鉄獣戦線がまだなかった頃の話【完結】   作:유리가

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Episodeキット

 

 ──ちゃんと、謝ろうと思ってた。

 

 酷いことを言ってしまったことも、助けてもらったのにお礼も言えなかったことも。

 なのに、起きたらいつの間にか部屋にいて、窓を見ればアルギロ・システムと火山がそこにあって──見慣れたはずの日常が、この上なく疎ましく思えた。夢から覚めたというよりも、追い出された心地だった。アルベルも、シュライグの故郷も、空を飛んだことも──全てが空想だったのかとさえ疑ったのを覚えてる。

 その出来事が夢でないと知ったのは、リズねえに泣きながら抱き締められてからだ。「お腹が空いたでしょ? ルガルが朝ごはんを作ってくれてるから」連れられたいつもの食卓に、いつもと違ってシュライグだけがいなくて、ルガにいの表情は暗くて──

 

 ──ワタシ、置いていかれたんだ。

 

 ワタシだけじゃない、サルガスも。鉄の国にシュライグだけがいない意味を幼いながらも理解した。なぜ置いていかれたのかも心当たりがあった。

 ──嫌われちゃったんだ。

 

「仲直りの仕方が分からない?」

 

 オウム返しに聞き返した姉の言葉に、小さく頷く。

 

「誰と喧嘩したのよ」

「シュライグ」

 

 正直に答えたはずが、彼女は困ったように眉尻を下げる。それもそうか──半年も行方不明だったシュライグが鉄の国に帰り数日。その間、彼は一度として目を覚まさない。ルガルやフェリジット、それにフラクトールの三人が交代で看病しているが、傷の深さも影響してか昏昏と眠り続けて全くと目を開けないことを日に日に窶れていく三人の姿が語る。

 意識も無いのにどう喧嘩するんだと、彼女は妹を疑いたくない気持ちを抱きつつ、胡乱な眼差しを投擲する。

 

「ワタシもサルガスと同じなの!一緒にアルベルと冒険して……空も飛んだんだよ! でも、夜になって怖い人達に襲われて、それでシュライグが守ってくれたのにでも怖くて……だから──」

「キット」

 

 言い終わるのも待たずして、フェリジットはここから先は駄目だと首を横に振る。

 

「外のことは忘れなさい」

「でも──」

「いいから、忘れるのよ!」

 

 滅多に怒らぬ姉が語気を荒らげる姿に、圧倒される形で閉口した。ルガルもだが、どういうわけか二人はアルベルの名前を出すといい顔をしなかった。友達を否定されたような気がして、かといって言い返す度胸もキットには無く、歯痒い気持ちを嫌々と飲み込む。

 

「起きたら、一緒に謝ってあげるから」

 

 俯く妹の姿に、さすがに言い過ぎたと頭を撫で彼女は立ち去った。

 どう言葉にしたら、ちゃんと伝わるのだろうか──姉に相談して厳しく言われるなら、ルガルに相談したところで結果は変わらない。フラクトールなら優しく教えてくれるだろうが、治療に追われ忙しい彼が相談に乗ってくれるとは思えなかった。

 答えが出ないまま、その日は夜を迎えた。シュライグと仲直りできるのか、そもそも彼は無事なのか。帰って来たのに顔さえ見に行けない現状に、布団の中で悶々とする。

 謝ることもできないまま、彼が遠くに行ってしまったらどうしようか。二度と目覚めないなんて最悪の想像ばかりが浮かんでしまい、だから夜になると怖くて堪らない。

 

(こんな時、アルベルがいてくれたら……)

 

 ──仲直りの願いを叶えてくれるのに。

 

 一縷の希望を求めたその時、外で物音がした。風の音かとも疑ったが、音は一定の感覚で耳に届き──風ではない。誰かが窓を叩いている。そして、その行いに一人だけ心当たりがあり、考えるより先に飛び起きた。

 

「アルベル!」

 

 参った精神が見せる都合のいい夢じゃないかと疑った窓の向こう、手を振る仮面越しの笑顔に躊躇わず迎え入れた。「久しぶりだね、キット」久方ぶりの挨拶も程々に、彼は窓枠に腰を下ろす。平和なのに生半可な日常の繰り返しに、ようやく色が戻ったような感動を抱く。

 

「元気にしてた? あの時はごめんね、何も言わずに家に帰しちゃって」

「ワタシこそ、ごめんなさい。アルベルのこと、悪くないってリズねえにもルガにいにも伝えたいのに、でも上手く伝わらないの」

 

 「なんで分かってくれないのかな?」と、俯く彼女に「キミは何も悪くないんだよ」と、気遣い耳元で囁いた。

 

「二人とは喧嘩をしちゃってね。だから、仲直りするまで僕が来たことは内緒だよ」

「アルベルもなの? ワタシと一緒だ!」

 

 悩んでいるのが一人だけでないと知り、キットは安心から尻尾を激しく横に振る。分かりやすく感情を露わにする彼女に、アルベルは柔和な笑みを浮かべ言葉を続けた。

 

「キットは誰と喧嘩したんだい?」

「……シュライグ」

「シュライグと?」

 

 意外だと言わんばかりに首を傾げて見せる彼に、訥々と今まで誰にも吐き出せなかった気持ちを声にした。

 

「あの時ワタシ、酷いこと言っちゃって……でも、どう謝ったらいいか分かんなくて……ねぇ、アルベルはお友達と喧嘩したらどうするの?」

 

 鉄の国にはスプリガンズやセリオンズも住んでいるが、子どもはキットとシュライグのたった二人。遊びに付き合ってくれる大人はいても、同じ目線で語り合える友達はいない。故に、キットは今の今まで喧嘩がどういうものか分からないまま、絵本の中にしか存在しないものとさえ思い込んでいた。

 

「喧嘩かぁ……」

 

 らしくもなくハッキリと答えぬ彼に、聡明な彼女は察した。余計なお世話とも知らず、キットは幼いなりに気を回して徐に頭を下げる。

 

「ごめんね、アルベル。アルベルに友達がいるはずないよね」

「あのさぁ、それ喧嘩売ってるよね」

 

 事実だけども! と、心の中で叫びつつ笑みを引き攣らせる。アルベルとて別にシュライグほど口下手ではないのだが、どういうわけかキット相手だと言い返す言葉が出て来ない。図星もあるが、相手が子ども故にムキになるのも大人気ないと一線引く気持ちが前に出て、結局言葉を飲み込むのだ。断じて、言い負かされたわけではない。

 

「とにかく、キットは仲直りの方法が知りたいんだね」

 

 仕切り直しだと一つ咳払いをし、指を鳴らした。すると、窓の向こう、渦を巻くホールが出現する。

 

「おいで、キット。こっちで話そう」

 

 ホールの向こうに何が待ち受けているのかは全くと見えない。不穏な輝きを放つ空間の歪みに、けれどアルベルに手招きされたからという単純な理由で疑いもせず潜った。

 ホールを超えた向こう側は、シュライグの部屋に繋がっていた。昼間に部屋の前を通り過ぎる度、気になっては必ず足を止めていた。入ろうとしても、「また今度ね」と、姉に止められてしまうため、結局シュライグの顔は全くと見れていないが。

 部屋にはシュライグと他にフラクトールもいたが、彼はテーブルに突っ伏するよう居眠りしていた。蝋燭の頼りない灯りの中、くすんだ顔色と色濃い隈からちょっとやそっとの物音では起きそうにない。看病に疲れて眠りこけているところ悪いが、シュライグと会うに好機であった。

 こっちへおいでと手招きしたアルベルは、寝台の縁に腰を下ろした。キットも彼に倣い、隣に腰を下ろす。余程傷が深いのか、こんなにも近いのにシュライグは目を開けることなく、うぅ、うぅ、と喉を絞るような唸り声を上げるばかりだ。

 

「シュライグは、治るの?」

 

 魘される姿を尻目に、キットはアルベルに尋ねる。寝込むほどの怪我なんてしたことのない彼女に、今のシュライグがどんな状態なのかも分からなかった。明日には死ぬかもしれない命の危機に瀕しているのか、それとも峠は超え目覚めを待つばかりなのか。

 

「治るよ。だって、シュライグは強くなったから」

 

 何の根拠も無いけれど力強く頷いた彼に、キットは顔に影を落としながらも胸を撫で下ろした。アルベルが断言するなら、大丈夫な気がする。願いをなんでも叶えてくれるアルベルは、絵本の魔法使いよりずっと頼りになるし、信頼できる。

 

「……アルベル?」

 

 ふと、シュライグの睫毛が震えた。頑なに閉ざされていた瞼が僅かに持ち上がり、熱に潤んだ眼差しが朧気に二人の姿を捉え、安心したとばかりに深く息を吐いた。

 

「おはよう、シュライグ。調子はどうだい?」

「…………調子?」

 

 まだ夢の中にいる心地なのか、理解も曖昧に言葉尻を聞き返す。暫しの沈黙の末「よく分からない」と、意識朦朧と呟く彼は虚ろに天井を見上げるばかり。まるで自分達が、彼の見る夢の住民になってしまったかのような錯覚に陥る。

 

「傷病みの熱が引いたら、そのうち良くなるさ」

 

 大して心配の言葉をかけるでもなく軽い調子で返され、けれどそれこそがいつも通りのアルベルだとばかりにシュライグが気の抜けた笑みを微かに浮かべる。普段の凍り付いた無表情も、高い熱がそうさせるのか僅かばかり今日は溶けている。

 

「アルベル……」

 

 指一本動かすことも億劫だろうに、寝惚けた体を叱咤し腕を持ち上げた。そんな彼の手に握られているのは、青いバンダナで──二人旅の間、返すと約束したものであった。意識が無い間もその約束を守り続けてか、ずっと彼は握り締めていたのだ。

 だが、アルベルはそれを受け取ることはせず、布団を掛け直した。

 

「それはまた会えた時に返して」

「でも──」

「シュライグ、キミは夢を見ている。今目の前にいる僕は、本物じゃない。だから、おやすみ」

 

 明かりを遮るように両の瞼に手を重ねれば、子ども騙しのはずなのに、苦痛に魘される様子も無く穏やかな寝息がすぐに聞こえた。

 刹那の目覚めだが、シュライグにしてみれば記憶にも残らないような儚い夢だ。

 

「キット、仲直りの方法が知りたいんだよね?」

「う、うん……」

 

 あれだけルガルやフェリジットが待ち望んでいたシュライグの目覚めをまさか最初に見るのが自分だなんて──そんな彼女の動揺は、けれどアルベルに声にまるで冷水でも掛けられたように我に返る。躊躇いながらも頷いた彼女に気を良くしてか、アルベルはおとぎ話の魔女のように喉を鳴らして笑う。

 

「気持ちを伝えるにはね、贈り物が一番だよ」

「贈り物?」

 

 言葉尻を繰り返し首を傾げた。彼女の脳内に真っ先に思い浮かんだ贈り物は花だった。当然だが、鉄の国に花は咲かない。そもそもシュライグは花で喜ぶような人物でもない。現実は絵本のように綺麗に纏まることないとキットだって幼いなりに理解している。だからこそ、そんなファンタジーな発言をするアルベルにはがっかりだった。

 

「シュライグに送るに、ピッタリの物があるんだ」

 

 つまらなそうな顔をするキットに向け、見せつけるようにテーブルの上に置きっぱなしの書類を取った。奈落の落とし穴から持ち帰った、枢機卿の研究資料──子どもに見せるようなものでもなければ、そもそも理解もできないだろうそれを躊躇いも無く差し出した。

 

「これ──」

 

 この世に天才と呼ばれる人種が存在するなら、それは間違いなく彼女だ──

 

 枢機卿の血の滲むような非人道的努力は、教養のある大人でさえ理解が難しいほどに専門用語が並ぶ。それを齢たった一桁の少女が見たところで、理解はおろか読むことさえも難しい。

 ただ、それは普通の子どもが見ればの話だ──

 

「体に備わった運動器官は脊髄を介し、送られた電気信号によって随意運動となり表出する。手あるいは足、身体の欠損部分に代替する運動器官を人為的に補い、運動及び深部感覚の伝導路を繋ぐことで運動機能を再獲得する」

 

 子どもの舌っ足らずな発音と小難しい単語の羅列は酷くアンバランスだ。淡々と迷い無く読み上げる彼女の姿に、アルベルは満足と言わんばかりに舌鼓を打つ。思った通り──否、それ以上の結果を彼女は叩き出した。

 

「凄いよキット! 書いてる内容が分かるんだね!」

「……ちょっとだけ」

 

 自信なさげに頷いた彼女だが、アルベルにこれでもかと手を叩いて褒められ、照れ臭そうに俯く。

 

「凄く面白いね、これ」

 

 書物は沢山見てきたが、地中界の冒険録もお空に絵を描く天使の絵本も究極のハンバーガーのレシピさえも、彼女にとってはつまらぬ文字の羅列であった。

 だが、目の前に差し出されたこの書物は彼女の飢えた好奇心を刺激し、剰才能を芽吹かせた。そう、彼女は業の深い研究の世界へと幼いながら引き摺り込まれたのである。

 

「これを作ってシュライグに贈ったら、仲直りできるの?」

「もちろんだよ」

 

 アルベルは狡猾な男だ──だからこそ、戦争を生んだ罪そのものと告げることなく、不都合な真実を隠し頷いた。

 

「でも……ワタシにできるかな?」

 

 幼いなりに内容を理解したうえで、彼女は自信なさげに尋ねた。自分の手で作るに技術も設備も材料さえも足りないと既に気付いての発言だ。子ども特有の根拠の無い自信さえも差し置いて、己の力量を分かったうえでの先のセリフから、非凡な知性が垣間見える。

 

「時間は掛かるけど、キットなら完成させられる。いいや、寧ろキミじゃなければ完成させられない」

 

 愉悦の色を滲ませた声色は、まるで悪魔の囁きか。親切の仮面の裏、彼の野望を露とて知らないキットは、聡明な頭脳を持ちながら疑うことさえせず、アルベルの発言に安心し顔いっぱいに満面の笑みを浮かべる。

 

「キット、今から大事なことを言うからよく聞いて」

 

 ふと、彼の纏う和らいだ雰囲気に鋭さが増す。緊張に思わずと姿勢を正して固唾を飲んだ。

 

「さっきも言ったように、僕はルガルともフェリジットとも喧嘩したんだ。本当は来たらダメだったんだけど、今日どうしても会いたくなってね……キット、暫く僕は会いに来れない」

「ええっ!? そんなぁ……」

 

 うっかり大声を出してしまい、慌てて口に手を当てる。幸いフラクトールの鼾は止まない。部屋を訪れる気配も無い。ホッと胸を撫で下ろし、小声で話すアルベルの口元に耳を寄せた。

 

「永遠の別れじゃない。また、会える日が来る……その間、キミにお願いしたいことがあるんだ」

「お願い?」

「そう……キミにしか頼めないんだ」

 

 「任せて!」と、キットは内容も聞かずに胸を張って頷いた。たった数日とはいえ安全と刺激の無いを履き違えた、つまらない日々の反芻を打ち破ってくれたことへの感謝あってだ。「心強いよ」と、アルベルは相好を崩し言葉を続けた。

 

「これから先、シュライグには沢山のしなくてはいけないことが訪れる。でもね、たった一人じゃ限界がある……だからキットには、彼の支えになってほしいんだ」

「支え?」

 

 具体的に何をしたらいいの? そう言わんばかりに頭上に疑問符を浮かべた。

 

「ルガルやフェリジット……二人だけじゃない。沢山の人に厳しいことを言われてしまうだろう。シュライグは弱音を吐くことも誰かを頼ることも苦手だ。でもね、顔に出さなくても傷付いてる、泣いている」

 

 彼が紡ぐ言葉の一つ一つに心当たりがあり、キットは憂うように目を伏せた。

 ルガルもフェリジットも──時にシュライグに対して冷酷に当たることがある。それが所謂、優しさ故の厳しさであることを理解できるほどに、キットの精神は成熟していない。例えどれだけ冷たく突き放されようとも、確かにシュライグは泣くこともしなければ悲しげな表情を浮かべることもない。でも、確かに傷付いているんだなと、幼いなりに感情の動きを読み取れた。

 

「キット……何があっても、キミだけはシュライグのことを肯定して、協力して──唯一の味方になってあげるんだ!」

 

 静かに言葉を紡いでいたはずのアルベルが、矢庭にキットの両肩を掴み唾が散らんほどに顔を近付け告げた。そのあまりの剣幕に仰け反りそうになりながらも、逃げては駄目だと奥歯を噛み締め耐える。

 

「いいよ。ワタシ、シュライグの味方になる……アルベルはワタシの願いを叶えてくれて、シュライグはワタシのことを守ってくれた。だから、今度はワタシがアルベルの願いを叶えて、シュライグのことを守る番!」

 

 溌剌とした返事に、アルベルは「ありがとう」と、小さく頷いた。

 

「ワタシ、これを作ってちゃんとシュライグと仲直りする!シュライグの支えになって、アルベルの願いも叶えてあげる! ……だから約束して、アルベル。アルベルもルガにいやリズねえと仲直りして、ワタシ達三人一緒にいよう」

 

 アルベルの迫力に負けじと言い張り、小指を突き出した。

 彼女の突然の行動に、仮面の下で目を剥いて硬直するアルベルだが、それが所謂指切りというおまじないだとようやく気付き、同じく小指を出した。

 

「ワタシとシュライグとアルベル──三人一緒、約束破ったら針千本だよ!」

「ふふ、怖いな。キットなら本当にしそう」

「ちゃんと用意するもん!」

 

 「指切った!」と、絡めた小指を満足そうに見つめ、心底嬉しそうに破顔する。

 

「ワタシ達三人で、また一緒に色んなとこ見るの!」

「サルガスは?」

「サルガスは煩いからいいや」

 

 全くと悩むことなくサルガスを仲間外れにする様子に、けれど彼女の言い分も分からなくないなと思わず苦い笑みが零れる。

 そんな秘密の約束を取り付けた一方、騒がしさに居眠りしていたフラクトールが身じろぐのをアルベルは視界の隅に捉え、口元に指先を当てる。

 

「キット、僕はもう行かなきゃいけないみたいだ」

「ちゃんと約束守ってね。絶対だよ」

「いいよ、僕達三人……また、旅ができたらいいね」

 

 徐に立ち上がり、窓の方へ向かい歩いた。窓の向こうは移動のためのホールではなく、いつも通りアルギロ・システムに照らされ常に明るい夜空が無限に広がる。

 

「──またね」

 

 行かないで──そう引き止めたい気持ちをぐっと飲み込み、窓枠を蹴って飛び立つ天幕の翼を見送った。

 そう遠くない未来、この約束が残酷な形となって破られるとも知らずに──

 開けっ放しの窓、冷たい夜風が吹き込むにも関わらずキットは空を見上げ立ち尽くしていた。別れたばかりだというのに、忘れ物でもしたとひょっこり戻ってきてはくれぬかと僅かばかりの期待をして。

 

「ふあっ……」

 

 肌寒さに身を震わせ、フラクトールが気の抜けた大きな欠伸をし、目を擦りながら起きる。そこでようやくキットは諦めをつけ、窓を閉めた。鍵まで掛けなかったのは、ほんの欠片ほどに小さな希望を抱いてだ。

 

「なんだ、キット……いたのかい」

 

 相当寝惚けているらしく、彼はキットが部屋にいることを大して気にもせず「明日起きれないよ」と、微睡みやんわり告げた。

 言外に早く寝ろと忠告されながらも、キットは無視して資料を手に詰め寄った。

 

「ねぇ、フラクトールさん! ワタシ、これが作りたいの! 手伝って!」

「ルガルかフェリジットに頼みなさい」

 

 相当眠いのか適当にあしらう彼に、キットは不満げに頬を膨らませながら声を大きくさせる。

 

「フラクトールさんじゃないとダメ! これがないと、シュライグと仲直りできないの!」

 

 耳鳴りがするほどの大声に、とうとうフラクトールが折れた。声の圧によろめきながらも「分かった分かった」と、読みもせず二つ返事。

 というのもこの時フラクトールは、寝惚けていたこともあり、キットの言う作りたいものが玩具だと思い込んでいた。泥団子か紙飛行機か──いつものおままごとだろう。大人の手を借りてシュライグに自慢でもする気だと、それが悪魔の研究だと欠片も疑わず勝手な推測をする。

 

「ありがと、フラクトールさん!」

 

 言質を取った彼女は、資料をテーブルの上に戻して部屋を出た。一刻も早く解読したい気持ちは山々だが、それよりもシュライグと一緒に確認したい気持ちが勝ったからだ。シュライグは明日目を覚ます──そんな謎めいた確信を抱き、尚更今日読むわけにはいかなかった。

 実際、彼女の予想は的中した。翌日、シュライグが目を覚ましたと姉を介して知り、やっぱりと驚きもしなかった。同時に、ルガルとフェリジット二人に喧嘩を売ったとも知り、何をやっているのだと呆れたのは内緒だ。とはいえ、普段から考えが全く読めぬ実に彼らしい行動だと、妙に納得できてしまう。

 

「シュライグ」

 

 扉を勢いよく開けてビックリさせてやりたい悪戯心を押さえつけ、行儀良くノックをした。返事は無かったが、ちゃんと合図したからいいだろうと勝手に部屋に入った。

 

「キット……」

 

 彼は寝台に座ったまま、声色に困惑を孕ませ名前を呼ぶ。いつもの真顔に見えたが、その顔色は血の気が無く、今にもふらりと崩れてしまいそうな儚さを訴える。昨晩は分からなかったが、南向きの窓が導く陽光が、病人らしい顔色をしていたのだと今更ながら教えてくれる。

 一歩近付くごとに、彼は僅かに身を捻った。距離を取ろうとしているのだろう──らしくもなく弱気な、けれど彼がそんな怯えた態度を取る理由は己が一番よく知っている。知っているからこそ、躊躇いもなく距離を詰めた。

 

「シュライグ、ワタシ仲直りしたいの」

「な、仲直り……?」

 

 泣き出すでもなく怪我の心配でもなく──開口一番、毅然と告げられた内容に、シュライグが珍しく動揺を顕に言葉尻を繰り返す。常の真顔にほんの少し困惑の色を浮かべる彼に、テーブルの上の資料を突き付けた。

 

「これを作ったら受け取って! それが仲直りの条件だよ!」

 

 この資料がどのような経緯で作成されたか──内容を詳しく知らなくとも、シュライグはこの資料が糞を煮詰めた外道の行いと理解していた。だからこそ眼差しに剣呑とした光が宿し、首を横に振る。

 

「駄目だ」

 

 その一言に、キットの眉尻がつり上がった。

 

「シュライグは、ワタシと仲直りするのが嫌なんだ!」

「そうじゃない! そうじゃないけど──」

「リズねえに言いつけてやる!」

 

 ここでフェリジットの名前を出すのは卑怯と分かっての脅しだ。ただ、シュライグとてすぐには折れない。「今更フェリジットに怒られるのは怖くない」と、本音は怖いくせに強がりを顕に目を逸らしながら告げる。フェリジットが、シュライグは嘘が下手だと呆れてしまう理由が垣間見える返事だった。

 

「ワタシね、アルベルとも約束したんだ。シュライグと仲直りするためにこれを作るって」

「アルベルと……?」

 

 アルベルの名前を出せば、途端彼は目の色を変えた。思わずと身を乗り出す様子に、キットは期待に目を輝かせここぞとばかりに昨夜の出来事を告げた。

 アルベルと会い、仲直りの相談を持ち掛けたこと。彼は暫く会いに来れないが、いつかまた三人で一緒に旅をしようと約束したこと。その約束の為に、シュライグの強くなりたいという願いを自分が助けること。

 

「ワタシはリズねえやルガにいと違って、何があってもシュライグの味方だよ。シュライグのやりたいことを否定しない、全部ワタシが支えてあげるんだ」

 

 味方だと言い切った彼女の瞳に、いつかの夜に見せた怯えも恐怖も何も映っていない。返り血に塗れたシュライグの姿を思い出そうとも、拒みはしない。頼りなくて言葉足らずで不器用だけど──優しい。そんな彼が大好きなのだと、今更自覚したからだ。

 そんな彼女の覚悟に触れたからか──固く結んでいた唇を解き、シュライグは意を決した様子で告げた。

 

「キット……相談があるんだ」

「相談?」

 

 ルガルやフェリジットのように強くて頼りになるわけではないけれど、たった今できた小さな味方の覚悟に絆されてか──シュライグは、早速とばかりに悩みがあるのだと打ち明ける。

 

「その……二人と、喧嘩するんだ。俺は勝てるだろうか?」

「えぇ……」

 

 無理でしょ。そう言いたくなる気持ちをぐっと堪えたワタシは偉い──

 聞けば彼は、鉄の国を出てどうしてもやりたいことがあるらしい。詳しくは言わなかったが、それにアルベルが関わっているのだと聡明な彼女は察した。そのうえで、二人を納得させる手段として思いついたのが、喧嘩とは名ばかりの決闘らしい。

 

「うーん……」

 

 正直、呆れた──というのが本音だが、キットは知恵を巡らせる。顔に出さず不安気な様子の彼だが、キットなりに助けになりたいと思って。だが、どうしても殴り合い蹴り合いでシュライグが勝てる未来が見えないどころか瞬殺される想像はいくらでもつく。

 当たり前だ──二人は既に大人になった。対してシュライグは、声変わりさえまだ迎えていない。成長が遅れているのも相まって、フェリジットの方がよっぽど背が高くて体格が良い。組手で叩き伏せられて、ルガルがやり過ぎだと止めに入る格好悪いところは数え切れないほどに見た。

 

「すまない……こんなことを言われても、困るよな」

 

 悄然とため息を吐く姿に、キットは「誰も無理だなんて言ってないじゃん!」と、つい声を荒らげてしまう。

 

「そもそもこの喧嘩に、シュライグは"正々堂々"って言った?」

「……言ってない」

「なら、勝てるよ!」

 

 と、思ってもいなかった溌剌とした返事に、シュライグは目を丸くさせキットを見つめる。「もう一回言ってくれ」と、頼む彼に、仕方ないなとため息を一つ。

 

「この喧嘩、勝てるよ! だって、正々堂々じゃないなら何してもいいじゃん!」

「いや……でも……」

「何もできずにけちょんけちょんがいいの?」

 

 誰もが認める口下手だが、齢一桁の少女に言い負かされ、彼は返す言葉に詰まる。こうなればもうこちらの土俵だとキットは確信し、耳元に顔を寄せた。

 

「あのね、喧嘩する前に──」

 

 秘密裏にと言い渡された戦略に、躊躇いながらも興味を隠しきれていないシュライグだったが、聞き終わる頃には顔色を悪くさせ「大丈夫なのか?」と、不安気に返す。この質問の意図が、勝てるのか? ではなく、そんなことをしていいのか? という迷いであることを承知の上、力強く頷いた。

 

「最初から二対一のハンデを背負ってるんだから、戦略を練るのは基本なの」

「まあ……確かに」

 

 簡単に言いくるめられるシュライグを見つめ、キットは口喧嘩での勝利を確信する。さすがは、口論では負けなしのフェリジットの妹といったところか。

 

「でも……いや、やっぱりそんな汚い手なんて」

 

 いつもの決断の速さは何処へやら。踏ん切りつかず、でもでもだってのシュライグに──キットもとうとう付き合いきれなくなった。資料の両端を持ち曲げる。

 

「シュライグの強くなりたいって気持ちは、そんなもんなんだ!」

 

 紙の裂ける音に、弾かれたように手を伸ばす。しかし、傷が痛むのか伸ばした手は資料を奪う前に寝台から落ち床に叩きつけられる。無様にも崩れ落ちた彼を心配するでもなく、キットは冷たく言い放ちながら引き裂く手を止めない。

 

「結局アルベルのこともどうでもいいんだ」

「そうじゃない……そうじゃない、けど」

 

 本当に言いたいことが喉につっかえて出てこない。その間にもキットの手は止まない。わざわざ見なくても分かる。資料は既に無惨なことになっている。動かない体を情けなく思い歯を食いしばるが、腹の中で鉛が擦れ合うような鈍い痛みが響くだけ。

 

「──キット……もう、止めてくれ」

 

 なんでもするから──浅く呼吸を繰り返すのは、傷が痛むからだけではない。弱々しく、吐息のように呟かれた声に僅かな嗚咽を孕ませる。

 罪悪感──より先駆けて、勝った! とさえ、優越感。

 泣かせてしまったことなどどうでもよくて、キットは交渉に勝った高揚感に場違いにも酔う。

 

「じゃあ、シュライグはワタシの言う通りちゃんと喧嘩に勝ってね」

 

 はいこれ! 無邪気な笑みで差し出された資料には、握り締めた後の皺が残っているものの、破れてはいない。「えっ?」と、硬直する彼の視界に入るよう、キットはビリビリに破いた表紙を見せつけた。

 

「だって、ワタシも気になるんだもん!」

 

 そう、つまりこれは──シュライグに言うことを聞かせるだけの芝居。見事彼の覚悟も思いも上手く手のひらで転がされたのだ。

 

「アルベルならきっとこうする」

 

 実に狡猾な──アルベルに影響されたと言われてストンと納得できてしまうのは、彼と一番長く時間を共にしていたから。確かに、アルベルなら上手いこと悪役を演じてシュライグの感情を揺さぶってくる。まさかキットにまで上手く使われてしまうとは、己の騙されやすさに落ち込んだ。

 

「シュライグ、一緒に読もう」

 

 今度は計算ではなく、純粋無垢な笑みを浮かべて隣に腰を下ろす。まるで絵本でも開くかのように、堆く積まれた屍を捲った。

 少しずつ、喧嘩の日は迫っていた。一日の大半を寝て過ごしていたシュライグも、約束の一週間前には手を借りなくとも身の回りのことはできるくらいに回復した。フラクトールのドクターストップを無視して、キットと共に裏工作のため夜な夜な出掛けていたのは内緒だが。

 そして当日──今日に至るまであっという間だったと、決闘を控えておきながら気の抜けた欠伸をし、隈の残る目元を擦る。一睡もできなかった──楽しみだとか不安だとかそういうのとは別に、例の作戦の仕上げのため追い込んだからだ。だってそうだろう──鳥は穴を掘るのが苦手なんだから。

 

「準備はいいか?」

 

 真昼の陽光とその照り返しで灼熱と化した丘──いつも組手で使う場所。決闘するに相応しくなく今日は一段と暑い日で、蜃気楼さえ見えるほど。滝のように流れる汗を拭い、ルガルは牙を見せて唸る。その隣、フェリジットが汗ばんだ拳を打ち鳴らした。

 

「大丈夫だろうか……」

「瞬殺だろ」

 

 立ち会いに訪れたフラクトールとサルガスが、前者は不安気な面持ちで、後者はつまらなそうに欠伸を混じえ、向かい合う三人を見つめる。

 

「大丈夫だよ」

 

 怪我だけはしてくれるなと、祈るように拳を握り締めるフラクトールの隣、キットが淡々と呟いた。「だって、シュライグだから」それはどういう意味だ? と、首を傾げる二人を他所に、戦いの火蓋が切って落とされる。

 

「悪いね、シュライグ! アタシらに喧嘩売ったのがそもそも間違いだったね!」

 

 これは組手とはわけが違う。二対一、卑怯も同意の上で決闘を言い渡したのはシュライグだ。その生意気な口が大人しくなるなら、大人気なくとも叩き伏せる。一気に駆け出したフェリジットに出遅れることなく、ルガルも地を蹴った。

 この時点で勝敗は決まった──シュライグが知恵を回せるはずないという油断さえ無ければ、結末は変わっていただろうに。

 

「ぎにゃっ!?」

「うおっ!?」

 

 迫り来る二人の拳が、突如沈んだ。立ち会っていた二人は突然の出来事に目を見開き、思わずと丘に生まれた穴に駆け寄る。

 

「……やられたね、二人とも」

 

 フラクトールが穴を覗き、咳き込み鼻をつまんで一言。これは酷いと、気が遠くなる悪臭に口元を引き攣らせた。

 

「サルガス、アンタさてはシュライグに手を貸したわね!」

「し、してねぇよ!」

「しらばっくれんな! アンタがシュライグに頼まれて粘土用意してたのは知ってんだから!」

「だから、ホントに知らねぇってば!」

 

 サルガスが粘土を用意したのは本当だ。シュライグに頼まれたのもそう。だが、まさか落とし穴に使われるとは彼も予想外で──今まで通り、キットと遊ぶ為に使うのだろうと決めつけていたのが、思わぬ形で飛び火しようとは。

 

「でも、これはまた見事な策だね」

 

 二人が出られないように水を含んだ粘土で足止めしつつ、堆肥用の生ゴミも加えて精神的に追い詰める──仕組みは単純だが、よく考えられている。二人が油断することも計算に入れて仕組んだ巧妙な罠だと、フラクトールは感心する。

 

「退いてくれフェリジット……重いし臭い」

 

 穴に充満する腐臭と汗臭いフェリジットの下敷きになり──「吐きそうだ」と、嘔吐くルガルにフェリジットが(まなじり)を上げた。

 

「誰が重くて臭いって? もう一回言ってみなさいよ!」

「やめろ、マジで吐きそうなんだって!」

 

 女性に重いも臭いも禁句である──口を滑らせたのは、相手が気心知れた人物だからかはたまたそこまで考える余裕がルガルに無かったからか。胸ぐらを掴んで揺さぶる姿に、ああ可哀想にとフラクトールは哀れみの眼差しを投げつつ手を差し伸べることない。そろそろ助けてあげたら? と、言わんばかりの視線を元凶に投げた。

 

「二人が負けを認めたら助けてやる」

「ふざけんじゃないわよ! こんなの無効試合よ!」

「でも、落とし穴を使っては駄目なんてルールは無い」

 

 痛む良心を上回り、二人を相手に勝てたことがよほど嬉しいのか──シュライグは顔に出さずとも楽しそうな様子で、揶揄うように告げる。

 フェリジットは額に青筋を浮かべながらも、爆発しそうな怒りをすんでのところ飲み込み、僅かに残った冷静さをフル活動させる。

 サルガスとキットは体格的に助け出せない。フラクトールは同情するだけで、行動する気も無さそうだ。助けてくれと頼んだところで、のらりくらりと躱しそうではある。ルガルを踏み台にすることも考えたが、今の彼はフェリジットが乗った衝撃でゲロ吐くだろう。

 灼熱と腐臭の蜃気楼に、さすがの彼女も我慢の限界であった。待っていたところで強情なシュライグが考えを曲げぬのは、長い付き合いで嫌というほどに分からされた。

 

「負けたわ」

 

 組手じゃ一度として負けたこと無かったが、まさかこんな狡賢い策に落とされるなんて──彼我の差を見極めて、無い知恵を振り絞ったのだろう。そこを認めてやらないのは可哀想だと、容赦無い堆肥入り落とし穴が妹の入れ知恵とは露知らず敗北を受け入れた。

 この時、ほんの微かに彼が笑ったのを刹那の視界に掠めた──

 

 ──強く、なりたいんだ。

 

 確固たる信念の光を宿し力強く告げられた告白に、ルガルとフェリジットは約束通り物申したいことは沢山あれど受け入れた。その為に必要なものがあるんだと、先ず鉄を集め始めた。それをキットが生命を吹き込むように新しい形へと変える。目標を見つけた二人は、ルガルとフェリジットの目にはまるで幼い頃の言動を思い出す程に輝いて見えた──

 けれど、決して忘れてはならない。それらは全て枢機卿が積み上げた屍の山に手を出す禁忌。強さへの切望は義翼に、それは翼の形をした死者への冒涜。生者が背負うに枢機卿の罪はあまりに重く、幾度と血を吐き地に叩き付けられ苦しみのあまり喉が切れるまで叫んだ末に自分の物とした。

 誰かを守れる強さが欲しい──その切ない願いを踏み躙るかのように身を蝕む亡霊達の呪いは、季節の巡りを幾度迎えようが、決して解き放たれることはない。戦乱が終わるまでか、あるいは一生、その身を執念が焼き続けるだろう。終わり無き苦痛は、見る者によっては極刑よりも惨い──

 

 この生き地獄に終わりは見えねども、逃げてはいけない──

 

 ガリッ、奥歯の上で甘味と苦味が歪に溶け合い口の中に広がる。

 早く楽にしてくれと祈るような気持ちで喉を鳴らして飲み込んだ。悲鳴を上げる心臓に合わせ嫌に早く血が巡る。痛覚を直接炙られるようなはたまたは凍らされてしまうような──相反する二つの暴れるような熱の正体は、義翼だ。中途半端に身体が丈夫なのも考えものだと、いっそ気でも失いたい。強靱な精神力を以てしても耐え難い激痛が、亡霊の叫びを伴い気を狂わせる。

 

「もっと効き目のあるのを出そうかい?」

 

 全くの無表情でドロップと鎮痛剤を噛み砕くシュライグを一瞥し、フラクトールは薬品棚から瓶を取る。ポンっと、場違いにも軽快な音を立てて開いたそれに、けれどシュライグは首を横に振った。

 

「俺よりも必要としている仲間がいる」

 

 毅然と言い放つ彼 に「そうかい」と、フラクトールも深追いせず蓋を閉めた。明日の進軍に悪影響を及ぼすと思ったら、また医務室の扉を叩くだろう。もしくは、見兼ねたルガルがこっそり気を回すか。どちらであっても大差は無い。

 たまに、よく、頻回に──なんでもないような顔でシュライグはふらっと医務室に立ち寄る。義翼が痛むからだ。人の身に余るものだと言わんばかりに、怪我をしたわけでもないのに耐え難い痛みを常に科す。「罪人の俺に相応しい拷問だな」いつだったか、平気を装う苦し気な表情に脂汗を滲ませ弱音を吐いた姿が、フラクトールの瞼の裏に焼き付いている。キットとシュライグの頼みだからと義翼の処置を施したが──その選択は間違いだったのだろうかと、今なお苦しまされる姿を見て後悔に駆られるのは、彼には秘密だ。

 

「フラクトールさん!」

 

 慌ただしく扉が開け放たれた。急患かと、二人が身構えた。椅子を倒さんばかりに立ち上がり、息を切らせるキットを穴が開かんばかりに凝視する。

 

「ナーベルが……ナーベルが!」

 

 煤だらけの顔を拭うことなく、彼女は目に涙を浮かべて振り向いた。彼女と手を繋いだ──というよりは、掴まれたという表現が的確か。少し気恥しそうにナーベルが顔を伏せ「キットは一々大袈裟なんすよ」と、呆れをため息に乗せる。目立った外傷は無さそうだった。

 聞けば始まりはベアブルムの補修だという。一人で作業をするには難しいからと、ナーベルを誘ってもとい巻き込んで。その際脚立が倒れキットが落ちたのだが、ナーベルを下敷きに本人は無事と。だが、ナーベルの方はそれで翼を痛めたのだという。

 

「別に痛くないし、平気っす」

 

 だから泣くなと、この時ばかりはナーベルも少し大人びた態度でキットを慰める。怪我をしたというわりにケロッとしているので、痛くないのは本当なのだろう。尤も、後になって泣きを見る可能性も無きにしも非ずだが。

 

「唾付けてりゃ治るんすよ」

 

 軽い調子で告げる彼に、フラクトールは「侮ったらいけないよ」と、戒めるように表情を険しくさせる。いつになくおっかない表情のフラクトールを前に肩を竦めるナーベル。そんな彼の背後を取り、シュライグが翼に手を掛けた。

 

「いだだだだだだっ!?」

 

 突然、矢庭に、前触れも無く──シュライグが付け根をぐりっと押したのである。

 

「痛覚は無事のようだ」

「そりゃ無理に動かされたら痛いに決まってるでしょうが!」

 

 いつまで押してるんだと、手を払い除け威嚇する。ナーベルに睨まれたところでと、シュライグは特に恐れるでもなく一言「すまなかった」と、本当に悪気を感じているのか分からない無表情で謝った。

 

「付け根が腫れている。固定した方がいい」

 

 不幸中の幸いか、折れてはいない。淡々とフラクトールの名前を呼べば、彼は意図を汲み包帯を投げ渡した。

 

「奥の処置室を使いなさい」

 

 言われるがまま、機嫌を損ねたままのナーベルの手を引いた。

 処置室に入るのは初であったと、ナーベルは濃い血と消毒液の臭いに身震いする。戦場に出て怪我をすることはあれど、思えば全て診察ついでの処置で済むほどの軽いものだったと気付く。ああ、この臭いは生死を彷徨った者が嗅ぐもので、自分にはまだ早い場所なんだと本能が忌避する。

 ナーベルは言われるがまま丸椅子に座り、服を脱いだ。室温は医務室と同じなはずなのに、不思議なことにひんやりと空気が冷たく感じられ、身震いする。処置室というよりは、遺体安置所に来てしまった気分だ。

 処置はさほど時間も掛けずに終わった。患部が動かないように固定するだけとはいえ、その手際の良さにナーベルは驚く。この人不器用じゃなかったっけ? と、首を傾げれば、言葉にしなくとも言いたいことが伝わったらしい。シュライグは気恥しそうに告げた。

 

「あまり知られたくなかったんだが、ルガルが中々前線に出してくれなくてな……衛生兵の真似事ばかりしていた」

 

 ああ、なるどね。つっかえも無く納得できてしまえたのは、シュライグに接するルガルの態度に思うところがあったからだ。その正体は、垣間見える過保護。鬱陶しがられているくせに懲りないなと、傍から見てちょっとばかし失望したのは内緒だ。

 道具を片付ける傍ら、ふとナーベルの視界を義翼が掠めた。思えば、あれの仕組みはどうなっているのだろうか。別に羽なしに憧れているわけではないのだが、鉄の翼はナーベルの目には楽そうに映った。

 それが翼の形をしただけの死者への冒涜だとは露知らず、無知ゆえにこんな酷い言葉が口を衝いた。

 

「リーダーはいいっすよね。その羽なら怪我しても痛くないし、すぐに直せるんすから」

 

 血が巡っているわけでも、神経があるわけでもない。壊れたらキットに頼んで直してもらえばいい。リハビリだって必要ない。なんて便利で都合のいいものなんだろう。だからとて、羽なしになるのは御免だが。

 

「…………そうだな」

 

 きっとこの場に、ルガルやフェリジットがいたなら、シュライグが泣いたことに気付いただろう。彼は感情が顔に出ない代わりに、息継ぎ、声色、視線──所作に現れる。流せる涙はとうの昔に枯れ果てたけど、心が嗚咽を漏らした。

 

「……俺は、お前が羨ましいよ」

 

 言葉を飾ればそれは憧憬。飾らなければ嫉妬とも言う。

 不自由の無い翼。後ろめたさも無く帰ることのできる故郷。出迎えてくれる母──

 対して自分にあるものはなんだ? 頑丈だが、時に気を失うほどの痛みと足が潰れそうになるほどに重い、罪の翼。差別と憫笑の故郷。生き別れたまま死んでしまった母──

 シュライグがどれだけ望んでも手に入れられないものを当たり前のように、持っている──

 暗く低い声で、何かを罵るような羨望の呟きは、けれど幸か不幸かナーベルの耳に入ることなく、死に近い部屋の沈黙に溶け合う。

 

「ナーベル、手を出してくれ」

 

 一呼吸で胸の奥底に真っ黒な感情を仕舞った。駄々を捏ねても叶えてくれる仮面の少年はもういない。凪のように心を落ち着け、否殺して──怪訝そうに振り向いた彼の手に、彩りを載せた。

 

「痛いのを我慢したご褒美だ」

 

 ドロップを数個、大小様々な傷の残る手のひらを華やかに見せる甘い砂糖菓子。

 大好物だった──大好物だけども!

 

「アンタは、オレを何歳だと思ってんすか!」

 

 予想外に子ども扱いされてしまい、すっかり臍を曲げてしまったらしい。そのつっけんどんな言動がなおのこと幼さを強調しているとは自覚せず、ぷりぷりと怒りながら処置室を出て行った。

 まるで嵐だ──ナーベルが出て行き、また沈黙が戻る。死神でも居座っているんじゃないかという気味の悪い淀んだ空気に、身も心も鬱屈と潰れるように床に座り込んだ。

 

「こんなものを背負うのは、俺だけでいい……」

 

 今日はあまりに多くの仲間を失い過ぎた──過去の亡霊に混ざり、戦場で散った仲間の慟哭が聞こえる。こんなもの、罪悪感が見せる虚構だ。義翼の痛みと同じ、幻覚。耳を塞いでも意味は無く、存在しない者の声が鼓膜に張り付く。いつにも増して義翼が痛い、重い──

 

「シュライグ?」

 

 死人の濁声に、鈴が転がるような可愛らしい声が耳に混ざる。閉じていた瞼を薄ら開け、視界の隅に小さな靴を捉えた。

 

「……キット」

 

 いつまで経っても出て来ないシュライグを心配して迎えに来てくれたのだ。

 今は一人にしてくれないか。そう伝えるよりも早く、彼女は何も言わずシュライグの隣に腰を下ろした。

 

「何があっても、ワタシはシュライグの味方だよ」

 

 「仲直りの時に、そう約束したでしょ?」鬱屈とした空気を吹き飛ばすような、そんな無邪気な笑みで小指を立てる。色褪せた思い出の一つが、鮮明に目の前に浮かび上がった。

 

「一人じゃ重くても、二人なら軽くなるよ。アルベルもいたら三人で、無敵だね」

 

 ──手に入らないものも沢山あるけれど、守りたい大切な仲間は傍にいる。

 

「ありがとう……キット」

 

 差し出された小指に己の指を絡めた瞬間、温もりが折れかけた心に火が灯す。

 仲間を守れるなら、俺はまだ戦える。痛みも重みもまだ踏ん張れそうだ──

 

 

 

 


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