を覗く虎杖の微笑みに、人間らしい感情の熱が灯る。

 

「たきなくん、私はね。黄理を七歳の頃より見てきた。あれは、何よりも、誰よりも、DAの職務に適性を示していた。だが、その分、ありふれた日々の中で生きていけぬような不器用さもあったのだ。それも、リコリコの面々との暮らしで和らいできたものがあるが、本質というものはそう簡単には変わらん」

 

 たきなは人の感情を汲み取るということが得意というわけではない。でも、そんな未熟な情緒のたきなであっても分かるほど、虎杖の言葉の内には温かな親愛の情が存在していた。

 

「虎杖さんは、それを変えようと思っていたのですか?」

 

「言ったろう、そう簡単には変わらぬものだと。しかし、黄理はゆっくりとだが、変わりつつある。今の私には、それだけが、黄理の変わりゆく未来だけが、興味の対象なのだよ。私自身も黄理の変化の一助にと思ったこともあるが、どうも私では向いていないことだけが分かった。だからこそ、たきなくん。君には無責任ながら、期待をしてやまない」

 

「私に、黄理くんを変えられるような特別な事なんて……」

 

 虎杖は、そこで優し気に首を横に振る。

 

「君は気づかぬようだが、黄理のヤツはどうも君相手だと妙に優しいところを見せているんだかね?千束くんのぞんざいな扱いとは別の、より細やかで、優しい女性に対する対応を君だけにしている」

 

「……それは単に、わたしが女性だからというだけでは?」

 

「そうかな、私の知る限り、ミズキくんや橙子のヤツ、いや裏の事情を知る女性を、まともに女性扱いする黄理なんて、見たこともないが──」

 

 どうにか、虎杖の発言に謙遜の形で、予防線を一生懸命に張ろうとするたきなを見て、屈託のない笑みで納得をしていた。

 

「そうか、なるほど…」

 

「?…なるほど、とは?」

 

「いや、なに。案外、射止められたのはたきなくんではなく、黄理のヤツなのかもしれないと思ってね」

 

「え───?」

 

「では、花嫁殿。あの不愛想で、未熟で、唐変木な花婿のところまで、僭越ながら介添えの役を担うとしよう」

 

 恭しい虎杖の所作を前に穏やかな微笑みを称え、輝き(ドレス)を纏ったたきなが(おごそ)かな所作で、白手袋に覆われた手を差し出した。そっと、丁寧に虎杖は花嫁の手を取り、眼前に伸びる赤絨毯のバージンロードへと歩き出した。

 

 

 

 

 

 傍らにリリベルの司令たる虎杖を連れ、たきなはバージンロードを歩ききる。チャペルの壇上へと上がり、ステンドグラスの下で新婦と新郎は、互いに似通った菫色の瞳と、蒼黒の瞳を重なり合わせた。

 

 黄理も、たきなもお互いの見たこともない装いに見蕩れ、見惚れて息を呑む。向かい合う両者、見慣れぬ相手の姿にぎこちなく口ごもる。不意を突いて口火を切ったのは、黒のタキシードを着た黄理の方だった。

 

「その、虎杖さんがまた妙な事でも言ってたか?たぶん、ほとんどが聞き流していい無駄口だから、深く考えない方がいいぞ。昔から、話し相手が割を食うようなことばかりを話題にしたがるんだ」

 

「フフッ、“全て”ではなく“ほとんど”なんですか?」

 

「上手い噓つきの特徴みたいなもんだろ、嘘は八割、九割、たまにホントを織り交ぜるから余計にタチが悪いんだ」

 

 黒を身に纏う黄理と、純白に着飾るたきなは、かしこまった衣装ながら普段通りの自然体で笑い合う。

 

「黄理くんもフォーマルな、特別な衣装に袖を通すと、普段と違った印象になりますね。控えめに言って、いつものぼんやりした雰囲気が嘘みたいです」

 

「俺、そんなに普段から緩み切ってるのか……というか、それを言うなら、たきなだって──」

 

 そこで黄理の口車は純白の美貌に惑わされて、会話が途切れる。

 

 黄理の急な逡巡に、たきなの菫色の瞳が不安に揺らめく。それも、ほんの短い間。

 

「“私だって”、なんですか?此処で言葉を尽くさないのは、格好が付きませんよ?」

 

 たきなはすぐさま、黄理の蒼黒の瞳へ力強く睨みを利かせ、彼の言葉の続きを引き出そうとする。

 

 菫色の虹彩が突き刺さり、黄理はようやく降参したのだろう。彼自身、己が口下手であることを重々、理解している。

 

 拙い言葉で今の井ノ上たきなを形容することは、非常に気が進まない。

 

 でも、そんな言い訳を許さないくらい、たきなの晴れ姿に心を撃たれてしまった。京都で初めて出会った小さな頃とはもう違うのだと、認識を新たにする。お互い、もう子供ではないのだ、そんな思いが心中に浮かんだ以上、此処で口を噤むのは潔くない。

 

 意を決し、未熟ながら言葉を尽くすことへと黄理は挑戦する。

 

「──毎日でも見ていたい、かな」

 

 

 

 言葉にするのを躊躇っていた黄理くんはようやく、わたしの目を見て短いが、それでも確かな言葉にして伝えてくれた。頬が赤い、熱い、恥ずかしい、照れ、喜び、困惑、それらで、にやけそうになる口をどうにか、すました状態で留めて“不満です”と見えるようにそっぽを向く。

 

「黄理くんはそういいますが、この衣装、着替えるのに他の人の助けが必要なんですよ。着こむのに手間をかけたにしては可動範囲に影響が生じ、動きにくいことこの上ありません。あと、服の生地が薄いので武器を仕込むことも難しいですし…………」

 

 たきなは、少しだけ照れくさそうに口を尖らせた。

 

「毎日見ていたら、飽きてしまうのでは……」

 

「……そうか?…そうかな?……う~ん、そうなのか?」

 

 わたしの拗ねた言い分を聞いて、おかしそうに柔和な笑顔を浮かべた黄理くん。彼の次の言葉は、わたしの胸の中にある一番、堅牢でありもっとも薄弱な急所を確かに穿った。彼はなんでもないように口ずさんだけど、黄理くんのそんな言葉にわたしは世界がひっくり返ったような衝撃を受ける。

 

「そっか…“毎日”ってのは、俺のいる“場所”にいつも居てほしいって感じなのかな」

 

 黄理くん自身、感情を整理できていないためか断定的な言葉ではなかったものの、彼の伝えたいことは明確にわたしの心に突き刺さる。

 

 柔らかで、温かな黄理くんの笑顔を正面から見てしまい、わたしは。

 

 わたしはこの瞬間、このとき。

 

 はっきりと自覚したわけではないけど────

 

 “わたしは、黄理くんに()をしたのだ”。

 

 

 ()?なんだろう、今、よくわからないことを考えていたような。なんだろう、頭がぽやんとして、思考が纏まらない。でも、不思議と口の端が綻んでしまう。笑顔になるのが止められない、いえ、止める必要はないのかもしれない。

 

 だって、この場には、わたしよりも“やりたいこと最優先”をモットーとする先達、千束がいるのだ。それなら、わたしも、まだまだ未熟かもしれないが感情を秘め抑え込むのをやめるくらいには“やりたいこと”に素直になってみよう。

 

 黄理につられ、たきなも素直に自身の感情に身を任せて新婦である彼へと身を寄せる。体が触れ合い、体重がかかるか、かからないか、といった距離で、二人は強く互いを見つめ合う。

 

「しまった、橙子さんに言われたっけ……今の今まで、忘れてた」

 

「……こんなときになって、何を忘れたんですか?撮影で使う指輪を控室に置いてきたとかだったら──」

 

 

「綺麗だよ、たきな。ほんとうに、これまで見てきた全ての中で、いまのたきなが一番、綺麗だ」

 

 どきり、と一瞬でありながら永遠にも感じるほど熱く、激しい鼓動が全身に響いた。鼓動は熱を持った波紋となって、全身に巡っている。まるで血が炎に入れ代わったかのように。

 

「困ったな、もっと口が上手ければ、色んなものに例えることができたんだろうけど。今の俺には、これが精いっぱいだ」

 

「いえ、充分です。それだけでもう、充分です…」

 

「たきな?」

 

「あっ…………その、ですね。黄理くんがまともに女性を褒めることができるなんて期待もしてませんでしたから。あと、褒める前に“橙子さんに言われていた”というのはさすがにどうかと……」

 

「あ~~、アハハハ……ごめんなさい」

 

 

 乾いた笑い声を出すと、こちらの顔が赤いのもおかまいなしに黄理は嬉しそうに顔を近づける。パシャリ、遠くで聞こえるシャッター音。千束たちの声もした気がするけど、いまは何も考えられない。

 

 黄理くんが新郎の、黒のタキシードを着てるだけでもいっぱいいっぱいだというのに、千束やミズキさん、クルミたちの茶化しまで考慮に入れるのは難しい。

 

 心臓がまだ燃えている。心は沸騰し、顔だって未だに熱いのだ。

 

「そういえば俺の感想は言ったけど、たきなの方はどうなんだ。今の俺の格好、なんか感想とかある?」

 

 黄理くんは、ふと思い出したように感想を聞いてくる。チャペルの中に一陣の風が流れ込み、マーメイドドレスの長いスカートが風に撫でられた。薫風に背中を押され、たきなは静かに黄理の瞳を見つめる。

 

「黄理くんのタキシードの感想ですか?」

 

 千束を真似て、少しばかり悪戯っぽいことでも言ってみようかと思ったけど、自分には向いていないと断念。ただ、胸の高鳴りのまま、心と体の動くまま、“やりたいこと最優先”の気持ちで言葉はもう既に口を突いていた。

 

「────とても、素敵ですよ」

 

 

 満開の華さえ嫉妬するほど静謐で、美しい笑み。

 

 満面の笑みをした新婦は新郎に祝福の言葉を贈るのだった。

 

 

 

 それからわたしと黄理くんは宣伝写真を撮るため、カメラを持った男性の言う通りに立ち位置を変えたり、姿勢を正してみたりする。幾つかのシチュエーションに沿った場面を撮りたいということで、用意されていた指輪をお互いに嵌めて指輪の交換を演じてみた。

 

 黄理くんなら、忘れかねないと思っていたけど、無事に交換を撮ることができて一安心したのはここだけの秘密である。

 

 フラワーシャワーの場面では、降り注ぐ花弁を頭に被った黄理くんが面白くて、リコリコの皆さんたちと笑ってしまったし、ブーケトスではミズキさんと千束の本気の一騎打ちが白熱してしまい、騒然としてしまった。もっとも、銃弾さえ見切る千束が相手だったのだ、ブーケは想定通り千束が手にして、それを不服とミズキさんは三回勝負と言い出す始末。ブーケトスって、一回限りでは?

 

 楽しくて、温かくて、めでたくて、いっぱいの写真を撮ってもらった。そして、最後の撮影ということでわたしたちはチャペルの中へと戻ってゆく。

 

 

 壇上に上がったわたしたちへ、カメラマンの男性は次に撮る写真のシチュエーション。式のクライマックスともいえる誓いのキスの場面を、注文する。

 

 

 深呼吸を一度、足りなくて二度、これ以上は際限がないため閉じていた瞳を開き、黄理くんと見つめ合う。

 

 千束を始めとした皆さんがいるし、そもそも、カメラマンや、スタッフの方もいる中で口づけをすると考えたら、思うところはある。しかし、撮影、これはあくまで撮影であって、“本番”ではないのだ。

 

 なら、此処で変に恥ずかしがる方が後々、からかわれたりするはず。

 

 おとがいを下げていたわたしは意を決して顔を上げる。黄理くんは静かに、わたしが被っている半透明な純白のヴェールをそっとめくり上げた。ヴェール越しではない(すみれ)色の瞳が、蒼黒の瞳と鏡写しに交錯する。黄理くんの瞳の中に私の瞳が映りこむ。

 

 もっと覗き込めば、さらに黄理くんの瞳が映るのかもしれないが、離れたところにいるカメラマンの“お願いしまーす”なんて呼びかけに急かされ、わたしたちは顔を近づけ合う。

 

 黄理くんの蒼く澄んだ瞳に憧憬を抱きながら、そっと目を閉じわたしの持つ全てを彼に委ねる。黄理くんの消えそうな気配が近づく、周囲の視線は意識から遠のき、いま心には震えるほどの恥ずかしさと僅かな歓喜。

 

 “本番”だったら、わたしや彼は、どうしていたのかな、などという“もしも”に思いを馳せる──。

 

 

 黄理くんの息遣いとわたしの息遣いがその距離を無くし、そっと、でも確かに重なった。唇に感じる彼の体温、心と体が繋がるような不思議な感覚、自分と黄理くんの体温が循環し、わたしたちの境界が不鮮明になっていくような──

 

 はじめての体験、未知の感触。

 

 たった五秒未満の、ごく小範囲の身体的接触。

 

 だというのに、驚くほど多大に感じられた情報の波濤に眩暈(めまい)を覚える。くらり、足元がおぼつかない。呼吸を何時間も止めていたとさえ感じてしまう、息がうまくできない。呼吸の仕方を忘れてしまった?いいえ、基本の生命活動さえ忘れてしまうほど、先ほどの身体接触の情報量に圧倒されているのだとわたしは理解する。

 

 前後不覚、あるいは一種の酩酊状態にあるたきなの媚態(びたい)に、それを見ている観客さえアテられ、見蕩れて思考が溶融してしまう。

 

 

 

 そんな溶けきった空間の雰囲気を一掃するように、チャペルの正面、大扉の方から騒音が聞こえてくる。正面扉が乱暴に、けたたましく開いて見慣れない平服の男が乱入してきた。状況把握のために目を開いたわたしを抱きしめた黄理くんは、闖入者である男から隠して庇う体勢を取る。

 

 飛び込んできた普段着の男性は、バージンロードを無作法に踏みしめ、見るものに危険性を予期させるような足取りでこちらへと歩いてくる。

 

 唐突な見知らぬ顔の登場に、先生やミズキ、クルミに千束も困惑を隠せない。一方、虎杖さんは一瞬だけ呆けた表情をしたあと、したり顔で笑って橙子さんへ視線を向ける。橙子さんはというと冷たい表情を保ち、そっと正面扉前へ陣取った。

 

 

「その結婚ちょっと待てぇぇぇ!!」

 

 憤怒にその形相を歪めた男は、チャペルに喧しく響き渡るくらいの大声で“結婚”に対して声を張ってくる。男の血走った凶眼は、一目で危険な思考状態を報せるようにひどく混濁している。

 

「よくも、よくもオレを、おれを裏切って……」

 

 男の物騒な言葉を聞き、たきなをはじめとしたリコリコのメンバーは真剣に困惑する。そして、誰よりも早く反応したミズキは驚愕の表情と同じ感情を伴って声を出す。

 

「はぁ!?まさか、たきなが二股!?いつからそんな魔性スキルを!!」

 

 ミズキの発言だが、肝心のたきなは黄理の懐で抱き抱えられており、ミズキの発言に対する反論もままならない。したがって、相棒の不名誉に対する反論は、もう一人のリコリスに一任された。

 

「い~やいやいやいやい~や!!たきなに男の人を手玉に取るとか、“騙して悪いが”なんて悪女ムーブするとか無理やろがい!」

 

 千束の魂の叫びを聞き、横にいたクルミとミカはうんうんと頷く。

 

 騒ぐ千束たちに目もくれず、突如として現れた男は懐からプラスチック製の、3Dプリンターか何かで自作した銃らしきものを取り出した。見たところ作りは荒く、しかし、最低限の機能は確保してあるようだ。荒事に慣れたリコリコの全員の背筋に冷たい緊張が生じた。

 

 背に庇われているたきなが一歩引いて状況を確認すると、橙子と黄理だけは冷静であり、この突飛な展開に(いささ)かも動揺もしていないことに気付く。

 

 否、むしろ、この展開を待っていたかのような。

 

 その考えを決定づけるよう、橙子は鋭く黄理へと呼びかけていた。

 

「ようやくお出ましか…黄理!」

 

「あいよ」

 

 刃と聞き違うほど鋭利な呼び声に、軽薄な調子で黄理が応じる。もっとも間近にいたたきなでさえ気づけなかったタキシードの裾に隠匿されている仕込み武器の棍を取り出すと、臨戦態勢の構え。

 

 それを見た乱入者は反射的に、銃の引き金を引いて発砲。弾丸は銃口の先とは見当違いの誰もいない方に放たれた。あまりの外れっぷりに、敵であるはずの黄理も呆れる。

 

「うわ、まともにライフリングも切られてないのか。かえって、やりづらいな」

 

「黄理くん、まさか今回の結婚の依頼は……」

 

「まさかも何も、いつも通り物騒な依頼だよ」

 

「…伽藍の堂の依頼という話を聞いて、ある程度は予測していました……。いましたが、もう少し受ける仕事は、選んだ方が良いのではないですか?」

 

「愚痴と文句は後で聞くよ、それでたきな、銃は?」

 

 黄理くんの疑問に、わたしは自分の着ているマーメイド?と呼ばれるドレスを指さして答えとする。体のライン(シルエット)を美しく魅せつけるタイプのドレスということは、身体以外のものを混ぜ込む余地を許さないことでもあるのだ。

 

 つまりは──。

 

「このドレスですよ?レッグホルスターも、体のラインも隠せない服装であることは、見て分かるでしょう──」

 

「嗚呼、なるほどね」

 

「せめて、スカートがゆったりとしたものであれば、太腿にホルスターを付けられたのですが…」

 

 落ち着き払ったたきなの声を聞き、そして姿を見た乱入者の男は、唖然として何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くしている。それはそうだろう、男からすれば標的であるはずの花嫁が別の女性になっているのだから。

 

 嵌められた、そう理解するのに時間は不要だった。男は自分の計画が失敗したことと、もう標的を襲うことができないことだけを脳裏で咀嚼すると、せめてこの場にいる人間をできるだけ多く殺傷しようという自暴自棄に方針を変えた。

 

 だが、その実行を最強のリリベルが許すはずもなく。

 

 手に持っていた棍が影も霞む勢いで投擲、男の持つ自作銃が弾かれ床に落ちる。唯一の武器である銃を弾かれ、何もできなくなったことを理解すると青い顔をして一目散に背を向けて逃げ出していく。

 

 脱兎、あまりに情けなくも(いさぎよ)い遁走に、さしもの黄理や橙子も目を点にする。逃げた男が扉の目前まで駆けていったとき、ハッと思考を取り戻した黄理は千束の名を呼ぶ。

 

「千束!!」

 

 黄理の凛としたよく通る声が千束の耳朶を叩いたとき、何かの聞き間違いかと思って千束は辺りをきょろきょろと見回す。

 

「はいっ!?」

 

 完全なオフモード、単なる結婚式場の宣伝目的の写真撮影と表向きの理由しか聞かされていなかった千束からすれば、寝耳に水というか予想外も過ぎるだろう。当然、彼女の愛銃であるデトニクス・コンバットマスターは不携帯。

 

 男が走り過ぎたところに、黄理が呆れた調子で目を細めて文句を一つ。

 

「なんで銃持ってないんだよ?」

 

「な~んで持ってるって思うかなぁ!?持ってるわけないでしょ!!」

 

「千束、銃を不携帯だったんですね……」

 

「えっ!?これ、わたしが叱られるの?理不尽すぎないっ?!」

 

 拳を振りながら走り去ろうとする男。チャペルの正面、大扉前にいた橙子は、その見苦しさと滑稽な男の動きにやる気を無くし、面倒だと言わんばかりに道を黙って譲ってしまう。それさえ見えていない男は扉に頭から衝突して外へと飛び出していく。

 

 

 ほうほうの体で、という表現が適切なほど無様な様子でチャペルを脱出していった男に呆れながら、橙子はたばこを咥えて一言だけ感想を述べた。

 

「あ~~。これにて一件落着、とはいかなかったみたいねぇ」

 

 

 

 

 

 

 今回の依頼における標的、もしくは犯人というべき男は逃亡した。身柄の確保はできなかったが、結果として依頼は無事に遂行されたらしい。ドレスからセカンドの制服に着替え直したわたしや普段着に着替えた店長たちは、今回のチャペルの依頼がどういったものかを聞くためにリコリコへと戻っていた。

 

 虎杖さんはリリベルの仕事が多忙なため、写真だけをもらって帰路についたので、元より不在。あと、伽藍の堂の店員一号、黄理くんだが、橙子さんから逃げた男の追跡を命じられて、リコリコでの二次会もとい、追及会議には未参加である。本当は黄理くん本人の弁明と珍説、悪あがきの数々を期待したのだが、問い詰めるのはまたの機会ということにしておこう。

 

 すっかり日も落ちて、時刻は夜に差し掛かる。

 

 カウンターの上では今日のチャペルで撮ってもらった写真データを現像してもらい、店長がご機嫌でアルバムに綴じていた。ブーケトス時、凄まじい形相でブーケに飛びつくミズキさん、余裕綽々でブーケをキャッチしてドヤ顔をしている千束。一歩引いたところで応援に回っている店長とクルミ、虎杖さん。バージンロードを歩くわたしと虎杖さんの姿も写真に収められていた。

 

 特に、花びらを頭から被って複雑そうに顔をしかめている黄理くんは、あまりにも面白くて個人的に気に入ってしまったので、一枚頂いてしまった。

 

 

 それはともかく。リコリコへ帰ってきてから、わたしたちは橙子さんへ今回の依頼の詳細な内容を改めて聞くことにした。説明、もしくは尋問にも似ていたが橙子さんは隠し立てることもなくあっさりと説明をしてくれる。

 

 いわく、伽藍の堂が引き受けた今回の仕事は、チャペルの修繕ともう一つあったらしい。外務省の要人のご息女が結婚間近になって、不審者に付け狙われているという情報を入手。リリベルを知る外務省高官の人は、伽藍の堂へ依頼を出して不審者の捕獲を依頼した。

 

 つまるところ、わたしと黄理くんは捕獲のための(おとり)

 

「それなら、そうと言ってもらえれば……」

 

「言うと、反応が自然体でなくなり捕獲対象にも感付かれるかもしれん。自然な反応を引き出すため必要なことだった、といっても納得はしてもらえんか」

 

 苦笑いをしている店長は別として、腕を組んで仁王立ちをしているミズキさんと千束の様子は、許容できないということが一目瞭然だ。

 

「あのねぇ、報連相なんて初歩中の初歩でしょーが。それをやらないで、あんたときたら物騒な変質者がくるかもしれないとこに、顔見知りを呼ぶ?普通?」

 

「橙子さん、今回は黄理と同じくらい、というか黄理よりも橙子さんの罪状の方が重いかな?というわけでハイ、有罪!ギルティです!」

 

「ツケといて」

 

「裁判にツケがあるか~い!」

 

「執行猶予ということなら、ツケに該当するのでは?」

 

「たきなさ~ん、そういうんじゃなくてっ。あれ、たきなの怒りゲージがゼロ?なんで?」

 

「なんでも何も、伽藍の堂の依頼ですよ。虎杖さんも言っていましたが、予想外な事はあってしかるべきかと思っていましたので」

 

 

 当事者であるわたしの怒りが薄いためか、千束は自分が騒ぐための大義名分が弱いことに怯んでしまう。

 

「…大体、嘘で女の子の唇を奪うなんて、ズルいんじゃない?たきなもそう思うでしょ~!!ね~ね~!」

 

「……何を言っているんですか。今日のことは任務に必要なことだと理解しています。それに見ず知らずの仲というわけでもありませんから、特に問題はないかと……」

 

「────うそみたいにクール、クールというかコ~ルド……。うそでしょ、乙女の宝物といってもいい、“チュー”を奪われてそのリアクション?」

 

「チュー?ネズミですか」

 

 凍ったみたいに停止した千束をクルミが面白がってつついているが、まぁ特に問題はないようだ。でも、千束の言ったことに引っ張られて、黄理くんと口づけをしたことを思い出し、変な思考に傾かないよう慌てて頭を振る。

 

 

 頭を勢いよく振ったために、(みだ)れてしまった髪が視界の端に映りこむ。仕方ないと手櫛で髪を梳くと、いま、自分のサッチェルバッグの中にあるもののことをつい連想してしまった。チャペルでスタッフ、に扮したクリーナーから良ければ、と言われて頂いた装飾品。ウェディングドレスに付属していた純白のヴェール。

 

 つい、言われるがままに頂いてしまったが、いつまでも鞄にしまい込んでおくわけにもいくまい。そういえば、子供の頃にも黄理くんの制服を着るわけでもなく、ただ所持していたこともあったなと回顧にふける。

 

 まぁ、これもせっかくの好意の証と思い出の品。

 

「もぉ~う!たきなさ~ん、橙子さんに今回の依頼料をたっぷりと請求するぞ~!こっちゃおいで~」

 

「はい──今行くので、ちょっと待っててください」

 

 

 記念ということで、大事に保管しておくとしましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 すっかり日も暮れ、夜闇と静寂が東京の夜道を支配する。暗くなってしまった東京の町中は、生きた存在のない死に絶えた虚無の海を想起させる。ならば、その闇の中を恐怖に駆られて走る男は、さしずめ海難事故の溺死体だろう。

 

 溺れたように必死で走る男は、逃げていた。

 

 真っ暗な影を纏い、音も気配もなく、のっぺりと静かにナニカが這い寄り迫る。

 

 捕まりたくない、という気持ちで走り出した男の思考は今や、死にたくないという本能一色に塗り替えられていた。だが、同時に警察へ駆け込みたくないという自己保身が、男の行動範囲を非合理によって狭める。

 

 

 男は周囲の視線も気にせず、必死で逃げ続けている。だというのに、あの蜘蛛の形をした影はひたひたと自分を追跡し続ける。まるで足跡か、血痕か、分かりやすい目印を残しているのではないかと確認をするが、分かりやすい痕跡など何一つ残していない。

 

 彼が垂れ流しているのと言えば、(くら)(よど)み切った“思考”くらいなものだ。

 

 

 逃走のために走り続ける男に対し、足音無く静寂に歩いて追跡をし続ける無形の影。走って、命がけで逃げているのに歩いて迫り来る死の影が追いついてくる恐怖。男の思考は恐怖のあまりに正気を失い、恐慌(パニック)に陥ってしまっている。

 

 

 慌てふためきながら、カンカンと、もつれる足を懸命にバタつかせ男は歩道橋を駆けていく。階段を登り切り、平坦な道路上の部分に着いて、男は眼前の闇に怪しく浮かぶ二つの蒼い鬼火、いや双眸を見つけてしまった。

 

 見晴らしのいい地上や歩行者天国を避けてきたのに、気が付くと待ち伏せされている。追いかけられていると思えば、先回りをされている不条理。恐怖に呑まれた男は、泡を食って手を振り乱す。

 

「来るな、来るなぁ!俺の傍に近寄るなぁ!?」

 

「……そんなに騒ぐと危ないぞ、なぁ、ちょっと……」

 

 死影が闇の向こうから手を伸ばしてきた。男は力を失い萎えた足を引きづって逃げようと後ずさりをする。ぬかるみにはまったような重みを感じるが、男は必死に此処から離れようと足掻き続けて。

 

 フッと、気が付いた時には階段から脚を踏み外していた。

 

 後ろを見ないまま後ずさりした当然の結果、男は重量に引かれ落ちていく。階段に体のあちこちをぶつけ、骨格から筋肉までを不均一に叩き(なら)される。致命傷となったのは、地面に後頭部を叩きつけた衝撃だろう。体のあらゆるところを打ち据え、とどめというように受ける頭部への墜落の衝撃。

 

 男の瞳孔がビクビクとあらぬところに動き回る。手足も同様に暴れさせており、傍目では陸地で溺れる魚めいていた。

 

 アスファルトの上でのたうち回る男、錯乱状態、頭部からの出血。

 

 治療は、間に合うか微妙なところ。

 

 

 

 だとしたら。

 

「まぁ、いっか。別に生け捕りって指定でもないことだし」

 

 七夜黄理は眼下で死に瀕する男の命を無慈悲に切って捨てる。どのみち、今の黄理は応急処置や治療道具も持っていないし、クリーナーを呼んでも治療は間に合わない。むしろ、死体の片づけがメインになるだけだ。

 

 今にも命が消えそうな男を前にして、何かが頭を()ぎった気もするが。

 

 思考を止めて、クリーナーに“今はまだ生きている”死体処分の一報を入れる

 

 

 かつて交わした約束はあくまで“人殺しをしない”という一点に尽きる。なら、死にそうな人間に、無駄骨を折る必要もない。どうせ、生かしてもリリベルに引き渡せば、殺される。どっちでも結果が同じなら、こだわる意味はないのだ。

 

 

 クリーナーへの連絡を終えると、足元の男はいつの間にか動かなくなっていた。動きと思念が完全に停止したのを見た黄理は、頭を掻いてその場より背を向ける。

 

「あ~ぁ。まったく」

 

 取るに足らない愚痴。“かつて”なら、自身に許しさえしなかった無駄。

 

 そんな意味のない事に七夜の魔人は興じて、口を滑らせた。

 

「日常ってのは難儀なもんだな……」

 

 “グチャリ”、と鉄錆のむせかえる匂いを踏みしめてから、ふと夜闇に差す一条の光に当てられて顔を上げてみる。都会の空は、星明りが少なくどうも味気ない。でも、そんな夜空でも変わらず、月だけは真っ白に輝き続けている。

 

 夜空を見上げた黄理の蒼眼が愉しそうに仄暗く蒼褪めた輝きを放つ。

 

 

 足元に広がる血溜まりも気にならない。何せ、今晩はこんなにも──。

 

 

 嗚呼、こんなにも──

 

 

 狂ってしまいそうなくらい月が綺麗だ。

 

 





 中庸・秩序→中庸・混沌

 久しぶりの分岐を書き切ることができて、ほっと一安心しております。その分、大きく時間をかけてしまいましたが、この選択の結果がどうなるのか、最後まで書き上げていきたいと思う所存です。年度内に、リコリス本編の完結。来年度から、メルブラ編を書いていくことを目標に鋭意努力して参ります。(来年ではなく、来年度なんて予防線を張ってしまう弱腰をお許し下さい)。

 次回は東京観光編、皆さまお楽しみに!

 つきましては皆様の応援の言葉をいただければ、光栄です。
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