2月も末の頃、週末の三連休を利用して久方振りに伊地知家に泊まりに来た茜は、バイト後に星歌と共に買い物をし終えて帰宅する。
ガチャガチャと忙しなく鍵を開けたドアをくぐった二人の頭は、それぞれが大雪に煽られ、黒髪と金髪を見事に白く染めていた。
「うおぉぉっさみぃぃいっ」
「お帰りー……ってうわ真っ白」
「すぐ近くだからって、傘を持っていかなかったのは失敗だったな……」
玄関から外に頭だけ出して雪を払った茜は、空いている手で星歌の手から荷物を取る。
「星歌さんも頭の雪落とした方がいいですよ。俺は食材を冷蔵庫に入れてきます」
「おう、サンキュー」
「あたしタオル取ってくるね」
両手それぞれにビニール袋を掴む茜の背を見送って、虹夏はタオルを取りに脱衣所に向かう。頭の雪を払った星歌も茜を追ってリビングに向かい、暖房の効いた室内でほうっと一息ついた。
「あ゛~あったけぇ……」
「ほい、タオル持ってきたよ~」
冷蔵庫に買ってきた食材を仕舞う茜が扉を閉めた辺りで、二人は虹夏からタオルを渡されて雪でしっとりと濡れた髪を乾かす。
「ねえ、外すごかった?」
「ああ、朝から降っててここまで酷くなるとはな。……ぼっちちゃんたちは帰れたのか?」
「ひとりと喜多からは帰宅した旨のメッセージは来てますよ。ただ……この大雪のせいで、どうやらさっき電車が止まったようですね」
運行状況を確認できるアプリを見ながらそう言って、果たして明日帰れるのか……? と逡巡する茜。それからふと、台所を見て続けた。
「ところで虹夏」
「…………な、なにかな?」
「俺は確か、買い出しの前に米を炊いておいてくれと頼んだような気がするんだが」
「…………ひゅ、ひゅーひゅー」
「口笛へったくそかお前」
掠れた口笛で誤魔化そうとする虹夏に、星歌は呆れた顔で指摘する。
「だ、だって水が思ったより冷たいんだもぉん! お湯で研ぐわけにもいかないし!」
「そうか。……気持ちはわかる」
昔から自炊しているからこそ、茜には虹夏の嘆きが痛いほど理解できる。冬場の炊事の辛さに理解は示すが、けれども頼んだことを一度は承諾しながらやっていないのは別問題であった。
「ただ、それはそれだ」
「ぐぬぬぬ……じゃあ仕方ない、誰が皿洗いと米研ぎをするか……じゃんけんで決めるよ!」
「えっ私もやんの?」
「死なばもろとも!」
どさくさで巻き込まれた星歌を横目に、茜はごねる虹夏に向き合いながらため息をつく。
「行くよー! さいっ、しょは、グー!」
気合いの入った声に合わせて、三人は同時に握り拳を振り下ろした。
──水の流れる音に、虹夏の悲痛な呻き声が混じる。ザルで米を研ぐ彼女は、冷水で凍える手の冷たさから逃れたがっているかのように、滑稽な動きで体をくねらせていた。
「ひぃぃぃん冷たいぃぃぃっ」
「むごい……っつーか茜くん、じゃんけん強いんだな。三回勝負にされても勝ってたし」
「まあ、動体視力は良い方なので、律儀に『最初はグー』で始めた虹夏が悪い」
「…………あー、なるほど」
合点がいった顔で、星歌は頬杖をついて冷水に悶えている虹夏の背を眺める。茜が勝てたのは、実際のところなんてことはなかった。
「『最初はグー』から形が変わらなかったらパーでいいし、指を開くのが見えたらチョキを出せば、絶対に勝つかあいこになりますから」
「凄いけどさ、そういうのって才能の無駄遣いって言うんじゃねえかな……」
「さあ、どうなんでしょうね」
肩を竦める茜だったが、おもむろに会話を遮るように鳴ったインターホンに耳を傾けた。
「……何か宅配でも?」
「いや。この天気じゃ、あっても来ないだろ」
「それは確かに。ちょっと確認してきますね」
立とうとした星歌を遮り自分が立つと、茜は廊下の方へ歩く。訝しむように眉間にシワを寄せ、来客の予定が無いことを思い返した。
「リョウか? ……流石のヤツでもこの大雪の最中に野草探しはしないか……」
──ギリギリありうるな。と独りごちて、茜の手がドアノブに伸びる。
そうしてゆっくりと開け放った扉の向こうに立っていたのは──元からあまり良くない顔色を更に青ざめさせ、鼻水を垂らし、頭と肩と背中のギターケースに雪を積もらせて、ガタガタと震えている見慣れた酔っ払いだった。
「せ、せ、しぇ、しぇんぱ~~い、お風呂貸してくらさ~~い……」
「じ、自殺志願者……」
「ありぇ、茜くん。なんれ居るの?」
この季節この気温この天気であるにも関わらず、衣服がワンピースにスカジャンといういつもの格好から変わっていない。そんな自殺志願者──廣井きくりに、さしもの茜は、心底ドン引きした顔を向けることしか出来なかった。
「──いーい湯っだっ、なぁ~」
「そりゃよかった」
カポン、という音が聞こえてきそうな状況。浴室で湯船に浸かるきくりが沈まないようにと、茜は脱衣所で椅子に座り、浴室とを隔てる半開きの扉を視界の端に納めながら言葉を返した。
「それで、なんで死にかけていたんだ」
「それがねぇ~、帰ろうとしたら大雪で電車止まっててさぁ。タクシー使うお金もないし、とりあえず先輩んちに避難しようと思ったんだけど……途中でスッ転んでびしょびしょに」
「本当に死ぬ寸前だったのか……」
ゴウンゴウンと動くドラム式洗濯機の中で揺れるきくりのワンピースと下着、そして自分達の使ったタオルを一瞥し、茜は手元の携帯に視線を落として操作する。
彼女が出るまでの暇潰しに電子書籍を読み進めていると、不意に話題を振られた。
「…………ところでさぁ~」
「ん?」
「なんで茜くんが先輩の家に居んの?」
「────」
その声に、普段のおちゃらけた雰囲気は存在していなかった。茜はなにが気に入らないのか──と、鈍感な振りをするのは無駄だと悟る。
「前々から、ちょくちょく料理を教えていたからな。バイト終わりの都合で泊まり掛けだったりで、自然とこうなっていっただけだ」
「ふ~~~~~ん」
言外に『面白くない』と言っているのが嫌でも伝わってくる伸ばされた声に、茜は面倒くさそうに小さくため息をついた。
直後にざばっという水から上がる音を聞いて、慌ててバスタオルを取りに行く。
「茜くぅーん、タオルちょーだい」
「ほら、中で足滑らせるなよ」
「ありがと~」
半開きの扉の向こうから伸びてきた水気を帯びた手がひらひらと動き、茜がその手にバスタオルを握らせる。洗面台の傍らに置かれた替えの下着と星歌たちの予備のパジャマを見て、茜はその流れでリビングに戻ろうと踵を返す。
「じゃあ、俺は戻って待ってるから、髪の毛までちゃんと乾かすんだぞ」
「えー、拭いてくれないのぉ?」
「この歳で介護はちょっと……」
「誰がお婆ちゃんか、まだピチピチだい」
「……いや……まあ……」
茜は何か言い返そうと思ったが、星歌の後輩ということは少なくともアラサーか間近であるわけで、きくりは果たしてピチピチなのか。
「ふんふん、ふふふーん」
そしてそれを指摘することが星歌への流れ弾になるのではないか。そんなことを逡巡してしまい、浴室の中で鼻唄混じりに体を拭うきくりを置いて、茜はそっと脱衣所を出ていった。
そのまま悩むように唸り声を出しながら廊下に出た茜は、タイミング良く呼びに行こうとしていたらしい虹夏と鉢合わせる。
「ううむ……」
「茜くん。ちょうどよかった、お姉ちゃんがご飯できるって。廣井さんはお風呂出た?」
「ん? ああ、体を拭いてるところだ」
「……あっ! 裸とか見てないよね?」
「もし見てたら俺の姓は廣井になってる」
「即責任取るレベル!?」
即答した茜に驚愕の声を返しつつ、虹夏もまた踵を返してリビングへと歩く。廊下とリビングを仕切るのれんを潜ると、暖房の暖かさとは別に、ふわりと料理の芳しさが鼻に届いた。
「あのアホの見張りお疲れ。今日は……冷蔵庫のキノコが賞味期限ギリだったから、さっき買った鮭と纏めてホイル焼きにしたぞー」
「いい香りですね」
「4切れ買って1切れ残すつもりだったんだけどな。ったく、あの酔っ払いめ」
テーブルに皿を置いて行く星歌はそう言ってぶつぶつと文句を呟くが、茜もまた、文句を言いつつもちゃんと人数分用意している彼女に返す。
「来なかったら、今頃路上で冷凍マグロになってたと思いますよ」
「そうなってたら朝イチで築地市場に出すわ」
「誰が冷凍マグロだ~、って。まあ、お風呂で温まって解凍されてるけどねぇ」
「おう出たかバカ野郎。仕方ないからさっさと飯食って寝ろ──ぐぶふ」
「なんだよぉ」
のれんの奥から現れた廣井に顔を向けたはいいものの、言葉を言い切る前に吹き出した星歌に、彼女はムスッとした表情をする。
いつもの格好とは一転して可愛らしいモコモコのパジャマを着ている廣井を直視出来ず、星歌は肩を震わせながら視線を逸らした。
「いや、ちょっ、ぐっくくくく」
「先輩、笑いすぎじゃない……?」
「許してあげてくれきくりちゃん、星歌さんはわりと精神面が幼いんだ」
──食後、ほっと一息ついたきくりが、星歌と共に晩酌に開けていた酒を呷りながら隣に座っている茜にぐだっともたれ掛かる。
「いーい~なぁ~。茜くんに料理教えてもらって一緒に食べてお泊まりとか贅沢だぁ!」
「うるせーな」
「結構前からデカいリュックが置いてあるなあとか思ってたけどぉ、こういうのってぇ、みせーねんいんこーなんじゃないんですかぁ!?」
「合意の上だからいいんだよ」
「法的にはどうなんですかね」
酔いで顔を赤くするきくりにもたれ掛かられる茜は、酔っ払い同士のぶっ飛んだ会話に静かに頭を痛めながら炭酸水を飲む。
「ねーえー、うちにも来てよぉ~、うちお風呂ないしいつも変な気配するけど~」
「行きたくなくなる情報しか出てこないのは勘弁してくれないか」
「こらぁ! 茜くんは……渡さん」
「いえ星歌さんの物ではないです」
万が一にも言質を取られてはいけないと適宜否定している茜をよそに、会話はヒートアップして行く。すると、コップの中身を飲み干したきくりが、それをテーブルに置きながら強く言った。
「そうだそうだ! 茜くんは私のだい! 困ったら新宿FOLTに来いって予約したもん!」
「んだとぉ……ほんとなの?」
「……まあ、はい」
ふと、星歌の雰囲気が変わり、茜の顔を見てその表情から大人っぽさが鳴りを潜める。
「……本当にこいつんとこに行くの?」
「──いえ、それは考え中なのでご心配なく。少なくとも、高校卒業して以降の選択肢の一つ……程度だと思ってますし」
「おーい、酔っ払いたちー、そろそろ寝る準備しなよー、明日が辛くなるよ~」
茜の言葉を耳にして、どことなくホッとしたような顔をする星歌。そんな三人に、パジャマに着替えた虹夏がお開きの宣言をした。
寝る前にと渡された水を一杯呷るきくりが、ふと気になったことを問いかける。
「私どこで寝ればいいの? ソファ?」
「──ソファは茜くんが使う。お前は私の部屋だ、予備の布団は貸してやる」
「えぇ~! 茜くんと寝た~い~!」
「もし仮に寝ゲロとか吐かれたらそっと縁を切るレベルで辛いので勘弁してください」
「さすがにしないよ!?」
すっ、と視線を逸らす茜に抗議するも、きくりは星歌に引きずられて部屋に消える。リビングのソファで寝るために代表で電気を消していった茜は、自室の扉を開けている虹夏を見た。
「酔っ払い二人の相手、大変だった?」
「ああ。……でも、ある意味子供を相手してるようなものだったな」
特に──と続けて、幼い顔を表に出してきた星歌の表情を想起して茜はかぶりを振る。
「……? それじゃお休み、茜くん」
「お休み、虹夏」
パタンと扉の奥に入っていった虹夏を見送った茜は、そのままソファに寝転ると、布団を被ってリモコンで残りの電気を消す。
「星歌さん、どことなく
──星歌さんはわりと精神面が幼いんだ。半ば無意識に口からでた言葉だったが、これはおそらく、かなり的を射ているのだろう。
暗い部屋の中でポツリと呟いた懸念にも近い言葉は、闇の中に溶けて消えていった。
「うわー、先輩の部屋凄いファンシー」
「黙って寝ろ」
「あっでも写真とか飾ってる────あの、先輩、このぼっちちゃんと茜くんの写真、顔の角度からして明らかに盗さ「当て身」う゛っ」
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