「おはようございます、クダリ。そろそろお目覚めの時間ですよ」
優しい手つきでそっと肩を揺さぶられ、僕は目を開ける。目の前にはすでにワイシャツとスラックスに着替え、髪まできちんとセットしたノボリがいる。部屋の外からは美味しそうな良い匂いが漂ってきていて、どうやら朝ご飯の準備も終わっているらしいと分かった。
やっちゃった。久しぶりに出勤時間がそろったのに昨日、朝一緒に起こしてって言いそびれてしまったんだ。
僕ってばおかげさまで健康な生活を送っていて、毎日本当にぐっすりよく眠れるものだから。ちっともノボリが先に起き出したことに気づかなかったんだ。
「おはよう、ノボリ。早いね」
「そうですか? なら明日はもう五分ほどあとに起こしましょうか?」
「ううん!」
心配そうに僕の顔を覗き込んでくる姿に「しまった」と思う。言葉選びを間違えちゃった。むしろ、朝ご飯を用意なんて一緒にやればいいんだから、僕もノボリと同じ時間に起こしてくれたらいいのに。ただでさえベッドに入る時間が早いのにもっと寝てたいわけじゃない。
「早起きはいいものだなって思っただけ。こういう日は僕もノボリと一緒の時間に起きたいな? 僕も一緒にご飯作りたいから。ノボリだけ早起きするなんて不公平」
「おやおや。今日もクダリは天使のように優しい子ですね」
僕が早番でノボリが遅番でも早起きして僕の朝ご飯を作ろうとする人間のくせに。そっちはすっごく悪い気がするからやめてくれって言って、最近やっと聞き入れてくれたばかりだった。
ノボリは双子のくせに一丁前に兄の顔をしてうんうん、と頷く。
「わかりました。次からそう致しますから。じゃあ着替えていらっしゃいましね。シャツとスラックスのアイロンは済んでますよ」
ノボリはうっすらと微笑んで壁のフックにかけてある純白の衣装を指し示すとゆっくりと部屋から出ていった。開け放たれたカーテンから差し込む朝の陽ざしに目を細めながら、まばゆい陽の光の中、ぼんやりと光って見える白い衣装に僕はほんの少しだけうんざりした。
もちろん、僕の双子の兄にして厄介な「崇拝者」のノボリは敬虔な聖職者のように塵ひとつ汚れのついていない純黒のスラックスを一寸の隙もなくパリッと着こなしていたし、きっと僕は生きている限り、いわく「穢れのない」真っ白い服以外を着ることを許されることはないのだろうな。
なにせ、僕は「天使」らしいので。
なんでも、世のため人のため、そしてノボリのため、ノボリが生まれたと同時に空から遣わされたらしいよ?
◇
「あぁクダリ! 私のところに遣わされた天使さま! 今日もなんていい子なんでしょう! スーパーダブル、スーパーマルチの戦績は全勝! 書類作業は完璧! 本日も鉄道員の皆さま方の士気も高くそれは天使のスマイルを見せるクダリがいるからこそ身が引き締まったからに違いありません! そしてそしてこんなに可愛らしい笑顔を見せてくれるなんてどれだけ私を試そうというのですか? 私、死ぬ前から天国にいるようなものだと思うのですけれどこんなに報われてもいいのでしょうか?」
「うん? うん。ノボリ、とっても今日元気。何かいいことあったの?」
ノボリは僕のことを優しく抱きしめ、そっと制帽を外すと頭を優しくなでてきた。まるで小さい子どもに親がしてやるような動作だけど、ノボリにとっては通常運転。今更この光景を鉄道員のみんなが見てもなんとも思わないくらいごくごくありふれた光景。
今更僕も「恥ずかしい」とも思わないけど、この動作が双子の兄弟がやるようなコミュニケーションとしては「普通じゃない」ってことは知っている。ノボリもね。
でも、僕たちには「そういうもの」。ノボリとしては僕をねぎらうための親しみを込めた行動だし、言ったらやめてくれるだろうけど、僕はノボリをそんな小さいことでがっかりさせたくなかった。ノボリが楽しそうにしてる方がいいじゃないか。
「お分かりになりましたか。今日は夕食をシチューにしようと思ったのです。栄養満点! まさしくクダリの夕食にふさわしい! 我ながら素晴らしい考えだと思いまして!」
退勤後のライモン駅、事務室。うんうんとノボリの話に頷く。勤務中黙っている必要がある時以外、ノボリはとってもおしゃべりだ。きっとノボリに少しでも接したら誰でも分かることだけど。
ノボリの制帽も外してデスクの上に置く。続いて腰につけっぱなしにしていたトランシーバーを取って充電を繋ぐ。歪みのないネクタイ、シワひとつないワイシャツ、整然としたデスク。だけど僕は知っている。デスクの引き出しの中はあんまり綺麗じゃない。整頓することにあんまりこだわりがないからだ。それよりノボリは大事なことがあると思ってる。
「冷蔵庫の食材は足りていたはずです。楽しみにしてくださいまし!」
「きっとすごくおいしいよ」
「楽しみにしてくださるのですか? ならば腕によりをかけなくては!」
話しながらも僕はノボリがワイシャツの上から私服のコートを着せてやり、襟を直した。通勤カバンにものを入れすぎて変形しているのは仕方がないか。何入れてるんだろう……。
いつもこんな感じだ。なんというか、ノボリはかっちりした仕事モードと打って変わって素だと案外子どもっぽいというか、純粋で無邪気な人間だ。その上思い込みが激しくて、基本的にはあんまり他人に害を及ぼしたりはしないけど一度ノボリの中で「そう」なったら修正するのはほぼ不可能だ。考え方も少しずれてるっていうか浮世離れしてるっていうか、僕と同じ環境で育ったっていうのにどうしたらこう育つのかよく分からないけどそういう人間なんだ。
そういうわけで、ノボリは僕の双子の兄で、すっごく弟想いの「良い人間」には違いないのだけど、とても厄介な「思い込み」をしている。
僕って「天使」らしい。
別に冗談じゃない。からかっているんでもない。ノボリの中ではそれが間違いない真実ってだけ。とっくに成人した社会人の大男捕まえて「天使」なんて絶対柄じゃないと思うんだけどノボリの中ではそうなんだ。正確には、幼少期のノボリの語彙に「天使」が追加された瞬間から僕は「天使」だった。
ノボリを救う「天使」。世界中の人間を救う「天使」。らしい。「僕は天使じゃないよ」って言葉は意味をなさない。何を言ってもノボリの中では「そうなってる」。なにを言おうがノボリは微笑んで頷いて僕を「天使」だと讃えるだけだ。
だからノボリは僕のことを大事にしている。お空の上の天国からやってきた「天使」に少しでも良い思いをしてもらおうと一生懸命だ。同時に正しく僕のことを双子の弟だとも認識しているから、同い年の成人男性の扱いじゃないな、と思うことは結構ある。だけどいちいち指摘しない。指摘させない。ノボリはそういう人間で、僕は許容してる。ならいいじゃないか。
ノボリはふたり分のコートと制帽を更衣室に片付けに行き、僕はふたり分の手持ちをパソコンに転送する。彼らの家は電子の向こうにちゃんとある。
「お待たせしました! さぁ帰りましょう!」
そのまま帰ろうとするノボリの手に重いカバンを持たせる。存在を忘れてた、と言うように受け取ったノボリは目を輝かせた。僕への賛辞は悪いけど聞き流す。相手にしてたらいつまで経っても帰れないので手を引っ張って事務所から出る。いきなり歌いだしそうなくらいノボリは上機嫌で逆に僕の手をぐいぐい引っ張ってずんずん歩き出す。
こういうところも可愛いけど子どもっぽい。
多分。僕たちは双子になる時に上手くふたつに分かれることができなかったんだと思う。
一見丁寧で多弁だけど中身は子どもっぽくてそそっかしいノボリ。頭の中ではあれこれ考えられるけど、いざ喋るとなると口下手で「セリフ」以外の文章が単語の羅列気味になってしまう見るからにカタコトの僕。
僕らは不完全で、ふたりでひとつの人間だった。もちろんノボリと過ごす日々はいつだってワクワクするものが待ち構えているから嫌なわけもないけど。
盲信するノボリの中ではカタコトなところも僕が「天使」であることの証拠らしい。人間の言葉に不慣れなのに一生懸命人間にもわかるように話してくれる! とむしろ感動しているくらい。
ノボリって僕に関することや仕事なら大抵そつなくできるし、ミスなんてしないのに自分のことになるといっつも危なっかしいんだから、もう。僕にあれこれするよりちょっと自分を振り返って欲しい。危ない。目を逸らせない。だから僕はいつだってノボリの隣にいることができる。
「私の天使! あぁクダリ! 今日も私と一緒にいてくださいまし」
ノボリはいつも通りにそう言って、人目もはばからずに僕に抱きつく。僕は仕方ないなぁって顔をしてそれを受け入れる。
僕らは幸福だった。
◇
その部屋には白だけがある。白い壁、白い床、白いベッドシーツ、その上に座り込む純白の服の青年。日に焼けたことがないような白い肌をした彼の頬は上気して赤みを帯びていた。
「僕はね、きみの瞳が好き。いつでもキラキラしてて宝石みたいで、ずっと見てたくなるの」
低く、甘い饒舌な言葉。まったく自分と同じ顔つきの顔に向かって歯が浮くような褒め言葉をクダリは一生懸命に並べた。
魅力的な笑顔を浮かべるクダリに対し、光を反射し輝く瞳は静かに照明の光を反射し続けている。
クダリはすでに近すぎるほどに顔を近づけていたが、少しばかり語気を強めてさらに顔を近づけ、鼻筋が触れ合いそうになると照れたように笑った。
「うん。僕たちおんなじ顔。目もきっとおんなじかたちしてる。僕も見分けつかないよ。でもね、ノボリはノボリだから。ノボリがまっすぐ前を見ているとね、羨ましくなるの。すっごく魅力的。ノボリの目に映るもの、なんでも欲しくなっちゃうよ。ノボリが、ほら、今僕をみてくれているとこんなに幸せを感じちゃうくらいにね?
そう、そうだよ、今とっても幸せなの。ノボリは僕を拒絶しないでくれる。ずっとずっと一緒にいてくれる……僕のことをいちばんに見てくれてる。ぼく、きみと一緒に過ごす時間がいちばん好きなの」
きらめく瞳はオパールである。縁取るまつ毛も白い肌も蝋で出来ているのである。どれだけ愛を囁こうともにこりともしない。そんなものは当然だ。
しばらく見つめあっていたが、おもむろにクダリは注意深く持ち上げていた首をクッションに載せた。やわらかな生地でできたそれはつまるところ銀の盆なのであった。
「あぁノボリ。純真で、無垢な天使みたいなきみ」
クダリは低く低く呟いた。すっかり夢から覚めたような様相で、事実、無機物をいくら寄せても本物には遠く及ばないと内省しているにすぎなかった。
もちろん、兄を恋い慕うあまり手にかけた訳ではない。その首は精巧な作り物で、本物の兄は今頃何も知らないで眠っている時間だった。深夜、ひとりきりになってからの秘め事。ノボリが見つけることのないようにクローゼットの奥底にしまい込んでいる精巧な「首」に代理の愛を囁くその瞬間だけが抑圧し続けている愛を表現出来る唯一の時間なのだった。
「きみが僕のものになったらいいのにな」
低く、低く、秘めたる欲望を込められる。うっそりと微笑む男に「天使」の面影などない。事実、純新無垢に「天使」を信じ続ける兄こそその称号に相応しい。クダリはそう信じきっていた。
「僕だけのものに。僕だけがかわいいきみを見られるの。きみの声を聞くのも僕だけ、きみの瞳を見られるのは僕だけね……」
剥き出しの独占欲。失望を恐れて秘めた熱情。
しかしその欲望が晒されることはない。なぜなら、ノボリはひたむきにクダリを「天使」だと思い込んでいて、その厄介だが可愛らしい愛情を裏切るよりも夢を見させてやった方が良いのだ、と断じているからだ。
つまるところ、ふたりはふたりとも同じ方向を向いているだけのことなのだった。
◇
「おや、あなたは先程スーパーダブルに挑まれたお客さまではありませんか」
駅のホームは妙に静まり返っていて、ひたひたと背後から近寄る黒い影に気付くことは困難だ。
「私のクダリは大変強かったでしょう、うふふ。だからって通いすぎじゃありませんか? まるでまるで私のクダリに会うことが目的みたいじゃありませんか。ねぇ、私だって勘違いはよくありませんから十回目までは許しますよ、でもね、それ以上は何かがおかしいなって思うんですよ、ねぇねぇねぇ、もしかして私の天使を奪いに来たのですか?」
迫る大きな影。それが覆い被さる前に白い光がさっと現れて影を討つ。
「ノボリ、ノボリ、もう終電だよ。帰るよ」
「えぇ!」
黒い影は見る見るうちに「やる気」をなくして立ち去ったが、それは目的が先に達成されたからに過ぎない。
「面倒臭いからあぁいうのやめて欲しい……」
切実そうな顔をした鉄道員がポリバケツと使い込まれたシャベルを持ってせっせといつもの残業に勤しむだけのことだった。