「なんか首が赤いんですけど」
「…………虫刺されだな」
「じゃあ帰る前に布団干しますね。星歌さんが寝るときに刺されたらアレですし」
「…………おう」
ふい、と顔を背ける星歌にそう言って、茜はジトッとした目を向ける。
陽射しが強いこともありさっさと干してしまおうと行動する茜は、ベランダに布団を広げて専用の洗濯バサミで挟むとふいに声をかけられた。
「…………茜くん……マジでごめん」
「じゃあやるなよ……いえお気になさらず、夕方には取り込んでくださいね」
罪悪感に耐えきれなくなったのか、謝罪をこぼす星歌に、茜もまた小声でぼやく。
寝てからの記憶はないが、起きたあとに首の痕を見ればナニをされたかは察せる。
ともあれ余計な地雷は踏まないに限るため、茜は星歌の誤魔化しに乗りつつ、それからバッグを肩に提げて伊地知家を出る準備を整えた。
「今日はテキトーにぶらついて……夕方にSTARRYに戻ってきてバイトですかね」
「わかった。どこに行くんだ?」
「ん~~……たまには、新宿とか?」
考えるそぶりを見せた茜は、ただなんとなく目的地を決めて部屋を出た。
『新宿に何かあったような気がする』という思考が脳裏を掠めたが故の決定だったが、このなんとなくの偶然が幸いだったことを、茜は数時間後に思い知る事となる。
──廣井きくりが目を覚ましたのは、日が頂点に登った正午の辺りだった。ぱちりとまぶたが開き、太陽の眩しさに目を細める。
「…………んぇえ」
頭をがしがしと掻きながら起き上がり、きくりは辺りを見回す。土地勘から、新宿のどこかの公園なのだろうと理解する。
いつものようにベースは何処かへ消え、記憶もまたあやふやで、しかし不思議と頭痛はしないため、昨日はあまり量は飲んでいないのだろうと推理してとりあえずと懐に手を入れた。
「酒酒~お
スカジャンのポケットに手を突っ込むきくりだったが、いくらまさぐっても手は何も掴まない。ぼんやりとしていた思考が段々とクリアになり、顔色は分かりやすく青ざめて行く。
「あ、あ、あ、あ」
瞬間、心臓が耳元で爆音を奏でるように早鐘を打ち、きくりの呼吸が荒くなる。
「──あ、まずい、
ずっと、
「っ、ハッ、ぁ、ひっ……」
反射的に自分の体を自分の両手で掻き抱き、酸素を求めるように口で大きく呼吸する。アルコールが足りず酔いが覚め、頭がスッキリ
「だ──れ、か」
掠れた声が、誰もいない公園の広場に消える。世界には自分と不安と恐怖と、座っているベンチだけしか存在しないのではという感覚。しかしそれは、不意に自分の体を包み込む暖かさと、耳元の雑音を無視して届く声に掻き消された。
「……なんだってそう、行く先々で出くわすんだろうな。なあ、きくりちゃん」
「────」
「大丈夫、大丈夫。ゆっくり呼吸しろ」
上げた視界がワイシャツで埋まり、前から回された手のひらが優しく背中を叩く。
整えるように意識して呼吸を繰り返し、鼻の奥に目一杯、自分をあやす青年──茜の匂いを取り込み心臓の鼓動を抑える。
「すぅ──はぁ…………汗くしゃい」
「やかましい」
「でも、おねがい、今は離れないで」
「はいはい」
まだ少しカタカタと震えているきくりに、茜は言われた通りに傍に立つ。それからくぅと腹を鳴らす彼女に、小さく笑って提案をする。
「とりあえず、居酒屋でも行くか」
「…………うん」
きくりの手を引いて立たせると、そのまま彼女を連れてその場から離れる。掴んだその手は、異様なまでに冷えきっていた。
──昼間にも関わらずちらほらと酒を嗜む大人を見かける居酒屋の奥、学生の青年とスカジャンの女性という異質な組み合わせが、二人用の席で対面している。
海鮮丼を黙々と食べ進める青年──茜の眼前で、廣井きくりは、5杯目のジョッキの生ビールを一息で飲み干していた。
「っ──だはぁ~~!! 復活!!」
「そりゃよかった。全くよくないが」
最後の一口を放り込み、飲み込んで熱いお茶をすする茜。彼は大口を開けてお握りを口に入れるきくりを見て、空のジョッキに視線を移す。
「……
「ん~~? なにがぁ?」
「酔いが覚めるとああなるんだな。……頭を不安に支配されてるんだろう、だから酒に溺れていたい。日頃から安酒ばかり飲んでるのもアルコールを取れさえすればなんでもいいからだ」
「……そうだねぇ。あ! ビールお代わり!」
「お代わりしない。すいませんキャンセルで、あと会計お願いします」
空のジョッキを掲げるきくりの言葉を遮って、茜は店員にそう言って財布を出す。
ビールぅ~~~とごねる彼女を引きずって店を出た茜がそのまま手を引いて歩くと、背中を一瞥して気になったことを問いかけた。
「またベースが無いんだが」
「うーん、さっき思い出したけどたぶんライブハウスに置きっぱなんだよねぇ」
「……無くしたわけじゃないならいい」
酔いが回って上機嫌なきくりは、自分を引っ張る茜の手をぐにぐにと握って笑みを浮かべる。
「んへへへぇ」
「……なに?」
「茜くんの手ぇ、あったかいね」
「きくりちゃんの手が冷たいんだ」
茜は呆れた表情をするがきくりからは見えないため、面倒くさそうにため息をつく。
そうして歩き続けて、茜ときくりは、新宿駅前のベンチに腰かける。
道中で買いだめしたいつもの安酒をストローですするきくりに、横に座った茜は、酷なことだとわかっていながらも提案をした。
「きくりちゃん」
「なぁにぃ?」
「酒飲む量、減らそう」
「────」
ぴたり、と動きが止まる。きくりの目が開かれ、渦巻いた瞳が茜を捉えた。
「なにも飲むなとは言わない。酒を絶ったらどうなるかを見ておいてそんなことは言えない」
「…………」
「でもこのままこんな生活を続けてたら碌なことにならないのも、わかってるよな?」
「……うん」
窘めるようにできるだけ優しく言う茜に、そのことはちゃんと分かっているからこそ、きくりは横の茜から前に視線を戻して喧騒を眺める。
そんな彼女に茜は、好意を利用している自覚をしながら渋い表情で言った。
「──きくりちゃん、四年だ」
「へ?」
「俺が成人するまで四年。その時まで酒の量を減らせたら……その安酒で悪酔いする人生を少しでも変えられていたら、俺と一緒に美味しい酒を飲んで、どうせなら、楽しく酔わないか」
「──え、ぇ、えっ?」
表情を取り繕って、口角を歪めてぎこちなく笑みを浮かべる茜。きくりは一度ポカンとして──酔いとはまた違う意味で頬を染める。
「……プロポーズされちゃった♡」
「解釈は人それぞれだから否定はせん」
「でも四年かあ、長くない?」
「星歌さんいわく『20代前半が終わった辺りから時間の流れが異様に早くなる』らしいから、きくりちゃんの感覚でもあっという間だぞ」
「怖い話しないでくれる…………ん?」
「どうかしたか────」
軽く引きながらそう言うきくりが、ふと茜を見て──否、茜の首筋を見て、酔ってふわふわとしていた顔色が真顔に戻った。
その流れでガバッと掴みかかったきくりは、暑さで第2ボタンまで開けた茜のワイシャツの奥にある首筋をじっと観察する。
「…………」
「おい、きくりちゃん?」
「……へぇ~~~、先輩そういうことしちゃうんだ」
面白くないものを見てしまったかのように気分を下げるきくりが、ムスッとした顔で離れると、明らかに苛立ちを見せながら茜の左手を掴んで口許に持って行く。
「茜くぅん、駄目だよぉ? 釣った魚に不用意に
「は?」
「──そんなだから、こうなるんだよ」
そう言うや否や、彼女は大口を開けて茜の左手薬指を口内に含む。そして、付け根の辺りに、ギザギザした歯でガリッと噛みついた。
「い゛っ、づ」
「んぐぁぐ────んぁえ」
一瞬、噛み千切られるのではないかと邪推し背筋に怖気が走った茜だったが、きくりは満足したように咥えた指を離した。
ねとっと唾液が付いた指をハンカチで拭う茜は、付け根にくっきりと歯形が付いているのを確認して、眉を潜めて口を開く。
「……何がしたいんだ」
「ん~~……マーキング?」
「──は?」
「結束バンドにぃ、先輩にぃ、そんで私。多いねえ。そうやって人をたらしこむクセに見ない振りをするなんて、ちょっと不誠実だよね」
「…………」
くたり、と気だるげに首を傾げるきくりに、茜はなにも言い返せない。
「私にこうやって気にかけてくれるのに、先輩にふらふら~、ぼっちちゃんたちにふらふら~。だからマーキングするしかないんじゃん」
おもむろに立ち上がり、座る茜の前に立つと、きくりはギザ歯を見せて獰猛に笑う。
「──こんなメンドクサイ女を堕とした君が悪いんだよ。私はとっくに君に溺れてる」
「……そうかい」
「大丈夫、出来るだけお酒は控えるよ。茜くんと私の、
そう言いながらきくりは茜の頬に手を添えて、くいっと顔を上げさせると、自身のねっとりとした視線と目を合わさせて言った。
「──だから、その指の傷を見る度に、私の顔を思い出してね」
廣井きくりは、酔っている。酒に、場の空気に、柊木茜という一人の人間に。そうしてドロリとした感情を濃縮し、惜しむように頬を指で撫でて、きくりはするりと離れる。
「そんじゃあ私は帰りまぁす。そのうちライブハウスに遊びに来てよ~。
「含みのある言い方をやめろ」
「んへへぇ」
──じゃあねぇ~~~! と大袈裟に手を振ってその場をあとにするきくりのおぼつかない足取りの後ろ姿を見送って、茜は空を見上げる。
日が傾いて夕焼けが顔を覗かせる頃、重苦しいため息をついて、ぽつりと呟いていた。
「……卒業したら高飛びしようかな。いや駄目か、約束は破れないしな……」
お気に入りと感想と高評価ください。