寂れた小さい店を営む、やさぐれて捻くれた店主のプライド、みたいなもの。


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口を開くな、口にしろ

 

 

 

 正直なところ、食事なんてものは高尚な活動ではくて、栄養補給以上の目的はないのだけれど、人間には味覚という感覚器官がついているから、やはり食事というのは、人生を豊かにする為には重要な行動なのだろう。

 啓示というのか、『それを感じ取りやがれ』と言わんばかりの形状と機能を兼ね備えた肉の塊。いわゆる舌という感覚器は、かなり遊びのあるプログラムをしていると思う。機能としての舌は、食品の毒性が確かめられればいいのであって、それを苦味や辛味というカタチで表現していて、それならば危険の度合を示す為ではないだろう甘味や塩味、酸味という味覚は必要ない。これらの表現はただのオマケ、ミニゲームやサブコンテンツみたいなもので、人間には本来いらない機能でしかないのだ。

 生物学者からすれば噴飯ものの暴論で、こんな話をすればすぐにでもデータと論文を携えて、がなりながら私の浅学な意見を捻じり潰しにくるのだろうが、幸いにして私にそんな伝はないし、喧嘩を売りにいく度胸も趣味も持ち合わせていない。私は一介の調理師、ただの定食屋の店主であって、本棚に囲まれて生活している学士ではないのだから。

 食事に携わる人間が何を、と思われるだろうが、私が飲食店を開いたのはお金の為で、つまりは生活の為だ。見知らぬ他人を喜ばせる為じゃない。それに暴論ではあっても、間違ってはいないと思っているし、その『いらない機能』のおかげで人生に色がつくのだろうから、切り捨てるべきとは思わない。不幸よりは幸福な方がいいのは当然の話だし、私も、飢えている人間よりは満腹の人間を見ている方が、気は楽ではあるから、そんな極論を述べるつもりはないのだ。

 結局のところ、何が言いたいのかというと、食事に必要以上の解釈や講釈はいらないということだ。

 美味しいものは美味しい。

 不味いものは不味い

 どちらかをただ一言、そう言えば済むだけの話である。

 

 

 

 男が現れたのは、確か秋頃の事だったと思う。記憶が曖昧なのは御愛嬌として水に流して貰いたいが、とにかく、何年か前の秋、男は私の店を訪れたのだ。

 天気は曇りだった。小雨が降ったり、止んだりを繰り返していたと思う。昼過ぎに何度目かの雨が降り出し、『休憩中』の看板を扉に下げようとした時、来店してきたのが彼だった。

「すみません、まだ大丈夫ですか?」

 大丈夫じゃねえよ、と追い返したくなったものの、そこは客商売。朗らかな笑顔で、どうぞと通した。ぶっちゃけた話、休憩時間はしっかり取って、午後の営業の為に体力を回復させたいのだが、自営業の飲食店を営む身としては、ライス一杯分であっても稼ぎが欲しい。逼迫しているわけではないものの、懐具合は常に余裕がない。金持ちの道楽で適当に商売しているのでもなければ、こういう時は引き受けるのが普通だ。他所は知らないけど。

 男がカウンター席に座り、私は小さい湯呑にお茶を淹れる。三番煎じぐらいだったと思う。薄いだろ、という批判は甘んじて受け入れるが、濃厚さだけが美味しさの条件じゃない。そこは暖かい飲み物をサービスしてチャラだ。それにあの時は肌寒くなり始めた頃だったから、むしろありがたいと思って頂きたい。大抵のセルフサービスの店は年がら年中冷水だし、飲み物自体が出ない店も珍しくないんだから。

 男が頼んだのは『麻婆豆腐定食』で、さらに『すっごく辛くして欲しい』とのリクエストを受けた。別に不可能ではないものの、辛味の耐性は個人で異なる。一応、確認しなくてはならない。

「すっごく辛くって言うけど、個人的に満足いかなくても、文句言わないでくださいよ?」

「それは勿論」

 ならばオーケー。言質は取った。

 黒い鉄鍋を熱し、辣油を入れる。摩り下ろしたニンニク、輪切りの長ネギと赤唐辛子、次いで豚挽き肉を入れて炒める。軽く火が通ったら豆板醤を投入し、混ぜ合わせた後に角切りの豆腐を入れて、やや浸る程度に水を張った。

 水が沸いたら醤油、塩、砂糖で味付けし、多目にコショウを振る。水溶き片栗粉でとろみをつけて、香りづけにゴマ油、辛味を付け足す為に辣油を垂らす。

 これを皿に盛って完成である。

「お待ちどうさまです」

 トレンチの上に麻婆豆腐と白米、中華風の野菜スープにお新香を乗せて、男に手渡した。

「……?」

 ここで、男が妙な顔をしているのに気付く。しかめっ面をしているというか、何か気に入らないというか。もしや髪の毛でも入ってたか、と若干血の気が引いたけれど、どうやらそういう事でもないらしい。

 では何だ。いちゃもんをつけて、代金を踏み倒そうとする輩なのか。私は喧嘩自慢ではないし体力自慢でもない。一時のテンションに任せて暴行を働かれた日には、将来的に首をくくる事も視野に入ってしまう。ぶっちゃけ変な客は一杯いるし、入店自体拒否したいものの、私の店は個人営業であり、チェーン店ではない。()()()()()()も相手にしなくてはやっていけないので、この細腕でもって対処しなくてはならないのである。

 一応、棒状の研ぎ器(シャープナー)を手の届く所に置いておき、後片付けを始めると、男は口を開いた。

「……これ、辛いんですか?」

 何を言うか。辛いに決まっている。これが辛くないと言うなら、そいつの舌は死んでいると判断せざるをえない。

「辛いと思いますよ。私としては」

「…………」

「――」

 ああ、そうか。何となくだが、察した。

「……最初に言いましたよね。個人的に満足いかなくても、文句は言わないって」

「…………」

「とりあえず腹を満たしたらいかがです? 別に不味いものは作ってないですから」

 そう言って、私は片付けに戻った。男は内心で折り合いをつけた様で、箸を取って食べ始めた。

 

 

 

 男はそれ以上何も言わず、白飯も麻婆豆腐もスープもお新香も、全て平らげて、きっちり代金を置いて去っていった。いちゃもんをつけるもなく、ただ食事を終えて、退店したのだった。

 私は男が食べ終えた皿をシンクに移し、改めて扉に『休憩中』の看板を下げる。遅くなったが、ようやく私の昼食だ。

 (どんぶり)に白米をよそって、その上から麻婆豆腐をかける。先程、多目に作っていたのだ。自分の食事を客の分と同時に作るというのは、客に知られると『品がない』とか『店の内情を見せるな』とか、色々思われるのかもしれないが、そんな事は知ったことではない。私だって人間だ、見ず知らずの客と同じ様に、腹が減るから食べるだけである。

 それに午後の仕込みがある。飲食店の休憩時間なんて、実際の所、あってないようなもので、表向きは営業していないだけで、裏では仕事しかしていない。ましてや、この日はその男が休憩時間を邪魔してきたのだから、なおさら時間がない。さっさと食べなければ、午後の営業に差し支える。

 スプーンで一匙、麻婆豆腐を救い、口へ運んだ。

 美味しい。肉の旨味を調味料が引き出し、淡白な甘さの豆腐に絡んだ、私の味だ。

 いつもと変わらないし、特におかしな点は感じ取れない。となると、やはりあの男自身に、何かしら引っかかる所があったのだろう。

 無論、私はただの一般人なので、人の心情を読める、といった特殊能力は持ち合わせていない。それでなくても、私は他人の心の機微には疎い方だ。正しく他人である客の心情など、読み取れるはずもない。

 とはいえ、推量に当てがない訳ではないのだ。言うまでもなく、麻婆豆腐についてであろう。

 

 

 

 (ちまた)で言われる『本格的』な麻婆豆腐は、いわゆる『四川風』と呼ばれるものだ。中国の清時代、現在の四川省成都市で料理店を営んでいた陳森冨の妻、劉氏が考案した料理で、当初は労働者向けの安価な料理であった。日本に麻婆豆腐が広まったのは、四川料理人である陳建民が、日本人の舌に合うようにアレンジした麻婆豆腐のレシピを、テレビ番組で公開したことからだと言われている。

 先人の知恵とは馬鹿にならないもので、私もその古くから伝わる技術で稼いでいるから、あまり批判めいたことは言いたくないが、それでもあえて言うならば、料理に『元祖』『本家』『本格派』といった修飾をつけるのは、現代においては一種の流行、ブームの一つでしかないと思う。

 誤解されては困るので、一応補足しておくと、そうした本格志向の料理店を敵に回すつもりはないし、それを客が求めるのを否定する気はない。ただ言いたいのは、料理の味付けを勝手なイメージで捉えるのは止めてもらいたい、ということである。

 ()()()な『四川風麻婆豆腐』は、調味料に唐辛子、豆板醤(トウバンジャン)豆鼓(トウチー)花椒(ホァジャオ)を多用する。特に花椒は、四川料理の特徴である『麻味(マーウェイ)(舌が痺れる類の辛さ)』を出すのに使われ、四川料理の代表的な調味料と言える。

 しかし、私はこの麻味は白米に合わないと考えている。強い麻味は確かに刺激的で美味しいのだが、辛味とは本来、味覚ではなく触覚であり、つまり痛覚である。舌が痺れる、というのは舌がダメージを受けている状態であり、甘味や苦味、酸味といった味覚の感知を妨げているとも言えるのだ。

 しかも私の店では定食として出している。そんな状態で熱い白米なんて食べたところで、白米の味なんて感じ取れないし、麻婆豆腐自体の味も分からなくなる。唐辛子の食べ過ぎで平時から舌が鈍感になっているのならともかく、強い香辛料がない食文化が発展してきた日本人の舌では、辛味が先立ち、料理の本質的な味付けが分からなくなってしまう。

 ましてや麻婆豆腐は味付けの濃い料理だ。普通に味付けをしているだけで、塩分が多くなる。調味料をあれやこれやと足していたら、具材の味――知ったかぶった日本人が語るところの『素材の旨味』が分からなくなってしまうではないか。

 勿論、それが悪いわけではない。需要があるから日本でもウケているのであり、私自身が好きではなく、また店の方針に合わないから、そう調理をしないだけであって、いわゆる本格的な味付けを否定したいのではない。

 だが、客側が勝手なイメージや想像で料理の味を決めつけるのは、店側としては対応に困ってしまう。四川風麻婆豆腐は、単に本場の味であるだけであって、それが本物であり至高というわけではないのだ。

 メディアの演出が原因なのだと思う。あくまでも演出は演出であり、感想は感想であり、決して真実そのものではないのだが、それに影響され、あたかも真実のように吹聴し、さも当然のように振る舞う人間は少なくない。あの男はそれを若干拗らせた人間なのだろうが、だがいちゃもんをつけずとも、そういう知ったかぶった手合いを相手にするのは、はっきり言ってしたくないのだ。客商売で、客が金を落とさなくては食べていけないとはいえ、不愉快なものは不愉快なのだから。

 それに文句があるのなら、はっきりと言えばいいのだ。『俺はこんな味付けは認めない』と、男らしく、堂々と主張すればいい。

 まあ、そんな文句は、私の腕とプライドに誓って、絶対に言わせないけれど。

 味の下地は豚挽き肉と豆板醤に醤油で、すでに決まっている。豆板醤と醤油のバランスに気を付けつつ、塩と砂糖で味を調え、しっかり豆腐に絡むよう、けれども()()にならないようにとろみをつける。私の作る麻婆豆腐は、確かに本場のそれではないけれども、しかし百パーセントの自信をもって、客に『美味しい』と思わせられる。

 客は金を払って、ただ食事をすればいいのだ。そして余計なことはせず、食後に一言、言ってやればいいのである。

 つまり『美味しい』。

 または『不味い』。

 前者なら素直に嬉しいし、後者なら二度とくるなと心中で思うだけのこと。

 飲食店というものは、そういうものだ。気取ったセリフも蘊蓄(うんちく)も不必要。客がくれば食事を提供してやる、ただそれだけの場所である。

 

 

 

 ところで、何故そんなことを思い出したのかというと、つい最近、あの男が再び訪れたのである。

 雨が降ったり止んだりの曇り空ではなく、雲一つないピーカンの晴れ空であったが、またも昼過ぎの休憩時間直前に、来店したのである。

 今回はカレーうどんを注文されたので、作ってやる。何か言ってくることこそなかったが、またも不可思議そうな顔をして退店した。やはり彼の脳内でイメージするカレーうどんではなかったらしい。しかし今回もしっかり完食しているあたり、文句のつけようもなく満足しているのだろう。

 まあ、『出されたものは残さない』みたいなポリシーがあるのかもしれないが。それはそれとして、変に言葉は発さないのは、ある意味では成長の証と言えなくもなかった。

 

 

 

 私の店は場末の定食屋。金さえきっちり落としてくれるなら、どんな客でも受け入れる、心中は度外視の、くたびれた店だ。

 まったく、女だてらに飯屋なぞやるものではないなと、自身のことながらつくづく思う、今日この頃である。

 

 

 







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