まさか、2025年になっても完結せずとはこのリハクの(略。
今年こそはどうにか収拾つけようと思いますので、どうぞよろしく。
キィと軋むドアに気づき、ミカは豆を挽くのを中断して顔を上げた。規則正しい行軍中の軍靴のような足音を立て、強張った表情のフキとサクラがミカの下に現れた。シフトには些か早すぎることからミカは曖昧とした嫌な予感を覚える。
サクラとフキが口篭もっているため、きっかけになればとミカは先に口を開いた。
「どうしたんだ、なにか難しい顔をしているようだが?」
「──先生、千束のヤツは」
「ふむ、今日は店じゃなくて外での仕事を入れていたと思うが」
疲れた様子で一息漏らし、フキはがばりと勢いよく頭を下げた。面食らったミカが何事か言う前にフキは畳みかける。
「すみません、先生。しばらく、私たちは店に来ることができそうにありません」
顔を上げたフキは目を吊り上げた厳しい表情でたきなに封筒を手渡した。
「返事は明日までにしておけ…………お前にも招集が掛かった」
「招集……?」
「強襲作戦のな、リリベルからの情報提供で真島のアジトが割れた」
「東京支部にカチコミ入れたあの野郎っスよ」
フキに続くサクラの言葉で、以前千束のセーフハウスに直接現れたあの黒衣の男の姿がたきなにも思い当たった。リコリスの東京支部を陥落させ、千束の元にも出てきたというテロリストでありながら、アラン・チルドレンの証を持つ人物。
「強襲作戦の決行は三日後。動員されるのは東京支部のリコリスだけとなる」
「…………待て、報告にも上げたが真島の配下にはヤツと同程度、つまり千束と同格と見てもいい実力者がいる。いくら奇襲をかける側になったとはいえ、リコリスだけで事にあたるのは」
リリベルとの共同戦線を張れないのか、という続きをフキが黙って首を横に振ったことから、これは上層部の判断が絡む案件なのだとミカは理解する。リコリスとリリベルが混然となることを嫌う上層部がいると聞いてはいたが、まさか現場のリコリスの損耗と犠牲を度外視にしているとは。
だが、それよりもたきなは封筒を手にして迷っていた。
此処でDAに戻って、千束を取り巻く状況が好転するだろうか。山岸先生の尽力もあり、アラン機関からやってきたエージェントは残念ながら昏睡状態で一命をとりとめた。そして、クルミが黄理くんへの支援で出てきた人工心臓をどうにかアタッシュケースから取り出そうとしているが作業は難航している。
“対象の生命活動の停止に伴い、アタッシュケースのロックは解除される”。無駄に高い技術と非人道的な機構を前にウォールナットが足踏みを余儀なくされている。せいぜいが同系統システム、構造解析の情報をダークウェブで探すことくらいだが、アラン機関の産物だけあって裏の情報通やネットの海にさえ情報は存在しなかった。
無理に箱を開ければ中身は壊れる。壊れた人工心臓を手がかりに情報を集める手段もあるが、事は千束の命がかかっている。易々と博打染みた手段には走れない。
アラン・チルドレンである真島の存在、それを足掛かりに吉松シンジを捕縛できれば、あるいは──。
『全部、無駄だとしたら?……現存する人工心臓は世界に二個しかなくて、全てが無駄だったら千束との時間を無駄に浪費するだけになるのでは?』
引きつった叫び声を隠しながらたきなは封筒を見る。DAへ戻る、戻ってどうなる?黄理くんと再会し、千束と出会った此処を離れて、なにもかもが無駄に終わったら。
怖い、千束や黄理くんたちと離れることもそうだが、自分の決断がすべて無意味であることがあまりにも恐ろしい。
封筒を握りしめて固まった私を置いてフキさんとサクラさんは店を出ていく。私は、未だに何も選べないまま歩き出すことが出来なかった。
サクラは最後にまかないでパフェを食べておけばと後悔しつつ、“話しかけんなオーラ”全開のフキの背中を追いかける。
てっきり、店を辞める報告のついでに借りてる着物の給仕服も返すと思っていたのだが、フキさんは何も持たず、引き取らずわたしと一緒に一時的な拠点である都庁へ帰っていく。沈黙に耐え兼ねたサクラは封筒を渡した井ノ上たきなのことを話題に挙げる。
「アイツ、来ますかね?……ああいや、来なくってもアタシらだけでなんとかしてみせる自信はありますけど……」
「来るさ……ジッとなんかしてられるかよ」
「いやそんな、バカみたいな理由で──」
「バカなんだよ、正確にはバカが感染ったんだろうさ」
フキさんは遠くにそびえ立つ延空木を見上げ、髪をかき上げる。
「アイツは錦木千束の相棒だぞ?」
緊急で入った空き巣犯捕獲の依頼。
折よく外にいた千束と黄理が対処中で、たきなもこの依頼の増援要員に手を挙げる。フキとサクラがシフトから抜けたのをリコリコに来てから知ってテンパるミズキを置き去りにたきなは半ば放心状態で依頼の手伝いに向かった。
待ち伏せ役である千束とたきなが合流して、二人組の空き巣犯がやってくるのを煤けた路地裏で待つ。晴天が曇り、薄暗くなっていく中で二人組の男たちが路地裏に飛び込んできた。空き巣二人の後ろから追い立て役である黄理が息を荒げて相棒の名を呼ぶ。
「……千束!」
黄理の用心を促す呼びかけに応じる声はなく、千束はほぼ素人同然の空き巣犯たちをあっさりと制圧した。増援のたきなが手を出すまでもなく空き巣たちは無力化される。しかし、依頼の完遂よりも彼女は黄理と千束のやり取りが無いことを気にしていた。
千束は努めて黄理と目線を合わせようとせず語り合おうともしない。
千束と黄理の付かず離れずの微妙な距離感は未だ継続中だった。
思わずたきなは二人の間を取り持とうとする、が──。
「……あの、千束?」
「うん?どったの~?」
「いえ、その黄理くんと……」
「おっといっけね、ミズキに仕事ちょろかったーって電話しとかないと。たきな~、ちょっとそこの人たち見といて~」
「は、はい──」
明らかに話題を反らされ、より気まずくなったたきなは所在なさげに路地の壁にもたれかかる黄理を横目で見つめる。曇天を見上げる蒼黒の瞳は不思議とたきなが常に感じていた大人びたそれではなく、悪いことをして咎められた子供のような幼さが垣間見えた。
「うん、終わったらったった~。あとは盗まれた物を持ち主に返して捕まえた人たちは適当にクリーナーに引き渡しとく…………はいはい、オッケー」
フキ、サクラが来れなくなったことでリコリコの方も忙しいらしく、電話口のミズキは切羽詰まった様子で千束たちの帰りを急かしていた。それをのんびり目に流して、電話を切ると泡を食った勢いで千束がたきなの背後を指さした。
「あ、たきな、後ろ!?」
「……あ」
放心していたたきなの隙を突いて空き巣の一人が逃げようとする。
逃げる男を千束が追いかけるよりも早く、七夜黄理は路地裏の雨どい、壁面に取り付けられた室外機などを足場、手がかりにして空き巣犯の真正面に降り立った。
「ぐぅぅ、退けぇぇ!」
「
殴り掛かってきた男のテレフォンパンチを流し、片足を引っかけて一回転する勢いで転ばせる。ひっくり返った男は近場にあったゴミ箱に頭から嵌って気を失った。黄理は舌打ちをして投げやりに吐き捨てた。
「ったく、面倒をかけさせる」
舌打ちをしたことや乱雑な黄理の言葉遣いに千束は不機嫌そうに口を尖らせる。けれど、文句は口に出さずに態度にするだけで留めた。やれやれ、と見せつけるように千束はため息をついてから、空き巣犯たちが盗んだ物品を手に取る。
「ちょこっとひとっ走りして、これ返してくるねぇ~」
盗品を返却しようと千束が駆け出す前にたきなは手を、黄理は千束の背負っていたサッチェルバッグを掴んで制止する。
「ぐえっ」
「走らないでくださいっ!」
「走るな、バカ!」
駆け出し、離れていこうとする千束の背中を見て、たきなと黄理は同種の恐怖を覚えた。自分たちよりも早くに先立ってしまう、いなくなる千束の背中、遠く離れゆく千束との距離そのものに恐怖する。自分たちの手の届かない彼岸の向こう岸へ足早に行ってしまう錦木千束の姿を考え、たきなと黄理は言葉にならない恐れの感情を胸の中に沈殿させた。
「おごご、ムチウチとかなったらどうしてくれんのさ……」
「いいから、此処でジッとしてろ」
「盗品の返却は私たちがしてきますから、無理に動かないでください……」
不服そうに頬を膨らませる千束は、たきなには優し気に微笑んだものの黄理にはそれこそ幼稚な子供らしい嫌味として、あっかんべーと舌を出す。たきなと黄理の二人は千束への後ろめたさを感じていた。やりたいことを最優先に動く千束の行動を縛り付ける、果たしてこれがアラン機関の連中と何が違うという。彼女のため、そういっても結局は一緒にいる時間を少しでも、ほんの僅かでも長くしたい、“そんな我欲は無い”とためらいなく言えるだろうか。
小さくない罪悪感に胸を痛め、黄理とたきなは足早に路地裏を出て、空き巣犯捕獲の事後処理をしに駆け出した。
曇天の下、薄暗い路地裏で千束は遠ざかっていくたきな、そして、黄理の背中に向かって手を伸ばす。遠くへ離れていく二人の影法師、距離は開き続け、自分は置いてけぼりになる。
いま、千束の心の中に明確な形として恐怖が具象する。
大人へと成熟した井ノ上たきなと七夜黄理。二人の隣にぽっかりと空いた空白。そこにいるはずの大人へとなった自分の姿が想像できない。うつむいて震えそうになる肩をかき抱く。
今の自分を置いていって、たきなたちが大人になっていく。自分だけは変わらない、いいや変わる余地がない。何故なら、自分は黄理たちよりも早くに
怖い、恐い、こわい……。
置いて行かれる事、自分のこれから先に広がる未来を想像できないことが声にもならないほど怖くてたまらない。ふと背負っていた鞄を下ろし、中からかつての自分が拠り所としていたカメラを取り出す。数年前のものではあるが、きちんと管理されていたようでカメラは問題なく起動した。
古めかしいデジカメのデータには、低い、子供の背丈くらいのアングルから撮影されたある男性の振り向きざまの写真が残されていた。その写真を見て、千束は“懐かしい”という感慨と共に思い出す。
ピシッと格好の良いスーツ、よく撫でつけられた明るいクリーム色の髪。どこか焦点の外れた、七夜黄理の双眸とよく似通った面差し。
自分を助けた“救世主”のことを。
「──やっぱり、ヨシさんだ」
ポツポツ、と水滴が
“雨で良かった……”。声なき弱音を千束は内心で漏らしてしまう。
段々と勢いを増して雨足は強くなっていく。そんな雨垂れに混じって眼の端に溜めていた滴が、一条の線を描き音無く零れたのに千束は終ぞ気づくことが出来なかった。
クルミはひょこりと顔を出して、フロアの方の様子を伺う。
先ほどまではミズキが騒がしく動いていたが緊急依頼の事後処理と報告のため外出したことからフロア役が不在となってしまった。本来ならフキ、サクラの両名がいたのだが、二人もしばらく来れないという報告を受けている。そうなると店に残されたのは杖を突いたミカと働き手にするには力不足感のあるクルミしかいない。
急遽、リコリコを臨時休業にするには十分な理由だった。
いつもはカウンターの内側でコーヒーを淹れているミカは、今日は席の方に回っており何処か意気消沈している。この絵面だけでも普段は早々見ない場面だというのに、ミカは一度も吸ったところを見せない煙草を取り出してひどく不景気な表情で吹かし始めた。
「──吸うんだな?てっきり、コーヒーの味が分からなくなるとかで煙草はやらないものと思っていたが」
「
「だろうな。不味い、と顔に書いてある」
「旨い、とは言えないな。……罪悪感を覚えると吸いたくなる。自分を痛めつけるにはちょうどいい」
クルミは手ずから淹れたコーヒーをミカの前に出して隣の席に着いた。
「嗜好品なら嗜好品らしく気楽にやれ」
「楽しむより自身を罰する方が気を楽にすることもある」
「辛気臭いんだよ」
ミカは特に反論をするでもなく、言われるがまま曖昧に笑ってみせた。
「ボクにも相談くらいしたらどうだ。居候として世話になった分くらいは力を貸せるぞ」
「なにか進展ないし分かったことがあるのか、天下のウォールナットは?」
ミカの明け透けな言葉に対し、クルミは深刻になり過ぎぬよう軽い調子で降参を宣言する。
「今んとこお手上げだな。アラン機関、吉松シンジ、七夜黄理の支援にやってきたエージェント、替えの人工心臓が入ったアタッシュケース。どれをとっても思った以上に情報が出てこない。優先的にアタッシュケースの解除法を調べているが、流石はアラン機関謹製の機密保管機構だ。ボクの所見だが、あのエージェントを殺す以外でアタッシュケースを穏便かつ二ヶ月以内に開くのは難しい」
二ヶ月、という制限が無ければ可能なのだろうが、それでもクルミの言葉からはこれまで存在した絶対的な自信というものがひどく薄れかかっていた。
「ネット上には奴らにまつわる情報はみな消された跡しかない。徹底している、いや此処まで来ると狂気や執着にも似た何かを感じるよ」
「だろうな」
訳知り顔、いいや世間の声とは全く異なるアラン機関の本質を知るがために重々しい説得力を込めてミカは短く断言する。この小さな返答にクルミは僅かな活路を見出した。
「で、直接知る人間から聞こうと思って、慣れない茶でも淹れてみたわけだが……」
クルミから出されたコーヒーをミカは嚥下して小さく破顔する。持っていた煙草を灰皿に置いて、リコリコの店主はクルミのコーヒーへ批評を下した。
「少なくとも煙草より上等な味だ」
「悪かったな……それで?」
「………………」
「ミカ、これは千束のためだ。気づいてるんだろう?サイレントジンも、千束の心臓を壊した女も、黒幕は──」
言葉にすることをクルミは僅かにためらう。知っている、千束にとって、ミカにとって、黄理……は微妙であるが、今から口に出す男の名前がどれほど重い意味を持つかを知るからこそ。
「黒幕は吉松シンジである可能性が高い」
クルミの確信の込められた宣告から、しばしの沈黙を破ってリコリコの店主、いや千束の親代わりを務めてきた男、ミカが語り始める。事の始まり、千束を取り巻く因縁にまつわる全てを。
「……十年前の話だ」
十年前、錦木千束が七歳の頃。
電波塔事件よりも更に以前、七夜黄理と出会うより過去の物語。
当時のDAにおいて、史上最強のリコリスと成ることがまことしやかに囁かれる少女がいた。模擬戦ではあるが、同年代はおろかリコリスとしては成熟の域にある十歳年上のリコリスさえも圧倒する七歳の幼気な怪物。
最年少でファーストの赤い制服に袖を通した異端のリコリス。
それこそが錦木千束だった。
とあるバーでミカは千束の戦技訓練映像をある男に見せていた。吉松シンジ、アラン機関のエージェントであり、ミカとは過去に仕事上の付き合いがあった特別な人。吉松シンジは魅入られたように映像に目を奪われていた。
迫る銃弾の弾幕をくぐり、数秒と掛からずに大勢の敵を無力化する光景。なんという輝きに溢れた才能であることか。
卓越した空間把握能力、恐るべき観察眼、銃撃戦等において敵をどの順に倒せばいいかを即時に把握する判断能力。どれをとっても一流以上、七歳の幼子どころか百戦錬磨の傭兵ですら、これほどの逸材は現れるかどうかというレベル。
『素晴らしい──』
吉松は自身が抑えきれない昂揚にあることを自覚し、冷静さを取り戻すために声を抑えて映像の中の少女を賞賛する。
『銃では彼女を殺せそうにないな』
『ああ、しかし……』
ミカが憂いに口元を歪めると同時、映像の中で異変が起こる。先ほどまで多勢の敵を凌駕していた少女が胸を押さえ、身体を丸め
“千束ッ、オイ、千束──!!”
画面では彼女のルームメイトである同い年のサードリコリスが小柄な怪物に向かって心配そうに駆け寄る。
『先天性心疾患。生まれついての才能と同じ、彼女が生まれたときから付き合っているものだ。保って半年、銃で撃たれるまでもなく
アラン機関は無条件の慈善団体ではない。特異かつ世界でも最高峰に匹敵する才人でなければ救いの手を伸ばさない。一般的な才能とは言い難い
『──そうはさせません』
確かな決心と熱い使命感に満ちた眼差しで吉松シンジはミカをある場所へと導いた。そこは医学の関連施設ではなく、機械工学、流動体制御分野の試験施設。
施設の職員が持ってきたケースの中には、多くの最先端技術が複合したと目に見てわかる精密機器が納められていた。
『これもまた、アラン機関の支援によって生まれた才能の結晶です。といっても、意図して完成を経たものではなく、本来は最新のロケットエンジンに関連した流動体制御機構を流用した結果、偶然生まれたモノなのですが……こうした最先端技術は一見して関係の薄い分野と互換性を持つことがしばしばある』
元職業傭兵、今はDAの戦技教官を務めるミカに専門的なことは分からないが、これが錦木千束を救う唯一の手段であることは理解する。
『拍動無しの完全置換型人工心臓。現在知られている技術体系から大きく逸脱こそしていますが…………現時点で最も実用にたる代物です』
性能について吉松は多くを語ったが、それを語るうえで避けられない情報に彼は触れようとする。
『とはいえ、完全ではないのですが』
『と、言うと?』
性能限界。すなわち、機械が元々持つ
『耐久性に問題が、おそらく稼働限界は彼女が成人するまで』
心苦しそうに顔を歪める吉松に、ミカは仮面を被って冷徹を装う。優しい、と思っていた彼がなるべく傷つかないよう、敢えてミカは露悪的に言葉を重ねる。自分が子供の死に何も感じない外道であると言い聞かせて。
『問題ない。リコリスの現役はせいぜいが十八だ。それだけ生きれば十分『
ミカの呼吸が止まる。まさか、とアリエナイ言葉を聞いた気がした。吉松シンジがこんな無慈悲な話に即応できるはずがない。だが、吉松の疑問を投げる声はいつまでも耳から消えてくれない。ミカはようやく此処で吉松とアラン機関の実態を測りえた。
アラン機関は単なる慈善団体などではない。
もっと別のナニカである。
『殺しの才能であれ、世界に届けられること。それが一番重要な条件です』
いいや、それでも
『──期待には応えよう』
当時の両者の言葉に嘘偽りは無かった。
そう、無かったはずだった。
「お前も千束を殺しの道具として見ていたのか……」
クルミのトーンを落とした言葉で、ミカはようやく過去の回想から帰ってくることが出来た。
千束の心臓にまつわる過去を聞いて、クルミの表情が険しさに濁るがすぐに薄れ去る。今のミカの罪悪感と後悔に満ちた表情だけでクルミが求める解答には十分過ぎた。だとすれば、他に問うべきは一つ。
「何時、変わった?」
ホテルの一室。シャワーを浴びてきたミカはタブレットに釘付けになっているシンジへ少しばかり呆れながら優しく囁いた。
『──まだ見てるのか?』
吉松シンジのそれは我が子の成長と活躍を心待ちにする母性的、あるいは父性的な感情があるように見えた。ミカはバスローブを翻して杖にゆっくりと自重をかけながらベッドへと歩いていく。
『……なぁ、ミカ。子供の世話は得意か?』
『苦手だな、あいにくと』
『いくら君の嘘が上手くってもこればっかりは騙されてやれないな。いつも子供に囲まれてるだろう?』
『嘘じゃない。仕事だからだ。この足でなければやっていなかった』
吉松はミカの話を嘘か真か、どう捉えたかは定かではないがいつもの穏やかな青年のごとき微笑みである提案を切り出した。
『なぁミカ……術後この子が才能を生かせるよう助けてやってほしい』
『もちろんだ、治してハイお終いとなるほどウチの組織は甘くない。DAが責任をもって優れたリコリスとして育てる』
ベッドに座るミカの手を取り、吉松は顔を見つめながら熱弁する。
『君に頼んでるんだよ、もう私たちの娘じゃないか』
錦木千束はDAの管理するリコリスだ。それを我が子として扱うことが、幾つの規則に反するか。ミカの頭の中では素早い計算が出来て、すぐに断らない時点で結果は決まり切っていた。更にダメ押しまで来るとなれば、尚の事。
『ダメかな?』
『────はぁ、こんな任務は初めてだ』
『任務じゃない……約束さ。君と私の』
“シンジは一方的な約束を惚れた弱みに付け込んで取り付け、私をベッドに押し倒すとそのまま──”。
「余分な話が混じってしまったかな?」
「いや、ヤツの人となりも手がかりになる。……いや、やっぱりお前視点の情景はちょっとノイズになりそうだ。なるべく客観的に頼む」
「嗚呼、ひとまずこうして私と千束の親子ごっこは始まった」
クルミの提案を受けいれたミカは一度、頷いて昔話の針を進める。
千束の死の運命を変えた手術が行われる当日。自走式の車椅子を乗りこなして、好き放題に走り回る千束を追いかけている内、ミカはそれこそ運命めいた出会いの場面に居合わせることになった。
それは偶然の出来事。裏でミカが手を回したわけでも、吉松シンジが謀ったわけでもない。救う側にいる吉松シンジと救われる側にあった錦木千束は、ほんとうに偶発的な邂逅を果たしたのだ。
あのときの千束に吉松が何者かを知るすべはない。けれど、不思議な確信と直感を以て、錦木千束は椅子に座る男に微笑みかける。
『あなたでしょ?わたしをたすけてくれるひと──』
その言葉に驚きながらも吉松シンジは平静な顔で偽りを纏った。
『いいや、人違いだよ。私は此処の職員なんだ』
『うそだぁ~、ここにそんなかっこいいスーツのひといないよ~』
『ハハハッ、ありがとう』
『ううん、ありがとうはわたしのほう。どうお
期待と希望、そして生きることへの歓びに輝く瞳がそこにあった。
『…………君には、大きな使命がある。それを果たしてくれ。そのために──私は』
そこで吉松シンジは悪戯っぽく笑う。自分の発言を皮肉だとでも笑ったのか、はたまた千束に殺人を強要することを言語化したくなかった自分の弱さを嗤ったのか。
『差し詰め、救世主になったんだ』
『“
千束は感謝と、そして誓いのために吉松と抱擁を交わす。今の彼女の弱々しくも温かな細腕が吉松を抱きしめる。自分は貴方のおかげで生きられるのだと、それを精一杯伝えようとしている千束の姿にミカは初めて罪悪感を抱いた。
『ありがとう……わたしもなる。“
強く抱きしめていた千束の小さな体を慎重に、そっと引きはがして吉松シンジは去っていく。手術が無事終わったらDAの施設から、いいや当初の取り決め通り吉松は千束とミカの下から一生、離れて生きていくはずだった。
隣を歩き去っていく吉松にミカは千束には聞き取れない声量で別れと謝意の言葉を投げる。
『──すまん』
返答はなかった。
だが、千束は今生の分かれとなるその瞬間に吉松へ無邪気に呼びかける。
『“
咄嗟、反射的なものだった。ミカとの別れで気が緩んでいたのもあるのだろう。普段の隙など見せぬ彼には有り得ぬことだが、千束の呼びかけに反応して振り返った吉松シンジはカメラのフラッシュに焚かれ、その時の一瞬をカメラに収められてしまったのだ。
そのカメラを壊せなかったのは、データを消すことが出来なかったのは、シャッターを切った千束の顔があまりにも幸せそうだったから、自分が何のために救われたかを知らないとはいえ、あまりにも無垢に吉松シンジを慕う笑みを浮かべていたからこそ、あの時のカメラは情報漏洩防止という題目で保管されることとなったのだ。
手術台の上、千束は傍らに佇む最も信頼する大人、ミカへ声をかける。
『せんせい……こわい』
『大丈夫、心配ない。もうじき、お前は元気になる』
『……でも』
不安そうな千束を勇気づけるよう、吉松シンジは手術帽を被せられた千束の頭を撫でる。撫でられたことによる安心感か、それとも全身麻酔が効いてきたためか、千束の目蓋は段々と重くなっていった。
『“
意識は薄れていき、何も知らない無垢の少女は眠りに落ちる。
こうして、千束に待ち受けていた本来の死の運命は覆された。
手術は無事、成功。
麻酔が切れ、微睡みの檻から覚めた千束の下にある荷物が届く。
『お祝い?……誰から?』
『救世主からだよ』
言っていて余りにも無様な嘘にミカは気まずさを覚えるも、陳腐な誤魔化しを張り続けた。使用弾薬は45口径、取り回しやすい様に銃身を切り詰め、近接格闘を想定して銃口にスパイク仕様のストライクフェイスが取り付けられた逸品。
錦木千束のため特注された拳銃、“デトニクス・コンバットマスター”。
子供に贈るには物騒過ぎる代物。そして、銃の横にひっそりと添えられていたのはアラン・チルドレンの証である金色に輝くフクロウのチャーム。
与えられた殺人のための凶器。命を奪う鋼鉄の武装を前に千束は優しく微笑んで冷たい鋼鉄の凶器を愛おしそうに撫でつけた。
『……きゅーせーしゅさんの贈り物なら、これはきっと──』
“人を助ける銃だね”。
これがミカの価値観が反転した瞬間だったのだ。同時に、千束の曲げられない信念と生き方が定まった時でもあった。
「シンジはそれ以来、姿を消した。私の前からも、千束の前からもな」
「千束が殺しをしない理由に合点がいったよ。とことん皮肉だな、しかしそうなると不可解なのは吉松の行動だ。奴は何故、救った千束の命を狙う?」
「……使命を果たさない者を処分するつもりなのか」
「それなら、心臓を壊すついでにできたろう?可能なら、既にあの看護師がやってる。サイレントジンの件でもそうだ。千束の護衛を標的にするのではなく、千束本人を標的にすればいい」
ミカは大きな混乱を味わっていた。かつて愛した男であり、時に仲間として生きた吉松シンジという存在を未だに完全な形で測り切れていないのではないか。クルミは自分を追い込むように思索にふけるミカを落ち着かせるために声をかけた。
「分かった。ボクを襲ったアラン機関の人間は吉松だろうし、あの日武器を受け取った真島とも繋がりがあるとみていい。思想的にヤツを支援する理由も見当がついてきたしな。今んとこ開けられない箱を相手にするより、吉松の線で調査を続けた方がまだ可能性がありそうだ」
クルミが話を終えようと席から降りた時、一人の雫を滴らせた少女が話に飛び込む。勝手口の方からずぶ濡れになって現れたのは、リコリコの二人目のリコリス、井ノ上たきなだった。
「真島を捕らえれば、千束の心臓について分かるのですか──」
「聞いていたのか!?」
「はい、ミズキさんも」
「ちょ、わたしまでバラすな!?そこは知らんぷりを……できるほど器用じゃないわね、たきなは」
全身から雨粒を滴らせるたきなと悪びれもせず姿を現したミズキにミカもクルミも、何も言うことはできなかった。錦木千束をどうにか助けたい、その思いは皆、同一であるがために。
ただ、“みんな”という中で一人、千束と同じくこの場にいない“七夜黄理”へミズキは苛立たしそうに激情を示す。
「つ~か、黄理のヤローはこんな大変な時にどこで油売ってんのよ!!」
「その、黄理くんでしたら雨が降ってきたので千束に傘を届けにいってもらっています」
何とも言えない表情でたきなは黄理のフォローをしておくが、ミズキは神妙な顔で頭を掻いて額に手を当てた。わざわざ、いま黄理と距離を置こうとしている千束の迎えに彼を寄越すこと自体、意図するところが明白すぎる。
「……あんた気遣いまで不器用なのね」
「そう言ってやるな。たきななりに二人の仲たがいを取り持ちたかったのだろう?」
見え見え過ぎる意図に大人たちは少し和んでしまったが、たきなは真剣に千束たちの関係を憂慮していた。そのために“傘一本”だけで黄理を千束の迎えに走らせたわけだが、たきなは詳細を語ることはしなかった。
「此処にいない、黄理のヤツはともかくとしてだ──」
クルミは自分の適性と無力な分野を冷静に捉え、たきなへ協力を要請する。
「奴の足取りがつかめない以上、動きの派手な真島から辿るのが早い。DAの作戦に参加して、アイツを捕獲すれば状況を変えられる!」
興奮して腕を振り回すクルミへ、たきなは抑揚なく自分の想いを言葉にする。
「──断ろう、と思ってました」
クルミは“何故”と言いたそうにショックを受けている様子だが、千束や黄理と一緒にたきなを見てきたミズキたちにはその理由が分かった。
「千束との最期の二ヶ月だもんねぇ」
ミズキはずぶぬれになったたきなに肩を寄せる。そして自分が濡れるのもおかまいなしに最大の親愛を示す形で彼女はたきなを抱きしめた。静かに瞳を閉じて、その優しさに浸るわけにはいかないとたきなはミズキの抱擁から静かに離れる。
「何か、行動を起こしても無駄に終わるかもしれない。それが怖かったんです。でも……わたしDAに戻ります。千束の生きる可能性が少しでもあるのなら。やっぱり動かずにいられない!」
どこか吹っ切れた清々しい顔をしているたきなを前にミカは彼女への気遣いを提案してみる。
「私から千束に伝えておこうか?」
その気遣いをたきなは微笑みながら強い意思の灯った瞳で遠慮した。
「いえ、私の口から話そうと思います。……時間をください」
井ノ上たきなにはDAへ戻る前に……やりたいことがあった。
“やりたい”というよりもたきなの思い残していること。
それは、七夜黄理と錦木千束の微妙な距離感。それを解決しないまま、“リコリコ”を離れることがたきなにはどうしてもできなかった。
病室での、あのときの黄理の選択を傍観してあらためてたきなは自分に問う。
もし、他人を殺すことで千束の命を救えるとしたら、果たして自分は“いのちだいじに”という千束の信念を守ることが出来たのか。
分からない、答えは出ないまま。
きっと土壇場、ほんとうにどうしようもなくなった場面で答えが出てしまう。
奪った命で救われて、そのとき千束は以前のように笑ってくれるだろうか?
答えは未だに出ない。けれど迷う暇もない。
今は行動あるのみ、とたきなは自分自身を激励してリコリコの奥座敷へ籠るのだった。
しとしとと雨は降り続けている。この頃、十月を過ぎとっくに冬に入っている時期の雨は漂う空気どころか、臓腑の奥から体温を奪ってしまうほどの冷たさがあった。
傘を差す手から感覚が薄れ、いつも以上にひどい頭痛に顔をしかめた。
そんな認識上にしか存在しない痛覚を遮断し、青年は雨の中をゆく。
濡れたアスファルトを踏みしめ、七夜黄理は錦木千束の放つ
人の思念が入り混じる街の雑踏を抜け、黄理は橋の下で雨宿りをしている千束を探し出した。雨宿りをしているが千束の身体はとっくにずぶ濡れで、ジッとしていても体温を下げる一方なのがよく分かった。
気配を消して近づこうとするが、勘のいいことに千束はあと五メートルほどの距離で此方の気配を察知する。しかもこちらを見た途端、見なかったふりをして顔を反らす始末。
頑固で、本当に面倒なヤツだ。
「さっさと帰るぞ。そんな濡れネズミになって風邪でもひいたら……」
振り向く予兆はなし、聞く耳を持とうともしない。
嗚呼、クソ……たきなには悪いが“二人揃って”帰るのは難しそうだ。
俺は水浸しになっている千束の頭めがけて、脱いだ上着を投げつけた。さすがの千束も背中を向けた状態で得意の曲芸染みた回避行動は取ることが出来ない。背中に目でもあれば別だろうが。
「──っ!」
顔を真っ赤にした千束が一瞬、何か言いたげに振り返ったがすぐに顔を反らし直す。せめて、濡れてない上着と“傘”があれば、ひどい風邪をこじらせる前に家に戻れるだろう。
「体、あんまり冷やすなよ」
そう言い残し、近くの
とはいえ濡れることの抵抗は無くなるわけでもない。
傘も差さず、無心となって橋の下を出ようとした時。
バシャッ、と湿った布の感触が頭に
見慣れた俺と同様の赤い制服。男物、女物という基本を除き、俺のモノと現状で違う点は、濡れてるか濡れてないかに尽きるだろう。
アイツ、よりにもよって濡れてる自分の上着を投げてきやがった。
いや、濡れた服を着こんだままだと体温を下げるから仕方あるまい。それは分かる、分かってる。でも、既に俺の上着を着こんでいるアイツを見て、少しばかりイラっと昂るものがないでもなかった。
濡れていない制服を着こんだ千束は無言のまま、俺を傘の下に引っ張り込む。千束の差す傘の下、歩き出す彼女に合わせて俺も足取りを合わせる。
交わす声はない、聞こえるのは降りしきる雨の音だけ。
めざとくこっちの肩が濡れているのに気づいた千束はおずおずと肩を寄せてくる。怒りか、苛立ちか、こんなにも冷える空気なのに千束の顔はひどく真っ赤になっていた。
また怒らせる辺り俺もとことん気が利かない。
ひたすらに気まずい空気の相合傘。
俺たちは互いに一声を発さずに一本の傘の下、雨降る帰路へと着いた。