律儀にもクダリは毎日そう言ってくれるのだ。
目覚めの瞬間に、夕食の途中に、あるいはリビングでの団欒のさなかに。
「ありがとうございます。おや、とてもおなかがすいたという顔ですね?」
「うん」
最近のクダリは食事に関して遠慮しない。わたくしは嬉しい。痩せてしまったのはお互い様だが、そもそもクダリにその理由はなかったのだから。
「わたくしにも料理ができたらよかったのですが」
「いいよ、ノボリがそこにいるだけでおいしくなっちゃうんだから」
「わたくしなにもしてないではありませんか。世辞にしては壮大ですねぇ」
すると声をあげてクダリは笑う。心底幸せそうに、歯を見せてクダリは笑う。
「本当なのに!」
「まったくもう! 少し聞いてくださいましクダリ」
「なぁに?」
なんて珍しい。そう思った。
ノボリというド級の真面目人間は、仕事で理不尽なことが起きようともそれを表に出すことなど滅多にない。表情はもちろん、声を荒げることだって珍しい。なのに、事務所にクダリ以外の人間がいる勤務時間中に「これ」なのだった。
そりゃあノボリだって人間なのだから、私生活でイライラしていることくらい見ることはあるし、それを表に出しているのを見たことだってある。とはいえ勤務時間中に腹に据えかねて、というのは本当に滅多なことじゃない。
「今のわたくしが言えたものではありませんがね、ここのところ勤務時間中に本社勤務の人間がしつこく、大変しつこく、本社勤務の人間のお嬢さまとの見合いを勧めてくるのです。おそらく似たような案件がクダリの所にも来たでしょう?」
「うん」
「クダリがどう思ったかは分かりませんがね、わたくしにとっては要らぬ世話を通り越してただの迷惑でございます! せめて勤務時間外に伝えてくださるならばまだしも! まあどちらにせよ要らぬ世話でございます。わたくし、仕事も私生活も充実しており恋愛や結婚に現を抜かす時間はございませんし、その手のことはやりたい人間がやればよろしい! わたくし言うならば、スーパーシングルトレインやポケモンバトルという概念とお付き合い、結婚させていただいておりますので! まったくもう! 聞いてくださってありがとうございますクダリ!」
分かりやすく憤慨しながらデスクの上に載せていたメモ用紙……さっきまで電話しながら書いていた、ノボリの角ばった文字で溢れかえったもの……を真っ二つに引き裂くと、下半分をぐしゃぐしゃに丸めて力いっぱいごみ箱に捨ててしまった。
「ノボリはそういうの好きじゃないよね」
「えぇ! ご存じでしょう! その手のことはやりたい人間がやればよろしい!」
ノボリは勢い余ってぼくにまでその不機嫌そうな三白眼をキッと向けたけど、すぐに咳払いしていつもの通りの表情になった。いつも通りの真面目腐った仏頂面。自分たちですら表情を揃えてしまえば写真や鏡で見た顔の区別がつかないのに、ほとんど見分けがつく理由はノボリが極端に笑い顔を作らないからだった。
まぁ本人の言う通り表情豊かではある。表情筋がかたい訳ではないのだけども、いかんせんその性根が真面目すぎて目付きから口角まで鋭さばかりが露呈するというか。何事にも全身全霊、全速前進。本気すぎて顔に気迫が出ているというか。
そういう訳で、今日もノボリは顔が怖いと思われている。でもそういうところもノボリの長所だとぼくは知っているからいいか。
「大変失礼。それだけでございます。さて無駄話をしてしまいました、書類を進めなくては……」
ノボリは昔っから恋愛沙汰、そしてそこから発展する結婚について否定的だ。とはいえノボリ自体はむしろ家族愛にあふれた人間で自他ともに認める兄弟仲の良さはギアステーション中に知れ渡っていることだろうし、親子の客を微笑ましげに見ていることもある。
でもその過程である「恋愛」にはアレルギー反応スレスレの扱いだ。ここは職場だし、無駄話だと思っているから追撃は来なかったけれど家だったらどうだろう、退勤後だったら?
たるんでいる、うつつを抜かすな、他にやるべきことはもっとある、興味がない、そんなことよりも。
えぇもちろんこれはわたくしの考えでございます、よそさまに押し付けることなんてございませんよ。もちろん、片割れであるクダリがどう考えようがご自由に。
そう言いながら、きっとクダリもそう思うでしょう? と横一文字に引き結ばれた口元を歪めて首を傾げる。他人がどうしようとどうでもいいと思っているものの……部下や知り合いの結婚にはもちろん心から祝福しているし……自分はその手のことをするなんて絶対にない! と思い込み、公言してはばからない。
堅物のノボリ、真面目すぎるノボリ。残酷なノボリ!
そういうとき、いつもぼくはそうだねと言いながら笑って、ノボリが「やるべきこと」だと思っていること……ポケモン育成や厳選、そう全てはポケモンバトルに関すること……の話を振ってやると堰を切ったようにたくさんたくさん楽しそうに話すのだ。
ノボリ。ぼくの片割れ、永遠のライバル、憧憬の人。
既にノボリの唯一は持っている。この世の他の誰も、ノボリの家族とは言えないし、ノボリの性分からすると対象が移ることもなさそうだ。
誰よりも近い生まれ、特別な片割れ、唯一の存在。最も近しく、最も親しく、ノボリの「愛しい」をぼくだけが持っている! ポケモンたちへの愛情とはまた違う、人間に向ける健全な愛の矛先はこのぼく以外に絶対にいない。
確信していた。ぼくがノボリへ並々ならぬ兄弟愛を抱いているように、ノボリだってぼくの事を双子の弟としてこの上なく大事に思っている。真面目なノボリが勤務時間内につい愚痴を言ってしまうのだってぼく以外ありえない。ノボリの滅多にない微笑みや、寝顔から怒り顔だってぼくだけが全て見られる。
他にのぞむことなんてない。
はずなんだけど。
「ノボリってラブレター渡されたら目の前で破りそうだよね」
「一体わたくしをなんだと思っているのです? お客さまにそのようなことは致しません。サブウェイマスターとしての名前に傷がつくではありませんか」
「そうだった」
「規則に違反できませんので申し訳ございませんと丁寧に申し上げるだけですよ」
「ただのノボリさんへってこの前出待ちされてなかった?」
「はぁ、そんなのありましたっけ。忘れてしまいましたよ。そんなことよりクダリ、手は止まっていないでしょうね?」
「大丈夫!」
「ならいいのです」
顔もあげずに互いに書類を睨んでペンを滑らせる。キーボードを叩いたり、車両の破損についての報告書をまとめる。仕事の手が止まらなければノボリは案外雑談に応じてくれる。
まぁぼくだけね。デスクが近いから迷惑にならないような小さい声で話せるし、ノボリはなんだかんだと身内に甘い。ぼくだけにちょっと甘い。そういう人間味を感じるところって何だかとてもいい。
優越感に浸りながら立ち上がり、自然な動作でノボリのデスクの上にある空のマグを取った。
「飲み物入れてくる。ノボリは何がいい?」
「では水で。ありがとうございます、クダリ」
「いーえー。ぼくも冷たい水でシャキッとしようかなぁ」
ちらりと盗み見るとノボリの制帽がなんだか毛羽立っている。帽子の詰め物かな、それが薄くなってしまった布地に透けていてちょっとだけ古びて見える。この前だいばくはつを至近距離で受けかけて、なんとか車両の防衛システムに護られたけども制帽は吹っ飛んだと聞いたからその時の名残かもしれなかった。
あれも取り替えよう。
「ノボリ、制帽、毛羽立ってる」
「おや? 本当ですね」
「ぼくついでに新しいの持ってくるよ」
「……何から何まですみませんね」
ノボリの手元の分厚い書類の束とひと段落着いたぼく。にこやかに手を差し出せば、ノボリは素直に制帽を脱いだ。
簡単に手に入ってにっこり。本当に隙のない完璧人間だけど、ぼくには警戒心ってものが働かないんだよねノボリって。ついつい気持ちのまんまにっこりと笑ってしまって、でも「クダリ」は仏頂面の「ノボリ」とは対称的にニコニコしているのが常なものだから、ノボリさえ違和感を持たない。
「じゃあ出発進行!」
「いってらっしゃいまし」
ノボリはわざわざ顔をあげて、ほんのわずかだけどぼくに笑いかけた。
もう、ダメじゃないけどダメ。ここには他の人間もいるのに。ノボリの顔を見れる角度に人がいないからセーフだけど、見られてたらどうするの。
なんてね。ノボリにそんなこと言わないけど。
サブウェイマスターのノボリはぴっしりとしてなんの隙もなくてかっこいい。昔っから変わらないぼくの憧れとしてあり続けている。すごく、すごーく強いノボリは強い壁のままであり続ける。ぼくは受け持ちのトレインこそ違うけど、対の存在としていられて誇らしい。
彼の唯一の存在……つまり双子である誇らしさと、きっとありふれた家族愛と、少しばかり濃い兄弟愛と、強いノボリへの明るい憧憬と、ぼくの中の真っ黒い猛毒が胸の中でぐるぐると回っている。
ぼくは沸き上がる猛毒を飲み下す。ノボリの唯一はこのぼくだ。
自分が絡む恋愛事を疎み、上司の付き合いでさえ見合いする気すらないノボリがこの先結婚するだろうか? 家庭の時間を持つことよりやりたいことがあると言い切っているノボリがぼく以外の人間の唯一を持つだろうか?
今のところない。この先もなさそうだ。このままでいるだけでぼくはノボリが唯一愛する人間としていられる。ノボリに誰より親しく、誰より近く、最もノボリが許す人間。
ちゃんと分かっている。今が最良であると。
ノボリの制帽はダストダスにあげた。こんなものをゴミ箱に捨てたら誰でもノボリのものだってわかるしどうなるものかわかったものじゃない。でもぼくが持って帰ったりしたらどこでバレるか分かったものじゃない。ぼくらはあくまで仲のいい双子なんだから。リスクは最小に。
新しい制帽を卸す。隅々まで眺めて問題ないことを確認し、帽子の裏を見る。内側にほつれもない。
裏側の接着された部分を軽くライターで炙って開く。古い制帽から回収した薄く小さな機械の電池を取り換えて押し込む。まだ熱いうちに柔らかくなった糊を親指でぐっと固定すればすぐに元通りくっつくことを知っている。
これが今のところぼくのライン越えだ。もっともっとやりたいことはあるけれど機会が無い。リスクの方が大きい。この最良を失うリスクの方が問題だ。
本当は、ぼくの憧れの人を他の人の目に晒したくなんてない。その為なら二度とその素晴らしいバトルが見れなくなってしまってもいい。その強さを知るのはぼくだけでいいのだし、ノボリがもしぼくのせいで二度とポケモンバトルが出来なくなってしまうなら……ノボリの生き甲斐にぼくが取り返しのつかないことをしたということで、それはなんてなんてなんて、興奮するのだろう。
本当は、本当は、本当は。双子の兄、仲良しの兄弟、唯一の家族に抱くはずのない劣情と、幼い頃からの純粋な憧憬が混ざりあって猛毒になっている。
どこにでも力強く進むその足は魅力的だ。前へ前へスタスタ歩いているだけでぼくはなんだかワクワクして、ノボリが次にどこへ向かい、どんなことをするんだろう? と考えるだけで楽しくなる。同時にその足が欲しい。物理的にもぎとってぼくだけのものにしてしまいたい。ノボリが力強く進む力をぼくのせいで失うなんて素晴らしいことじゃないか。
前に二度と進めなくなって、あがくこともできずに腕の力だけでのたうち、ぼくに助けを乞うことしかできないカワイソウなノボリを想像するだけで、おかしくなっちゃいそう。
ノボリが大きな声で指示したり、ハキハキと色んなアイデアを出す声が好きだ。聞いているだけで嬉しくなって、なんとしてでも叶えたいって思うし、たとえぼくが何かしでかして怒られているのだとしてもあの声を聞いていると落ち着くから。
きっとぼく以外の人間もノボリの声、話し方には惹き付けられているのだろう。だからノボリの素敵な大きな声、出なくなってしまえばいい。誰よりもぼくは知っている。声は記憶からなくなりやすいっていうからぼくは山ほど録り貯めてある。仕事中のは全部。私生活のも家にいるのは全部、外だとぼくがそばにいる時は全部だけど、私服全部に仕掛けきれなくて漏れがあるのは悲しいけど仕方ない。
声が出なくなれば、ノボリは他の誰も魅了しなくていい。ノボリにとってもその方がいいこともあって、ノボリが煩わしく思っている愛の告白もお見合いも来なくなるはずだしね。そうして、あの良さを覚えているのはぼくだけになって、か細くか細くささやくようにぼくだけに話すようになればいいのに。
あるいはノボリが真っ当な、真面目な、そんな人間であることが大好きで、大好きだからこそ抱くゆがんだ想い。あぁ、憧憬の人! 顔から遺伝子までそっくり同じなのにまったく中身の異なる魅力的なぼくの半分!
やろうと思えばなんだって出来るほどノボリは優秀だ。なんだって勉強したら身につくし、周囲の人間とはあからさまに持って生まれたスペックが違う。ぼくにだってそれはそっくりそのまま当てはまるけど、気分屋のぼくと何事にも真面目で全速前進! なノボリでその万能さに差があるのは当然。
ノボリはなんでもできる。やろうと思えば。ノボリがやりたいことにはもちろん並どころかあっという間に高みに至って、そのうえ他の人にも教えたくて、導きたくて、体験させたくてうずうずしている面倒みの良さもある。強い人間とポケモンバトルするために相手が強くなるように上手く試合を運び、実戦の中で学ばせるということが特別に上手い。
その素晴らしい高嶺の花を折り取れたらどれだけ気持ちがいいだろう? なんでもできる、どこにでもいける、なんだって成し遂げられる才能と努力のかたまりを壊しきってめちゃくちゃにして、なんにもできずにただ臥せっているだけにしてしまえたら? ノボリが素晴らしかったことを過去にして、ただそこで生きているだけにして、そうなってしまってもぼくだけがノボリを称えて、ノボリはぼくなしではどうにもならなくなって、ぼくだけが唯一の救いで、あぁ、あぁ、そうなってしまえたら!
ぼくは健全に、ノボリのことを好きな気持ちがある。ノボリを片割れとして好きで、家族として兄として好きで、その強さを尊敬していて、真面目さを認めていて、それでいて、すべてめちゃくちゃにしてやりたかった。妄想の中の、あらゆる尊厳を破壊されつくしてめちゃくちゃにされてしまったノボリが今の強いノボリとの落差があればあるほど興奮した。あれだけ強かった人が、なにもできない! なんでもできるきみが、ぼくなしでは生きていくことも出来ない! それは最強の支配だ。ぼくはノボリを、だれにも支配されない自由な強者を、この手で蹂躙してやりたかった。
でもしない。ぼくは今が最良であることを知っている。
そりゃあ、ノボリはぼくをこの世の誰よりも信頼し、気を許しているから何かしら非合法なむちゃくちゃな方法でノボリを壊してしまうことは可能だ。でもノボリに気付かれずにやるのは無理だ。
この、兄不孝な最悪のぼくが唯一恐れていることは、ノボリに嫌われてしまうこと。
この手でノボリを壊してしまいたい。なーんにもできなくなってしまったノボリのお世話をして、ノボリが自分が全てを失ってしまったことを悲しむのを慰めて、ぼくだけに縋らせて、ぼくの手で生かしたい。
でも、ほら、実行していないわけで。怖がられるのも嫌われるのも怖い。ぼくたちは本当に小さい頃から仲のいい双子で、喧嘩こそしたことがあるけどこの歳まで大きな決別なんてなくて、そりゃあもう四六時中一緒にいたし、この歳になってもなにをするのもおそろいだ。就職先から住んでいるところまで。
今だってそういう仲が良すぎるところは、人によっては異常に片足踏み入れていると思うかもしれない。
ぼくはノボリに嫌われたことがない。ノボリに嫌がられたことがないから、そうなってしまうことを恐れている。いくら顔を隠してもきっと分かってしまうから。ぼくはノボリを壊せない。ならせめてこの最良で我慢しなくちゃね。
愛している。大好きだ。何回重ねても足りない。きっと何度伝えても言い足りない。それ以上の言葉が欲しい。ただでさえぼくはこの世で一番、何よりもノボリに近しい存在なんだから。親子より恋人より夫婦より、この世でなにより近い存在、双子として生まれたこの幸せを噛み締めて。
「はい、ノボリ。古いのはダストダスにあげてきた」
「ありがとうございます。ちょうど彼女のおやつの時間ですものね」
「うん、すぐに食べちゃった」
ぼくは今を享受している。腹の中で煮えたぎる猛毒は少しも薄まらないけど、むしろ日を追うごとにだんだん濃くなっていくのがわかるけど、今のところ不都合ないし、これで良かった。
ぼくは懲りずにじっと機会を伺っていたけれど、ノボリに嫌われずして、直接的な加害者にならずしてノボリをめちゃくちゃにしてしまうような機会なんてなかったし、ノボリは相変わらず色恋事に眉を顰める堅物人間だから、平穏さは保たれたまま。
欲張っても仕方ない。ならばそれで良いと思ったし、そのままの日々が続くと思ってた。この平穏さだって……あえて言葉にするならば、愛していたから。
白い病室。無機質な壁紙の、清潔な匂いのする一室。ノボリはベッドの住人だ。ぼくは涙が乾ききらないぐしゃぐしゃの顔のまま膝をついてベッドのわきにしゃがみこんで、くすんで鈍く輝く鉄の瞳を見上げていた。
「ノボリ……」
「クダリ。正直に、わたくしの身体の状況についてすべて仰ってくださいまし。皆さま気休めしか申し上げて下さらないので。クダリ、優しいおまえに頼むのは酷なことですが、わたくしの為に、お願いいたします……」
喋るごとに頬のガーゼに赤が滲む。それを気にする素振りもなく、ノボリは必死に懇願した。
足は吊られ、がっちりと頭は固定され、鎮痛剤の点滴を打たれ、両腕はギプスで固められ。今のノボリに自由なのは視界と言葉しかなかった。まぶたが腫れ上がったせいで右目はほぼ見えていないだろうけど、左の目は淡い燐光を宿して彷徨う。
「わかった。あのね、ぼくはきみが生きていてくれてうれしいんだよ。だからお医者さんから命に別状はないって言われて本当にホッとした。ね、ノボリ、大丈夫、今はすっごく痛いかもしれないけどちゃんと両腕とも骨がくっついてリハビリしたら元通り動くし、指だって全部あるよ。ちゃんと元通りくっつく怪我だって」
「はい……」
「内臓も全部大丈夫。ただちょっと腎臓に衝撃が大きかっただけなの。でもそんなの大したことないって」
「初めて血尿を見た時は本当に肝を冷やしました。良かった」
「ぼくだったらそんなの見たら気絶してるかも」
「そうかもしれないですね?」
ノボリは三日前に事故にあった。完全にノボリに過失のない、一方的な被害者として。僕たちほとんど地下に住んでいるようなものなのに、たまたま休みの日にブラブラ街を歩いていて、大通りに入ったとき。目の前でノボリは違反速度の自動車に轢かれた。
ブレーキが壊れたらしいとか運転手の病気が原因ではないかとか、警察の調査の結果があーだこーだと舞い込んでくるけれど、ぼくにはそんなことどうでもよかった。まったく突然のことでノボリは避ける間もなかったし、ぼくらのほんの数十センチの差が、ぼくらの生まれた順番の次にほんの些細な差が、決定的な差になってしまった。
ノボリが、あのノボリが! 死んでしまうかと思って、ぼくは本当に胸がつぶれるかと思った!
長身のノボリがいとも簡単に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた鈍い音を覚えている。咄嗟に人間って本当に何にもできないんだって後悔した。こんなことでノボリが死んでしまったらどうしようって、本当に怖くて怖くて、急いで救急車を呼んで、病院でノボリが目覚めるまで生きた心地がしなかった。頭も強く打ってて、だらだらと血を流していて、何があってもおかしくないって、轢かれたのはなんですぐ隣にいたぼくじゃなかったんだろう、と。
もちろんそれ以外も目を覆いたくなるほどの大怪我だった。腕や足はあらぬ方向に折れ、事故直後から意識がなかったのはむしろ幸いだった。
目の前のノボリはあちこち包帯やガーゼでぐるぐる巻きだし、至る所が折れていて、正しい位置に戻すのに大掛かりな手術が必要だった。頭の怪我も結構酷かったけど、幸運なことに、今のところ命に関わる怪我は見つかっていない。油断は出来ないけど検査の結果はそういうことになっている。
命に問題はなくても怪我は大きい。リハビリは並大抵のものでは済まない、と。もしかしたら乗り越えられないかもしれないとも。恐らく半分の人はきっと途中で諦めてしまい、日常生活に支障の出る重篤な後遺症が残るだろうと。だけど、正しく努力さえすればいつか元のように立って歩けるはず。机上の理論ではそうだと説明を受けた。
だから、家族として支えてやりなさいと、諦めなければきっとお兄さんは歩けるようになるし、元の生活に戻ることだって夢ではないと、医者にはそう言われた。
なのにぼくは、ぼくはぼくはぼくは! 兄不孝の大馬鹿者で、この悲劇をなんて都合が良いと歓喜した!
だってノボリは一方的にカワイソウな被害者、一方ぼくはまったく加害者じゃない。むしろ兄が大怪我を負ってカワイソウな被害者の方かもしれない。この事故のせいでさしものノボリも自分の不幸に気弱になって、周囲の語る真実を正しく信じられないほど不安定になって、唯一絶対に信頼出来るぼくに縋る。
ぼくに「真実」を言って欲しくて。きっとぼくに、「努力すればまた歩けるし、努力を辞めなければ元通りサブウェイマスターとして復帰できるよ」って言って欲しくて、そうすれば事実真面目な努力家のノボリは正しい努力をできるだろうし、そうなるのが正しいってわかっている。
嘘偽りなく、あの平穏な日々を愛している。地下の王として共に君臨する。ノボリと進む二両編成、ワクワクする無数のバトル、地下にひしめく強者の狂宴! ノボリは人工の光に照らされて、一見無機質そうに、だけどもこの世の何よりも幸せそうにしているんだ。一方ぼくはトンネルを彩る点々としたライトから逃れて、影からそんなノボリをじっとうかがっては自分に今というのが最善で幸せだと言い聞かせる。
あの日々を捨てさせるなんて残酷で、むごいこと。罪深いぼくは地獄に落ちるに決まってる!
構うもんか、構うもんか、構うものか!
ノボリはぼくのものだ! ぼく以外の誰にも触れさせず会わせず話させずバトルさせずノボリの生命活動すべてをこの手に握ってしまえるなら、ぼくは大好きなノボリを貶め、自分ひとりでなんにも出来なくさせてしまって、ただ手の内で生かすことだけできるなら、あぁ、最悪なぼく!
それはなんて気持ちいいんだろう、きっと素晴らしいだろう、なんてなんて愛おしいんだろうか、ああ、ノボリはぼくを信じてる、この世の誰より信じていて、ぼくの事を人間として唯一心底愛している、真っ当に真っ当に家族として兄弟として片割れとして強く強く愛していて、ぼくを疑うなんて有り得ない!
ぼくが嘘をつきさえすれば、ノボリは永遠にぼくのもの。ぼくから離れられない身体になるんだ!
だってノボリのやるべきリハビリは諦めてしまう人が半分を超えるだろうと言われている。ノボリはその半分に絶対ならないけど、なったって医学的にはおかしくないんだ。誰からも疑われやしない、まさしく千載一遇のチャンス! この絶好のチャンスを逃せるわけがない!
「ノボリ、頭の怪我はすっごく痛いと思うけど、スキャンの結果では奇跡的になんにも脳みそに影響がないって。もちろん頭のことだからこれからどうなるかは誰にも言いきれやしないけど、本当にビックリするくらい悪い所がなかったんだって。外傷だけなんだって」
「今もガンガンと痛いですが、現状の医学的見解ではこれは外傷なのですね?」
「うん。もちろん、お医者さんがいいって言うまで安静にしてね」
「もちろんです。あぁ良かった。ありがとうございますクダリ」
「動いていいって言われたらいっぱいリハビリしようねノボリ。ぼく付き合う」
ぼくは笑う。ぼくは嗤う。ぼくはひたすら笑って笑って偽って、胡麻化し、欺瞞で真実をすり替える。ただノボリを貶めるために。
ぼくの憧れ、真摯でまっすぐな、真面目で努力家、何事にも決して手を抜かないぼくの兄。まばゆい憧憬のきみ。ぼくのせいで二度と取り返しがつかなくなって、あぁ、ぼくの手の中にいて。
「えぇありがとうございます。こんなにも励ましてくださって。……それでクダリ、わたくし身体についてすべてと申し上げたつもりなのですが、なぜ、足について触れないのです?」
「……」
「クダリ。わたくし、優しい嘘はいりませんので。大丈夫、クダリが言葉を選んで良いニュースを伝えてくれたのでかなり落ち着きましたから、なんと言われても大丈夫です。ただ今痛みでまともに感覚がないのです。鎮痛剤が入っているはずなのにおかしいですね。その癖こんなに頭が冴えているのは命の危険に晒されたからでしょうか。麻酔はまだ残ってる時間のはずなのに冷静に思えます。もちろんクダリにはわたくしが取り乱しているように見えるでしょうけど」
「うん……」
「クダリ。いいのです。わたくし、大丈夫です。まったく足の感覚がないのです。痛いともかゆいとも分かりません。盛り上がった布団の形状を見れば両方あるように見えますが、実際のところどうなのです?」
「足、二本ともあるよ」
「それで?」
「ノボリ……」
ぼくは嘘をつく。ノボリはこれで二度と歩けない。
威風堂々。まさしくそんな言葉が似合うノボリの闊歩。その背を追うのが大好きだった。その隣に並ぶのが誇らしかった。ノボリの足が迷いなく目的地に向かってずんずんと前に進み、姿勢のいい背中が揺れるのを見ているとぼくはいつだって追いかけたっけ。記憶のある限り、ぼくはその背中を見ては追いかけて、ちゃんと追いついてきた。
追いつけた喜び。隣を歩く多幸感。あの並び立つことの誇らしさよ。周囲の人間を、ノボリを羨望の目で見る人たちはたくさんいるけれど、隣を赦されるのはぼくだけで、追いつけるのもぼくだけだ!
でも! あの幸せを手放しても、ぼくはノボリを自分だけのものにしたいんだ!
「歩くのは、難しいかもしれないって……」
ああ。大馬鹿野郎。エゴだけで肥大する欲望と、口からほとばしるどろりとした猛毒がノボリを蝕む。
「ノボリ、もしかしたら、もしかしたら。リハビリしたら良くなるかもしれないよノボリ。だって両足とも切断せずに済んだんだ、ひどい怪我だったけど、あるんだ」
ぼくは大罪人だ。きっとろくな死に方をしないに違いない。死ぬときはノボリが受けた苦痛の百倍は受けてから死ななきゃ釣り合わないだろう。
でも、でも、ああ! 歓喜が湧いてくるんだ! ノボリ、ノボリノボリノボリ! ねぇ、ねぇ、ぼくのことを震えながら見上げる顔、流れる涙、それでもいつも通り上がった口角。どういう意味だと思ってる?
残酷な事実を片割れに伝えなきゃいけない悲しみを、どうにかこうにか泣き笑うことで兄を励ますように努力しているように見える? 事実を促されて言ってもなお、希望を捨てないで! と健気に励ましているように見えるかい?
ねぇノボリ! ぼくの手の中に到底収まりやしない高潔なきみからむりやり広げた翼を折り取って地面に叩きつけ、なめらかな頬に土をつけさせる。それをしたのがぼくだと知らないまま、きみは降って湧いてきた不幸を嘆くんだ。
「クダリ、クダリ、泣かないでくださいまし。言いにくいことを言わせてしまいました」
「な、泣いてなんかない! 泣きたいのはぼくじゃない!」
泣いていいはずなんてない。でもごめんね、嬉しくて嬉しくて、嬉し涙が止まらないんだ。
それでも強いノボリの目には涙はなかった。いつも通りの仏頂面、なんなら泣き出したぼくに心配をかけまいと、やさしい兄としてむりやり微笑もうとしている。
「優しいクダリに、本当に酷いことを言わせてしまいましたね。わたくしの分まで泣いてくれる優しい弟がいて、命を拾って、これ以上何を望むというのでしょう。リハビリすれば、えぇ。クダリの言うように良くなるかもしれませんのに……」
「うん、うん……」
「挑む前から諦めるなどわたくしらしくありませんよね。もちろん、未来のことなど最善を尽くしてからしかわからないものです」
言葉と裏腹に、ノボリの目を見つめているとどす黒いよどみが広がっていくのが分かる。世にも珍しい、ノボリの絶望が広がっていく。誰よりも高潔なノボリが絶望してなにかをあきらめることなんてこれまでの人生で一度もなかった。だけど、ノボリは今、諦めたんだ。
歩くことを。ぼくの嘘のせいで!
「それはともかくクダリ。わたくししばらくお荷物でございます。ギアステーションにも多大なるご迷惑をおかけしております。ひとまずの休職はともかく、現状では復帰すら危ういわけですので」
「ノボリ、そんなこと言わないで! ぼくたち二両編成なんだよ? なにがあっても、なにがあっても、ぼくはノボリと一緒にサブウェイマスターなんだよ!」
そうだよノボリ。二度ときみを職場復帰なんてさせない。
「客観的に考えてくださいまし。無理なものは無理でございます。例えば腕を三角巾で吊りながらの車椅子でバトルサブウェイの車掌が務まりますか? ゆくゆくはどのような人間でもあらゆる仕事ができるように設備等整備されていくのでしょうが、現状のギアステーションはそうではありません。揺れるトレインの中で、ひっきりなしに飛び交う技の中で、こんな身体のわたくしが務まるでしょうか! クダリ、気休めはいりません。他人様にご迷惑をおかけするのですから、事実を列挙するのみです、迷惑をかけるわけにはいきません!」
「迷惑なんて誰も思ってない! ノボリは被害者なんだよ?」
「そうかもしれませんがバトルサブウェイにいらっしゃるお客さまにとっては関係のないお話です!」
「ノボリ、ノボリ、今はね、考えるより休もう?」
「……取り乱してしまいましたね」
もっとドツボにはまって。もっともっとネガティブになって、悪いことばっかり考えて、完全に望みを捨てて、諦めて!
どろりとした絶望が鋭く輝いていたノボリの瞳をみるみるうちに覆い隠す。曇って鈍く輝く鉄の色はなんて綺麗なんだろう。しかもぼくは両方を知っていて、ぼくが輝きを奪ったんだ。あの刃のように研ぎ澄まされた瞳を手に入れたい。普段は近寄るだけで血が流れそうなほど鋭いけれど、こんなに鈍くなったなら素手で掴んでも平気だ。
ノボリをぼくのものにしてしまうんだ。ぼくだけのものにしてしまうんだ!
「クダリ。お手数おかけしますが、とりあえずわたくしの休職の申請をしなくてはいけませんから。近日中に必要書類を持ってきてくださいまし。それから、シングルトレインの代理サブウェイマスターの手配を。代理とはいえおそらく長期になります。きちんと選抜してくださいまし。本当にお前には迷惑をかけてしまいますが……そうです、代筆もお願いするかもしれませんね。今は両手が使えないのでした。早いところリハビリしてせめて書類仕事くらいはきちんと後任に引き継げるようにならなくてはいけませんね。
クダリ、わたくし、この通り落ち込んでいる暇はないので大丈夫ですよ。ね? だからそろそろ泣くのをやめてくださいまし」
「ぼく、ぼく泣いてない」
「まったく。そういう泣き虫なくせに強情なところはちっとも変っていないんですから……クダリ、おまえはやさしい子です。わたくしには勿体ないくらい」
「なんでそんなこと言うの!」
「冗談ですよ」
ノボリは笑った。あれだけなりたかった職業を諦めて、儚く。共にした努力を全部過ぎ去ったことにして、だからぼくに申し訳なさそうに、この世で一番うつくしく笑った。
その表情を脳に焼き付けながら、ぼくは早くノボリを家に連れて帰りたいなって思ったし、家に帰ったらなんにもバリアフリーにリフォームしていないせいでノボリがベッドから起き上がれないようにしなくちゃいけないし、どう言い訳して車椅子を使わせないようにするか今から言い訳を考えることに夢中になっていた。
そうだ、手持ちたちも育て屋さんに預けないと。ノボリに会いたいだろうけど、ノボリがもっともっとなんにもできなくなってからにしようね。
ガタンガタンとなにか大きなものが崩れたような重い音。これは落ちたな。ぼくは分かっていたけど最初は聞こえないふりをした。
「くらり、くだり、どこにいますか……」
続けてイヤホンからか細いノボリの声が聞こえた。あんなに声が通ったのに今は全然そうでもない。病院では静かにしなくちゃいけないし、単純にあんな大声は傷に響くしでノボリは小声で生活するのに慣れきった。それに今もあちこち痛むみたいであの溌剌とした大きな声はもう聞けない。
イヤホンを隠し、ゆっくりと寝室に入ると、予想通りノボリはベッドから落ちてひっくり返っていた。車椅子に乗ろうとして近くの棚につかまったは良いものの棚ごとひっくり返ったらしい。もしかしたらぼくが「転んだ時にクッションになった方がいいよね」と言って買ってきたふわふわと毛の長い絨毯に足を取られたせいかもしれなかったし、わざと車椅子のブレーキをかけずに少し離れたところに置いたからかもしれなかったし、中にシャツしか入れていないような軽いプラスチックの棚だけをベッドの近くに配置したからかもしれなかった。
その上車椅子の足を置く台を下ろしたままにしておいて、そりゃあもうノボリがひとりで乗りにくい位置に置いて、わざわざ「危ないから、ぼくがくるまで待っててね」ってノボリの自尊心を煽るようなことを言って、きっとプライドの高いノボリはぼくが来る前に自分一人で何とかできるって思ったに違いなかった。
「はーいお待たせノボリ。って、大丈夫?!」
「大丈夫、です。このじゅうたんはふかふかで、痛くなどありませんから……」
「それならいいんだけど……はい、腕上げて」
「もうしわけございません。わたくしを車いすにおねがいいたします」
「うん、もうご飯だものね、いこっか」
痩せて体重が減ったとはいえ同じ身長の成人男性だ。しかもベッドからじゃなくて床から持ち上げることになったわけで。ぼくはちょっと苦労したけどなんとかノボリを車椅子に乗せた。
ノボリは黙って俯いていて、自分が大人しくベッドにいれば良かったと後悔しているのがありありと分かった。ぼくがたたらを踏んだのを見て、少しでも負担を減らそうと必死にしがみついてきたのが可愛かった。全然腕に力、入ってなかったけど。
「もうしわけありません。またクダリに迷惑をかけてしまった……」
「迷惑じゃない。そんなこと言わない。ただ、ノボリがまた怪我しちゃうのが嫌。また痛い思いをして欲しくない。だからぼくがくるまでベッドにいて、待っててよ」
「はい……」
「うん。気にしないでよ」
「はい……」
いつもの通りぼくらの服装は色違いなだけで同じだったけど、ノボリには見るからにサイズアウトしていたし、少し寒そうに見えたからノボリにはひざ掛けをした。ノボリはなんにも言わずにぼくの手つきを見て、だいぶ動くようになったけどまだぎこちない両手をぎゅっと握りしめた。あんまり力は入ってない。
結局、長期の傷病休暇ということになったノボリが退院してから、既に代理のサブウェイマスターたちを手配していたぼくは取れる限りの介護休暇をもぎ取ったわけだ。あらゆることにかこつけてノボリの身の回りの事をぜーんぶやった。ノボリができる! やりたい! って言った時にはやらせたけど、言わなきゃなんでもかんでも全部やった。日常生活だってリハビリだ、それらを奪われてノボリの回復はかんばしくなかった。
それでもノボリがいつも通りのメンタルをしていたなら、きっと毅然とぼくを跳ね除けただろうね。でも、そんな元気はノボリになくて、一日中ぼんやりとしていたり、しくしく泣いていたり、ぼくが正しいやり方を遮断したせいで見当違いのリハビリをしようとして上手くいかずにうずくまったりして無為に日々を過ごす。
今のノボリはほんの少ししか足を動かせない。何かに掴まってもそれは腕の力で体を持ち上げているだけで足の力で立てているわけじゃない。その腕の力も衰えて、到底成人男性の体重を支えられるほどはない。自力で寝返りを打つのがやっとで、小さな子どもが使うような握りやすい太い軸のペンを握ることはできるようになったけど、五分もなにか書くと指が痺れて酷く痛んでしまうらしい。
退院してすぐのころノボリは弁護士を雇い、加害者と保険会社からありとあらゆる手段で慰謝料を相場の三倍はふんだくって、ぼくに「わたくしはクダリに今後金銭で迷惑をかけることなんて絶対にありません」と言ってきたけど、逆に言えばノボリにできたのはそれまでだった。ノボリにかつてのような元気があったのも、それまでだった。
「どうも最近、腹具合がよくありません……クダリもおなじものを食べているのですから、運動をしないせいでしょうか。それにいつもからだにちからがはいらず、とても眠くて……朝からずっとウトウトしてばかりなのです」
「眠いのは体が頑張って治そうとしているからだよ、ノボリ。他のはちょっと分かんないけど、……もし心配なら一応病院行く?」
「いえ。病院にはいきたくありません。もう入院はいやなんです。せっかく帰ってこられたのに!」
「ぼくもノボリと一緒にいたい。でも、お医者さんが入院すべきって思ったらそうすべき。早く治そう?」
「えぇ、えぇそうです。わかっております。でも、大丈夫です。これ以上わるくなるようでしたらいきます。いまはよしてくださいまし。わたくし、かれらの技量のことは信じていますが……どうにも、気休めとみえすいた嘘をつくひとたちのところにいきたくありませんので」
腹具合が悪いのはぼくが食事に下剤を盛ってるからで、力が入らなくて少しばかり舌ったらずなのは筋肉が弛緩する薬を盛ってるからで、こうも病院嫌いになってしまったのはいまいち理由がわからないけど好都合だった。
ぼくの言葉を信じきって、もう治らないと思い込んでいるノボリは他の人が言う正しい言葉をすべて嘘だと断じている。だからかな? ぼくが嘘をついているのに、ノボリからすれば周囲全部が嘘まみれだ。
かわいそうなノボリ。かわいいひと。ぼくの方をおかしいって思えないんだよね。
すべてにおいて無気力気味でネガティブになってしまったノボリだけど、家にいたい、ここにいたい、そして控えめに、ぼくと過ごしたいとノボリは言う。ノボリがぼく以外に頼れないように入念に見舞いに来た職場の人間を全員追い返し、ライブキャスターも事故で壊れたから、わざとアカウントを引き継がないで新品のものを渡した。そのせいで連絡先が吹っ飛んでしまってほかの知り合いと話すこともない。
とはいえ、もう少し「こう」なるには時間がかかると思ってたんだけどな。
元々ノボリは高潔なひと。努力家で、真面目で、頑張ったらなんだって出来るひと。初めてのままならなさに敗北を知らない心が負けちゃったのかもね。
ちゃんと頭が回るなら、アカウントの復旧くらい思いつくだろうし、パソコンだってあるんだからリハビリの方法くらい調べたらいいんだし、あんまりにも長く続いている不調を何か疑っても普通だと思う。だってノボリは本当に隙のない人間だったんだもの。なのにそのノボリがメンタルをやられてしまったことでこんなに弱るなんて! 予想外だったけど好都合だった。その上まだぼくが知らないノボリを知れるのはとても幸せなことだった。
ぼくがいないと文字通りどこにも行けないノボリ。着替えることさえ以前の何倍も時間をかけなきゃいけなくて、悪戦苦闘しているところで手伝われてしまってうつむくノボリ。隙だらけでなんでも仕掛けられていつでもどこでもどこにいるのかわかるノボリ。どこで何を話しても声を録音できちゃうノボリ。
完璧なきみが好きだった。したたかなきみを愛してた。二両編成だとうそぶきながら、ノボリはひとりで何でもできるし生きていける人だ。自由で、孤高で、そんなきみを貶めた。次は何を奪おう? なんとかして健気にこらえる魂をへし折ろうか? 完全に萎えてしまった足をもぎ取ってやろうか? プライドを「やさしさ」で粉々に砕いて、苦しむきみを慰めたい。
ノボリの最大の不幸はこんな事故に遭ったことだろうか? ちがう。この世で一番信頼している弟が、唯一愛している家族が猛毒を内に秘め、不運でそれを解放する機会を得てしまったことそのものだ。ノボリ、ぼくは本当は優しくないんだ。でも完璧人間なきみが気づけなかったんだから、もう受け入れるしかないね?
ぼくは車椅子をテーブルにつけると、タオルを手渡した。最初はエプロンみたいに首に巻いてやろうかと思ったけど、まだ早いかなって。自分で食べられる時にやるのは違うよね? ノボリの前ではあくまで優しい、兄を真っ当に心配する健気な弟なんだ。ゆっくり慣らしていかなきゃ。何もかも奪うのは時間をかければできるはず。そのうちスプーンを握るのもやってあげる。それに屈辱を感じながら、好意をはねのけられなくて苦しむノボリを見たいな。それとももはやなんにも感じることもなく当たり前に受け入れるかな、それはそれでとってもかわいいからいいね。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
いろんなことの布石として、最近はやわらかくて食べやすいものしか出していない。ぼくも同じものを食べる。別にノボリは咀嚼に問題はないけど、弛緩する薬のせいで全然力が入らないのを知っているから。ノボリは怪我をしたせいでこうなったと思っているから気づいているだろうに、自分の状態もわかっているから半分離乳食みたいなメニューを見てもぼくになんにも言わない。
そしてぼくも同じものを食べる。ノボリの目の前で、ぼくも普通の成人男性が食べないようなとろっとしたやわらかなジャガイモのマッシュや、くたくたになるまで煮込まれた野菜のスープをほとんど噛むことなく飲み込み、スムージーを食事扱いする。
「クダリ。わたくしのためを思ってこういったものをつくってくださっているのはわかっていますが、たいして動かないわたくしはともかく、これではクダリのからだがもちませんよ」
「ぼく、ノボリよりたくさん食べてるから大丈夫だよ。まだまだおかわりするから」
ただ、ぼくはタンパク質を避け、それも徹底して肉を出さないことにしていた。きっとノボリはそれに気づいている。
「この前からなんどももうしあげておりますが、きちんとタンパク質もとりませんと。クダリ、制服のサイズがあわなくなってしまいます」
「じゃあお昼はお魚にしようかな?」
「魚も結構ですが、肉をたべなさい肉を。わたくしは目の前でぶあついステーキをたべてもほしがってとったりしませんよ」
「……」
「クダリ? おまえ肉は好きでしょう?」
好きだ。血の滴りそうなレアなステーキにかぶりつくのも、あるいはしっかり焼けたミディアムにソースを絡めるのも。しっかりとした肉の歯ごたえを、ノボリの喉を噛み切るのに見立てて味わうのが好きだ。口いっぱいに広がる生命の味を飲み込んで、次は目の前のノボリのどの部位のつもりで食べようか、と考えるのが楽しいから。
久しく食べていないから、反射的に生理的な唾液が込み上げてきた。
「肉は、今、食べたくないな」
だけど嘘に嘘を重ねる。別にこの食事に耐えかねてこっそり隠れて食べてなんかいない。そういう嘘はつかないけど。というかそんなことをしたらぼくの体重が減らないじゃないか。それでは意味がない。
「どうして? やせてしまいますよ」
「痩せてもいいの。痩せてもノボリと一緒」
「クダリ」
「……違うの、そういうつもりで言ったんじゃない」
ノボリ、賢いきみならわかるよね?
これは怪我をしてしまった片割れとそれでも同じになりたい健気な弟であろうとしている虚勢で。
ノボリ。きみの顔がそうやって曇るの見るの、好きなの。ぼくにしか見えない人間らしい顔。これからはもっとそういう顔をしてくれるかな?
「まさか、おまえ、もしかして、あの事故のせいで」
「……ちがうの、……ごめんなさい……」
「やめなさい、あやまるのはわたくしの方です。なんてこと……」
至近距離で事故を目撃したカワイソウな弟が哀れなことにトラウマを抱えちゃったって気づくよね。まぁそんなことないんだけど。
流石にあの痛々しい姿はただただ恐ろしかったけどね。あの姿に興奮するほど人間辞めちゃいないけどね。でも別にぼくは肉なんて平気だ。
でもダメ。ノボリの罪悪感を煽る。ノボリにはぼくしかいないし、ノボリはぼくに引け目がある。そうしなくちゃ、ね?
ぼくは健康な成人男性なのに離乳食みたいなものばかり食べて痩せていく。ノボリの看病もするからどんどん痩せていく。ねぇ、ノボリ。でもきみはぼくといたいって思ってるし、実際ひとりじゃどうにもならないね?
日に日にノボリの体は悪くなっていく。日を追うごとに傷は癒えて痛みは減っていくだろうけど、筋肉は落ち、タンパク質を取らないから簡単にこけていく。どんどん何も出来なくなって、ぼくに縋るしかなくなって、罪悪感でどうにかなりそうで、ネガティブになって。でも、片割れはきみを全部肯定する。
「ねえノボリ、お肉食べたい? ずっとこんなやわらかいのじゃ物足りないよね。別に歯を悪くしたわけじゃないんだし。これからはもっと普通のご飯作る。お昼はお肉が沢山入ったシチューとかどう? 体を治すのに肉が必要だよね、気づかなくってごめんね」
「いえ。このままでいいです。なんなら今日は朝ののこりでも、」
「でもノボリ。たまには外に行こう? 買い物しにさ。今日はよく晴れてるから、久しぶりに太陽の光を浴びてさ、気持ちいいよ」
「いいんです。いきたくありません。わたくしたちそもそも地下にこもりきりで陽の光なんてまっとうにあびてこなかったではありませんか。それにクダリも買い物なんていかないでください。なにか必要なら注文して届けてもらえばいいじゃありませんか。外にでて、もし事故にあったらどうするんですかっ!」
ヒステリックにかすれた声で叫んで、ノボリはしくしく泣き始めた。ぼくは立ち上がって駆け寄って、震える背中をさすった。
ノボリはここのところ外に出るのを嫌がった。他人に自分の姿を見られるのが嫌で、外が怖くて、そして根拠もなくぼくを失うことに怯え、冷静ではなくなっている。
あぁ、あの無慈悲で最強の地下の王が! 折れない信念を、途絶えることがないはずのひたむきさを、ぼくの嘘が叩き折ったんだ! かつてのノボリが根拠のない恐怖におびえたのだろうか? あのノボリが弱々しくただ泣くだけなんてことがあっただろうか!
ああ、なんて。興奮しちゃう。うっかり涎でも垂らさないようにしなくちゃ。弱くなったきみは本当に本当に本当にカワイソウ。今すぐ食べちゃいたいほどかわいくて、哀れっぽくて、今すぐ引き倒して襲いたいくらいだ。首を絞めるか足を切るか、それともめちゃくちゃな手段で「汚して」しまうかは迷うところだけど。
なんて。まだまだ味付けの段階でつまみ食いなんてしないよ。まだノボリは取り返しがつく。ここから真っ当なリハビリをすればちゃんと回復する可能性がある。それじゃあダメだよ。すべては完全にノボリを破壊し尽くしてからのお楽しみだ。
ノボリ。もうすぐ取っておきのお薬、あげるからね?
「クダリ、クダリ、ここにいてください。わたくしは自分で立てもしないなにもできないお荷物で、おまえにとっては見るだけで嫌なことを思いだしてしまうような存在かもしれません。仕事も休まなくてはならなくて、わたくしはこのざま……どうしてわたくし、あのときに、あぁ、あのとき生きのびてしまったのか!」
「ノボリ! やめてよ!」
「クダリ! わたくし、わたくし、おまえにこんなに迷惑をかけているのになんて酷いことを考えたのでしょう! 死んでしまいたいなんておもうのです、ここのところずっと! わたくしはおかしくなってしまった……クダリのいう通り病院にいくべきです! なのにわたくし、わたくし、もうクダリのいない病室でひとりぽっちになり、消毒液と吐しゃ物のにおいをかぎながら気休めとうそだけでなぐさめられる生活なんてまっぴらごめんなのです!」
「……吐瀉物?」
何それ知らない。ノボリは怪我こそひどかったけど、頭は外傷だけだって。もちろん強く揺さぶられ、叩きつけられたみたいだから、そりゃあしばらくは要観察だったけど。
吐いたなんて知らない! お医者さんは半分の人が諦めるリハビリだって言っていたけど、ぼくが何もしなくてもそれ自体が最初から「気休め」だったってことなの?
「ノボリ、ぼく知らないよそれ」
「やさしいクダリにはすべて伝えないようにとお願いしたのはわたくしです。頭を打った人間が多少吐くくらい当然ですが、クダリがショックをうけるなんて、クダリはなにも悪くないのにいいわけありませんから。
しかし、あの病院は信用なりませんね、結局クダリは正確にわたくしについてしっていたじゃありませんか。そのうえ主治医はコロコロ変わるし、治るといったり治らないといってみたり、だれも信用できたものじゃありません。きっと錯乱している患者より、家族につたえる方が先決だとおもったのでしょうね?」
「ノボリ、ノボリ、そうじゃなくて。知らないよそれ、ぼくにも詳しく教えてよ!」
「うそおっしゃい。ごぞんじでしょう? もう二度とわたくしはあるけない。リハビリをしても、あるけるようにならない。腕さえうまく動かせず、ひとりでなにもできない! わたくし、このままでは育て屋に手持ちたちを迎えにいくことさえできません! わたくしは……わたくしは、クダリにとってのお荷物なんです! クダリの人生に不都合しかあたえない……!」
ちょっと話がおかしい。ノボリの主治医が変わるなんてなかった。ぼくが説明を聞いたのはノボリが意識を取り戻す前だから、ノボリの言うように「全て伝えないようにとお願い」なんてできないはずだ。吐いたのは本当かもしれなかったけど、退院してからはそんなことはなかったし、気づかなかった。
処方されていた頓服の抗不安薬。ノボリがどんなに不安そうにしていても、活力を失って一日中しくしく泣いてても飲ませなかったんだけど。病院ではそりゃあもうかつての溌剌さが見る影もなくて、あっという間にいろんな精神薬の世話になってたけど。
思っていたよりもノボリを壊してしまうのって簡単だったんだ。ぼくの前ではひとりの人間なんだものね、ノボリも。
背筋を駆け巡るぞくぞくとした快感。冷静に物事を考えられなくなって、とうとう心を守るためにノボリの中で「そういうこと」になった事実を静かに記憶する。
「ノボリ。よく考えてみて。逆の立場だったらそう思ったの? もしぼくが事故にあって、仕事を休まなくちゃいけなくて。しばらくノボリは仕事を休んで家族としてぼくの世話をすることになった。そしたらノボリはぼくのこと、お荷物だって思うの? いると人生に不都合だなって思うの?」
「……いいえ、そんなまさか」
「ぼくだって同じ。わかるでしょ? ノボリ、不安になってるんだね。だから悪く考えちゃう。ぼくたち考えること同じ。ぼくはノボリが大切。どんな姿でも生きていて欲しいって思うのはぼくのエゴ?」
「いいえ。おまえはやさしい子です。わたくしは、おまえにひどいことをいってしまいましたね」
「聞いて。ノボリ。大丈夫なんだよ。いつまでに治そうとか迷惑をかけないようにって考えてるんでしょ? たとえばぼくの休暇が終わるまでにどうにか、とか」
「……はい」
「ノボリ。ぼくはノボリが無事に回復するまで仕事辞めたっていいの。なんとでもなるよ。それにぼくたち結構稼いできたんだから、普通に生きていくくらいなら大丈夫。ひとりで本気じゃないバトルをやるくらいなら何年かけてもノボリと二両編成で再出発を目指すよ?」
「クダリ……」
ノボリは泣いていた。さっきから目が溶けてしまったみたいに泣きっぱなしだけど今の涙は違う。感激して、嬉しくて、でも前みたいにブラボーって大きな声で言うことができないから、その分綺麗な涙を流して泣いているんだ。
かわいいねノボリ。世界でいちばんかわいいね。感動したね? もしかして、希望も取り戻した?
「無理しないでゆっくり治そう? 焦っていいことなんてない。ね、駆け込み乗車は危ないよ」
「えぇ、えぇ、そうでございます」
「よかった! ノボリちょっと元気になった! じゃあその勢いで外行こ? 今日の晩御飯一緒に決めようよ!」
「いいですね。それではきがえるの、てつだってくれますか?」
「もちろん! そうだ、食べたいものいろいろ考えておいてね!」
青白い頬を少しだけ赤く染めてきみは笑う。行こうか、恐ろしい外に。これが最後になるかもしれないし、きみがきみのままで健やかに笑えるのもこれでおしまいなんだから。
たっぷり時間をかけてノボリを着替えさせ、いつも通りに色違いの服を着て、預けた手持ちたちにちょっと顔を見せようとも言ってみる。ノボリはそれはそれは喜んで、幸せそうだった。
ようやく少しだけ気分が上を向いて、ぼくが車椅子を押すのを制して一生懸命に車椅子を漕ぐノボリはきっとこのままなら元気になれる。
ノボリはぼくを信じてる。この世の誰より、何よりも。
壊すなら今だ。ぼくはうっそりと笑いながら、この無防備なノボリのうなじに噛み付いて、その血を舌の上で転がせたらどれだけ甘い味がするだろうか、と夢想した。ノボリ、君を一番脅かしているのはあの事故じゃなくて隣にいるぼくなんだよ?
その後、ノボリは薄着が似合う陽気なのに、体格を隠せるようやたらと厚着を要求してきたのですでに自分に対する自信というものの破壊には成功しているらしくって、ついにっこり笑ってしまった。
双子であろうとも、いかに仲が良くても、母親の胎内から生まれ出た段階で別個体である以上はその心の内までは分かりやしない。
つまり、クダリがいかに表情豊かな人間だとしても、本当のところはわかりやしない。
「ノボリ、今日ぼくね、本当に悪いんだけど……」
昼食が終わってからもせっせと続けて料理をしていたクダリ。いつもより早く洗濯物を取り込み、部屋を片付けて、まるで寝る前のように家のことをきちんと済ませて。育て屋に預けていた手持ちの中からドリュウズを選んで引き取ってくるとわたくしにしっかりと渡して。その上念を入れて自分もシビルドンも繰り出すと、小声で何かと言いつけていたのだからおかしい。まるで小さな子どものお守りさせるつもりのよう。
もちろんここまで分かりやすいのだから、クダリの困り顔を見る前からどういうことなのか分かっておりますとも。
「はい。どこかに用事でもあるのでしょう? わたくしのことをきづかわなくてもいってらっしゃい。留守は大丈夫ですから。今日は調子がいいので抱き上げてもらわずともすこしなら立てますし、車いすで買い物も行けますよ」
「うん……無理はしないでよ? あのね、ギアステーションのみんなにどうしてもって誘われちゃって。他にもスクール時代の知り合いにも誘われて……もちろんノボリも一緒にって、大変な時だろうけどもし体調がいいならぜひおいでって。でもノボリ」
「はい。そもそもわたくし、あまりあの手の雰囲気は好きではありません。ご存知でしょう? 鉄道員の皆さまとはともかく、同窓会なんてだれがだれに惚れただの腫れただの、そんなおはなしばっかりじゃないですか。言い訳せずに欠席できるならせいせいします」
「ノボリってやっぱり貰ったラブレター目の前で破りそうだよね」
「このけがをしてよかったことは、すくなくともこの体たらくでは、わずらわしい相手をしなくてもすむことですね?」
「いやわかんないよ、こういう儚いオトコノコってそれはそれでモテるらしいよ?」
「勘弁していただきたい。モテるのはクダリだけでいいではありませんか。この色男」
「正直変わんないよね」
「……」
行きたいなら気まずそうにせず行ってこればいいのに。ここのところ仕事していた時よりもクダリにあらゆる負担をかけているのだから。羽を伸ばしてほしいし、わたくしだって別にひとりである程度は大丈夫なのだと証明するいい機会でしょう。
クダリの休暇が終わればなんとしてでも復帰してもらわなくては困る。優しいあの子は仕事を辞めるのも厭わないだろうし、それになんとも思っちゃいないことまでは分かりましたがそれはそれ。
幼少のみぎりより憧れだったサブウェイマスターとしての名誉をわたくしのせいで失うなんてあってはならないこと。クダリなら、わたくしと違って協調性のあるクダリなら、例え隣に立つのがわたくしでなくとも素晴らしいコンビネーションを見せてくれるはず。
わたくしたちは兄弟として切っても切れない関係ですが、ひとりの大人の人間なのですから。クダリの献身を当然のものとして受け入れるわけにはいかない。もう十分、クダリはわたくしを支えてくれたし、わたくしももう少しリハビリの努力をすれば、調子が多少悪くとも一人で家にいるくらいはできるでしょう。
「じゃあノボリは不参加ってことで連絡しておくね」
「えぇ」
「ごめんね、晩御飯は作っておいたから、レンジであっためたらもう食べられるから」
「手間をかけているのはわたくしの方です。いつも助かっているんですよ、クダリ」
「手間じゃないよ」
クダリは申し訳なさそうな顔を崩さないまま、そそくさと着替えて家を出た。
部屋はなんとも静かで、もの寂しくなってしまった。
「さびしいなんて。お前たちがいるのにわたくしはひどい人間ですねえ」
そっと寄り添ってくれるドリュウズ。あの事故からポケモンバトルは一度もできていない。バトルサブウェイで繰り出すように苛烈な調整を受けてきた手持ちたちにいまさらこちらの事情でバトルのない日々を送らせるなんて勝手なことでしょう。それとも、育て屋でのんびりと過ごし、いい休暇になっているのだろうか。
「これからわたくし、クダリのバトルレコードを見ようかと。ええと、ライブキャスターは……ああ、昔のデータはふっとんだんでした。クダリとギアステーションの番号しか入っていないんですよ、なんともものさびしいですね」
腕につけなくなって久しいライブキャスター。充電ケーブルから引き抜いたはいいものの真新しいそれに目的のデータは入っていない。途端にクダリのいないこの家ががらんどうでとても寂しく、なにもないように思えて空恐ろしくなる。
見慣れたはずの部屋なのに、あの事故から増えた家具が我が物顔で居座っている。一度も使えていない杖がリビングの隅に寄せられ、クダリが買ってきた保存食の段ボールが積み上げられた。いたたまれなくなって寝室に戻ろうとするとシビルドンが器用にわたくしを押してくれました。
「ありがとうございます。自分でできますよ」
首をかしげながら聞いてはくれたものの聞き入れてはくれず、ベッドの真横まで連れてきてもらい、部屋の電気をつけると日中のほとんどを過ごすこの部屋も随分様変わりしたものだと改めて実感してしまった。
床を覆う毛の長い絨毯は転んでも怪我しないようにと新調されたもの。衣服を入れたプラスチックのチェストは重い木製の引き戸を開けられなくなったわたくしのため。仕事着は以前まで取り出しやすいよう壁にかけていたけれど、今はクローゼットの住人になって久しい。
夜中にベッドから起き上がられずに落ちたり、怪我の後遺症で熱を出したりとクダリに心配をかけてしまったりしたことからわたくしの寝室にはクダリのベッドが運び込まれており、随分と狭く感じる。
丁寧にベッドメイクされたわたくしの寝床と、あからさまに起きた時のまま、脱ぎ捨てたパジャマもぐちゃぐちゃで放置されているクダリのベッド。
脱ぎ散らすのをよしなさい、と以前のわたくしなら言ったのでしょうが。
なんとなくクダリのベッドには近寄りがたく、しかしあのパジャマをたたむ程度のことも今のわたくしには一苦労なのだと思い出した。我慢ならずに車椅子をこぎ、パジャマを取り上げると、力が入らずうまく動かせない手で畳んでやりました。完璧とはいいがたいですが、なかなかうまくできたのではないでしょうか。
「まあこれでいいでしょう」
ベッドメイクまではできません。身を乗り出すことは車椅子から転落することを意味します。わたくしは踏ん張ることができないので体重が移動した方向に倒れることしかできないのです。そのまま自分のベッドに取って返すと倒れこむようにベッドに移動しました。とにかく勢いが大事なのです。クダリは危ないと言ってゆっくりとわたくしを抱き上げますが、自分でゆっくり動いていると足の力が抜けて床にへたり込むに違いありません。
「ドリュウズ、シビルドン。わたくしここで寝ていますから、どうぞご自由になさってください」
通じてはいるのでしょうけど、頷いてはくれず。先にクダリが言い聞かせていた方を優先しているらしく、彼らは新しい絨毯の毛の長さにはしゃぎながらそこにいるのでした。小さな声で何かしゃべりながら、そのわたくしにはわからない穏やかな会話を聞きながら目を閉じて。ひと眠りすればきっとクダリは戻っているはずです。玄関の鍵はどうせわたくしが開けるまでもなく自分で開けるのでしょうし、考えても仕方のないこと。
ずっとずっと体がだるくて、力が入らず。その上雨の日には全身の傷がじくじくと痛む。ありとあらゆる嫌なことから目をそらすためにここのところ寝てばかりの様相だけれども、それでも前を向こうとこの前決めたばかりなのに身体は言うことを聞かない。今日は体調は比較的いい日だけども、それでも少し指を動かすことさえつらく、ほとんど座っていただけなのにもうくたくただった。
指先は震え、胸は苦しい。頭は相変わらず痛いし、全身の傷はよくなってきたとはいっても突っ張るようでどうにも動かしづらく力は抜けていく。
そんな体たらくなわけで、目を閉じればあっという間に意識が遠のき、こうなっても寝つきがいいことだけは不幸中の幸いだと頭の片隅に冷静なわたくしが囁いた。
遮光カーテンを締め切った部屋。時計を全て簡単には見えない位置に置き、ぼーっと天井を眺める。時間などわかりはしない。カーテンの隙間がほんのりと輝いていないから、きっと夜なのだろう。
クダリはまだ帰らない。絨毯で戯れていたドリュウズがうつらうつらと船を漕ぎ、シビルドンは少し前に二匹分のご飯を取りに行った。わたくしが手ずから出すことは不可能なので、クダリがポケモンフードについては自分たちで用意できるようにしたらしい。
わたくしはと言えばいっこうに腹が空かないので、何をする訳でもなく身体が脱力するに任せてだらりと横たわっているだけだ。空調によって快適な温度に整えられた部屋、清潔なシーツが覆うベッドは居心地が良く、ただ堕落を貪る。
かつてのわたくしならこんな日々を許容しただろうか。するわけがない。不可能だと知っていても諦めきれずに這いつくばってでも元の生活を取り戻そうと必死になったはずだ。なにひとつわたくしらしくない。分かっていたが。
その時、突然けたたましく着信を知らせるライブキャスターが鳴り響く。ベッドサイドに鈍い腕を伸ばし、「クダリ」と表示されている通知に触れようとして……そうだ、クダリは今外にいるのだ。一緒にいるのは鉄道員のみなさまなのかかつてのクラスメイトなのかはわからないが、普通に出てはこの体たらくが見られてしまうかもしれない。
わたくしが休職していること、その経緯などすでに周知の事実。しかしこの弱り切った姿を他人に見せるのはまだ抵抗があった。
そっとカメラをオフにし、おそるおそる通話に出た。
「はい、ノボリです」
「もしもしノボリさん? よかった繋がりました。きっと休んでいらっしゃたのに邪魔して申し訳ないです」
覚えのある声は鉄道員のものだった。何人もがクダリのライブキャスターを覗き込んでいるらしく、小さな画面に映る喋る人間は押し合いへし合い目まぐるしく変わる。その場のざわめきまでもが聞こえてきて、あっという間に静かな部屋が騒がしくなる。わたくしがカメラを切っていることにすぐに気づき、今度はライブキャスターの奪い合いになっていたが。
いつの間にか目の前にやってきたドリュウズがベッドから身を乗り出して半分体を起こしたまま固まっていたわたくしをまっすぐに座らせてくれた。
「あの、クダリさんがちょっと体調が優れなくて、病院行くほどじゃないって本人は言い張っているんですけど……」
「なんですって。もうしわけありません、お手数をおかけしてしまっているようで……」
「黒ボスの手を煩わせることもありませんわ。ただそらをとぶで高速輸送するのは悪化しそうなんでやれないんで、自転車に括り付けるわけにもいかんし、なんやタクシーも捕まらなくて。ちょっと帰宅は遅くなります」
「わかりました。クダリ? クダリはそこにいますか?」
「白ボスはまだトイレとお友達になってますわ……」
「なんですって」
「ギアステーションに来るなりいきなり顔を青くして……」
なんてこと。迎えに行かなくては。そう反射的に思い浮かんだものの、戯言は喉からこぼれ落ちる前に飲み込む。
わたくしにできることは目の前の車椅子に乗るくらいが精一杯。指の力がなく、家の錠前を捻ることさえひと仕事。成し遂げたとて押してもらえなければ大した距離は進めやしない。
事実が胸を焼く。現実がまるで濁流となり、ひたひたと足元からせり上がってきて、いつしか肺を沈めていく。息ができない。
「本来ならわたくしがむかえにいくのが筋なのでしょうが、大変もうしわけございません。クダリがご迷惑をおかけしているというのに」
「いえ! ただ連絡をしなくちゃと思っただけなので迷惑なんてとんでもない! どうしても白ボスの承認が必要な書類がいくつかあって、一応連絡したら来て下さるって仰ったので甘えてしまいました」
「書類? わたくしは、クダリはみなさまと飲みにでもいくのだと思っていたのですが」
そういえば彼らの後ろに映る景色は見慣れたギアステーションの事務所だ。
「まさか! クダリさんだってお休みなのに。ただどうしても代理サブウェイマスターに関する承認はクダリさんでないといけなくて」
「そうでしょうね。はぁクダリったらわたくしをなんだと思っているのか。うそをついてまで……」
その時小さな画面の後ろから白いシャツの男がよろよろと現れ、騒がしい現場を見て目を丸くした。こうして画面越しに見ると相当痩せたのが分かる。それはそうだ、クダリの食事はすべてわたくしと一緒。やわらかく、体力や力の無くなったわたくしでもむせないように煮込まれた野菜やパン、麦や米の粥。そんな病人と同じものを多少多めに食べたとて、わたくしのせいで肉も食べられないとくれば健康な成人男性ならば身体がもたないのは当然。
とはいえ、久しぶりに見るネクタイ姿だった。家にいるときとは違う空気をまとい、姿勢の良いクダリの背筋がひときわぴしりと伸びていて、やはりクダリはこうでなくては。
実感すると心に重い石を投げ入れられたかのよう。クダリはやはり、そうやって仕事をしているのが似合うのに。わたくしのせいで現場から離れ、わたくしに合わせて痩せてしまうような食事をするから滅多にない体調不良を起こしたのではないか。
「もしかしてノボリに繋いだ?」
「あっクダリさん……」
「えぇ。クダリ、どうしてもかわれない仕事があるならそういえばいいのです。体調が悪いのならそういえばいいのです。こんなわたくしでも知恵をだすくらいならきっと、……いえ、わたくしはそんなに頼れませんか。頼れませんよね」
「え、あ、ノボリ」
「これは八つ当たりです。わかってます。クダリ、用がすんだら気をつけて……あぁこのあとが同窓会なのですかね? 参加はもちろんおまえの自由ですけど、からだを壊すと『こう』なりますから、無茶はしないように。無論わたくしにいわれたくはないでしょうけど……」
「ちょっと待って」
「いえ。わたくしは大丈夫です。クダリの邪魔にはなりませんから。一日や二日くらいわたくしのことなんてすべて忘れて息抜きをした方がよいのです。もちろんもっと長くても、まぁなんとかなりますよ。なるようにしかならないので」
「ノボリ、ノボリ、ぼくすぐ帰る。どうしたのノボリ」
「いいえ」
カメラをオンにした。これは顔を見て話さなくてはならないと思ったからだ。
画面越しでも痩せたとわかるクダリよりもさらにずっと痩せ、かつてのように整えず下ろしたままの髪やサイズが合わなくなった寝巻きのままの無様な姿が見られようとも構うものか。背を支えてもらわなくては座ってもいられない、到底復帰できそうにもないかつての上司を見て周囲の鉄道員たちは息を飲んだ。
わたくしは微笑む。頬が歪み、きっと笑っているようには見えないだろうが。
「こうしてみて、わかったのですよ。やはりおまえはそうしているのが似合う。わたくしのために休ませるなんて絶対に許してはいけなかったのに。クダリ、いの一番におまえの体調を心配できない兄でもうしわけないですね。今のわたくしはおまえを迎えにいくこともできない。ギアステーションまでひとりでいくこともできない。ほとほと自分に失望してしまいました」
「何言ってるの」
「ただの戯言、でございます。クダリ、無理せずにゆっくり帰ってらっしゃい。帰ったらおはなしがありますから」
「ノボリ!」
「わたくし今、ちっとも冷静ではございません。頭の中を整理したいので体調がよくなってから、そして仕事をかたづけてから、ゆっくりで構いませんよ。……ああドリュウズ、ながらく支えていただきありがとうございました。これからわたくしリビングにいくのでもう大丈夫です。それでは、みなみなさまも、わたくしたち兄弟が迷惑をかけてしまったようで本当にもうしわけございませんでした。失礼いたしました」
「ノボリ、待ってよ!」
クダリの制止を無視して通話を切った。切ってすぐに何度も何度も様々な相手から着信があったものの無視を決め込み、終いにはライブキャスターの電源を落とした。
注意しいしいたっぷり十分はかけて車椅子へ移動し、戻ってきてドリュウズから何事かを聞いたシビルドンが器用にもわたくしをリビングに押して行ってくださった。
「なにをしているのでしょうね、わたくし。どうして、どうしてわたくしは生き残ってしまったのか。どうして今ものうのうと生きているのか。クダリの邪魔になるくらいなら、いっそ」
ドリュウズが悲しそうな顔をしている。そんな顔をさせたくないのに、ひたすらネガティブな言葉だけが溢れてきて、止まらない。
「いいえ、いいえ、違いますよ。変なことをいってしまいました。そんな恐ろしいことをするつもりはありません。その方がクダリは気に病むでしょうし、それはそれで面倒な後始末をさせてしまいます。重々、承知です。わかっています。
最近どうも、こらえ性がないというか、思ったことがそのまま口から出てしまうというか、よくありませんね」
とりあえずクダリが帰宅したら話をしなくては。その為には飲み物くらいは用意しておこう。今から用意すればとっくに冷めて室温になってしまうだろうが、構うものか。
どうせわたくしはさっと用意することなどできない。
コーヒーを入れようとポットのスイッチに手をのばす。届かない。ぴょんと飛び上がってドリュウズがスイッチを入れる。
「ありがとうございます」
食器棚を見上げる。ガラス戸を開けることは出来たが、マグは上の方にある。わたくしでは届かない。食器棚に掴まって立ち上がるのは危険すぎるだろう。するとシビルドンがふわふわと浮遊し、マグをふたつ取ってテーブルに乗せた。
「ありがとう、ございます……」
何も出来ない。彼らは親切にもわたくしを助けてくれる。最初から全てやってしまうのではなく、ちゃんとわたくしが出来ないと分かってから。
わたくしは、ひとりで何も出来ない。
衝動のまま叫び声をあげてこのマグを地面にたたきつけられたら少しは気が晴れるだろうか? おそらく、その後に込み上げてくる罪悪感や無力感の方がわたくしを蝕むだろう。
だから、わたくしは、何もしない。何とか手が届いたコーヒーの瓶を膝に乗せ、ちっとも力の入らない手でたっぷりと時間をかけて固く閉じられたフタを開ける。湿気てしまうからしっかり固く閉めなさいとクダリに言ったのはかつてのわたくしだ。クダリは今も言いつけを守っている。
だけど腹いせにクダリのコーヒーは粉を大盛り三杯入れた上にミルクも砂糖も入れてやらない。わたくしのには砂糖をたっぷり入れておき、沸いたポットをどうやってちょうどいい角度に傾けてコーヒーを入れたらいいのか一人と二匹で額を付き合わせて議論し、最終的に帰ってきたクダリにやらせようということになって元通り電源に繋いでもらった。
わたくしとて、時に開き直るのである。
「ただいま! ノボリ、ノボリいる?!」
「おかえりなさいまし。はやかったですね。しかし、わたくしどこかにいく予定はありませんよ」
ぜいぜいと息切れをしている。ギアステーションから走って帰ってきたのか。髪を振り乱し、シワまみれになったシャツ、盛大に緩んだネクタイ。まったく。さっきまで体調不良だったというのに。ゆっくり帰ってきなさいと言ったのに聞こえちゃいなかったのか。
いいえ。よそさまの前で自暴自棄になったわたくしを心配したと分かっている。もちろん。なんて嫌な人間なのだろう、なんでもかんでも悪いようにしか考えることのできないなんて。こういう時こそ前を向いて口先だけでもポジティブにならなくては治るものも治らないというのに。
まあどんな心構えでも治ることはないのでどうでもいいといえばそうだ。
「服装がみだれておりますよ。着替えてらっしゃい」
「う、うん……」
粉しか入っていないコーヒーのマグが並んでいるテーブル、既にボールに戻し、別室で待機してもらった手持ちたち。クダリからすれば拍子抜けかもしれなかった。わたくしは既に落ち着いてはいる。
ほどなくして戻ったクダリにコーヒーを入れてもらう。湯気の立ったカップが二つ並んで、わたくしは甘い香りがする方を迷いなく引き寄せようとして、クダリが慌ててわたくしの前に置いた。
「そんなことしなくてもよいのです」
「ぼくがしたくてやってるの」
「わかっております」
「ノボリ。らしくないよ」
「わかっております」
「そればっかり」
「わたくしより自分の心配をしたらどうなのです? もしかしてギアステーションで吐いたのですか? それともたちくらみですか? どう考えてもわたくしにあわせてからだを壊す食事を続け、気をはっているばかりだからでしょう? わたくしがいなければ、すべて解決します」
両手でマグを取る。湯気の立ったコーヒーを一口飲む。喉を通って、胃に染み渡り、じんわりとしたぬくもりが腹の中に広がっていく。クダリはわたくしの手元をこぼさないようにかじっと眺めてから自分のコーヒーに口を付けた。
「にが!」
「おや失礼」
「ううん、大丈夫……」
「わざとですよ」
「なんでぇ」
本題に入らなくては。わたくしはもう一口コーヒーを飲んだ。甘く、苦く、くどい。
「わたくし、クダリの休暇が終わるまでにこの家を出ていきます」
「……一応最後まで聞くね」
「はい。わたくしはこの通りすっかり治るみこみがありません。クダリの面倒にならなくては、ただ生きていくことだけでも困難でしょう。パソコンの前に座っていることさえまともにできないわたくしにはたして再就職先があるのかは不明ですが、とにかく、いい歳していつまでも兄弟の世話になるような、そんな」
胸が熱い。視界が揺れる。それも仕方ない、クダリへ突きつけているのは決別だ。幼少期からずっとずっと二両編成であり続けたのだから、これが初めての離別となるだろう。感傷が思ったよりも大きくて言葉がなかなか出てこない。
つっかえながらも続けた。それでもクダリには自由に生きてほしかった。サブウェイマスターの相棒として隣にわたくしがいなければならないと思っているならうれしい。双子の兄弟として最も近いライバルとしてこれほどまでに冥利尽きることはない。
「わたくし、クダリには自由であってほしい。やりたいことをやりたいだけやり、ただ、おまえの目的地に向かって、ひた走って、ほしいのでございます……くらり、くだり、わたくしは、これからは、遠いところからではありますが、応援して、おりますよ」
激しくめまいがする。世界が回る、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、わたくしはふわふわ浮かぶ、テーブルがぷかぷかと浮かび椅子が飛ぶ。わたくしは動かないはずの足を自由に動かして、目の前のクダリに向かって全力疾走する。甘い水中の中で叫んだものだから、呼気がすべて持っていかれてしまい、一瞬にして息ができなくなる。
「おや、くだり、おまえ、どうして、そうもうれしそうに笑っているのですか?」
「なんでだと思う?」
「わかりませんが、わたくし、クダリが笑っているのを見るのは、好きですよ」
鮮やかにピカピカと光るクダリがわたくしにコーヒーを差し出した。有難く受け取って飲み干す。
その瞬間、喉が焼けた。みるみるうちに胃が焼け落ちる。脳が焼き切れる! なのに愉快で、愉快で、わたくしは笑いだした。楽しくって仕方がなかった! ああ、わたくしはいったい何に悩んでいたのだっけ? クダリがそこにいて笑っている。わたくしも笑っている。
「あぁ……あつい……?」
内臓からごぼりとこみあげてきたのは真っ青な血でした。吐き捨てるとあとからあとから虹色のモンスターボールがあふれ出て、クダリが埋まってしまう。それでは良くないので、必死に手を伸ばすがなかなか届かない。クダリは笑っていて、わたくしの手を握る。
握られた手が冷たくて、おかしくて、どうしようもなくなって泣いた。なんだかふわふわして気持ちよくて、素晴らしい爽快感はポケモンバトルのよう。序盤から温め続けたギミックを成功させ、たった一匹でお相手さまを全て蹂躙した時のような感覚。あるいは、本当に素晴らしいトレーナーと相見え、ギリギリの思考の読み合いの中、僅かにこちらが上回った時のような。
取り返しがつかないような恐怖。どこまでもどこまでも落ちていくような、ただ心地よい羊水に溺れているような、無限の安心感……。
「ノボリ。ぼくたちは二両編成。なにがあっても、なにがあっても! いつでもぼくらのコンビネーション、最高ばつぐん。でもねノボリ、ちょっとぼくたち考え方が違ったの」
「くらり、あつい、あつくて、あははっ! なんだかきもちいいんです。うふふくだり、そこにいるのですか」
「いるよ。ずっとね」
「そうですか。よかった。ところでわたくし、くらりがさぶうぇいますたーの、コートをきて、あるいているのみるの、すきなんですう……」
「そうだったの?」
「だから、わたくしはくだりがわたくしのせいで、ううう、しごとをやすむなんて、あってはならない、わたくし、しせつにでもはいって、ときどきくらりの、くらりのおはなしとか、ばとるれこーどとかで、かくにんできたらもう、それでいい、そうでなければ、わたくし、あはは、くだり、くだり!」
「施設なんていかなくていいよ」
「でもくだり、くだりがさぶうぇいますたーをやめるのはいやですよ」
「ノボリ」
「くだり、あぁ、わたくし、わたくしは、もう、おまえにふさわしくない、くだりはわたくしを、みすてないのに、わたくしはおまえのやくにたてない。となりにたつことを、ゆるされない」
指先からこぼれる光がまぶしい。クダリがいつの間にか目の前にいるのでわたくしは笑っていた。クダリがわたくしをひょいと抱き上げたので、わたくしは急いで突っぱねた。自分で立てると言いたくて。だけども、クダリは余計強くわたくしを抱きしめる。
ああ、無垢で万能感に満ちていた子ども時代のように、クダリはわたくしと額を合わせて、笑う、わらう、わらっている、クダリが笑っているから、わたくしは、わたくしは、わたくしは? わたくしも、きっと嬉しいのだ。
あつい。あつい。あつい! あつくて、クダリの低い体温が心地よい。冷たい指が首を絞める。わたくしはやっと息ができるようになって、力を抜いた。救いがそこにある。救いはそこに来ている。だらんとしたからだがクダリによって支えられている。
ひきつけを起こして、ひいひいとあえぎながら息を吐く。息ができない。クダリは笑っている。上がった口角が無限に空中に伸びていき、夜空に溶け真昼の太陽に透けていく。
クダリクダリ、おまえが笑っているならそれでいい。わたくしはこの世でいっとう大事なおまえが健やかなら、それで幸せ。それ以上を望んでも仕方ないではありませんか。
泡立った感情がボウルに入れられ、クダリの笑顔から生まれた無数のキラキラが粉になってふるい入れられる。何も生まないわたくしの愛をぱかんと割って、全て混ぜれば素敵な生地になるでしょうか? クダリ、こんなわたくしはその程度でいいのです。おまえが喜ぶ甘い菓子程度の存在になれたらそれ以上は望めませんよ。
ぜひ地獄で焼いてもらいましょう、きっと業火で焼いてもらいましょう、愛でできたクッキーと、わたくしという肉体を。あぁあついあついあつい、焦がされる! クダリクダリクダリ! 優しいおまえは、いつだって、わたくしの望むものをくれる!
「ノボリ、なんにも気にしなくていいんだよ」
「あ、ああ、あ、ぁ……」
だんだん視界が暗くなっていく。やわらかな風が頬をかすめて、目がからからに乾く。どくんどくんと心臓が脈打って、はち切れる。ひとりでに腕が暴れだし、背の高い天使を押しのけようとする。だというのに足はピクリとも動かない。当然だ、わたくしの足は動かないのだから。
きっと、やっとこの苦しみから解放される。肉体から解き放たれた魂は、きっと素晴らしい救いを得るために神からの試練を得るのだ。
空の彼方からぱぁっと白い光が差し込んで、意識が途絶えかけたその時、クダリの指がわたくしから離れた。
「ッガ、ぐぅ、ぁあああ、……あ? く、くらり、いま、わたくし、せっかく、もうすこしでぇ……」
死ねたのに。死んでしまえば、おまえの迷惑にならない存在になれたのに。
非難を込めてクダリを睨もうとして、突き放される。どすん、と床に叩きつけられ、しかし痛みを感じない。クダリの笑顔がずいっと近寄ってきて、クダリがわたくしの腕をむんずと掴み、そして、そして、強烈な痛みと恐怖が遅れてやってきて、のたうち回りながら絶叫した。
クダリが掴んだわたくしの腕があっさりと引きちぎられる。ぼろぼろと足が土くれのように崩れ落ち、胸元まで挽肉になっていく。頭を激痛が支配して、虹色の視界がぐるぐると回って天井が迫り来る。そしてこの世のすべてがわたくしを口々に非難した。
「ノボリ、ノボリ、どうしてきみはこんなに高潔なんだろうね。こうなっちゃってもぼくのことばっかりじゃないか。もっとわがままに、もっと不安定で、もっともっと自分のことばっかり考えてくれたら楽だったんだけど」
過呼吸を起こしかけた肉体を優しくベッドに横たわらせる。ひきつけを起こし、のけぞって時折びくんと震える肉体。口の端から零れ落ちた唾液をぬぐってやる。
「大好きなノボリの自由を奪おう。ここにいてほしいから。どうか危険な外にはいかないで、ぼくといっしょにずっとずっとここにいよう? それだけなのにな、そんなに難しいことなのかな、ぼくのネガイって……」
胸の内にくすぶる猛毒が、そうじゃないだろう、それだけじゃないだろうと唸りをあげる。ぼくは無視して、もがきあえぐきみをうっとりと見つめる。
「おいしかった? ノボリ、おいしかった? なんだかとっても幸せそう。でもごめんね、これ本当に強いお薬だからあんまりあげられないの。からだがボロボロになっちゃうんだって。何度も欲しくなっちゃうんだって。ホントはね、ぼく、ぼく、お薬よりぼくに夢中になってほしい。ぼくだけを知ってほしいし、ぼくだけを見てほしい。ずっと一緒にいてほしい、ずっと、ずっと、ずっと、ぼくはきみのすべてでありたい。きみのすべてを全部、全部ぼくがやってあげたいし、なんにもできなくなったきみがぼくにされるがままになっているのを見ると本当にどきどきするんだ、ノボリ、ノボリ、ノボリ、ねぇ笑って、泣いて、ぼくのせいで、苦しもう?」
暴れる腕に優しく布団にかけてやる。カッと見開いているというのに何も映していない瞳をそっと閉じさせてやる。ただ意味のとれない音を垂れ流すだけになった口元に優しく触れて、その薄くなったからだを強く強く抱きしめた。
ぼくがこうしたんだ。ぼくが壊したの。ぼくの大事な人を、取り返しのつかないからだにしてめちゃくちゃにしたんだ。
ああ!
ノボリはまだ帰ってこない。まるで女の子が遊ぶ人形のように細くなったからだが痙攣するたびにそっとその灰の髪を撫でる。
うん、こっちにして良かった。自分で試した方のお薬もまるで夢みたいなものが見えたけど、どうにも吐き気が酷くて、飲んでから結構経ってたのにまだ副作用が残ってたし、こんなに気持ちよさそうにはならなかった。不調は寝てばっかりのノボリは誤魔化せても人がいっぱいいる外に出たら誤魔化せないね?
だけどぼくは、決してきみにこの感情を伝えられない。胸の中に渦巻くおぞましい猛毒を飲ませて殺しちゃったとしても、この想いだけは伝えられない。
堅物のノボリ、残酷なきみ。おまえも恋愛なんかにかまけるのか? と鋭く冷たい目が追い詰める。そんなきみに拒否されることが怖くて、きみに嫌われることだけはできなくて、結局、拒否されようとも軽蔑されようともきみの隣を失おうとも、ただこの気持ちを伝えただけの方が平和だっただろうに。
「ノボリ」
うめき声が口から漏れ出す。もっと強く抱きしめたら安心してくれる?
「大好きだよノボリ」
あえぎながら必死にきみは息を吸う。ごめんね、苦しかった? でもぼくのせいで苦しんで欲しいの。
「ぼくだけのものになって?」
薬の効果が切れたのか、突然がくんと力が抜けて、腕がぶらぶらと揺れる。こんなにもがき苦しんでいるのにノボリはピクリとも足を動かさない。
「愛してるよノボリ」
要らないよね? その足、もう要らないでしょ? 命の危険があっても動かせないんだもの。なら、ぼくのものにしてもいい? ノボリが痛みで苦しまないうちに、すぐに済ませるから。
「愛しているの」
ごめんねノボリ。きみの一部が欲しい。本当に取り返しのつかないことをして、きみがみじめにしくしく泣く材料にしたいの。
きっとぼくの唇に触れる時、何よりも甘くて、優しくとろけて、最高の味がするんだろうね。ぼくのなかにきみの大切なものを取り込むなんて最高だ。
ふっと目が覚めた。薄暗い部屋の光源はカーテンの間から漏れ出す光。ベッドサイドの時計を探すと何故かそっぽ向いていた。眠気のせいかやけに重い腕を伸ばして文字盤を確認する。
「おや」
目覚ましのセットがされていなかったが、ちょうどいい時間に目覚めたようだ。危ないところだったがちゃんと目覚めたのだからいいか。からだを起こそうとして、うまく力が入らず、ならばと勇んでゴロンと転がれば、勢い余ってベッドから転落しそうになり……。
だが、地面にたたきつけられる前に見慣れた腕がわたくしを軽々と受け止めた。
「……っ、間に合った! ノボリ、危ないよ!」
「クダリ? どうしてわたくしの部屋にいるのです?」
「どうしてって……」
クダリがそっとわたくしを押し込み、ベッドに戻してしまう。まくれた布団を掛け直しながら。まるで小さい子どもを寝かしつけるかのような動作だ。
「ちょっと! なにをするのです!」
「でも朝ごはんまだできてないよ。もうちょっと待ってて。ほらこのバトルレコード懐かしいよ。見る?」
「ふむ、チャンピオンロードにいどんでいたころのものですね。しかし朝からゆっくりみている時間はございません。一体どうしたのですクダリ。今日はひるから会議ですから、すこしはやく、出勤しなくては。資料はちゃんとつくりましたけど、最終確認して、できれば午前のうちから、おわらせられる事務仕事は、やらなくては」
「……あー、ノボリ」
クダリはばつ悪そうに、わたくしに向かい合った。額に手を当て、熱まで測ろうとしている。なんだというのか。しかし、クダリのやることなのできっと何か理由があるのだろうと甘んじて受け入れる。
まだ身体は眠りたがっているらしく、かすむ視界に力の入らない身体。まったく、昨晩は遅くまでなにかしていたのでしたっけ? 思い出そうとすると脳に鈍痛が走る。不甲斐ない。
遠くから痛みが主張するのを見ないふり。足が痛い、足が痛い、頭が痛い。これではいけない。痛み止めはあっただろうか。一体何が悪かったのか。なんにせよこんな不摂生など許せるものではない。自分を戒めなくては。
「ノボリ。ショックを受けないで欲しいんだけど、事故のこと、覚えてる?」
「事故? じこ……事故?」
「自動車事故。ノボリ、覚えてないならいいんだ、ゆっくりでいいから。とにかく……」
「自動車、事故」
「ノボリ、無理はしなくていいから」
脳裏に浮かぶのは迫り来る影、クダリの悲鳴、吹き飛ぶからだ、痛みよりもただ衝撃だけが大きくて。
たった一瞬の事だったのに、全て終わるとわたくしは、何もかもを失ってしまう。
「あ、あぁ……事故、事故が、」
「いいのノボリ。きっとノボリの心を守るためなんだよね? ゆっくり思い出そうね」
「いいえ! 覚えておりますとも、思い出しましたとも。くだり、わたくし、あぁ、……もしかして、わたくし、いつもこう、なのですか?」
「いつもじゃないよ。たまにね」
「そうなのですね……」
恐ろしい記憶が脳裏を支配した。同時にクダリがわたくしをなんとか受け止めてくれなければ、床でもがきながら彼が来るのを待つしかない身の上であることを思い出した。
あの事故で、わたくしは両足を切断することになったのだ。だからわたくしは急いで出勤しなくていいし、なんならもうサブウェイマスターでもないのだ。
そして、それはクダリも。わたくしのせいで!
こみ上げてくる罪悪感。腹の底から冷たくなる。じくじくと痛む足の付け根が、ほんの少し罪悪感を和らげる。せめてせめてその痛みがあるうちは罰せられているのだと思えるから。
「無理もないよ。ノボリが悪いんじゃないし」
「いやしかし、これ以上クダリに迷惑をかけたくはありません。たまにということは、今回がはじめてでもないのでしょう? めざまし時計にあらましを書いて貼っておきましょうか」
「いいよそんなの。何度でも教えてあげるから」
ひょいと軽々とクダリはわたくしを抱き上げる。クダリの手を借りなくては何もできやしないわたくし。両足がないのはむしろ良かったのかもしれない。自分で動けもしないのに要らないものがあったなら、クダリに余計負担をかけることになっただろう。
「すっかり起きちゃったみたいだし、リビング行こ。体調良さそうなら今日はシャンデラたちに会いに行こうよ!」
「どうしましょうかね。会いたい気持ちは、あるのですが」
「どうしたの?」
「わたくし、とてもバトルしたいのです。ためしたい戦法がやまほどあります。しかし近くで指示を出すのは危ないでしょうから、せめてもっとくみあげてから打ち合わせし、わたくしが遠くから指示をとばしても問題ないくらいになってからためしたいのですよ。まだしっかりくめていません」
「ノート三冊びっしり書いてたけど?」
「あれっぽっちでたりるものですか。クダリもそうでしょう? いままではひとつひとつのバトルに時間をかけるのに無理がありましたが、これからはたっぷり時間をかけられます。妥協などしたくありませんね」
「うーん。ぼくノボリより感覚派。ぼくのライバル、今日も無限に進化してる!」
クダリはにこにこと笑い、わたくしをリビングのテーブルに連れていくと朝の薬を用意してくれたのでした。
「これが痛み止めで、これが炎症止めで、これが……」
丁寧に数えながら、わたくしに差し出すそれ。それらを飲み下してから、ノートの新しいページを開く。
まっすぐのはずの罫線がぐにゃりと歪み、文字が何故か上手く読めない。同時に激しいめまいが押し寄せる。思ったよりも調子が悪いと察して、わたくしは諦めて首を振った。ここのところいつもこうで嫌になる。このざまでは手持ちたちと再会できるのはいつになることやら。
歪む景色に閉口しているといつの間にかクダリが目の前にいて、朝食を並べようとしていたのでノートを閉じる。
「今日はパン粥とポテトサラダとベーコンエッグだよ。召し上がれ」
「おいしそうですね。もう肉は平気になったのですか?」
「うん、大丈夫。これからはもりもり食べる!」
「よかった。クダリはもっともっと食べるべきです。では、いただきます」
細かく刻まれた、ピンク色のベーコンが混ぜこんであるスクランブルエッグはわたくしの為にとても飲み込みやすく作られている。反面、クダリのベーコンは着色料が使われていない無塩
いの一番にぱくりとベーコンを口に入れたクダリはぱぁっと顔を明るくした。
「おいしい! やっぱりあまーい!」
「えっ、甘いのですか? あまりにも肉を食べないせいで味覚が……」
「ちがうちがう! お砂糖みたいに甘いって意味じゃないよ! 美味しいお肉は甘い脂っていうじゃない? そういう気持ち!」
「なるほど?」
何枚もあったはずのベーコンが見る間になくなっていくのを尻目にゆっくりゆっくりと匙を動かす。テレビをつけない食卓は静かなもので、しかしクダリがいつもよりもずっとにこにこしているものだからあまりそうとは思えない。
ふと、ざわめきが耐えない昼休みの乗務員室を懐かしく思いながら、わたくしはもうあそこには戻れないので懐かしさを振り払う。
「ノボリ」
「はい?」
上目遣いのクダリ。最近、ふとしたタイミングでこういう顔をする。酷く飢えたような、まるで飢餓状態の野生のポケモンのような、そんな鋭い目をして、にっこりと笑っている。
「大好きだよ」
「……そう毎日いわずとも、おなじ気持ちですよ、クダリ」
もうわたくしは「生きのびてしまった」なんて言わない。クダリがこうして、大事な片割れを失いたくないと健気にも、「大切」を言葉にしてくれるので。
「ううん、ぼく毎日言うよ。ノボリが絶対不安にならないように、絶対ノボリが忘れないように」
「そういわれると痛いですねぇ。またなにか、わすれてしまったらと思うと」
「いいの。だから毎日言うんだよ。ノボリはラブレターを貰うのは嫌いだけど、ぼくの『好き』ならいいでしょ?」
「そもそも種類がちがいますからね! たったひとりの家族の『好き』なのですよ? そんなにわたくしのことを薄情だと思ってたのですか?」
「ううん! もちろんノボリがそんなつもりじゃないのわかってるけど、それでも一応言っとかなきゃって」
クダリは笑っている。心底愛おしそうに、そのくせ酷くお腹を空かせて白い歯を剥き出す。その表情を見るとなぜかわたくしは身震いした。
そんなにもお腹が空いているなら先に朝食を食べてしまえばいいものを。
「愛してるよノボリ」