Lycoris A moon eclipse   作:悪事

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 願うことは既になく、望みはとうに枯れ果てている。

 そう思って生きてきた。だけど、ふとした時に俺は醒めながら夢を見る。

 もしも、今の自分と違う誰かになることができたら──。

 もしも、もしもの話。生まれ変われたら、きっと俺は彼女のような生き方を選びたかったんだろう。

 これが願望であり、夢想だと気づいたのは一体、いつのことだったか。


Nature versus nurture【2】

 

 

 七夜黄理は突如、天井の梁から襲撃してきた姫蒲を迎撃して能面のような顔で立ち尽くしていた。黄理の蹴撃を受け痙攣さえしなくなった姫蒲は、辛うじて胸を上下させてはいる。自発呼吸の証左。けれど、その容態に気づいた者は此の場、旧電波塔において誰もいない。

 

 それどころか、誰もが声を発せずにいた。

 

 吉松シンジ、井ノ上たきな、錦木千束。

 

 彼、彼女らは──。

 人ならざる存在、鬼としか言い表せぬ者を目撃する。

 

 それ()は人の形をしていた。人の形でしかないのに、人に見えなかった。鬼と呼ばれる全く別種のナニカにしか見えずにいる。

 

 命を奪うことに長けた鬼の魔性。

 

 死を積み重ねて七夜の一族の頂点に君臨した男の本質。その一端が垣間見えようとしていた。

 

 黄理は靴底にこびりついた血を床に擦り付け、底なしの暗い瞳でたきなを見つめる。たきながどうにか声を振り絞ろうとした矢先、たきなは体に巻き付いた拘束のワイヤーに絡め捕られ、背中から床に倒れていた。

 

 拘束用のボーララップを持つ黄理を見上げ、たきなが狼狽えながら問いかける。

 

「な、どうしてっ」

 

「どうしてもなにも決まってる。ヨシマツは俺が始末する。たきなたちが余計なものを背負い込む必要はない。俺が終わらせて、万事解決だ」

 

 心の底からうんざりと陰鬱そうに口を開く黄理に千束が涙ながらに訴える。

 

 

「──違う!違うんだよ、それじゃあ黄理が……リコリコに帰れなくなる」

 

 悲痛に暮れる千束の声を聞いてなお、救いようのないアラン機関の男は渋い顔で会話に割り込んでくる。

 

「邪魔をしないでもらおう。これは私と千束の問題だ。嗚呼、君が私を殺したいと思うのは勝手だが、私を殺すのは“千束”でなければならない。七夜君、いいかい?君が私を殺すことには何ら意味がないんだ」

 

「意味ならあるよ。少なくともお前を生かしておくよりはマシなのがな」

 

 話の通じない吉松を凝視し、黄理は二本の撥を逆手に持ち直す。一向に思い直そうとしない黄理に焦れて、吉松は語り掛ける対象を変えることにした。

 

「すべて君の所為だぞ、千束。君が私を殺そうとしないから、彼がこうして私を殺そうとする」

 

 責任転嫁も甚だしい。千束に殺人をけしかけ、彼女が生きていくうえで必要な人工心臓を自分の胸に埋め込んでおいて、吐く言葉がそんな他責の羅列だとは。黄理も、たきなも、激昂を通り越して冷ややかな激情を抱く。

 

 “コイツだけは生かしてはおけない、殺さなくては”。

 

 背中越しに吉松は嬉しそうな笑顔で千束を(そそのか)す。

 

「彼を殺せ、でないと彼は私を殺すぞ?彼が殺人者になってもいいのか?」

 

 千束を殺人者に仕立て上げようとするそのセリフは間違いなく黄理たちにとっての超えてはならない一線であり、吉松にとっては待ちわびた好機でもあった。

 

 錦木千束の完成にとって、必要なものは殺人と彼女が超えるべき生餌であり、七夜黄理はその条件に合致している。

 

 七夜黄理を殺したとき、千束は真のアランチルドレンとして完成する。

 

 そこには何の具体性も、根拠もない。ただ、そうなるのが当然だと、それが運命だと妄信して吉松シンジはゆがんだ確信を持つに至る。七夜黄理を殺すように告げた自分を千束は憎んでくれるだろう。憎み切れなければ、井ノ上たきなも処分すればいい。

 

 そうして、憎悪を抱いた千束が自分を殺すことで彼女の幸福は完成する。

 

 吉松シンジはそんな夢想を本気で信じて、死ぬつもりだった。

 

 

 

 

 

 溜め息をついて、黄理は吉松の方にうっそりと近づいていく。蒼の両目には明確な目的が燻っている。黄理は千束へと己の意思決定を告げた。

 

「ヨシマツは解体(バラ)す、もう決めた」

 

「勝手に決めんな…………そんなのが、黄理のいう解決策なの?」

 

 問いに応じる声はない。黄理は問いに窮したのか、それとも応えるまでもないと沈黙を通したのか。

 

「────やだ、黄理に人殺しなんてさせるもんか」

 

「やだじゃねぇ。なら誰がコイツを始末するんだよ」

 

「させない、誰にも……“殺し”で何かを解決するのなんて間違ってる」

 

「リコリスが言うか、そのセリフを?」

 

「私だから説得力があるんだよ」

 

 吉松を生かしておいても何も解決しないというに──。

 

 千束の強情ぶりに黄理の声に棘が表出する。

 

「お前のやり方じゃお前を救えない」

 

「……かもね。だけど、わたしは“それ”でいいんだ。そう決めて、そう生きてきたから──」

 

 黄理が乱暴に頭を掻いて、泣きそうな笑顔で鉄の双棍を構えた。変わらない千束の信念に安心し、それでも彼女の信念を挫かねばならないことにうんざりとして黄理は武器を取る。

 

「いつもそうだ。お前の強情にこっちが折れて、たいてい俺が割を食う。だけど悪いな、今度ばっかりは俺も譲らない」

 

「悪いって思ってるなら、心変わりしてくれていいのに~」

 

「前言撤回、ちっとも悪いなんて思わない」

 

 踏ん切りを決めた二人は、ごく自然と世間話のような会話を交わしている。しかし、黄理の立ち位置が僅かに変わり続け、千束はそれに対応しようと軸足を無言で変えていた。

 

 ただ、千束は銃を構えるのをまだ躊躇っている。デトニクス・コンバットマスターには実弾が装填されたままであり、どうにかして非殺傷弾と替えなければならない。非殺傷弾の弾倉はヨシさんが踏んで使わせまいとしている。

 

 どうすれば、と悩んでいる矢先、黄理の右手が跳ね上がる。棍の投擲かと思ったが、手にしているのがボーララップだと分かった途端、千束は射出されたワイヤーを避ける。

 

 ワイヤーは吉松の足、腕を含めた胴に命中。絡めとられた彼が仰向けに倒れ、そうになるところで千束が吉松を抱えてそっと床に寝かせる。ついでにさっきまで彼が踏んでいた弾倉を回収して、実弾のそれと交換。馴染んだフランジブル弾をよどみなく再装填した。

 

「クソッ、一体なにを!?──千束っ!!」

 

「ごめん、ヨシさん。私は貴方の願うような生き方はできないかもしれない。……だけど、見ててほしい。救世主(あなた)に憧れて、目指した生き方を」

 

「──ダメだっ!そんなものは間違ってる!クッ、君のためなんだ!どうして、それが分からない……」

 

 

 嘆く吉松を置き去りに非殺傷弾を装填した愛銃を振って千束は黄理と相対する。

 

「いいの?これで私、百人力だけど~」

 

「……別に。こうなったら、とことん付き合ってやる。その上でヨシマツを殺すよ。安心しろ、遊びはない。余分も、手心もない。気を抜いて瞬きでもしてみろ、その間に七度は殺す」

 

「させなーいっての」

 

 軽口を叩き、千束は銃口を黄理に向ける。黄理は銃口を向けられて、ふと可笑しさで口元をわずかに緩める。

 

 “旧電波塔(ここ)で、その銃口を向けられるのは二度目だな”。

 

 つまらない内心の独白。不意に微笑を零した黄理を見て千束が首をかしげる。

 

「なんか、変なこと考えてた?」

 

「さぁな、くだらないことが頭を過ぎっただけだろ」

 

 

 ボーララップを捨て、黄理は鉄棍を千束へ向けて腹をくくる。

 

 これから、俺は錦木千束の生き方を殺さねばならない、そうしなければ彼女は救えないがために。彼女の笑顔を、愛した日々を殺すことになろうと、それでも千束の未来だけは生かしてみせる。

 

 “たとえ、そこに俺がいなくても──”。

 

 たきなやミカさんたち、リコリコの常連、千束の周りにはたくさんの人がいる。みんなのことを考えて黄理は安堵の息を吐いた。

 

「考えようによっては運が良かったかもな」

 

「いや良くないし。絶対にそれ悪運の方だよ」

 

 じりじりと黄理が両足を前後に広げ、千束はその場で軽く右膝から力を抜いて如何なる動きにも即応できるように黄理に注意を払う。

 

 飛び掛かる寸前の獣じみた鬼の前傾姿勢。対するは C.A.R.(センター・アクシズ・リロック)スタンスを取り、冷静に銃を握る人の姿。

 

退()けよ、千束──」

 

 鬼が獰猛に猛り笑いながら告げ、華を思わせる少女は勇ましく応じた。

 

退()かしてみなよ、黄理──!」

 

 

 

 

 譲れない思いを抱く二人の戦いの火蓋が切って落とされる。

 

 まずクラウチングスタートを思わせる超前傾姿勢を取った黄理が、その姿勢のまま最高速度で後退する。人体構造上、信じがたい挙動。重心は間違いなく前方に置かれていたはずなのに、動きとして出力されたのは後方への最速の跳躍。おまけに同じタイミングで気配が消えたことにより黄理を既に見失っている。

 

 しかし、相棒が見せる異常の動作に慣れた千束は狼狽えることなく視線と警戒を周囲に張り巡らせて、無闇な発砲を控える。

 

 

 一瞬でその場にいる全ての人間に感知されることなく、天井の梁に上った黄理は闇の中から日の光の中に立つ千束を見下ろして自分の中にある感情をより昏く、深いところへ沈める。

 

 

 暗闇の中、千束の視界と警戒認識の死角に駆け回り、黄理はかつての自分の本質を取り戻し始めた。

 

 闇に隠れ潜んでこそ暗殺者。

 

 心は既に暗闇の中へと墜ち切った。大事に思っていたはずの思い出は靄がかって、ろくでもない過去だけが思考を埋め尽くす。瞳に宿る蒼の輝きはこれまでにないほど禍々しく。肉体に染み込んだ殺人技巧に血が回る。

 

 人であることを放棄する。欲望は宿命をより強く補強して。

 

 数えて七つ、(わざ)を研ぎ澄ます。

 

 さらば、さらば、恋しい思い出たち、愛しい貴女。

 別れを告げて、生まれ持った本性に身をゆだねる。

 

 さぁ──。七つ夜が明けるまで人であることを忘れてしまおう。

 

 

 

 自分が壊れてるのは自覚している。

 治る見込みはない、戻ろうとする意志は欠けたまま。

 それでも──。

 

 日向(ひなた)で生きていくことにも馴染めない。

 血と怨嗟に慣れ過ぎてしまった。

 それでも──。

 

 

 自分よりも大事な彼女と生きていたいと思えたんだ。

 

 

 脳裏に浮かんだ幻影は、遠い過去、あるいは未来、七夜の棟梁として存在する七夜黄理の姿。黄理はもう何も語ろうとしない幻影に向かって与太話を切り出す。

 

『もし何か一つだけ忘れることができるとしたらアンタは何を選ぶ?』

 

 

 

 

 姿を隠匿した黄理の襲来に警戒を続ける千束。銃を構え、ゆっくりと残影一つ見逃さぬほど慎重に周囲を索敵する。立ち止まらず、かといって無駄な消耗をしないよう弧を描くように歩き続ける。

 

 七夜の業は暗殺術。一帯が暗く、障害物に満ちた空間こそが彼の得手。だが、今は日の出ている時間であり、幸運なことに辺りは(ひら)けている。七夜の技を使うには不利な要素が多い。けれど、有利な状況にも関わらず千束の目には余裕がない。

 

 ざわり、背筋に這う悪寒に辛うじて体が反応する。

 

 千束の背後に音なく降り立った黄理は、千束を素通りして吉松へ棍を振り下ろそうとする。間一髪、千束が非殺傷弾の銃撃で黄理を牽制した。弾丸の当たる前に退いたからいいが、無理に吉松シンジを仕留めようと欲をかけば、銃弾を受けて昏倒していたろう。

 

 妨害を受け、黄理も千束が万全の状態では吉松の始末はできないことを再確認した。棍を肩に当て、黄理は千束の向ける銃口を覗き込む。

 

「面倒な──」

 

「やらせないよ。言ったでしょ、もう忘れた?」

 

「いやというほど思い知らされたばかりだ。仕方ない、まずはお前からか。千束」

 

 黄理が蜘蛛のように上体を低く沈めたまま駆けだした。常人の視認が困難な速さでの疾走、その速度に合わせて駆け出しから最高速度を出して千束も迎え撃つ。

 

 黄理と千束の間合いがぶつかり、互いにほぼ同時といっていい瞬間に蹴りが飛ぶ。千束の蹴撃を自身の蹴り足で受け止め、黄理が口を尖らせる。

 

「スカートで蹴り技はやめろ」

 

「なら、見ないよーに!」

 

 千束の蹴り足が黄理の膝を極める様に弧を描き交差する。そこから重心をかけ関節を極めた状態で片足の投げ技に接続、する直前に黄理がその投げ技の力を逆用して跳躍、一瞬で距離を取った。元より、千束の脚力では投げと極めまではこなせない。

 

 しかも前提として、千束の振るう七夜の体術の本家本元は眼前の七夜黄理だ。技の崩し方も、逆用の仕方も千束以上に知り尽くしている。

 

 更には、千束に真似させたのは命を奪う工程を取り除いた暗殺技。すなわち、技の根幹が抜け落ちた劣化物に他ならない。すなわち完全な、殺人のために振るわれる七夜の体術には及ばないことが事実として存在する。

 

 

 自己の優位性を認識したうえで、黄理は錦木千束という彼岸花(リコリス)の脅威度を最大限に高く見積もった。暗殺者の天敵といってもいい異常な認識能力、空間把握と観察眼、知覚精度。少なくとも夜中でない限り不意打ち、奇襲は通せない。

 

 まったく、いつもいつも手間をかけさせる。

 

 吉松シンジを仕留めるため黄理は暗殺者としては不本意だが、千束との真っ向勝負を演じることを決めた。千束の意思の強さ、頑固さを知る黄理は四肢を砕き、無力化することを選択。

 

 千束の足、手が動かなくなろうと、生きてさえいればと黄理は冷徹で枯れ切った割り切りを見せる。対する千束も黄理の瞳から最後の躊躇いが消えたことを見透かし、胸に僅かな恐怖を抱く。

 

 七夜黄理が以前より垣間見せてきた本質。それを今日、このとき全て目撃してしまう。その確信が千束の心身を冷たく(さいな)む。

 

 恐れが絡みついた足に力を入れ、千束は黄理と正面から向かい合った。

 

 

 

 “そういや、こうして本気でやりあったことはなかったっけ”。

 

 軽い手合わせくらいなら幾度か経験し、黄理の戦いを何度も間近で見ている。しかし、命をかけたものとなるとトンと覚えがない。きっと、これから対峙するのは、黄理のより深い所に根差した本質。命を奪うことに長けた“七夜黄理”という魔性の側面。

 

 

 怖くないといえば噓になる。けど、それ以上に知りたいと思ってしまった。

 

 だからこそ、今は前に──!

 

 

 千束の接近に合わせて黄理も高速で距離を詰める。

 

 銃の照準から逃げるように不規則な運足で近づいた瞬間、黄理は持っていた双棍で先制攻撃を仕掛けた。

 

 寒々しいほどの無音が空間を凍てつかせる。恐ろしい勢いで振るわれたにも関わらず、風切り音すら立てずに金属の棍が千束の肩を砕こうと迫る。

 

 一発の銃声がその破滅の未来を制止した。

 

 黄理を正確に狙った銃弾。発砲時のマズルフラッシュと銃声が凍った空気を鮮烈に焦がす。黄理は棍による打撃を中断させ、銃撃を宙返りで回避してみせる。

 

 先制攻撃の失敗から黄理は攻め方を変更。それは不殺をモットーとするリコリコの仕事では使えなかった技術。懸念は使った結果、千束がうっかり死ぬことだが、まぁなんやかやで上手く(さば)くだろうと判断。

 

 そう思い切った黄理の次撃は早かった。

 

 

 瞬転、刹那のうちに千束の認識を欺き、彼女の背後に回る。錦木千束の尋常ならざる観察眼を警戒しての位置取り。視界に入れた人間の次の挙動を予測するならば、徹底して死角から相手を削っていく戦術。

 

 

 それを千束が予期しないはずもない。確かに視界にいれなければ、観察眼も有効にはならない。死角を取られることの不利は承知の上。けれど、恐ろしいほどの練度をした隠形の達人の次に現れる位置を予想できるというのは、錦木千束にだけ許されたアドバンテージ。

 

 視界に収められなくとも認知上把握できる地点にいるのであれば、回避は可能だと千束は考えていた。

 

 だが、その想定は錦木千束の見てきた七夜黄理の場合でしかない。

 

 今の黄理はかつての七夜の棟梁だった頃に回帰している。ゆえに取られる七夜黄理の次の攻め手を錦木千束が予想できるはずもなく──。

 

 

 千束は次の瞬間、自分が死ぬのではと予感を覚えた。

 

 紙一重、体軸を反らすだけの微細な挙動では間に合わず死ぬと本能が判断。

 

 千束は背後から生じた背筋を奔る“死”の予感からただ必死に飛びのく。

 

 鈍色の残光が大気に曳かれた。千束が必死で回避したにも関わらず、掠った赤い制服の肩口がぱっくりと裂け、瑞々しい肌が露わとなる。吉松と、たきなが怯えるような吐息を漏らす。

 

 千束を襲った攻撃の正体、それは棍から繰り出される“致命の刺突(スタブ)”であった。すりこぎ、または太鼓の撥に例えられる鉄の棒。警棒のように殴打の武器としても使用され、事実として黄理が本気で打撃に振るえば頭部を胴体にめり込ませることも可能となる。

 

 しかし、打撃はあくまで一端に過ぎず、その本領は人体の急所である点穴(てんけつ)死節(しせつ)を的確に穿つことで刃も切っ先もない金属の棒切れで人間を解体することにあった。

 

 今までは不殺という枷を嵌めていたがため単に関節を砕いたり、叩く程度にしか使えなかった二つの棍。だが、今の七夜黄理は“全ての業”を制限なく振るうことができる。

 

 “刺突(スタブ)”はその最たるもの。

 

 自身の名のごとく標的を(きり)のように穿つ七夜黄理の十八番。

 

 肉を貫き、骨に風穴を開ける最速最短の刺突(スタブ)。残光さえ置き去りにした刺突が連続して千束を狙う。軽やかに踊るような足運びでスカートを翻し、彼岸花の少女は恐ろしい速度の突きから逃れていく。だが、どうしても逃れられない体勢になったとき、千束はいちかばちか銃のスパイクで棍を受け流そうとする。

 

 極限の集中、タイミングを読み違えれば、受け流すどころか銃を弾き飛ばされ千束は武装解除されるだろう。だが、受け流さなければ此処で敗北は必至。

 

 ダンッ──!

 

 強く踏み鳴らした一歩は自分を鼓舞するために──。

 

 受け流すタイミングは間一髪、いやそれでも千束に恐れはない。

 

 共に十歳の頃からの付き合い、どれほど黄理の本質が恐ろしいものであろうと、積み重ねた時間から来る七夜黄理への想いが、行動予測の(きざ)しとなる。

 

 黄理の棍と千束の銃口の先端に取り付けられたスパイクが衝突、火花が散る。

 

 散った火花と共にスパイクが幾らか欠け、黄理の左の棍が弾かれる。否、続く右の二撃目が残っていた。弾かれた勢いを回転の流れに変え、連撃となる右の薙ぐような打撃。これで終われ、終わってくれ、と黄理が吠える。

 

「もう──これで沈んどけ!」

 

 反射的に千束の口から出たのは、ただの意地と自分をこれまで支えてきた負けん気だった。

 

「──絶対、やだ!!」

 

 棍の薙ぎ払いを避け、半歩前に。このまま懐まで詰められると浄眼によって千束の思考を予測した黄理は足払いの蹴りを跳ね上げた。

 

 千束の右足の脛、左足の膝を蹴り抜く軌道。足払いというより下段から斜め上段に上る蹴撃。千束は蹴りの軌道を読み解き、その場で脱力して自分から蹴りの軌道方向へ跳んだ。

 

 

 蹴りが当たる、が千束はその威力に逆らわず無理に受け止めようとしない。軌道方向に跳んだことで威力は低減されたはずだ。足に激痛が奔った、右足の方は青黒い打ち身の痕が浮き上がっているが折れてはいない。何よりも左足は無傷。

 

 “凌ぎきった”と千束が思い違いをするより早く、七夜黄理が振り抜いた蹴り足の軌道が変化。登り切った蹴り足の運動量が逆転し下方に向かう。上段から切り戻されて下段に落とされる踵落としが千束の肩に食い込んだ。

 

 足払いから踵落としに繋げる“閃走・四弦”。

 

 完全に肩を壊される直前、千束は苦悶のうめきを上げながらも黄理の脇腹に非殺傷弾を叩きこむ。脇腹に咲く赤きフランジブル弾。苦悶の声に黄理の常人離れした体幹が揺れる。

 

 ようやく非殺傷弾が命中、待ちに待った好機(チャンス)──!

 

 肩の痛みを無視し、このまま畳みかけようと千束は引き金に指をかける。

 

 そのとき、脳裏をよぎる一瞬の逡巡。

 

 

 “いや、無理せず一度仕切りなおすべきか”。

 

 “こんな好機は逃せない。畳みかける”。

 

 

 ──攻撃を繋げる。此処で一度、仕切りなおしてまた好機が来るか分からないし、非殺傷弾の残弾が心もとない。短期決戦で黄理を止める!

 

 

 退がらない千束の姿に蒼眼の鬼は静かに嘆息する。

 

 ──その判断は正しい、もし恐怖と生存本能に身をゆだね、安易に退こうものなら棍の投擲と、投擲を目くらましとした首元への一撃で気絶させていた。

 

 

 だが、退かないなら退かないなりの相応の対応策があるとまでは考えが及ばなかったのだろうか?先の一撃が単なる足払いでしかないと、本気で思ったなら“七夜の業”を甘く見すぎている。

 

 人ならざる混血を仕留めるため血族の収斂によって編み上げられた退魔の暗殺技巧。

 

 ただの人間が対応しきれるほど、底は浅くないと知れ──。

 

 

 

 

 ゆるやかな足運びで迫った黄理が棍を薙ぎ払うように振るう。

 

 “閃鞘・一仭”。

 

 鋭い棍の軌跡と緩やかな足さばきが敵の卓越した観察眼を幻惑する。

 

 遅くありながらも機敏で幻妙な速度。千束は避ける拍子を外され、棍の一撃を脇腹に受けてしまう。千束の軽い体躯が薙ぎ払われ、弾き飛ばされる。

 

 床に横たわる千束の姿、しかし黄理の瞳に油断はない。確実に意識を奪ってから、ヨシマツを始末する。

 

 悪いが、しばし寝ていろ。

 

 起きれば、綺麗さっぱり悪夢は消えているだろうさ──。

 

 

 

 

 脇腹を抑え、千束の元に一歩、一歩と近づく鬼の影。

 

「──千束、立って、立ってください!」

 

 

 遠くより反響して聞こえるたきなの声。朦朧とする中、千束は以前、車の中で交わした橙子とのやり取りを思い出していた。

 

 

『はぁ……いいか、よく聞け。千束、お前と黄理では見えているモノが違いすぎるんだ。唯一の勝機はそこにある』

 

『見えてるもの~?身長が違うから見え方も違うって話、じゃないよね?』

 

『当然。違うといったのは、二人が焦点にしているものの差異についてだ。まず、黄理が焦点にしているのは相手の存在限界、いわゆる死を焦点に合わせている。簡易な表現とすれば、結果に重点をおいたモノの見方ということだ。相手の終点を考察し尽くすがゆえに、黄理が導き出す“終わり”は非常に精度が高く、その妨害も非常に困難だ』

 

 そこで橙子は助手席に座る千束へ、ちらと視線をやる。

 

『対して、お前は相手の始まりから現在までを焦点に見ているな』

 

『……そんな小難しい見方してないと思うんだけどなぁ。だいたい今、目の前にいる相手のことを見て、その人がどんな風に生きてきたのかが気になるって、まぁまぁ普通の成り行きじゃない?』

 

『一理ある。それはどのような人間でも普遍に持つ他者への関心、興味から来る好奇心だ。しかし、千束のは度が過ぎているよ。普通、自分が死ぬかもしれない極限の状況下で他人の生き方にまで気を回せるものか。相手が何を好み、何を遠ざけているか。個々人が持つ特有の習慣、日常での癖、とっさに取る行動をお前は無意識に読み解いている。人が本能、思考、感覚で選択する行動原理の基底部。こういうのは陳腐な言い方になるから私の好みではないが、人はそれを“運命”と呼ぶ』

 

 ピンと来ていなさそうな千束の間の抜けた顔に橙子が薄く笑みを浮かべる。

 

『とにかくだ。個々人に対する理解度の深さ、その一点のみで言えば、間違いなく黄理よりもかっ飛んだ精神性の持ち主だよ、お前は』

 

 あまりに不名誉な評価に千束が渋く口元を歪める。

 

『まるで人をヤバい人みたいに……』

 

『事実だろう。銃弾を目で見て避ける人間がヤバくないとでも?……さて、此処までを踏まえて黄理への勝機の話だが。結論から言おう。七夜黄理を打ち負かしたいのであれば、アイツを更に深く、鋭く、洞察し、観察しろ』

 

 

 

『────え、それだけ?』

 

『ああ、その通りだが?』

 

『いやいや観察するだけが勝機って、そんな簡単な話じゃないよ絶対に!』

 

『簡単なことなんだよ。そも、黄理が見つめ弾き出す“死”の精度は尋常ではない。ならば、対する方も精度を高めるしかない。アイツの在り方、生き方、奥底に眠る精神性を観察し、アイツを上回る未来を見通せ』

 

 橙子の無茶ぶりに千束は顔を俯かせる。

 

『できるかな、私に』

 

『できる、できないで君は動かんだろうに……あえて言うなら、その時が来ればやり抜こうと足掻くのが君じゃないか?』

 

 橙子のセリフは千束の可能性を信じるものであり、その未来を祝福するような響きを潜ませていた。ふと、思い出したかのように赤みがかった髪の女性は、らしくもない助言まがいなことを言葉にすることにした。

 

『千束、他人に自分の人生を評価させるな。間違えたか、正しいか、全ては自分の選択の結果であり、それは自分の尺度でしか評せない』

 

 それは千束に向けたものだったのだろうか、あるいは別の誰か、もしくは──かつて未熟だった自分に向けてのものか。

 

『他人に己の人生を採点させるな測らせるな、この先かわいそうと言われることはあるかもしれない。けれど、そんなものは無視しろ。どんな時だって自分の人生の感想を言っていいのは自分だけなのだ』

 

 

 

 

 

 朦朧とする意識が晴れ、千束は床に張り付いていた身を起こす。揺れる焦点を黄理に合わせ、千束は澄み切った心で銃を構えた。

 

 対する黄理の苦々しい表情に胸が熱を持つ。自分の痛みを、黄理は我がことのように感じてくれている。視線の揺らぎ、振るわれる技術の冴え。垣間見える透徹した殺意。

 

 

 身体を巡る痛みをこらえ、千束は真っすぐに黄理を視野(セカイ)の中心に置く。

 

 理解を深める、七夜黄理の本質を。

 

 並外れた暗殺者の適性、狭まった未来の展望、人を対象にしているとは思えないほどにでたらめな暗殺技巧。

 

 そして、不器用ではあるが、確かに自分を想ってくれているということを──。

 

 自身のことも顧みず、錦木千束という一人の命を何よりも優先してくれる。嬉しい、なんてことも考えてしまう。でも、黄理が望むことの途中にあるのが、ヨシさんの死であるなら、黙って見過ごすなんてできるわけがない。

 

 やりたいことは心が覚えている。

 

 

 また、共に笑いあうために。彼の隣で日々を過ごしていくために。

 

 為すべきは、“七夜黄理”の理解度を上げることだった。

 

 黄理に対する純粋な理解と正確な共感、思考を侵食されてしまうほどに深く、深く同調させる。次いで微かな癖や挙動より呼吸、姿勢、体幹、視線より限定的に未来を先取りする。

 

 徐々に黄理の攻め手に対し、千束が僅かに早く回避行動を取り始めた。蹴り、打突、極め技、辛うじてのタイミングで回避が成功している。だが、それも綱渡りな状態で一瞬先まで続けられている保証はない。

 

 一瞬先の敗北から逃れ続ける、それと並行して黄理のことを更に理解していく。今の彼の技巧、体捌き、瞳に宿る感情。

 

 

 痛いほどにわかってしまう。

 黄理の優しい思い、そして黄理が私に願っていたことを──。

 

 ただなんてことない事柄で笑って──。

 生きててほしかったんだね。

 

 

 黄理には、それが夢のようにしか感じられないから……。

 

 

 

「ねぇ、黄理はヨシさんを殺してでも、私を助けるの?」

 

「ああ……お前は生きるべきだ」

 

 逆手に持った棍と蹴りの連携、対する千束はそれを躱して非殺傷弾を撃つ。非殺傷弾も回避され、互いに有効打を与えられない。互いの意思と戦闘の経過は拮抗しつつあった。

 

「じゃあ、ヨシさんは死んでいいって?」

 

「生かす理由もない」

 

「理由がなくちゃ生きてられないの?」

 

 黄理は答えず、棍による素早い八連撃で千束を黙らせようとする。

 

 閃鞘・八点衝。三撃目までは回避、続く四撃目からは銃を使って棍を叩き落としていく。

 

 会話を連ねる、黄理を理解するために。突破口を見出すために。

 

 何よりも自分の想いを伝えるために。

 

「誰かを殺して、生きていくことなんてできないよ──!」

 

「生きてこそ、だろうが!死んだら何も──!」

 

 発砲、射撃炎が幾度か瞬き、黄理は弾丸を躱していく。

 

 その一言だけは言わせられなかった。当たらないと分かっていながらも、非殺傷弾を連射する。引き金を引くのをやめ、マガジンの残弾は一発。限られた弾数であるというのに明らかな愚行。しかし、千束は迷いなくその愚行こそを選んだ。

 

「何も──?何も残らない?……そんなわけない、そんなんじゃない!!」

 

 響く千束の大音声(だいおんじょう)に黄理がたじろぎ、たきな、吉松も息をのむ。

 

「死んでも続くものはある。残るものはあるんだよ」

 

「そんなものはない。終わったものが何かを残すなんて──」

 

 赤い眼光が輝きを増す。対して蒼の瞳はより昏く、深みを増していった。

 

「……黄理、いっこだけ答えて」

 

 強い意志が込められた言葉に黄理も棍を一時、下ろす。油断はしていない、けれど、武器を構えることを彼はあえて止めた。

 

 千束の問いは、きっと自分にとって致命的なものになると理解したうえで黄理は赤い双眼と向かい合う。

 

 

「──死んじゃうから、わたしは不幸なの?わたしのしてきたことはぜんぶ無駄だった?」

 

 黄理と千束がこの瞬間に思い浮かべたのは、此処に至るまでの日々の積み重ね、年月と、日常の光景。

 

 此処に来るまでの道筋、真っすぐなようで、所々ぐねぐねと曲がって、それでいてただひたむきに前に向かっていたはずだ。黄理の瞳に映る戸惑いを貫くように、千束は声も高らかに宣言する。

 

「──違う、わたしは幸せだった!誰が何と言おうとそれだけは変わらない!」

 

 

 

 

 千束の意思を受け、ゆっくりと俺は泣き笑いの顔で天を仰いだ。

 

 カラン、と金属の落下音が旧電波塔に木霊する。握っていたはずの右手の棍を気づかぬうちに取りこぼしていた。命も尽きてやしないのに己が得物を取りこぼすなんて、なんたる無様。しかし、その無様を笑えもしない。

 

「そう、だな。わかってる。お前はそういう奴だ。けど、お前がいなくなるんだ。……それは俺にとっては不幸そのものだよ」

 

 

 もう俺は止まれない、ヨシマツを殺すと決めたから。間違っていることは百も承知。だが、殺す。そこには理屈も、道理もない。

 

 千束がそれを察したのか、口を尖らせてぼやいてくる。

 

「……頑固だなぁ、も~」

 

「どっちが──」

 

 

 千束も、黄理も、互いに自分を曲げないことを理解しあい、視線を交差させる。そんな柔らかな雰囲気に寄った展開に這い蹲っていた吉松が突如として声を荒げた。

 

「千束、惑わされるな!君の使命はその殺人の才能を振るうことにあるんだ!君自身の幸福を取り戻せ、そうでなければ、君は死ぬんだぞ!」

 

 

 吉松は狂気に満ちた瞳を輝かせ、千束をなんとしても説得しようと言葉を尽くす。自身の命も賭した決死の説得、彼は純粋に千束のことを慮っている。それは間違いない。けれど吉松の考える幸福と千束が大事にしてきた幸福は決して交わらないだろう。

 

 

 昔、せんせいが言ってたことが不意にリフレインされる。

 

“──千束、その心臓は無拍動式の人工心臓だ。今は鼓動のないことに違和感があるだろうが、じきに慣れるだろう”。

 

 小さな私は、そんなの嘘だと思った。

 

 だって、確かに胸が高鳴ったのだ。動かないはずの人工心臓を秘めた胸が、間違いなく音を鳴らしたんだ。

 

 もう来ないはずの明日が来て、今日が続いていく。世界は見惚れてしまうほど素晴らしく、日々は退屈している暇がないほど目まぐるしく面白い。リコリコで会った人たちは、みんな良い人ばかりだった。そして、黄理にもまた会えた。

 

 動かないはずの心臓は、いつだって生きる希望に満ちた鼓動を叩いていた。だからこそ、幼いころの憧れにさよならを。もう、わたしは振り返らない。

 

 背中越しにわたしは言葉を紡ぐ。

 

「──ヨシさん、私の血が、本質が、才能が、殺しに向いているのだとしても、私はこの世界が好きなんだ」

 

 嬉しそうに語る言葉には一切の偽りはなく、赤心によって想いは告げられる。

 

「だって、この世界は私の呼吸を止めなかった。私の心を離さなかった。動かないはずの心臓が、それでも高鳴ったんだ!」

 

 

 再び、未来を見据え、今に生きる赤い眼光が輝きを放つ。それを見据えるは、何かを悟り凶気が薄れた蒼焔が灯る眼差し。

 

 錦木千束(リコリス)七夜黄理(リリベル)、二人の譲れない思いを懸けた私闘。最後の交差が始まる。

 

 千束はたった一発、最後の残弾が装填されたデトニクス・コンバットマスターの引き金に指をかけた。黄理もまた、左の棍を順手に持ち替えて刹那の好機を測る。

 

 互いに極限の集中状態、過剰な洞察認識は千束に黄理の動き出すタイミングを予見させ、過剰な状況認識によって黄理は視界を埋め尽くす赤い線の群れを意図的に認知上から搔き消していく。

 

 共に最高潮、これまでにないほど体は思うように動き、心は何処までも軽い。

 

 黄理と千束は理解する。眼前に立つ彼女・彼こそ自分の最大の天敵でありながら、最愛の存在であることを。

 

 

 黄理は千束の心臓に向け、空手となった右の手を伸ばす。左の手は順手に握る棍を構えたままで、静かに体の重心を前方に乗せた。

 

「とっておきを見せてやる──」

 

 

 千束は C.A.R.(センター・アクシズ・リロック)スタンスで銃を構え、これまでと、先ほどと変わらぬ愚直な姿勢で黄理を真っすぐ、赤朱の瞳で射貫く。

 

「上等!よゆーでやっつけてあげる!」

 

 などと大見得を切ったが、錦木千束の技に特別の一は存在しない。あるのは積み重ねた銃遣いとしての研鑽と七夜黄理の観察による行動予測。これだけで黄理を越える。特別でなくても、ありふれたものが命運を分けることを黄理に、自分自身に証明するために。

 

 

 黄理の言うとっておきというのは誇張でも、冗談でもないだろう。そういうのが苦手だと知っているし、黄理にはまだ見せてない一段上の技がありそうだ。殺すつもりはなさそうだけど、手加減してくれ、るか微妙だし手加減されてもこっちが受け損ねれば間違いなく命に関わる。いいや、受けるではなく技を出す前に機先を潰さなければ、こちらの命はない。

 

 怖い、恐ろしい、だというのに気が付くと体の震えは止まっていた。

 

 腹をくくる、あとは命を賭けるだけだ。

 

 生きるため、明日を見るために錦木千束は一度死の谷を越える必要がある。

 

 

 

 

 前触れはなかった。錦木千束を除くその場の誰もが七夜黄理が動き出したという事実に二拍遅れて認識が追い付く。対するは完全に黄理の動き出しと同期して迎撃に呼応する千束。

 

 抉るように死角へと滑り込む蒼き瞳の魔影。虚空に引かれた蒼の残光の軌跡が赤い眼光とぶつかる。赤朱の彼岸花は迫りくる赤き鬼神から目を離さない。

 

 繰り出される死獣の爪牙。機先を潰すための肘撃ちと鋭く尖った棍の一撃、共に放たれた刃を思わせる足蹴。

 

 錦木千束、恐ろしくも愛しい己が天敵。

 

 ゆえに最大の警戒と情を込めて──。

 

 華のように散らすのではない、いっそ微塵に、粉々に、細切れに、ばらばらに。

 

 

 “その五体、極彩と散れ”。

 

 七夜黄理の本能に根差した死の探求者としての究極技巧(ラストアーク)

 

 “閃鞘(せんさ)迷獄沙門(めいごくしゃもん)”。

 

 人体に多数存在する急所。点穴(てんけつ)、破孔、死節、断末摩、脆弱点。人を死に至らしめる箇所、それらを一瞬ほとんど同時に複数壊し、連鎖的に人体を解体する七夜の術理。

 

 

 襲い掛かる殺意を目にして、もう千束に恐怖はなかった。まず真っ先に向かってくる肘撃ちを同じ肘でガード、みしりと鋭い激痛が奔る。しかし、これで続く棍と蹴りの回避のタイミングは創り出すことができた!

 

 あとは、絶好のタイミングを測るだけ。

 

 たった一発の銃弾で黄理を崩す瞬間を──。

 

 

 “鬼”ではなく“人”としての七夜黄理の……“鼓動”を焦点に合わせ肉薄していく。七夜黄理の命にだけ集中し、千束は黄理との相対距離をゼロにまで縮める。

 

 

 どくん。どくん、どくん。

 

 どくん──。

 

 黄理の鼓動がもっとも高く鳴った時、千束は引き金を引いていた。黄理の棍が脇腹の肉を千切り取るより早く、弾丸が彼の心臓を叩く。絶殺を為す卓越の業は、繰り出される前に中断された。非殺傷弾に胸を打たれ、黄理が弱弱しく膝をつく。

 

 心臓を叩いた赤い彼岸花、フランジブル弾によって血流の急激な変化による麻痺、虚脱感、失神を引き起こされる。彼が固く、よすがのように強く強く握りしめていた棍はいつの間にか手放されて床に転がる。

 

 

 彼岸花(リコリス)君影草(リリベル)の対決、最後まで立っていられたのは歴代最強と謳われる錦木千束(リコリス)

 

 結局、勝敗を分けたのは簡単なことだった。

 

 生かすために死を観測し続けた黄理と生きるために生を観察し続けた千束。

 

 千束の、共に生きようとするひたむきな情熱が黄理の死の探求を上回ったのだ。

 

 

 膝をついた黄理は眩暈を起こしたのか、ゆっくりと床に崩れ落ち──。

 

 その前に千束が倒れ伏そうとする黄理を抱きとめる。

 

「言ったでしょ……もう“離さない(許さない)”って」

 

 幼少の契り、遠く離れた過去からの残響が黄理の胸に木霊(こだま)する。

 

 どうして、こんな大事なことばかり俺は忘れてしまうのだろう。あんなにも大事で、あたたかな道しるべだったのに。いや、大事過ぎたから、なくなってしまうのが怖いから思い出さないようにしていたのだろうか──。

 

「──ああ、そうだったな」

 

 

 微睡むように脱力した黄理は抱きしめられている千束の背に手を回し、壊れものに触れるかの如く抱き返す。あたたかな体温、何よりも確かなぬくもりを大事そうに抱え、黄理は自分の敗北を穏やかな心境で受け止め、安堵するように微笑みを浮かべた。

 

 

 

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