器仗神殺の剣   作:てりのとりやき

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私が5歳の頃(あなたが18歳の頃)

 

 

 

 

 チェシャの日常はどこまでもいっても、同じところから始まる。

 朝。人数分に切り分け、軽く炙ったパンにチーズとベーコンを挟む。厚みがそれぞれ雑に違うのはまだまだ自分が5歳児だということで許してくれるに違いない。バスケットに詰めて朝食の準備を済ませると、幼いチェシャは意気揚々と隣家の工房に向かった。

 玄関扉を開けると、吊るし売りの武具を掃除する年若い女と出くわした。黒髪に黒い瞳をしたその女は、名をハサキと呼ぶ。

 ハサキがこちらを見て、微笑んだ。

 

「おはよう、チェシャ」

「おはよ!」

 

 バスケットごと朝食を差し出すと、ハサキはにっこりと笑んでそれを受け取る。お礼にと、女の、しなやかさを帯びた細い手がこちらの頭をくしゃくしゃと撫でるのをチェシャはむずむずしながら受け入れた。普段なら髪が変になるからと怒るところだが、今日の自分は一味違う。甘んじて女の手を受け入れる幼子に、ハサキが片眉をひょいと上げる。

 

「んん。なんか、ご機嫌だね」

「ふふー。わかるのね?」

「そりゃまあ」

 

 なんていっても、5年も側にいるのだから。

 言わなくとも伝わる言葉がある。なんて素敵なんだろう!

 

「みてみて。これ、わたしが昨日つくったのよ」

 

 チェシャは懐からとあるものを取り出した。

 端切れを縫い合わせ綿を詰めたそれは、人形の形をしている。

 

「ハサキにんぎょう」

「私の人形なんだ」

「すっごくかわいいから、ほんとはわたしのものなんだけど、あげる!」

「しかもくれるんだ?」

 

 ずい、とチェシャが押し付けた人形を、ハサキはしばらく弄んでいたが、やがてくすぐったそうに笑いながらエプロンの胸ポケットにそっと差し込んだ。

 

「ありがとう。大事にするね」

「ん! ……今日もおてつだい?」

「今日は、ちょっと違うかなあ」

 

 二人して工房へと足を向ける。

 工房内へと入った瞬間、ぶわ、と熱が少女の鼻先に触れた。次いで聞こえる、かん、かん、かん……という金属同士がたたき合う音。

 先に入ったハサキがバスケットを軽く揺らし、奥に備え付けられた炉の前で槌を振るう老人の背中に声を掛けた。

 

「師匠。朝食、チェシャが作ってくれたよ」

 

 ハサキが師匠と呼ぶその老人こそ、この工房で迷宮武具を打つ迷宮鍛冶師その人だ。歳は既に70を超えている。薄くなった白髪をそぞろに伸ばしきった老人は、ハサキ達に一瞥もくれずにぽつりと言った。

 

「……そこ置いとけ。金は、いつも通り」

「あいかわらずぶっきらぼうね! お金なんかいらないっていつもいってるのに!」

「……」

 

 チェシャの言葉にも反応ひとつ寄越さない。それはチェシャを嫌っている訳ではなく、普段からほとんど喋らないだけだ。

 皺だらけで、だが確かな筋肉に覆われた右腕は今日も槌を振り上げ、ただひたすらに叩きつける。一定の間隔、一定の衝撃、一定の音……。

 ちらりと隣の女を盗み見た。

 ハサキ・ノバクの黒い瞳は、老人の動作を一心不乱に見つめていた。瞬きすらしない眼は老人の全てを見逃すことなく納めようという気概に満ち満ちている。

 チェシャは、そういうハサキの表情が、たまらなく好きだ。

 

「これ、見てよ」

 

 と。ハサキが突然老人に近寄った。老人の行いに一拍、合間が出来たのを把握してからの声掛けだ。じろりと無遠慮な視線を投げかける老人にも臆さず、ハサキは小ぶりの短剣を手渡す。

 老人は手渡された短剣を見下ろす。その表情に感情の色はない。

 

「お前が打ったのか」

「端材使った」

「鍛造か。叩きは」

「均等1265回、折り返しは5回。衝撃(インパクト)に誤差なし」

「誤差無し? ……言うだけなら、誰でもできる」

 

 金床に短剣を置いた老人は、おもむろに槌とノミを持つと、ノミの刃を短剣の腹に当て──『かつん』と。

 何てことない手軽さで、ハサキが打った短剣を折り割った。

 

「ぬぁっ! お、折っちゃった!」

「いいんだチェシャ。折れやすいように作ってあるから」

 

 折った断面を老人は瞳を細めて眺める。時折陽光に当て、レンズで拡大して。

 

「嘘はない、か」

 

 つまらなさそうに言うと、老人は折った短剣をハサキに突き返した。

 

「…………筋はいい。才能がある」

 

 ハサキの瞳が続きを求めている。

 

「だから、考えろ」

「なるほど。わかった。ありがとう」

 

 短い会話のやり取りには、チェシャでは決して理解できない情報が含まれているのだろう。だけどとりあえずハサキの腕が認められたことだけは何となく理解できた。

 チェシャの側まで戻って来たハサキに、少女は誇らしげな顔をした。

 

「ほめられちゃったわね」

「あれはまだまだって言いたいんだと思う」

 

 呆気なく折られてしまったというのに、ハサキの表情には落胆の様子もなかった。その断面を同じようにして眺めながら、呟く。

 

「いいもの作ったと思うんだ。自分なりに『オブジェクト』の特性を考えて構成した」

「わたしからすると、いいものな気がするけど」

「うーん。でもまだまだなんだろうなあ。難しいなあ……」

 

 うんうん悩んでいるハサキの顔はどこか楽し気に見える。

 その、成熟しつつある女の表情を見てチェシャは思った。

 もうハサキも18歳だ。

 あと2年で成人を迎えるというのに、化粧や服にも一向に興味を持たない。いつも老人の手伝いをしてばかりだし、表に出ず炉の前で槌を振るっている方が生き生きしている。近所で評判の美人鍛冶手伝いと言われたりしているのに、言い寄る男の気配がないのもきっとそういう理由だ。もちろん言い寄る男がいないのは、チェシャにとってとてつもなく良い事だが。

 

「どうしたの」

 

 ハサキが少女のにまにまとした表情に気づいて首を傾げる。

 

「ハサキがたのしそうだから、わたしもうれしいのー」

 

 ハサキと出会ってもう5年が経つ。13歳だった少女も今や18。自分だってこの5年で成長した。

 これからも、いつまでも、二人の時間が続けばいい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 朝食を済ませた二人は、鍛冶に必要な材料の買い出しに出かけた。チェシャが付いていく必要はないのだが、ハサキが行くところには必ず付いていくのがチェシャだった。

 季節は冬。まだまだ冷え込む季節が続いている。はぐれないようにと手をしっかり繋ぎながら、二人は市場を練り歩いていた。

 

「まださむいねー」

「そうだね。風邪を引かないようにしようね」

 

 なんていう他愛ない会話をしながら市場を行き、付いたのはごろごろと転がる鉱石……迷宮産物質『オブジェクト』を並べた出店。

 個人で迷宮鍛冶師を営むような者には、立派に構えた卸屋よりもこういった出店の方が向いているらしい。ハサキがそう言っていたことをよくわからないなりに思い出していると、しげしげと石ころを眺めていた女が幾つかの『オブジェクト』を指差した。

 

「チェシャ。これとこれを買うといくらになるかな?」

 

 む。

 チェシャは思わず唇を引き結んでしまった。ハサキはこうやって、急になぞなぞを問いかけてくる時がある。答えを当てると、、なぜかすごく嬉しそうな顔をするのが好きで、チェシャはいつも頑張らなければ! と思っている。

 指し示された石ころの値札を見て、指折り数えて、何度か小刻みに体が揺れた。

 

「えっとね、えっと……。……んー!」

「おおー」

 

 チェシャがめいっぱいに広げた五指を見て、ハサキは思わずといった様子で拍手をした。

 女の、ほっそりとした手が少女の頭をそっと撫でる。他人の熱が冷え切った外気の中でひときわ鋭く感じられて、チェシャはつま先までむず痒くなりそうだった。

 

「チェシャは賢いねえ。もう数字が扱えるんだ」

「わたしはフツーの5さいじゃないもの!」

 

 胸を張って自慢げに言った。

 そうとも。普通の5歳児ではないのだ。たくさんのことを覚えているのだから。

 

「私が5歳の頃なんてなにしてたかな……。ああそうだ、豚の糞をかきあつめて友達に投げつけたりしたんだった。それで母親からとち狂ったみたいに叱られて」

 

 くすくすと懐かしそうにハサキが笑う。

 その笑い方は心の底から懐かしむもので。

 まるで上等な反物を慈しむように撫でるみたい。

 ふとチェシャは、ハサキのことが普段よりも背が高く見えてしまった。それこそ首を曲げて見上げなければならない程に。

 

「ハサキには、ママがいたのね」

 

 ついそんな言葉が出てしまう。言ってから、幼心にチェシャは分かった。

 いけないことを聞いてしまった。

 ハサキの過去を──彼女が13歳以前の過去を尋ねることは、チェシャの中では禁句のはずだったのに。

 

「……どこにでもいる人だったよ」

 

 何てことの無いようにハサキは頷いていた。その動きがどこかぎこちなく見えるのはチェシャの思い違いだろうか。

 ……わからない。

 ハサキは、13歳以前の過去を──この迷宮街へ来るまでの出来事を決して語らないから。何度か尋ね、そのたびにはぐらかされる内、訊いてはいけないことなのだな、と分かった。

 でも、そうか。

 ハサキには母親がいたのか。

 

「あんな風に、冬の寒い日のためにね、マフラーを編んで巻いてくれるような人だった」

「……」

 

 そんなもの見たくない。素直にそう思う。

 チェシャはそっと俯いた。適当に調子を合わせて「さむそうね」とだけ呟いて、ごまかして。

 きっとハサキの視線の先には仲睦まじい親子がいるのだろう。

 かつてハサキに居て、今のチェシャには居ない、親というものがそこには。

 

「ハサキ」

「?」

「さむいから、はやく行こ?」

「ああ……そうだね。風邪を引いちゃうね」

「ん」

 

 二人で歩いた。ハサキが色んなことを喋る。師匠がどうこう、オブジェクトは面白いとか、沢山、いろんなことを。

 いつもより少し口数が多い気がした。

 

「マフラーか……」

 

 そして帰り際、工房の前でハサキが呟いた言葉は、果たして独り言だったのだろうか。

 どういう意味でかは、わからない。

 ──それからだった。ハサキがチェシャに隠れてこそこそと何かを始めたのは。

 

「……むう」

 

 数日後。いよいよおかしいと思い出したチェシャは、「調べものしてくるね」と一人で街へと繰り出したハサキの行動を、黙々と金槌を振るう老人をぼんやりと眺めながら思い起こしていた。

 そう。ここ最近のハサキは変なのだ。

 普段は一緒にいる時間の方が多いはずなのに、なぜか独りになりたがる。

 たくさんの『何か』を詰めた手提げ袋を持って私室に閉じこもる。そういう時にノックをすると、いつも慌てた様子で声が返ってくる。

 ハサキの私室に入れてくれない時がある……。

 

「──なんかハサキ、へん!」

 

 気付けば老人の側に寄って、べらべらとまくし立てていた。ハサキと共に暮らす老人ならば何か知っているのではないかという淡い期待もあったが、ほとんどは愚痴だった。

 一度もこちらに視線も寄越さない老人は、いつもの気難しそうな目つきを保ったまま、ぽつりと言った。

 

「……あいつはお前が大事なんだろうよ」

「むー。それは、わかるけど」

「あいつが、今してることは……お前のためだ」

 

 え、そうなの? ついチェシャは老人を見上げてしまう。面倒臭そうに息を吐いた鍛冶師は、また目の前にある加工途中の『オブジェクト』に集中しだしてしまう。こうなると何一つ問いかけに応えてくれない人だ。諦めかけたチェシャに、老人がぽつりと言い残した。

 

「だから待ってやれ」

「……」

 

 待つ、か。

 老人は多くを語らなかったが、それでも分かったのは、ハサキがこそこそ何かしているのは、隣家の少女のためだということだ。

 つまりチェシャ・バイストィアに。

 一体何を、するつもりなのだろう?

 

「んー……む」

 

 自宅で独りの昼食を済ませ、机の頬杖をしながらチェシャは考える。

 

「どんなふうに反応、すればいいんだろう」

 

 ハサキが何かをしてくれる。それだけで嬉しいのに、それ以上に喜ばないと、なんだかハサキが泣いてしまいそうな気がした。

 大げさに喜んでみせる自分を想像してみる。

 飛び上がる。笑顔になる。ハサキに抱きつく。……どれも嘘っぽい気がした。

 一人で考えたところでいい答えなど出ないのだ。

 悩みがあればすぐに打ち明けられたハサキは、今、会えない。

 ──独りだ。

 この家では、いつも一人だ。両親が帰ってくることなんてほとんどない。生まれた頃から育ててくれたのはハサキだった。

 

「パパもママも、いつかえってくるんだろ……」

 

 チェシャの両親は迷宮研究にばかり熱心な学者だった。

 今でもチェシャは覚えている。二人が、隣家の迷宮鍛冶師の下で暮らす13歳の少女に、まだ生まれて間もない赤子を──チェシャ・バイストィアを預けた時を。

 チェシャには赤子の頃からの記憶があった。

 だから、本当に、ひどい親だと思う。

 無論、両親はチェシャと会えば一心に少女を愛してくれる。その思いを疑っているわけではない。けれど、どこまでいっても優先順位の一番目にあるのは地下迷宮なのだ。たとえ苦痛と共に産んだ生後間もない赤子であっても赤の他人に託せてしまうほどに、その隔絶は大きい。

 

(でも、ハサキはちがったな……)

 

 13歳の頃から、ハサキはいつも相手をしてくれた。なんだってしてくれたし、裏打ちされた情の深さにはいつも胸がいっぱいになる。

 ……ハサキに会いたい。強くそう願った。

 だけど、会いたいからと工房に行っても、今は追い返されるだけだ。

 

「……」

 

 チェシャはつい熱くなる瞳を瞼で覆い隠し、両手を押し当てた。

 寂しいなんて言わない。構ってほしいから泣くなんて嫌だ。そんな言動で気を引く子供にはなりたくなかった。

 でも。

 あまりにも、この家は静かすぎる。

 

「……」

 

 音が死んだ家の中。埃の積もる音すら聞こえてきそうな不快な静謐にあって、チェシャはきつく目を瞑った。

 そんな我慢の時は、意外にも短い日数で終わりを迎える。

 数日後のことだ。ハサキが突然、チェシャの自宅にやって来たのだ。

 

「ハサキ! ど、どうしたの?」

「ちょっと。渡したいものがあって」

 

 来た……!

 少女の心臓は急激に鼓動の強さを増す。だが悟らせるわけにはいかない。ハサキがチェシャに、サプライズをするために隠れて用意した物なのだから。びっくりした顔を見せてやらなければハサキに失礼だ。だから、びっくりした顔を、見せないと……。

 

「はいこれ」

 

 玄関口。ハサキは一息吐く間も、前置きすらも放り捨てて、いきなりチェシャの前に何かふわふわした物を差し出した。

 それは、ふわふわとした毛糸で編まれた、細長い布状のもの。

 有体に言えばマフラーだった。

 

「これ……マフラー?」

「そう」

「な、なんでっ」

「思い出したんだ」

 

 見上げた先に、不器用な表情で笑う女がいた。

 

「私の母親はね、くしゃみをして寒がってばかりの娘に、自分のセーターを崩してまで何か暖かくなれる物を編む親だったって」

「それは……」

 

 ひいき目に見ても上手な編み物には見えなかった。

 受け取った柔らかなマフラーはあちこちが凸凹していたし、縮んだり伸びたりしている。ハサキは鍛冶ばかりしているから、年頃の娘らしく編み物なんてしたことがない。慌てて編み方を調べて、毛糸を買って、勢いで作ったのだろう。幼い自分でもすぐに分かった。

 だけど、でも。──分かるのだ。

 どれだけ精緻な想いが込められているのだろう。この、寸分違うことのない編み目に、どれだけの情が乗っているのか。

 

「貧しくて。寒くて。つらいことばかりだったけど。悪い事ばかりじゃなかった」

「……」

 

 ぐつぐつした思いが、腹部の奥にわだかまっている。熱くて、滾っていて、粘々していて、どうとも言えない重い情が。

 嬉しい、という気持ちがあった。

 今すぐハサキに抱き着きたくなるような思いが。

 だけど同時に、寂しい、とも感じたのだ。

 

「ハサキ」

「? どうしたの」

「あのね、ハサキはね、どうして……」

 

 ──どうしてだろう。

 何故、この家には人がいない?

 

「どうしてわたしに、こんなにやさしいの?」

「そりゃ……決まってる」

 

 ──わからない。

 どうして、親はいつまで経っても帰ってこないのか。

 

「君が、大事だから」

「…………なら!」

 

 ──知りたい。

 なんでハサキは、こうまで……。

 

 

 

 

 

「ハサキは、なんで私のママじゃないの?」

 

 

 

 

 

 チェシャは言った。

 言ってしまった。

 

「なんで?」

 

 空気の凍る音をチェシャは聴いた気がする。幻聴かもしれない。それにしたってここは、この家は、寒すぎる。

 

「なんでハサキはママじゃないの?」

「……チェシャ、」

「なんで?」

 

 ハサキの言葉を聞きたくなかった。わがままを言って困らせる子供にだけはなりたくなかったのに、耐えられなかった。

 小さな両手でかき抱くマフラーが、その毛糸がちくちくと肌に刺さる。俯く視線に、亜麻色のマフラーだけが映った。他の何も見たくなかった。

 

「なんでほんとのママはぜんぜんかえってこないの?」

「チェシャのご両親は、立派なお仕事をしているよ」

「そんなのしらない! そんなことしなくていい! なんで? ハサキがママならよかったのに……!」

 

 気付けば視界は歪んでいた。瞳が解けるような涙が覆う視界。ぼたぼたと落ちる雫でこれ以上ハサキの贈り物を汚したくなくて、必死になって顔を上げた。

 ぐしゃぐしゃの泣き顔で真っすぐに女を見つめた。

 見上げ──その、女の表情は、あまりにも。

 

「いや!」

 

 あまりにも凍った、曖昧な微笑み。

 何一つ情動のない顔だ。とりあえず、困っているからと流動的に微笑んでいるに過ぎない、どこかに心を捨ててきてしまった人間のする顔だ。そんな表情で見てほしくないと思った。もっと、情愛の篭った優しい瞳をしてほしかった。

 そうとも。

 ハサキに、母親のようなものになってほしかった。

 だが(・・)チェ(・・)シャ(・・)は知(・・)って(・・)いる(・・)

 

「ハサキがいい! ハサキじゃないとやだ!」

 

 ハサキは普通の人間ではない。

 分かってる。知ってる。理解してる。きっとハサキ・ノバクの過去にはどうしようもなく碌でもない世界しかなかったのだろう。だとしても、空虚なものでもいい、幻想でもよかった。

 せめて……。

 

「やだ! やだ! やーぁだあぁぁー!」

 

 せめて、母親らしくいてくれたら、5歳のチェシャにはそれでよかったのだ。

 

 

 ◇

 

 

 本当にひどいものを見た。

 どんな言葉でも表せない虐殺と醜悪。

 その後に自分が食んだものを。

 

 

 

 母の柔らかさ。死骸の硬さは。

 あれはほんとうにまずい肉だったな。

 

 

 

 ハサキ・ノバクはあの時壊れて死んだ。

 12歳で終わった。

 ここにいるのはその残骸だよと。

 それはどうすれば伝わるのだろう。

 私はこの子に何をしてあげられるのかな。

 

 

 ◇

 

 

 目の前に、大声で泣く幼子がいた。

 納得できない現実を泣くことでしか拒めない、年相応の少女が。

 いつも溌溂で利口だとハサキは思っていた。明るくて、笑顔で、元気で、本当にかわいい子だと。

 そんな少女が泣いている。

 母親になってほしいと泣き叫んでいる。──そんな風に思われていたのだと、今、ようやく知った。

 

「私は……」

 

 何を言えば、いいのか。

 根源にまで至ればハサキの思いは一言に集約されるのだ。つまりは、『泣かないで』という一言に。いつも笑っていてほしい少女が、どうしたら泣き止んでくれるのか、それがハサキには分からない。

 少女の鳴き声は止まない。

 いつまでも木霊する盗賊たちの笑い声のように。

 

「…………」

 

 ふとハサキは、場違いな情景を思い浮かべていた。

 灰色に近いほど変色した、母親の死体を。

 

「私はね、」

 

 死にたくないから、母親の肉を食べてまでここにいるんだよ。

 そう言えたらどれだけ自分は楽になれるのだろう。ハサキは思い、だけど別の言葉を紡いだ。

 その場に膝を着き、チェシャの体を抱きしめながら。

 

「昔、こうして、母さんが私を抱きしめてくれたんだ」

 

 罪は、形にした時ようやく、罰を得る。

 ならば今はその時でない。

 

「きっと落ち着くだろうって」

「……ハサキがママじゃないから落ち着かないもん」

 

 くす。と、ハサキが微かに声を上げた。

 

「そうだね。たぶん一生母親なんかにはなれないんだと思うよ。私が何かを失うのならいい、でも、大事な人に失わせる(・・・・)のは、やっぱりつらいから」

 

 喪失も行き過ぎれば痛みすら伴わない虚ろさに変わる。

 女の胸にそうして空いたぽっかりとした穴は、代替品で埋め合わせができるようなものでもない。

 

「子供を欲しいと思わない。母親にもならない。私は(・・)なれ(・・)ない(・・)

 

 だからね、チェシャ。

 

「私はチェシャの母親にはなれないよ」

「──っ」

 

 抱きしめた少女の体が強く震えた。苦痛を伴う嗚咽を聞いた。

 外気の溶け込む玄関口で、誰の体も冷え切っている。

 だけど、

 

「ねえ、チェシャ」

 

 抱きしめればこんなにも他人の体は温い。それを、5年前には知っている。 

 そっと小さな背中を撫でた。

 微かな祈りと共に。 

 

「母親だけが、チェシャとの関係を明確にする言葉なのかな」

「ど、どういう、いみ?」

「親はいつも子を大事にするものなんだ」

 

 きっと、そうだ。

 でなければ『あの時』父はわが子をクローゼットの中に隠さなかった。

 

「それはきっと、当たり前の摂理なんだよ。日光を浴びて草が成長するくらいに……坂道に落とした石ころが転がり落ちていくくらいに、当たり前で、普通のことで、普通でなければいけないことなんだ」

 

 でなければハサキ・ノバクは生きていないのだから。 

 親の愛は絶対で、きっと揺らぐことのない法則そのもの。──少なくともハサキにとっての世界はそういう形をしている。だが、だからこそ、ハサキはチェシャとの関係性について言葉にできる事がある。

 

「だけどね、例えば親が子に向けるのと同じ気持ちを、赤の他人が──チェシャの隣人が抱えていたら?」 

「……それ、は」

「親でもない。姉でも、親戚でもないよ」

 

 ハサキ・ノバクはどこまでいってもチェシャとは赤の他人だ。

 だけど、チェシャが歩くことも出来なかった頃を知っている。

 何度……君のおむつを替えたのだろう。

 少女の夜泣きで目が覚めたのがつい先日の事のように感じられる。

 

「今でも覚えてるんだ」

 

 数奇な巡りあわせが今へと至らせた。チェシャ・バイストィアの両親が迷宮研究に人生を捧げた学者でなかったら、ここまで深い関係は得られなかった。ハサキ・ノバクの両親が意味もなく盗賊に殺されていなければ、そもそも二人が出会うことすらなかった。

 どれだけの細い糸を紡いでいけば、こうして少女を抱きしめることが叶うのだろう。──ハサキには分からないことだらけだ。

 

「チェシャ、君がね、私の名前を呼んでくれた日は……きっと、いつまでも忘れられない」

 

 それでも分かることは、ある。

 母親にはなれない。

 なにか、チェシャの心を埋める程の存在にも、きっと。

 それでも──。

 ハサキは抱擁を解いて、少女の顔を真正面から見つめた。

 

「君の母親にはなれないけれど、君を世界で一番大事に出来る隣人になら、なれるよ」

「──」

 

 大粒の涙を零してばかりいたとび色の瞳に、潤んだ煌めきが幾つも浮かぶ。動揺と共に、少女の中に止めどない感情が溢れるのをハサキは感じた。その感情の形までは分からないまでも。

 さっと朱色が差した頬を隠すように俯いて、チェシャはしばらく黙っていた。が、やがて、ぽつりと。

 

「ハサキは……ずるい」

 

 少女は女の首元にきつく、強く、か細い両腕を回す。

 その幼いながらに力の篭った締め付け方は、決して女を許さないという情念が乗り移るかのようだった。

 

「ずるい! なんでそんなこというの! わたしはママがいいのに! ハサキにお母さんになってほしいのに!」

「ごめん。ごめんね」

「……だったら、やくそくして」

 

 詰るような上目遣いを受けて、ハサキはふと直感で理解した。

 自身の言葉を呪いにする手段があるなら、それを行使すべきはきっと今この時だ。

 ハサキは少女に、囁くような声音で訊いた。

 

「チェシャを私の大事な人にさせてくれる?」

「ずっとよ。ずっとなんだから。ハサキ……ハサキとずっといたい!」

 

 怒りん坊で、よく笑う、いつも元気な女の子。

 いつまでもチェシャ・バイストィアが『らしさ』を失わないで居てくれたらいい。

 それだけを祈って、ハサキは少女の首にマフラーを巻いてやる。「ちくちくする」とくすぐったそうに笑うチェシャに、ハサキも同じような笑みを返した。

 誇らしげに胸を張る少女の姿が、女にとっての全てだった。

 

 

 

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