シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
「────」
先生は脳に霞む霧を振り払うように、うっすらと瞼を開ける。現実と酷似しているが、どこか電子的な感覚。神経に直に感じる冷たさ。床に手を突くと水面の跳ねる音が鼓膜を叩いた。髪、肌から垂れる水滴を鬱陶しそうに払いのけ、空を見上げる。
透明な水が張った、半壊した教室。壊れた天井からは青空が見える。シッテムの箱の内部、青の教室。キヴォトスの極小モデルケースで目を覚ました先生は夢を見ているような浮遊感を覚えていた。まるで、世界に存在しないような。
「おはよう、アロナ」
先生は直ぐ傍らで心配そうに覗き込んでいたアロナに声をかける。どこか能天気さを感じる調子の声は、アロナの表情を晴らすには至らない。彼は己の不甲斐無さと無力を呪いながら、それを表には一切出さず、此処に来た目的の一つである『確認』を行う。
「それで、何分掛かったかな?」
「入室までに3分15秒、目覚めるまでに5分44秒、です……」
先生がアロナに訪ねたのは現実から教室に入り込み、目覚めるまでにかかった時間。この時間は先生にとって肉体および精神の状態、世界からの受容度を計測するベンチマークになっていた。
入室までにかかる時間は先生が青の教室……ひいてはキヴォトスに受け入れられているかどうか。覚醒までにかかる時間は肉体および精神の状態、どの程度損耗しているかを示している。
当日のコンディションによって多少のブレがあれど、安静時であれば入室から覚醒までの時間は大体1分前後に収まっていた。それが9分程度にまで伸びている。
ミレニアムの……エリドゥで起きたアリス・ケイを巡る戦いの後に計測した時間が3分弱だったことを考えると、対ベアトリーチェで使った特権の代償は相応に重いものだった。
この際、肉体と精神の損耗はどうでもいい。これは分かっていたことであり、覚悟していたことだ。大人のカードを使えば先生は唯一神の器として最適化されていく。先生が持つ何かは対価として唯一神に差し出される。それが人の身で奇跡を起こす代償。唯一神の神秘を引き出し御業を再現するとはこう謂う事だ。
問題なのは世界からの受容度を計測する入室までの時間が伸びていること。青の教室とキヴォトスにとって、先生は異物になり始めた。
とは言え、元々彼はキヴォトス外部の人間であり異物だ。どんな進化、どんな系統にも属さないアンノウンである彼が世界に受け入れられる事なんてあり得ない。今まで受け入れられていたのは偏に彼が
だが、何事にも限度がある。特例を上回る異常が彼に現れれば、また異物として認識されてしまうのだ。
先生の肉体に刻まれた唯一神との結びつき……神秘は徐々に強くなっている。しかも、
加えて、彼は
しかし、彼はシッテムの箱に肉体の機能を移している。故に心臓の鼓動を奪われようとも生存は可能だ。だが、その状態は生者でもなければ死者でもなく、命ですらない。最早、そこに存在する現象と呼ぶ方が相応しいだろう。
────神秘を持たないはずの彼に刻まれた、キヴォトスに存在しない神秘。心臓が動いていないのにも拘わらず、平然と生存している肉体と精神。それらは彼を再び異物として認定する材料として充分すぎる。
「……違います。絶対に、違います。先生はおかしくなんかないんです。私達のために頑張り過ぎただけなんです」
アロナの嗚咽交じりの言葉と共に、波とは違うものが水面を揺らした。
「先生は生きています。生きているんです。ずっと、頑張って生きています」
先生は徐に掃除道具が入っていそうな縦長のロッカーを見た。無論、あれには掃除道具など一つも入っていない。あれには先生を生かす仕組み……現実世界の先生の肉体を生かすための『機能』が存在している。少しずつ移してきた。少しずつ切り取ってきた。未来のために。世界のために。いつか悲劇を生まないために。
決して自分のためではない。その選択が、結果として『先生を生かす』方向に作用しただけだ。
「こんなのおかしいです。だって、先生は……先生は……ッ!」
そう言って、アロナは自分を責める。もっと何かができたはずだと。こうなるより前に、やれることがあったはずだと。遅い後悔ではあるが、そう思わざるを得ない。自分の所為だと思わなければ、誰かのせいだと思わなければ。
だって、誰かの所為じゃないと。誰かの責任じゃないと。初めから先生にはそうなる道しかなかったことになる。先生は傷付くしかなかったと認めることになる。だから、意味のない責任転嫁をする。何かができるはずだったと責める。そんな幻想に縋らなければならないほどに、先生は損壊していた。
「……アロナの所為じゃないんだよ。私は自分の意志で、そうなる未来を分かった上で使った。それが例え他に選択肢のない一本道だとしても、道を選んで歩いたのは私だ。私がやったんだ。だから、アロナが自分を責めなくていい」
「でも、でも……っ!」
「そもそも、私の在り方から考えれば今までの方が奇跡だったんだ。夢から覚めただけだよ。大丈夫だよ、私はちゃんと生きている。アロナが生かしてくれている。アロナのおかげで、私は生きていける」
先生は
先生はアロナの涙を指先で掬い上げて、優しく抱きしめる。これが最後となってもいいように、後悔が残らないように。
「さて、お喋りはこのくらいにして本題に入ろうか」
「……はい、そうですね。それで、ええと……あ、ありました!」
アロナは空中に投影したディスプレイを使ってフォルダを探し、『重要!』と命名されたものを展開する。先生が集めた様々な情報の中から、ベアトリーチェが関わっていると思われるものを開いた。
「デカグラマトン、
「勿論です! そう仰ると思ったアロナちゃんはもう割り出しています!」
「流石スーパーアロナだ。あとでイチゴミルクあげるね」
先生は二つのマーカーがプロットされた地図を眺める。場所はトリニティ自治区の第四聖堂と、D.U.地区の新第3空港。
「空港は拙いな。一般市民に被害が出かねない。モモカに頼んで閉鎖してもらわないと」
「はい。あとは戦力、ですね。先生はどうされますか?」
「……調印式には出席するよ。だけど、途中で抜け出すと思う。ホドとケムダー……生徒との相性を考えるとケムダーかな。兎に角、そのどちらかを対処しなきゃいけない」
「ですが、調印式の会場でも……」
「十中八九、襲撃されるだろうね。アリウスの生徒とユスティナ生徒会のミメシス、終末悪の落胤。心配だし可能なら最後まで指揮したいけど……デカグラマトンの方が危険だ。アレを放置すれば世界が沈みかねない」
先生の体は一つしかないし、出来る事には限度がある。同時多発的に戦闘が発生すれば優先順位を付ける必要があるし、より高い方を優先するために低い方を切り捨てざるを得ない。
調印式で発生する戦闘は『生徒同士の争い』の範疇に収まるものだ。だが、神性が現れる戦いは『世界を救う戦い』になる。文字通りの死闘であり、何処で誰が死んでも不思議ではない。そして、神性を屠るためには先生の概念武装が必須となる。どちらを優先すべきなのかは火を見るよりも明らかだ。
だが、それでも、この選択は生徒を切り捨てるもの。調印式の会場で戦うゲヘナとトリニティの生徒達を見捨てるのだ。心が痛まない訳がなく、『仕方ない』と割り切れるようなものではない。
その思考を一旦追いやり、先生は目の前の現実を見据える。懺悔も後悔も今やるべきことではない。今やるべきことは、少しでも生徒達の負担を減らせるよう足りない頭を振り絞ることだ。
「戦力はホドにC&C、ケムダーに私とワカモ、ミネ。調印式の会場からD.U.新第3空港までバイクで1時間だから……道中の戦闘も含めると1時間半は見ておいた方がいいかな。C&Cには話を通しておくとして、彼女達は……リオとヒマリに動かしてもらうのがベターか。C&Cにホドの足止めをしてもらっている間にケムダーを処理してホドに向かう。総作戦時間は約4時間。何とか短縮して3時間に収めたいけど……」
「こればかりは当日の状況次第になっちゃいますね。討伐時間は兎も角として、移動の方が……」
「そこなんだよね。ヘリかジェット機を使いたいけど、撃ち落される危険性を考えると渋らざるを得ないからなぁ……初めから使わない想定で考えた方が乖離が少なくなりそうだ。使えたらラッキーくらいに思っておこう」
「デカグラマトンといえば、ビナーはどうされますか?」
「ホドとケムダーよりは脅威度が低いかな。少し前に半身を吹き飛ばしてるし、恐らく『機神体』としての本領は発揮できない。単なる強力な攻城兵器に収まるから、アビドスの子達と便利屋の子達に任せれば問題ないはず」
これでデカグラマトンの対策のアウトラインは決まった。細かい修正は加わるだろうが、大きくは逸れないだろう。調印式の会場についても同じく。あちらはゲヘナ・トリニティの戦力の大半が集まる。ミメシス、終末悪の落胤が相手であれば負けることはないだろう。
そんなことを考えていると、アロナから「先生」と声を掛けられる。
「そもそもケムダー……クリフォトって何ですか?
「同じ目的のために生み出された存在の表と裏、って表現が適切かな。同じAI、同じ目的。だけど、証明方法が違うんだ」
「証明方法、ですか?」
先生は「そう」と言い、黒板に文字を書いていく。
「神の証明、分析、再現を経て、新たなる神……自身の存在を証明するために
「神を証明したいのに存在しないことにしちゃったんですか?」
「うん。だから目的は神の不在を証明することではなく、不在が証明できないと証明することだったんだ。神の不在が証明できなかったら、それは存在するという証明になるでしょ? 平たく言えば背理法だね」
「なるほど……」
「でも、不在を証明できないって証明するより、存在を証明するほうが簡単だった。だからAIは演算をメインプランに集中させるために、
アロナの疑問を解消した先生は「じゃあ、話を元に戻そうか」と言って……残る問題に目を向ける。
「終末悪の本体と……ベアトリーチェ」
ベアトリーチェは少し前に肉体と神秘を吹き飛ばしたが、ある程度再生が完了していると考えた方がいいだろう。回復に専念するのか、それともここで勝負を決めるのかは分からないが……もし仮に動いた場合はかなり厄介になる。
終末悪の本体については謎が多く、そもそも存在するかどうかすら定かではない。だが、先生の研ぎ澄まされた第六感が『いる』と言っているのだ。この勘はそれなりに信用できる。
「どちらもカタコンベを経由して外に出てくるだろうから、それまでに潰しておきたいけど……」
如何せん、戦力に余裕が無い。先生が関わり、かつ戦闘を得意分野としている生徒は全員動員したと言っても過言ではない。ミカやアリウススクワッド、アズサは動きを読めないため意図的に省いているが、それを加算したとしても尚、人数が足りないのだ。加えて、先生でなければ対処の難しい問題が多すぎる。
ホド、ケムダー、終末悪、ベアトリーチェの計四つ。同時多発的に問題が発生したときに弱い体制だと謂う事は分かっていたが、実際に直面すると余計にそう感じる。体制を改善するべきなのはそうであるが、それは生徒を危険に晒す事に直結する。先生が背負うべきことを生徒に背負わせるなど言語道断だ。
であれば結局、馬鹿の一つ覚えのように『私がやる』としか言えない。
「先生はミカさん達がどう動くと思いますか?」
「目的がアリウス自治区を取り戻すことなら、調印式当日にベアトリーチェを奇襲するだろうだね。会場襲撃のためにアリウスの生徒達も出払ってるし、寝首を搔くなら良いタイミングだ。アズサはフリーにして、万が一の時のための対応を……って感じかな」
「うーん、あり得そうですね……アロナもそれが一番可能性として高い気がします」
「本当かい? なら、これを仮説にしておこうかな。だけど……」
あくまで相手が展開した瞬間に詰まなくなったというだけであり、全部のフィールドで戦闘というものを成立させる事ができるだけだ。この圧倒的に不利な盤面で、最低でも引き分け以上に持っていかなければならない。その為に鍵となるのは……先生と
これらを上手く使い潰さなければ敗北は確実。だが、負けるつもりなど無い。相手が地獄を作ると謂うならその地獄を踏み越えるまで。
いつか未来を託すその日まで────先生は生徒を守護し続ける。