【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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 わずかな間隙、痛苦の時間。
 「   」が泣いているのを察知して。握られた指先に力を入れられたらどれだけ良かったのでしょう。わたくしはここにいますと伝えられたらどれだけ良かったのでしょう。とはいえ、わたくしは慰めの言葉さえ持てずに泣き声だけを聞いているのです。
 伝えられるものなら、「どうか一緒にいてください」と泣きごとの一つでも言いたいのですが。


あのね、わたくしの名前は?

「   」

 

きっとこころのなか、一番大事な名前があったはずなのに。

ずっといっしょだと約束した大事なあなた。

わたくしは思い出せず、茫漠と翡翠の空を見上げる。

 

 ▲▽▲▲▽▲

 

 ふたごちゃん。

 

 それがぼくたちの呼び方。ふたごちゃん。ノボリとクダリをいっぺんに呼ぶときのやり方。

 

 いつだっておとなりを見るとノボリがいる。ぼくとおててとおててをぎゅっとしたクダリがいる。黒いおようふくのクダリ、白いおぼうしのノボリ。どっちがどっちかだなんてわからない。大人にだって分からないの。

 どっちがどっちかがわかんなくなって、キーッてなったママがおなかに黒いマジックペンで「のぼり」「くだり」ってラクガキしてから、ぼくたちは書かれた方でお返事するようにしている。それまではどっちでもおんなじだったんだもの。

 

 どっちがどっちかなんてぼくたちだってわからない。

 

 だけど、よく聞かれるみたいにノボリ/クダリの気持ちがぜーんぶ分かるとか、ケガをしてない方まで痛いとか、そんなことはないのだけどね。ふたごちゃんだからって「エスパータイプ」じゃないのにね。だからぼくたち別の人間なの。どっちがどっちかはわからないけど。

 

「ねークダリ」

「ぼくノボリ」

「じゃあぼくクダリ?」

「そう」

 

 わかんなくなったらおなかを見ればいい。ママはもう書いたりしないけど、ぼくたちわかんなくなるから消えちゃいそうになったらちゃんと上から毎日書いてるの。

 

 うん、ノボリのおなかにはちゃんと「のぼり」って書いてあった。クダリのおなかにも「のぼり」って書いてたけど。あれれ?

 

「わかんないね」

「わかんないね」

 

 なんでだろ? わかんないけど面白い。にこーって笑いあって、まぁいいかって。だってずっと一緒にいるのにべつべつに呼ぶことなんてないからどっちでもいいじゃない。

 

 そのうちおなかにラクガキしてたことがバレちゃってパパに怒られて、ふたつの「のぼり」を消されちゃってからは「黒いおようふく」を着た方がノボリ、「白いおようふく」ならクダリということになった。

 

「ねぇクダリ」

「ううん、ぼくノボリ」

「黒いおぼうしと白いおようふくだとママわかんないよ」

「クダリも白いおぼうしに黒いおようふくだからパパ怒っちゃうね」

「誰にもわかんないね」

「ぼくたちにもわかんないね」

「んふふ」

「えへへ」

 

 まぁでも、その時もわかんないままだったんだけど。

 今日も。しっかりと手をつないで、嬉しそうにニコニコ笑って、何度も何度も自分のおなかに書いてある「のぼり」を見てた。おぼうしが白だから本当はクダリなのかな。

 

「ノボリ! ぼくのジュース一緒に飲も?」

「ありがとクダリ! ぼくのお菓子半分あげる!」

 

 クダリがくれたジュースはいつもとっても甘い。お返しにぼくもじぶんのお菓子を半分あげるの。ふたごちゃんで良かった! だってぼくたちいつでもうれしいこともふたごちゃんで二倍なんだから!

 

「ねぇノボリ、ぼくとずっといっしょにいて?」

「うん、ずっといっしょ!」

 

 ぎゅーっと手をつないで、つないだ手をぶんぶん降っていつもの約束をするの。

 

「やくそくだよ」

 

 笑ったままクダリは何回も何回も約束した。クダリの方が弟だってママが言ってたから、お兄ちゃんのぼくノボリはうんうんって聞いてあげるの。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ぼくはクダリだ。それを大昔からわかってた。それこそ、となりにいたノボリがまだ自分とぼくの区別がつかないほど幼い頃から。双子のくせに、どうしてかその点においてだけぼくはハッキリと兄より先にわかってた。親が区別をつけられなくても、ぼくだけはいつだってわかってた。

 

 小さい頃はただノボリの隣にいられるだけでよかった。仲はかなり良かったし、幼いぼくは未来についてまともに考えることなんてなかったからこんな日々が永遠に続くのだと信じて疑わなかった。

 やがてぼくは兄と自分の区別以外にも物を知るようになる。兄弟や両親以外の人間やポケモン、男女の区別、将来の夢、そして人はいつか立派に育って親元から巣立つことを。

 

 パパもママもごく普通にぼくたちを愛し、ぼくはごく普通に未来について教えられた。電車が好きなふたごちゃんたちは将来鉄道関係の仕事に就くのかもね、いやいやポケモンがこんなに大好きなんだからきっと名のあるトレーナーになるに違いない……なんて。

 きょとんと話を聞いていた幼いノボリ。意味もわからず言われた言葉をとりあえず記憶していたぼく。だんだんと言葉の意味ってものを理解して、それは大人になるってことなんだとわかった。

 

 大人になったらぼくたちきっとパパとママから離れる。自分で生きていくのだから。それを理解した時は特になんとも思わなかった。ノボリと違って双子の兄弟が自分ではないとは理解していたけれど、自分の片割れと一緒に出ていくんだと信じて疑っていなかったから。

 

 小さい頃は良かった。とびきり仲良しなふたごちゃんとして可愛がられるだけでよかった。思うぞんぶん仲良しでいたらよかった。スクールに入って、だんだんとそれぞれの好みというものが出来て、だんだん双子の差異が生まれてきた頃……ぼくはようやく思い知った。どれだけ仲が良くても、遺伝子が同じで全く同じ顔をしていても、どれだけ様々なところが似ている人間だとしても、一緒に居続けることなんてできないことを。

 腹立たしいことに、同級生たちと比べても若干おっとりしていた……かなり「優しい」言い方をして……ノボリさえ、それをとうに理解して当たり前のように考えていた。

 

 ノボリ。あぁぼくの唯一の片割れ。君はぼくよりも自我が芽生えるのもおしゃべりを始めるのも遅かったけれど、ずっとぼくとあらゆるものを分かち合ってきた君。あぁぼくの唯一の兄さん。君を離すなんてするつもりなんてないのに。

 ぼくよりずっと慎重で、ぼくよりずっと真面目で、ぼくよりずっと優しい兄。愛おしい唯一の存在とひとつの肉体で生まれてこれたら良かったのに! ぼくは現実を呪ってそう思った。

 

 ねえノボリ。優しいノボリ。大好きな君へ。ぼくはこんなに優しい君の腹の中でうとうとと微睡んでいたいと願っているのに、君はママのおなかの中でぼくの肉体を全部持っていってくれなかったね。優しいから、こんなに寂しがりなぼくとひとつになるより双子として産まれてくる方がいいって思ってくれた?

 

 残念なことに今更ぼくはノボリになれない。いくらそっくりの双子だとしても、もうぼくは「クダリ」なんだ。「ノボリ」に髪の毛一本残らず食べてもらったとしてもぼくが「ノボリ」になれる訳じゃない。悲しいけどそれは理解してた。ぼくは考えて考えて、せめて大人になってもノボリと道が分かたれないようにしようと思った。

 

 幸い、よく似た双子である事実は成長しても変わらなかった。大きくなっても服を取り換えて真似っこをすれば互いに周囲を簡単に騙せるくらいには。好むものも似ていて、将来の夢が同じでもごく自然だった。もちろんぼくたち嘘なんてついてない。

 分かってた。悲観しているほど簡単にはノボリと決別することなんてない。わかってた。ぼくがノボリに異様な執着をしているのよりはずっと爽やかだけどノボリだって通常以上に片割れのことを大事に思ってくれていることは重々理解していたから。きっと一緒にいたいって言えば叶えてくれるさ。きっと優しいぼくの兄弟は誰よりもぼくを優先してくれるだろうってうぬぼれなしに確信していたさ。

 

 それでも、ぼくは耐えられなかった。万が一、億に一つでもノボリと道が分かたれると思うと絶対に耐えられなかった。もしも君にぼくよりもずっと大事な人が出来たら? 君が病気か事故で先に死んでしまったら? こんな執着心を持つぼくをいつしか嫌になってしまったら? 君がぼくの前からいなくなって、どこか違うところに行ってしまうことなんて決して決して耐えられない!

 

 ノボリ。あぁノボリ。少しだけ、ぼくより相手を信じやすくて、特にぼくの言うことやることなすこと全て信じきっている君。ねえ、ぼくの手で全部むちゃくちゃになってよ? その甘やかな精神を破壊して、ぐちゃぐちゃにするから。自分ってものがわからなくなって、ぼくが居なければ即刻日常生活を送れなくなるくらいおかしくしてあげる。そうしたらぼくのところからどこにも行けないでしょ? そうしたらぼくのことしかまともに分からなくなって、ぼくから離れられない。ぼくとずっと一緒にいて、ぼくの横でだけ「ノボリ」でいられて、ぼくの片割れとしておさまってて。

 

 ぼくがノボリになれないなら、ノボリの中に「クダリ」を植え付けよう。ぼくはこれからも自分の中にある「ノボリ」を大事にするから。それなら、きっと。

 

 ぼくたち一つに戻ろうよ。体はもう無理だけど、こころくらいは。ノボリもクダリもぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて取り返しのつかない灰色になって、ねえ、それなら一生いっしょ。そうでしょ。

 

 だから。これまでありがとう、大好きな君。ぼくが君を壊すんだ。

 

「ねぇノボリ」

「はい、クダリ。どうかされましたか?」

 

 そういえばね、甘いものは中毒性があるんだって。知らないでぼくはこれまで君に大好きな甘いものを半分あげてきた。だからノボリってば甘いものが好きなの。

 ノボリはぼくのことを弟としてめいっぱい愛してくれてるけど、ぼくは足りないから、甘味以外にも中毒になるもの増やしてあげる。甘い甘い毒で、ずーっと幸せでいようよ。

 

「さっきね、ジュース貰ったの。半分あげる」

「おやありがとうございます。いつも悪いですね……わたくしも何か分けられるものがあったでしょうか」

「また後ででいいの。ぼくはノボリと半分こにするのが一番美味しいと思ってるから!」

「ふふ、そうでございます。なんでもクダリと半分こが一番です」

 

 いつもの口上で、差し出したジュースは劇薬そのもの。こんなの飲んだらすっかり頭がおかしくなっちゃうんだって。中毒性があって、飲んだら「ふっとぶ」って聞いた。そんな状態のノボリならきっと、ぼくが思ったように精神をねじ曲げられるよね? 

 

 ね、ノボリ。「クダリ」を受け入れてよ。

 

 ごくん、と動いた白い喉をうっとりと見つめた。あぁ、あぁ、ごめんね。さようなら。愛しい君。

 

「ずっと一緒にいてね、ノボリ」

「? はい、クダリ」

 

 虚ろになっていくノボリの鉄の色の瞳を眺めながら、ぼくは崩れ落ちそうになるからだを支えてやった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「幼い頃、どちらがどちらなのかわからない……なんて時期もありましたねぇ」

「あったねぇ。両親も分からなかった」

「自分たちも曖昧だったのですから当然です」

「お腹に名前、書かれてたね」

「気づけば二人とも『ノボリ』になってましたねえ」

「んふっそうだっけ。あっはは!」

「ふふっ」

 

 あぁおかしい。

 

 休日に暇を持て余したクダリがアルバムをパラパラめくりながら随分懐かしいことを言いだしたものです。浮かべる表情や服装さえ適当で曖昧だったあのころ。というか子どもの時分なんて誰だってそんなものじゃないですか? 自我というものが正しく確立されるまでは自他の区別なんてふわふわしているもの。それが生まれた時から隣に同じ顔をした兄弟がいて、中身まで似たようなものだったのでますます「自分」と「双子の兄弟」の区別がなかなかつかなかったのでしょうね。

 

 今でこそサブウェイマスターなんてものをやっているし、ノボリとクダリの「キャラクター性」を意識しているから、傍目から見てもわかりやすくなったものだけれど。

 

「今ならちっとも間違えないけどね」

「えぇ」

 

 休日くらいは慇懃真面目なキャラクターも少しはだらけさせてもらいますが。ぐいっと伸びをしていると片割れがこちらを覗きこみました。

 

「あ、ほっぺたにちっちゃい傷がある」

「なんですって?」

「もうカサブタだから昨日のバトルのすなあらしの巻き添えかも。消毒やらなきゃ」

「えぇ」

 

 真新しい傷のできたほっぺた。脱脂綿と消毒液を用意しなくちゃいけない。

 

 休みの日まで幼い頃の約束や職場でのキャラクター作りに義理立てるつもりにはなれなくて、二人して揃いの灰色のスウェットを着ているわけですが、今なら幼い時のように見分けが難しいことでしょう。何となくおかしな気分です。

 

 子どもの頃からノボリはポケモンバトルが好き。クダリもポケモンバトルが好き。ずっと昔からノボリの将来の夢は車掌さん。クダリの将来の夢も車掌さん。

 

 大人になって夢を叶えて、変わらず兄弟と過ごしながらも満ち足りた日々を送っている。世間的にはとても仲の良い兄弟として通っているのでしょうね。実際その通りであります。就職を機に親元は離れたのに兄弟離れはしていないようなもの。

 

 まぁでも、いいじゃないか。ちゃんとサブウェイマスターとして評価を受けているつもりだし。

 

「む、明日はスーパーシングルの気分ですね」

「しばらくキャンペーン中だからぼくたちマルチトレインに出ずっぱりだと思うよ」

「あぁそうでした。手強い挑戦者が来るなら良いのです。もちろんどのようなルールであってもブラボーなバトルが出来れば問題ありませんし」

 

 消毒した頬に絆創膏を貼ってやる。目の前の兄弟は気が早いらしく、既に満面の笑みを浮かべて楽しみにしているらしい。

 

「はいはい、またみんなにボスは社畜、バトルのことしか考えてないって言われちゃうよ?」

「鉄道員の皆さまがたも似たようなバトルジャンキーでございます」

「言えてる! みんな休みの日は厳選に育成! ぼくたちのこと言えたものじゃない!」

 

 二人で顔を見合わせて笑ってしまう。ほっぺたの絆創膏が引き攣れて、互いに変な笑顔になったのを見てますます、あぁおかしい。

 

 きっと、今の自分たちは見分けがつかないのでしょうね。同じ服を着て同じ表情でありさえすれば誰もわたくしたちを区別できない。それはなんて、愉快なことでしょうか。おそろいであり続ける心地良さはきっと理解されはしないでしょうが、いいのです。わたくしたちの間でだけの理なのですから。

 

 きっと、こんな考えは、図体ばっかり大きくなっただけで「おとなげない」っていうんでしょう?

 

「ノボリ? コーヒー入れたから飲んでね」

「おや、いつもありがとうございます」

 

 クダリの入れた甘い甘いコーヒーを飲みながら過ごす休日はなんて満ち足りたものなのでしょうか。

 

「明日も一緒に頑張ろうね」

「えぇもちろんですとも」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。定刻通りにトレインが進む音は小気味よく、腹の底から揺れるたびに適度な緊張感が胸を高鳴らせていつだって少しそわそわしてしまう。それはきっと隣にいる片割れも同じこと。

 

「やっぱり今日はずっとマルチトレインみたいだね」

「昨日申し上げた通りでしょう?」

「うん。どうせならスーパーマルチにもお客さん来てくれたら嬉しいのにな」

「わたくしどもが出来ることはマルチトレインでの経験をより良くすることでございます。マルチバトルの楽しさに気づいていただければ次は是非スーパーマルチにも挑戦したい! と思われるはずです」

「だね!」

 

 朝から連勝者待ちでトレインに待機。マルチだとおしゃべりしながら待てるところがちょっといいところ。ポケモンたちを出して待ってるわけにもいかないから。普段ならタブレットかバインダーを持ち込んでちょっとした事務作業をしているところだけど、マルチトレインに乗っている時は両方しないことにしている。

 

「今日もみんな元気いっぱい! コンディション最高抜群! すっごい勝負したいってワクワクしてる!」

「わたくしたちも負けてはいられませんね」

「スーパーじゃないけど、ルールを守ってすっごいバトルをやりたいね!」

「えぇ」

 

 今回の挑戦者さまがたはかなりバトルに手慣れた人物らしい。ライブキャスターからの進行状況の通知が普段とは比較にならないほど早い。

 

 ほどなくして六両目を通過したらしい。挑戦者が参ります、サブウェイマスターは待機してください……。待ち望んでいた特別なアナウンスが鳴った途端、ぼくたちは席から立ち上がった。

 

「それでは一緒に出発進行!」

「安全運転、準備オッケー。クダリ、ネクタイが曲がっておりますよ」

「ありがと!」

 

 互いの頬にある小さなカサブタをちらりと見て。だけども、次の瞬間には挑戦者さまがたが姿を現したものだから揃って前を向く。互いにバトルの興奮でギラギラした目を隠さずに。あぁいい目をしている。この人たちならきっとスーパーマルチにも来てくれるはず!

 

「やぁ来たね。ぼくクダリ! サブウェイマスターしてる! きみたちのことずっと待ってた! ポケモンたちのコンビネーションを見るのが好き、マルチバトルだとトレーナーのコンビネーションもすっごく大事! ぼくたちにここまで勝ち上がってきた強さを見せて。一緒にすっごいバトル、やろうね! あのね、ノボリも何かあったら言ってよ!」

「わたくしサブウェイマスターのノボリと申します。勝利のその先に何が見えるのか? 目的地は一体どこなのか。わたくし、考えつづけてひとつわかりました。勝った先のことは勝たねばわからないということです! それでは早速……ルールを守って安全運転。目指すは勝利、出発進行ーッ!」

 

 ノボリと向きを反転させ、そっくり同じように構えてそのまま鏡の動きでポケモンを繰り出す。あぁ昨日からもう何十通りもの試合展開を脳内で展開してきたことでしょう! ひとつだけでも試せるこの喜びを全力のスマイルで表現しながら! はてさて挑戦者さまはどのようなバトルをお望みか!

 

「デンチュラ、出発進行ーッ!!」

「ダストダス、出発進行!」

 

 あれ。デンチュラをぼくは繰り出した。そうだよね、マルチトレインなんだからぼくの手持ちはデンチュラとアイアントなんだから。ノボリはダストダスとギギギアル。当然じゃないか。なのに何かおかしい? ポケモンのコンディション、最高抜群。ノボリの気迫はいつも通り、挑戦者は緊張しているけどいい顔つき。

 

 おかしいのは何? なにかはおかしいはず。だって今。どうしてわたくしはダストダスに指示を出そうとしたのでしょう?

 

 不意にがくんと視界が揺れました。トレインの揺れの中でも真っすぐ立っていることには慣れたものです。だからわたくしは冷静に姿勢を正し、俯瞰して戦況を見ました。続けてかくん、かくんと細かい揺れが襲い、足元をすくわれそうになりながらも挑戦者さまがたに悟られないようにすることには慣れたものです。天候は悪くないはずですが、線路のメンテナンスが悪いのでしょうか。今日は随分揺れますね。トレインともども少し厳重な点検を要請する必要があります。マルチトレインの管轄はサブウェイマスター両方ですから、クダリにも相談しないと……?

 

 あれれ。ぼくはさっきクダリだって言ったじゃないか。隣にはほら、黒コートのノボリがいて、……今はバトルに集中! 途中下車は許さない! 細かいことを考えるのはあとでもよろしい!

 

 寒くもないのにがたがた震える指先を抑え込んで、わたくしはポケモンたちへの指示を出すことになんとか集中しました。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「ねぇノボリ」

「ぼくクダリ。どうしたのノボリ? なんだか疲れてる? 久しぶりに入れ替わりごっこの気分? 違うよね?」

「……えぇ、仰る通り疲れているのかもしれないですね」

「それは大変。今日はからだに優しいものを食べて早く寝て?」

「そうします」

 

 「ノボリ」はこっちを見て気遣わしい顔をした。ああいつでも優しいぼくの兄弟。とっくの昔におかしくなってしまった君。おかしくなってしまった、なんて随分他人事な表現かも。おかしくしたんだよ。長い時間をかけて、ノボリの身体を薬物でいじくりまわして、精神をめちゃくちゃにしてまで。まぁでも、おかしいのはそんなことをしたぼくの方かもしれない。

 

「スーパーシングルに明日ブラボーな挑戦者さまがいらっしゃるといいですね」

「うん! 今日はマルチですっごく楽しかったから、今度こそシングルで……ぼくクダリだよ? ノボリ、やっぱり変。疲れてる、風邪かも。はやく帰ろ」

 

 手を引っ張って君は少し早足になる。だけどこっちを気遣いたい気持ちもあるらしく、ちらりちらりと振り返ってはぼくの顔色を窺っている。

 

「顔色は悪くないね。でも風邪は引き始め、肝心」

「ありがとうございます、クダリ。クダリも同じような食生活をしているのですから、自覚症状がないだけで風邪の引き始めかもしれませんよ。一緒に安静にしましょう」

「同じような、じゃなくて同じだもんね。ありがとうノボリ」

 

 まあでも、おかしいのは「クダリ」の方。明らかに今日のバトルで混乱した顔してたもの。おおかた、自分がどっちかわかんなくなっちゃったんじゃない? たまにあるもの。自分がどっちでもいいって心底思っているくせに、兄弟と全くおんなじであることが嬉しくて仕方ない癖に、いざ「そう」なってしまったらおかしくなっちゃったなんて変なの。

 きっと何もしなかったら今夜眠れないね。今は人目もあるから落ち着いているけど、明日までに切り替えられなくなっておかしくなっちゃうんだろうね。明日「ノボリ」になれなくて、だからって今日のまま「クダリ」であり続けることもできなくて。

 

 仕方ない。ぼくは今日「ノボリ」だから弟を甘やかしてやったっていいでしょう。真面目で慇懃、そして誰より優しい「ノボリ」は弟に優しくないはずがないじゃないか。軽い睡眠薬でも飲ませて寝かせておけば元に戻るでしょ。起きたらなんて説明しようかな。もしかしたら薬が切れちゃったのかもしれないね。

 

 ぼくがやったのになんてひどいんだろう。兄弟はとろけるように優しいのに、その片割れはひとでなし!

 

「ノボリ、着いたよ。なんだかやっぱりぼーっとしてる。やっぱり風邪。早く服着替えて」

 

 泣きそうな顔をしてる「ノボリ」。きっと頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃったんだね。かわいそうに、あぁかわいそうな「クダリ」。ぼくのせいで。あぁぼくのせいなんだ全部! ぼくがこの兄弟をこんなにしてしまったんだ。

 

「『ノボリ』。ぼくは大丈夫。だからこっちにおいで」

「ノボリ……?」

「ほら。おいで。大丈夫」

 

 不安で不安でたまらないって顔をしてる。ふらふらと、かわいそうな兄弟が、一番だめな相手のところにやってくる。正気に戻りそうになるたびに縋る相手を間違えてる。だから一生このまま。ぼくを拒絶できないなら、ぼくと一緒に過ごすなら、ずーっと頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回してノボリとクダリの区別なんてさせてあげない。わたくしたちはふたごちゃん。誰にも区別がつかなくて、自分たちだってわかんない。だからずーっとふたりでひとつなんです。

 

 そうでもないと、きっといつか、誰より優しいぼくの兄弟はぼくをおいてどこかに行ってしまう。ぼく以外の誰かと幸せになることなんて許さないし、わたくしの前からいなくなるのも許さない。一生ピエロみたいに狂ったままでわたくしの隣で踊っていてくださいまし。

 

「ノボリ。ぼくたち今日は入れ替わりごっこをしてたんだよ。ノボリって真面目だから役になり切っちゃって自分のことをクダリだと思い込んじゃったんだよ。やるからには全力で、ポケモンまで交換したからおかしいなって思ったんじゃない?」

「入れ替わりごっこ?」

「良くしたよね。小さい頃からさ、ママもパパも見分けがつかなくて、怒られたけどやめられなかった。白いおぼうし、黒いおようふくのノボリ。黒いおぼうし、白いおようふくのクダリ。さぁぼくはどっちでしょう? なんてね」

「……懐かしいね」

 

 冷たくなった手を握ってやる。顔を近づけて目を覗き込んで、それらしい言葉で言いくるめるとパニックを起こしたまま、条件反射で強制的に大人しくなった兄弟はこちらをぼんやりと見ていました。

 あぁかわいそうなわたくしの片割れは、少し考えればおかしいことにも気付く脳みそすらとっくに破壊されてる! 片割れの言うことならきっと間違っていないと信じ込まされ、もう取り返しがつかないのです!

 

「これは疲れているからでしょうか」

「疲れているから分からなくなってしまったんですよ?」

「ふふ、それなら仕方ないですね。ねえノボリ、今日は早く床について明日は早起きして、ちょっと豪勢な朝食を食べよう?」

「いいね」

 

 大人しくなったノボリが着替えているのを尻目に、ぼくはテーブルの上に置きっぱなしになっているアルバムをめくった。その間にケトルで湯を沸かして簡単なインスタントスープを作る用意もした。

 

「クダリ。あの時どっちが本当のノボリだったんだと思います?」

「さぁ、案外ママは最初から間違えて名前を書いていたのかもね」

「おや、では戸籍から間違っていることになりますね」

「どっちがどっちでも変わんないよ。昔から見分けがつかなかったんだから」

 

 さっさと黒いパジャマを着込んだ片割れは、スープの粉を溶かしてこちらに差し出した。

 

「しっかりしたものは明日の朝に食べよ? これだけお腹に入れて、風邪薬飲んで、もう寝ちゃおうよ」

 

 いつでも優しいわたくしの兄弟。風邪薬のために水を汲んできてくれました。妙に苦いスープをふたりで飲み干して、風邪薬を二人で飲んで。それから今日はもうさっさとベッドに入って。ふたりともが大の字になれるくらい大きなベッドなのに真ん中できゅっと身を寄せあうとあたたかで、体温が伝わってくるとまるでひとつの生き物になったかのよう。

 

「ねぇ、ノボリ」

「はいなんでしょう、クダリ」

 

 急速に襲ってくる眠気と戦いながら、なんとかまぶたを上げる。世界がぐるぐる回る。ひどい眩暈と吐き気が視界をゆがませる。顔に出さないようにしなきゃ。

 

「おやすみ」

「えぇ、おやすみなさい」

 

 眠そうな顔をした大事な兄弟。目を細めてこちらを見て、そのまますぅっと寝入ってしまった。先に寝るなんてずるいや。置いてかないで、寂しいから。

 生まれてこの方ずーっと一緒。今更ぼくらの間に誰も何も割って入れはしないのにどうして離別を恐れているのだろう。

 きっと、生まれた時にふたつにわかたれてしまったことが恐ろしくて、悲しくて、だからこそこれ以上バラバラにならないように混ざり合おうとしているのです。

 きっと、ひとつに戻れないことがつらくて、せめて自分の片割れを手で掴んで引き止めておきたいんだ。

 

 布団を被って身を寄せあって眠れば、ひとつに戻ったみたいで幸せだ。自我も何もかも融けてしまう微睡みの中でだけ、君とひとつになれるから。もう二度と目覚めなければいいのに、なのにきっと明日も目覚めて、目覚めた瞬間からふたつに分かたれる。

 どうやったってわたくしは人間で、片割れの心を窺い知ることは出来ないのでございます。その心の内をめちゃくちゃに壊して、貶めて、無秩序にしてようやくぼくは安心できるんだ。まともな思考さえ出来なくなってしまえば目の前の兄弟に縋り付くことしか出来ないだろうって。

 

 大好き。愛してる。心底そう思ってる、だけどそれだけじゃない。

 

 ぼくたちは同じ人間じゃないから別々に行動できる。生まれた時に順番に生まれたきたように、死ぬ時はきっと一緒じゃない。兄弟が二度と目を開けてくれない悲しさを感じる羽目になる。冷たいからだにすがりついて泣くんだろう。

 ねえ、ノボリ。寂しい、置いてかないで。ひとりにしないで、一緒にいてよ。ぐちゃぐちゃに溶け合ってしまおう? 一緒なら怖くないよ。ぼくをノボリの一部にして。

 

 真っ暗な中探し当てた片割れの手をしっかと握りしめて、ぼくも目を閉じた。

 

 その日の夜は、なんの前触れもなしに君がいなくなってしまう夢を見た。真夜中にみっともなく泣きながら目覚めると、隣にはちゃんとあたたかい体をした君がいて、ぼくはようやくまともな呼吸ができるようになって、もう一度眠る。

 

 翌朝、ぼくらのベッドは広くて、妙に冷え切っていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 それは灼熱の夜。ほんのごくたまに「わたくし」が正気な僅かな間隙。あたかも体中が焼け焦げて、身動きどころか今にも死んでしまいそうなほどの痛苦のなか、ただうずくまる。痛くて、乾いて、空虚で、熱くて、冷たくて、恐ろしくて、暴れまわりたい衝動の中、少しでも身じろぎすれば全身が引き攣れるように軋むのです。

 

 そのくせ感覚がすべて遠いけれども、すぐそばで大事な弟が泣いていることだけわかって、きっとわたくしが苦しそうにしていれば心配させてしまうと理解して。握られている手のあたたかさだけは不快ではなくて。

 

「ぼくとずっといっしょにいてよ……」

 

 泣いている。泣いている、あぁ「   」が泣いている。きっととても悲しいことがあったのでしょう。きっとやるせなくて、わたくしにしか言えなくて、つらくてつらくて泣いているのでしょう。幼い時から聡明な「   」が、わたくしの前でだけこんなにも素直になって。

 

 返事をしてやりたいのに、わたくしの身体はちっとも動きやしない。情けなくて情けなくて、それでも手を握り返してやりたくて。なんとか指に力を入れたが伝わったかどうかすらもはや分からないのです。

 

 幸い、その頃には泣き声はもう聞こえませんでした。ただただぐったりと伏せるわたくしに覆いかぶさるようにして、「   」がわたくしの体を抱きしめていつまでもいつまでもそばにいてくれたのでした。

 

 きっとわたくしは「   」を置いていくでしょうね。だけど、大事な「   」は大層悲しんで哀しんでくれるでしょうから、わたくしも別れは悲しいのですが受け入れられる事実なのです。

 

 せめて置いていくより前にこの大事な子とわたくしの名前を思い出せたらいいのですが。

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