静寂が、夜を深く包み込んでいる。
分厚い石造りの壁は昼間の熱を完全に放ち、部屋の中には冷涼で張り詰めた空気が漂っている。外の廊下からは、時折唸るような風の吹き抜ける音が聞こえた。
部屋を照らすのは、燭台に灯された一筋の蝋の火と、小さな窓から差し込む、青白い月光だけだった。
石床に敷かれた粗い羊毛のラグと、古い木製の机とタンス、その質素な内装は俺に安心感を与えてくれる。
「……アンディ様」
部屋の隅に置かれた木製のベッド。マットレスの上に麻のシーツが固く敷かれたその場所で、俺の膝の間にアマルがすっぽりと収まるように座り込んでいる。
食事の片付けも終え、一日の終わりを迎えた中、アマルは俺の胸元に後頭部を預けたまま、どこか落ち着かない様子で指先を俺の腕に絡めていた。
「ん? どうした?」
柔らかい銀髪をなでるように指を通す。あアマルは甘えるようにすんと鼻を鳴らした後、ぽつりとつぶやいた。
「今日の昼間……アンディ様は何をされていたのですか?」
「昼間? ああ……フランチェスコと薬草畑を手入れしていたよ」
アマルは小さく頷いて、それから上目遣いに俺を見つめた。
「他には?」
「他には? いや、あとは、修道院の裏手で少し休憩してたくらいで」
「あの者と?」
アマルはすっと目を細めた。俺はアマルは最初から、それが聞きたかったのだと悟る。
(ヨハンナと2人で会っていたことを気にしているのか)
ヨハンナと俺が会って話をしていたことをその場にいなかったアマルが何故知っているのか。見ていた? いや、そんな気配は感じなかったが……それについては、まぁ、今さら驚くまい。
おそらく、これを聞くということは俺とヨハンナが話していた内容までは聞き取れなかったのだろう。これもあのエフェソスの呪文のおかげだろうか?
何にせよ、下手に隠すと絶対にめんどくさいことになる。それだけは確実だった。
「ああ、その時、ヨハンナと世間話を少しな」
「……そうですか」
「ああ、そうだ」
アマルは平坦な声音で言葉を発した。俺の言うことが、本当のことではないとアマルは気付いている。
「2人で会っていたことは、悪かった。でも、誓って浮気はしてない」
服をぎゅっと掴むアマルの指先が、かすかに震えていた。
「……はい。アンディ様を信じます」
「アマル」
「……アンディ様」
俺は苦笑しながら彼女の体を強く抱き寄せ、その旋毛に軽く口付ける。
「本当に、少し話していただけだ。ヨハンナとは何でもない。その、あー、俺が好きなのは、アマル、お前だけだ」
「……ほんとう、ですか?」
――麦畑。
どこまでも続く青い空。
微笑む
一瞬、脳裏を横切った光景。
ここは、
――ここは、俺の世界だ。
「ああ。もちろん。アマルは俺の彼女だろう? だから、心配するな」
俺の言葉に、アマルは救われたように深く息を吐き出し、振り帰り縋りつくように俺の首元へ腕を回してきた。
耐えきれなくなったように、アマルはそのまま俺をベッドへと押し倒した。
「おい、アマル?」
こちらの驚きを余所に、彼女は自分の匂いを刻みつけるように、俺の首筋に頬を何度も擦りつける。いつものマーキング。さらさらとした髪が首元をくすぐり、薔薇の濃厚な甘い香りが一気に鼻腔を満たした。
「アンディ様。お慕いしております。アンディ様、アンディ様。私の光、私の主、私の愛しいお方」
アマルは俺の名前を繰り返し呼びながら、何度も、角度を変えて俺の唇に口づけを降らせる。
「んっ……ちゅ、はぁ、ん、あ……アンディ様……」
吐息を漏らし、何度も貪るように口づけを重ねながら、アマルの震える指先が俺の着衣の紐へと伸びた。
唇を離さず、熱い舌で俺の口内をねだり続けたまま、手探りで服の留め具を一つずつ外していく。じれったそうに麻服の襟ぐりを押し開き、素肌が見えるとそこへ落とすように唇を滑らせた。
鎖骨、胸元へと熱い口づけを降らせながら、薄手の服を滑り落とす手つきには、どこか焦燥に似た情熱が籠もっている。まるで、服の一枚すら隔てるのを嫌がり、一刻も早く俺の肌へ直接触れて自分のものだと確かめたいかのようだった。
毎晩することに、俺の心身は正直なところ少しばかり辟易としていた。
別にその行為自体は嫌いではない。だが、最近、精神的に気疲れが多く、何も気にせず、ただ静かに体を休めたいというのが本音だった。
俺は身体を少し起こして、宥めるように口を開く。
「なぁ、アマル。たまには、何もせずに一緒に寝るのはどうだ?」
「……私はあなた様に抱かれている瞬間が一番幸せなのです。アマルからそれを取り上げないでください」
潤んだ瞳で俺を見下ろし、すがるような声で懇願してくる。俺は微かに苦笑を漏らした。
「はぁ、お前を甘やかしすぎた俺が言うのもなんだけど、そろそろ自制をおぼえような」
「むぅ。やーです」
「やーです、ってお前な」
呆れた。こめかみを右手で押さえながら、ため息をひとつ。
別の角度から説得を試みる。
「毎晩すると、その、何かと大変だろう。身体を拭いたり、ほらベッドの掃除とか」
マットレスの上に敷かれた麻のシーツを軽く叩きながら言うと、アマルは俺の胸の上に完全にのしかかり、意地張りな子犬のように顎を乗せてきた。
「そのようなこと手間でも何でもありません……。アンディ様のお世話ができるなら、私、いくらでも拭きますし、シーツだって毎日洗います。……私に、遠慮なんてなさらないでください」
「いや、これは遠慮とかじゃなくてだな」
「アンディ様」
名前を呼ばれる。
ジト目。
「……分かった。1回だけ」
「アンディ様」
今度は少し低い声。
自分の意見を通せ、と目が語ってる。
「はぁ、全くどんだけしたいんだよ」
「むぅ」
「アマル栗鼠め」
俺の呆れたような吐息混じりの言葉に、アマルは不満げに頬を膨らませ、無言のまま俺の胸元へ体を預けてきた。とりあえず、頬を両手で軽く挟んで、空気を抜いておく。今度はその手をペロペロとなめられた。栗鼠の次はまた子犬か。
はだけた麻服の隙間から滑り込むアマルの肌は、火照るように熱い。首筋に顔を埋め、すーっと深く息を吸い込む仕草は、まるで俺の匂い全てを体内に溜め込もうとするかのようだった。猫吸いされてる気分。複雑だ。
「……意地悪」
耳元で溶けるように囁く声。唇からこぼれる熱い吐息が、首筋にあたる。
アマルはゆったりと俺の足に自身の足を擦り付ける。滑らかな太ももの質感がダイレクトに伝わり、彼女の熱が逃げ場なく押し寄せてくる。
「アンディ様が、私をこんな風に仕込んだのでしょう? ……私の体、心、全部アンディ様で満たさなければ、息もうまく吸えない。貴方様がいなければ、アマルは今までどう息をしていたのかも分からない」
恨みがましい言葉とは裏腹に、その瞳は恍惚とした甘い欲望に揺れていた。
「……っ」
首筋から顎、頬、額、そして唇へと、滑り落ちるように重ねられる濃密な口づけ。舌を絡めるたび、甘い薔薇の香りと互いの唾液の音が、静まり返った夜に響き渡る。
「……たくさんください」
アマルは濡れた目元を緩め、艶やかな笑みを浮かべた。
俺の奥を見つめるアマルの瞳は、黄昏色よりも更に濃いグラデーションを描いていた。
「貴方様の全てを……私が拭い、私が清め、私が守ります。……だから、今夜も私の中をいっぱいにしてくださいね。ふふっ、ふふふ」
アマルの妖艶な笑い声が響く。女神のようなその貌は、甘く蕩け、今にも溶解しそうな危うさを秘めている。
(……サキュバスもかくやという振る舞いだな)
内心で嘆息しつつ、彼女をそう育てたのは、ほかならぬ俺自身だった、とその事実に、思わず頭を抱えたくなる。
サキュバスとは「下に横たわるもの」の意だったか。ならば、俺の上にいる彼女は、それには当たらない。
……などと考えている時点で、我ながら本当に救いようがない。
燭台の小さな炎が爆ぜ、部屋を暗く落とす。
アマルは、俺の何とも言えない情けない表情を愛しげに見詰めた。
「はふぅ……」
と、ひとつ吐息を漏らしてから、彼女は襟元を両手でつまむと、俺の腰に跨がったまま、シュミーズを脱ぎ捨てた。
それから、ほんの少しだけ身を縮めるようにして、片腕を胸元へ回す。けれど、すべてを覆い隠してしまうわけではない。指先や腕の位置をほんの少しずらし、わざと見える隙を残している。
そうしたほうが俺が喜ぶと、彼女は知っているのだ。
目が合う。
アマルは、それだけで嬉しそうに微笑んだ。
(……全部お見通しか。敵わないな。)
そんなことを思いながら、俺は結局、最後まで俺は彼女から目を逸らせなかった。
「アンディ様、全て貴方様のものです」
胸元に添えていた片手を、俺の視線を確かめるように、ゆっくりと離していく。そのまま上体を倒し、俺の胸元へ身体を預けるように身を寄せた。
甘い薔薇の香りが、ふっと近くなる。
湿った石の匂いと甘い薔薇の香りが交ざり合う中、彼女は俺の首筋へ顔を寄せ、そっと歯をたてた。
「……愛しています。私の、私だけのアンディ様」