夕食時。
ハサキとチェシャはいつものように二人で食事を取っていた。軽く炙ったパンに余りものを煮たスープ、塩漬けの肉を焼いたもの。簡単な夕食を、女はもそもそと口に運ぶ。
パンをゆっくりと嚥下して、浅黒い肌に銀髪、黄金の瞳をした女――ハサキはむっすりと目を瞑り腕を組んだ。
「一日考えたけど……だめだ」
チェシャの、口元へ運ばれようとしていたスプーンの動きが止まる。あからさまな不満顔でハサキに食いついた。
「なんで!」
「だめったらだめ」
チェシャが12歳、ハサキは25歳。
彼女らの関係が劇的な変化を迎える1年前のこの頃、二人は口論ばかりしていた。
その原因はと言えば。
「探索者になるなんて危なすぎる」
チェシャが唐突に『探索者になる』と言い出したからだ。
『探索者』。
それは、この星よりも遥かに広いと謳われる超巨大地下迷宮へと潜り、資源の収集や商隊護衛、深層探索を生業とする集団を指す。誰にでもなれる分、誰にでも平等に死のリスクがある職業。
12歳の少女が唐突に『探索者になりたい』と言い出したのが昨日のことだった。
ハサキは逡巡も見せずに即答で否定。その度にチェシャはなんでなんで攻撃を繰り返していた。
「なー!
んー!
でー!」
少女のとび色の瞳は褪せることのない怒りに燃えている。眦を吊り上げたチェシャの幼い駄々を、ハサキは尚も突っぱねる。
「ダメったらダメったらダメったらダメ。――はい問題、何回ダメって言ったと思う?」
「えっとえっと……いちにいさん……よ、四回!」
「正解」
「えへへ……ってそうじゃない! 騙そうとしないで!」
力の限りでパンを引き千切ったチェシャが、ガツガツと噛む。その勢いに呑まれることもなく淡々とハサキは肉を切り分け、少女の言葉を聞き流すような素振りをした。
「なんでハサキにダメって言われなきゃいけないの? 私、もう決めたの!」
「チェシャの歳で探索者になったって碌な仕事がないよ」
「そんなことないわ。私、調べたの。かの有名な『オールエンドの大英雄』も初めて地下迷宮に潜ったのは私と変わらないくらいの歳だったらしいわ!」
「この世に数人いるかいないかの偉人を比較に出すもんじゃない」
あくまで冷静にハサキは言葉を重ねていた。
「現実として、探索者は死にやすい仕事だよ」
「それでも私は探索者になりたい!」
なぜ? ハサキは金色をした瞳でそう問いかける。十数年来の付き合いは、仕草だけで相手が何を想っているのか透かしてしまうほどに深い。チェシャはハサキの問いに答える用意が出来ていたのに、その一言を告げることがどうしても出来なかった。
『あなたと並びたてる人になりたいから』。
パンが喉に詰まるような感覚。
気恥ずかしさと、ハサキがそれでも納得してくれなかったらどうしよう――という躊躇いがチェシャの体を硬くさせた。
やがて、食器をそっと置いたハサキが、真っすぐに少女を見据えた。
「チェシャは、私が本当に嫌だって言ったら、いつも止めてくれるでしょ」
こういう時、ハサキはずるい
黄金に彩られた、抜き身の刃のようにも思える無垢な眼差し。溶かしたミルクチョコレートのような肌。現実味もなく輝く銀髪。おとぎ話の世界から飛び出たような女は、同性のチェシャから見ても精緻な造りの顔をしていた。
そんな女が真剣な顔で、真剣な言葉を紡いでいる。自身に全幅の信頼を置いた言葉をだ。
「そっ、そういうことを真剣な顔で言うのがずるいのよ――!」
チェシャは真っ赤になってそう言うが、ハサキはなんてことないようにまた食事を再開する。認めるつもりは、ないらしい。
膨れた頬に食べ物を詰めて更にぷっくりとさせるチェシャ。
「ハサキのあほ! けちんぼ! けちんぼけちんぼけちんぼけちんっ、げほっ、ごほっ!」
「そんな早口で喋るから。……はい、お水飲んで」
「ん。あ、ありがと……」
こうやって献身的に気にかけてくれるところが好きだった。些細なことで、チェシャは自分が愛されていることが分かって、それだけで満たされてしまう自分にも気づいている。
このまま、ずっとハサキと居られたら、たぶん幸せすぎて頭がおかしくなってしまうのだろう。――そうなる自分にも容易に気付ける。
「もういい! ハサキが許してくれないなら、私、ハサキのためにお料理作ってあげない!」
「いいよ別に」
「お、お風呂も沸かさないからね」
「自分でもできるよ」
「洗濯もしてあげないし!」
「汚くなったら買い替えるよ」
「……み、店番とかもしないから」
「客なんてほとんど来ないよ」
「掃除しない!」
「気にしたことない」
「ハサキのばか―――――!!!!」
チェシャは叫び、凄まじい勢いで夕食を平らげた。けぷっと小さくげっぷをすると、そのまま工房を後にしようとする。
「ハサキ、私諦めないから!」
去り際にチェシャは宣言した。
「絶対絶対、探索者になるからね!」
ハサキの返事も聞かずに、チェシャは出ていく。女は少女を追わずに、また黙々と食事を再開した。
と。女の、スプーンを持つ手が止まる。
「……スープ、冷たくなってる」
◇
数日後。
カランコロんと玄関扉に備え付けられた鈴が鳴る。来客を告げる音に、カウンターに座ってぼんやり頬杖を突いていたチェシャは顔を上げた。
入り口には馴染みの男が立っている。ハサキの作った武器を買い取ったり、ハサキが必要とする迷宮産物質……『オブジェクト』を卸したりする仲介業者だ。ハサキの工房に入り浸るチェシャも知り合いだった。
「おう。元気か」
「まあまあぼちぼちよ」
「そうかい。ハサキは?」
「奥」
そう言うだけで、チェシャは仲介人を工房まで案内しようともしない。座ったままでいるチェシャを見て、何かを察したのだろう仲介人が首を傾げた。
「なんだ、お前ら喧嘩中か?」
「……喧嘩じゃないわ。これは戦争よ」
「穏やかじゃねえなあ」
そう言いながら、仲介人は店内にあった椅子を引き寄せると腰を下ろした。悩みがあるなら聞くぞ、と言いたいらしい。
「おじさん暇なの?」
「へっ。これでもハサキ・ノバク様には稼がせてもらってるからな。あいつにヘソ曲げられるとこっちの商売に問題が出るんだよ」
「お金を稼ぐって大変なことなのね……」
「しみじみ言うな。いいから聞かせろよ、戦争なんだろ?」
仲介人は見た所ハサキと同じくらいの歳に見える。所々で苦労人の雰囲気が滲み出ること以外は良い人だとチェシャは思っている。何より良いところは、仲介人がハサキを異性として見ていないところだ、そこは本当に、イイ。
チェシャも客一人来ない店番で暇をしていたので、(どうせ工房まで声は届かないだろうし)仲介人に最近の出来事を語ることにした。
「なるほど、探索者ね……」
事のあらましを聞き終えた仲介人はあごをゆっくりと撫で、うんうん頷いている。
そして気楽に言った。
「まあそりゃ止めるだろ」
「なんでよ! おじさんまで!」
「俺もハサキとの付き合いは長いけどよ、あいつはあれで心配性なんだよ」
「ちょっとおじさん、ハサキのこと分かってますみたいに言うのやめて。私以上にこの世でハサキを理解している人間は絶対に存在しないのよ」
「お、おう……。すまん」
「なんか面倒くせえ子になったなあ」とぼやく仲介人。ガリガリと後頭部を掻いた男は、どうでもよさそうな様子で尋ねた。
「よくわからねえんだけどよ」
「なによ」
「なんでお前は、ハサキの許可がないと探索者になれないんだ?」
「――それは、」
ある意味、核心を突いた言葉だ。
その通り。チェシャが探索者になるのに、何もハサキの許可は必要ない。法的にも、その他の意味でも。チェシャがしかるべき機関に届け出を出して、受理されればハサキには強制力など欠片もないのだ。
事後報告でいいのだ。『もう探索者になった』と、それだけで。
きっとハサキはしかめ面はするかもしれないけど、渋々受け入れてくれるだろう。――なのに何故か、チェシャはハサキの許しがなければ『探索者』になろうともしない。
「……私が前に進むのに、ハサキが納得してないと、だめなの」
仲介人の男はなんとも言えない表情をする。苦いような甘いような、そんな不可思議な菓子でも食べたかのようだ。
「ハサキからすりゃ、娘みたいなもんだろお前は」
「娘って……ハサキは私の母親じゃないのよ」
「そりゃ見ればわかる」
「そうじゃなくて!」
チェシャは首を激しく振る。
「そうじゃなくて、本当にハサキは私の母親じゃないの。だけどね、どこかでハサキは私の母親なのよ」
「? 何言ってんたお前」
「真顔で首傾げるな!」
こんなこと、他人に言ったって絶対に分かるはずがない。ハサキと自分の関係は複雑で……。
12年前の言葉を忘れていない。
『君は、何にでもなれるんだ』
……とにかく複雑なのだ。
それに、チェシャには、ハサキにも秘密にしていることが一つだけある。
「所詮は赤の他人だろ。家が隣ってだけだ。そりゃまあ、お前はあいつに育てられたのかもしれないし、親みたいなもんかもしれんけど。でも、行き詰まるところ、他人だろ?」
「……」
「まあいいや。……ま、早めに仲直りすることだな」
仲介人は気楽な様子で椅子から立ち上がる。
他人からしたら、どうでもいいような内容なのだ、この喧嘩は。
「世の中、喧嘩別れしたまま一生会えないなんてことも、よくあるんだからよ」
工房へと向かう途中に男が言い残した言葉に、チェシャはつい鼻を鳴らしてしまった。
分かっている。全て、理解している。
他人からしたら本当にどうでもいいことでチェシャもハサキも頑なになっているのだ。探索者と言ったって専門の領域は無数にある。ほとんど地上と変わらない浅層では死の危険など皆無な仕事もある。ハサキだってそれは分かっているのだ。
それでもハサキが、自分に探索者になってほしくない理由も、チェシャには分かる。
「わかってるのよ。そんなこと」
チェシャは聡い少女だった。だからこそ、このままではいけないことも理解していた。
いつまでも彼女の背中を見つめてばかりでは、これ以上の進展はないのだから。
ハサキ。
ハサキ・ノバク=
天才的な迷宮鍛冶師。歴史に名を刻むだろう偉人その人。チェシャが生まれた頃からずっと側に居る女は、そういう存在だ。そんな彼女に並び立つには、それなりの功績がいる。だからこその『探索者』という選択だった。
◇
ハサキの手を触ったことのある人なら分かるかもしれないが、彼女の手のひらは異常なほど硬い。
槌を毎日数万回振るい、幾多様々の『オブジェクト』に触れた手だ。変質し、硬化し、まるで岩でも触っているような質感になる。チェシャは、ハサキと握手をした者がぎこちなく体を強張らせるのを何度も見てきた。
けれどチェシャはそんな彼女の手が好きだった。
大きな手。長い指。節くれだった関節。ごつごつしていて、ごわごわしている。そんな手のひらが、街中で繋いでいると本当に頼もしくて、かっこよかった。
「ハサキ!」
――夢を見ている。
ハサキと二人で買い物をしている時だ。ハサキはいつも自分の手をしっかりと握って歩こうとする。「もうそんな子供じゃないのよ!」と怒っても、ハサキはなんだかんだと手を繋ごうとするのだ。仕方なく女と手を繋いで歩けば、ハサキはびっくりしないように少しだけ力を込める。
チェシャには、そんなハサキの
手を繋ぐ。
その行為に、たくさんの感情が込められている。チェシャは幼心に気づいていた。ハサキが、いつも自身の手のこわごわした荒れ具合を気にしていたことを。自分の手がチェシャに触れることに躊躇いを覚えていたことも。
全部分かっていたから、手を繋ぐだけで、嬉しかった。自分を大事にしてくれていることが。ハサキが大事にしてくれることが本当に嬉しかった。
「なに?」
素っ気ない言葉。いつもそう。
ハサキは感情をどこかに置いてきてしまったかのように、淡々としている。
だけどチェシャには分かる。ハサキがどれだけ自分を愛してくれているか、生まれた頃から分かっている。
「……探索者にならないと、いけないの」
その言葉に、ハサキはどんな顔をするのだろう?
考える。考えようとして……だめだった。
思い浮かべる事もできなかった。想像すらできなかった。
夢の中でハサキは鼻も目も口もない、ただひたすらに黒い“何か”となって、こちらを見下ろすのだ。
「なんで、だめなの?」
分からない。これまでずっと理解できているつもりだった隣人が、チェシャにはいつからか理解できなくなっている。
――ハサキはいつも、何を考えているんだろう?
数年前からだ。丁度、スレイヴイレスを創り上げた頃からか。
ハサキの心が異常な殻に覆われたのが分かった。けれどそこから奥にある、原因は分からなかった。
それから数年で女の名は伝説になり、とても遠くへと去っていこうとしている。
だから余計に追いつかなければならない。
失うわけにはいかない。
なのに。どうして。
「なにか、言ってよ……」
……自分の声で、目が覚めた。
宙に伸ばしていた腕を、ゆっくり下ろす。ぼんやりとした視界は暗くて黒くて、自身の息を吸う音だけが空しい。
一人だ。
「……」
きゅっと、きつく目を瞑った。
この家は静かだ。
何の音もしない。炉で、何かが燃える音も。槌が打ち鳴らす金属音も。何もかも。
両親はもう何か月も帰ってきていない。チェシャの親は迷宮研究に生涯を捧げた研究者だ。いつ帰って来るかも分からない。チェシャには、親が親ではない。――この家にいても、息が苦しい。
ここにはハサキが居ない。
「……!」
ベッドから飛び出した。枕を手に握りしめて。
家を寝巻のまま後にして、向かうのはすぐ隣の家。夜の暗がりは何一つ気に成らなかった。すぐ、会えると分かったから。
「ハサキ……」
鈴が鳴らないほどそっと、玄関扉を開ける。二階で寝ているだろう歳の離れた幼馴染の名を呼びながら、工房へと向かった。
そして、窓から差し込む月明りの下で、銀色の波を見た。
「――」
炉の熱で外跳ねの酷い髪は、だというのにしなやかに豊かに波打ち、薄い輝きを放つ。長い髪に覆われた肢体は闇にも溶けないマホガニーの褐色。
くっきりとした横顔のラインに思わず息を呑んだ。長いまつ毛に心臓が高鳴るのを覚えた。
――綺麗。
それ以外の言葉が思い浮かばない。
ハサキが、工房の床にそのまま眠りこけていた。その手には槌が握られている。
「また、徹夜しようとしたの?」
きっとチェシャが仲介人と話している時からずっと、鍛冶をし続けていたのだ。他のことには目もくれず、ひたすらに。
「どうしてそんなに、頑張るの?」
両腕に抱え込んだ枕を気付けばきつく抱きしめていた。どこへも逃がしようのない力を、込める他なかった。
「ハサキが頑張ると、私は置いてけぼりにされるのよ」
足音を忍ばせて、工房の隅に置かれたタオルケットを女に掛けた。そうして自身もハサキのすぐ隣に枕を敷き、横になった。
すぐ側にあるハサキの顔。つるりとした鼻の筋がよく見える。つい、触りたくてうずうずと腕が疼いたが、我慢した。
「ずっと一緒にいたいのに、どんどん遠くへ行くのね」
この頃、ハサキを見ると焦りばかりが心に浮かぶ。
この焦燥はそう、スレイヴイレスが作られた頃からあるものだ。ハサキが世界中にその名を轟かせてからずっと、チェシャは彼女が何を作るのか気が気でない。
今度は何を作ったんだろう? 何を作ろうとして、気絶するまで没頭したのだろう?
どうしてそんなにもかけ離れてしまう。
「もっとそばにいたいのに」
「……ここにいるよ」
ぽつりと。
女の声と共に感じる生温かい吐息。僅かに圧された空気が鼻に触れて、思わず首を後ろに引いた。
呼気の主は言うまでもない。たった今、醒めるほどに美しい黄金の瞳を開いた女だ。
「ハサキ……お、起きてたの?」
「いつも頭の半分が起きてるようなものだから」
どういう意味なのか分かりかねるが、とにかく目覚めていたらしい。チェシャは自分の独り言がすべて聞かれていたことに顔を赤くしてしまう。
……だが、至近距離にあるハサキの顔を見て思う。
「私はね、ハサキと一緒がいい」
ここで退いては駄目なのだ。
伝えたいことがある。理解してほしい思いがある。仲介人が言った通り、いつか永遠に聴いてくれる機会を失うかもしれないのだから。
「でもね……今のままじゃ、だめなの」
知ってると、ハサキの瞳はさも語る。それでも続けた。
「ハサキの隣にいられない」
「ずっといられるよ。チェシャが望むならなんだって叶うさ」
「それじゃ、だめなの」
ハサキはそっと目を瞑った。ゆっくりと体を回し、仰向けの姿勢に。ぼんやりと天井を見つめる瞳は何かを見つめているようには思えなかった。
やがて女はぽつりと呟く。
「どうして人は、自分にはないものを求めるんだろう」
「……」
「探索者になるっていうのは、つまり、死ぬかもしれないってことだよ。安全な迷宮浅層にだって危険はある。中層以降は常に死亡リスクの天秤が揺れてるんだ」
ハサキは、次の言葉を継ぐのに、一泊の呼吸を必要とした。
「分かって欲しい、死ぬっていうのは無価値になるってことだ。
蛆に食われるだけの死肉に価値はないんだ」
何か嫌な響きのある言葉を、けれど女は何てこともないように掻き消して続ける。
「チェシャが行く必要のない世界だよ。そんなことする必要ない人生だよ」
女の言葉の節々に、自分への気遣いが溢れている。大事にされていることが嫌というほど分かる。素っ気なくてぶっきらぼうで、一回りも年上なのにどこか危なっかしい――それこそ姉のような女が、祈りのような言葉を紡ぐ。
「チェシャ。君はなんにだってなれるよ」
胸が詰まりそうになった。
それはチェシャが
きっとハサキはチェシャ・バイストィアの全てを受け入れてくれる。それは間違いないのだ。これまでの12年間は決して誰も立ち入れない世界を産んだのだと、確信している。
……だとしても。
ねえ、ハサキ。
「いつか」
12歳の子供だ。
相手は25歳の、名誉も名声も得すぎた女。
年齢差は一回り。
経験も実績も何もかもが遥か彼方。
向かい合えばいつもチェシャはハサキを見上げることしかできない。
二人の間にはとてつもなく広くて大きな断絶がある。――チェシャにはそう見える。
だが、希望を持って胸を張ることは簡単だった。
「いつかね、ハサキの背を追い越すかもしれないわ。ハサキより賢くなれるかもしれないし、ハサキよりお金持ちになれるかもしれない。……でも、だったらなんなの? そんなことで私は納得しない」
何故ならチェシャは何もかもを覚えているのだから。
ハサキにも教えていない秘密――普通ならば忘れている幼児期の記憶が、チェシャにはある。
託された赤子にハサキが与えてくれた情の全てを知っている。それこそ幸せすぎて狂ってしまうほどの重さを。
「ハサキと同じがいい。同じ……そう、同じ目線にいたいの」
だからもう、物質的な欲で満たされるほど出来た子供ではないのだ。
迷宮に潜ってばかりの両親を持って、分かった事もある。
夜更け。独りのベッドで目を覚ます空しさも。自分ひとりの呼気が耳に響く虚ろさも。
――どこまでいっても人は独り。
それでもこうして他人の熱に触れることを覚える。
「ハサキ。独りぼっちは……すごく苦しいのよ」
一瞬。
本当に一瞬だけ、ハサキはぽかんと呆気にとられた顔をした。
ひどく心が落ち着かない数秒の静寂。チェシャがもぞもぞと身じろぎをするのと、ハサキが何かを紡ぐために薄く息を吸うのはほぼ同じだった。
「チェシャ。君が生まれて、君と居て……君と過ごして」
ゆっくりと、翻る。
うつくしい銀糸を纏い、柔らかな黄金の光を緩くたわめて。
ハサキの瞳は泣いていた。
「……孤独を覚えたことなんて一度もなかった」
微笑みと共に、女がチェシャを直視した。
――泣き笑いだ。
「ずっとチェシャがいたんだ。いつも。いつでも」
そうだとも。
チェシャだって覚えている。産まれた瞬間から知っている。ハサキがしてくれた全てを。
「だから、チェシャが居なくなる時を想像できなくて、わからなくて」
「……」
「…………そっか。私は、チェシャに遠くへ行ってほしくなかったんだ」
言葉の余韻はすぐに潰えた。発したハサキ本人が唐突に口を噤んだからだ。
その原因は目の前にある。今、ハサキが黄金の瞳に写した少女の表情に。
ハサキがくすりと、場違いに笑った。
「なんで泣くの?」
「――私、死ぬかもしれない!」
おいおい、と。ハサキが口に出しそうなほどの笑みに表情を変えた。
その表情は当然のものだ。ずっとハサキが詰るように伝え続けた、探索者のリスクそのものをチェシャが震えながら告白したのだから。
「私、ハサキと会える時間が少なくなるかもしれない。探索者になるのは間違ってるかもしれない。死にたくない。ハサキと一緒に居たい」
心に巣食う邪な想い。願い。祈り。
『ただハサキと共に居られたら』。
だけど、ねえ、ハサキ。
私はハサキの何なの?
「――それでも、私は強くならないといけない」
ハサキ・ノバクという一人の女の、今の自分が何になれる。
ただ12歳の少女でしかない自分はきっといつか価値を失う。
隣家に住んでいるだけでは足りない。
ハサキに生まれた頃から育てられただけでも足りない。
決定的に、ハサキという女の心に楔を打ち込める存在にならなければならない。
この感情が愛だと言うなら、愛らしい形を。
そのための栄華を、実績を、手にするための道が探索者だとチェシャは本能で分かっている。
「……」
「強くなるわ。ハサキが頼れるくらいに」
「チェシャ。君は、本当に」
だから、ハサキのどこか怯えの混じった抱擁だって受け入れた。
「……チェシャ。約束してくれる?」
「うん」
「必ず帰ってきて」
「うん。……うん!」
何を言われても守れる気がした。
神を殺せとハサキが言うなら間違いなく殺せるだろう。
今ここにあって、自分に出来ないことなんて何一つないのだ。
「――帰ってきてくれるように、私が打つから」
窓から差し込み月明かり。
熱も柔らかさもない輝きに包まれる中、女の肢体は不思議と熱を孕んでいる。
耽美。
愛故の?
チェシャがそんな言葉を感覚として初めて理解したのは今日だった。
◇
12歳の私には一つは確信できた事がある。
それは――――。