工房に、金属を叩く音が断続的に響く。
少女は女の振り上げた槌を、少し離れた位置からじっと見つめていた。タンクトップ一枚を着るだけの、女の肩から腕にかけての筋肉の隆起としなやかな脈動を。浅黒い肌の上を伝う汗の筋を。
ただ目の前の金属塊だけを注視する黄金の瞳。感情の起伏もない無機質な眼差し。
あの視線の先に、どんなものが見えているのだろう。
女――ハサキの腕は一定の高さに達すると、ゆるやかに振り下ろされた。
澄み切った音だ。
工房全体に広がっていく心地よさに耳の奥が震えている気がした。
「ハサキー。ハサキー」
そこで鍛冶が一息ついたことを確認してから、少女――チェシャはハサキの背中に声を掛けた。
手ぬぐいで汗を拭いているハサキが振り向く。黄金色の瞳が突然暖かみを増して、微笑みを象る。自分を見て、自然とそういう表情をしてくれることがチェシャには嬉しい。
「どうしたの」
「ひま!」
側に寄ると、ハサキが苦笑交じりに片手をそっとチェシャの頭に乗せた。何もしていないのに、つむじあたりに神経が集中してむずむずする。
「そっか。じゃあ、なにかして遊ぼうか」
「んー……」
チェシャは考える素振りをする。鍛冶の合間ならハサキが相手をしてくれることがチェシャには分かっていた。
だから、首を横に振るとハサキが何を言うかも分かる。
「いい。忙しいんでしょ!」
「そうでもないよ」
「そ、そう? ふーん。そうなんだ……」
思った通りの言葉を返してもらえて、チェシャは照れ隠しに俯いた。ハサキと喋っているといつも舞い上がりそうになる。他愛ない言葉も、ハサキが紡げばそれだけで暖かい。
つい意地悪をしたくなるのも、仕方ないことなのだ。
「えいっ」
チェシャは唐突に翻ると、向かい側の壁まで小走りに駆けた。向かう先は地下室へ通じる階段。
幼い足取りでは当然階段にたどり着けるはずもなく、追いついたハサキにあっけなく両肩を抑えられた。
「そこは危ないっていつも言ってるでしょ」
「じゃあ私が地下室いかないように抱っこして!」
チェシャとて本気で地下室に行きたかった訳ではない。地下室には危険な『オブジェクト』の倉庫になっているといつもハサキから言い聞かされている。単純に、こうやって地下室へ行こうとするとハサキが構ってくれるのが楽しいのだ。
いつもハサキは自分を見てくれている。それだけで嬉しい。
女がチェシャの脇に手を回し、そっと抱え上げる。突然高くなった視線にチェシャは声を上げ、ハサキの首に抱き着いた。
「すごく高い! 私もこんなに背、のびるかな?」
「伸びるよ。きっと」
「そしたらハサキはもう私を抱っこできないのね?」
「チェシャがしてほしいなら、いつだってするよ」
ハサキが言いつつ階段から離れる。抱えられたままのチェシャも同じく。女の、燃焼材と汗が混じった不思議な匂いに包まれながら、この時間がずっと続けばいいのにとつい願う。
チェシャは幸せだった。
けれど、気になることもあった。
――なんでハサキは、最近地下室に人を入れたがらないんだろう?
◇
ハサキは数年前から有名人だった。
スレイヴイレスと呼ばれる凄い剣を打ち、王様に認められた――らしい。
それくらいしかチェシャには分からない。けど、おかげでか、ハサキは毎日忙しそうにしている。
昔のように自分の相手をしてくれないのは少し寂しい。けど、ハサキが槌を振るって金属を打つ時の背中は、かっこよくて好きだ。
誰もがハサキを凄いと褒めるから、ハサキの側にずっといるチェシャも鼻が高くなる。
だが……。
「……またベッドでねてない」
夜。迷宮研究に熱を上げてばかりの両親は今日とて家には帰ってこない。
チェシャはいつものようにハサキの工房に入ると、二階の寝室に向かった。しかしそこはもぬけの殻で、ハサキはいない。二階に上がる階段は一つしかなく、工房を横切る形になるため一階にも居ないことは分かっている。
はあ、とチェシャはため息を吐いた。
これだ。
ここ数年、ハサキの様子はやっぱりおかしい。
「また地下室で寝てるんだわ……」
一番おかしいのは、寝室で眠らなくなったことだ。無理のし過ぎで気絶している以外で、チェシャはハサキが眠っている姿をここ数年見ていない。ただの一度もだ。
深夜徘徊の趣味がある女ではない。
――地下室だ。
地下室で、ハサキは何故だか夜を過ごしている。そうして朝方、チェシャが朝食の準備をしている頃に階段を上がってくるのだ。
おかしい。何かが変だ。だからいつも尋ねている。
「地下室になにがあるの」
ハサキはいつも、いつも答えをはぐらかす。危険な鍛冶道具があるから入っちゃだめだとか、なんとか……。
「……」
きっと今日も地下室で寝ているのだ。鍵をかけて、チェシャが入れないようにして。
10年間、ずっと共に居た。ハサキ・ノバクという女がそれこそチェシャくらい幼かった頃から知っている。チェシャは全てを知っている。
なのにどうしてハサキは自分に隠し事をするのだろう。
むしゃくしゃして、チェシャはハサキのベッドに飛び込んだ。チェシャが毎日掃除しているベッドには、ハサキの匂いが薄らと残っている。気がする。
燃焼材の複雑な香り。オブジェクトの言い表しがたい臭気。密かに感じる、ハサキの匂い――若草の香りだ。きっとハサキの故郷の匂い。それらが混じり合った不思議な匂い。
「……」
枕に顔を押し付けて足をバタバタさせてみた。もっと騒げばハサキが来てくれるだろうか――いや、きっと来ることはない。
ひょっとすると自分は、寂しいのかもしれない。
そのうちチェシャの瞼は徐々に重くなっていき、耐え切れなくなったあたりで少女は意識を手放した。
◇
ある日の事。
夕食時、チェシャは食事の準備をしようと工房に向かった。忙しいハサキの代わりに家事をするのはチェシャの大事な仕事だった。
そしてハサキが、気絶していた。
「……」
食材を抱えたままチェシャの動きがぴたりと止まる。
ハサキが気絶していることに驚いている訳ではない。昔から鍛冶をやり始めると他ごとが目に入らなくなる人だったから、気絶するのは日常の一つだ(いつも止めてほしいとは思っている)。いつもならばチェシャは出来るだけ物音を立てずに毛布でも掛けてやって、枕を用意し、簡単な食事と風呂の準備をしておく。
しかし今のチェシャの脳裏には、先日の誰もいないハサキのベッドが思い浮かんでいた。
「……」
起きている者は自分以外誰もいない工房。客が来る時間ではない。家主のハサキが目覚める気配もない。
静かな世界。
今なら、行ける。地下室に。
――どうしよう。
少女の心臓が刻々と早鐘を打ち出す。何も悪いことをしていないのに緊張で肩が強張った。
自分はまだ10歳だ。難しいことは何も分からない。
ただ、ハサキが構ってくれれば嬉しいし、ハサキのために何かできるならそれが喜びだ。美しい黄金の瞳は見ていてドキドキするし、女らしくないごつごつした肩回りも格好良い。ハサキがすごい美人だとよく分かっているけど、他の誰かがソレに気づく必要はないとも思う。
ハサキ・ノバクはチェシャ・バイストィアの人生における全てだ。
それだけは絶対に間違っていない。
ごくりと喉を鳴らして、チェシャは決意を一つ固めた。
「よ、よし……」
一々声を出すのはきっと、どこかでハサキに起きてほしいからだろうか。
地下室には何もないかもしれない。いつもハサキが言うように、『オブジェクト』が沢山あるだけかもしれない――むしろそうあって欲しい。
階段に一歩足を踏み入れた瞬間、後戻りのできない所まで来てしまった気がした。
降りるたびに震える足。転ばないようにするだけで精一杯で、考え事なんてする余裕もなかった。
いつの間にか扉の前に立っていた。
「……」
一体何を考えているのだろう。知りたいという欲求? それとも、単なる好奇心?
答えがこの奥にあるのだろうか。
そして、扉に手を掛け。
鍵は掛かっていなくて。
「チェシャ」
世界が凍った気がした。
手を掛けた姿勢のまま、身じろぎ一つできない。
「何を、してるの」
その間にも階段を下りてくる足音。声は起伏のない凪いだもので、それがただただ、恐ろしい。
ハサキは、そう。
いつもチェシャに微笑みかける。怒ったりしない。だから想像できない。
ハサキ・ノバクは怒るとどんな顔をするんだろう?
「チェシャ?」
声はすぐ後ろから。もう足音は聞こえない。
視界の端からゆっくりと現れたのは浅黒い肌をした女の腕。ハサキの手が、チェシャの扉に掛かったままの手をそっと掴み、そのまま下ろした。
それはいつも通りのハサキの動きだった。
チェシャの頭を撫でる時と同じ。
微笑みと共に頭を撫でてくれる女は、余人を立ち入らせない地下室に知人が入ろうとしている時も、
「あ……」
チェシャは理解してしまった。
隣家の少女に優しくするのも。
地下室に入ろうとする他人に接するのも。
――ハサキは、きっと、どうでもいいと思っている。
気付いた瞬間。
せき止めていた感情が決壊した。
「チェシャ。どうして泣いてるの」
「だ、って。だって! ハサキ! ハサキが!」
まともに立っていられなくなった。
崩れ落ちる体を支える女の両手。背後の気配でハサキも膝を着いているのが分かった。
目の前の扉を見上げる。簡単な木製の扉は、けれどチェシャの手で押し広げるなど到底できない程に、重く見える。
「ハサキがハサキじゃなくなった気がするの。そ……それで、ここなら何かわかるかもって、だからっ」
「……」
ハサキのことを何でも分かっているつもりだった。生まれた頃から側にいた。側にいてくれた。好物、趣味、考え方、人格――全て。
だというのに今は何一つ分からない。どうして怒らないのかも、どうしていつもと変わらないのかも。
ハサキ・ノバクはいつから――いつからこんなにも硬くなってしまったのか。
「ごめんね」
両肩に置かれたハサキの手が静かに動く。引き寄せる動作で、チェシャは後ろから柔らかく抱き留められた。背中や後頭部にあたる人肌の感触。ハサキの心音はひどく穏やかだ。
声はより近くなる。
「最近、ずっと仕事が忙しくて、チェシャとの時間を持ててない。君が大事だ。それだけは、これまでもこれからも変わらないんだよ」
だから、約束してほしい。
「何、を……?」
「地下室には行かないで」
ここには本当に危険なものが、どうしようのないものがあるから。
感情味のない淡々とした言葉だった。怒っているようには聞こえなかったのに、チェシャは本当に悪いことをした気になった。
涙がまた溢れだす。ハサキが遠くへ行ってしまった恐怖が再燃する。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「怒ってないよ」
「嫌いにならないで」
「嫌いになんか、ならないよ」
「また、一緒に買い物とかしたい」
「いつでもするよ」
「たまには一緒に寝て」
「チェシャが眠るまで側にいるよ」
「ねえ。ハサキ……」
「なに?」
扉を見上げる。
簡素な扉。木製で、鍵すら掛けていない。
ハサキの心が具現化でもしているようなものだ。
「この先に、なにがあるの」
答えは無かった。
ただ薄い呼気の音だけが少女の耳奥にまで反響する。埃が舞う音すら雑音になりそうな静寂の中で、ハサキはぽつりと言った。
「神様ってさ、どんな形をしてるんだろう」
「――え?」
その時だ。
階上。その奥に、月灯かりを呼び込む窓がある。
白く眩い月光が差し込み、階段全体を照らした。チェシャとハサキの影が扉を覆う。
チェシャにはそれが、扉自体を得体のしれない怪物に変えたように見えた。
「神様が……この奥に、いるの?」
「さあ。どうなんだろう」
「……」
「少なくとも私には答えの出せない問いだと思う」
チェシャは確信した。
ハサキは隠し事をしている。そして、その中身を教える気が一切ない。
この奥にある“何か”を、10年の付き合いになるチェシャ・バイストィアにさえ。
……それほどの“何か”なのだろう。
駄々をこねれば渋々話を聞いてくれるこれまでのハサキとは違う。
ここに、ある。
ハサキの全てが、この地下室に。
「さあ、もう上がろう。こんなところに居ると体が冷えるよ」
「……ええ。お腹、空いたわ」
「今日は久しぶりに私が作るよ」
「うん……」
今の自分ではだめだ。
もっと凄い、価値あるものにならないとだめなのだ。
どうしたらいいんだろう? どうすれば?
チェシャは、幼い頭で考える。考えて、考えて、ふと思い出した。
『オールエンドの大英雄』だ。
かの有名な探索者は、チェシャとほとんど変わらないような歳で迷宮を発見し、そして一人で攻略しきったらしい。
探索者……迷宮深層まで探検する者達。
チェシャでさえ分かる、凄い人たち。
(探索者になれたら、とってもすごい探索者になったら、ハサキは教えてくれる?)
いつか。
ハサキ・ノバクという人物の全てを。
――この時、自分がどうあるべきか、チェシャには突然理解が出来た。
◇
10歳の私には決意が一つだけあった。
それは……。