Lycoris A moon eclipse   作:悪事

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Repay evil with evil【1】

 

 

 七夜黄理は茫洋とした足取りでリコリコへと出勤する。千束の残された寿命の話から始まりDAに戻ることを決めた、たきなを見送った翌日。今の自身ができることとは何かを考え、自分もたきなと同様にリリベルへと戻るべきかと自問する。

 

 しかし、黄理は未だに喫茶リコリコから離れられずにいた。目的の為なら、こんな日常はさっさと捨ててしまうべきだと嘯く己がいる。捨てることなんて容易いはずだった。平穏なんて始めから、七夜黄理の中には存在しなかった概念だから。今、リコリコを離れても変化などありはしない。

 

 そのはずなのに俺の内で、千束の傍を離れたくないというガキめいた執着が足取りを重くしている。

 

 自罰的な思考は堂々巡りし、気が付くと既にリコリコの制服を纏っている。普段よりも、いくらか早い時間に来てしまった。せめて、店の掃除でもしておこうかとしていると、奥のお座敷の方からガタゴトという音を耳に入れる。

 

 またぞろ、クルミがつまみ食いでもしているのかと、見に行くとちょうど着替え終えて更衣室から出てきた千束と鉢合わせた。

 

「っはよ~。今日はやけに早いね。なんだい、そんなにわたしと会いたかったのかな~」

 

「早いのはお互い様だ。いつもの寝坊助はどうした?」

 

「ちぇ~、すっこしは照れるとかなんかないもんかね。それと、寝坊は毎日じゃないから。ごくまれに地震や台風、落雷とかの気象の影響とかでわたしの正確無比な体内時計が狂っちゃう場合がうんたらかんたらで」

 

「その体内時計、最初から壊れてるぞ」

 

 寝坊を気象の所為にする辺りも抜け目ない。まず間違いなく、前日の夜更かしが原因だろうことは、ガキの頃からの付き合いで嫌というほど知っている。

 

 あぁ、こんなやり取りもあと少ししかできないのだと思うと──。

 

 

 少し目を伏せた俺を見て、千束は寂しそうに苦笑をみせる。違う、そんな困った顔で千束に笑ってほしかったわけではなく、俺は己の至らなさを痛感して唇をかみしめた。

 

 これ以上、気まずくなる前に何か話を変えなければ……。

 

「そういえば、和菓子の仕込みは終わってたけど、ミズキさんは何処に行ったのやら」

 

「あれ、お店の方にもいなかったよ?」

 

「なら、奥の座敷か。クルミがガタガタやってたから、おおかたつまみ食いがバレてミズキさんにとっちめられたんだろう」

 

「フフフ、しゃーない。いっちょ心強い助け船を出したげますか!」

 

 意気込む千束は颯爽と歩き出し、俺はその後をついていく。奥座敷の方では、いつもの喧々諤々としたクルミとミズキの益体もないやり取りではなく、もっと真面目で肩肘の張った会話が為されていた。

 

「……んとに…………から追えるの?」

 

「……心臓は…………治験の場が……」

 

 そのやり取りを聞いてしまった千束は、先ほどと同じく困ったように微笑する。そして、小さく、か細く、隣にいた俺にしか聞こえない程度の声で、“しょうがないなぁ”と弱音を零した。

 

「まっ、入れてみて失敗した、じゃ大ごとだわな。電池を取っ換えるわけじゃなし、サイズ違ったから、またちょっと入れ直すとかできないでしょう?」

 

「真っ当な手段では、臨床の場にさえ出すことが出来なかった……おそらく、そこに付け込んでアラン機関は非合法に実験ができる機会(チャンス)を与えたんだ」

 

「非合法な人体実験なら面倒な手続きも許可もいらない、って?……気分悪いけど、戸籍のないリコリスはうってつけね。なんなら失敗しても公的に記録が残らないんだから、失敗なんてしてませーん、ってしらを切れるわけだ」

 

「──いや、悔しいがアラン機関の人を見る目は確かだ。僅かでも失敗の可能性がある、そんな生半可な才能の持ち主には奴らは見向きもしないだろう。……必ずある、断言してもいい。アラン機関のヤツらが研究者を見つけたきっかけが何処かにあるはずだ」

 

 既存の技術体系から逸脱した拍動を必要としない次世代型人工心臓。そんなものを理論として構築した研究者がいるはずだ。理論段階の時点で“失敗などあり得ない”とアラン機関をして確信させるほどの完成度をした論文。

 

 それがネットの海には存在するはずだと、クルミはモニターを前に奮闘する。ミズキもオペレーターとしての情報処理のノウハウ、思考法でクルミの補助に徹していた。必死で、なんとか、錦木千束を助けようと苦戦を強いられている。

 

 そこで、ミズキとは反対側のふすまが勢いよく開けられた。

 

「グッ、モーニン不健康ズどもー!!」

 

「「どわあぁぁ!?」」

 

 ミズキとクルミは揃って転げ倒れそうになるのを持ちこたえ、にっこにこと微笑む千束と側で気まずそうに目を反らしている黄理とご対面。

 

 クルミは慌てて液晶を自分の小さな体躯で覆い隠そうとし、ミズキもクルミと似た動きを取る。そして、とっさの弁明にと、ミズキは視線を泳がせて──。

 

「あっ、えっと、これは~、エロい、男の……なんちゅ~か、ちゅ、ちゅ~、ちゅ~」

 

「オイ!?もっとマシな言い訳は出なかったのか!?」

 

 何と言ったらいいのか、俺としてもコメントに困る。突然、リスみたいに鳴き始めるミズキさんとクルミへ、千束はおもむろに背を向けて腰に手を当てる。

 

「やっぱもう、潮時なんかねぇ~?」

 

 千束の言いそうなことはなんとなしに見当がつく、俺としては“もう終わってしまうのか”と“ようやくか”という相反する心情に攪拌されている有様だった。一方、話の流れを読めぬミズキたちの困惑を背中に浴びて、千束は普段通り茶目っ気たっぷりに“リコリコ”に関する重大事項を通達した。

 

「リコリコは閉店します、ばきゅーん☆」

 

 

 

 

 

 

 詳しい話は店長が来て、今のリコリコの面々が全員揃った頃合いで始められた。

 

「ここらが店の畳み時ってヤツかなー。わたしのことで皆を困らせるのも悪いし、この店は最初から最後まで楽しくやっていこうって決めてたんだ」

 

 千束のあっけらかんとした説明に、納得しきれていないクルミは苦渋の表情を取る。迷惑をかける、厄介ごとに巻き込みたくない、なんて理由なら、問答無用で押しのけるつもりだった。

 

 だが、千束の指針はやはり、“楽しいか、否か”というシンプルなもの。それでは、頭ごなしに否定できないとクルミは自分の金糸の髪をかき混ぜて問い質す。

 

「……千束は良いのかよ、本当に」

 

「いやね、元々そういう話だったんよ。リコリコは楽しい間だけの限定営業ってね。まっさか、こんなに長くやっていけるとは思ってもなかったなー。ね、ミズキ?」

 

「ぅ、っおぅ」

 

 千束に呼ばれ、酒杯を前に浮かない顔をしたミズキは何も言えずに正面のミカと視線を合わせようとする。だが、彼も答えが纏まっていないのか、視線の(いら)えは返ってこない。そして、臨時のバイトである黄理は、そもそも閉店うんぬんに対し発言するつもりはないのか、カウンターにもたれかかり天井を呆然と眺めていた。

 

 

 “リコリコは楽しい間だけの限定営業”。楽しい日々が続く、それがどれほどの奇跡に恵まれたものかを千束たちは知っている。裏稼業で生きるリコリスにとって、今日や明日など不確かな寄る辺である。その点で言えば、リリベルも同様だが。

 

 今日と変わらない明日が来る保証はない。いくら錦木千束は銃弾が避けられるといっても、廻り合わせが悪ければあっさりと死んでいるかもしれない。千束が無事でも、ミズキさん、もしくはミカさんも現場に出る以上、死の危険はある。

 

 誰かが永遠に欠けた時“この店(リコリコ)”で、もう笑えなくなってしまったら──。

 

 七夜黄理は看破していた。あの屈託なく笑う千束にとって、最も恐ろしいのはその一点に尽きるのだと。リコリコは幸福や楽しさに満ちた場所であってほしい。裏の、人の命が軽い世界を知るがゆえに幸福と笑顔に溢れた場が、この世にもあるという事実が千束の信念の支えでもあったのだ。

 

 

 暗い雰囲気になりかけのところ、千束はことさらに明るい声で場を纏めようとする。

 

「さぁさ、皆もたきなを見習って、自分の歩むべき道に立ち返るのだ!ヘイ、ユー。ミズキは何処、行きマスカー?」

 

「え、ヘ?あ、ぁ、婚活サイトで知り合ったバン↓クー↑バー↓のイケメンに会いにいこう、かしら?」

 

「わぁお~、どれどれ~?おぉムキムキだな」

 

 ミズキのスマホを覗きこんで、引き気味になった千束が振り返ると有無を言わせずに俺の腕を掴んでくる。

 

「……なに?」

 

「ガッリガリだわ~、なにこれマッチ棒?」

 

「うるせぇ肉が付かないんだよ。いくら食べても身にならねぇんだからしょうがないだろ」

 

「おっとと、自慢?」

 

「違う──」

 

 千束のヤツめ、こちらが気にしてることを。なにをどうやっても、肉が付かないのだから仕方がないだろう。

 

 

 七夜黄理の肉体は細く軽く、しなやかで研ぎ澄まされた肉体である。しかし、それは転じて脆く、弱く、(こぼ)れやすい、強度が低いことの証左でもあった。地面に落ちれば、それだけで砕ける硝子(ガラス)か、水晶(すいしょう)と同程度の耐久。

 

 ゆえに壁や天井を自在に駆ける身体技能を有するのだが、日常生活においてはひたすらに貧弱でか細い肉体にしかならない。

 

 面白がって腕を触ってくる千束を黄理が振りほどくと、今度はクルミへと進路相談が行われた。

 

「じゃあ、クルミはリコリコを出たら、どうしたい~?」

 

「…………どうするも何もない、此処を出たら命を狙われるんだからな。……ボクはこの国じゃお尋ね者だ。さっさと尻尾(しっぽ)を巻いてどこか遠くに逃げるとするさ」

 

「……尻尾巻く、ああ栗鼠(リス)だけに?」

 

 すこん、と千束にチョップを食らって、大人しく黄理は閉口する。

 

「──アンタってば、DAから狙われてるもんね。いやワンチャン、虎杖さん(リリベル)のとこに匿ってもらうとかできるんじゃない?黄理のツテを使ってさ」

 

 ミズキの言い草にクルミは舌を出して断りを入れる。

 

「宮仕事は(がら)に合わない。ひとまず、国を出てから身の振り方を考える」

 

「ん~。じゃあさクルミ、ドイツに行ってみたら?」

 

「……何故に、ドイツ?」

 

「あー、分かった。その選考基準、ボードゲームでしょ!?千束、アンタねぇ潜伏先をそんな選び方するとか──」

 

「え~、だってボドゲの本場だよ?良くないかなぁ~、大きなコンペもあるし、一緒にボードゲームができる人たちにもいっぱい出会えると思うんだ。きっと、楽しいぞ~」

 

「──なら、お前も来いよ。旅券くらいなら、いくらだって手配する」

 

「おぉふ、それもアリだなー。……でも、せんせが寂しがるからやっぱダメー♪」

 

 千束の話に挙げられたミカは、何食わぬ顔でわざとらしく珈琲豆の在庫を指折り数えている最中だった。千束はクルミに背中をそっと押すように触れて静かに微笑む。

 

「──いつか、たきなを誘ってあげて?」

 

 うーんと伸びをした千束は、そのままぼんやりと腕を組んでいた黄理の手を取ると、制服姿で外に駆け出した。

 

「そいじゃ、ひとまず今月分の豆の配達に行ってきまーす。ほら、黄理!ぼやぼやしてるひまなんてないゾー!!」

 

「おい、いきなり引っ張るな!?まったく、とりあえず行ってきますっ!」

 

 

 

 バタバタと千束と黄理の二人が配達のために外出していった。それを見送ったあと、クルミはあることに気が付く。

 

「……そういえば、アイツ。結局、ミカと黄理たちには何がしたいとか、何処に行きたいとか聞きもしなかったな」

 

「千束の中じゃ、おっさんと黄理はいくら甘えても、許してくれるって(くく)りなのかもね。分かり(やす)すぎんのよ、バカ……」

 

 

 

 

 

 

 

 その日、都内のある音楽ホールが貸し切られ、演奏練習ということで高校生ほどの少女たちが鞄片手に防音設備の整った大ホールへと入っていく。明かりは落とされており、暗がりのなかで少女たちは指定された客席に着く。

 

 制服の肩口や鞄に入った徽章には、彼女たちが何者かを表す彼岸花(リコリス)のシンボルが刻印されている。リコリスたちは以前、東京支部を陥落せしめた真島への対応で楠木司令より招集を受けて集っていた。

 

「四月、千丁に及ぶ武器取引を確認。六月、地下鉄での破壊活動ならび現場でのリコリスたちの殺傷、直近ではリコリスを狙っての奇襲、警察署並びリコリス東京支部の襲撃。これら全ての事件の首謀者と目されるのが、“真島”と呼ばれる男です」

 

 スクリーン一面へ映し出される真島の肖像、壇上に上がっている楠木司令に目もくれず、たきなは千束を救うために捕らえなくてはならない標的を再び目に焼き付けた。

 

 カツン、と壇上にいた楠木司令はわざと足音を反響するように鳴らし、聴衆であるリコリスたちの視線と意識を壇上へとより強烈に誘導する。

 

「“真島”、年齢国籍、主義思想の一切が不明。こちらで掴んでいる情報は、世界を股にかける戦争屋だということ。我が国でも十年ほど前に確認されている」

 

 十年前に起きた大事件、リコリスたちはその事件によって倒壊寸前までいった現東京のランドマークを思い浮かべ、楠木もそれを首肯する。

 

「みなもよく知っている──“電波塔事件”だ」

 

 

 電波塔事件に関連した情報が次々と映し出されていく。

 

 そんな中、スクリーンの隅に併記されるように映ったのは、白金(プラチナブロンド)でショートカットの幼げな少女と、黒々としたクセッ毛に鋭い目つきをした少年の画像だ。年齢はおよそ六、七歳といったところ。そして、目を惹くのは幼い外見とは裏腹の、ファーストを象徴する赤の制服を着こなしていることだ。

 

 多くのリコリスたちは知る由もないが、あれこそ昔日(せきじつ)の、七歳時点の錦木千束と七夜黄理の姿である。

 

「うわっ、マジであんなちっこい頃からファーストだったんすね。あの二人」

 

「……サクラ、私語は慎め」

 

 

 スクリーンが暗転し、真島とは別の映像が投影される。

 

「本来、これは機密事項に該当する情報だが、今回の標的である真島の実力、周囲にいる部下たちの能力を(かんが)み、(みな)に閲覧許可を与える。これは十年前、電波塔事件をたった二人で平定した怪物たちの任務記録(デブリーフィング)だ」

 

 スクリーンの映像が十年前へと遡及する。監視カメラからの映像と思しきそれは当時の電波塔の内部を克明に記録していた。物陰に隠れ潜むテロリストたち、構えた銃火器や防弾装備、それらを観察し、スクリーンを睨みつけるリコリスたちは自分たちであれば、どうテロリストたちを処分するかをシュミレートし始める。

 

 

 しばらくしてテロリストたちが画面の中で急に崩れ落ちていく。その直前、小さな影らしきものが横切ったと何人のリコリスが気づいたことか。映像は続々と場面を変えていく、サブマシンガンやアサルトライフルを乱射するテロリストに向かって悠々と距離を詰める赤眼の少女。

 

 その背後、死角となる位置を踊る様に駆ける蒼い眼光の軌跡。銃弾の雨を回避し、敵の懐に飛び込むや、銃弾を連射して大勢のテロリストたちを鎮圧する。二頭の怪物たちの戦果は、まさしく圧倒的なもの。

 

 いたいけな少年少女は次から次へと武装した男たちを打倒していく。

 

 赤い眼光を放つ少女は一丁の拳銃を手に敵の群れを真っ向から撃ち倒す。銃弾の軌道を完璧に読み切り、弾丸を一度も受けずに進撃を続ける。もはや、弾幕と言ってもいい銃弾の壁をすりぬける姿は、現実に起こったことであるというのにひどく現実味に欠けていた。戦場を支配するように闊歩する様は、最強のリコリスの名を冠するに相応しい。

 

 そして、もう一方は特に目立つような活躍こそ見えないが、多くのリコリスたちも不気味さを覚えるとともに気づき始める。七夜黄理、彼は確かに錦木千束と同等の戦果を挙げているはず。だというのに、まったく監視カメラに姿が映らない。時たま映る影だけが彼のいた痕跡。

 

 錦木千束の存在感を影、裏、死角にして敵を気づかぬうちに倒していく。音が、気配が、存在感が皆無。たった二本のすりこぎ棒、いや(バチ)のようなもので密やかにことを終えている。

 

 更に、錦木千束と七夜黄理の役目が瞬時に入れ替わる、真っ向から四足獣のように相手めがけ疾走する少年とその挙動によって生まれた死角に潜り込み、静音戦闘で敵を片付ける少女。まさに完成された暗殺者の究極、理想とすべき殺人技巧(キリングレシピ)

 

 最強のリコリスとリリベルの圧倒的な躍動、その芸術的にさえ映る戦闘記録に目を奪われるリコリスたちの中にあって、たきなだけは看破していた。テロリストたちから死傷者を一人たりと出していない、使われている弾丸は非殺傷のフランジブル弾だし、黄理くんに至っては加減さえしているように見える。

 

 背中合わせに戦う二人を見て、たきなは強さではなくお互いへの揺らがぬ信頼にこそ、尊敬を抱いた。

 

 そして、電波塔最上階、展望台の映像。黄理くんを庇った千束が流血した直後、虚ろに転じた黄理くんがこれまでにないほどの踏み込みで、ただ一人展望台に残ったテロリストへ肉迫。

 

 そこからは映像ですらとらえきれぬ早業だった。

 

 振りかぶられるナイフ、その後より遅れて生じる死の具現。

 

 二秒以上、三秒未満。リコリスの皆が自分たちは何を見逃したのかと目を、認識を、正気を疑った。バラバラになって床に散らばる人体だった肉片。血みどろに染まり立ち尽くす少年の後ろ姿に、多くのリコリスたちが畏怖を刻まれる。

 

 たきなは京都で目撃した殺人の光景と病院で黄理が振るった解体技巧を想起し、何処か不安めいた重たい感情が胸に沸き立つ。俯こうとするのをこらえ、顔を上げ続けていると画面内で悲しみに瞳を彩った千束が殺人を為した鬼へと銃口を向けるのを見せられ──。

 

 乾いた銃声が響く。

 

 それを見て、たきなは“嗚呼、良かった”、と場違いな安堵に胸を撫で下ろした。

 

 

 最後のあまりに不可解な行動にリコリスたちは首を傾げたが、七夜黄理が立ち上がったところで彼女たちは理解を放棄する。

 

 そして始まる電波塔崩落の瞬間。映像の視点が監視カメラからドローンに変わる。

 

 窓ガラスが次々と割れ、展望台が致命的な角度に傾斜した時、千束と黄理は揃って、展望台から身投げした。

 

 

 

 まさか、と信じられず、反射的に立ち上がったたきなが息を呑むと、画面に映し出された二人はその心配を知らぬままに崩れ落ちてくる電波塔の残骸、瓦礫、破片や鉄骨を足場に電波塔を“駆け下っていく”。

 

 アクション映画顔負け、フィクションを事実に堕した二人の疾走に、たきなは足の力が抜けて、へなへなと席に着き直す。隣にいたエリカが心配そうに此方(こちら)を見ているが、千束と黄理くんの破天荒さは幼少期からのものだと気を取り直して、二人の自由落下同然の疾走を見届けんとする。

 

 吹きすさぶ鋼鉄と破壊の暴風、少年少女の矮躯などかすっただけで粉砕しかねない鉄塊と瓦礫を目前に二つの魔影は誰の手も、声も届かない上空で舞い踊る。

 

 崩落する電波塔の側、地表めがけ疾駆するファーストの制服を纏った二人は赤い流れ星みたいで。

 

 

“──綺麗”。

 

 

 誰が呟いた言葉だろう、それは分からない。あるいは誰もが忘我の内に零した言葉かもしれない。

 

 やがて、少年少女は崩落する電波塔を降りきり、無事に地表へと帰還を果たした。

 

「……これ、スタントマンとか居ないっスよね?」

 

「言いたいことは分かるが、これが事実だ。あんな無茶を土壇場で出来るヤツは実在する。覚えとけ、あれがリコリスとリリベルの最強だ」

 

 引きつった顔でどうにか笑おうとして失敗したサクラと対称に、フキは落ち着き払った態度を崩さない。

 

 

 

 対、真島の参考資料として、十年前の電波塔における機密情報が解禁されたわけだが、大勢のリコリスたちは内心で思っていることは同一のものだった。

 

“基準から外れすぎていて参考にならない”。

 

 

 唖然としているリコリスたちを現実に引きもどす形で、暗がりだったホールに照明が付いた。楠木司令はリコリスたちに念押しを兼ねて、大前提を語る。

 

「いいか、常識では測り切れない突出した個は実在する。その個を圧倒するため、突出した個をねじ伏せる物量と群体としての連携を以て処理しろ。個ではなく、己を群の一部と認識したうえで行動を心掛けるように」

 

 そう、元よりリコリスは少女としての外見からくる敵の油断、日常生活の中で紛れ込みながら奇襲することで標的を処分することが基本戦術。真っ向からの個と個の衝突なぞ、最初から戦術に含まれていない。

 

 楠木司令は各員の認識と思考が統一されたことを見るや、今回のブリーフィングの本題に移った。

 

「真島は国内外のテロリストを始め、マフィア、カルテルなどから依頼を受け、延空木を標的にテロを起こす腹積もりだ」

 

 とうとう、話は過去ではなく現在の状況の整理に入った。DA、いやリコリスが真島への奇襲に動き出したのも依頼者の一人を確保、そこから真島の潜伏先を特定したことに起因する。

 

 

「我々は全霊を以て、真島たち延空木破壊を企む者どもを殲滅する。いいか、今回の我々の標的は真島だが、ヤツを足掛かりにその依頼人ども、安全地帯からこの国に害を為そうとする者どもを直接、叩く!……それこそが我々の存在理念であるがゆえに」

 

 Direct Attack。自らの属する組織の名称と同じ作戦概要。楠木の言葉に反応し、リコリスたちは合図もなく一斉に立ち上がると指揮官の次なる号令に備える。無機質な少女たちの視線を一身に受けて、楠木は鋼鉄を思わせる冷たい声で壇上より告げた。

 

「──見つけ次第、殺せ」

 

 音は無い。少女たちの返事も、足音も、息遣いも、衣擦れも、何もかも。沈黙によって、リコリスたちは命令を静かに受諾した。

 

 

 

 

 

 

 真島はアラン機関のエージェント、ヨシさんと呼ばれていた男の前で彼が後生大事に持っていたUSBメモリの中身を確認する。扱い方次第では世間に波乱を巻き起こし、値千金となりうる極秘の情報。それをつまらなそうに読み終え、真島はUSBメモリをゴミ同然に放り投げた。

 

「ほーん、人工心臓ね……じゃあ、あの銃弾を避ける目は自前だったのか…………あのアランのリコリスとお前の関係は大体、把握した。笑えるほど悲劇的な勘違いだな。お前みたいなロクデナシをアイツ、ご立派な人道主義者みたいに思ってるんだぜ。憧れの“ヨシさん”の真っ黒な腹の中身を見たら、さぞかし、がっかりするだろうよ」

 

 “まぁ、おかげで俺や、仲間の幾人かは命拾いしたわけだが”と独り言ちる真島を前にして、吉松の微笑は崩れない。一向に慌てず、騒がず、冷静にいる吉松は真島たちの配下に紛れているロボットの被り物をした少年に目を付ける。

 

「だから、散々忠告したんだアラン機関!!コイツ、滅茶苦茶だ!言っとくが、僕はお前の襲撃に関与してないからな、裏切ったわけじゃないぞ!」

 

「うるせぇ」

 

 ロボ太の被り物を外し、真島はポイと無造作にうち捨てる。投げ捨てられた被り物を慌ててロボ太が拾いに行っているのを視界の端に置き、真島は懐からフクロウのチャームを指先へ掛け、ゆらゆらと煽る様に弄んで見せる。

 

「自分の思い通りにならないからって、ちょっかいかけるのはアランのルール違反だろ?一度、余計な世話を焼いたら、不干渉ってのがお前らの不文律じゃねーの?」

 

「彼女が道を(たが)えたのは、わたしの唯一の過ち(ミス)だ。責任を果たす、そのために“必要なこと”なんだ」

 

 微笑みかける吉松の顔に、真島は吐き気を覚えた。この(いびつ)な使命感に取り憑かれた悍ましいゲテモノに執着されるアランのリコリスに僅かながら同情する。

 

 だが、その同情も一秒後にはすっぱり忘れ、吉松が語った必要なことについて、挑発的に問いかける。そう、あの赤いリコリスの殺人者としての成長が“ヨシさん”とやらの願い。なら、リコリスの命を奪おうとする自分は、この男にとっては障害のはず。

 

 真島が牙を剥き、殺意を爛々と瞳に灯して笑い掛ける。

 

「だったら、俺を殺すか?」

 

「何故?君は優秀なチルドレンだ、生きてその才能を大いに振るってほしい。銃は、……ふむ、千丁ほどで足りたかな?」

 

 親し気な声に苛立ちを覚え、真島は立ち上がる。

 

 卓上のパソコンや紙束、雑多なものをかき分け倒し、座っていた椅子を蹴り飛ばす。視界の端でロボ太や真島の配下たちはビビっていたが、仮面を付けた怪人、金髪の少女は我関せずと反応すらしない。

 

「恩着せがましいんだよ、俺もヤツと同じ、やりたいように生きて、好きなように死ぬ。てめぇらの指図は受けねぇ、いや、それどころかこっちの気分次第でアンタをぶっ殺してるかもな?オレたちに意味のある生を強要するなら、テメェが無意味に死ぬことを強制しないとバランスが悪りぃ」

 

「……いいや、意味ならあるさ。チルドレンたる君の行いによって死ぬのならば、私はアランの理想を果たせるということだ。ならば、喜んで命だろうと捧げてみせよう」

 

 透き通った、嘘偽りのない心からの純真な発言だった。その根幹がひどく歪曲していることに目をつぶりさえすれば、(はた)からはさぞやご立派な美辞麗句に聞こえることだろう。

 

 此処で真島はとうとう吉松シンジへの興味を完全に失った。

 

 面白い、つまらない、ではなく関わる意味がない。これは自分が関与する余地が微塵も無いことを察し、真島は舌打ちをする。

 

「気色悪いったらねーぜ、チッ、お前らDAと同じだわ、セコセコと裏から手を回して手前勝手な主義主張で世界を不自然にかき回してる。いいか、DAの次はお前らだ、アラン機関」

 

 椅子に縛られた吉松のこめかみにリボルバーの銃口を捻じ込むように押し当て、真島は冷たい眼差しを向ける。

 

「──テメェらの本丸は何処だ、あぁ?」

 

 

 真島の恐喝を受けてなお、吉松は不気味に笑うだけだった。

 

 

 

 

 

 

 春先、天才ハッカー様護衛の際に見たスーツケースを千束はトランクにしまい込んだ。千束、ミカ、黄理の三人が、リコリコを旅立とうとする二人を見送ろうとしている。

 

「今度こそ、スーツケースに収納されずに空港いけるね。いやー、最近は少ないって言ってもロストバゲージなんかして全然思いがけない国に輸送されちゃったら、さすがのクルミでもどうしようもないでしょ~」

 

 別れの場面にも関わらず普段通りあっけらかんと笑う千束に対し、クルミは物憂げで言いたいことを纏めきれずにいる。伝えたい感謝、詫びは山ほどあるのに何も言い出せずに煩悩するクルミの頬を千束は軽く突っついた。

 

「どしたのさー、せっかくの門出だよ?ほら、俯かないで。可愛い顔が台無しになっちゃう」

 

「……世話になった」

 

 絞り出せたのは、たった一言。

 

 多くの優しく、暖かな思い出に対する感謝には、あまりに端的すぎる言葉だというのに。

 

 千束はそれでも嬉しそうに微笑んで笑顔を絶やさない。

 

「なぁに~?らしくないなー、もっと“ボクがいなくて大丈夫か、情弱どもめーワッハハー”とか言ったりしない~?」

 

「フッ、却って、ボクらしさからかけ離れてるぞ、そのセリフ……」

 

 少しクルミの表情からこわばりが抜けるのを見届け、千束はミズキにも普段通りに接する。

 

「ミズキも達者でな~、腹出して寝んなよ?」

 

「出すか!?アンタこそ……変なもん食べるなよ」

 

 千束から拳が出され、ミズキは気丈に拳を合わせた。

 

「おい、コラ男衆ども、千束の事、任せたから」

 

「承知してますよ」

 

「嗚呼……」

 

 

 黄理とミカはミズキの叱咤激励へ素直に頷いて、下手ながら笑って見せた。誰もが、この別れに納得していないことは薄々、わかっている。

 

 でも、それが千束の意思であるというなら──。

 

「千束、あんまし振り回してやんなよ?おっさんは若くねーし、黄理のヤツだってアンタ以上に危なっかしいんだから」

 

「へいへい……それじゃあ」

 

 車の窓がゆっくりと閉まる。見えない壁に区切られ、ミズキが運転手へ行き先を告げると車は走り出してしまった。重なり合わせた拳の感触、それを宝物みたいに抱きしめて、千束は遠ざかる車がいなくなるまで手を振り続ける。

 

 クルミたちを見送ると、千束は踵を返してミカと黄理、二人の手を握り、リコリコへと戻っていく。

 

「さぁて、お片づけを始めますかね、二人とも?」

 

 

 

 リコリコを遠ざかっていく途中、ミズキの煮え切らない態度にクルミは耐え兼ねて、ため息交じりに吐き捨てる。

 

「仕方ないだろ、千束が望んだことだ」

 

「……まだ、何も言ってないわよ」

 

「言わずとも分かる、それくらいにはお前は単純で、付き合いも長くなった」

 

 ミズキは疲れた素振りで髪をかき上げ、瞳をどんよりと曇らせる。そんな彼女を少しでも元気づけるため、クルミは“らしくない”と感じながら、最後の可能性に言及する。

 

「まだだ……まだ、たきながいる」

 

 

 

 

 

 

 真島討伐作戦の直前、たきなはDAが捕らえた者たちを拘留している施設に潜り込んだ。普通であれば、尋問の許可申請やリコリスの識別番号の照会などが必要となる。だが、リコリスは今、大きく戦力や体制を弱体化している。

 

 リリベルとの協力体制を敷いているといっても、これまで万全な状態で回していた管理体制には小さいながらも穴が生まれてしまっていた。

 

 本来なら歓迎すべきことではないが、その不幸中の幸いがたきなの無茶を押し通す材料となったのは皮肉としか言いようがない。

 

 

「──お前が真島に依頼をした人間か」

 

 たきなの呼びかけに鬱々とした男が、不愉快そうに応答する。

 

「……知ってることは全部話した、ヤツが標的としているのは延空木。はん、せいぜい電波塔みたく折られない事を祈るんだな」

 

「依頼遂行のため武器を真島に用意したのか?」

 

「またか、お前らは一度言ったことを何度繰り返し喋らせれば気が済む?俺をオウムか何かと勘違いしてるのか?」

 

「質問に関する事だけ答えろ」

 

「へいへい、武器だけあっても使う兵隊がいなけりゃ、ただの鉄くずだ。銃の扱いができる人的資源の世話までしてやったよ」

 

「吉松という男を知っているな?」

 

「……ヨシ、松?誰だ、そいつは?」

 

 寝そべっていた男は苛立たしそうに立ち上がると、檻の側へ近づいていく。そして、たきなの姿を目にするや、一息に男は毒づいた。

 

「これがリコリスか、こんな年端も行かねぇガキに仲間が殺されていったとはな」

 

 男は一度、視線を外すと檻の向こうのたきなに掴みかかろうとする。

 

 拍子を外してから不意打ちを試みたのだろう。

 

 まず、痛い目を見せ、そのまま人質とし拘留房から脱出する男の目論見。だが、相手は蝶よ花よと育てられたか弱い乙女ではない。血と硝煙、そして凄絶な修羅場の経験を糧に花開いた青の彼岸花(セカンドリコリス)

 

 たきなは檻の隙間から伸びた手を捻り上げる。駆動しない方向に回された靭帯をかばい、男が膝を付く。(ひざまず)く格好となった男の下がってきた頭を靴底で抑え、銃口を頭部に押し当てた。

 

「くっ、がっ──やめろっ!」

 

「お前みたいな連中を殺し過ぎて、わたしは一度クビになっていましてね。思いのほか、外の暮らしも楽しかったんで、またクビになってみても「ヨシマツなんぞ知らん!!」

 

 腕にかける力は緩めない、たきなは冷静な状態で語気だけを荒げる。

 

「なら、銃はどこだ!!」

 

「あ、アランっ、アランと言っていた!」

 

「アラン機関か?」

 

「知らん、それくらいしか知らん!」

 

 男の妙に韻を踏んでいるようなセリフを最後にたきなは尋問を切り上げることにする。捻り上げていた腕をそのまま折り、男が痛みに耐えかねて叫ぶ前に踵で側頭部を蹴り抜いた。

 

 すっかり自分も黄理くんのように足癖が悪くなったものと思いながら、急ぎ他のリコリスたちが乗る強襲車両へとたきなは駆け出す。

 

 確認すべきことは聞き出せた。

 

 ──やはり、吉松が裏で手を。

 

 

 

 

 

 

 閉店の準備が始まった、店じまいを報せる張り紙、SNSでの告知、もう使わなくなりそうな食器やちゃぶ台、椅子、それと千束個人の荷物やDAの経費で購入した名目上、DAの備品となっている調度品などを選り分けていく。

 

 作業の片手間、なんとなくで付けたテレビはもうすぐ完成する延空木のトピックを盛大に取り上げていた。千束は片付けの途中に出てきたアルバムをめくりながら、明日予定されている延空木の完成セレモニーの情報をBGM代わりにしていると、テレビの電源を落とされる。

 

「あー、見てたのに~」

 

「今は片づけに集中しなさい」

 

「整頓のとき、出てきたアルバムに気を取られるって、またベタな」

 

 黙々と片付けているミカの指摘や、呆れた様子を隠さない黄理のぼやきにも負けず、千束はアルバムに綴じられた写真に夢中だった。

 

「あっ、なつかし~。リキだ~、あの子、可愛かったなー」

 

 かつてリコリコで飼っていた柴犬と、その傍でご機嫌にピースする千束、仏頂面で並んでいる黄理、二人の肩に手を乗せて不器用ながら笑っているミカの写真。

 

「この犬……最後まで俺に懐かなかったよな」

 

「アハハ、だってあの頃は黄理、滅多にニコッてしなかったじゃん。イッヌはね、そういうのを見てるのだよ」

 

「……そういうもんかね。というか、あの犬の名前についても当時から釈然としないものがあったな」

 

「え~、可愛いじゃん。“リキ”って響きもシンプルでいいし~」

 

「あーそうだな、そうだったな。……俺の考えた“センリ”って名は秒で却下されたっけ」

 

「当たり前でしょ、人さまの名前をモジるなんて()くないですよー」

 

「じゃあ、リキってのは人の名前のモジりじゃないって言い切るんだな、今も昔も」

 

「昔も今も、未来だって言い張るよん。まっさか、そんな犬みたいな名前の人なんているはずないって~、ねっ黄理(キリ)☆」

 

「おのれ、なんという許しがたい邪知暴虐」

 

「ハッハッハ、きっとメロスだって許してくれるよ」

 

「……確か、著者の太宰治は借金の人質にした友人見捨ててなかった?」

 

 

 千束は黄理とアルバム片手に普段通りなじゃれ合いをしているが、ミカだけはアルバムを一向に見ようとしなかった。それどころか、片付けの作業に没頭して何も考えないよう必死に手を動かしている姿に、千束は意を決して訊ねてみる。

 

 ミズキ、クルミがいるときは聞けなかったこと。

 

 

「ねぇ、せんせはこれから何がしたい?」

 

「……あいにくとやることが溜まっている。明日はまず不動産屋に行って閉店の──」

 

「あ~。そうじゃなくって、フキとかサクラの二人みたいに、新しいバイトの子を雇って、お店、続けてみたくない?」

 

「────どう、だろうな?」

 

 ミカは沈痛そうに表情を歪めて、下手ながらに笑ってみせる。自分のやりたいことを見出せずにいる彼は自分が何を選ぶべきかさえも分からずにいた。

 

 千束はそっと名残惜しそうに思い出(アルバム)を閉じる。

 

 嗚呼、今日がもう終わってしまう、と寂しそうに──。

 

 

 

 とっくりと日が落ち、街灯が夜道を照らす時刻。黄理を連れて千束は店の外に出ると腰に手を当て、ジッとリコリコの前から動こうとせずに佇んでいる。

 

 冷える夜風を浴びてなお、千束は見ている此方が切なくなるほどの眼差しで、リコリコを見つめ、これまでの帰らない日々を懐かしんでいるようだった。

 

 一向に帰ろうとしない俺たちに気づいたミカさんが杖を突いて出てくる。

 

「……まったく、いつまでも眺められてると、店の灯りを落としにくいんだがな?」

 

「はいはーい……不思議だな。別に昨日と、一昨日となんにも変わってないのに、どっか懐かしくて、なんか見慣れないや」

 

「……()けたか?」

 

「天然ボケ気味な黄理が言うかね?」

 

「もう閉めるぞ──」

 

 ミカさんに言われ、千束はぼんやりとした瞳にリコリコを映す。十年と少し、七歳の頃から過ごしてきた店は外観や内装こそ大きくは変わってないが、様々な思い出が積み重なっていた。

 

 ミズキが酔ってクダを巻いていた座敷席、クルミが自室代わりに改造してた押し入れ、カウンター向こうでコーヒーを淹れているミカさん、たきなはフロアをせかせかと跳ねるように働いていたっけ。

 

 千束は、リコリコじゃいつだって笑顔だった。

 

 毎日を楽しいと笑っている、そんな千束を見ていると俺だって、何が面白いわけでもないのにつられて笑っていたのを思い出す。

 

 ふと、分かり切ったことが俺の口を突いて出た。

 

「……そっか、無くなるんだな。リコリコは」

 

「うん……この店ともちゃんとお別れしないとだなぁ」

 

 

 千束の言葉の片隅から薄く感じられる哀しみと苦しさに、ミカと黄理は臓腑をかき混ぜられるような不快感に苛まれる。黄理は何も、口に出さない。元が口下手ということもあるし、そういう役目は自分ではないことを知るために。

 

 千束の成長を見守り、共に歩んできた保護者であるミカが彼女の葛藤に寄り添うよう声をかけた。

 

「あまり、無理をするもんじゃない」

 

 聡いミカにしろ、鈍い黄理にしろ、容易に察しはつく。笑顔の影で、やりたくないことを無理にやっている辛さというべきものが今の千束には生じていた。

 

「う~ん、しっかり隠せてた、って思ったんだけど──。先生にもお見通しかぁ。そうだね、やっぱり…………寂しいよ」

 

 これまでに積み上げてきた時間が終わってしまうことが嫌だったから、千束はリコリコから帰れずにいたのだろう。

 

 黄理は冬の夜風によって冷えこんだ手で、千束の手を握る。

 

「ヒェッ!?つべた!」

 

「ああ、千束の夜更かしに付き合ったおかげでね」

 

 そう嘯いてみるが、元より低体温なため微差でしかない。突如、冷たい手で手を握りしめられて跳び上がった千束と僅かに肩を震わす黄理を見て、ミカはリコリコへと戻ってゆく。

 

「寒いままで帰らせるというのは心苦しいな。おいで、二人とも。暖かいコーヒーでも淹れよう、わたしの奢りだ」

 

「──うん、是非(ぜひ)!」

 

「はい、お言葉に甘えて」

 

 

 

 

 ミカさんに続いて、店内に戻ろうとすると、立ち止まった千束に引き留められる。まだ、店を見足りないのかと思ったが、何処か寂しそうに微笑む表情に背筋を正す。

 

「ねぇ、黄理はさ。…………わたしがいなくなったら、なにがしたい?」

 

 黄理はその微笑みに、その優し気な眼差しに、胸を(えぐ)られた気がした。胸に去来する痛み、千束の居ない未来図を千束自身に語られ、黄理は瞳の内に蒼い光を瞬かせる。

 

 見る者に不吉を連想させるような酷薄な蒼い燐光、それを瞳に宿し、黄理は笑っている千束のため、どうにか笑顔を取り繕って──。

 

 

「──なにも、なにも無いよ」

 

 千束の声と正反対に冷たい声が、真っ暗な凍空(いてぞら)へと溶けていった。

 

 

 

 

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