器仗神殺の剣   作:てりのとりやき

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君が0歳の頃

 

 隣家の、迷宮研究に没頭されている学者さま夫婦から、二人の間に生まれたばかりの赤子の世話を頼まれた時は、頭のおかしい人たちなのかな……などと正直に思った。

 そしてそれが冗談ではなく本気だと知った瞬間、胸に湧いてきたのは、たったひとつの言葉だ。

 ううん……。まいったな。

 赤ちゃんの世話なんてしたことないんだけど。

 12歳。

 ハサキ・ノバク、新たな挑戦かー。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 抱え込むようにしている赤子が、下から私をじーっと見つめている。

 

「俺はできんぞ」

 

 まあ師匠ならそう言うと思ってた。

 夕食時。私は両腕に抱えた赤子の顔を見せるように体を前に出す。

 

「とは言ってもさ、こうして預かっちゃったわけで」

 

 赤ん坊の名前はチェシャ。チェシャ・バイストィア。生まれたばかりの、生後2か月。

 迷宮鍛冶師の老人──師匠が早速拒否の姿勢を示したのはこの子の育児に関してだ。私がこの工房に居候しだしてもうそろそろ11か月。師匠はもうすぐ70を越すくらいだと思うんだけど、子や孫、親戚がいるようにも見えないし、実際その通りなんだろう。

 

「あの学者さま達、前から思ってたが……どうにかしてるぞ」

「だよね」

 

 腕を組んでしかめっ面をする(いつも同じ顔だけどちょっと表情が濃い)師匠に私もため息を吐いて同調した。

 と。腕の中の赤子が突然、ぶわあっと口を開いた。さっきまでこちらを不思議そうに見つめていたとび色の瞳が細くなって、顔はくちゃっと皺だらけになる。

 

 

 あ゛ー!!!! あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁー!!!!

 

 

 チェシャ、絶叫。

 一体、その小さな体のどこからこれだけ大きな叫び声が出せるんだろう。きっと将来、よく喋る子になるに違いない。

 そんなことを想いながら私はこの子が何を求めているのか考えた。赤ん坊は泣くか笑うかしかしない(らしい)ので、こっちが何をすればいいのか、考えなくちゃいけない(らしい)。全部この子のご両親が教えてくれたことだけど。

 とはいえ今回は臭いですぐにわかった。

 

「あー。うんちした」

「……糞尿たらすだけでそれか」

「そんなもんだよ」

「……」

 

 ぎゃおおおーん。ぎゃおおおん。ぴー、ぴー。そんな風に泣くのを聞いてると、不思議と慌てることもなかった。

 

「本当にそれ、糞尿たらすだけでそんなに泣くのか」

「うん」

 

 むしろ対面に座る師匠の方がそわそわしている。

 私が席を離れておしりを拭いたりおむつを替えたりしていると、師匠はさっきから皺の出来っぱなしな眉間を揉みつつ、呻いた。

 

「騒がしいもんだ」

「誰だってこんなもんだよ」

 

 私は知ってる。生まれ故郷の村で、丁度一年前、赤子を抱いたことがあるから。

 小さくてうるさくて、そのくせ手を握ってあげるだけで笑うんだ。

 まあ、最後には、燃えてしまったけど。

 全部全部、盗賊に──他人の悪意に破壊されてしまった。

 

「鍛冶の邪魔になるようなら私、しばらくあっちの家に住むよ。この子のご両親にはいいよって言われてるし」

「その間お前は、その赤子につきっきりか」

 

 そうなるけど。

 表情だけで答えると、師匠が重いため息を吐いた。今日の師匠は珍しく感情が豊かだ。

 

「別に、赤子の泣き叫びくらい、気にする歳でもないわな……」

 

 独り言なのか応えを求めているのかよくわからない声音で呟いて、師匠はもそもそと夕食を口に運び出す。

 私は赤子の──チェシャのおむつを替えながら、つい、声も無く笑ってしまった。

 つまり師匠が言いたいのは、私がこの赤子につきっきりになってしまって、迷宮鍛冶を学ぶ時間がなくなるのはどうなんだ……と言っているのだ。

 不器用な人だ。

 11か月前。丁度今くらいの冬の季節に、寒さから忍び込んだ工房だった。

 私はただの乞食で、炉の熱が欲しいだけだった。師匠は工房の隅でつい寝てしまった私を追い出しもせず、黙々と炉の前で槌を振るっていた。

 あの時の寡黙な背中は今でも目に焼き付いている。

 だから私は、ここにいる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さて。奇妙な三人の同棲生活はなんだかんだうまくいっていた。

 チェシャのご両親から必要な道具やお金はたんまりと貰っていたし、分からないことがあれば近所の方に聞くことだってできた。チェシャも健康そのもので、見る限り体が弱っている様子もない。うんちやおしっこやお腹がすいた時以外は、不思議そうな表情で私を見つめている。あんまり笑うことはないけど、そういう子なのかな。

 私はたぶん、うまくやっている。

 

「おい」

 

 昼下がり。手ぬぐいで顔の汗を拭く師匠がこちらを見て言った。

 ちなみに師匠は何か用事があっても『おい』しか言わない人なので、具体的にどんな用事があるのかはこっちで考える必要がある。無口で、無愛想な人なのだ。

 私はすぐに察して言い返した。

 

「放っておけないでしょ」

 

 むむっと師匠の口元が硬く引き結ばれた。どうやら意図が伝わっていることに驚いている様子。師匠の目線は私の隣、ベビーカーに向かっている。

 しっかりとした作りのベビーカーだ。多少揺らしたくらいでは中にいる赤ん坊はびくともしないだろう。この子用のベビーベッドもご両親から貰っているけど、部屋に独りで放置するのはなんだか気が引けた。

 

「そうだが……」

 

 師匠はなんだか不満な様子だ。

 私はじっと師匠を見つめる。──隣のチェシャが、いつも私を見つめるように。

 この子のとび色の瞳は私を見透かすような眼差しをする。奥深くにある何もかもを知りたがるような……そう、まるで、対話を求めているみたいに。

 チェシャの前だと嘘を吐けない気がした。

 嘘をつけるほど、私の心はまだ死んでいないと思いたかった。

 

「その子に、鍛冶の音は、うるさすぎるんじゃないのか」

 

 そしてチェシャを真似して見つめた先、師匠も珍しく(これは本当に珍しいこと)、ぽろっと本音を漏らしていた。

 ……なるほど。

 師匠は師匠なりに、この赤ん坊のことが気がかりで仕方ないらしい。

 

「よくわからないんだけど、こうしてると落ち着くみたい」

 

 これは本当のことだ。

 チェシャは、工房に居る時の方が落ち着いている。ベビーカーの角度からして師匠の背中を見ているわけでもないと思うし、いつもじーっと何かを見つめてばかりだけど、表情が和らいでいるのが分かる。

 もしかすると。

 もしかするとなんだけど、この子は迷宮鍛冶が好きなんじゃないのかな?

 

「みてみて。チェシャ」

 

 私は赤子の前に膝を着いて、両手にそれぞれ『オブジェクト』を掲げてみせた。

 

「こっちが貴眼鉱(アンモラサイト)。こっちは火陽石(レフェクライト)って言って……」

 

 それぞれの迷宮産鉱石が持つ特色をゆっくりと話す。──まあ、赤子に分かる話だとは思ってない。だとしても、なにか少しでも伝わればいいなと願って。

 私はたくさんのことを喋ったと思う。両手に持つ鉱石の効果も、どうやって発見されたかも、それぞれどうやって利用されているのか、どんな風に役に立っているのか……たくさんのことを私は話した。その間、ずっとチェシャは不思議そうな顔で私を見つめてばかりだった。

 だけど。

 

「──とにかくね、この『オブジェクト』っていうのは、人の手で上手に加工すれば色んな活用法があるんだよっ」

 

 私がつい息を荒げて早口に言った時だ。

 生後3か月にも満たない赤子が、そのとび色の瞳をゆっくりと細めて。

 

 

 えへ

 

 

 ………………笑った……。

 

「──笑った!」

 

 つい大声が出てしまう。その突然の声音にびっくりしたように赤子は表情を崩して、すぐさま口を大きく開けた。

 わんわんと泣く赤子を慌てつつ抱き上げながらも、私はつい零れ落ちる笑顔を隠すことができなかった。

 

「師匠、笑ったよ、この子! この子はひょっとすると、迷宮鍛冶が好きなのかも!」

「……」

 

 老人はぽりぽりと頭を掻いていた。困ったものを見るような、何とも言えない表情。

 

「ふん、変人に育つぞ」

 

 そうだけ言うと、師匠はまた目の前の仕事に取り掛かる。後には何も聞こえないみたいにただただ槌を振り上げる姿を、私はチェシャを抱えながら見つめ続けた。

 

「ねえチェシャ」

 

 かの老人の背中を見つめながら、私はようよう泣き止んだチェシャに呟く。──届いていなかったとしても。

 

「迷宮鍛冶はね、本当にすごい技術なんだよ」

 

 難しくて。複雑で。だけど出来上がる物は本当にすごくて。

 きっと神様だって殺せる。

 こんな私が学べていいのか分からなくなるくらい、凄いんだ。

 

「私でもできるかなあ」

 

 チェシャは何も言わない。当たり前だけど。

 いつも、いつも、私を不思議そうに見上げるだけだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 その日は天気もよかったので、チェシャを抱いて散歩に行った。

 近くの広場までいって、木枯らしに舞う枯れ葉をチェシャが不思議そうに見つめたり、突然湧きだした噴水の水に驚いてきゃあきゃあ声を上げるのを宥めていると、いつの間にか周りに人が集まっていた。──近隣に住む主婦の方々、見知った顔ばかりだった。

 私とチェシャのことは近隣ではすでに周知の事実だった。なにせ12歳の少女と赤子の組み合わせだ。一眼見れば分かるが、チェシャと私は似ていない。皆、チェシャの事が可愛くて仕方がないのと同時に、私の事を心配してくれている。

 色んな人が声をかけてくれて、チェシャを可愛がってくれる。

 うんち、おしっこ、お腹空いた以外で泣き喚かないチェシャを利発な子だと褒めて、そんな子の世話を任された私も褒められた。

 

「……私が、何かしたわけでもないのにね」

 

 帰り道。チェシャについそんな事を呟いた。チェシャはやはりいつも通りな、不思議そうな顔をして私を見つめている。

 

「おい」

 

 工房に戻ると珍しく師匠の方から声をかけてきた。いつもは鍛冶に集中している時間だというのに、炉に入れた火は放置されている。

 どうしたんだろう。

 そう思って近づくと、師匠は側にあった槌を私に差し出した。……というより、押し付けた。

 

「? なにこれ」

「……槌だ」

「はあ。まあ、そうだろうけど」

「やる」

「え、あ、うん。……うん?」

 

 意図がよくわからない。

 首を傾げる私に、眉間を少し掻いた老人は炉の温度を操作しだす。あれ、話終わり?

 まったく理解できないまま私は「ありがとう?」と頭を下げ、夕食の支度にかかる。野菜をざっくばらんに切ったスープを煮ていると、匂いにあてられたのか背中におぶっているチェシャがむーむーと唸った。チェシャ用のミルクを用意して与えつつ、師匠に「夕飯できてるからね」と伝えておく。

 師匠は鍛冶に集中している時は食事を取らないから、後で勝手に食べるだろう。

 私も食事を終えて、チェシャをぬるま湯で洗ってやる。ちょっとした悪戯心で赤子の小さな鼻をつつくと、チェシャはどこかむすっとした顔になった。可愛い。

 さっぱりしたチェシャを連れて、二階に上がる。チェシャをベビーベッドに寝かしつけ、眠るまで子守唄を歌ってあげた。そのうち静かに寝息を立てたので、自身もベッドに寝転ぶ。持ち上げた片手で、さっき師匠から貰った槌をじっと観察した。

 一目見てわかる。

 これは職人向けの、よく出来た槌だ。握り皮の巻き具合も、その質も、打点と柄のバランスも良い。

 

「けっこうするんじゃないのかな、これ……」

 

 こういう職人向けの道具というのは総じて高いものだ。前に師匠に連れられて工具屋に行ったときは、その値札の数字に目を瞠ったものだ。──あれ、そういえば、あの時見かけた槌とこの槌、そっくりじゃないか?

 

「……」

 

 記憶をよみがえらせて、私は考え込んだ。

 師匠からの突然のプレゼント。しかもそれは私が以前工具屋で師匠と見つけた槌と同じもので、多分あの時の槌だ。でも、だとすると、なぜ今?

 今日って何か特別な日…………って、あ。

 

「あそっか。私の誕生日か」

 

 この工房に居候しだしてもう11か月にもなる。季節はあれから一巡して、冬がまた来ていた。

 

「あれから、一年経ったんだ」

 

 私はもう13歳になってしまった。あの時の惨禍から一年も経過していたことに、戸惑いを覚えた。

 きっとこれからも、こうやって無意味に歳を重ねるんだろう。

 一日を、一秒を、何度も何度も意味もなく呼吸を繰り返していく。

 

「……」

 

 あの人なりに気を遣ってくれている。その気持ちを拒絶することはできなかった。小さく鳴る心臓の音を聞きながら、私は槌を胸に抱いて目を閉じる。

 ──私の故郷が盗賊に壊滅させられてから、もう一年が経つ。

 いきなり私を叩き起こした父は、恐慌をきたした表情のまま私をクローゼットの奥に隠すと、そのまま外へ飛び出していった。クローゼットの対面に丁度窓があって、隙間越しに見つめた窓から何もかもが見えてしまった。

 家が燃えていた。人が殺されていた。家畜が無為に捌かれて、金目の物は略奪されていた。

 父は死んだ。

 母も死んだ。

 隣家の赤子は、盗賊たちの遊びに付き合わされて、泣き叫びながら燃える家屋に投げ捨てられた。

 私は何もかもを失って、気が付いたらここにいる。

 ──うぐ、えぐ、という嗚咽が聞こえた。

 

「チェシャ?」

 

 ぱちりと目を開ける。見ればチェシャが泣いていた。堪えるような泣き方だった。

 私は考えることもなく勝手に体を動かしている。

 

「どうしたのかな。おねしょかな。それともお腹がすいたのかな。……おっと、おねしょの方か」

 

 いつもの段取りでおむつを替えながら、ふと不思議に思った。

 今日のこの子は随分大人しい。

 いつもはおねしょだろうとうんちだろうと何だろうと、とにかく自分の身に異変が起きれば泣き叫んでばかりなのに。──今日は我慢をしている、みたいに見える。

 つい尋ねてしまった。

 

「チェシャ。君はなにを考えているのかな」

 

 私にはわからない。

 いつも赤子のことで思い出すのは、燃える家屋に物みたいにして放り投げられた、あの時のこと。

 ──生まれたばかりだった。

 生まれて、村の誰もが祝福していた。生きていること自体を奇跡だとでも言いたげな世界があって。

 なのにどうして、燃え尽きることしかできなかったんだろう。

 

「私は何をできるのかな」

 

 もしも私がまともな人間なら……。

 そして例えば、この工房に盗人が入ってきて、君を連れ去ろうとでもしたら。

 私は、君を、守らなければならないという使命感に駆られるのかな。

 母性本能みたいなものが私を衝き動かすのだろうか。

 

「もう寝よっか」

 

 んー、とチェシャが口を一文字に伸ばした。ついくすくすと笑う。この子は、表情が豊かで、言いたいことはぜんぶ顔で示してるみたいで。

 きっといい子なんだろう。

 私はそっとチェシャをベビーベッドに寝かしつけて、目を閉じた。

 

 

 ◇

 

 

 男たちの下卑た笑い声。

 木が、炎で爆ぜる音。

 

 ────────────!!!!!!!

 お母さんのお腹が裂ける時の悲鳴。

 

 ────────────!!!!!!!

 お父さんの、もう、言葉ではない絶叫。

 

 全部覚えてるよ。

 目をつぶしたい。

 耳を壊したい。

 感覚もいらない。

 だけど心だけがむき出しの知覚で私の全てを刻み込んでる。

 怒りと憎しみ。絶望。抗いようのない現実。

 燃える肉。

 捌かれる肉。

 まずい肉。

 蛆が、湧くんだね、人にも。

 理解できない。

 理解できなかった。

 どうして人はどうしてあんな簡単に生まれたばかりの子供をどうしてどうして?

 私はすべてをクローゼットの奥から見つめている。

 

 

 ◇

 

 

 夢を、見てた。

 嫌な夢。昔の出来事。

 

 

 

 ああうー。あー、うー。

 

 

 

 だけど目の前の、この赤ん坊にはそんなこと関係ないから。

 夜。窓から差し込む月明りがぼんやりと室内を照らしている。

 私はすぐに体を起こした。眠いだとか、体が気怠いだとか、そんな言葉は思い浮かんでもすぐに消えていた。

 もうこの頃になると泣き声でチェシャが何を求めているのかが分かる。

 

「すぐお腹が空くんだね」

 

 ベビーベッドから抱き上げて背負い、階段を下りる。深夜を指す時計も気にせず私は台所で火を熾し、赤子用のミルクを温めた。

 温度を慎重に確かめてから哺乳瓶に注ぐ。その間も、えぐ、えぐ、と辛そうな赤子を宥めすかし、ようやく完成したミルクをそっとチェシャに分け与えた。

 口に哺乳瓶の先端を含んだ瞬間、チェシャはすぐに大人しくなった。瞳に活気が戻る。私は小さくため息を吐いて、つい欠伸をする。

 私の欠伸を見てか、哺乳瓶から口を離さないまま、チェシャの表情が変わった。

 まるで心配しているみたい。なにを? まさか私? ──まさか。

 

「気にしなくていいよ」

 

 眠れないのはいつもの事だから。

 どれだけ経とうとあの日の、あの時の光景が頭から離れない。眠りに落ちるたびに思い起こしている。

 特に最近は酷いかもしれない。

 きっと睡眠障害なんだろう。

 赤子を──チェシャを引き取っているからだろうか。より強烈に、思いだす光景があった。

 

 

 

 男たちが燃える家に投げ入れたんだ。

 まだ生まれて一年も経ってなかったのにね。

 

 

 

 いつもそこで目を覚ます。どうしようもない悪意に、息を詰まらせて。

 けど、そんなことは、本当に本当に目の前の赤子には関係ないのだ。

 沢山ミルクを飲んでげっぷをした赤ん坊は、あーうー、と言いながら両腕をこちらに伸ばした。いつもの私を見つめる、不思議そうな表情をして。

 私はつい笑い声を漏らしてしまった。

 

「仕方ない子」

 

 何を求めているかはなんとなく分かる。

 ──暇だから、遊んで。

 とでも言いたいのだ。

 

「眠れないなら、少し散歩でもしようか」

 

 不思議だった。

 いつも私を、きょとんとした顔で見つめてばかりのチェシャが、今日だけは私を心配そうに見上げている気がした。

 ──そしてこんな時だけ、いつもより意思が伝わっている気がした。

 家の外に出る。

 深夜だ。十分に暖かい恰好をしていても、少し肌寒い。たくさんの布でくるんだチェシャはいつもより身動きが取れなさそうで、どこか不満げだ。ぶー、ぶー、と唇を尖らせているような? 

 こんな夜中に出歩いて危機意識が足りないだとか師匠には叱られてしまうかもしれないが、近所の広場に行くくらいなら、そこまで危ないとも思えなかった。

 ううん。

 どうだってよかったのかもしれない。

 私は常にナイフを携行していたから。

 

「ほらみて」

 

 広場の噴水。深夜ということもあってか水はちろちろと排水溝を流れていくだけだけど、むしろその静けさが心地よかった。

 知覚にあった椅子に座って、抱きかかえたチェシャに夜空を見せる。

 そこには満点の星々がある。何者にも侵されない世界が。

 

「チェシャ」

 

 私は、腕の中の赤子に囁くようにして、自分の心の内にも問いかけていた。

 

「ねえ、チェシャ」

 

 私はどうして生きているのかな。

 

「きっと君はすぐに大きくなるんだろうね」

 

 きっとなんにでもなれたんだろう。

 

「君の目の前にはどんな苦難があるのかな。君を憎む人がいて、だけど愛してくれる人もいるといいね」

 

 私は……ハサキ・ノバクはもう終わっているけど、君は違うから。

 そう、微笑みながら思った時。

 

 

 

 う? あー!

 

 

 

 チェシャが喋った、気がした。

 

「チェシャ?」

「うぇー。あー?」

 

 その時だ。

 初めて私は、この子と──チェシャと、言葉を交わした気がしたんだ。そう。この子が、自分の名前がなんなのか、理解した気がしたんだ。

 

「そう。君はチェシャだよ」

 

 うぇーうあー? あー……。

 

「すごいな。ひょっとしたらチェシャは私の言葉がわかるのかな? だとしたら君は天才だ」

 

 うー……。などとこの子は唸っている。唸ってるのかな? むいむいと唇を動かして何かを喋ろうとしてる、のかな。

 会話ではないんだろう。チェシャはまだぼんやりとした自意識しかなくて、ただ、私の言葉や態度に反応しているだけだ。

 私はきっと私に言葉を返している。

 それでも、腕の中にある確かな温もりだけが、私の現実だった。言葉は止まらなかった。

 

「眠れないのは前からなんだ。チェシャのせいじゃないんだよ。これは私の問題だから、チェシャが悩む必要はないんだ」

 

 またチェシャは不思議そうな顔をする。ふっくらした頬を指の背で撫でてやると、くすぐったそうに赤子は目を細めた。

 

「君にはたくさんの未来があるよ。いくらでも選べるんだ」

 

 ねえ、チェシャ。

 君がこれからたくさんの苦痛を感じたとして、それでも忘れてほしくないことがあるよ。

 

「君はなんにでもなれる。

 愛されて。生まれてほしいって祈られて。

 だからここにいる──でもね」

 

 世の中、わからないことだらけだね。

 死んだ親のことも。

 君のように、離れていく親も。

 

「だとしても、今息をしているのは、チェシャなんだよ。誰に許しを得たわけでもないんだ。君が、君だから、それだけなんだ」

 

 生に、誰の許可も、要らない。要らないはずだった。

 死は個人で完結すべきだった。他人にとって、ましてや、そう、……燃え死ぬ理由なんかなかったんだ。

 私は想像する。

 生まれ落ちて愛されて母親の暖かさに包まれて。なのに突然燃える家屋に放り投げられ、何も理解できないまま燃え尽きる痛みに全てを曝け出すほかなかった、赤ちゃんの気持ちを。

 痛みも、いつかは過去の出来事だったと思い返せる日が来るのかな。

 私のかつての望み。幸福は。家畜の濃密なにおいと何もないけど何もないことが美しかった村での日々と、貧しさの中にも日々の喜びがあったあの時間は……何もかも破壊されてしまって、もうどうしようもないけれど。

 それでも、懐かしい出来事だと微かに笑う自分になれるだろうか。

 ……ねえチェシャ。

 君がもっと大きくなって、いろんな言葉を喋れるようになって、その時になったら私の話を聞いてくれるかな。

 私の故郷であったことを。

 君に会うまでにあったことを。

 

「君をいつまで支えられるか、どれだけ側にいられるか、自信はないけど」

 

 世に神なんていない。

 私の人生は全てただ在るように、在る。

 だとしても。

 これはチェシャ・バイストィアの物語だろう。

 これから始まる君の物語が、せめて健やかに終われたならいい。私ができることはせいぜいその程度を祈るだけ。

 救いなどなくとも。

 誰にも必要とされなかったとしても。

 

「君がいずれ自分の足で立って、行く先を自分で決められるようになったら……」

 

 せめて祈ろう。

 チェシャ・バイストィア。

 

「そこから先は君だけの世界だよ」

 

 何を望もうが、何を得ようが、それは全て君だけのものだ。

 だから恐れず泣き喚いて、幾らでも望めばいい。

 苦痛も後悔も幸福もすべて勝ち得ればいい。

 君の世界は君のためだけにある。

 

 

 

 私はいつまでも輝き続ける星々をチェシャと共に見つめて、帰路へと腰を上げる。

 私たちの家へ、白い息を吐きながら、二人で帰る。

 

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