第四回ヒヨリミコロシアム企画投稿作品

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呼吸

腕の中で抱いていた温もりが、手を離れていく。

重い瞼を押し退ける。睫毛の間から目に差し込む光が目に染みる。

寝足りない証拠だ。なんせ、昨日はなんだか気分がよくって、普段ほとんど飲まないワインをグラス一杯流し込んだ。

それからもっと気分がよくなって、揉みくちゃになったまま気を失うように眠って、気がついたら朝だ。

重い雨のような微睡みの底で、彼の輪郭がぼんやりと浮かぶ。

おおよそ、いつも家を出るのと同じような時間帯だろうか。

窓の向こうでは静かに雨が降っていて、陽の傾きがわからないけれど、たぶん、きっとそう。

そのままぼう、と意識を泳がせていると、彼が肩まで布団をかけてくれた。

シーツに残る温もりと、布団に籠った熱が残り火のように心地いい。

閉じた瞳の奥で、にわかに香る彼の匂いが揺り籠のように私の意識を揺らして、あっけなく夢の階段を、転げ落ちた。

 

 

ぼう、と灯火を見る。

”ともしび”と書いて”とうか”。調べればそうとも読めると、インターネットは教えてくれるのだけれど、いまいち馴染みがないのはきっと、日常的に慣れない字面だからだろう。

灯火という名前は、響きがよくって好きだ。そんな彼女は静かに降り続ける雨が紅葉を落とす季節だというのに布一枚を抱いて心地よく寝息を立て始めた。

それを見てリビングへと向かう。

二階建て3LDK一軒家。持て余すくらいに大きなガレージと、薪ストーブ。

僕たち二人だけが住むには少し大きすぎる、一風変わった物件。

ここにどうしても住みたいと言ったのは灯火だった。

きっと、彼女の祖母の家に、似たような薪ストーブあったからだろう。

薪を放って、隙間に枝木を数本差し込む。固く絞った新聞紙と少しだけおがくずを撒いてやる。

マッチを擦る。今どき物珍しくはあったが、祖父がタバコの火を点けるのによく使っていたから見慣れていた。

丸い頭にぼっ、と火が灯ったのを見て、そいつを新聞紙へと移すと、びっくりするくらいによく燃える。

湿気が多い日でも、空気をしっかり送ってやれば直に炎は安定する。

土台の薪全体が燃えるまでは、何度かに分けて細い薪を差し込んでやる。

いっぺんにたくさん薪を入れてしまうと、空気の通り道がなくなって酸欠状態になる。

満員電車のように、ぎゅうぎゅうと詰め込めばいいというものではない。

こうして、火を育ててやるとじきに火が”熾る”。少し待てば、部屋は見違えるほどに暖かくなる。

部屋が布団のように暖かければ、彼女もきっと起きてくれるだろう。

 

ガレージに下りて、斧を手に取る。

大型のミニバンが二台、悠々と収まるガレージには場違いな白の軽ワゴンがぽつんと一台。

年末までにお前も洗ってやらないとなと考えながら、割台に薪を立てる。

斧を振り上げ、軽い力でまっすぐに、水平に斧を振り下ろす。

狙いと、呼吸が合えば、かっ、と小気味のいい音を立てて、薪が二つに割れる。

うまくいかなかった時は、刃先が薪に食い込むだけで、トンカチで小突かれたかのような嫌な衝撃が両腕に響く。

これが思っていたよりも楽しい。

薪割りの調子がいい時は、身体の調子がいい。気分さえもいい。

そうでない時は、何かしらの不安やストレスを抱えている。

今日は、後者みたいだ。

 

 

シャワーで汗を流して、遅めの朝食を済ませる。

灯火はまだ寝ているらしい。

食後のコーヒーを淹れていると、牛乳を切らしていることに気がついた。

コーヒーメーカーから波風立てまいと細々と黒い液体がカップに注がれる。

注がれたそばから白い湯気が立ち昇るのを眺めていた。

僕が黒ければ、彼女は白。

この家の、決まりごとのひとつのようなものだった。

 

外は静かに雨が降っていた。

長い灰色が青空を覆っている。きっと今日のうちは止まない。せっかくの休日だってのに、水を差された気分になる。

 

 

 

ドアが乱暴に閉まる音で目が覚めた。

部屋は布団みたいにぬくぬくと暖かかった。

布団を被っていると、暑いくらいだ。

ストーブに薪を焚べる。

ぱちぱちと、木の弾ける音がして炎はより激しく踊る。

どこに行ったのだろう。

携帯は置いていってある。

キッチンには、淹れたてのコーヒー。ゆらゆらと揺れる湯気が誘うようではあったが、私には獲物を待ちながら触手を揺らすイソギンチャクのように見えた。

冷蔵庫を開けると、いつもそこにあるはずのものがなくって口を尖らせる。

少し考えて、納得する。

外はまだ雨が降っていた。夕方には止むだろう。

 

シャワーを浴びて、残滓のような夢の欠片を洗い流した頃、彼は帰って来た。

「なんだ、起きてたのか」

なんだとは失礼な。たまの休日くらい、誰にも文句を言われずにゆっくり寝させてほしい。

そう言いかけて、彼の手にぶら下がったビニール袋に、牛乳が入っているのに気がついた。

「待ってて。今温めるから」

牛乳を入れた鍋を、薪ストーブに乗せるとゆっくりとかき混ぜる。

鼻歌でも聞こえてきそうな表情だった。

その幸せそうな横顔を、ぼうと眺める。

 

彼は温度感を見るのが得意だった。

だから料理もそれなりにできて、熱を通すものだったら私が作るよりも彼が作るものの方が明らかに美味しいのがたまに癪に障る。

私には熱いか、冷たいか程度しか分からないのに、くつくつと牛乳が泡立つよりも遥かに早く、鍋を手に取り、カップに注ぐ。

”温度感”というのは彼の弁だ。

なんせ彼は人の機嫌や体調を察することも得意だった。

それはいいのだけれど、私の機嫌が少しだけ悪い時は当たり障りのないように行動するのはそろそろやめてほしいと思ってる。

少しずつ、波風立てないように様子を伺いながら混ぜて、均一になるように温める。

牛乳と似たような扱いはやめてほしい。

 

黒々としたコーヒーに、真っ白な牛乳と、少しのはちみつを入れて混ぜる。

焼いたパンと、サラダ。慎ましやかな朝食もとい昼食を済ませても、雨はまだ、空が泣くように降っていた。

きっと、日が暮れる頃には降り止む。

それまでは本でも読んで待つことにする。

ソファに座る彼の横に座る。

体育座りで寄りかかる。

何を言われることもない。こうして、二人で本を読むのが休日の過ごし方だったから。

ぺら――

私がページを捲る。

ぺら――

彼がページを捲る。

ぱち――

薪が弾ける。

ぺら――

彼が、ページを捲る。

触れあった部分から、じわりと熱が伝わってくる。

彼は半袖のシャツで、私はタンクトップ。カレンダーにそぐわない、なんとも間抜けな服装なのだけれど、これでも晴れた春の日みたいに、ちょうどいいくらいで。

そんな陽だまりのようなぽかぽかの中で、肩越しに伝わる彼の温もりが心地よかった。

呼吸さえも伝わってくるようだった。

すう、はあ。ぺら――

ページを捲る。

ぱち。

薪が弾ける。

時折、積んだ薪がガラと崩れるのに気づくと、気づいた方が立ち上がって、薪を焚べる。

そうして同じ場所に戻って来て、意味もなくくっついて、別々の世界の文字をなぞる。

吸って、吐いて、時折ページを捲る。

すう、はあ。薪が弾ける。

 

デジタル時計が音を立てることはない。

騒がしいようで、とても静かで穏やか。

そんな音たちが緩やかに自分勝手に時を刻む。

 

 

 

日が落ち始めた頃、二人で買い物に行くことにした。

彼女の腹の虫が、静寂に耐えかねて騒ぎ始めたのがきっかけだ。

雨は、すっかり止んでいた。どうやら彼女は知っていたらしい。

彼女は空模様を見るのが得意だった。

どうして、とか理由はない。明らかな曇り空でも彼女が降らないと言えば雨は降らないし、気持ちいいくらいの青空で布団を干していたら、慌てて止めにくると雨が降る。

なんでも、空の色を見ているのだとか。

きっと、彼女の目には僕とは違ういろんな色が見えているに違いない。

――声色とか、顔色とか。

「何が食べたい?」

「うーん、シチューとか?」

それは僕が食べたかったものなのだけど。

「それいいね。そうしよう」

まあいいや。恐らく、彼女の思っていたものも系統が似ているから、半分は本心なんだと思う。

 

 

 

町中へと向かう途中でレンタルビデオ店を見かけた。

映画なんて、ほとんど見たことがなかった。

映画館は暗いのに人が多いからお葬式みたいで気が引けるし、苦手だ。

祖母はテレビが苦手だったから、本を読むことばかり教えられた影響もあるだろう。

「ねえ――」

 

 

 

結局、シチューとグラタンを食べた後で、映画を見る。

映画が見たい。

灯火が自分の意見を言うのは珍しかった。

借りてきたのは、少し前に話題になったイギリスのSF恋愛映画だ。

主人公の男がタイムトラベルをして、理想の恋人を見つける。

家族に悲しいことがあるとタイムトラベルでなかったことにするのだけど、そうする度に恋人と会わなかった未来へたどり着く。

その繰り返しの中で、愛とは何か、家族とはどういったものかを考えるという物語だ。

灯火はこの映画のパッケージを不思議そうに眺めていた。

雨の中で、恋人同士が屈託のない幸せそうな笑顔をしている。

ああ、この二人は何か特別な時間を共有したんだ。

そう思えるようなものだった。

 

「どうだった?」

「思ってたのと少し違った」

「うん。そうだね」

 

見る前と後では全くパッケージに映る二人の表情が違って見えた。

灯火もきっと、同じことを考えている。

 

「明日返しに行くけど、別の借りてくる?」

 

灯火は静かにうなずいて、きゅうと身を寄せてくる。

 

「……寒い」

 

思えば、二時間近くもテレビに張り付いたままだったのだ。

燃やすものがなければ、火だってしょぼくれて小さくなる。

ドアを開けると、かろうじて残り火がまだ熱を持っているような状態だった。

道路の上でひっくり返って、ぴくぴくと動いているだけの蝉、といったところか。

残り火を集めて、薪を焚べる。

ドアを閉めて、窓から息を吐いて空気を送ってやる。

隣で彼女も、ふう、と空気を送っていた。

思わず、互いに笑みがこぼれる。

そうしているうちに、火が薪に燃え移り、ぱちぱちと音を立てる。

それを、少しの間灯火と眺めていた。

互いの呼吸が聞こえるほどに、寄り添って。

 


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