「この工房を継いでしばらくした頃だった」
わざわざもぎ取った心臓はすぐさま収まるべき場所で再生する。引き裂いた肉も骨も筋も脂肪も簡単に傷を埋め直す。
不老不死となってもう6年が経つ。
おかげでハサキの容姿は20の頃と寸分違わない。
自身の肉体を変質させた女は、ぼんやりとそんな自分自身の様を眺めた。
「どうしても大量の血液が鍛冶に必要な場面があったんだ。豚なんかの血で試したけど駄目だった。だから、もしかしたら、人の血液ならうまくいくんじゃないかって思って……」
――生きている理由がわからなかった。自分を壊してはいけない理由も。
それでも死ぬことを選べない愚図だから、まだ息をしている。
誰に許された生でもない。父と母は無意味に死んだ。
この身を苦痛と共に作り上げた者達はもうどこにもいない。
「人の血液なんて大量に手に入るものじゃない。
すべては塵になるより先に、何らかの養分になる。自分にとっての大切な者が死後も価値を保てるわけではない。
蟻がたかる人肉。
炭になった父。
べったりと臓腑をまき散らした母。
――あの時思ったこと。
無意味に突き刺された包丁。
飢えはかくも無惨な解体作業を許した。母の骨は軽かった。
――あの時、思った、こと。
「『いつか、肉を切っても刃こぼれしない包丁を作ろう』。ずっとそんなことだけ考えてた」
冷えた死肉の味に何を思ったか?
『芋虫に爪楊枝を突き刺したらきっとあんな感じ』。
青い空。蝿達の咆哮。
気付けば知らない街で乞食をしていた。凍えるような冬。炉の熱に惹かれた。
工房にはびこる熱。
炎。
製鉄。
鍛冶。
――槌を振るえ。師である老人は常にそう言った。
槌を振るえば何もかも忘れられるから。
事実その通りだった。肩を回し、腕を上げ、下ろす。そんな単純な動作がハサキの頭にこびりついて離れない疑問を、少なくとも鍛冶の時間だけは問わずに済んだ。
「ハサ、き……」
チェシャの、震えた声音。少女が胸元で組む両手。祈るような所作で、少女は続ける。
「ハサキは、ハサキはね」
「……」
「ハサキはすごい人なのよ。みんな、ハサキを褒めるの。すごいって」
きっと励まそうとしてくれている。
こんなに怯えているのに。眼前の、四肢欠損し廃人となっても尚死ぬことを許されない男を見て、そうまでさせたハサキという女の暗がりに触れて、――それでも必死になって救おうとしてくれる。
チェシャは本当にいい子だった。
「ハサキは。ハサキは、だって、私の……!」
だが、ハサキはいつも考えてばかりなのだ。
12歳のあの日からずっと。
「お腹が空いてて、母親の死肉を食べたんだ」
「――」
親の肉すら胃に収めて、そうまでして何故生きようとするんだろう。
何のために生まれたの。
「――ハサキはッ!! ハサキは私の頭撫でてくれた! ハサキは私が帰ったら必ず居てくれた!」
「いつも死にたいって思う」
「ハサキはすごいわ! ハサキは世界一の鍛治師よ!」
「私は何も殺せない」
「そんなことしなくていい!!」
「何もできない。私は殺せなかった。私には何もできなかった。それは私が弱いから。私が何一つ壊せない、殺せない、弱い人間だから」
坂を転がるだけだ。
「そんなに弱いくせしてまだ求めてる」
「何、を。何を……求めているの……?」
答えを。
疑問に対する絶対的な回答を。
「なぜ……母さんは、喉をひき潰すような絶叫を上げながら、死んだんだろう」
どうして生まれたばかりだった隣家の赤子は燃える家に放り込まれたのか。
ただ『そこ』に生まれたという事実は、生きる事を許されないほどの罪だったの?
誰もが祝福していたのに。
自分を守る術のない弱者を、喜んで迎え入れたのに。
「なぜ父は死ぬことが分かっていても、怒り狂えた?」
「……」
「ずっとわからない。私はただ鉄を叩いてばかりだったから、考えても答えが出ないんだ」
ハサキは理解している。
自分が抱える苦悩は、道端に吐き捨てられる唾よりもどこにだって転がっているものだと。当人の不幸を推し量り、世界中と比較して、自分が誰よりも不幸だと境遇を呪うのは馬鹿のやることだと。
分かっていても、ずっと納得できていない。
「……世に、不条理が当たり前にある。『そこ』には坂があって、転がるばかりの石ころは、絶対に坂を上ることはできないんだ。だけど、石じゃなくて、剣になれたら」
突き刺せただろうか。
転がることしか能のない石とは違って、下り坂にも留まる選択をできる『何か』になれたのだろうか。
もしも、父によって押し込まれたクローゼットの中に、剣があったら──?
殺されそうだった父の下へと飛び出して、盗賊たちを殺せたのか。
暴力。
他を圧倒できるだけの破壊性。
『力』があれば──結末は、変わったのかな。
「きっとその男は、もう、私の神なんだ」
「神様、ですか」
サワグタリが呟く。ハサキは頷いた。
「手の出しようのない絶対性。抗うことのできない絶対不可侵にして不条理の塊。私にとっての神とは、抗いようのない坂道そのもので……私の弱さが、その男を殺すことを許さなかった」
きっと6年前、スレイヴイレスを突き刺した瞬間から、ハサキにとって男は『神』に変じたのだ。
「毎日眺めたよ。毎日、眠れなくなった。暗がりで痙攣するその男を見つめて、いつでもスレイヴイレスを引き抜けば殺せるのに、どうしても出来ないでいる」
この6年間、まともに眠れたことは無い。鍛冶のしすぎで気絶するようなことはあっても、ほとんどを不眠のまま過ごした。スレイヴイレスと化した肉体はどうやっても死を遠ざけたから、それで問題なかった。
ハサキは睡眠障害を自覚して、放置していた。
空いた時間をこの地下室で過ごした。剣を突き刺された芋虫じみた男をただ眺めた。
男を――神を見つめて、その奥にクローゼットの隙間から眺めた両親の死に際を幻視している。
永遠と、自己に問い続ける地獄の始まりだった。
「求めているのは、いつも同じものだった」
あの日。
寒い空ばかりを見つめていた、父と母が死んだ日。
私にとってのすべてが壊れた日。
絶対性すら覆せる剣があの日にあったなら、きっと激情と共に、盗賊たちを皆殺しにできたのだ。
「――神様でさえも殺せるだけの剣が欲しい」
ただの一振りで宇宙すら割断する、本当の意味で神殺しの剣が、あの日、この手にあったなら。
吠えられた。
怒りに狂えた。
許せない現実を受け入れず抗えた。
だけどハサキはもう26歳だった。復讐は既に人生でなく、人生とは老いて死ぬまでにあるただの道でしかない――老化すら捨ててしまったが。
ハサキ・ノバクは俗物にしかなれなかった。
「そんなもの、あるわけないのにね」
たったそれだけだ。
現実は単純で、覆しようのない。
弱い生き物がいただけ。
◇
いつまでもきっと忘れられない思い出がある。
私を形作る一生の宝物がある。
それは素敵な宝石でもないし、心躍らせるような伝説の武器でもない。
たったひとつの言葉だった。
◇
静かになった地下室に、滑らかな声が響いた。
「ハサキ」
声の主は一人の少女。
「覚えてる? 私が、ハサキを本当の母親だと思ってた頃のこと」
ハサキは頷く。
「覚えてる? 私が、本当の母親が別にいることを理解して、ハサキに母親になってほしいって怒って泣いたときのこと」
チェシャも、過去を恥じらうように淡く微笑う。
「覚えてる……? そんな私に、ハサキは言ってくれたの」
忘れるはずがなかった。
「『君の母親にはなれないけど、君を世界で一番大事にできる隣人にならなれる』」
「……その言葉があるから、今の私がいるの」
「私に他人を変えるほどの力はないよ」
「それでも」
少女の眼差しには深い感情が広がっていた。覗きこめば吸い込まれそうになるほど穏やかな――ハサキも過去に経験のある、それ。
母が子に向けるような瞳。
「それでも、ハサキが好き。好きよ……」
愛は、ひどく暗い地下室の中にあっても尚、陽光の暖かさを想起させるほど甘い声音をしていた。
チェシャは朱に染まる頬を誇るように胸を張る。柔らかな視線が年上の女を見上げる。
「あなたの鉄を打つ時の背中が好き。剣を見下ろす時の眼差しが好き。私の頭を撫でてくれるあなたの手が好き」
あなたの。
あなたの。
あなたの、全てが!
「ハサキは私の母親だった」
「母親になれるとは思えない」
「ハサキは私の姉だった」
「何か、チェシャに与えることができたのかな」
「ハサキは私の妹だった」
「チェシャのためになれたのかな」
「ハサキは私の幼馴染で、隣人で、大事な人で、」
チェシャはそこで言葉を区切る。ぎゅっと目を瞑った。
心の中でだけ、喉が震える。
生まれた時からあなたが好きだった。
歳とか性別とかそんなもの、どうだってよくなるくらい。
だけど大事な言葉は、ハサキ・ノバク=槌典と並び立てた時のために取っておきたいから。
「……愛してるって、そんな言葉で片付けられないくらい好き」
今は別の言葉をハサキに告げる。だけどそれすら、今までの自分では言うことのできなかったものだ。
ずっと伝えたかったことの一つを形にした瞬間、少女の心には芽生えるものがあった。
――そしてチェシャは、小さな勇気を得る。
「毎日眺めていたのね。毎日夜も眠れないくらい」
随分暗がりに慣れた目で、檻の中を再度見やる。
この6年間ただ生きることしか出来なかった哀れな男を。
「きっと、ハサキは泣いているのよ」
分からないと女が首を横に振る。チェシャはハサキの涙を見たことがなかった。
女の心はずっと昔に――それこそチェシャが生まれるより前に、致命的に砕けてしまっている。
救えるだろうか。
傲慢な想いだろうか。
それでもチェシャは否定しなければならない。ハサキの中に生まれた、生まれてしまった絶対の信仰を。
「これが神様だなんて、違うわ。……うん、違うと思う」
チェシャの中に生まれた勇気が、囁く。囁き続けている。
「私はね、私が、ハサキの一番がいいなって思うの」
ハサキ・ノバク=槌典。
あなたの心を一番占領したい。
こんな気持ち悪いものがいるのは許せない――。
「ハサキ。
ハサキ・ノバク。
あなたが神を崇めることで生きられるなら。
一歩、檻へと近づき。
その扉を開く。鍵はそもそも付けられていなかった。
ハサキの息を呑む音が背中にぶつかる。隣の偽サワグタリはそもそも傍観の立ち位置を維持し続けている。
臆するな。
震えるな。
恐れを塗り潰すだけの愛があると証明しろ。
――さあ。
柄に、手を。
「だから、私がやる」
例えば。
例えばここに蟻がいて、踏み潰すことが人間社会の罪に当たらないように。
およそ人とは呼べない生き物を殺すことが果たして罪なのか。
であれば一体誰が罰するのか。
神が鉄槌を振り落とすのは世界を壊すその日のみであろう。
「――――」
神創りの剣はそうして小さな勇者によって引き抜かれ。
一度だけ大きく痙攣した男の吐息は、徐々に徐々に細く薄くなっていき。
そして神が死んだ。
チェシャ・バイストィアは人殺しとなった。
ハサキ・ノバクは、復讐すら成し得ない、愚図で臆病な女だった。
事実を語るなら、たったそれだけのこと。
ただそれだけの事実が、ハサキの胸を震わせた。
「……………………私は」
からんと音を立てて床に放り捨てられる剣。耳に残響する男の最期の吐息。
眩暈がするような錯覚を覚えて、ハサキは気付けばその場に膝を着いていた。
「私は、結局、何もできなかった」
いつもそうだ。
他力本願で。状況に流され続けて。
『石ころ』だった。
『剣』ではなかった。
乞食になろうが鍛冶師になろうがどうなろうが、変われなくて。
「そんなにも簡単なことができなかった。昔から、蟻一匹踏むこともできなくて」
「それはね、ハサキ」
スレイヴイレスを軽々と手放したチェシャは、女へと歩み寄る。
白く、細く、美しい手のひらがそっと女の頭を抱える。
少女にそっと抱き寄せられて、血の通った人の暖かさを感じて、壊れた心臓が大きく震える。
それでも涙は流れない。
「ハサキが誰よりも優しい、すてきな人だっていう証明なのよ」
「……眺めてばかりだったんだ。いつも、いつもそうだったんだ、チェシャ」
「バカね」
13歳の少女が背中を叩いてくれる。預けていいよと言われた気がして、重くなった体を少女に支えてもらった。
そうしていると、不思議と全身が軽くなった。
「ハサキが不器用なことくらい、私が一番よくわかってるんだから」
「……ごめん。チェシャに押し付けてしまった」
「いいの。ハサキの罪なら、私も背負いたいから」
もう、十分苦しんだでしょう。
地獄は飽き飽きでしょう。
「ハサキはもっと素直になっていいのよ」
「──」
……静かに瞳を伏せる。
クローゼットから見つめた虐殺。
6年間崇め続けた我が神よ。
「ず、っと」
始めていいのか。
罪に対する罰も不明瞭なままで、いいのだろうか。
悩むけれど結局答えは出ない。
わかったのは、終ぞハサキ・ノバクという女の性根が変わらなかったことくらい。
「ずっと……誰かに、終わらせてほしかった……」
12歳の頃から流したことのない涙の感覚が、ハサキの頬に溢れていた。
瞳は熱く。瞼で隠しても感じられるほどに。
だが、きっと幻だろう。