1205/07/04(月)
ルーレから徒歩でゆっくりと南下し、道中の村々を巡りながら討伐や軽い調査を請け負いつつ帝都へたどり着いたところで"ARCUSII"が鳴り出した。今現在この番号を知っているのはアリサさんや第四開発室の面々だけなので、表示されている番号が知らないものにせよ、何かあったのかな、と通信に出た。瞬間後悔した。
『よお、帝都に到着したみたいだな』
「……通信を切ってもよろしいですか? アランドール殿」
画面に映し出された顔は帝国軍情報局特務大尉レクター・アランドールその人で、わはは、と笑うその姿はおちょくるにも程がある態度だ。しかし通信越しとはいえ隙があるというわけじゃなく、この人も怖い類の存在だというのを改めて認識する。
というか当たり前のように私の最新通信番号を手に入れている上に、私も私で帝国軍情報局だものなぁ、という諦めがついているのも絶対に良くない。
『いやなに、お前さんに頼みたい依頼があってな』
「……」
頼みたい依頼。以前の私ならこの時点で通信をブチ切っていただろうことは想像に難くないが、現状だと、帝国軍情報局の階級持ちが一体一般人に何の頼み事なんだか、という興味の方が勝ってしまった。しかもこのアランドール殿はあの鉄血宰相殿の直属の部下だ。私に直接話を持ってくるには完全に人選ミスと言ってもいい。
しかしこの人は私のそういう感情を見越しながらも自分でコンタクトを取ってきているのだろうけれど。
「話を聴いたら問答無用で受けるか死ぬかでなければ、概要ぐらいは」
『おう、というかたぶん気にいると思うぜ』
曰く、帝都地下道の大規模調査を行う為に事前調査をしてほしいということらしい。
公的機関の依頼ともあれば大っぴらにあらゆる入り口から地下道を歩測出来る。確かに私が喜ぶ依頼ではあるのだけれど……ああそうか、ARCUS試験運用に限らず学院のレポートは何も会社や学院だけが読んでいるわけではない、ということだ。ルーレにおける課外活動やガレリア要塞についていつもの面子や私が書いたものはことごとく目を通されている。生徒群の中では目立っていた方だろうという自覚はあるのでさもありなん。
「…………構いませんが、薄暗い中で魔獣に怯えず正確なメモが取れる方──戦闘は出来なくても構わないので職務に忠実な文官を一人つけていただいても? 可能なら女性で」
職務に忠実な、というのはつまり居丈高な貴族はお呼びではないということだ。まぁ地下道という政府でさえ全貌が把握出来ず基本的に手入れが行えていない場所の実態基礎調査という前提がある以上、アランドール殿がそんな下手を打つとは思わないけれど一応。
『それに関しては既に見繕ってるから安心しな』
「では業務契約締結のためにどこに赴けばいいですか?」
『ヴァンクール大通りを北に行くと皇城があるだろ? そこから堀に沿って右手に進んでいくと正規軍の詰所があるから、正面入口の方に来てくれ」
「わかりました」
ふう、と詰めてしまっていた息を吐き出し、帝都到着早々休む暇もないな、とARCUSIIを閉じ徒歩で人を待たせるわけにも行くまいとトラム乗降地点を探し始めた。
「どうも、アランドール殿」
「意外に早い再会になったな、ローランド」
「それについて言及しないで頂けますか?」
人情もへったくれもない勧誘をかましてきたあの日のことを思い出したくもないのだけれど。まぁ仕事に情なんてものを持ち込んでいたら情報局の特務大尉なんて務まらないだろうし、平民初の(といっても男爵位を賜っている)宰相という立場ももってのほかだというのは理解する。理解と納得は別ということ。
「おう、じゃあ契約書を読んでもらえるか」
そう言って渡された契約書を読み進めていく。政府の作る書類の読み方をトワからある程度教わってはいたし、加えてティルフィル関係であらゆる書類ごとと直面してきた経験も文面を紐解くのを助けてくれた。
業務期間・それに纏わる宿の手配・期間中の諸経費・危険手当・算出方法、エトセトラエトセトラ。十分な時間をかけて目を通し終わったそれに不備はないように思え一息つく。
「さすがに業務締結で引っ掛けはないみたいですね」
「あのなあ、一応こっちが依頼する立場だぜ。んな信用失う真似するかっつうの」
「信用があるとお思いで」
これは驚いた。
「信用がねえ奴と契約なんかしちゃならねえぞ~、これマメな」
「……まぁ、それは、そうですね」
即座に一本取られてしまったので素直に頷いておく。お互いに業務を遂行する、報酬が滞りなく支払われる、その前提が共有出来ているからこそなのに馬鹿なことを。
「しかし、今って北部と海都の方で忙しいんじゃないんですか?」
「あそこまでいくともうオレらの出番じゃねえからなあ」
「ああ、だから次の戦に目を向けているんですね」
私がそう言うと、何のことやらと肩を竦められた。しかし明るい赤の前髪から覗く薄緑に灯る軽薄さの奥の奥に、確かな剣呑さ。出方を窺われている。
「隠さなくても構いませんよ。どこに流布するつもりもありませんから。海都にいる残留領邦軍を主力としてノーザンブリア自治州を手に入れるおつもりでしょう?」
私がそこまではっきりと口にすれば、ようやくアランドール殿は軽薄の仮面を外して軍の将校殿らしい顔つきになってくれた。会話するに値すると思ってもらえたようだ。
「別に導力ネットワークに入り込んだとかじゃないですからそこは安心して下さい。まぁ、ネットワーク侵入だとしても現在罰則出来る法律はまだ制定されていない筈ですが」
「その辺りの鈍重さは大国ならではって感じだな。一般人でさえ端末を持つようになる時代が来るってのに遅いにも程があるっつーか。……いや、話はそこじゃねえだろ」
本題に戻されて私はくすくすと笑う。
「一昨年と今現在、様々なところへ行っているわけですが、地域問わず小麦など穀物の価格がじんわりと上がっているんですよね。それに並んで鉄など各種金属類も。内戦の余波かとも思いましたがその他の情報と統合したらそうではなく、詰まるところ────戦争の準備をしているのではないか、と」
一応疑問の体を成してはいるがほぼ確定事項だろうと思っている。
ガレリア要塞が抉り取られたことによる傷跡は未だ癒えておらず、たとえクロスベル戦役で三国共同不戦条約が形骸化しているとはいっても共和国と直接戦うにはさすがに時期尚早で、南のリベールも戦争を仕掛けたら共和国が支援国として名乗りを上げるのは歴史的にみても自然な流れだ。……それに学院ではこっそりとカリキュラム外としてトマス教官が教えてくれたけれど、百日戦役で稀代の軍略家であるブライト中将(当時は大佐)に盤面をひっくり返された傷が苦々しいものである以上、件の方が軍属である間においそれと攻め入るのは愚策に他ならない。
しかし、ノーザンブリアはあらゆる規模が全く違う。そして十月戦役の際にアルバレア公爵家が領民虐殺を行い、その実行部隊となったのは《北の猟兵》と呼ばれる者たちだというのはもうその筋では知れ渡っているわけで。
そして帝国は海上要塞の方に対処しつつも六月頃に北の猟兵へ正式な責任を求める賠償通達を行っている。しかし、道理に反したことをしてでも外貨を得て自治州を存続させようとしていた猟兵団が支払うワケも、そして能力もある筈がないと見越した上での通達であり、交渉は近いうちに決裂する。
公に決裂したとなればもう帝国の勝ち戦だ。
戦争資金を貴族派からせしめ、またその戦の戦功をもって罪の贖いとし、領邦軍存続という要求を受け入れる。いくらルグィン将軍が傑物だとしてもそのカードは飲まざるを得ない。
「やっぱうちに入らねえか?」
「謹んでお断り致します」
にこりと笑いながら契約書にサインをし終わり、くるりと反転して差し出した。私の答えがわかっていたアランドール殿はさしたる反応もなく契約書を受け取り、内容をチェックして頷いて立ち上がる。私も続いて席から立つと、そんじゃ明後日から三週間よろしくな、と告げられた。
1205/07/06(水) 朝
前日を武器装備の確認に充て、借りた作業着に身を包み事前に取り決めていた帝都中央駅の前で待機していると、指向性のある足音が近づいて来たので顔を上げる。通りの方から正規軍を表す紫色の軍服を着た女性がタッタッタッと私へ一直線に向かって来ていた。
「失礼致します、ローランド殿で間違いありませんか?」
「はい。セリ・ローランドは私で間違いありません。では貴方が?」
「お初にお目にかかります。私は帝国陸軍所属、ユッテ・ボック准尉と申します。本日より三週間、ローランド殿の命に従うよう仰せつかっています。なんなりとご命令下さい」
かつりと両の踵を揃え、敬礼する指先はきちんと整い、大きくはないがまっすぐな声の方。トールズ士官学院卒業生とはいえたかだか一般人相手にこの態度ということは、アランドール殿も私に気持ちよく仕事してもらわないと困る故にかなり気質が近しい人を選んでくれたことがわかる。
「ボック准尉、よろしくお願い致します」
私も敬礼を返し、一番近い中央駅構内から続いている地下道の方へ向かうことにした。
降りた階段の先はじわりと湿っぽく、埃と黴臭さが喉を刺激する。
中世に建造された地下道は、しかし壁に備え付けられたランタンが煌々と照らしある程度は見渡すことが出来るほどだった。数百年消えぬ光。当時は現代では説明のつかない技術があったとはジョルジュから聞いたことはあったけれど、こうして目の当たりにすると不気味の一言でしかない。
1アージュ先は闇、なんてことはなくとも魔獣の蠢く気配はそこかしこにあり、ARCUSIIを同期したまま片手剣とダガーを静かに抜く。
「基本的に魔獣はこちらで処理予定ですが、ボック准尉は万が一の迎撃を行えますか?」
「軍人として百式軍刀術を修めておりますので、戦闘は問題ありません」
腰に帯びるサーベルは飾りではないようで、自分の相棒の柄を軽く叩くその姿に信頼を置くことにした。一応大型魔獣は討伐の際に追加報酬が支払われるらしいけれど、二人行動故にあまり無茶はしたくない。
「わかりました。そのつもりで動きます。────では、作戦行動開始」
錆びつき軋む柵のような扉を押しあけ一歩踏み出す。
コツリコツリ、と歩数をカウントしていくと横の水路から牙を連らせた魚類型魔獣が飛び出して来たので両断し終え、光を見届けてまた歩く。上位属性が働いている気配はないけれど、たまに光が消失せずまた別の魔獣の形を取る、という現象が各地で起きているらしい以上気を抜いてはいけない。
暫く進むと分岐となり、足先の裏で軽くタップし音の反響を確かめる。
「地点ゼロから角度北西、幅5の30に分岐Aが直進、分岐Bは左に45度」
ちらりと准尉を見ると、懸命に私の言葉を書きつけてくれている。メモを見せてもらうときちんと正確に私の発言が記録されており、頷いて行き止まりになっているだろう分岐Aの方へ足を進めた。しかし地下道にも関わらずこの道幅の太さでしっかり確保されている光源というのは、もしや地下での通行が当たり前だったのかもしれない。
中世────2~300年ほど前、獅子戦役があった時代。それほど古いというわけでもなく、1200年前にあったとされる大崩壊のような記録もなく、ドライケルス帝の石像が広場にあることから歴史の連続性を持ちうるにも関わらず、現代とは明らかな技術断裂が起きている。一体何があったというのか。
「分岐より26、あー……そこに小部屋が接続、中央に大型魔獣が一体」
道の途中で立ち止まり、ハンドサインで准尉に現在地点での待機を命じ走り出す。
遠くからの視界で捉えた影は予測通り全高5アージュはあろうかという鼠型の魔獣で、私を視線に収めるなりその鋭い前歯を振るってきた。灯りを反射する鉤爪は恐ろしいほどの鋭さではあるのけれど、しかし人間を相手にしたことはないのは分かった。攻撃の高さがまるで合っていない。このまま対応される前に押し切ってしまおう。
何の問題もなく魔獣の討伐を終え、待機する准尉の元へ戻るとホッとした表情がこぼされる。指示を守ってもらえるというのはこの状況ではなによりもありがたい。
「小部屋は15四方、抜け道等ナシ、分岐に戻ります」
「はい。……本当にお一人で十分でしたね、お疲れ様でした」
「人馴れしていなくて助かりました」
埃が散り積もっているとはいえ、魔獣も徘徊しているから人間が通った痕跡がないかどうかはかなり不明瞭だ。もしかしたら帝都の行方不明者の一部はこうした地下道に迷い込んでいる可能性もある。
まぁでもそうであったとしても戦闘経験として蓄積出来るほどの相手であれば出直して討伐するだろうし、一般人ならそのまま一瞬で死亡だろうのでそも、人馴れする、ということ自体があり得ないか。……訓練施設として使われるなら、あるいは、だけれど。
「350セルジュほど歩きましたか」
道中地上に出たりまた潜ったりを繰り返しながら五時間ほど歩いて太陽が天辺を過ぎたあたりでぽつりとそう呟いた。お互い戦術オーブメントと接続しているしそこまでの疲れはないけれど、空腹というものは自覚してしまった後が厄介だ。
暗い地下道から出ると昼間の太陽は特に眩しい。さて、歩いてきた方角的にはアノール河手前あたりだと思うけれど。
「ここは……ヘイムダル港近くですかね?」
「河と船の音が近いですし、おそらくは。せっかく地上に出たので昼食と行きたいですが……埃まみれですからやめておきましょうか」
多少とはいえ水分を含んだ埃は纏わりついて離れない。迂闊に払おうものならそのまま繊維の奥まで入り込んでしまって取れなくなる、なんてことも考えられる。
「あ、でも港近くなら作業員の方々がよく使う食堂があるんです。店外席もありますし、良くも悪くも私たち程度なら気にされないとは思いますが、覗くだけでもどうでしょうか」
「……そうですね、では行くだけ行ってみましょうか」
訓練で最低限の糧食でどれだけ食いつなげるか、という課外訓練も行ってはいたけれど食べられるなら食べておいた方がいい。どうも私は燃費が悪いと言われる性質のようだから。
「ローランド殿は軍属ではない、んですよね」
「士官学院を卒業していますが今は放浪中ですね。わりと同期はそれが多かったようで」
「ちなみにどこの学院を?」
「帝都近くにあるトールズです」
「……エリート中のエリートじゃないですか……」
「単純に学院の気質と合っただけですよ」
他愛のない話をして昼食を終え、近くにあった別の地下道への入り口から入りそこからまた出たり潜ったりを50セルジュほど繰り返しながら歩き続けたところで、茜色に染まる地上に出た。
あいも変わらず手が足りていないのか、あるいは魔獣が凶暴になっているという各地の話よろしくで帝都もそうなのか大型魔獣に出くわすことも多く、初日ということもあってそろそろ記録の作業をしたいと告げれば准尉は素直に頷いてくれる。
「地図や製図道具などのご用意もしてあります」
「ありがとうございます」
夕焼けで影が長く伸びる道を辿りながらアランドール殿に紹介されていた基地へ。准尉の先導で廊下を歩きながらこの依頼について少しだけ考える。
地図というのは精巧であればあるほど頼もしい限りだが、それは渡る先を統制しなければならないというのも事実だ。地図の有無で作戦の成功率は大きく変化する。
故に帝都のとてつもなく精巧な縮尺の地図というのは基本的に軍属しか見ることは叶わないし、また公開されている地図が『そうである』という話は国民に開示されることはない。これが軍事国家としての立ち方というわけだ。
この地下道の調査結果も基本的に開示されることはなく、またこの情報を契約先以外に開示することも禁じられている。破れば即国家反逆罪となり、よくて終身禁固刑、悪くて死刑か。さすがに死刑で女神さまの下へ行きたいとは思わない。もしかしたらそちらの方が君に会えるかもしれないけれど、なんて。
「ボック准尉はもう休まれますか? 監視カメラがありますし、私にずっとついている必要はないと思いますが」
案内された部屋の扉を開け、書いてもらったメモに視線を落としながらどうするのか問いかけると准尉は部屋の真ん中にある製図道具などを広げ始めた。おや。
「これから地図を描かれるのですよね」
「はい。久しぶりなので時間がかかるでしょうし、准尉には休んでいただいて明日もまた同じ時間に、と思いましたが……」
「可能であれば見学していてもよろしいでしょうか」
朝に見た時とおなじようなまっすぐな瞳。どこかVII組に所属していた彼らと似ているな、とほぐれる心を理解しながら頷いた。
「構いませんよ」
この方も年齢と地位を鑑みればおそらく士官学院を出ているだろうし、そこで地図作成も叩き込まれているのではなかろうかとは思いつつ、私から何か技術が盗めると思ってくれたならそれは嬉しいことだ。
「では、始めましょうか」
1205/07/28(木)
「というわけで、結論として帝都地下道の網羅は出来ませんでした」
「さすがにそいつは時間足りなすぎるだろ」
各地下道へ区画ごとのナンバリングをし、地図を引き、最新の帝都地図に上から描くように地下道の簡略図を重ねたそれら全てをアランドール殿に提出した。しばしば作業場を覗いてきてはいたので、どういう形で作っているのかは分かっていただろうけれど。
「ただこんだけサンプルがあればどういう場所に作られているのか、どこから進入できるのか予想が立てやすくなる。人間の思考はどうしてもランダムにはなり得ないからな」
「そうですね、私もそういうことを意識して入る場所は選んでいました」
数百を超えるサンプルを見たせいか地下道の気配だけではなく、『ここには入り口があるな』というのも分かるようになってきていたのはつまりそういうこと。経験則から無意識に計算をしている。
帝都の地下に張り巡らされている中世の時代に造られし道は、本当に帝都全域に渡ってはいたものの……ぽかりと皇宮のところだけ空いている。それは私が皇宮へ入る手段も身分もない故に見つけられなかっただけかもしれないけれど、あの十二月末に入った緋の騎神が安置されていた不可思議な場所のことを考えると『ない』というのもあながち間違っていないのかもと思う。
「給料は最初に書いてもらった口座の方に振り込んどいたから確認頼むぜ」
「わかりました。では私はこれで」
椅子から立ち上がり踵を返したところで、なあ、と声がかけられる。この人のこういう声は碌でもない可能性があるけれど、一応そのまま立ち止まってみるとケラケラと笑い声。
「うちに入りたくなったら、いつでも来てくれよな」
軽口のような勧誘。きっと私がそれで入るとは思っていないのに言うだけはタダだと口にしている。そういう軽薄さを表に出しながらも薄靄がかったような腹の底の窺えなさが、やっぱりぞっとする類の人間だと私の口を閉じさせ、そのまま歩を進ませた。
1205/07/30(土) 昼過ぎ
「……おう、久しい顔じゃねえか」
「お久しぶりです、ミヒュトさん」
一日ほど完全なオフに充て、ついでだからとトリスタまで足を伸ばしたところで、いつものようにくたびれたシャツでミヒュトさんは気怠げに新聞を広げている。笑いながら文句を言われる前に扉を閉め、少し汗ばむような室温のなかで懐かしい空気にふれた。
「最近は湿っぽい依頼をこなしてたみてえだが、終わったのか?」
「あは、ミヒュトさんには敵いませんね」
内容に触れられはしなかったので適度に肯定しておく。そういう塩梅がとても上手い人だ。
「今日はすこし聞きたいことがあって来たんです」
「おう? 競馬のことなら教えねえぞ」
「夏至賞終わってるじゃないですか」
「ばっか、夏至賞が終わったら次の夏至賞への道が始まんだろ」
この発言の通り、軍と対立している海都側とは異なり帝都の夏至祭は今年も予定通り行われ、一週間ほど前の街は軽やかな賑わいを見せていた。どうやら皇太子殿下は体調を崩され不参加だったようだけれど、それでも皇室人気というのはすごいものだと改めて。まるで、海都近郊で貴族が籠城しているだなんてないかのような平和さだった。
そしてこの時期に招集されているあたり手数を向こうに割いている故に警戒網のひとつとして使われたきらいはあるけれど、ああでもなかったらこの時期の帝都に近付くなんていう傷と直面する機会を終ぞ持てやしなかったかもしれないとも。無論、アランドール殿に感謝したいとは全く思わないけれど(地下道を一部でも歩測させてくれたことについてはありがたいと感じてはいるがそれはそれだ)。
「で、そういう軽口を交わしにきたんじゃないんです」
「おう、流されねえのは結構結構」
鷹揚に頷かれながらぱさりと新聞を畳まれ、その奥から剣呑な瞳が覗いた。
今から口に出すことを、答えてもらえるかどうかはわからない。ミヒュトさんの内側へ踏み込むことだし、そもそも私が『それに値する』と思ってもらえるかどうか。だけどこの数ヶ月ずっと己に問いかけていた。自分の進む道のことを。
「────ミヒュトさんは、どうして今の仕事をしているんですか」
視線を伏せて、震える声になってしまったけれど、それでもしっかとそう発言した。もちろん質屋の話じゃない。裏の方の話だ。
だけどミヒュトさんは何も言わない。唾液を嚥下する音が耳の奥で響く。ちらりと顔を上げた時、金耀色の瞳と視線がかち合った。何もかにも見透かされそうなそれに、ぞくりと寒気が背中を這いずり回る。
そうして、ゆっくりとおもむろにミヒュトさんが立ち上がった。
「お前、酒飲める歳になったんだよな」
「え? あ、はい。一応今年で二十歳なので……確か年明けからそういう扱いですよね?」
「よし、そんじゃ帝都行くぞ。付き合え」
え!?と驚愕の声を出した私の事などお構いなしなのか腰のポーチに必要最低限らしきものを入れ、オラさっさと出ろと言わんばかりに開けた扉のところで顎をしゃくられる。
慌てて飛び出すとガチャンと鍵が閉められ、見えた看板には"CLOSED"。
そのまま戸締りを確かめ歩き出すミヒュトさんに、私は黙ってついていくしかなかった。
列車内で何を聞いても知らんぷりをされてしまい、仕方ないか、と窓の外を眺めて30分。何事もなく帝都に到着し、トラムに乗ることもなく暫くヴァンクール大通りを北上していき、どうも見覚えのある路地を何回か曲がったところで、ミヒュトさんはある店の前で止まる。
目の前にあるのは"CLOSED"の看板が掛けられた、小窓のはまった紫の扉。私がロックのレコードを聴くためにサラ教官を連れて行き、そして去年のルーレで起きた事態に対する情報を求めて入った場所だった。
ミヒュトさんは例の符牒で静かに扉を叩くと、のそりとマスターが現れる。
「よう、ちょっと席貸してくれ」
「……奥が空いています、どうぞ」
私をちらりと一瞥し、マスターは頷いた。ミヒュトさんはといえば勝手知ったる場所なのかそのままどんどんと奥まった四人がけのソファ席に座るので、私はその対面に腰を下ろす。
店内にはマスターと私たちしかいないようで、静かに奏でられる音楽がどこか気分を落ち着かせてくれた。
「で、俺の話だったか」
「っはい」
いきなり本題に入られて背筋を伸ばす。
「だがンなこと訊きたいワケじゃねえだろ」
マスターが出してくれたお冷のグラスをくるくるさせながらミヒュトさんは、やっぱり鋭い視線で私の心を刺してきた。い、や、うそ、ではない。嘘ではない!……けれど。
「お前さんが、情報屋になるかどうかっていう、お前の人生の話じゃねえのか」
「────」
息が、詰まった。
「ま、それに関しては俺にも責任がある。マスター」
膝に置いた手を固く絡ませ、呼吸が浅くなる自分を理解する。駄目だ、駄目だ駄目だ。たった心中を見抜かれた程度でこれだけ動揺していては自分が目指す道なんて夢のまた夢になる。
でも私は、私が、帝国という大きな真っ黒い塊を知るためには、そういう手法が一番近付けるんじゃないかと思った。自分の何を使ってでもそれを成し遂げたいと考えたら自分の忌まわしいこの体質さえも利用してやりたい。利用してやらなければ。そうすることでようやく、私は自分自身と対峙する一歩目に辿り着けそうだなんて、そんな、感情を。
────でも、それは、本当に自分の願いなんだろうか。
ガレリア要塞を見学したあの日、クロウの確かな暴露感情を浴びたあの時、語った自分の為したいことにただしがみついているだけなのかもしれない。
だってそれを求め続けていたら、きっと私は君を忘れないでいられるじゃないか。
「どうぞ」
伏せた視界の中、低めのテーブルにことりと置かれたカップ。思わず見上げるとマスターは目を閉じて、ごゆっくり、といった風情で軽く頭を下げてまたカウンターの中へ戻っていった。
置かれたカップに手を伸ばし口をつけると、あの日出会った香ばしい香りとすこし酸味が強めの味がまた喉と鼻をくすぐっていく。備え付けられたミルクポットから液体を垂らしかき混ぜて。
「ミヒュトさんの仰る通り、私はその道……情報屋として生きたいと考えています」
くるくると色が混ざっていくその光景を見て少しだけ落ち着いたところで、対面にいる方に視線をぶつけてはっきりと言い切った。この願いを誰かの前で口にするのは初めてのことだ。だからか心臓が忙しなく脈打って落ち着かない。
ミヒュトさんはといえば、がしがしと後頭部を掻いてため息をついた。
「カタギじゃねえし、握った情報によってはあっさり死ぬかもしんねえぞ。ソロでやるなら誰も助けちゃくれねえ。ずっとたった独りでいる結論を出すには、お前はまだ若すぎる」
「……ありがとうございます。でも、情報屋になるのが一番私の知りたいこと、為したいことに辿り着ける可能性があるんです」
私の青臭い言葉に、続けろと言わんばかりに視線が投げかけられる。
言語化から逃げることを許さない、やさしいひと。
「私は、この帝国がどうも不安定に見えるんです。それは革新派と貴族派が相争っていて政治がまとまらないからとかではありません。むしろ反対派閥は互いに適度であればあって然るべきです。そうではなく、……そう、結社のような裏世界の組織が何の思惑もなく貴族派に手を貸すなんてあるわけがないのに、その手を貸した結果というのがどうしても見えないんです」
クロチルダさんが所属している組織、結社ウロボロス。
確かあの十二月末に蒼と灰が雌雄を決し蒼が敗北したことについてカイエン公が激怒した時、彼女は『結社の目的は蒼と灰を勝負の舞台へ導くこと』と口にしていた。蒼が勝ってくれたらよかったのだろうけれど、しかし『これはこれでアリ』だとも。
「まるで、まだ決定的なことは動いていないかのように」
勝敗が重要なピースではないことは確かで、しかも三騎以外は未だ登場すらしていない。しかも当初は緋を起動するつもりはなかったようだから、たった二騎の為にあれだけ大掛かりな舞台を用意した結社が、他の騎神に関して何もしておらず興味もないなんてことは断じてない。だっていうのに表の動乱にはもう素知らぬふりを決め込んでいるのか裏は嘘のように凪いでいる。
「不安定な帝国という名の爆弾を結社が爆発させたら、一体どれだけの人が死ぬでしょう」
「クク、爆弾処理班にでもなるってか」
揶揄られたのを理解しつつそれでもゆっくり頷いた。
「はい。私は、帝国の中身を識りたいのです。解体がそれに繋がるなら存分に」
帝国の政府を機能不全に陥らせたいわけでも、貴族の力を削ぎたいわけでもない。けれど言葉にするのならそういう表現になるだろう。帝国を裂いて暴いて浚って引き摺り出して、その果てに帝国がどうなるのかまで見ていたい。
「つまり、お前はあいつが壊せなかった帝国を"代わり"に壊そうってのか」
「────?」
何を、言っているのか、分からなくて息を詰めてしまう。
「あいつはジュライの……亡国の遺児だった。己のたった小さな復讐心で何百万も住む国家を転覆させようとした男で、そいつを好いてたお前もそうなるのかって言ってんだ」
それは────それは明らかな侮辱で。私に対しても、クロウに対しても!
私が思わず立ち上がると、座っている相手だというのに鋭い金耀の瞳が明らかな意図を持って射竦めてきた。こわい。
「ローランド、座れ」
有無を言わさない声と共に右の人差し指で下を示す。
「聞こえなかったか? 座れ」
怒りで呼吸が荒くなっていくのがわかるのに、ミヒュトさんのその声にはどうしても抗えずすとんとまたソファの座面に腰を落とした。
ぎゅ、と握った両の手が冷え切っている。
「……私は、帝国を壊そうだなんて思っていません」
「ほう?」
「だって、この国は────この世界は、クロウが命を落としても守ったものだから」
帝国を、ゼムリア大陸を守ろうとしたんじゃなくて、ただ単に反射的に『リィンくんを守ろうとした』だけなのかもしれない。正直そっちの方が比重としては重いと思っている。だけど、それでも、リィンくんが何を守ろうとしていたのかなんてあの時点で明白で、そのリィンくんが守ろうとしたものを心底どうでもいいと思っていたら、さすがに自分の命を差し出さなかった筈だ。
加えてそれ以前から、クロウは、オズボーン宰相を殺した後も行方を眩ますこともなく、(たとえそこに陣営の頓着はなかったとしても)政治の軸が立て直されることを見届けようとしていた。大半が抜けた帝国解放戦線のリーダーとして。真っ直ぐと。不器用なほどに。
「そのクロウが守った世界に、あいつが殺したくて殺したくて仕方がねえ鉄血と、あいつをボロ雑巾のように利用した元公爵閣下がいたとしてもか?」
「オズボーン宰相閣下はともかくとしても、もちろん私個人の感情でいえば今でもクロワール・ド・カイエンは殺しておけばよかったと思います。あの時止められても強硬していればおそらくその命を奪ることぐらいは出来たというのに、その唯一の機会を逸したことは心の弱い自分のミスでした」
クロウのことを散々利用しておいて──たとえそれはお互い様だと言っても──言うに事欠いて亡国の浮浪児扱いは赦せやしない。無論この手で殺したとて気が済む類のものでは全くないけれど、それでも、クロウを指してその言葉をこの世に生み出したそれそのものが私の逆鱗に触れている。触れ続けている。
でもその命を奪うことはもう叶わない。国家反逆罪として裁くため、国内である意味一番厳重なところで"その日"を待っている筈だ。
「でも、クロウは自分じゃ人殺しをするのに、私には絶対にするなってきっと言う。人を殺めた私は、クロウが好いて……守ってくれた私じゃない」
分かってる。知ってる。
たった二年にも満たない時間だったけれど、私に対する君の考えを想像するぐらいは容易だ。自分が泥を被るのなんて厭わず、だけど親しい人間が手を汚そうとしようものなら止めるような、そんな。それは私じゃなくてもトワでもアンでもジョルジュでも変わらない。そういうひとだった。
「────ったく、情報屋やるってヤツがンな感情開けっ広げにしてんじゃねえ」
「……え?」
「あいつの気持ちが分かるなんて口が裂けても言えねえが、それでも二年弱バカ話をしてたよしみはある。こんな終わり方じゃなく、罪を罪とした上で罰されるべきだった」
つまり。
「……ハメましたね?」
「感情繕うどころか隠すことまで下手くそすぎるだろ」
はあ、とため息をつかれてしまいどっと身体の力が抜けて背もたれに体重を預けた。
「しかしそもそもあいつがンなこと望むかね。自分が守った世界で好きな女が笑ってりゃ幸せってタイプな気もするが」
「それに関して言えば私は泣いているんですよ。だからクロウの要望を聞いてあげる義理なんてこれっっっっっ……ぽっちはあるかもしれないですが基本的にはないと思っています」
そう、私は泣いている。泣き暮らしてはいないけれど、ふとたまに感情があふれてしまうことがある。そのことについてクロウが何か言える立場ではないだろう。言えるような状態でもないけれど。
「あー……正直言うとな、在学中からお前はこっちの世界に向いてるとは思ってた」
「……」
「感情の抑制だの情報取得の仕方だのはエリートな学院生らしくあまちゃんだがそんなん後からどうにでもなる。だがな、"情報がそこにある"っていう嗅覚はバカになんねえ。こればっかりはな」
それが、私のあらゆる悩みに直結していそうなこの体質が関係しているのだろうことはすぐに理解した。制御出来ない自分の中身が本当にこれからの自分を助けてくれるかもしれない。
……ああ、つまり目をかけられていたのか。私は。だからサラ教官との会話を店の外に私がいると気付きながらも誤魔化さず聞かせたのだ。
「それに、言われるのはイヤかもしれんが若い女で美人ってだけで口が軽くなるヤツは大勢いる。だがその分イヤな目に遭うことも多くはなる。男の俺より数十倍は見積もった方がいい」
ミヒュトさんの言葉に、内戦開始直後の出来事を思い出して背筋がぞくりとした。
ああいう視線に晒される場所に自ら飛び込み、それを飲み下しながら情報を得ることを生業としていく。それに耐えられるのだろうか。否。耐えなければいけない。自分が志した道とはそういうものだ。
「それ、でも」
一瞬だけ目を伏せ、そうしてまた視線を繋ぐ。
「私は、もう『知らなかった』を言い訳にして生きたくはないんです」
知らなかった。知り得なかった。あの時の自分には絶対に暴けない情報だった。それは認めよう。諦めよう。嘆くのをやめよう。だけど、これからもそうでいいとは思わない。
「クク、ひよこのくせに一丁前の面ァしやがって」
ミヒュトさんが笑ったところで、小さなショットグラスに琥珀色の液体が少しだけ注がれたものがことりと机の上に。何だろうと見上げるとマスターも同じようなものを持ち、対面を見るといつの間にかそちらもグラスを掲げている。つまり、乾杯。
「この一杯だけは先達の俺たちから祝い酒だ」
「困難な道になるやもですが、これからは、同業者としてよろしくお願い致します」
「……はいっ」
卓上のグラスに私も手を伸ばしてかちんと鳴らし合わせ、私は初めてお酒を口にした。
「!」
「ダーハッハハハ、こんなん味もわかんねえ二十歳に飲ませるような酒じゃねえだろ!」
「味が細かく分からなくとも、樽の香りはすこし分かるかと思いまして」
「ま、酒の飲み方からちょっとしたところまでは面倒見てやるよ。大人の責任としてな」
「あ、ありがとう、ございます……?」
1205/07/31(日)
ヒンメル霊園は丘の上にあるので太陽が容赦なく照りつける坂道に濃い影を地面に落としながら歩き、目的の場所に着いた。
葬られている人物が人物なので人目にあまりつかないよう配慮されて霊園の奥まったところにあるけれど、こうして明るい太陽の下で見るとアノール河から流れ込む小さな湖を臨めるなかなかいい景色をもらったのではなかろうか。たしか釣りも好きだと言っていたし。
灰色の石を見下ろし、ぎゅ、と服の上から肌身離さず首から下げている管理者証を握り込み、ほんのすこしだけ息を詰めた。
────愛しい人が今日もここで静かに眠っている。
大丈夫。大丈夫。平静でいられる。ミヒュトさんにも言われたじゃないか。そんな簡単に感情を揺らすなって。……でも、感情を殺せとも捨てろとも言われなかった。だから持っていていいものなんだと思う。まぁ、今の私を突き動かしているものの軸のところには絶対にクロウがいるから、そうではないとするのはいずれ直せないほどの歪みになっていくので無理もない。
ふ、と息を吐いて墓石の前にコートの裾に気をつけつつ膝を抱える形で腰を下ろした。
墓は物言わぬ存在だ。何があるわけでもない。だけどそもそも葬儀というのは基本的に生きている人間のためのものであると教区長さまが仰っていた。『故人を悼む自身の心』を、どうかあの人が女神さまのもとで笑っていますように、と慰める儀式。
自分の心の中で一区切りをつけるためのもの。前へ進むために。
でも、やはり、女神さまを信じていない人の魂はどこへ行くのだろうと考えないではいられない。もちろん、クロウが女神さまを嫌っているというのは私の妄想かもしれない。けれど今までの言動が、行動が、そうだと言っていると思えてしまうのも確かで。
「……クライヴさんと笑ってくれていたら、いいなぁ」
クロウのお祖父さんの名前を呟きながらそんな願望を述べる。確かめる術がないなら、そういう幸せな考えに浸っていたいのに。私が見てきた姿はそれを許してはくれない。難儀な思考回路だな、とため息をひとつ。
そうしてそこから近況を話したり、暫くミヒュトさんのお世話になるけれど宿は取ってあるから心配しないでほしい旨とかを伝えたり、何も喋らないまま時間が過ぎたり、太陽が傾いていくのに任せながら時折涼しい風が吹くそこにいた。
「湖面がちょっと赤くなってきたか」
夕方、とまでは行かなくともしっかり時間が経過し空が赤みを増してきそうな時間帯。立ち上がってお尻の芝を払い墓碑を見下ろす。ここにいるのは生きていたら国家反逆罪に問われてもおかしくはない男だ。故に誰かがこのお墓の情報を掴んで墓荒らしをするかもしれない。
訪れるたびに、ああ今日も無事だった、とほっとする。いずれ恨むすべての人の記憶から蒼の騎士の名前も消え失せたその時にようやく私はひとまずの息をつけるのかもしれない。確かめられることではないからそんな安寧の日は訪れないのだけれど。それに、私はずっと憎悪を抱えていた人を知っているから恨みというものがそう簡単な話でもないのは痛感している。
けれどそんな未来を願うことぐらいは。
「じゃあね、また来るよ。今度は帝都を離れる時にでも」
別れを告げて他のお墓の合間を縫って丘を降りていく。そこかしこに色とりどりの花が見受けられ、私もお花を持ってきたらいいのかな、といつも手ぶらなことに少しだけ思案し、誰ともなく首を振った。
花を供えたら、クロウと私の思い出のなかにその花は咲いてしまうだろう。そして、いつか別の花がグランローズを埋め尽くしてしまうのが今はまだ怖い。それでも、君と過ごした時間よりこの時間が長くなる頃にはそんな葛藤も薄れていくのかもしれない。
……君と過ごした歳月なんて二年よりも短くて、あっという間に過ぎていくのだろうけれど。