──それは、
実家から離れて姉と共に祖父の世話になっていたアオイにとって、【楽器店コトノハ】は、あまり好きではない空間だった。
たかだか弦楽器を鳴らすことの意味も楽しさも理解できず、しかして姉と祖父が楽しげにするその空間が、どうにも居心地悪く。
──その日に限ってそんな居心地悪い店に居たのは、単なる偶然で。けれども確かに、その出会いは運命と言う他無かった。
『……いらっしゃい、ま、せ……』
来客を知らせるドアの開閉音。
『おやお嬢さん、もしかして
『あっ、う』
祖父の旧姓を知っている、飄々とした態度の男性。その後ろには、妻なのだろう、神経質というよりは堅物そうな女性が立っている。
祖父は店と繋がっている二階の自宅に居て、どうしたものかと悩んでいると、ちょうどそこに現れた姉が会話を引き継いでくれた。
『──ちょいちょいちょい、無月さん。うちの妹を虐めんといてくれや』
『アカネちゃん……ああ、妹が居たのかい』
『せやでー、じいちゃんはすぐ来るからレジの方で待っとってや』
『それはよかった』
『……つーか今日は何の用なん? 掘り出し物のレコード盤なら買ったばっかやろ』
『あっ今それを言われるのは困る』
『あなた……?』
『はい』
『はいではないのよ』
姉の失言で家族会議が決定したのを尻目に、アオイはふと、振り返ってこちらを見てきた女性に目線を合わせるように屈まれて言われた。
『悪いのだけれど、息子と一緒に楽器を見ていてもらえないかしら』
『えっあっはい────息子?』
『……どうも』
『うぉわあっ!?』
女性の言葉に小首を傾げるアオイだったが、まるでいきなり現れたかのような気配と共に会釈してきた少年に、飛び上がるように驚く。
『……柊木茜です。よろしく』
『あ、アカネ?』
『……名前が、なにか?』
『う、ううん。なんでもない』
ポツンと残されたなか、アオイは彼──茜の名前に小さく驚く。なぜならその名前は、自分の姉とまったく同じであったからだ。
ともあれ客を任されたことに変わりはなく、取り敢えずと店内を見て回る。
『あ……かね、くん。きみも、あなたのお父さんみたいに楽器が好きなの?』
『……さあ、どうだか』
ぼんやりと楽器を眺める茜を見て、アオイはただただ、奇妙な感覚を覚えていた。
しいて言葉にするなら、茜の静かな雰囲気は植物のようであった。幼い見た目とは裏腹に、大きな木の傍に居るような安心感がある。
テンポが一拍遅い言葉も、それを紡ぐ声も、不思議と心地好く。しかし居心地悪そうにしているアオイを見て、茜は端的に言った。
『……アオイさんは、音楽が嫌いなのか』
『──そう見えた?』
『少なくとも、好きではないんだな、とは』
『……うーん、まあ……そうだね』
一瞬言い淀んだアオイだったが、茜の顔を見て肯定し直す。そのままポツポツと、自分の中の不満を暴露するように口に出した。
『ちょうどきみくらいの時に、ピアノを習ってたんだ。でも先生も他の子達も、コンクールで優勝して良い成績を残してプロになる──って、そればっかりで』
『……つまらなくなった?』
『うん。それで前からそこまで好きじゃなかった音楽が、余計に苦手になった。だって……私はもっと、自由に弾きたかったから』
傍らに置かれているドラムのシンバルを指でつつきながらそう言ったアオイに、茜は少し考えるそぶりを見せてから言葉を返す。
『……父さんは音楽好きで、レコード盤を集めるのが趣味だ。でも母さんは音楽関連にまったく関心が無いから、父さんの趣味は否定しないけど理解もできない。
なのに今日、母さんがわざわざ俺たちとここに来たのは、俺になにか趣味の一つでも持って欲しいという意見が一致したからだ』
『趣味、無いの?』
『……強いて言うなら、日光浴?』
『老人みたいだね……』
顎に指を当てて逡巡した茜に、アオイは呆れつつもクスリと笑う。
『茜くん、趣味を持ってないからって、無理に持とうとしなくてもいいんだよ?』
『……まあ、それもそうだ。──ん』
『ん?』
改めて歩きながらそんな会話を交わすアオイの隣で、おもむろに茜は足を止める。
顔を向けた茜の視線を辿って壁を見たアオイの目に映ったのは、一本のギターだった。
『茜くん?』
『────』
派手なわけではなく、ただただシンプルなデザインの黒いエレキギター。けれどもそれを視界に入れた茜の心臓が、一際強く高鳴ったことを、彼自身確かに感じる。
まさに欠けていた部分に歯車がピタリと合わさったような、『柊木茜』を構成する最後のピースが埋まったような、そんな感覚があった。
『……
『そんな簡単に決めちゃっていいの?』
『間違いない』
そのギターを手にとって、ストラップを肩に提げて両手で抱える。ずしりとした重量感と共に、初めて触るはずのそれが長年使い込んだかのようにしっくり来ていた。
『──アオイさん』
『な、なに?』
『俺はたぶん、ついさっきまで、音楽にも楽器にもさほど興味はなかった』
ストラップを外して抱え直し、わずかな埃を指で拭い、茜はアオイに向き直る。
『なのにもう、俺は
そして、彼女の顔を見て。
『それは、凄く素敵なことなんじゃないかな』
『────』
──そんな、柔らかい笑みを浮かべた。
『じゃあ、レジの方に行きますね』
『っ、あ……うん……』
万が一にも落としてしまわないように慎重に歩いて行く茜の背中を見送るアオイは、ほぼ無意識に、バクバクとうるさい心臓を押さえるように胸元を手で強く握る。
『? ……? ……??』
その顔の熱さも、胸の高鳴りも、それがなんなのかを表す言葉を、幼い小学生はまだ知らない。その感情の名前を彼女はまだ、知らない。
『父さん』
『ん?』
『決めた。これにする』
何があったのか、どことなく萎びている男──柊木無月は茜の声に振り返ると、抱えているギターを視界に納めてそれを受けとる。
『ほぉー、ギターか。
『コレクション目的のレコード盤に大枚はたいたばかりなのに、お金はあるのかしら?』
『弥生さん、言葉がチクチクしてます』
傍で話を聞いていた女性──柊木弥生のジトっとした目付きと共に放たれた言葉に、無月は萎びた顔をさらにしおれさせる。
『母さん』
『わかってるわよ。私も半分出す約束なのだから。でもそれはそれ、これはこれ』
『それもそうだ』
『味方が居ない……』
『自業自得やろ』
がくりと項垂れながらも、無月は意識を切り替えてギターをレジに置くと、ガラスケースを間に挟んで向かいに座っていた老人に言葉を投げ掛ける。まるで鋭く研がれた刃のような雰囲気を放つ老人は、ギターを見て言った。
『黒井、それ幾らだ。60万くらいか?』
『……ああ、これは──110万だな』
『たけ────よ馬鹿!?』
反射的に声を荒らげた無月に、黒井と呼ばれた老人はあっけらかんと返す。
『これでも安い方だ。それともなんだ、小僧に買えないからもっと安いやつを持ってこいとでも言うつもりなのか?』
『いや、そういうわけじゃ』
ピリピリとした空気に、さしもの弥生たちも押し黙る。すると、黒井はふいに茜を見るやいなや、考え込むようにゆったりと息を吐いた。
『──ふむ』
『……なにか?』
『小僧。このギターを選んだ理由は?』
『……はい?』
『答えろ』
じろりと睨まれながらも茜は少し口をつぐみ、一拍置いて黒井に言い返す。
『ただ、なんとなく』
『……ほう?』
『一目見て、これだ、と思った』
『それだけか?』
『はい』
『ふぅ、む』
黒井は茜の言葉を耳にして、その瞳を見下ろしてから、愉快そうに口角を歪めた。
『ふっ、一目惚れか。
『……?』
『わかった。80万でいい』
『おい黒井……声を荒らげた手前申し訳ないんだが、いいのか?』
『構わん、将来を見越して負けてやる。──アカネ、他に必要なものを繕ってこい』
『へぇ~い』
手際よくクレジットカードのリーダーを起動する黒井が片手間で孫娘にそう言い、手慣れてやがる……と呟いた無月は財布から取り出したカードを挿し込む。
『無月、アカネに外の車まで他の荷物を持ってこさせる。ギターケースだけやるから、それを入れて先に積み込んでこい』
『ああ、じゃあまたな』
『そうだな。──それと小僧』
『はい?』
ギターケースを取り出してそれに買ったギターを入れさせると、無月に手渡して店から出ていかせながら茜に言葉を投げ掛ける。
踵を返そうとした茜は、訝しげに眉を潜めて黒井の方へと振り返った。
『……なにか』
『いや、名前を聞きそびれていたからな』
『……ああ。柊木茜です』
『──
奇しくも孫娘と同じ名前に、黒井の表情は和らぐ。改めて会釈してから店を出ていった茜の後に、エレキギターのための道具を渡し終えたアカネが戻ってくると、呆れた顔で口を開いた。
『じいちゃん、ほんまに良かったんか?』
『なにがだ』
『110万のギターを80万で売るって、そんなんで商売成り立っとるんか』
『気にするな。まあただ、一つ訂正するとな』
『あん?』
『──あれの本当の値段は150万だ』
『はァ!?!?』
ポカンと口を開けたまま驚くアカネ。さらりと爆弾発言した黒井は、視界の端でふらふらと歩いてくるアオイを見る。
『実質70万負けたってことかい……なに考えとんねんジジイこら』
『そう渋い顔をするな。若い才能に70万投資したとでも考えればいい』
『才能、ねぇ……?』
『疑っているな?』
『当たり前やろ』
『あいつはあのギターに一目惚れした。そういう奴は、決まって成功してきたものだ』
『ほんまかいな……』
眉唾物の話に信じられないものを見る顔で黒井を一瞥するアカネだったが、戻ってきたアオイの方を見て朗らかに声をかけた。
『お、アオイ~、休憩してきてええで』
『…………うん』
『アオイ? どないした?』
『…………うん』
『────』
反応がよろしくない妹の顔を覗き込んで、アカネはなにかを察したように呟く。
『アカン、脳をやられとる』
『なんだ、恋でもしたか?』
『やろなぁ……いやいやいや、年下はアカンて』
ポーっと熱に浮かされたように上気したアオイの顔が、水色の髪を目立たせる。
──面倒臭いことになったなぁ。アカネはそんな言葉を飲み込んだ。
果たして、とある少年はギタリストへの第一歩を歩み始め、果たして少女は淡い感情を抱き、これからを期待させる未来を想像させた。
だから。
──だから。
病室で右腕を吊るし、何も反射しない底無し沼のような瞳で出入口の自分を見る茜の前から逃げ出したことを、少女は今でも後悔している。
──STARRYに訪れたアオイは、テーブルを挟んで座る茜に、意を決したように言った。
「茜くん!」
「はい」
「貸し2つが残ったままなの、覚えてる!?」
「はい」
ぐわっと前のめりになる彼女から離れるように体を反らす茜は、アオイが元の姿勢に戻るのに合わせて反らした体を前に戻す。
「だから……その……えっと、ね」
「はい」
「お、おっ……おデート、しない?」
「……はあ、なるほど」
視界の端で飲んでいたパックジュースをストローから噴出させて顔を濡らす星歌を横目に、傍らのバッグから手帳を取り出して広げる。
「何時にしますか?」
「──へ? い、いいの?」
「断る理由もありませんし、こちらとしても貸しはさっさとプラマイ0にしたいので」
「あ、あ~、じゃあ……次の週末に……きみの地元の水族館とか、どう? 実は大学の友達から、ペアチケットを貰ってるんだけど」
「次の週末…………はい、大丈夫です」
予定の確認をした茜の言葉にホッとしたように一息つくと、アオイは席を立った。
「よ、よかった……! じゃあ来週っ! 駅前で合流……でいい?」
「はい。楽しみにしていますね」
「うんっ。それじゃあまたね」
「ああ、駅まで送ります」
ふにゃふにゃと口角を緩めるアオイは、席を戻して鞄を肩に提げる。携帯を手に取って彼女を送るべく二人で店を出ていった頃、顔をタオルで拭いた星歌が凄まじい顔をしながら呟いた。
「おデート……だとぉ……!?」
「店長顔凄いですよ。何かあったんですか?」
スタ練を終えたひとりたちがスタジオから出てくると、喜多が代表して星歌に指摘する。
「どうもこうもねぇ──茜くんがあの水色とおデートしてくるってよ……!!」
「柊木くんが……おデート……?」
「喜多ちゃん顔が修羅になってるよ」
星歌の言葉に釣られて目から光が消える喜多に、続けて虹夏が口を開く。
それからふと、ガチャリと開けられた扉から、頭頂部から黒髪が伸びた半端なピンク色の髪を揺らす女性──アカネが入ってきた。
「邪魔すんでぇ」
「邪魔するなら帰って」
「あいよ~……ってなにやらすねん」
さらりとリョウが放ったボケに律儀に乗って一度外に出たアカネが改めて入ってくると、四人と星歌を確認してから即座に本題に入る。
「もう話は通ってるやろうけど、うちの妹がそっちのクソガキとおデートしてくるらしいな」
「みんな『お』デートって言ってるけどそういうルールでもあるの?」
虹夏の問いを無視しつつ、アカネは睨んでいるように見える目付きをさらに細めて言う。
「お互い、大事なモンがおデートすんのは不安やろ。それはよくわかる」
「まあ、それは……そうですけど」
「せやから一つ、エエことせんか?」
「いいこと?」
ニヤリと笑ったアカネが、頬に貼り付いた髪を後ろにやりながら、全員を見て提案する。
「二人のおデート、尾行して盗聴しようや」
「『道徳』をご存じでない!?!?」
「そんなん親の腹に置いてきたわ」
「ものすごいシンプルに最悪なことやろうとしてる……こらリョウ! ウズウズしない!」
「えっ、えっ、ええっ……?」
あれよあれよと進む話を前に、ひとりが立ち尽くす。ともあれ週末に始まる茜とアオイの水族館デートが、一つのターニングポイントとなることを、この時の全員はまだ知らないのだった。
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