──柊木茜の朝は休日だろうと早い。ひとりと共に片道二時間通学をしている彼は、幼少期の頃よりも早く目覚めるのが癖になっており、老人もかくやと言わんばかりの時間に覚醒した。
「ん」
パチリとまぶたが開かれ、ぼやけた視界が見慣れたピンク色を捉えた。
布団を被り腕の中で抱き枕にされているひとりは、茜の片腕に頭を乗せて眠っている。
「今日は……自主練の日か」
「…………ん、ぅ……」
ひとりの頭頂部に顔をうずめて深く呼吸しながら強く抱き締めると、彼女は眠りながら身じろぎして体の向きを反転させる。
向かい合ったひとりが同じように腕を背中に回す動きを感じ取りながら、茜は休日であることを思い出して二度寝を始めた。
「……なんだこりゃ」
数時間後、普通ならば十分早起きの部類に入るが、本人的には遅く目覚めた頃。
朝のニュース番組を横目にパジャマのひとりと共に朝食のトーストを齧っていると、テーブルに置いていた携帯にメッセージが入る。
宣言通りにしばらく待受にするつもりの喜多のメイド姿が画面に浮かび、その上にロインの通知が入っており、誰からかと確認する。
それは、最初に連絡先の交換をして以来一度もやり取りをしたことがないリョウからだった。
「あっ、茜くん、どうかした?」
「……いや、気にするな」
『茜、へるぷみー』とだけ書かれたメッセージに続いてリンクが貼られ、それを確認すると、少なくとも近場ではない店が表示された。
「ここに来いってか」
「な、なにが?」
「ちょっと誘われた。昼に出掛けるから、それまではまあ……放置でいいだろ」
朝食を済ませた茜はふたりと共にジミヘンの散歩をし、後藤母の家事を手伝い、夕食の仕込みで肉をタレに漬け込み、たっぷりと時間を掛け、それから正午前にメッセージの場所に着くように家を出て一人でぶらりと電車に揺られる。
まさか本当に草を食べて生きているわけではないだろう……と思案しながら向かう途中、公園のベンチに視線を向ける。そこには──どこか見覚えのある青髪の少女が倒れて萎びていた。
「うん…………うん?」
思わず二度見をした茜は、それが見間違いではないことを理解してゆっくりと歩み寄る。
「……し、死んでる……」
ベンチで横になっている少女──山田リョウは、どこか窶れた顔で虚ろな目をしていた。
──俺の知り合うベーシスト全員こんなんばっかりか。と、茜は内心でドン引きする。
「いったい何が……誰がこんなことを」
「That's茜……」
「どう考えても俺ではないが」
そう言いながら軽食に持っていたゼリー飲料を鞄から取り出して口に挿し込むと、リョウはちゅるちゅると啜りながら起き上がった。
「ありがとう、10秒チャージを2時間キープ」
「死ぬぞ」
「……ていうか、私メッセージ送ったよね。なんで既読無視したの?」
「店のリンクも貼り付けたあたり完全に俺から飯をたかるつもりだっただろ」
「そんなまさか……私を助けるんだから実質ボランティアだよね」
「金銭が発生したら駄目だろうが」
ゼリー飲料を飲みながらあっけらかんと言い放つリョウを前に、茜は彼女への評価を下方修正して行く。知り合いの飲んだくれに勝るとも劣らない『ベーシスト』っぷりは、さしもの茜に頭痛の種を植え付けた。
「……お前、本当に草を食べてるのか」
「うん。でももう限界。今日だけでいいからちゃんとしたものを食べたい」
「金欠なのは自分の不手際だが……今回は喜多の件もあるからな……」
グゴゴゴゴゴ……と地の底で怪物が唸るような空腹の訴えを耳にして、茜は逡巡し、仕方がないとかぶりを振って踵を返しながら言う。
「行くぞ。奢るのは今日だけだ」
「やったー茜大好きちゅっちゅ」
「今ので奢る気無くなったんで帰りますね……」
その日、とある街で妖怪のようにしがみつく少女を振り回しながら歩く青年を見たらしい。
──げんなりとしながらもくだんの店前に到着した茜は、おんぶ状態から降りたリョウが一仕事終えたように汗を拭う動きを横目にする。
「この店の何が食べたかったんだ?」
「オムハヤシが絶品らしい」
「ふうん」
「あ、そうだ。茜」
「……なんだよ」
思い出したように茜を呼び止めるリョウは、一度も崩していない表情を固めたまま、彼に向けてさらりと爆弾発言を投げつけた。
「ここカップル割引があるから、それで頼もう」
「リョウ、別れよう。俺はもう限界だ」
「早くない?」
「というか付き合ってないのにカップル割引を利用するのは詐欺じゃないか?」
「……? 今この瞬間だけ付き合うんだから、別に嘘は吐いてないよね?」
「魂レベルでベーシストだな……」
サブスクの無料期間だけを楽しみ契約はしない人間もかくやと言わんばかりの発想に口角をひくつかせる茜は、悩むそぶりを見せるリョウの言葉に耳を傾ける。
「呼び方も変えた方がいいかな? 形から入ればバレないでしょ。たぶん」
「……そうか?」
「ダーリン、ご飯食べたいっちゃ」
「お前もしかして恋人観のアップデートが昭和で止まってるのか?」
電撃でも浴びせてきそうな呼び方に呆れる茜はリョウを手招きして店に向かう。
「面倒くさいから恋人っぽいことはなにもするな。普通にしてれば疑われない」
「そうかな」
「むしろ、こういう所は露骨な態度の男女ほど警戒すると思うぞ」
そう言ってカランカランと鈴の鳴る扉を開け、リョウが入るのを待ってから閉めると、茜は店員の案内で二人用の席に通される。
ゆっくりと椅子に座り、メニューを一瞥した茜はリョウを見て、目配せした店員が歩み寄ってきたのを確認して口を開いた。
「お決まりですか?」
「コーヒーをブラックで」
「オムハヤシの大盛り」
「かしこまりました~。ご確認しますが、カップル割引はご利用されますか?」
「お願いします」
にこやかに会釈してキッチンに向かった店員を見届けて、茜は流し目でリョウに言う。
「ほらな」
「おー、プレイボーイ」
「褒め言葉じゃねえ」
感嘆する声のトーンで言われて眉をひそめる茜。それから数分して持ち運ばれてきたコーヒーに口をつける様子を眺め、リョウは懐から携帯を取り出して写真を撮った。
「おい」
「彼ピとデートなう
「おい」
「顔は撮ってないよ」
「そういう問題じゃないが? ……あのなあ、大事になっても俺はなにもせんぞ」
茜は言動行動の全てが不規則なリョウに関して、真面目に付き合うだけ無駄だと理解する。オムハヤシが来るまで、いわゆるモダンな雰囲気の店内の木材とコーヒー、料理の香りに意識を向けているリョウは、おもむろに茜を見た。
「ねえ」
「ん」
「茜はバンドしないの」
「さあ、どうだかな」
「たしか、腕怪我したんだっけ」
「ああ。もうマトモに弾けない」
「聴いてみたかったな」
「────」
同情するわけではない、あくまで単なる疑問。けれども地雷をつつかれていることを理解している茜は、淡々とした問いに同じように返す。
「……リョウは」
「ん?」
「なんで結束バンドをやってるんだ?」
「……虹夏に頼まれたから」
「お前のあの腕なら、他のバンドでもっと活躍できると思うんだがな」
──ピクリと、リョウの眉が跳ねた。表情は固いままだが、その雰囲気には不機嫌さが混ざり、どことなくムスっとしたように言う。
「…………ねえ、わざと?」
「やり返しただけだ」
「いじわる」
「ふん。お前が言うな」
剣呑とはしない、引き際を心得ている弄り合いに、二人は互いに口角を緩める。
その後、遅れて運ばれてきたオムハヤシがテーブルに置かれ、リョウはスプーンを手に取り深く呼吸して湯気を顔に浴びていた。
「久しぶりの炭水化物……!」
「ゆっくり食えよ」
「うむ」
すっ、とスプーンでオムライスを崩し、ソースを絡めて口に運ぶ。熱いそれをハフハフと言いながら咀嚼するリョウは、飲み込んでから目尻に涙を浮かべて呟いた。
「うま……」
「そうかそうか」
「旨すぎて天才ベーシストになるわね……。──あ、もうなってたわ」
「ウザ……」
茜の神経を逆撫ですることだけは忘れずに、リョウは大盛りのオムハヤシをどんどんと食べ進めた。しかして食べている光景を前に穏やかな表情の茜を見て、気になったように問いかける。
「──なに?」
「うん? ああ、いや。人が飯を食ってるところを見るのは悪くないと思ってな。お前も食事の時は年相応なんだなぁと驚いてるだけだ」
「…………」
妹かなにかだと思われているかのような物言いに、リョウは妙な気恥ずかしさを覚えてスプーンを動かす。それからオムハヤシを掬い、ずいっと茜の眼前に突き出した。
「……あーん」
「は?」
「もう少しカップルアピールしといた方がいいでしょ。はいあーん。あーん」
「おいせめて冷ましてから出せ、あと勢いよく突き出してくるな──うごぉ」
ずん! とねじ込まれ、掬ったオムハヤシを口内に残してスプーンだけが引き抜かれる。
文句を言おうにも、口に入ったものを飲み込むのを優先しなければならないため、茜は苛立たしげに眉間にシワを作りながら咀嚼する。
──が、料理に罪はなく、当然だが絶品と評されるだけあって、眉間のシワが取れる程度にはオムハヤシの味は上質であった。
「……俺も頼めばよかったな」
「ふふん、もう遅い。食べ終わったら店を出る」
「まあ、仕方ないな。……ここにはまた今度一人で来るとしよう」
「そうしたら『ああ、こいつフラれたんだな』って同情されるんじゃない?」
「なんで俺がフラれてる前提なんだよ」
「ふふふふ」
クスクスと笑うリョウは、満足げな表情で残りを食べ進める。茜もまたコーヒーの残りを惜しむように飲み干して、深く息を吐いていた。
会計を済ませて外に出ると、体を伸ばすリョウが関節を鳴らして気だるげな顔をする。
「余は満足じゃ。これで一週間は頑張れる」
「チートデイみたいになってるな」
「ってことはまた来週奢ってくれるんだ。別のカップル割引できる店探しとくね」
「俺の財布に配慮する良心があるなら俺にも優しくなろうという努力をしろよ」
「これ以上どう優しくなれと……?」
本気で疑問に思っているかのように小首を傾げるリョウに、茜は鼻で笑いながら返した。
「じゃあ、お別れだな。二重の意味で」
「うん。私の方もなんか聞かれたら彼ピはフってやったって誤魔化しとくから」
「お前あの写真本当にSNSに上げたのか」
「どうせ茜だってバレないよ。あ、別れるって言っても、別に嫌いな訳じゃないからね」
「はいはい」
念押しするように言うリョウは、ふっと表情を和らげて茜を見る。そして去り際に、人差し指と中指を自分の唇に当てるとリップ音を立てる投げキッスをして踵を返した。
「また今度、STARRYでね。ダーリン」
「ああ。またな」
背中を見送り人混みに紛れるまでを見届けて、茜はため息と共に呟く。
「顔の良さを自覚してるやつしかやれない類いのジェスチャーだな」
そう言って、店を一瞥してから帰路である駅の方へと歩いて行く茜。果たして、彼の誤算は、リョウがかなりの人気者であることを甘く見ていたことと言える。
後日、リョウのSNSアカウントに載せられていた例の写真を見た喜多に昼休みの間追いかけ回されることになるのだが、それはまた別の話。
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