翌朝、ふたりの髪を櫛していた茜は、雰囲気を沈ませたひとりを確認する。
顔を洗いに行ったひとりの元に向かうと、茜は彼女に声をかけた。
「ひとり、風邪は引けたか?」
「丈夫な体が憎い……」
「だろうな」
「でも……こんな愚かな私ごときに優しい言葉を掛けてくれた虹夏ちゃんのお陰で私は真人間に戻れました……ふ、ふふ、ふふふふふふ」
不気味な様子でぶつぶつと呟くひとりに、流石の茜も心配気味に問う。
「お前大丈夫か? ひとり、俺が今何本指を立ててるかわかるか?」
「65本…………」
「誰が化物だ」
──化けるのはお前だろ。
と反射的に言いそうになり口をつぐむ茜だが、相当参っているな……と独りごちる。
「そうネガティブになるなよ、新人なんだからいきなり難しい仕事は任されないだろ」
「う、うん……」
不安そうにしながらも、とりあえず逃げる心配はないようで一安心する茜。
どちらにせよバイトは放課後からで、まずは学校に行かなければならないため、茜は後藤家で食事を済ませ、着替えるために自宅に戻る。
「……ボーカルが欲しいって言ってたし、参加してくれそうな奴でも探してみるか」
──バンドメンバーでもない奴に聞かれて参加したがるかはともかく。そう続けて、茜は鞄を手にして家を出ると、ひとりと共に片道二時間の電車に揺られていた。
──放課後、帰りにSTARRYへと赴いた二人。考えるそぶりを見せる茜に代わって扉を開けようとするが、ひとりはバイトのことを考えてドアノブに手を掛けたところから進めず動けない。
「歌が上手くて愛想もいいとなると……あいつよりは喜多の方が適任か……でもメンバーでもない奴に誘われてもな……とはいえひとりにやらせるには荷が重いか……?」
「──チケットの販売は5時からですよ」
「……ん?」
「ひっ」
すると、背後から声をかけられて茜は意識を表に戻し、ひとりは怯えて背中に隠れる。
「まだ準備中なんで」
「店長さん、俺たちはバイトで来た者です。にじ──伊地知さんから聞いてませんか」
「バイト? ……ああ、あいつが言ってたやつか。じゃあ入りなよ、中で話そう」
金髪の女性はそう言って扉を開ける。その後ろを付いて行く茜は、背中にひっつくひとりを引きずりながら店内へと歩を進めた。
中に通された二人は、椅子に腰かけた店長にじろりと視線を向けられる。
「──それで、バイトだっけ?」
「はい。……あ、履歴書って必要だったりしますか? 持ってきたんですけど」
「要らないけど、まあ一応貰っとく。……柊木……茜くんね。そっちは──あれ? この前ライブで段ボール被ってたギターの子じゃん。たしか名前は……マンゴー仮面」
「全然違いますけど」
「まままマンゴー仮面です!」
「本人はこう言ってるけど」
「これはそういう生態なんです」
店長はそう言うが、『アダ名そのもの』ではなく『人にアダ名をつけてもらうこと』の方が重要であるため、ひとりにとっては『ぼっち』も『マンゴー仮面』も大差が無い。
茜は後ろで店長を怖がっていたにも関わらず、もう既に懐きつつある彼女に呆れていた。そんなとき、ふいに現れた虹夏が言葉を返す。
「──そんな名前じゃないでしょ! お姉ちゃんも変なアダ名つけないでよ」
「おねっ……虹夏ちゃんのお姉様!?」
「そうだよ~、だからあんまり緊張しないでいいよっ! ね、お姉ちゃん」
「ここでは店長と呼べ。あと私情を挟むな」
「ひぃっ」
先日の話をほとんど聞いていないひとりは虹夏の言葉に驚きつつ、眉間にシワを寄せる店長に再度怯えて茜の後ろに逃げ込む。──これ本当に大丈夫なのか。と無言で心配しながらも、茜たち四人はバイトを始めることとなった。
「じゃあまずはテーブル片そうか。それ終わったら床拭いて、テーブル戻してアルコール消毒して…………あれ、ぼっちちゃん?」
てきぱきと指示を出しながら袖を捲る虹夏が、いつの間にか居なくなったひとりを探す。キョロキョロと辺りを見回す虹夏はリョウと茜が下を指差すのを見て、テーブルの下を確認した。
「……うわっ!?」
「すみません……暗くて狭いところで一息つきたくて……」
「一息つくのはやっ!」
「ひとりには肉体労働は難しいか……虹夏、こっちは俺とリョウでやるから、ひとりでもやれそうなのをあてがって貰えるか」
「はいはーい、それじゃこっちでドリンク覚えよっか! これも立派な仕事だよっ」
「あっ、はい」
茜に両脇を持たれて引っ張り出されたひとりは、虹夏に連れられてカウンターの裏に向かう。
残った二人でテーブルを退けてモップ掛けしていると、暫くしてから、カウンターの裏から唐突にギターの音色が耳に届いた。
「カクテルは~後ろの棚~ビールはサーバーから~~~」
「ちょちょちょなにやってんのぼっちちゃん!?」
「……弾き語りで覚えようとしてるのか。変なところで頭がいいな」
軽快なBGM代わりに床をモップで擦っている茜は、ふと、ギターを聴いている店長とPAがひとりたちの方を見ていることに気がつく。
「楽しそうですね~」
「あれ、前のライブでは下手だったのに」
「なんか上手ですね~、ねえ柊木くん」
「そうですねー」
PAに話題を振られ、茜は適当に同調しつつ大急ぎで思考を回す。──ひとりの腕が本来であればプロレベルであることがこのままバレたとして、どういったデメリットがあるか、と。
チームでの演奏がまだ得意ではなく、実力を発揮できていないひとりの腕は、良くも悪くも虹夏とリョウとほぼ同じ。
「ひとりの正体をバレないようにしつつ実力を磨かせてボーカルも探して結束バンド全体の技量も上げる……? なんだこの無茶振りは……」
──やることが多い……! と、誰に言うでもなく茜は頭を押さえる。それから仕事をしろと怒られているひとりと虹夏を横目に、誤魔化すようにテーブルを拭くのだった。
──掃除も終わり、客足が増えてきた頃。ひとりと虹夏がカウンターに立つ横で、茜は溜まっている皿を洗っていた。
「しかしなんというか、ワンドリンク500円はぼったくり感があるな」
「ぼったくり言わないの。なんかねー、ライブハウスは飲食店って扱いなんだよね~」
「そ、そっ、そうなん、ですか?」
「うん。ライブするだけの場所ってことで営業許可取るの、めちゃくちゃ難しいんだって」
「ああ、興行場法……だったか。映画館とか劇場くらいの設備が必要らしいな」
「へぇ~」
ざぶざぶとシンクの水から皿を引っ張り出してスポンジで汚れを擦りながら言い、虹夏は横から聞かされた理由に感嘆の声を漏らす。
「おっ、ぼっちちゃん、お客さん来たからさっそく接客してみようか」
「えっ、あっ、あっうっ」
チケット販売が始まり、客は飲み物を求めて現れる。ライブが始まるまでの紆余曲折を経て、ひとりは慣れない接客に目を回していた。
「ひとりー、生きてるかー」
「あっ、うっ」
「うん、生きてるな」
「これで?」
目が左右それぞれ別の方向を向き頭の上で惑星がグルグル回転している光景を見て無事を確認する茜を、虹夏は正気かとでも言いたげに見る。
「ほらぼっちちゃん起きて~、ライブ始まったら暇になるからもう大丈夫だよー」
「あっ、はい……」
「お疲れ」
「ん、お疲れさん。受付の仕事は?」
ひとりを起こす虹夏をよそに、皿を洗い終えてエプロンで腕を拭う茜は、ふらりとやって来たリョウに質問を投げ掛けた。
「店長が代わってくれた。今日のバンドはどれも人気あるし勉強になるから見とけって」
「ふうん、意外と優しいんだな」
「あー、お姉ちゃんアレなの。ツンツン、ツンツンツンツンツンツン、デレ~、みたいな」
「比率おかしくないか」
あははは、と笑う虹夏は、おもむろに隣でぼんやりとしているひとりに視線を移す。
「……ぼっちちゃん?」
「あっ、いや、すみません、戦力にならないどころかお客さんと目も合わせられなくて」
「これ使う? マンゴーじゃないけど」
「幅取るだけだからやめんか」
黒烏龍茶の段ボールを取り出したリョウにそう言いながらエプロンを取る茜は、それを畳んで小脇に抱えるとひとりに声を掛けた。
「初日にしては良くやった方だと思うぞ」
「そうだよっ! まだまだこれからなんだから、すぐに慣れるって!」
「そ、そんなことは……接客だって、私より茜くんがやってればもっとスムーズに進んだし……に、虹夏ちゃん、は、どうして、私みたいなミジンコ以下に優しくしてくれるんですか」
「────」
項垂れるひとりに、虹夏は言った。
「あたしね、このライブハウスが好きなの。ライブハウスのスタッフがお客さんと関わるのはここと受付ぐらいだし、ここに来て『いい箱だった』って思って欲しい気持ちがいつもあって」
「す、すす、すみません、そんな場所でド下手な接客を……」
「いや違う違うそうじゃなくて」
虹夏はバンドマンたちのMCを耳にして、客の背中を前にして、口角を緩めて続ける。
「ぼっちちゃんたちにも『いい箱だった!』って思って欲しいんだっ。楽しくバイトして、楽しくバンドがしたいの。みんなで一緒に」
「俺もか」
「当然っ!」
「さいですか」
にっと明るい笑みを浮かべる虹夏に、茜はそれ以上は言わない。一拍置いて演奏が始まり、ライブの爆音がビリビリと全身を叩いた。
曲に聞き入っていると、女性がカウンターに近づき注文をしてくる。
「すみません、オレンジジュース」
「──は、はいっ!」
「…………ふぅん?」
代わりにやろうとした茜は、勢い良く反応したひとりがジュースを入れようとしている光景に目尻を細める。──成長か。と独りごちる彼の横で、ひとりはプラスチックカップを女性に差し出して、ぎこちなく笑いながら口を開いた。
「……どっ、どうぞ~」
「ぼっちちゃん、目! 目!」
「──ありがとう。ふふ」
表情筋が痙攣した慣れない笑みに、女性は受け取りながら礼を言って小さく笑う。自力での対応を終わらせたひとりは、どっと疲れたように重いため息をこぼした。
「……は、はぁ──っ」
「いや~ドキドキした! カウンターから顔出せてたし、ぼっちちゃん頑張ったね!」
「はっ、はい……」
「ぼっちちゃんのお陰で、きっと今日のライブはもっと楽しい思い出になったよ。ぼっちちゃんも、一歩前進だねっ!」
「は、はい、一歩…………一歩?」
ひとりは虹夏の言葉に固まり、ギギギとぎこちなく茜に視線を送った。
「わ、わっ、私、1000歩は歩いた……よね!?」
「悲しいかな。世は全てこともなし」
「あっ、あっ、あっ……」
こうして、ひとりと茜のアルバイト初日は、一応は無事に終わった。夜も遅いのに加え、帰りの電車での移動に二時間も掛かるため、残りの細かい仕事は他に任せて二人は先に店を出る。
「じゃあ今日はお疲れ。気を付けて帰れよ」
「はい。お疲れさまです」
「バイバイ」
「あっはい、お疲れさまでした」
会釈をする茜とひとりに手を振るリョウは、まだ残るのかと店長に問われている。
それを横目に、ひょこりと顔を外に覗かせた虹夏が二人の背中に声を掛けた。
「ぼっちちゃん! 茜くん!」
「ん?」
「え? あ、はい」
「──また明日!」
「ああ、また明日」
「……あ、あっ、また、明日……」
にこやかに笑って手を振る虹夏にそう返して、茜たちは店を離れて帰路を歩く。
「なんとかなりそうだな」
「そ、う、だね……い、意外と、楽しいかも」
「ひとまずの不安は解消されたし、他のやることに意識を向けてもいいかも「──っくしゅ!」
バイトをやりきれるか、という一抹の不安がどうにかなり、密かにホッとする茜は、自身の言葉を塗りつぶすようなくしゃみを耳にする。
横を向くと、ひとりの鼻からつつ……と、一滴の鼻水が垂れていた。
「……あぇ?」
「おい、今か。今になってか」
異常を自覚したとたん、思い出したかのように、ひとりの白い肌が赤みを帯びる。
──前日に氷風呂に浸かり体を冷やしただけでは風邪は引かない。けれども、ライブハウスに人が密集するという状況は、嫌な言い方をすれば病原菌の温床と言っても過言ではないのだ。
果たしてひとりは帰宅する頃には見事に熱を出し、翌日のバイトを休むこととなった。意図しないタイミングで望みが叶ったひとりを、茜が同情するように看病していたのは、別の話。
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