剣呑な鋭い目つきをした赤毛の女性。彼女は陽の当たらぬ高架下の路地を優美に闊歩している。周囲に埋没する自然体、しかし発する雰囲気は極めて鋭利。ただ歩いているだけというのに、鋭い雰囲気と張り詰めた気配が彼女そのものを威圧的にしてしまっている。
ふと、赤毛を一結びに束ねた女性、蒼崎橙子が立ち止まった。
面倒そうな顔で周辺に誰もいないことを確認し、懐から
火の点いたタバコを口に当て、紫煙を漂わせていると近くのプレハブ倉庫の中からガタゴトと喧しい物音がする。五月蠅いから場所を変えようとも思ったが、いちいち一人で
内側で何者かが暴れ、くぐもった声を出して助けを呼んでいる。煙草をくわえたまま、倉庫の戸を開けると拘束された女性が転がり出てきた。見慣れた顔、茶色の髪、眼鏡をしている女性。縛り付けられた女性は、リコリコの人間である中原ミズキだったのだ。
雑に戸を開けられた所為で、ミズキは倉庫から勢いよく飛び出して地べたに身体を打ち付ける。体を縛られ、受け身もろくに取れない状況でアスファルトに身体を強打し、ミズキは悶絶した。
「あいったぁ~!」
路上喫煙してる橙子は、全身を縛られたミズキを呆れた目で見下ろして一言。
「…なんだ、その恰好?婚期の遅れが脳にまで回ったのか?」
「どんな日本語だっ!っていうか、呑気に話してないでさっさと解けっての!!あと、
「はいはい……あーっと、すまん。携帯、事務所に忘れてきた」
「使えねぇぇぇ!!ちゃんと携帯しろーー!!」
ミズキの声を大にした文句を笑顔で聞き、背を向けた橙子は歩き出そうとする。
「ごめんごめん。じゃあ、使えない美女は退散するとしよう」
「ウソウソ、待って、ストップ、冗談だって!!美人で有能な橙子さ~ん、せめて縄ぁ~~!!置いてったら、あれだっ、化けて出てやるぅぅ~!」
最終的にさんざん謝り倒して、なお無視されたミズキは縛られたまま橙子を這って追いかけることでようやく拘束状態から解放される運びとなった。縄をほどく際にため息と馬鹿を見る目を向けられ、ミズキの心にそこそこ深めのダメージが入ったのだが、任務に支障は無さそうだ。
リコリコの内線に着信が入った。こういう時、ミズキや千束がいれば出てくれるのだが、誰もいない以上、仕方がないとクルミが電話を取る。
この忙しいときに誰だろうと思ってると、聞きなれた声がボクの鼓膜をけたたましく叩いた。
『ゴメンッ、やられてた!いま、どんな状況!?』
「ミズキ?なんだ、生きてたか」
『なんだとはなんだっ!死んだなんて一言も言ってねーっつの!』
「死んでたら言うどころじゃないだろ…」
憎まれ口を思わず発してしまったが、これは良いニュースだ。千束たちにも早いとこ連絡しておかなければ。ボクとしてもミズキにいなくなられると、リコリコのシフトに放り込まれる頻度とかの関係で大分、困る。
……横のミカが困った顔で笑っているのを見るに、今の考えは読まれてしまったか。苦笑こそしているが、先ほどまでと違ってミズキが生きていることにミカも安堵しているのが分かる。
ミカが何かを言いたそうにしていたので、ボクの携帯を渡した。
「よく生き残ってくれた、ミズキ。もう動けるか?」
『動けるけど、さっきまでやべー状況にいた人間にも容赦ないわね、ホント』
「人手が少ないからな。しかし、いくらなんでもリカバリーが早すぎる。ジンがそこまで手抜かりをするとも思えないが……何があった?」
『何があったというか、ばったり橙子に遭ってね。……聞いてよ!あいつってば、タバコは持ってて携帯持ってなかったのよ!おかげでわざわざ取りに行ってたんだから!』
「まぁ…助けてもらっただけ御の字というところだ」
もしや、黄理の手回しによる救助かとも思ったが、ミズキの反応的にどうやら違いそうだ。とにかく、ミズキの安否確認は取れた。ミカはミズキへ千束たちのバックアップを指示した後、緊急で千束たちへ通信を入れた。
『千束、たきな、先ほどミズキの無事が確認できた。ミズキを迎えに寄越したから、合流してリコリコへ帰ってきてくれ。合流までの間、松下さんの側で引き続き周辺警戒をするように。くれぐれも油断するなよ』
「──良かったぁ。うん、ミズキが来るまではこっちに任せて」
最悪の予想だけが膨らんでいたこともあり、千束は安堵によって肩の力を抜いた。たきなも、表情こそ変わっていないが尖っていた雰囲気が僅かに弛緩する。
『どうかされましたか?』
「えっ、と……何事もなく無事に帰れそうだからホッとしちゃって。でも、帰るまでが東京観光!松下さんもリコリコに戻るまで油断なく楽しみましょ~!」
松下さんの訝し気な反応を誤魔化し、千束たちは次の電車をホームで待つ。そんな待っている途中で黄理からの通信が入ってきた。
『こちら、七夜。いま、東京駅の外で仕込み中なんだけど人手が欲しい。千束か、たきな、どっちか手は空いてない?』
黄理の通信を聞くや否や、たきなは一言だけ告げ軽やかに駆け出していく。
「黄理くんの援護に向かいます。千束は松下さんと離脱を」
「っちょ!?たきな!」
あまりにも思い切りのいいスタートダッシュ。咄嗟に千束はたきなを追おうとするが松下さんから離れることができず、改札口へ向かう階段手前で立ち止まってしまう。追いかけたくなる気持ちをグッとこらえ、千束は松下さんの待つホームへ引き返す。
「いきなりでごめんなさい。たきなが急な用事を思い出したみたいで──あれ?」
“…松下さん?”、千束の躊躇いがちな呟きはホームの喧騒に混ざり去ってしまった。辺りに今日一日で見慣れた車椅子の影はない。護衛対象を見失う、警護任務でやらかしてはいけないミスに絶句してしまう。でも、たきなを追いかけたのも、黄理の通信で意識を反らしたのもほんの短時間。
松下さんが攫われた、ないし離れた場合でも、そう遠くにはいけないはず。
慌てて、周囲の人に電動の車椅子に乗った人の話を聞いて、たきなが降りていった方と反対の階段を駆け下りていく。改札口を飛び出し、東京駅の外に出ていくと電動車椅子に腰かける松下さんを見つけることができた。
松下さんへと歩み寄っていく。現状の危険性をなるべく悟らせないよう、今日の東京観光が最後まで“平和”なものだったという思い出にするため、何食わぬ顔で平静を装う。
「──松下さん、どうしたんですか?どこか行きたいところがありました~?」
『ジンが来ているんだね?』
確信を持った無機質な機械音声に、ぎくりとほんの少し動揺をしてしまった。松下さんに知られてしまったのは残念だけど、こうなれば避難の説明をする手間が省けて話は早い。
でも、違った。違っていたんだ。
つまるところ、私は松下さんの思いを汲み取りきることができなかった。
『あいつは私の家族を殺した。今度こそ確実に私を殺しに来るはずだ』
今日一日のみんなで笑い合った思い出が灰色に色あせていく。
お願い、やめて、と声にならない懇願が内心に溢れた。
松下さんが本当に願っていたことは“楽しい一日を過ごす”ではなく、“家族の復讐”だったなんて、考えたくない。
今更だ、必死で見ないようにしていた事実が此処に立ちふさがる。
暗殺者に狙われている状況で、どうして東京観光などをするのか。もっと安全になってから、自分を狙う暗殺者を排除してから動けばいい。余命いくばくないといっても、資産家である彼にはそれも選択肢に入れることができる。
それをせず、護衛付きとはいえ暗殺者に狙われた状況で東京観光に赴いた理由は。
自分自身を囮にしたかったからではないのか?
『日本にいる限り、あいつは絶対に殺しに来る。分かるんだ、ヤツはもうすぐそこまで来ている』
「なら、一度リコリコに戻りましょう!避難してから、どうするか皆で考えて──」
『私には時間が無いんだっ』
千束はとうとう言葉を失った、“時間がない”。その切迫した、終わりが近いという気持ちをいやでも理解してしまうから。
共感してしまったから、今日の東京観光にもあれほど力を入れたのだ。けれど、自分の共感が的外れだったことが此処に来て露呈する。どうすれば、もう松下さんは素直に退いてくれないだろう。
でも、此処から急いで逃がさないと、考えが纏まらない。幾つかの選択肢が浮かんでは消え、選び取れる未来が
松下さんの願いと、彼の命を両立する選択肢を必死で考えて、考えて、考えて、もう時間をかけて悩む時間がないことを自覚しても、まだ諦めきれずに考えてしまう。
捨てきれない迷いを断ち切るかのように、一発の銃声が木霊する。車椅子近くの舗装が弾け、破片と砂埃が上がった。松下さんをカバーする位置に立ち、銃声のした方向の仮設足場の方へ銃を構える。
銃口の先で長髪の暗殺者、サイレント・ジンが肩を押さえ膝をついている。
肩の流血から撃たれたことは明白。ジンの目線の先を見ると、博物館で分かれた黄理が硝煙を発している銃を残身で構えている。続いて、黄理は銃口を空に向けて一発だけ発砲。ジンが黄理へ応戦するより早く、先ほどの銃声を合図としたのか、たきなが姿を現した。
思わぬ伏兵の出現、増える敵への対処に男の挙動が微かに鈍った。
狭い仮設足場を駆け抜け射撃しながら、たきながジンへと走り迫る。
伏兵でありながら、姿を隠さずに距離を詰めた理由は千束にも不明だが状況は動いた。二対一、数的不利を察して、ジンが仮設の足場から飛び降りる。
此処でサイレント・ジンを逃がすわけにはいかない。銃を構えたまま、私もジンの追跡をしようとして、耳元のインカムから黄理の声が現況を報せる。
『──片付いた。それで、この人どうする?DAに投げとくか?』
黄理の声は敵の暗殺者を捕縛し仕事を無事完了させたにしてはひどく冷めていて、端的すぎるつまらなそうなものだった。
サイレントの異名を持つ暗殺者、ジンは東京駅で標的をとうとう捕捉する。護衛の人数も一名となり、襲撃には絶好の機会。拳銃の有効射程ギリギリから、依頼の暗殺対象を照準すると、無言のうちに引き金を引く。
いかに気配を絶つことに長ける暗殺者であろうと、ことを為すとき、殺しを実行する刹那には“殺す”、“消す”、などの意が発されるものだ。その意を極限まで削り、心を凍りつかせることで暗殺者の隠形は完成を見る。
サイレント・ジンの隠形、殺意の遮断は熟練を遥かに越えた神がかり的技量であった。引き金を引く行為によって生じる僅かな感情のブレ、殺気の発露。これを完全に隠して行うジンの所作は、暗殺機巧さながらの人並外れたものだった。機械よりも機械じみた技、人間の狂気と執着の果てに現実となる一流職人の神技。
だが、この場にはその神技を凌駕する魔技の行使者がいた。七夜黄理、DAの男系暗殺者組織、
数多の修羅場、達成困難な依頼を容易く始末するDAでも歴代屈指の呼び声高い暗殺者。“不殺”、最強の
そんな七夜黄理が行ったのは単純なこと。
松下を狙ったジンの微かともいえぬ、零に等しい殺意に自身の殺気を重ねて不意を突く。言葉では簡単だろうと其れを実現させる人道人倫から外れた魔人の業に、さすがのジンも畏怖の念を抱いてしまう。
あれほどの隠形の使い手が初撃で自分を殺さなかったことに疑惑を持つが、黒髪の女という新手の出現にサイレント・ジンは潔くその場からの離脱を選んだ。数的不利、加えて残る三人目の存在。依頼人は素性を隠している不可解な案件。前払いで報酬を受け取った以上、依頼は必ず遂行する。
だが此処で無理攻めをする必要もないと、急ぎジンは足場を飛び降りた。
空中に身を躍らせて、真っ先に視界の端々に映る張り巡らされた鋼線の数々。
放射線状に広がり、仮設の足場に絡みついた黒い鋼糸。
全身に奔る戦慄と悪寒。足掻くには遅いという予感が理性に先行して思考を埋め尽くす。放射状に広がって張り巡らされた鋼線は、蜘蛛の巣としか言い表せない。ならば、この巣の中にのこのこと飛び込んだ己は蜘蛛の獲物か。
全身および全心に糸のごとく絡みついた恐怖。
あの青年を相手取り、畏怖から腰が引けていた時点で自分は敗北していたのだとサイレント・ジンは思い至る。地上へ落ちていく間延びした僅かな時間、仮設足場から地上を見下ろす七夜黄理の蒼褪めた眼差しに貫かれ、ジンは瞳の向こう側に蒼い眼光を爛々と輝かせ、獲物の最期を観察せんとする巨大な蜘蛛の面影を視た。
「殺さない程度に遊んでやる。足掻けよ、獲物」
博物館でも、先の射撃でも、不思議と青年の攻撃には殺気が微塵も無かった。
なんのことはない。既に仕留める段取りを済ませていたのだから、“殺”という意思を発するまでもなかっただけの事。着地する間際、張っていた鋼線の一本を避けきれずに触れてしまうと周辺の鋼線もジンの体重に巻き込まれ、憐れな獲物に絡みつく。
ジンの身体に鋼線が絡みつくなり、上で待機していた黄理とたきなが揃って、鋼線に結び付いているセメント袋の束を地上へと蹴落とした。二つの重量物が下へ下へと落ちていく。それに伴い、全身を鋼線で縛られたジンが空中へと浮かび上がる。
否、“持ち上げられる”。
即席で作られた吊り上げ罠。
落下したセメントの重量と高低差分だけ持ち上げられたジンは逆さまに
奴は自分の手に負える獲物ではなく、こちらを
サイレント・ジンと称された暗殺者は蜘蛛がごとき青年へ賞賛と共に畏怖を、心の内で贈った。
勝ち目は望むべくもなく、逃げることさえ叶わない絶巧絶技。
あれなるは面影、死を糸と巣と張る蜘蛛。
見事、見事という他なし。
「なんだ、遊びにもならなかったな」
逆さまに吊るされているジンを上から見下ろし、黄理は離れているたきなにお疲れというように手を振った。しかし、たきなはというと、理解しがたい奇妙な生物の生態を目撃したみたいな味わい深い表情を浮かべていた。居心地が悪いと黄理は肩を落とし、一人で護衛している千束へ通信を行う。
「──片付いた。それで、この人どうする?DAに投げとくか?」
通信を聞いてきた千束が黄理たちと合流する。彼女が足場の組まれた建設現場に着くと、目の前では鋼線で雁字搦めとなり、宙で逆さまに吊るされたジンと呼ばれる暗殺者、それを下から見上げている黄理とたきながいた。
「遅かったな、千束。松下さんの調子はどうだ?」
「あ~、一応、大丈夫そう……というか、また派手にやったね、黄理」
「そうですね、短時間でこんなブービートラップを…」
「いや、即興で作ったから出来は悪いんだが……まぁいいさ」
ドローン越しに千束たちがいる工事現場の状況をモニタリングしているクルミは、信じられない光景に目を剝いていた。
『博物館から東京駅に来て、ジンが標的を狙うポイントに来るまでの僅かな時間。お前は最初からジンを罠に嵌める気で動いていたんだな……。ボクとしたことが、千束やミカが依頼人を囮にするような作戦を聞いて何も言わない理由を考えるべきだった』
答えは至極、簡単なこと。
絶対に依頼人を危機に陥らせることはなく、素早く敵の暗殺者を拘束できる確信があったからこそ、千束とミカは依頼人を囮にする黄理の行動を止めなかったのだ。
『十分な勝算があったから、黄理の案に乗っかったんだな』
「黄理ってば、昔っからズルいからね。待ち伏せと不意打ちじゃ、右に出るものがいないよ」
「人聞きが悪い。そこは段取りが上手いと言ってくれ」
張り巡らされた鋼線の罠、鋼線銃を巧みに使うことでごく僅かな時間で蜘蛛の巣を張った恐るべき手腕。あまりにも淡白な事態の解決にたきなは現実味が持てないでいた。
「すごいですが、こうもあっさり敵を捕縛できるなら、罠を張るのではなく私たち三人で連携して、敵を制圧しても良かったのでは?」
「勘弁してくれ、そういうの苦手なんだよ」
黄理のうんざりした声に、たきなとクルミは宇宙でネコと出くわしたみたいな表情をして口を閉じた。“苦手”、これほど迅速かつ手際よく、暗殺者を生かしたまま捉えたというのに、その口ぶりはあまりにも場違いなものと感じる。
納得のいってなさそうなたきなの表情に黄理は頭を掻いてから、喋った内容の意図を懇切丁寧に解説する。
「正面から相手と切った張ったするなんて下手の証明みたいなもんだろ。できなくはないけど、やりたくはない。苦手ってのは、そういう意味」
七夜黄理にとって正々堂々たる戦いなぞ、結果に因らず総じて不出来。徹底して相手の認識の裏と死角、予測と観測を潜り抜け、どれだけ時間をかけずに終わらせるか。それこそ暗殺者としての腕の見せ所。察知、警戒されることさえ未熟とする七夜の業。
黄理との戦闘に対する認識の差異の大きさにたきなは眩暈を憶える。
すると、ジンを見上げている三人の後ろから機械の駆動音が聞こえてきた。電動の車椅子のホイールが回り転がる。車椅子に腰かけたまま依頼人である松下氏は、ジンが身動きも取れない状態の此処に登場した。
『これほど容易く…………素晴らしい、こんなこと予想もしていなかった』
驚き、そして、狂喜さえ匂わせながら、松下さんは千束の前にやってくる。明らかに観光中と異なる異様な態度に、たきなは視線を冷ややかに光らせる。黄理の方はどうでも良さそうに、松下と名乗る“モノ”を認識に捉えていた。
たきなや黄理があからさまにやばい気配を漂わせている中、わたしは松下さんの悲しい願いに折り合いをつけてもらおうと考えているけど、良いアイデアは欠片も浮かんでこない。
『聞いてくれ、私が本当に依頼したかったのは……ジンを殺してもらうことなんだ』
目の前で手も足も出せず、宙ぶらりんに吊られた復讐の相手。目的を、願いを果たすには絶好の機会。松下さんは戸惑うわたしへ矢継ぎ早に言い募る。
『君が持つペンダントの“意味”を私は知っている。君には……使命があるはずだ!』
たきなは松下さんの本当の依頼を今ここで知って、どうするべきかが分からず立ち尽くす。わたしも同じ気持ちだから分かる、今日の観光を楽しんでくれたと思った松下さんが、本当は家族の復讐のために今日を過ごしていた。
そんなことを急に言われ動揺しないわけが…………。
──うん、横であくびしてる黄理は無視しとこう。
『殺すんだ!そいつは私の家族の命を奪った男だ。頼む、殺してくれ。本来なら、二十年前に私の手ですべきことだったんだ。でも、今や私の手はそいつに届かない。君の手で、殺してくれ…君は“アラン・チルドレン”のはずだ!』
命を奪うことを請われ、願われて、わたしは松下さんと過ごした一日に加え、彼が抱えてきた歳月と真っ向から向き合う。
“人の命を奪う”、悲しく切実で誰にも許されない選択。
松下さんはそれでも、復讐を選んだ。
なら、わたしも選ばないといけない。いいや、選択はもう既に決まっている。この胸の心臓が動き出した瞬間から──。
『何のために命をもらったんだ!その意味をよく考えるんだ!』
わたしの肩に手が置かれ、黄理は落ち着いた声で提案してくる。
「面倒だから、適当に殺したフリして帰ってもらわない?」
いや、それはダメでしょ~。…………いいかも、なんて思ってない、思ってないから!黄理が提案した、なんの解決にもならない解決策の冗談……冗談だよね、冗談だと思いたいけど、それを聞き流して、松下さんと向かい合う。
「松下さん、私ね。人の命は奪いたくないんだ」
『……はっ?』
ひどく力の抜けきった驚きの声だが、それを気にせずわたしはわたしの思いを言葉にする。それがきっと伝わると、理解してくれると信じて。
「わたしは人を助けたい。困ってる誰かの救いになりたい。他の人たちの生きていく未来と幸せを繋いで、守る仕事をするんだ。これをくれた人みたいにね」
胸いっぱいの誇らしさと共に、胸に輝くフクロウのチャームをそっと撫でる。
かつて、私の命と未来を繋ぎとめてくれた救世主さんがいた。
どういう意図や目的があったのかなんて今となっては分からない。でも、こんな嘘と真実が混じる世界で見ず知らずの子供の命を救ってくれた人がいる、それだけでわたしはわたしの選んだ道と願いを誇ることができる。
わたしが誰かを助けるための理由なんてそれだけで十分だ。
『何を言って…千束、そんな、それでは、アラン機関は、君を、その命を……』
銀閃が奔り抜けた。大気を快刀乱麻と裂き、刹那の斬撃は松下と呼ばれた男の視覚補助ゴーグルを真ん中、正中線に沿って一刀に斬り捨てる。
「黄理くんっ!?」
「おおぅい!?いきなり何してんの!?」
「えっ、いや芝居はもういいだろ?いま話してる人は此処にいないんだし」
唐突過ぎる護衛対象への蛮行。あまりにも脈絡のない黄理の暴挙に、慌てながら持ってたナイフをひったくる。失礼を通り越して、滅茶苦茶な黄理の行動を叱ろうと思って──。
芝居?此処にいない?
肌が粟立つ奇怪な予感、おずおずとナイフで斬り付けられた松下さんの様子を伺う。そうだ、いくら身体が動かせないと言っても、こちらの言葉に反応してくれるのだから、今の危険な行動にも反応しなくては“おかしい”のだ。
両断されたゴーグルが外れ、松下さんの顔が顕わになる。今日、東京観光を共に楽しんだ彼の両眼は焦点が合っておらず、生気や意思を感じさせぬ混濁に沈んでいた。開かれているのに何も見ようとしない虚無が入り込んだ眼孔。
“松下さん”は依然として反応していない。だというのに車椅子から“機械音声”が先ほど同じ調子で語りかけてくる。
『驚きだ、いつから気づいていたのかな?』
「──会った時から。いや初めは寝ていると思ったのに話しかけてくるもんだから、ひどく驚いた。てっきり影武者かなんかと思ったけど、“違う”んだな?」
黄理の断定を込めた質疑に返事はない。機械音声も途切れ、車椅子のディスプレイが光を失う。この場には今日一日を共にした松下なる人物は存在せず、意識と魂を喪失した人形が虚ろに車椅子に腰かけていた。