「久しぶりにやらかしましたね?」
「本当にごめんなさい……」
あらぬ方向に曲がるって、こういう時に使う言葉なんだ。
他人事のようにそう思ったけど、ノボリ兄さんはぼくに無事な腕を伸ばして起こすように催促したから急いでかがみこむ。
瞬間、ピシャーンと黄色い星が飛んで、ぼくはほっぺたが熱くなった。
「……喜ばないでくれます?」
「クダリ、クダリ? あぁ、ここにいたのですか、クダリ。探しましたよ」
ノボリは誰にでも分け隔てなく優しく善い人間だと言える。その物腰は丁寧、他人のために手間暇かけることを苦痛とも苦労とも思わず、粘り強く寄り添う姿勢は安心感をもたらす。
とはいえ。それは「他人」に対するノボリの態度に過ぎない。この世界でたったひとり、ノボリのことを「優しい」なんて思えそうにない人物こそが……彼の双子の片割れ、クダリだった。
「な、なぁにノボリ……」
仕事の手を止めて目の前に立った大きな姿を見上げる。ぬっと光を背にしてこちらを見やる姿は実際の姿よりも強大に見え、さらに目だけが爛々と別の生き物のように光っているのだった。
「その書類がひと段落着いたら資料室に来なさい。少しお話がありますので」
無機質な表情、鋭い眼光、口元に浮かんでいる恐ろしい「予兆」。
哀れクダリは顔を若干引き攣らせながら見上げ、一瞬の躊躇ののちに恐る恐る頷いた。
「では。できる限り早くおいでなさい?」
ノボリは静まり返った事務室の空気に気づいていない様子で制帽を外し、コートを脱ぎ、ついでのようにクダリの制帽も奪い取ると自分のデスクの上にまとめて放り投げた。続いて腰につけていたポケモンボールを外し、すべてを業務用の回復装置に並べてスイッチを入れた。最後に胸ポケットに収めていたトランシーバーを無造作に充電器に繋ぐ。
すっかり身軽になったノボリの身体に装備している物品は品行方正な「サブウェイマスター」に似つかわしくない黒々とした一本の鞭だけとなった。丁寧に丸められた革製のそれはきちんと専用のホルスターに収められ、金属製の釦で留められていたが、よく手入れされている様子で、革の表面には滑らかな艶が見て取れた。
その鞭が飾りではなく、実際に使用されている物であると示しているということなのだ。
ノボリはドアノブに手をかけたまま振り返り、片割れに念押しした。
「クダリ。分かっていますね?」
「コートと制帽、脱いでく。ポケモン連れていかない。あと、衝撃に弱いものは置いていくこと。できるだけすぐに、行くこと」
「はい、よくできました」
誰にでも見てとれる薄い微笑みを浮かべてノボリは立ち去る。
足音が聞こえなくなった途端、水を打ったように静まり返っていた事務室には極度の緊張感から解放され、ついこぼれた大きなため息と身動ぎによるわずかな衣擦れの音が聞こえ始めたが、猛然と目の前の書類にペンを走らせるクダリにはちっとも聞こえていないのだった。
そんなクダリの小さく丸められた背中には憐れむように何人もの視線が突き刺さっていたが、ひそひそとした話し声の中には彼を直接ねぎらう声やノボリに対する不満のようなものは決して出てこないのだった。
なにせ、こちらから触れなければあの双子は至極無害だったし、あの恐ろしい兄も他人には決してあのギラギラとした鋭い目を向けようとしない。せいぜいがバトルにおいての興奮くらいのもので、あのようにいっそ「敵意」に等しいような思いやりのない眼差しを向けることはないのだから。
どうしてかクダリはそれを甘んじて受け入れている様子だったし、助けを求めてくることはない。ついでに「呼び出し」による仕事に支障もない。彼らもいい大人なのだし、「呼び出し」の際に聞き取れる内容も半分ほどは真っ当な業務連絡みたいなものだ。
ゆえにノボリの言動はあくまで親しい家族間での独特のコミュニケーションだということにして見なかったふりをし、自分たちはいつも通りに業務を行うのが賢い考えだった。
だから。あの双子が更衣室で着替えている姿やどれだけ暑くともワイシャツの第一ボタンさえ外したり、折り目正しい白手袋を人前で外すことがないのも疑問に思われることではなかった。
まあ、それなりに察せられることだったが。いつだって少しも乱れもない制服の下にいくらか「人には見せられないもの」があることは。しかし、誰も目撃していないのだからあくまで「かもしれない」の域を越えない。ならば部外者は口をつぐむのみだ。
一応、古参の鉄道員たちはいつか決定的な証拠があればすぐにどうにかしてやろうと気を揉んでいたが、クダリは決して自分の肌を晒さなかったし、ノボリはすまし顔で完璧な業務を続け、「呼び出し」の最中も物音のひとつさえ外部に漏らさせなかった。
ほどなくしてクダリと共に「資料室」から帰ってきたノボリはしきりに塵一つついていない純黒のスラックスから汚れを払うような仕草を見せたが、それ以外はいつも通りの鉄仮面であり続けた。
◇
「アハ、わっかりやすく構えちゃって。ぼくが大人しくそんなものでぶたれると思ってたの?」
資料室を施錠するやいなや、早速手に構えていた黒い鞭はむしり取られて放り出され、あわれな愛用品は埃っぽい資料室の床に散らばって不規則にバラバラと音を立てました。あっという間に壁際に追い詰められ、わたくしの背が冷たい壁にいささか強く叩きつけられ、息が詰まったものの、なんとか真顔を取り繕うことに成功しました。
そうしてわたくしを追いやった目の前のクダリは満面の笑みを浮かべていたけれど、それはいつも人前で浮かべている柔和で明るい笑顔ではありません。それはどこか底冷えするような笑顔。ギラギラと光る瞳はわたくしを射抜き、緊張でややからだを縮こめたわたくしの身体をあちこち検分するかのようにじろじろと眺めているのでした。
「それでなぁに? ぼく、『また』何かミスでもしたかな? 部下たちの前で堂々と呼び出すんだから相応の何かがあったんでしょう? ぼくにもダブルトレインの頂点、サブウェイマスターとしてのメンツがあるよ?」
決してクダリのペースに乗ってはいけない。それはそれで喜ばせてしまうだけなのですから。ノボリよ、臆するんじゃありません。そう自分に言い聞かせました。
あの、クダリ。なんだか怖いです、やめてください、偉そうな態度をとった浅はかなわたくしが悪かったです……とすがりついて許しを乞いたい気持ちを抑え込みながら。それではいけないのです、それでは。わたくしは誰より強くならねばならないし、誰の前でも……クダリの前でさえも、常に自分を強く見せなくてはならないのに。
「えぇ、昨日、新人が作った会議の議事録をチェックしたでしょう。しかしミスをそのまま流していたでしょう? お前が気づかないはずなんてないのであんなのわざとに決まってます。どうしてあんなことをしたのですか? それからダブルトレインのイベント予算の提出日をまだ決めていないと先ほど」
「なにさ、くっだらないことばっかり」
「何を仰います!」
「ノボリ兄さんは細かい仕事が好きだね。ぼくたちはこの『バトルサブウェイ』っての王国の王様なの。誰よりも強くって超えがたい壁なの。わかる? そんなことよりスーパートレインでは文字通り血のにじむような努力をしなくちゃ勝てないように仕向けなきゃいけないし、努力したって勝たせないように立ちはだからなくちゃいけない。だけどどこかに必ず攻略法があるように隙を見せなきゃいけない。隙を見せつつ、勝たせちゃいけない。ね? それはとても難しいことだよ。ぼくには、ぼくたちに細かい仕事する時間ないの。『ぼくにしかできないこと』を優先するの、当然。ノボリ兄さんの言うようなくだらないことなんてテキトーに投げとけばいいの。いくらぼくたちが強くても身体も時間も人並みにしかないんだし、削減できることはしなくちゃ」
「……適当ですって? まったく、責任感に欠けているとしか思えませんね。それでもできる限り効率よく業務に向き合うことが大事なのです。『サブウェイマスター』以前に上司としての務めを果たすべきではありませんか。実務ばっかりに夢中で事務作業を疎かにするような人間を尊敬できますか? バトルサブウェイに挑みに来るお客さまはもちろん大事ですが……クダリの言葉を借りるなら、王というものは臣下を従え、尊敬され、忠誠を誓ってもらわねばなりません。付け焼刃でどうにかなるものではありませんよ? バトルの腕前が強くあるべきなのはもちろんですが……」
「バトルだけじゃなくて実務もできてこそ尊敬できる人間になれって言いたいんでしょ。ハイハイ。ノボリ兄さん、君は相変わらず理想論が好きだねえ」
「なんです、その態度は!」
ドン、とわたくしを追い詰める身体に強くこぶしを叩きつけました。もちろん、クダリはその程度ではびくともしないし少しも痛いとも思っていないでしょう。どうしてクダリだけ、こうも頑強に育ったんでしょう。わたくしたち双子なのに。トレイン内でバトルする関係上、わたくしたちは一般人より体幹がいいものの、クダリはそれ以上にやたらと身体が頑丈です。
そう、わたくしがたとえ本気で殴ろうが蹴ろうがびくともしないことくらい知っています。知っているけれど。
「この頃のおまえの不真面目な態度は目に余るのです! どれだけ部下に迷惑をかけているのか、どれだけわたくしがフォローしてやっていると思っているのか! これでは示しがつかない! もしダブルトレインのサブウェイマスターがそんなに忙しいというなら部下を育成し、仕事をきちんと適正に割り振って見せなさい! 滞りなく業務が回るなら、目に余るようなミスがないなら、それでいいのですから!」
「ハイハイ」
クダリの目がじっとりとわたくしを
「ノボリ兄さんも毎日とってもとってもお忙しいのにわざわざぼくのフォローまでしてくれてありがとうね? それで? ぼくにどんなオシオキをする気だったっていうの?」
「この……っ!」
地面にある鞭を拾い上げようにもクダリの足がわたくしの足を強く抑え込んでいるため動かせない。さりげなく左腕が掴まれ、振り払おうにもやはりびくともしない。ならばと自由な右腕を振り上げて不遜な顔をしたクダリの頬をぶとうとして……。
……なんでわたくし、毎日仕事を頑張り、時には遅くまで残っても仕事が終わらず、挙句部下にも心配されているクダリのことをわざわざ呼び出してまで傷つけようとしているんですか。おかしくないですか。右腕が自由なのも、すべてクダリに誘導されているってことですよね。
「うぅ……」
「なに? 今更? なに?」
「クダリ、あのクダリ、左腕、痛いんですが……」
「違うでしょ、誤魔化さないで。他に言うべきことがあるでしょ、ノボリ兄さん?」
「あ、うぅ、ごめんなさい、またわたくし、間違えました……」
「もう! ノボリ兄さんってば! 誰が見てるかわかんないのに! せっかく演技指導の時間がとれたのに台無し!」
「だ、だって……」
クダリの手ががしっと強くわたくしの右手も掴み、自分の頬に当てる。興奮気味だからか冷えきったわたくしの手よりも余程あたたかい。
手も足もクダリに絡めとられてしまい、もはや自分の力で立ってすらいない様相のわたくし。なんて情けないんでしょう。だからクダリはわたくしを想って、そうです、クダリは親切にも愚図なわたくしを心配してこんなことをしているん、ですよね?
「ほら! ここ、ここにピシャーンって平手打ちするんだよ? 簡単でしょ? 仕事サボってノボリ兄さんにワガママ生意気言う弟をぶってやりました、これで活が入りました、部下にも迷惑をかけていたので仕方ないことですね? って顔して事務室に帰るの。ぼくはノボリに言われてやっと目が覚めた! これからも頑張る! って言いふらすからさ、心配しなくても大丈夫、大丈夫」
「そもそもなんでわたくしがクダリを痛めつけているような風にとられているのか。それが、もう、それがとっても遺憾なんですが……」
「痛めつけてくれてないじゃないか! ほら、ほら、ぼく、ノボリ兄さんの可愛くってやわらかい手で思いっきり平手打ちされたいな! ……あっこれは言葉の綾で」
「そんな恐ろしいことできるはずがないでしょう!」
クダリはこんなにいい子なのに! いわれのない暴力なんて受けていいはずありませんし、仮に本当にちょっと出来が悪い子だったとしても自分のペースを守ればいいじゃありませんか!
「もう! そうやって可愛くならないで! お外、危ないんだから。ノボリ兄さんいつも可愛いけど、それってすっごく危険ってことなんだよ? いつも堂々としてて近寄りがたくて冷たくて絶対的なシングルトレインの王様でいてもらわなきゃ困るよ。ぼく、いつでも守ってあげたいところだけど、オフならともかく仕事中四六時中隣にいるのは難しいんだから。
ノボリ兄さんの『ロール』はクールな麗人でしょ。完璧主義で近寄りがたくて、実の弟にも容赦しない。部下やお客さまには優しいけれど、ぼくのことを自分の不完全なコピーか付属品だと思っていて、人前ではやらないけど、必要に応じて明らかに度を超えた『しつけ』を行う人間。それをぼくのためだと考えているんだよ?
ぼくの『ロール』は愚図な弟なんだよ。いつもちょっと子どもっぽくてそそっかしくて、だから時々ノボリの手を煩わせてしまう。人前ではなにもないけど、裏ではノボリのお叱りを受けてやっと一人前の仕事ができているの。ノボリ兄さんがぼくのことを思ってやってくれている『しつけ』を心底嬉しく思ってて、他人には口出しされたくないって思ってるんだ!
『そういうこと』にしたんだからそうしてもらわないと。そうしないと、なによりノボリ兄さんが危ないんだから!」
熱っぽくクダリは言い、強く強くわたくしを絞めあげました。いいえ、正しくは抱きしめたと表現すべきでしょう。身体中の骨がぎいぎい悲鳴をあげていましたが、わたくしは知っているのです。これは強く優しいクダリの愛情表現なのだと。
幼い時からわたくしたち兄弟は見分けがつかないほどそっくりでしたが、中身はもちろん別の人間ですのでまったく違っておりました。
揃ってポケモンバトルに執心し、揃って将来の夢は「鉄道員」ではありましたが、バトルの種類の適正もダブルバトルとシングルバトルで異なっておりましたし……もっとも、お陰様でふたつしかないサブウェイマスターの席を奪い合わずに済んだので幸いなことでしたが……なによりクダリは人並外れて頑丈な人間で、わたくしはむしろ人より身体が弱い人間でした。
幼いクダリの無邪気なじゃれつきに弱いわたくしは何度血を流してしまったことでしょう。その度に大きな目に涙をためて、何度も何度もわたくしに謝るクダリのなんて哀れなこと。わたくしを傷つけたくないのに、かわいいクダリはわたくしのことを大好きだからついいつもやりすぎてしまう。そのたびに後悔して。
少しずつ力加減を身につけたクダリは今でこそ前のようなヘマをしませんが、だんだんと道理を学ぶことになりました。
クダリは人よりも強く、誰よりもたくましく、その上力加減さえうまくやれば大多数の人間に溶け込める人間でありましたが。わたくしは反対にとても弱く、力がなく、そのままであれば淘汰されるべき人間である、と。
クダリは優しく賢い子ですから、すぐに対策を考えてくださいました。それはつまり、誰にでもわかるほど強いクダリよりもわたくしの方がさらに強いのだと周囲に思わせておけば早々わたくしに危険が及ばないだろう、ということ。
「分かっております、分かっているのです。ですが、いくらクダリがわたくしごときに傷つけられるものではないと分かっていても、それでもとても恐ろしいことだと思うのです。嘘でもクダリを暴力的な手段で支配するなんて……たとえ『ふり』だとしても耐えられない。弱いわたくしを許してくださいまし。おまえとは常に対等でありたいのです。本当はそうでないとしても……」
「何言ってるの、ノボリ兄さん。ノボリ兄さんはいつだって真面目。コツコツ積み上げて、だけどびっくりするタイミングで大仕掛けをしたりする! 一緒にいるとワクワクするの。いいとこいっぱいある。数えきれないけど、全部言っていこうか? ノボリ兄さんはぼくの憧れなんだよ? だからどっしり構えてたらいいの」
クダリはようやくわたくしを離すとぐったりと力の抜けた身体をひょいと抱き上げ、片手で抱えました。地面に落ちている鞭を見ながら。わたくしを慰め、わたくしが歩ける程度に回復するのを待つために。
「すごく似合ってるけどあの鞭は危なかったね」
「まさか鞭が跳ね返ってくるとは思いませんでした……」
「ノボリ兄さん、打たれて腕真っ赤になっちゃった」
「お恥ずかしい……」
「これからはぼく、やり方教える。誘導する。ノボリ兄さんはその通りやったらいいの。そしたら安全だよ?」
もちろんクダリに向けて鞭を振るった訳ではなく、ただどんなものかと練習で振ってみただけなのですが。クダリの言う通り、わたくしは人様より身体が弱く、きっと運動神経も良くないのでしょう。最近はますます良く感じます。近頃はクダリも見兼ねて「自分への折檻の仕方」を演技方法を誘導してくるくらいなのですから。
「ノボリ兄さんはノボリ兄さんのいいところを伸ばせばいいの。ぼくにはぼくの得意なことがあるから、互いに補っていこ?」
「えぇ……」
しっかりと抱えてくれているのはいいのですが。床も埃っぽいことですし、整然と古い紙の資料が並んだ資料室に椅子なんてありませんから。しかし、かなりがっしりと捕まえられていてかなり痛いです。でもクダリがわたくしを落とすまいと配慮してくださってる結果なので文句なんて言ってはいけません。
「さっき、胸を押してくれたのとってもよかったよ。今度はほっぺた叩いてみてね? そうしたらノボリ兄さんがぼくをちゃんと叱ってくれたって誰にでもわかるじゃない?」
「嫌、嫌です、わたくし、クダリを傷つけたくないんです……」
「大丈夫。全然痛くないよ? ノボリ兄さんの力じゃぼくを傷つけるなんてできないから」
「う、うぅ……」
それはそうなのですが、「誰にでもわかる」ということは跡が残るくらい強く叩けということではないですか。流石のクダリも痛いのではないでしょうか。わたくしは幼少期からドジで愚図でよく怪我をしてきましたし、慣れておりますから痛みへの耐性はある方だと自負しておりますけれど、クダリは怪我らしい怪我なんてしてこなかったのですからきっと苦痛です。
「もう。ノボリ兄さんってば優しすぎるよ。それはノボリ兄さんの美点だよ? でも危ないんだからね! 時には毅然としてね、怖い人間を見たら走って逃げてね、襲われでもしたらどうするの! 優しいノボリ兄さんでも殴ったり蹴ったりして抵抗しなくちゃいけないんだからね! 分かってるの? うん、よろしい」
こくりと頷くとようやくクダリは許してくれたのでした。
つまるところ、人前で見せている親しみのない、冷たい態度のわたくしは。「自衛」のため、クダリ指導の演技なのでした。とはいえわたくしだって上背だけはある成人した男なのですからそうそう危険な目に遭うとは思えないのですけどね……。
◇
サブウェイマスターのコートを脱ぎ、制帽を仕舞い込む。ネクタイはそのままにワイシャツとスラックスの上から私服のロングコートを着込めば一般的なビジネスマンと見分けがつかないでしょう。特に黒スラックスのわたくしはよく溶け込んでいます。
わたくし、ちょっと人前で更衣をするのははばかられるのでほぼ衣装の格好のまま帰宅することになっています。
「ノボリ、待って!」
「早くなさい」
「うん!」
早くなさい、なんて偉そうに。流石に人様にまでこんな茶番に巻き込む訳にもいきませんし、クダリにだけに向けることになっている高圧的な態度はクダリの演技指導の通りですが、「ロール」に慣れ切った今でもいまだ釈然としません。今なんてわたくし、とっくに帰る準備が終わっているんですからクダリを手伝えばいいじゃないですか。
サブウェイマスターとしてたくさんの仕事を抱えているクダリが多少手間取るのは当然のことでしょう。わたくしが先に準備を終えたのはたまたまです。「ロール」的に違和感がないクダリはよく帰り支度を手伝ってくれますし。ならばわたくしも荷物をまとめるのを手伝ってやろうと歩み寄りました。
……何故かすごく、事務室にいる皆さまに見られているような。
「クダリ。モタモタしてないで帰りますよ。ほら」
「ありがとうノボリ!」
机の上をざっと片付けてやり、クダリに私服のコートを広げて着せようとすると。
「いいよ、ノボリ、そこまでしなくても」
「おや、いけませんでしたか? せっかく定時退社できそうなんですから、早く一緒に帰りましょう?」
すると、なぜか笑顔を深めたクダリはわたくしの耳元で低く囁きました。
「あのね、『いつものノボリ』でいて? 演技、やめないでね、ノボリ兄さん?」
「……はい」
ピシャンとクダリが皆さまの死角からわたくしの手を叩き落とし、コートを何事も無かったかのように受け取りました。傍から見ればわたくしが乱暴にコートを押し付けたように見えたことでしょう。見事ですね。
このように、演技の質に問題があるとクダリはこのようにすぐにわたくしを指導してくださるのです。とはいえ皆さまの目の前でやれば演技の意味がありませんから、今日は帰ったらみっちり演技指導のお時間のようですね……。
「では帰りましょう」
「ボスたち、お疲れ様です」
「お疲れさま」
「お疲れ様でございます」
クダリが「白」衣装なのは似合うから、ということでありますが。むしろわたくしが「白」を着ない方の理由の方が大きいのです。
じゃれつくようにクダリがぴったりとわたくしのそばに寄り添い、一緒に歩いていると幼いころのことを思い出します。あの頃はしょっちゅう転んだり、力加減ができなかったクダリと一緒に傷まみれになったりしていましたねえ。
当時、やんちゃだったわたくしたちはあざまみれでした。今のクダリにあざのひとつもないことは成長を感じられて素晴らしいことですね。
そういうわけで、わたくしは黒い服の方が良かったのです。良く汚れるので。今も念のため黒の方が安心できますね。黒い服なら透けないですし。
「ああいうのが続くと、ノボリ兄さんが危ないんだから。狙われたらどうするの」
周囲に人影がなくなったことを確認したクダリは、歩調を緩めずにわたくしの耳に囁きかけました。サブウェイマスターのイメージを損なわぬよう、念には念を入れているのです。おかげで外出している時はずっと演技をし続けることになっていますが、クダリは賢いのですべて計算ずくでしょう。
こんなにそっくりな双子なのに。どうしようもない差や違いを感じるとき。わたくしはどうしようもなくさびしくなってしまいます。クダリと一緒でありたくて、そばに並び立つのはわたくしだけでありたくて、だけど、やはりわたくしたちは幼いころから別の人間なので。
その違いを許容し、ふたりでひとりで一人前なのだと己らをなぐさめ、寄り添ってきたのです。
とりわけクダリは優しくて。わたくしに「危険」が迫ることを恐れているようでした。なまじクダリが強い人間であるからこそ人並み以下の身体能力でしかない双子の兄を案じているのでしょう。
「ノボリ兄さん。家に帰ったら一から確認しようね」
ただ。本音を言うなら。
クダリの演技指導は少し、いえかなり。わたくしにとって苦痛を伴うものでしたから、それだけには閉口してしまうのですが。しかしながら、それもこれもクダリがわたくしを愛しているからこそ。兄を想う麗しい兄弟愛に文句なんてつけようもありません。
理性ではクダリの行動すべてを嬉しく思っています。理性だけなんて冷たい演技中の「わたくし」じゃないんですから。本心ですとも。
しかし、そんなちっぽけな苦痛なんてどうでもよろしい。多少こらえただけで至上の快楽がそこにあるも同然ですので。
◇
「ごめんね、ごめんねノボリ兄さん……」
衣装を脱ぎ、ルームウェアに着替えようとしたとき。クダリはわたくしの腕や腹を見て真っ青になりました。見下ろしてみれば確かに真新しい青あざがそこら中に広がっていて結構不気味です。
「クダリ。このところきちんと力加減ができていてえらいですね」
「力加減なんてできてないよ! こんな痕になるなんて思ってもなかった……!」
「骨も砕けていませんし。血も出ていませんし。こうやって動かしても突っ張りませんし、触らなければ痛くありませんよ」
「あのね、触ったら痛いってことじゃないか! もうぼくの馬鹿!」
クダリが強く、わたくしは弱い。それだけのことなんですけどね。気に病んでしまったクダリはわたくしの足をいつも通り繋ぐ際に念入りにタオルを巻いてから鍵をかけましたし、演技指導をするのもやめたようでした。わたくしをいつものソファに座らせ、食事を用意してくれ、そして反省会という名の自責の会を開くようでした。
相変わらずクダリの料理はおいしいですね。たまにはわたくしも料理できないわけじゃないのですし、準備させてほしいのですがこのクダリという男はなかなか厄介な性質を持っていて、一度料理の途中で小さな火傷をしてしまってから過敏になってしまい、絶対にわたくしをキッチンに立たせてはならぬと思い込んでいるようなのです。
自室で過ごしているだけでも危険らしく、今ではわたくしがふらふらと外に出てひとりで危険な目に遭わないよう鎖でつながれてしまいますし、まったく、クダリったら慎重で心配性なんですから。子どもじゃないんですし判別くらいつくんですが。
でも、クダリはわたくしを常に目の届くところに置きたいらしいので。なら仕方ないですねえ。わたくしにできることが受容ならば、受け入れてやるというのがせめてできる弱い兄の務めでございましょう?
「ノボリ兄さん、ノボリ兄さん、ずっと壊れずにいてね……」
「はい。ずっと一緒ですよクダリ。クダリこそわたくしを置いて行ったりしないでくださいまし」
「絶対に行かないよ。ノボリ兄さん、一緒にいて。ずっとね、ずっとだよ」
今までクダリが壊してしまった大切なもの。どれだけ大切にしていた宝物でも、気を付けていたとしても、クダリが気づけば手の中で粉々に壊れてしまっているのです。
クダリは自覚しているのでしょうか。
「今日は早く寝ようね。いっぱいあざ作っちゃったから、身体、治さないと……」
「これくらいなんてことありませんのに」
クダリの狂気はその支配欲そのもの。そして破壊衝動をも併せ持っているのです。
わたくしをベッドに連れていき、そっと寝かせてくれる優しい手つきとは裏腹に。指先がそっとなぞる無数のあざや傷跡に興奮しているのでしょう? 大切であればあるほど壊した瞬間にクダリが浮かべる泣き笑いはより深まっていくのですから。
自覚しております。わたくしこそ、クダリにとって最も大切な存在であると。
何度も何度も壊しかけ、しかしクダリはか細い理性で抑え込むのです。にじみ出る狂気はわたくしを束縛し、だけど本当の欲だけは満たせないでいつづける。なんて可哀想なんでしょう!
「明日も明後日も、ずっと一緒ですよ。クダリ。おやすみなさい」
わたくしの言葉は呪いとなる。クダリはわたくしとのこの約束を壊せないでいて、だからこそわたくしはこの歳まで生きながらえてきたのです。
もちろん。命が惜しいからこうしてクダリと約束しているわけではなく。
捕食衝動を必死でこらえているような。クダリの狂った愛の結末を知っているのに、それが成就しえないことを理解しているわたくしだけの愉悦のため。
「おやすみ、ノボリ兄さん……」
最初は壊れ物をそっと抱えるように。わたくしの身体が抱きしめられる。ゆっくり、ゆっくりと力がこもっていき、息苦しいほどの絞めつけになっても絞めつけは止まらない。わたくしは薄い微笑みを浮かべたまま。朝起きた時、見るも無惨な絞め痕のひとつやふたつはできているでしょうが、それでいいのです。
罪悪感と愉悦に歪むクダリを見るのがわたくしの楽しみなんですから。
わたくしたちの表の顔しかご存じない外の世界の皆さまが実のところ、世間一般的な観点で散々痛めつけられ残酷に支配されているのはわたくしの方だと知ったらどんな顔をするんでしょう。まあどうでもいいんですけど。