器仗神殺の剣   作:てりのとりやき

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そこに坂があり、滑落していくうちに肉塊が残る

 気がついたら工房の床にぶっ倒れていた。

 

「……。…………」

 

 時刻は早朝。窓から差し込む日差しは眩い。

 体が重い。投げ出した四肢すべてに鉄でも仕込まれたようだ。ピクリとも動かない手、指、足。

 心臓の鼓動すら止まっているかもしれない。

 女――ハサキはただぼんやりと工房の天井を眺め続ける。そして思い出す。

 

「……」

 

 確か……面倒な仕事を引き受けたんだった。

 依頼主はまだ若い少年で、泣き腫らしたような瞳で頭を下げた。曰く『家族を殺した迷宮の怪物を殺せるだけの武器を』と。

 碌な支払能力もなさそうな顧客だった。

 なのにどうして引き受ける気になったのだろう。

 

(気が付いたら三徹してる)

 

 ハサキはたまに自分が自分で分からなくなる時がある。この三日間がまさにそうだった。突然、スイッチが入ったように他の何も思い浮かばなくなって、作りたい武器のことだけが脳内を占める。肉体は産声を上げんとしている武器のためだけに動き、食事どころか睡眠すら必要でなくなってしまう。

 そうだった。

 自分は、三徹して仕事をこなし、気絶していたのだ。

 なぜそこまでする? ……分からない。

 だが出来上がった武器がある。

 首を巡らし、壁に立てかけられた『それ』を見つめる。

 

(まあ、良く出来たほう)

 

 一本の槍だった。

 なんの特徴もないように見える鉄製の槍。

 使用限度はせいぜい10回も突き刺せればいい方だろう。それ以上の使用は確実に槍が壊れる。ただし、槍の柄に使われた製鉄は一定以上の衝撃を与えると指向性をもった爆発を起こす――この場合は刃先とは反対方向になるよう調整した。

 つまりは、何かしらを突き刺す際、尋常でない加速を生む槍だ。

 この槍に使われた製鉄こそ、《スレイヴイレスシリーズ》に名を連ねる共晶合金欠砲鉄(アルカンチュア)。作り手の微細な調整によって指向性爆発の拡散範囲、威力を自由自在に変化させることが可能な構造的爆薬合金。僅か50グラムの欠砲鉄が生む指向性爆発は厚さ1.3㎜の鉄板30枚に容易く風穴を開ける。これは人体5つ分を一撃で粉砕するに等しい。希少な迷宮産鉱石を複数組み合わせて作りだされるこの合金をハサキは定期的に『王国』へ卸していた。攻城戦の切り札として、各国の城塞を破壊しているらしい。

 そんな代物だけで構成された槍だ。

 下手に扱えば使用者の肩は粉砕されるだろう。もしかするともう二度と使い物にならないかもしれない。

 けれど、それすら厭わない者が振るえば、文字通り無双の貫通力を誇る。

 憎悪や復讐心を持つ者が振るうには十分な傑物。

 あの少年は振るうかな。

 ハサキは考えようとして……やめた。何より三日間の徹夜作業はハサキに思考の一辺すら許さないほどの疲労を与えていた。

 それこそ、呼吸すら億劫になるほど。

 と。

 

「…………おはよう」

 

 ハサキの視界にひょっこりと現れる少女の顔。

 こちらを見下ろすとび色の瞳をハサキは13年前から知っていた。

 チェシャ。チェシャ・バイストィア。

 最近『探索者』になったばかりの、13歳の少女。

 チェシャが、仰向けに転がるハサキの頭上に膝を着いて、静かな表情をしていた。

 

「……、」

 

 おはよう、と。

 掠れすぎた声で呟いた気がする。嗄れた声音では届かなかったかもしれないほど僅かな囁きだったが、こちらを見下ろす瞳は少しだけ満足気に緩む。

 

「ハサキ、お仕事終わった?」

 

 頷いた。

 三日間ぶっ通しの鍛冶をこなすのは随分久しぶりな気もした。おかげで鍛冶中の記憶がだいぶ欠落している。

 

「はい、お水」

 

 チェシャはずっと用意していたのだろう。コップに注いだ水を手に持っている。それを受取ろうとしても、腕が持ち上がらなかった。

 飲めないならまあいいか。なんて気持ちでコップを見つめていると、チェシャの表情がまた緩む。甘えたがりな子供でも見つけたかのように、『仕方ないなあ』と言わんばかりに。

 頭上に位置する少女の手がハサキの頭をそっと持ち上げ、できた隙間に両膝が差し込まれた。

 硬いのにどこか柔軟な小ぶりの膝、それと弾力性に富んだ太腿の感触がこそばゆい。

 

「ハサキはお水も一人で飲めないのね。私がいないとなんにもできないんだから」

「……」

 

 傾いだ口元へとチェシャの片手が寄る。触れたコップの縁から水が流し込まれ、ハサキは大人しくそれを飲んだ。

 冷涼な感覚が喉に蔓延るひび割れを潤していく錯覚。ようやく喋れるところまで回復した喉で、ハサキは未だ膝枕をしっぱなしの少女を見上げた。

 

「チェシャ……怒ってる?」

 

 長年の付き合いだ。なんならハサキはチェシャのおむつを替えた事だって何度もある。

 相手のことを何でも分かってしまう間柄だと、普段使わないような言葉を聞くだけで、その機微が分かるときもある。

 

「……」

「チェシャ?」

 

 少女は問いかけを無視して言った。

 

「私はね」

 

 言いつつ、少女の手がハサキの額に伸びる。柔らかな指の腹。女の、銀髪に隠れた浅黒の額をすべる。

 結果的にチェシャの顔が隠れてしまう。

 

「ハサキがお仕事してる時の背中が好きよ。ずっと見ていたいなって思うの。だから、ハサキのお仕事を邪魔できないわ」

 

 どうやら、三徹までして仕事に打ち込んだことを詰られているらしい。

 

「でもね。ハサキは私にとってハサキなのよ」

「?」

「この世にハサキは一人しかいないの」

 

 額を撫でていた指がゆっくりと滑り落ち、耳朶へと向かう。輪郭をなぞり、耳たぶをそっと突いたかと思うと、急に耳を摘ままれた。ちゃんと機能しているか試しているみたいに。

 

「なんだか、ごめん」

「無理しすぎてはだめなのよ。死ぬわ、ハサキ」

 

 ……死ぬはずがない。この体では。決して。

 そう言おうとして、辞めた。

 変に勘繰られる必要のないことだ。これは(・・・)、いつまでも心臓と共に隠し続ければいい。

 

「とりあえずお風呂ね」

 

 チェシャの提案にハサキも頷いた。三日間炉の前に居続けた体をとりあえず清めたい。

 とはいえハサキは体を起こすこともままならないほどに疲弊していた。風呂に入りたいのはやまやまだが、鈍重に沈み切った四肢が未だに復活しない。

 そういうわけで、チェシャはハサキを風呂場まで引っ張っていかなければならなかった。

 

「ふんぬー!」

「チェシャ、そんな無理しなくていいよ」

「む、無理なんかしてない……! ハサキをお風呂にいれるのは私の仕事なんだからー!」

「……」

 

 使命感? に燃えるチェシャに片腕を引っ張られる中、ハサキはもうひと眠りしようかと考えていた。そうすれば体力も戻り、起き上がることも容易だろう。――そんな時だ。

 

「あら。ハサキ様、お仕事終わったのですね」

 

 二階から少女が下りてくる。年の頃は18。腰を越すほどに長い黒髪が特徴的な、柔らかい微笑みをした少女は、名をサワグタリと呼ぶ。へんてこなその偽名は、ここ迷宮街領主の末娘がお忍びで街中に繰り出すとき名乗ることで有名なものだった。

 サワグタリは顔を真っ赤にしてハサキを引っ張ろうとするチェシャを見、察したらしい。側まで近寄り、ハサキの上体を起こすと、

 

「よっこいせ」

 

 などという声と共にハサキを肩に担ぎ立ち上がった。

 されるがままのハサキが感じた驚きを、チェシャが代弁するかのように呟く。

 

「あんた、見た目に似合わず力持ちね……」

「秘密多き女なのですよ」

 

 まったくもってその通りだ。

 サワグタリに担がれたまま風呂場へと連れ込まれたハサキはその場で服を全て剥かれ、準備よく湧いていた湯舟の隣に座らさせられる(たぶん準備されていたんだろう)。サワグタリは朝食の準備をすると言ってその場を後にしたので、ハサキの体を隅から隅までチェシャが綺麗にした。のろのろとハサキが湯舟に浸かると、両手にシャンプーをよそったチェシャが言う。

 

「ハサキ、頭を洗うから首出して」

「んー」

 

 浴槽の縁に頭を差し出すよう促され、言われた通りにするハサキ。チェシャが女の頭に湯をかける。泡立てたシャンプーで汚れを落としていく指の感触が心地よくて、ハサキは欠伸してしまう。チェシャがくすくす笑って泡を流す。

 

「ハサキ、歯磨きしなさい」

「んー。あー。あー……」

「ああっ! ハサキがやる気ないない状態になってる!」

 

 目の前に差し出された歯ブラシを見て、ハサキは露骨に面倒くさそうな顔をした。三日連続作業明けで、自発的に体を動かすことが気怠くて仕方がないのだ。歯磨きすら拒否され、チェシャは困ったように歯ブラシと女を見やる。

 そして、何度めかの逡巡の後に。

 

「は、ハサキ、私が歯磨きしたげよっか」

 

 赤い顔でそんな提案をした。

 

「歯磨き」

「そ、そう。私がしてあげる!」

「チェシャが」

「うん」

「……」

「……だめ?」

 

 うーん、とハサキは意味もなく悩む素振りをした。何も考えていなかったが、目の前で頬を赤らめる少女が普段見せないような甘えの混じった上目遣いをするのが少し楽しい。

 ややあってから頷いた。

 

「いいよ。して」

「ほ、本当? ……ハサキは本当に私がいないとなんにもできないのね?」

「ん」

 

 また頷いて、首を僅かに伸ばす。女の従順な仕草に少女は色々と限界を迎えたらしい。火山でも噴火したみたいな真っ赤な顔をこわごわと近寄せて、震える片手と共に歯磨きを構える。

 

「は、はい、いーってして」

「いー」

 

 しゃかしゃかしゃか。

 少女の指がハサキの唇にふっと触れ、奥の歯も磨けるように引っ張る。わ、わあ、というなんだかよくわからない悲鳴をチェシャが上げた。

 

「……はい、あーってして」

「あー」

 

 しゅっこしゅっこ。

 自分の意思でないものを口の中に突っ込まれてもハサキは微動だにしない。鼻血でも出しそうな目つきでチェシャは更に言った。

 

「べ、べーってして?」

「んべー」

「……」

「んぎゅ」

 

 いきなり舌を摘ままれた。言われた通りにしただけなのに。

 というか、これは何をされてるの。

 

「ほれははにほはれへるの」

「……」

 

 さっきからチェシャがこちらを見つめる目つきが妖しい……。舌を摘まんだまま興奮した眼差しをして、一体何を。

 

「あのー、さっきから何をしてるんです?」

「――はっ」

 

 風呂場に顔を出したサワグタリの訝しむ声で、チェシャの目つきが正気に戻った。

 問いかけの主はもちろん、二人の様子を見に来たサワグタリだ。浴槽の縁から顔を出すハサキと、そのハサキの舌を摘まんだままでいるチェシャ。二人はもちろん全裸だったし、少女の顔は湯気でも出していそうなくらい赤い。

 まあ冷静にならなくてもおかしいことしてるなとハサキは思った。

 サワグタリが見せる疑念の眼差しは当然ながら濃い。

 

「チェシャちゃん、何をしてるんですか?」

「……ハサキのお世話よ。私はハサキのお世話をする義務があるのよ」

「そ、そうですか……」

「たまによく世話されてる」

「ずいぶん深い関係なんですね~……」

 

 サワグタリの微笑みも引きつっていた。いつも鉄面皮みたいに笑ってばかりだというのに。

 ふと、ハサキは気付く。

 そういえばサワグタリは今、工房内を自由に移動可能なのか。

 

「どうせだしサワグタリも入ったら」

「えっ!」

 

 露骨に嫌そうな顔をするチェシャに対し、サワグタリは案外簡単に「いいですね」と頷いた。

 今さらだが、ハサキの自宅兼工房にある浴槽は相当に大きい。地下水脈から簡単に水を溜められることを利用して、ハサキが改造したのだ。幼いころからチェシャの世話をしているハサキには狭い風呂場は不便だった。

 そういうわけで長すぎる黒髪を後頭部で団子にまとめた少女が、一糸まとわぬ姿で湯舟に身を下ろす。

 

「朝風呂もいいものですね」

 

 実にくつろいだ様子で表情を緩めるサワグタリに、同じように湯舟に浸かるチェシャがむっとした顔をする。少女はハサキに向かってばしゃばしゃと湯を浴びせた。

 

「ハサキはなんでサワグタリをいつも誘うの? せっかく二人きりだったのに!」

「あんまり工房をうろちょろされても困る」

 

 別に嘘ではない。

 事実ハサキはサワグタリに工房内を勝手に動かれては困るのだ。

 単純明快な理由に、チェシャは勝手に納得したらしい。むすっとしたままハサキの顔に水鉄砲を浴びせる。

 ハサキはパチパチ瞬きしつつ、二人に再度問うた。

 

「二人とも、この三日間で地下室には入ってない?」

「……なんでそんなこと気にするの?」

「危ないから。ただそれだけ」

 

 これも嘘ではない。

 危険な『オブジェクト』を保管しているのは事実だから。

 

「そういえば、ハサキ様っていっつも地下室に入るなーって言いますよね」

 

 なんてことのない雑談でも話すようにサワグタリがそう言った。チェシャは微妙そうな顔のまま沈黙している。ハサキはもとより相槌すらほとんどしないから、風呂場には水面が揺れる音だけが響く。

 微笑みのままサワグタリが続ける。

 

「あれ、何でですか?」

 

 サワグタリの微笑みは本当に鉄面皮のようだとハサキは思う。何をしても動くことのない巨岩のよう。

 ああでも、自分だって同じか。

 裸を曝け出しあう中で、自分自身を晒しているのはチェシャだけなのだろう。

 

「…………前にも言ったと思うけど、あそこには危険な物が沢山あるんだ」

「私、そういう危険な物、見てみたいです!」

 

 きらきらした瞳。ハサキは首を横に振る。

 

「駄目だ」

「即答……」

 

 しょんぼりとサワグタリが肩を落とす。きめ細かな白い肌が覆う、凹凸の少ない肩。自分の筋ばって硬い両肩とは違う。

 手を伸ばして、まだ二十にもなっていないサワグタリの頬に触れた。水滴に包まれた黒い指がサワグタリの血色がよくなっている頬を押さえる。内に秘めた熱を感じさせるように暖かな感触。距離感の近さにか、サワグタリの頬が薔薇色に染まった。

 

「せっかく綺麗な顔をしてるんだ。焼け爛れたら大変だろ」

「ハサキ様……」

「こ、コラーッ! なに二人でいい感じの雰囲気出してるのよー!」

 

 チェシャが盛大な水しぶきを上げた。暴れる両腕が浴槽から湯水を零れ落す。風船みたいに弾ける静寂。二人の間に割って入った少女は背筋を逸らし、ハサキを真っすぐに見つめる。

 

「ハサキ、ハサキ! 私にもさっきのやって!」

「いいけど、なんで」

「なんでもいいから!」

 

 急かされて、ハサキはよくわからないまま少女の両頬に手を添えた。覗き込むように見つめたとび色の瞳は水場でか他の理由でか潤んでいる。

 

「チェシャ、怒ると可愛い顔が台無しだよ」

 

 思ったことをそのまま言葉にしたのに、チェシャはぶすっとしたままだった。

 

「……なんか違う。なんかサワグタリに言った時の方が心こもってた」

「そんなことないけどなあ」

「そんなことあるー!」

 

 ムキになって暴れるチェシャと、くすくす笑うサワグタリ。いつものように表情が硬い自分。

 最近の日常。

 いつも通りの関係。

 ハサキはこれ(・・)を自分がどう感じているのか、そこまで深く考えたことがない。

 けれど心地良いものであるのは確かだった。

 

 

 ◇

 

 

 風呂上り。目の前でふんふんと鼻歌を鳴らすチェシャは上機嫌だ。鏡台に映る少女の頬は緩みっぱなしだから、それくらいハサキでもわかる。

 

「今日はどんな感じにしたい?」

「ハサキにまかせるわ」

「なるほど」

 

 二人で風呂に入ったあと、チェシャの髪を梳いてやるのはハサキの仕事だった。乾かしたセミロングの髪をその日の気分でいじると、「まあまあね。でもかっこいいわ」とか「今日はかわいい感じがするわ!」とチェシャが得意げに評する時間。この時間をきっとチェシャは好いているのだろう。少女が鼻歌を歌うときはいつもそうだから。

 

「チェシャ」

 

 少女の髪を編み込みながらハサキは聴いた。

 

「なあに?」

「サワグタリは本当に地下室へ入ってない?」

 

 自分でもしつこく聞いていると思う。

 ハサキ自身そう感じるのだから、チェシャが見せた戸惑いはもっと大きな感情の揺れ幅からだろう。あどけなさの残る丸い瞳が揺れる。

 

「え、ええ。私もずっと一緒にいたわけじゃないけど……ハサキがお仕事に集中してる間、私この家にずっと居たから、たぶん……」

 

 そっか。

 ならいい。

 ハサキの瞳から興味の色が失せる。

 

「ね、ねえハサキ」

 

 しかし、黄金色の虹彩を鏡越しに見つめる少女の視線には、未だに戸惑いが消えていなかった。

 

「あの地下室には何があるの?」

 

 その言葉は相応の勇気が要るものだったのだろう。

 チェシャが生まれてからの13年をハサキは共に過ごしてきた。二人は決して家族ではなかったし、あくまで隣家同士以上の仲を紡ぐことはなかった。ハサキが思うに、チェシャにとって自分とは年の離れた姉のようなものであって、――自分にとってチェシャはただただ大事にすべき隣人だ。

 だから、チェシャの言葉は、ハサキとの関係を大きく変える可能性すら孕んでいる。それを分かっているから少女の瞳にはいまや怯えがあった。

 壊したくないと思われている。

 けれどそれ以上に、チェシャは知りたいと思っている。

 決して他人を踏み入らせることのない地下室に、そこにハサキ・ノバク=槌典(スレイヴイレス)の何があるのか。

 

「………………」

「………………」

 

 沈黙は、長い。

 

 ハサキはチェシャの求めに応じるつもりだった。

 

「見せちゃいけないものがある」

「――」

 

 息を呑む音。工房には誰もいないかのように無音が占める。

 師である老人が死んでからずっと、この工房を支配していた音のない世界。サワグタリは今どこで何をしているのだろう。――二階で掃除でもしているんだったか。

 

「ハサキは」

 

 いつもそうだったように、静寂を破るのはチェシャからだった。

 

「ハサキはどうして、そんなにサワグタリを側に置こうとするの? どうしてサワグタリが何をしてたかそんなに気にするの?」

「……」

 

 あなたの行動はこのところおかしいと、そう言われている。ハサキの表情はびくりとも揺れない。

 

「それは……地下室へ近づけさせないため?」

「ああ」

「! なんで、そんな……そんなに、隠すの?」 

 

 祈るような声音に聞こえた。何を祈っているのかわからないけれど、そこまでは理解できた。

 

「あそこには危険な物がある。だから近づいちゃいけない」

 

 ――鏡に映る自分の表情をちらと見る。

 浅く焼けたように黒い肌。金色の瞳は虚ろな穴でも開いているみたいに暗い。対照的に悲しみを湛えているチェシャの眼差しが生気の塊に思えて。

 強張った顔。

 

 

 

 死人が。

 

 

 

 何故、息をしているんだろう……。

 ハサキの頭に自罰と自嘲が浮かぶ。

 

「そ、っか」

「……」

 

 チェシャが俯く。ハサキの手は未だに動いていた。少女をより可憐にする髪型。ハサキが13年間で覚えたこと。編み込みを加えたハーフアップが完成して、チェシャは鏡を見つめる。

 その奥に潜む、銀と金と黒の怪物をどこか遠い存在のように見つめながら。

 

「うん。ハサキが言うんだもの、きっとそうなんだわ」

 

 自分を納得させるためだけの言葉だった。

 

「ハサキ。あなたを信じる事は、得意中の得意なのよ」

「ありがとう。いろいろ、ごめんね」

 

 まだ昼すら下っていない。

 だというのに、工房の中は暗く、冷え込んでいる。

 

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