しかも前編という名目でこの短さですが、まあ年内には続き上げるつもりですので……。
さすがに最後まで一気に書くのは難しいんですよ。
気長に待っててくださいまし。
まだ陽も昇り切らない早朝の体育館へ、駆けていく影。スポーツ強豪私立である栄明中学高等学校の朝は他所よりも早いけれど、こんな時間にはまだ人は殆どいない。そんな中でも息咳切らせてやって来るのは、バレー部所属の高等部二年生・猪股大喜。
まだ活躍はさほどしていないが、毎朝こうやって早くにやって来ては練習に励む真面目な男子生徒である。
いや、それはすこしだけ違うかもしれない。大喜が早朝から体育館に急ぐのは、ただ部活に熱心だからだけではないから。
――そういつもいつも、負けていられるか。
そんな思いでバタバタと階段を駆け上がり、一気に体育館の扉に手をかける大喜。
いつもならば聞こえてくるバスケットボールが立てるダンダンという音も、減りきった練習用シューズが床に擦れる音も聞こえてこない。これは、勝ったのではないか。今日こそ、勝てたのではないか。
全力で扉を開き、そのまま大喜は声を張り上げた。
「一番乗、……り!?」
歓喜の声はしかし、中途半端に上ずったまま明後日の方向へと溶けてしまう。そこには予想に反して、先客がいたのだ。
それも、着替えている最中の――
彼女は目を見開き、丁度着終えるところだったであろう上着に手をかけたまま止まっている。その隙間から覗いている水色の布がなんなのか、大喜はそれを考える余裕すら無いまま全力で顔を背け「すいません、ノックしわすれました!」と謝罪の声を上げることしか出来なかった。
「あ、……いや。私の方こそ、早い時間だからって油断してた。……ごめんね」
彼女は怒るでなく責めるでもなく、ただ大人びた微笑みを浮かべるだけ。学校の先輩として年長者として、マナーのなっていない
一番乗り出来なかった。
子供扱いされた。
その二つは本来結びつけるべき事ではないけれど、でも。大喜にとっては、同じくらいに悔しい事だ。毎朝早起きして体育館にやって来る理由の半分以上は、彼女――鹿野千夏に会いたいから。千夏先輩が、好きだから。
「止めとけ、無理だ」
大喜のクラスメイトにして一応は親友という間柄にある将棋部員・笠原匡は真剣な顔をする親友にそう言い放つ。
事の顛末はとても単純、「先輩に告ろうと思う」と言い出した大喜へ大上段から降り下ろした正論が、これだったというだけだ。
片や美貌と才能と人格を併せ持つ超人にして栄明中学高等学校を代表するスーパーエース、片やバレー部の地味な中堅。
釣り合いがとれるとれないではなく、比較が成立しない。天秤にかけたなら、大喜は瞬時に跳ね上がって宙を舞うだろう。
それでも、大喜の中では恋心が燃えていた。身の程知らずであろうが無謀だろうが、一度燃えた火は易々と消えはしない。
「いいか、向こうはシード校でお前は一回戦敗退校だ。レベルが違いすぎるだろ」
それは――そうかもしれない。大喜にもそれくらいは分かっている。着替えを覗いてしまったのに子供をあしらうように流されたのは、その証明だ。告白しようとした所で、やんわりと傷付けないように優しく話を終わらせてしまうだろう。そういう対象だとさえ思われていないのだから。
「それでも、……試合もしないで敗けを認めるなんて嫌だ」
勝てなくて良い。せめて伝えたい。だけど今のままでは……。
拳を握り悩む友人がよほどアホに見えたか、匡は溜め息を吐きながらも話し出す。
「ならせめて、二回戦進出を目指せよ。名前を覚えてもらうとか連絡先交換するとか、さ。」
そう言われてようやく、大喜は思い至る。そういう基礎固め的なことを何一つせず、いきなり告白しようとした自分の短慮さを。
確かにそれは、正しい事だ。段階を踏んで、少しずつ近づいていけば良い。そうするべきだ、と大喜が確信するのを匡は冷ややかに見ながら再び溜め息を一つ。
窓の外に広がる爽やかな陽光が、季節の移ろいを感じさせる中。
大喜の心にも、一つの変化が生まれていた。
大喜が千夏について知っている事は、とても少ない。学年も部活も委員会も違うし、朝練で挨拶する程度の関係でしかない。それでも女子バスケ部の部長である事、早朝――それこそ何時に来ているのか分からないほどの早い時間から始業時刻である8:30まで延々と練習し続ける事、栄明でもトップクラスの人気を誇る有名人である事、……くらいは知っている。
その距離を埋めようと、大喜は体育館を走り抜けていく。練習も雑用もしっかりこなす真面目ぶりをアピールして、好感度を上げようという涙ぐましい努力心を胸に。
人を好きになったことなど無かった大喜には、どうやって関係を近づけるかなど分からない。だからこそ、走るしかない。猪突猛進、それしか出来ないのが猪股大喜という男子なのだから。
――と。
「、……ぁ」
水飲み場に駆け込もうとした大喜は目の前に気をとられるあまり、掴んでいたジョグを思わず落としそうになってしまう。
そこにいたのは、誰あろう――鹿野千夏だったのだから。
周囲には誰もいない、エアポケットのような静寂の空間。話し掛ける好機ではあるものの、逆にタイミングが掴めず大喜は無言のままただ見ているだけ。
千夏も大喜に気が付いてはいるようだが、何を言うでもなくジョグを開けて給水にかかっている。
終わるまで待つべきか、いや終わったら行ってしまうだろうし早く話しかけなければ。しかし焦れば焦るほど、口から言葉が出ていかない。男の純情など物笑いの種にもならない世の中だが、大喜はそういう子なのだ。
そんな様子を知ってか知らずか千夏もまた口を開くこと無く、黙々とスポドリ粉末の袋を取って開けようと――。
「ん。……ん? ぁ……?」
――してはいるが、手が滑るのか力の入り所が悪いのかビニール袋には傷さえ入っていかない。むきになってムームー言いながら袋を引っ張るも、まったく歯が立たない。
日頃凛としている人のこんな姿を見られるのも、ある意味眼福と言えなくはない。こんなにも可愛い一面があると知れたのは、大きな収穫だ。そう思っていた大喜だが、暫しの間を経てようやく気付く。これは、またと無いチャンスだと。
「あ、……の。開けましょうか?」
「へ。……良いの?」
急に声をかけられたせいか千夏の表情には驚きの色、しかし男子力アピールの場を得た大喜は「任せてください、これくらい」と袋を受け取った。……までは良かったのだが。
「ぬ、……あーいや……よゆー……です、よ…?」
軽口も叩けなくなるほど、袋は堅牢さを誇示するばかり。名乗り出ておいてこれでは格好つかない、いっそハサミでもさがしてくるべきか、と迷いながらもギリギリと渾身の力を込めて開封作業を続けていくと。
「あ、……った!?」
瞬間、袋と手の間にあった拮抗が突如崩れた。これまでの硬さが嘘だったかのようにアッサリと袋は開き、そして――行き場を無くした力がそこにプラスされてしまった。結果として袋は一瞬にして弾け、中にあった粉末が凄まじい勢いで宙を舞う。
やってしまった、と大喜が認識する頃には、その顔は真っ白に染まってしまっていた。そしてその失敗に、頭の中まで白く染まっていく。
だが、しかし。
大喜の意識は、すぐそばからの爽やかな笑い声によって辛くも現実に繋ぎ止められた。
千夏先輩が、笑っている。それはそれは楽しそうに、笑っている。
「余裕って言ったのにっ、あはは……っ」
スポドリの粉を無駄にされた事を怒りもせず、間抜けな後輩に呆れもせず、ただ笑っている。
その笑顔は甘ったるい空気と濁った視界の中でも尚輝いている、少なくとも大喜にはそう見えた。
改めて、大喜は思う。この人が、好きだと。
そんな気持ちには気づいていないであろう千夏は、大喜が惚けているのではなく笑われて傷付いているように見えたようだ。
「ごめん、笑っちゃったよ。……大丈夫?」
「空気が甘い、です」
気遣う声もまた、大喜には甘く感じられる。それはとても心地良いが、それと同時に――気まずい。
憧れの人と二人きり、青春映画の1シーンのような時間を過ごしている状況は、あまりにも非現実的過ぎた。
そして、そして。何よりも非現実的なのは、その後千夏が取った行動だった。
「――でも、どうしようか。このままじゃ戻れないよね、部活」
そう言いながら千夏は、大喜の頭にそっと触れたのだ。
スポドリの粉を払う為、後輩の様子を伺う為。そういう
これは、不味い。理性がそう警告した刹那、大喜は弾かれるように前方へ飛び込んで蛇口を全開にしていた。凄まじい勢いの冷水が、火照った頭を直撃する。
「だ、大丈夫っす! ちょうど頭冷やしたかったんで!」
顔を伝う水はスポドリの粉が混ざって薄く甘い、しかし頭を冷やすには充分。
さすがに驚いたのか千夏は「男子、って感じだね」と言いつつもわずかに後ずさる。そしてそれを見計らったように体育館から飛んできたのは、千夏を呼ぶ声だった。
水浸しの大喜はそれを少しだけ寂しく思ったが、逆にホッとしてもいる。男らしさアピールの筈がスポドリまみれ、このままいたらいくつ墓穴を掘るか分からない。それに自分だって部活がある、いつまでもこうしてはいられない。千夏を見送ったら、すぐにでも行かなければ。
――しかし。そんな大喜の行動予定は、千夏の一言で砕かれることとなる。
「あ、そろそろ行かないと。またね、
まだ暗さが残る時間、大喜は体育館へと走っていく。いつもの光景ではあるが、今日の足取りは僅かに鈍っていた。前夜から大喜はずっと悩み続け、ろくに眠れていない。理由は当然の如く、鹿野千夏である。
大喜くんと呼ばれた、名前を知っていた。それが何故なのか見当もつかず、あのあと心配したバレー部の面々が探しに来るまで大喜は水呑み場でへたりこんでいたくらいだ。どうにか水だけは止めていたお陰で風邪は引かなかったが、それさえ奇跡に近い。
無理矢理に推理するなら、毎日のようにこうして朝練で会うから――か。寝不足の頭でその意味を、何度も何度も考える。自分と千夏先輩は、思っているよりも近しいのかもしれない。そんな風に。
「なんにせよ初戦突破、かな」
とりあえず名前は知ってくれている、ならば次は連絡先の交換。そして遊びに誘えるくらいになって、そこから更に進めていきたい。楽観的で都合の良い話だが、大喜にしてみれば真剣な事だ。
もう一歩、踏み込もう。そう思いながら体育館へと足を踏み入れた大喜だったが――。
「おはようございま……あれ? いない……?」
室内は凛とした冷たい空気に満ちて、人影は無かった。念願だった誰もいない体育館への一番乗りではあるが、込み上げてくるのは勝利の達成感ではないう。むしろ、ぞわりと不安がまとわりついてくる。
何故、いないのか。たまたま寝坊したのか、それとも
背筋をかけ上がる悪寒はしかし、次の瞬間に雲散霧消した。
「あ。おはよ」
半開きになっていた用具室の扉から出てきた千夏、その姿に大喜は心底ホッとする。どうやら中を掃除しているらしく、制服のまま散らかった用具を拾っては片付けているのが分かった。
朝練の限られた時間を掃除に費やす必要性があるのか、という合理性は千夏の思考の外にある。彼女はいつも、自分のするべきだと思ったことを実行する。その真っ直ぐさも、大喜が彼女を慕う理由の一つなのだ。
そんな様を見せられては、大喜もただ黙っているわけにはいかない。ここで手伝わなければ男が廃る、と強引に片付けに割り込んでいく。
「いや、別に良いよ。私が勝手にやってるだけだから」
「そうもいかないです、俺もやりますっ」
朝の爽やかな空気の中、用具室で二人きり。朝練よりもずっと近く、しかしその動線はやはり交わる事はない。
どちらともなくポツポツと世間話をしながらも、その腕が絡まることはない。
近くて遠い、二人の距離は。今朝もやはり、縮まらない。
――それで良いのか。
頭の奥から沸き上がってきた声に、大喜はあやうく道具箱を取り落としそうになってしまう。このままで良い筈がない、立ち止まってはいけない。そんなのは分かりきっている。
あの日から、ずっと。
今から一年ほど前、当時の三年生が続々最後の公式戦を終えて引退し始めた頃。まだバレーを始めたばかりだった大喜にとっては自分の練習の方が大事で、あまり交流のない先輩方の去就には興味など無かった、そんな折。
たまたま早く目が覚めて、特に理由もなく朝練というものをしてみようかと学校へ行った大喜は――そこで見てしまった。
溢れる涙を拭いもせず、ただ鬼気迫る様子でシュート練習を続けるバスケ部女子。般若のように美しい、その姿を。
広い体育館さえ充たす程の思念の渦、それが肌で感じられた。死すらいとわない絶死の覚悟で自らを痛め付け続けるその様子に、大喜はなにもできず外壁に背を預けて踞るしか無かったのだ。
大喜が彼女の事を詳しく知ったのは、その少し後の事である。一つ上、二年生の鹿野千夏先輩。三年生の引退試合に出はしたが、成果を出せなかった。それを悔やみ、修羅の執念であんな事をしていた。
あんなにも人は、真剣になれる。その事実は大喜を、良くも悪くも大きく変えた。あの熱意に憧れ、その凄惨さに哀しんだ。嘆きに支配されていた彼女になにも言えなかった、自身の無力さを思い知った。だからこそ、大喜は思ったのだ。この人が好きだと、支えられる人間になりたいと。
ならば――進まなければならない。
朝の陽は少しずつ強まり、体育館を照らしていく。
その中で大喜は息を呑み、そして――一歩を踏み出した。
現時点ではまだ後編に取りかかってませんけどね。