【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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眠るキミの白い頬。穏やかに上下する胸元、やわらかそうな喉元。すべてすべて目を逸らせない。
ごくり。唾を飲み込む。だってこんなに甘い匂いがするんだ。あんまりにも、あんまりにも、食欲がそそられる。
「ぼくは」
ノボリは無防備だ。隣にいる男こそ、キミを脅かす最大の危険だって知っているくせに。
「ぼくは、ずっとキミといたいんだ」
生唾を飲み込んで、そっとノボリのからだを抱きしめる。胸元に頭が来るように。ちょうどつむじが目の前にきて、髪の毛から清潔な石鹸の匂いがようやく鼻をくすぐり、ぼくは目をぎゅっと閉じた。
目を覚ましたら骨を抱えている羽目になってないといい、と切実に祈りながら。

クダリの腕の中で薄目を開ける。この角度では目を開けたことには気づかないだろう。どくどく、どくどくと早鐘を打つ心臓の音が心地いい。
はやく、はやく、はやく! この世でいちばん愛するおまえへ。わたくしはおまえと一つに戻りたいだけなんです。その願いだけは、誰にも穢されず変わっていないのですよ。

すべてはおまえが「しあわせ」になるために。
すべては、キミと幸せになるために。


汝、その罪を告白なさい

 台所には布でぐるぐる巻きにされた包丁、床に散らばる分解され、へし折られた(はさみ)、床や壁に突き刺さった(きり)、力任せに真っ二つに折れた大ぶりの(のこぎり)の薄い刃。それらはすべて、元は新品だったようだ。部屋のそこかしこに刃物を包んでいたプラスチックのパッケージや包装紙が散乱し、部屋に備え付けられていた料理場の設備はことごとく二度と起動しないように破壊されている。

 

 まるで嵐が吹き込んだかのようにありとあらゆる物品がめちゃくちゃに乱された部屋の中、凶器になりうるものはすべてすべて破壊されつくされ、足の踏み場もない。

 

 そんな部屋の真ん中、まるく散乱物を除け、床が露出した場所。そこに部屋の住人がいるのだった。

 

「どうかどうかどうか、今日を平穏に過ごせますように」

「お願いします、『かみさま』。今日もぼくたち家族は仲良く過ごし、教えの通りに善き人間として過ごします」

「かみさま。かみさま。わたくしたち、本日も」

「「悪いことをしませんから」」

 

 それは、朝もやがけぶる早朝に、ようやく一筋のまぶしい太陽の光が差し込んだころ。

 

 揃いの白いケープを着て、互いにいびつなヒトガタの彫刻を握りしめた双子のきょうだいがいた。白いケープは見るからにお手製のもので、一応は白いものの、しわや破れ、汚れが目立ち、何度もつくろわれているようだった。

 おごそかな空気の流れるその場所で、そのいびつな形をしたケープは彼らが敬虔な「信徒」であることを示す聖なる衣なのだった。

 

 信心深い双子の声は「誓いの言葉」を熱心に唱えていた。かたや両手を合わせ、かたやしっかと指を組み、ちぐはぐなポーズの二人とも床に座り込んでいたが、手を合わせた方は長い脚を折りたたんで正座し、指を組んでいた方は騎士のように片膝をつき跪いており、ひたすらに込められた想いの度合いをそれは示すかのようだった。

 そんな彼らの前には角を丸めた積み木のような端材が積み上げられ、その簡易的な祭壇の上に表面を磨いていないなにかの原石や鮮やかな色に染められた糸をより合わせたオブジェ、びっしりと「教え」が書き込まれた手製の分厚い本、刃を保ったままの鋭いナイフなどの供物が捧げられていた。

 

 彼らは「かみさま」のしもべであり、「きょうかい」が崩壊した後に遺された唯一の「信徒」だった。もはや信じる者のいない理想。為されることのない経典。そして彼らもまた、「教え」に忠実とは言い難かったが、もはやこの世には彼ら以外の「信徒」は存在しなかった。

 

「ひとつ、禁忌を破るなかれ」

「悪いこと、しません」

「ひとつ、善き人でありなさい」

「救われない人たちにも手を差し伸べます」

「ひとつ、家族仲良く過ごします」

「今日も変わらず仲良く暮らします」

 

 熱心に祈っていた双子のうち、目をぎゅっと強くつぶっていた方が不意にばっと顔をあげた。彼の頬は紅潮し、その瞳は希望に満ちてキラキラと輝いていた。何かを探すかのように視線は何もない天井の方をさまよい、やがて見つけるのを諦めたのか再び彼は目を閉じ、半ば叫ぶようにして喜びを表した。

 

「おぉ、かみさま! お声が聞こえます! わたくしたち、『おしえ』を守れば今日も幸せに暮らせるのですね!」

「やったあノボリ、良かった!」

「えぇ、えぇ、かみさまが仰っているのです、間違いありません!」

 

 無邪気に笑った片割れが、片割れに喜んで抱き着いた。そして片割れは応え、喜びの感情を分かち合う。衝撃で祭壇の上の聖書が床に落ち、ケープのすそが引っかかって供物の原石が散らばったが、彼らは気づきもしない。

 

「じゃあ、『かみさま』に誓った通り、ぼくたち、『家族仲良く』しようね」

 

 おもむろに伸ばされた手が性急に胸ぐらを掴むと、捕食するような勢いで彼は顔を寄せた。ケープの安っぽく薄い生地を引きちぎられる勢いではだけられても気にもせずに、乱暴に押し倒された片割れはぎこちなく微笑んだ。微笑みというよりは、頬をわずかにひきつらせたというべきだったが、間違いなく彼らにとっては笑みと言えるものだった。

 

「えぇ、かみさまの、教えの通りに、わたくしをおまえに差し上げましょう」

 

 乱暴に晒された彼の胸元にはおびただしい傷跡が埋めつくしているのだった。うすい腹の肉は残酷な手段でえぐり取られた古い傷跡があり、背中には火傷の跡が覆い、直接火で炙られたらしいケロイドがそこかしこに散見される。そのような凶行の痕跡は彼の身体の至る所にあるのだった。

 とはいえ、顔や首元、手先など服で隠れない場所以外を埋め尽くす傷跡に新しいものはない。狂気と信仰に抗い、なんとか片割れをこの世にとどめようと正気を保った結果なのだった。

 

 かくして、冒涜の「代行者」は獰猛に笑ったまま、新旧入り乱れた噛み傷まみれの細い首に再度その無遠慮な牙を、しかし愛しいひとに痛みのないよう努めてやわらかく立てた。

 

 だらりと全身の力を抜き、それを甘んじて受け入れている片割れはうっとりと目を閉じ、近くに転がってきた切れ味の良さそうなナイフを引き寄せようとしたが、不穏な気配を察知した片割れに取り上げられてしまう。

 あくまで彼は厳格に「おしえ」の通りにしたかったが、あくまで彼は「代行者」。「フリ」程度で済ませたかったのだった。

 

 そんな彼らの機能していない台所の隅には買い置きと言うにも異様な量の……文字通り山のようなレトルト食品や冷凍食品のパッケージ、できあいの食品の残骸が積み上げられていた。

 

 

「ノボリ。もうアレに話しかけるのはやめなさい。お母さまはお前のことを心配しているのですよ」

「アレはそのうちお前の存在を乗っ取ろうとしているんだ。ノボリ。見た目だけは鏡のようにソックリだがお前ではない。油断しているととって食われるぞ」

「ああ、ノボリは早く七つにならないかしら。そうしたらアレはもう、大手を振って不要と言えるのに」

 

 口を酸っぱくしてそんなことを言うお父さまにもお母さまにも「きょうだい」はいないのでした。正確にはお父さまには「いもうと」が、お母さまには「おとうと」がいたのですが、とうの昔に遠いところにやられてしまったのです。家を継げるのはたったひとりですから、それを脅かすかもしれない「きょうだい」の存在が疎まれているのです。

 そして長男のわたくしにも「おとうと」がいました。それだけなら、しばらく育てて長男の身体が特別に弱いわけでなければ「おとうと」を子どものできない夫婦の子どもにするか、もっと遠くにやってしまうのでしょう。

 

 しかし、わたくしの「おとうと」は。いいえ、わたくしは「ふたご」ですので、その「きょうだい」の区分になんの意味がありましょう?

 

 ただの「きょうだい」。「きょうだい」がいるなんて普通のことです。当たり前の生物としての挙動にすら……それもそういう風に産んでくれと子どもの方から頼まれたわけでもないのに自分でこさえておいて必要ないならどこかにやってしまうような理解不能な因習の残るこの街。それ故に。

 わたくしのかわいいかわいい片割れのクダリは非常にぞんざいに扱われているのでした。

 

 どうして両親はわたくしを愛しているといったその口で、同じ顔をしたもうひとりの息子を邪魔者あつかいできるのでしょう? どうしてわたくしの頭を優しく撫でた手で、クダリの頬を無遠慮に張るのでしょう? どうして、どうして、かつて罪のない自分の「きょうだい」がどこかにやられたときのさびしさ、悲しさ、痛みを忘れてしまえるのでしょう? それとも、彼らは最初から「きょうだい」のことを愛しいとは思いもしなかったのでしょうか?

 

 とはいえ。口ごたえは無駄でした。それが一般的な正論であろうと、なかろうと。クダリの有用性を示そうにも最初から普通の教育すら受けさせず、食事だけは真っ当に与えていましたが、それ以外はなにもまともに与えないくせに、普通に過ごしているだけであの手この手でクダリの悪口を聞かせ続けられます。

 教えもしないのですから言葉が遅れているのは当然です。教師をつけないのですから文字を書けないのは当たり前です。愛さないのですからクダリがあなたたちに笑いかけないのは自明の理ではないですか。

 

 なにもかも、まったく我慢ならないことでした。クダリはわたくしの唯一無二です。互いに何も劣ることなく、常に並び立つべき片割れなのです。クダリはわたくしの影ではありません、わたくしの予備でもありません。曇った鏡でもありません、わたくしを貶めようとするドッペルゲンガーなはずなんてないでしょう! クダリという、かわいらしいあなたたちの息子のひとりではありませんか。

 しかし、そんなことを言っても決して分かってなどくれなかった。わたくしの発言を咎めることなく、なんて心優しい子どもだともてはやしただけでした。

 

 そして、クダリと比較してノボリは年齢の割に大人びている、とよく言われました。それはわたくしが生まれながらに特別な人間で、特別頭がいいからだ、と褒められました。違います。わたくしは生まれた時からクダリ以外信じられる人間がいなかったから、そうならざるを得なかっただけなのに! 

 もちろんクダリもそうです、わたくし以外に一切気を許せない半身はより一層心を凍えさせられ、警戒心が強く育ちました。家庭教師ではなく、両親でもなく、周囲の大人たちからではなく、つたない同い年の兄からしか何も学ぶことが出来ず、未だ話す口調は少しばかりカタコトのクダリですが、時折引き合わされる同世代と比較してもどれだけ賢いことか。人の感情の機微を理解し、大人が望んでいるように振る舞い、そっと心に寄り添うことができる子なのです! そうしなければ、もっと恐ろしい折檻をされると身に染みているなら出来るのです! それを悲しむ大人はこの街にいやしない!

 

 忌むべき因習の始まりを学べばため息しかでませんでした。

 それはその昔、家の跡継ぎではない「ふたご」の片割れが「あに」を追いやり、それ以降不幸になった家があったとか。たまたまでしょうに、その家を襲ったという疫病も、それ以降たまたま世継ぎが生まれなくなったことも、追放した「あに」を呼び戻すことができず結局家が滅んだことも、その一族に次々と似たような不幸が起きて一族全てが存続できなかったことも、全部全部、その「おとうと」のせいとされました。

 さて、因果関係は? 証明できる理論はあるのですか? しかも相当昔のことですよね? それを今になっても信じている? なんて愚かな、馬鹿らしい因習としか言いようもありませんね?

 

 ここは古き良き雰囲気の残る街? まさか! 頭の凝り固まった、老いた思考の愚かな人間しかいないのです。

 

 それでも、単純にまだ幼い時点では「あに」や「あね」が不慮の病気や事故で失われる危険もありますから、「あに」や「あね」が七つになるまでは親元に置かれます。つまり、クダリも七つになったらどこかにやられてしまうのです。ただの「きょうだい」ならば養子に出されるだけでしょうが、「ふたごのおとうと」なんてその因習の始まりそのもの、不幸の象徴のように語られているわけですから……良くて遠くの街の孤児院に入れられ、悪くて無造作に路地裏に捨てられる。日頃の扱いの悪さを見てわたくしには、分かっていました。

 

 だから、今日もわたくしは黙っていました。むっすりと不機嫌そうな顔をして、言われるがままに勉強だけに打ち込む不気味な子どもであり続けました。

 今日も、わたくしは静かにどうすればクダリがつらい目に合わずに済むのかを考えていました。片割れのクダリのことを愛していることをひた隠しにし、個性を出さないで。

 すべてはわたくしがどのような人間であるかを悟らせないために!

 

 一矢を報いるその日まで。与えられる限りのものを全て飲み込みました。勉強して、勉強して、どうすればいいのかを探しました。要求できるだけのものを手にして、手当たり次第に学びました。それがクダリの役に立つのだと信じていました。学んだことはできうる限り大人たちの目を盗んでクダリに伝えました。到底周囲の大人に相談することなんてできず、わたくしはクダリの前でだけ、肩の力を抜くことが出来ました。

 

 だって、だって、わたくしはクダリのことを……それこそ生まれる前から愛していたので。クダリが失われたならば、わたくしは生きる意味を失うのです。ともに両親のもとで育つことができないのなら、このままではクダリが不幸になると分かっているのならば、手を打たないはずなんてないのです。

 

 目を閉じれば今でも思い出せます。

 それは原初の記憶。暗い羊水に揺蕩う夢の中、とくんとくんと波打つ隣の鼓動を聞いていました。音も光もぼやけた中、無邪気なお前が笑うとわたくしには分かって、わたくしも釣られて笑いました。そのうち、ようやく明るい外に出て、おまえをよくよく見ようと思ったのにすぐさま引き離された悲しみを覚えています。まあどうせ目なんてよく見えてなかったのですが。しばらくして、どうにかこうにか再びお前の前に行けた時、わたくしを分かってあどけない微笑みを向けてくれましたね。

 率直にかわいらしい、と思いました。なにをやってでも護りたい、と願いました。そして何よりも一緒にいたいと焦がれました。おまえを幸せにすることこそがわたくしの幸せなのだと分かりました。

 そうです、そうです、わたくしは。

 

 ずっとずっと、両親のことより、家を継ぐことより、与えられた様々な可能性よりも、なによりも。たったひとりの片割れこそ。わたくしはクダリを愛する存在だったのですから。

 

 ご本でしか知りませんが、これはきっと素敵で甘い、恋なのです。子どもだからって恋を知らないはずはありませんよ。わたくしの愛なのです。唯一無二の、あたたかな感情でした。これが愛でなければなんだというのでしょう。クダリの痛みがわたくしの痛みでした。クダリの涙がわたくしの悲しみなのですから。

 

 なんだってしてやりたかった。今すぐわたくしとクダリの立場を入れ替えられるならそうしてやりたかった。親の目を気にせずに優しく抱きしめてやり、どうか安心なさいと囁いてやり、わたくしはそしてクダリの心に焼き付いて、クダリの代わりに野垂れ死にする。それでもよかった。

 

 そのために。わたくしは物静かなノボリなのです。いつだって仏頂面な、愛想のないノボリ。そうあり続けましたとも。

 でもいいえ? わたくし案外笑いますとも、お喋りは好きですよ。クダリの前ではね。

 

 そんなこと、誰も知らなくてよろしい。来たるべき日に、「クダリ」が「ノボリ」に成りおおせるため。大人たちにはどうせわたくしたちの区別なんてまともについていないんですから。

 

 クダリが隣にいるならば、わたくしは何でもよかった。クダリと手を取り合っている時、クダリが笑っている時、あの愛くるしい微笑みを向けられてようやくわたくしの心は熱を持つ。クダリと過ごす時間は夢のように幸せで、それ以外はすべてすべて無味乾燥、生き甲斐さえ見出せない! クダリの居ない時間などすべては無駄で、わたくしのすべてはクダリなのでした。

 

 おまえを幸せにしたくて。不甲斐ないわたくしには叶わなくて。ならば、せめて。来たる未来! 少しでも「恵まれている」立場をすべてそっくり入れ替えて、そしてわたくしは「クダリを少しだけ幸せにしてやれた」というちっぽけな自己満足を持ってそのまま朽ち果てることを選びたいのでした。

 

 

 ずっと前から運命の動く日だってわかってたけど、それは静かに、当たり前にやってきた。

 

 それはぼくらの七歳の誕生日。ノボリが「これからもちゃんと大きくなる」って分かって、そうそう神さまのところに行っちゃわないだろうって分かって、だからお父さんもお母さんも「よび」のぼくのことが要らなくなる日。

 

 ノボリはまっさらな素敵なジャケットを着せてもらい、ネクタイをしてたくさんのプレゼントと大きなケーキを貰えたけど、今日もむっすりしかめっつらをしていてぜんぜんうれしそうじゃなかった。

 

 そしてぼくにあまーいケーキをひと切れ食べさせ、いつも通り「おにいちゃん」ぶって、思った通りのことを言った。

 

「ではクダリ。これからこのわたくしの服を着なさい。そしてしばらくしかめっ面でもしてなさい。話しかけられてもつーんとして、本当に必要なことだけ答えなさい。わたくしノボリは親の前ではそういう子ですので。いいですか? 『ふたご』なんですからばれっこありません。わたくしたち以外、見分けなんてつきませんから。さあ早く!」

「ノボリ。いいんだよ。ぼくいいんだよ」

「良くありません。わたくしはもう十分です、もう十分、良くしてもらいましたから。これからはクダリの番です。『ノボリ』も『クダリ』もなんの違いもないのに、ただわたくしが先に出てきただけなのに、こんなのおかしいじゃありませんか。『ノボリ』なら大丈夫。大切にされるでしょう。好きな習い事だってできますし、お勉強さえできればなんでも欲しいものを買ってもらえるでしょう。だから、はやくこの服を着なさい」

 

 ぴかぴかの服を押し付け、代わりにぐいぐいぼくの服を脱がせようとして、でもぼくが嫌がるものだからできなくて、ノボリはボロボロ泣いていた。

 ノボリがクダリになったら、「クダリ」がどうなるのか知ってるくせに。誰よりもよくできて優しいノボリにそんな終わりなんて、耐えられないよ。

 

 ノボリは、ぼくの代わりに捨てられたがった。ううん、ぼくを「ノボリ」にしたがった。ノボリはそのことがイヤじゃないみたいだったし、むしろ望んでた。

 

 ぼくに言葉を教えてくれたのはノボリだった。なかなか覚えられなくても繰り返し繰り返し文字を教えてくれたのはノボリだった。ぼくに教えるために頑張って、頑張って、頑張って、一生懸命に勉強して、両親の目を盗んでできるだけ自分に与えられたものを分けようとしてくれたのはノボリだった。だから、ぼくは歳の割にはいろいろ分かっているつもりだった。

 うん、先生が優秀だったからね?

 

「いいの。ノボリ。ぼく、ひとりぼっちで家にいるのなんて嫌。ノボリいなくちゃ意味ないの」

「おそらくは命までは取られないでしょうが、万が一ということがあります。『ノボリ』になることがもっともクダリの幸せに繋がっているのですよ。どうしてわかってくれないのです」

 

 ノボリはぼくより両親のことが嫌いみたいだった。なにもかも嫌で、なんにも納得できなくて、でもノボリに思いついたのが「クダリがノボリになる」しかなかったから大人しくしてただけ。本当はふたりでくっついてなーんにもしない時間が好きだった。それを見られるわけにはいかなかったから、いつだってぼくの部屋にやってきたノボリはすぐに出ていってしまう。名残惜しいって顔をしながら。

 

 ノボリは、なぜか。ぼくにも理由を教えてくれないけど、ぼくのことが大好きだった。覚えている限りの昔から、ノボリはこっそりとぼくのところにやってきてはぼくの顔を覗き込み、ふにゃふにゃ笑ってほっぺたを赤くする。そのかわいい表情に見とれて、なんでぼくはノボリに何かしてあげたこともないのに、こんなに幸せそうな表情をするんだろうって不思議でしょうがない。

 ぼくはノボリ以外に愛されたこともなくて、だからわからないのかもしれなかった。でも、ノボリのいちばんはぼくで、ぼくのいちばんはノボリってことだけは間違いないことだった。

 

「あのね、ノボリ」

「はい、クダリ」

「ぼく、ノボリ大好き。優しい声でクダリって呼んで、ぼくの横にいて、笑って、おしゃべりして、幸せ。ノボリがいるから幸せ」

「えぇ」

「だから、ダメだよ」

 

 ノボリがいなくちゃ意味ないの。ぼくは繰り返して言って、服を押し返した。

 

 そのうち、両親がぼくの部屋にやってきて、顔をべちゃべちゃして泣いているノボリを見て、目を丸くした。ぼくのせいだと思ったのかな、お父さんがぐいっとぼくの腕をつかみ、お母さんがノボリを抱きあげようとする。ノボリはわあわあ泣きながら身体をよじって逃れた。

 

「ノボリ、こんなところにいたのですか。いけませんよ、早くお部屋に戻って。お誕生日に買ってあげた新しい本でも読んでなさい」

「嫌ですっ!」

「……ノボリ?」

 

 ノボリは、それまで綺麗なお人形さんみたいにだんまりで、むっすりしていて、お勉強ばっかりにしか興味がなかったらしい。ぼくはその場面をあんまり見れていたわけじゃないけど、つんとおすまししたノボリは別人みたいだった。

 

 きらきらした目にたっくさんの涙をたたえて。それがぼろぼろ、ぼろぼろと大粒のしずくがこぼれ落ちていく。お星さまが降っているみたいだ、夜空からたくさんの流れ星がきらきら、きらきら。

 

 ぼくも、ノボリのことが好きだった。だってノボリは世界でいちばんきれいに見えるんだもの。

 

「嫌です! わたくしは、クダリを愛しているんだ!」

 

 ぐいっとお父さんの手からぼくを奪い取ったノボリは、お父さんとお母さんがやるみたいにくちびるとくちびるをくっつけて、へたくそなチュウをした。へたくそだからごちんと歯がぶつかって痛かったし、ノボリの唇は普段出さない大声を出したせいで切れていて血の味がした。殴られた時とおんなじ味だった。ノボリの血もぼくと同じ味なんだ、ってぼくは思った。

 

「なんてことを!」

「やっぱりふたごなんて残しておくんじゃなかった! どっちを選んでも悲劇の再来になるに違いない!」

 

 パン、とノボリの顔がお父さんに叩かれる。何度も何度も踏みつけにされ、ぼくもついでとばかりに蹴り飛ばされる。お母さんが叫んで使用人を呼び、それからぼくたちは一緒くたになってごみを捨てるときの汚い荷台に乗せられ、遠くまでひかれて、そしてその先でポイっと捨てられたんだ。

 

 ノボリは後から、あの街で「きょうだい」以上に「きんき」とされているのは「どうせいあい」なんですよって教えてくれた。きっとそれもあの街の悪いところなんだろうけど、つまりノボリがぼくのことを好きなのも、ぼくがノボリのことが好きなのもダメらしい。あの街に生まれる前から向いてなかったんですよってノボリは言って、真っ赤に腫れた頬を痛そうにさすってた。

 

 ノボリはぐずぐず泣きながら、でも幸せそうにぼくの手を握りしめて、何度も何度もぼくの胸元に頭をこすりつけた。

 なんだ、ノボリもぼくといて幸せなんじゃないか。さびしいことなんて、もう言わないで。

 

 

 それはわたくしたちの七つの誕生日。神の御許にそうそう旅立たないだろうと確信して、大切に大切に育てられたはずの自らの子ども。

 

 さぞかし盛大な祝いになるはずだったんでしょう?

 厄介者を大っぴらにどこかにやってしまえる日だったんでしょう?

 そんなものは要りません。

 

 許しません。絶対に絶対に絶対に許しません。わたくしがわたくしたらしめるためには隣にクダリがいなくてはなりませんので。クダリだけをどこかにやって、わたくしになんと言うつもりだったのですか? もうお屋敷の後継者を脅かす存在はいないので安心しなさい、とでも?

 

 血の絆で結ばれた、発生の段階から共にあった「きょうだい」は仲良くあるべきです。

 いいえ。たとえ「ふたご」の生まれでないにしても、好き合うものが自然体でいられるようにすべきです。

 退屈によどんだ空気、窮屈な決まり事、運良く「ふたご」で生まれただけであれやこれやと言われるなんて我慢なりません。

 

 わたくしが誰を愛し、誰を必要としているのか。それを分かりやすく教えて差し上げます。

 

 さあさあ不要の烙印を焼きつけなさい! 遠慮なんて要りません、とっとと理解していただいてもよろしいですか? わたくしたちはあなたたちなんかより、互いの存在さえあれば良いのだと!

 

 異端者? 不要者? 称号はなんだっていいのです。

 

 共に過ごせないというなら、クダリがここでは幸せになれないというのなら! わたくしも一緒に捨てておしまいなさい!

 

 わたくしたちはそもそも生まれながらにふたりでひとつ。ひとりでは完全な人間ですらないのですから。

 

 そうして、わたくしたちは偏狭・偏屈の街からさらに遠く。砂と渇きが支配する貧しい街へと連れ出され、着の身着のままに捨てられたのでした。

 

 口の中には血の味ばかりがありましたが、わたくしたちはなにも持ち合わせていませんでしたが。幸いにも、最も重要な、互いだけは失わずに済んだので。それで良かったのです。

 

 殴られたせいで脳がぐわんぐわんと揺れたのか、ひどい吐き気と痛みだけがありましたが、それでもそんなことはとてもとても小さなことのように思われました。とはいえ、すぐさま歩いて移動することは困難でしたから、クダリには「両親は考えを改める可能性があります」とあからさまな嘘をついて、それで体力の回復を待ちました。

 

 クダリの代わりに捨てられる覚悟はとうにできていたのに、わたくしは、あの街に残るよりもずっと幸せでした。わたくしは二度と元の形には戻れませんでしたが、わたくしは二度と健常な心身とは言い難い存在になりましたが、それでもなお、隣には愛する人がいたので。

 

 それでよかったんです。

 

 でもどうすれば、クダリの糧になれるんでしょう? わたくし、物心ついた時からどうやればいちばんクダリのためになって終われるか考えていたのに、今となってはもう、どうやってクダリが生き延びられるかを考えるのさえ困難なのです。

 

 どうすれば、愛するクダリの心に傷を残して。わたくしという愛を抱きつつ、クダリは幸せになってくれるのでしょう。

 どうやれば、この愛を永遠にできるのでしょう。

 

 どうすれば、わたくしの愛しいひとに尽くせるのでしょう、それも、この身を犠牲にしたという証明と共に。

 

 

「まったく使えねえガキだったな。もう少しで巡査に捕まっちまうところだったのがわからなかったのか?」

「こいつら絞っても尻尾切りにもなりやしないがなあ」

「ぐえっ」

 

 大の大人に思いっきりこぶしで腹を殴られたノボリがべしゃりと倒れた。顔から倒れてぐったりとし、ほんのわずかに手足を動かすだけ。お父さんだってここまで強くは殴らなかったのに! 本当にひどい、ノボリはなんにも悪いことしてないのに! そんな現場にいるっていうのに、力のないぼくはじっと息を殺し、気絶したフリをしてうすく目を開け、ただただ涙を流しながら恐ろしい現実を見ることしかできなかった。

 

 だって! ぼくが助けに入ってなんになるっていうの? 小さなぼくが大人にたてついて助けられるわけがない! それにぼくは先に思いっきりあっちもこっちも殴られてもう立つなんてできなかった。必死で腕を突っ張って起き上がろうとしたけど、思いっきり打ち付けられた頭がぐわんぐわんして、もうろくに動けやしなかった。きっとぼくをぶちのめしたやつはすでに顔からぶっ倒れたぼくのことなんて気にしちゃいなかったろう!

 

 抵抗もできないノボリは何度も何度も背中を踏まれ、思いっきり胃の中のものを吐かされてからようやく解放された。ついでのようにぼくも腹に一発蹴りを入れられてから、汚い笑い声だけ残してやっとあいつらは去っていった。

 

 ノボリ。ねぇノボリ。この世界に神さまなんていないけど、だからってどうして、ぼくたちこんな目に遭うんだろうね?

 

 ぼくたち、一生懸命頑張ったのに! ぼくたち、言われたとおりにやったのに! へまなんてしなかったよ、バレなかったじゃないか。なのにどうして。ああ、でも、これでぼくたちに仕事をくれる存在はいなくなるのか。お金を稼いで、なんとか売れ残りのパンを買うことができていたのに、もうそれさえ、できないのか。

 

 両親から捨てられたぼくたちがなんとか食べていくには、あからさまにダメな方法で、あからさまに悪い組織……なんとか団とかいうらしい……のしたっぱの、そのまたしたっぱをするぐらいしか方法がなかった。

 

 でも、それも昨日まで。理解できないけどもうぼくたちは用済みらしかった。子どものぼくたちが就職できるはずはないし、貧しいこの街にまともな子どもの居場所なんて存在しなかった。

 

 たまに、ぼくたちの姿をじろじろ見た人間が何かを言っていたけど、どうせ「ふたご」が珍しいだけだった。珍しいのは良くないことで、でも、これだけは変わりようもないきずなの証明のような気がして正直悪くないのだけど。

 そのせいで何度か揃って売られかけたのは、嫌だったけど、「ひとかい」はすぐにいなくなって助かった。「ひとかい」、「こじいん」、「みんせいいいん」、「外の街の人間」はこの街にはいられない。いても一週間かそこらでいなくなる。うん。本当に「いなくなる」のさ。みんな理由は知ってたけど口には出さない。狙われたくないから。

 

「うぅ、ああ、げほ……うぅ。く、くだり、くだり、いきていますか」

「うん、のぼり、ぼく、だいじょうぶだよ」

「よかった、良かったです……」

 

 しばらくは小さなうめき声しかあげられなかったけど。それでもしばらくしたら少しだけ回復した。それでもふたりともまともに立てなくて、這って這ってなんとか互いの身体に触れた。ノボリからだらだら流れる血がそこらじゅうを汚し、砂を濡らして泥になっていて、それが身体中にまとわりつく。ぼくたちの、元々きれいじゃなかった服がボロボロになってしまっている。

 

 ノボリの傷は大きくて、でも今すぐに死んでしまうほどのものじゃなかった。さすがにぼくたちみたいな役に立たない身寄りのない子どもでも、理由もなく殴りつけて殺してしまったというのは「ひょうばん」が悪いからか。まあ、どうせ、悪いうわさなんて広まりきっていて、これ以上落ちる信頼もないような連中だろうけどさ。

 

「くだり、ああ、あしたから、どうしましょうねぇ……」

 

 震えるノボリの腕がぼくを護るように肩に回される。弱々しいけれど、その温かさが優しくてたまらなくて、唯一この世で頼れるもので、ぼくのすべてだった。ぼくはノボリの胸元にすりよって、すんすん鼻を鳴らしながら泣くことしかできなかった。

 

 ノボリは痛いだろうに微笑んで、ぼくを安心させようと泥まみれのぼくの額にキスをした。

 

 ああ。ノボリ、優しいぼくの「あに」。ぼくのために平穏な暮らしも安定した人生もなにもかも捨てて、ぼくのせいで苦しんでいる。ノボリ、ノボリ、きみはこんな目に遭わなくてよかったのに。ぐずぐず泣きながらも必死で考える。ノボリの片割れなんだもの、ノボリと同じくらい頭を回さなきゃ。同じことができる頭はあるはずだって信じて。

 いつだってお勉強が得意で、家庭教師や両親に褒められていたノボリ。同じことが、できるはず。ノボリが、ぼくたちが、幸せになるためには……ううん。そんな「ぜいたく」言ってる時間はもうない。とりあえずぼくたちが生き抜く方法を考えないと。

 

 まずは傷の手当。次に今日のパン。これからのきれいで安全な寝床。それならまともな衣服。それらを手に入れるには……。

 

 ぼくはノボリとおそろいのこの魂を切り売りしたって良かった。それだけのことをノボリはしたんだ。もうぼくはそれだけしてもらったんだ。だから、なんとか絞り出した悪魔みたいな解決策を思いついて、心底自分が嫌になったけど、それ以外にもうどうしようもなかったんだ。

 

 両親がぼくたちをわざわざ遠い砂の街に捨てた理由。わかったよ。

 なるべくひどい理由で死んでくれって、それもすごくすごく後悔しながら死んでくれって、そういうことなんでしょう? 死んでたまるか。

 

 なにをしてもいい。厳しいこの街で死んでいく人、いなくなっちゃう人はいっぱいいるけど。ぼくたちはそうはなってたまるものか!

 

 

「ねぇノボリ。ぼくたち、きっと幸せになれるよ」

「どうして? どこをどう見たらクダリが幸せになれるっていうんです? いや、頭でも沸きました? あぁ思いっきりぶたれていましたね。少し、見せなさい」

「こっちはいいから」

 

 痛々しく、紫に腫れあがった右膝にちょっとでもきれいな布きれを巻いてやる。かわいそうに血が流れていなくとも痛々しいアザは他にもいくつもあるし、顔にまで赤黒いあざがズラっと並んでいた。きっとしばらくどうやっても走って逃げられないから、こうなったらしばらく「きょうかい」のお世話にならなくちゃいけないんだ。何度考えてもそれ以外に方法がなかった。いやだな。でも、もうそうするしかご飯のあてがないから仕方ない。

 

 ねぇ。ぼくたち生きて帰れるかな。ノボリがぼくの骨を抱えて逃げ出すのか、ぼくが半分になったノボリを背負って泣くことになるのか、わかんないけど。ふたりとも手も足もなくさずにいられたらいいけど。

 

 だってこのままだとノボリはもう三日も持たないと思う。だからほかに手段はないんだ。傷を洗うためにきれいな水なんて使えないから、手を差し伸べてくれるような優しい人なんていないから。砂と暴力と諦めしかないこの街で生きていくなんて無理だったんだ。

 危険でも、もっと都会の街に向かうべきだった。なんて、もう遅いけど。ぼくたちこんななにもない場所に捨てられた時点で、ふたりで泣いてないでとっとと動きだすべきだったんだ。でもね、でもね、諦められなかったんだ。

 

 きっと、ノボリだけでもお家に帰れるって、思ったんだ。ノボリはあの時、きっと歩けもしなかったからそう言ったんだろうけど。ぼく、ノボリを背負ってでもどうにかすべきだったんだ。

 

「あのね、ノボリの怪我が治ったら教えるね」

「はぁ。まぁ聞くだけならタダですからね」

 

 ノボリは歯を食いしばって立ち上がる。震える足に必死に力を込めて、涙をこらえて。ぼくは肩を貸した。ノボリの体は熱をもってて、それは明らかに傷のせいだった。このままじゃそのまま死ぬだろうって思った。時間がなかった。運がいいことに「きょうかい」はすぐそこだ。街ゆく人に同じ顔がふたつ並んでいるのを見られないように、ノボリはうつむいた。わざわざ目立っていいことなんてなにもないんだもの。

 

「行こっか、ノボリ」

「ええ、クダリ。お願いですから、『きょうかい』では言葉遣いに気をつけなさい。口答えなんてしてはいけませんよ」

「はぁい。わかってるよ」

「……あんな、手も足もない軽い死体になりたくなかったら」

 

 震えが伝わってきた。痛みのせいでも空腹のせいでもなく、ノボリは涙を流しながらガタガタ震えていた。

 

「どうか、気をつけなさい。おまえを失いたくないんです。わたくしの、おまえを、この世でいちばん大事なおまえを、わたくしが死ぬより怖いことなのですよ」

「ぼくも。ぼくも、ノボリより大事なことなんてないよ。だから、行くんだよ」

「ええ……もしも食べられそうになったらわたくしを代わりにしなさいね。それがわたくしの望みなのですから」

「そんなことしないよ。ダメそうだったら一緒だよ。その方がいいよ」

「……クダリは幸せになるんです、わたくしがどうにかしてあげます。まだこんなに幼いのに、これからクダリにはいいことがたくさんあるはずなんです、だから、だから、生き残ることに全力におなりなさい」

 

 ノボリはそればっかり。ぼくは曖昧に笑った。ノボリはいつもいつもそう。ぼくはノボリがいなきゃ幸せになれないのに、ノボリは自分なしでぼくを幸せにしたがってる。ノボリの想いはうれしかったけど、そういうぼくを見てくれていないような言葉は少しだけ、悲しかった。ぼくもノボリを生き残らせるためだったら食べられちゃってもいい。ううん、良くはないんだけど、最悪それでも仕方ないかなって思える。なんて、ノボリに言ったら大怪我してるのにそんなの忘れてぼくを怒るだろう。怒って、叫んで、ぼくに取り消しなさいって言うだろう。

 ノボリは、ノボリは、本当にぼくのことが大事だ。大事すぎて、そういうところはちょっと、困る。良いことのはずなのに心が通じていないみたいだ。ね、寂しいよ、ノボリ。

 

 ゆっくりゆっくり、ふたりで足を引きずりながら「きょうかい」の門にたどり着いた。その扉は大きかった。どう考えてもぼくらに開けられるようなものじゃなかったけど、ふたりして並んで立つとどこから見ていたのか、ゆっくりと開かれる。中にいた白いケープのたくさんの痩せた人間たちがこっちを伺っている。決して話しかけては来ない。こちらから足を踏み入れない限りは。そういうきまりらしい。

 

「ぼくたちは『しんと』です」

「わたくしたちは『しんと』です、同胞たちよ」

 

 街ゆく人々からのおびえた視線もものともせず。ただ踏み入れて、ただ「宣言」だけすればいい。そうすればまともなご飯とちゃんとした怪我の手当、そしてありとあらゆるものが破壊される夜の始まりだ。

 

 「きょうかい」に頼らなくちゃいけないのは情けなくて、つらくて、それ以上に色んなものが犠牲になる。だけど。だけど、これしか明日を生き延びる手段がないのなら仕方ない。

 

「幼き信徒たちよ、よくぞ戻りました」

 

 おぞましくぶきみな三日月がずらりと並び、こっちを向いていた。ぼくはなんとか立っていた。必死に右腕に力を込めてノボリを支えたけれど、腰が抜けてしまった人間を立たせておくことは難しい。少しでも怪我がひどくならないようにそっと床におろす。

 

「おや、そちらの同胞はひどい怪我をしているのですね。これでは良くない。同胞の手当をしなくては」

 

 取り囲まれる。取り上げられる。必死でノボリの手を探り当てて握る。

 

「同胞よ、今は離れなさい。傷の手当が必要なのです」

「クダリ」

「うん、ノボリ」

 

 言われた通りに手を離す。お願い、お願い、明日もノボリは欠けずにありますように。足を取られていませんように。腕をなくしていませんように。頭を食べられてはいませんように。声を失っていませんように!

 口に出しちゃいけない。そうしたらこの世からいなくなるのはぼくの方。恐ろしいこの「きょうかい」を刺激していいことなんかないんだもの。あぁお願い、ぼくのふくらはぎの肉をごっそり持っていってもいいから、ノボリの骨は持っていかないで!

 

「怯えずとも。すべての人間を見境なく理由もなく取って食いやしませんよ。『神託』がない限り、我らはこの世の何もかもを傷つけず」

「ただ隣人を愛し、大事な同胞を守り、」

「そして我らの創造神にいつかこの身をお傍に捧げ、仕えるために存在するのです」

「ともに完璧な人間を目指しましょう。下界の穢れを捨て、少しでも創造神の完全さに近づけるよう、日々努力を重ねながら」

 

 狂った人食いどもめ。でもぼくたちにはここしか頼れるところがないんだ。

 

 人食い「きょうかい」、この世でもっともおぞましい「きちがい」どもの集い。でも、でも、きっと今日すぐに骨と皮しかないぼくらが取って食われることはないと思ったから。

 

 ノボリが抱き上げられる。軽く傷口を改められて、眉をひそめた「しんと」が今すぐ湯を沸かすようにと声を上げる。ああよかった。ノボリはちゃんと手当てされる。ぼくはやっと安心して……行動原理のわからない捕食者に囲まれているというのに力が抜けて座り込みそうな心地だった。だけどノボリは痛みをこらえてぼくにひとりで立つように目線で促す。

 

 そうだ、そうだ、気を許しちゃいけない。いついかなるときもこいつらは危険でおかしな、法律からのはみ出し者なんだってことを覚えておかなくちゃ。恐れを知らぬ街のギャングも、まともなふりして見て見ぬふりする役所の人間も、各地に支店があるまっとうなはずの企業も、そして「せいふ」のえらい人も、なんとか団の人間だって。すべてすべてこの「きょうかい」を見ないふり。それには理由がある。手を出せば最後、きっと最後には数の力で押しつぶせるだろうけど、おびただしい数の人間が犠牲になるってわかってるから。「きょうかい」の暴走は未知数で、そしてその末路は。

 

 下半身を失って捨てられた人間のおわり。ドクロに穴が開いた人間の骨。噛み砕かれ中身を吸いつくされた骨の残骸。腹に大穴を開けた腐った死体。「ぐうぞう」に整えられたささげもの。

 「さいだん」に捧げられた犠牲の数なんて誰も知らない。「かて」となったぶっきらぼうな、ぼくたちと同じ捨て子の顔を覚えてる。「せいなるいのり」からからくも逃れた日の夜明け。片方の腕を失った男の悲鳴が聞こえてきて。大通りのおどり子が姿を消し、からっぽのおくるみを抱いて、頭が狂ってぐるぐるおどる変わり果てた女……。

 

 きっと逆らっちゃいけない。なにも口答えしちゃいけない。その結果、どうなるかなんて分かりやしないんだから。

 

「同胞。わかっております、『おとうと』はまだ幼いのです。だから、見当違いに怯えているのです」

「ううん違うの、違うの、ぼくたち殴られたばっかりだから、……ごめんなさい」

「相変わらず外は野蛮ですね。罪のない幼い子どもを殴り付け、怪我をさせ、平然としているなんて。穢れた食物を食べ続け、そのような狂った思考に行き着いたのでしょう。安心なさい。ここには理不尽な暴力なんてありませんし、共に神のおそばに旅立つべき同胞を食らうような成れ果てた者はいません」

 

 ノボリは震えていなかった。ぼくを目立たせないように、ノボリは今日も前に立ってぼくを護る。ほんの少しだけ先に生まれただけなのに、「おとうと」のぼくを愛して、そしてなにもかもを捨てたんだ。ぼくのためにすべてを捨てて、そして変わらず優しいままでぼくの隣で眠ることを幸せだというきみ。愛しいかたちをした、ぼくの片割れ。

 ああ。ああ、どうか。奪わないで。

 

 つたないいのりはどうやら届いたらしい。

 

 恐ろしい老婆は、ぼくたちの頭を優しく撫で、周囲のケープの「しんと」たちも同じように優しくぼくらに笑いかける。中にはノボリやぼくの怪我を見て怒り、泣いている「しんと」もいた。

 

「聞き分けの良い賢い子は神もお好きですよ」

「家族仲良くしていることは本当に良いことですよ。まさかそれを咎めましょうか。そう案じなくても良いのです。それにこの瞬間に神託があったとて。外の人間は誤解しているようですが、まかり間違ってもまさか同胞に肉を捧げろだなんて言うはずがないでしょう。我らの信条に反します。同胞の数を減らすなんて愚かなこと! いつだって少しでも同胞を増やそうと四苦八苦しているのに」

「狩りには人手が必要なのですよ」

「えぇそうですとも。それはすなわち、神の言葉を遂行するためなのですから」

 

 こともなげにそれだけ。

 ああ助かったんだ。今度こそぼくの身体がぐらりと傾く。今すぐになにもされないだろうというあきらめを含んで。どうせ、太らせてからまな板にのせ、肉を付けてから包丁で料理しようとしか考えていないような「きちがい」だけども、ようするにやせっぽちのうちは大丈夫だってことなんだ。そう自分に言い聞かせる。そうでもないと狂ってしまいそうなくらい重苦しい緊張感がそこにあった。

 まだ門から少し入っただけだっていうのに。これから奥につれていかれたら、意識を保っていられないだろうな。

 

 倒れそうになったぼくがやわらかく受け止められた。目ざとくぼくの足にも怪我を見つけた別の「しんと」がぼくをひょいと抱きかかえる。花のような甘い香り、血のような鉄の香り、そして湿ったかび臭くすっぱいにおいが鼻を突き抜ける。

 ……傷口が、じっと見られている。全身にぞわっと鳥肌が立つ。今すぐ歯を立てられ、足首をかじり取られても不思議じゃない。そういう場所なんだ、ここは。

 

 何を言われても警戒を弛めちゃダメだ。この人たちみたいになってもダメだ。すぐに頭の中を作り替えられて、人間をおいしいおいしいって食べるようになっちゃう。怖いよ、怖いよ、ぼくそうなっちゃうのかな、ノボリに噛み付いて、ノボリを食べちゃうかもしれない!

 

 でももう後戻りできない。他の方法もない。ノボリ、ねぇノボリ。ぼく、間違ってたかな。

 

「緊張しなくてもいいのですよ。外でどんな噂を聞いてきたのかは知りませんが。同胞は貴重な存在なのですから。まさか神への捧げものとして使うはずがないでしょう? 大丈夫ですよ、神の子よ。ともに生きましょうね」

「白い肌、無垢な指、穢れを知らぬ二対の同胞。まさかまさかそのような清らかな存在を杜撰に扱うものですか。神への捧げものはいつだって同胞ではないのです。完璧に至るための一切合切は同胞と協力すべきことであり、同胞は増やすべき存在。そういうことも時間はたくさんあるのですからゆっくり学んでいきましょうね……ただでさえ、幼い時から『おしえ』を受けられる子どもは宝なのですから。我らは広く門戸を開いていますが、やはり幼い子どもには難しいですからね。なかなか十歳より若い子どもが信仰に興味を示すこともありませんから……」

 

 甘い声。耳障りのいい、やわらかな声。ふわりふわりとむせ返るような蜜の香りが「きょうかい」の奥から漂ってくる。ぼーっとして、眠くなって、だけど隣にノボリがいないから安心なんてできやしない。まぶたをなんとか持ち上げて。

 じっと抱えあげられたノボリを覗き見ると、既に大きな傷にぼんやりとしていたノボリには刺激が強かったらしく、ぽーっと虚空を見上げたノボリはくふくふと楽しそうに笑っていた。

 

 あまいにおい。あまいにおい。あまいにおいがする。するとなんだかぶわーっと心の底から安心がわいてきて、ぼくもにっこり笑った。

 

 

「ねぇぼくたちと一緒に尊いかみさまのところにいこう?」

「クダリ、クダリ、ねぇ待ってください。この方たちを『きょうかい』へお連れするのですか?」

「そうだよノボリ。みんなを同胞みんなでお救いしましょうってブラザー、言ってた。ね?」

 

 今日もぼくは、ぼくたちは言われた通りのセリフを繰り返す。「きょうかい」のがさがさした布の白いケープを着て、はだしのまま裏通りにいる人間に声をかける。見るからに双子のぼくたちはよく目立ったし、「きょうかい」内部にはなぜか子どもなんていなかった。「しんと」同士の子どもも見当たらなかった。

 だから、ぼくたちはとてもとても目立った。

 

「クダリ。ダメです。きっとダメなんです。この方たちが不幸になってしまいます。信仰は押し付けるものではありません。この方たちがご自分で興味を持ち、ご自分の手で扉を開くのなら問題ありませんが、わたくしたちがお連れするのはまた違います」

「そうかな、そうかも。じゃあちょっとここでぼくたちがお話しして、それで興味をもってもらおうよ!」

「名案ですね!」

 

 ガリガリにやせているわけではないけど、見るからにやせた子ども。はだしに「きょうかい」の白いケープのヘンな格好。そっくりの顔立ちの子どもの非現実的な雰囲気。そういうものがぼくたちを飾りつけていた。

 

 貧しい街だったけど悪いひとしかいないわけじゃない。見るからに見るからな「きょうかい」は恐れられていたけど、見るからに自分たちに危害を加えられそうにない子どものぼくたちまで剥き出しの敵意を向けてくる人間はいなかった。

 それどころか、かつてノボリを殴ったなんとか団の下っ端たちもぼくたちを見てそっと目をそらし、近寄ろうとはしなかった。からかいの言葉のひとつでもかけてくるかなあって思っていたけど、「きょうかい」に関わることが危ないってことは理解しているみたいだった。

 

「きみたちは『きょうかい』にご両親がいるのかい?」

 

 目の前の大人はどうやらこの街の人間ではないらしい。綺麗な身なりをしていて、まともそうな目をして、ぼくたちをめいっぱいあわれんで、そのくせ隠し切れない興味を持っていた。

 そういうのをぼくらは狙っていた。狙いなさい、とは言われなかったけど、そういうものだ。

 

「ううん、違うよ」

「わたくしたちは両親に捨てられたのです」

 

 別の街の「ふくししせつ」の人間かな? それとも「せいふ」の人間かな? それとも「きょうかい」を研究している「はかせ」? あ、この前ノボリが言ってた「みんせいいいん」かな?

 

「あのね、捨てられてぼくたちもう生きていけなかった。ぼろぼろで、殴られて、明日のご飯もなかったの。『きょうかい』だけがぼくたちを助けてくれたの。ノボリの怪我を治してくれたの。それはね、かみさまがそうしなさいって言っていたからなんだよ。同胞を護りなさいって。ぼくたち同胞は、同胞に優しくしなさいって教えを受けるの。かみさまのことばだよ」

「わたくし、『きょうかい』が助けてくれなければ助からなかったかもしれません。この街の……なんでしたっけ、なんとか団」

「なんだっけ? なんとか団。ノボリもぼくもね、そこの下っ端に殴られてボロボロで、ご飯もお金もなかったの。だから『きょうかい』に行ったんだよ。お兄さんたちも『きょうかい』のこと不思議に思っているよね? なにしてるところなのかな? って。ぼくたちもそうだった。人間を食べてるんじゃないかって思ったよ。そういうウワサを聞いてたよ」

「ええ。実際、この街では飢え死にしてしまう人間が多くいます。裏路地を探せばたくさん、ご遺体が見つかることでしょうね。わたくしたちは世間知らずでしたので、それらは『きょうかい』によるものだとか、思っていたのですよ」

 

 ぎゅーっとノボリのからだに抱きつく。細くて、お腹に骨が浮き出ていて、ちゃんと傷は治っているけどぜんぜん元通り元気にならなかったノボリ。ぼくも似たようなものなのかも。

 

 不健康そうな子ども。「きょうかい」に洗脳された、かわいそうな、子ども。めいっぱいそういうところを見せて、ぼくたちの前に長く、少しでも長くいてもらうの。それがぼくらの役目。

 

「ノボリ、また歩けるようになった。ノボリがもう一回目を覚ましてくれたから。あのね、ぜんぶかみさまのおかげなの。ぼくたちとお話だけでも聞きに行こう? あのねあのね、『きょうかい』は同胞以外は中には入れないんだけど、お話のために『しんと』が来るから。ほら、ほら、ほらきた」

 

 今日の晩ごはんはなんだろう? ちゃんと「しんと」が来るまで引き止めたんだから、多くして欲しいな。

 

 左手にはかみさまの言葉が書いてある「せいしょ」。右手には今日の「かて」に感謝するためのよく研いだ包丁。

 

 後ずさろうとする目の前の男たちだったけど、もう囲まれているんだもの。白いケープの人間がたくさん集まっているのを見て助けてくれる人間なんていない。野生のポケモンさえ、この光景を見たら逃げるだけだよ。

 人間だけが、「かみさまのおしえ」を受けるべきだとは考えていないらしいから。まあまず、明確に言葉が通じる人間から「おしえ」を広げようとしているだけ。そのうち、いずれ、ぼくたちは……ううん。ぼくたち「きょうかい」の数少ない「しんと」のポケモンと仲良しなんだよ。大丈夫、きっと大丈夫さ。

 

 「きょうかい」は「しんと」の命を最も尊ぶ。狩りは数が基本だから。だから、あの子たちも、ノボリも、そしてぼくも、頭から食べられて死ぬなんてことはない。ないんだよ、クダリ。

 

「ノボリ。クダリ。よくやりました。今日のところは帰って食事になさい。あとは私たちがお話ししますからね」

「はい。では行きましょうクダリ」

「帰ったらご飯だね、ノボリ」

「ある信徒が寄付してくださりましたので、きっと少し豪勢です。あなたたちは外でいつも布教活動に精を出してくださっているので体力が必要です。かみさまの教えを広げるという尊い活動は私たちの使命なのですから」

 

 ピッタリ声のそろった「かみのうた」が聞こえる。よそ者の大人たちを取り囲み、歌で「おしえ」を伝え、そのあときっと「ふきょう」する。そして最後に聞くんだ、「あなたも同胞になりませんか?」って。それでね、それで。もしあの人たちが「なる」って答えるなら今日から白いケープの「しんと」になるんだ。「ならない」って答えたら。

 

 きっと明日のスープも、具沢山で豪勢だろうね。

 

「クダリ、クダリ、ちょっとゆっくり、帰りましょう?」

「いいよノボリ。晩御飯までゆっくり帰ろう」

「……えぇ。えぇ。そうしましょう。ご飯を食べられるというのはとてもとても、幸せな、ことなので……」

 

 今日もノボリの肌は青白い。いつも気分が悪そうで、ぼくが支えてなくちゃふらふらっとそのまま座り込む。「きょうかい」にいたら、きっとノボリはダメになってしまう。だけど、「きょうかい」にいなければノボリはあっという間に死んじゃうだろう。

 

 ぼくはどうしたらいいんだろう? 冷たい手をぎゅっと握りしめて、ぼくはうつむいた。

 

 すれ違う街の人間は絶対にぼくたちに話しかけたりしない。「しんと」に手を出すなんてどうなるなんて分からない、だけどだいたいは想像がつくんだもの。

 

 ぼくたちはもううつむいて顔を隠したりしない。そんなことをしなくても、何も悪いことをしなくても攻撃されてしまうことなんてないんだもの。でもね。

 

 ノボリはずっとつらそうだった。

 

「今日も、肉のスープを頂くのでしょうか」

「たぶんね」

「たっぷりと入ったあぶらと、骨でとられた出汁の、あたたかいスープを頂くのですね」

「えいようまんてん。ノボリも飲んだら元気になるよ」

「えぇ。肉のスープなんて。家にいたころだって毎日は飲んでいませんでした。とても豪華で、素晴らしいお食事です。明日は?」

「あしたはきっとお肉のお団子だよ」

「おいしそうですね。でも、たまにはお魚も食べたいですね」

「せっかくお友達になったシビシラスがびっくりしちゃうかもしれないよ」

「そうですね? その次は?」

「肉まんかな? もしかしたら丸焼きかもしれないね」

「『きょうかい』のご飯はいつも豪華ですね」

「ぼくたちももう少し大きくなったらお料理、教わろうね」

「えぇ、もうすこし、背が伸びたら」

 

 こういうお話をしながら帰るのは、ぼくたちと同じく食い詰めた路地裏の子どもたちに聞かせるためだ。きっとその本当の意味も分かっているだろうけど、それでも最後の希望をもってやってきてもらうために。

 

「きっとクダリは、あの家にいるよりも大きく背が伸びるでしょうね」

「だといいな」

 

 こんなに弱って、こんなに辛そうなのに。ぼくを選んだことは後悔してないの、ノボリ?

 あのままぼくがいなくなった方が、きっとノボリは幸せな人生を送れたのに。

 

 毎日青い顔をして、なんとかご飯をかきこんで。ぼくの隣になんとか立っていようって、膝を必死に立てて。ぼくは間違いなくうれしいけど、どんどんどんどん弱っていくノボリは見てられなかった。いっぱい食べてるけど栄養は足りてるのかな、なんて。わからないけど。料理は違うけど、毎日同じものばっかり食べてるからちょっと心配。食べられるだけいいんだけど。

 ノボリも、こうして毎日食べられる方が裏路地の死体になるよりいいって思ってるから、ここにいるんだし。

 

 「きょうかい」にもどるとうっとりするくらいあまいにおいが漂ってきて、ぼくはノボリに「ごはんだよ」って教えてあげたけど、ノボリは相変わらず真っ青な顔をして「なまぐさいにおいがします」とだけ言って、黙り込んでしまった。

 

 

 走る。走る。走って、祈りの部屋を抜け、奥にある「聖なる本」を作る部屋にたどり着く。

 

「ブラザー、シスター、マザー。おはよう。あのね、朝からね、おこしても、ノボリがちっともおきないの。うーんうーんってうなされてて、お熱はないけど、おかしいの」

「それはいけません。すぐに行きますからね」

「あとね、ぼくもね、なんだか、ふらふらするの」

「あぁクダリ。お部屋に戻ってノボリの横で寝てなさい。お医者をやっていた信徒を呼びましょうね」

 

 ノボリが目を覚まさなくなった。昨日の夜も、真っ青な顔をして夕飯の真っ赤なスープをゆっくりゆっくり飲んで、寝るまでに吐き気をこらえて、でもなんとか吐かずにベッドに横になって。眠ってしまうまで手をね、ぎゅっと握って欲しいって言われたからそうやって、やっとのことで寝たのに。

 

 朝起きたら苦しそうな顔をして、まだ寝てた。だから起こしたのに、起きなかった。揺さぶっても、話しかけても。仕方ないからぼくたちと同じようにお腹が減ったところに「きょうかい」に助けられた「しんと」のポケモン……お友だちのシビシラスとノボリのお友だちのヒトモシに見ててもらって、マザーたちを呼んだ。

 ぼくらの部屋にお医者さんだったブラザーが来るのは嫌だろうけど、仕方ない。風邪でも引いちゃったのかな。ぼくらのかみさまならすぐに治してくれるよね。朝ごはんを貰ってきて、今年のソーセージはとっても出来がいいから、食べたらノボリも良くなるよね? 去年、一緒に作ったもんね? やっぱり自分の手で作るとご飯ってとっても美味しい。

 

 ノボリが起きるまでかみさまのうたを歌おう。ぼくの歌、みんなに褒められるんだよ? ノボリもぼくの歌が好きだって言ってたね。「せいか」を歌おう、ノボリのために。そうしたら起きてくれるかな? ねえノボリ。元気になったら一緒に、外に甘い香りを撒きに行こう? ブラザーとシスターを増やして、狩りをして、美味しいご飯を一緒に食べようねえ。

 

 ねぇ、ノボリって、とっても、あまい匂いがするね? なんだかくらくら。足はふらふら、ぼくってば踊ってるみたい。

 

 部屋に戻って、言いつけ通りベッドに潜り込む。お友だちのちょっと大きなシビシラスが心配そうにくるくる回ってる。こう見えても食いしん坊なんだよ? ノボリのお友だちのヒトモシの炎は今日も小さくて、安全だ。彼女は人間の魂じゃなくて、毎日毎日紫色のロウソクの火を食べてるらしい。

 

 「きょうかい」が崇めるかみさまいわく。少しでもかみさまに近づくため、完璧になるためにはぼくたちは「同じもの」を食べるべき、らしい。人間は人間を、ポケモンはポケモンを。同じ種類の生き物を食べれば、きっとそのうち、身体から毒とか、けがれってものがなくなって、同じ種類の生き物の純粋な栄養素で身体が構成されれば、完璧な存在になれるだろうって。

 その考えを同じくする同胞はもちろん食べ物じゃない。一緒に歩む仲間。狩りのパートナーなんだもの。

 

 ぼくたちは期待されてる。小さい時からそういうご飯を食べて大きくなれば、大人になってから「しんと」になるよりもずっと効果があるとみんな思ってる。だからぼくたち双子は大事にされていた。ぼくたちが大人になったらマザーの跡を継いで、ふたりで「きょうかい」を引っ張っていくんだよ、黒と白の「ふたご」の王さまになってかみさまに会いに行くんだよ、そしていつかかみさまのことを同胞に教えてねって。

 それってなんだかイッシュの王さまのお話しみたいだねって言ったら、それはいいってみんな笑ってたね。新しい神話の始まりになるんだって。

 

 もしかみさまが大したことなかったらふたりでわけっこして食べてふたりが「きょうかい」のかみさまになりなさいって。

 

 そんな「きょうかい」の教え、一生懸命守ってきたのにな?

 

「ヒトモシはどう思う? 明日もおなかいっぱい食べられる方がいいよね? シビシラスは? 明日もいっぱい食べるのが幸せだよね?」

 

 かみさまのことはわからないけど。みんなは優しくしてくれるけど。ぼくは、ノボリといられて、お友だちがいて、その上おなかいっぱいに食べられるならこれ以上の幸せはないと思う。

 

 冷たいノボリの腕をぎゅーっと抱きしめてあっためようとする。ねえノボリ、ノボリ、起きて? 起きて、一緒に朝ごはんを食べに行こう? 祈りを捧げて、狩りをしに行くの。そしたらいっぱい褒めてもらえるし、ご飯は増えるし、いいことしかないよ。お父さんとお母さんみたいに「ふたご」や「きょうだい」の迷信を信じてるひとなんていないし、ぼくたちはとっても可愛がられて、大事にされて、怖いものなんてなくて、幸せだ。

 

「ねぇノボリ、ぼく、元気になったらノボリの好きな物つくってあげる。ノボリの好きな食べ物はなぁに? ステーキ? ハンバーグ? それとも……」

 

 ノボリの喉がぐぅ、と鳴った。悪い夢にうなされているみたいで、ぎゅっとおでこにシワが寄って、ノボリは体をよじった。

 

 そうか。ノボリはぼくの前で「親に愛され幸せな、何不自由ない、大きな屋敷の跡取り」の姿を絶対に見せなかった。綺麗な服を申し訳なさそうに着て、惜しげなく与えられるおもちゃやおやつ、旅行に連れて行ってもらうのもぼくにひけらかしたりしなかった。むしろどうやったらぼくに同じものをあげられるか、そんなことばっかり考えてた。

 こっそりノボリが持ってきたあまーいドーナツを半分こにして、部屋の隅で一緒に食べた。世界でいちばんおいしくて、ぼくは幸せだった。ピカピカのブリキでできた電車の模型はノボリがぼくにくれた宝物だった。ふたりで模型を眺めて、いつか本物を見てみたいねって笑い合うことが幸せだったのに。

 

 これが好きだって、なにが食べたいって、いつだってノボリは言わなかった。両親に言えばすぐに与えられたに違いない。だけどそれはぼくには与えられないってことを意味する。ノボリがいつでも欲しがったのは本で、お勉強で、そればっかりだった。いつかいつかぼくたち二人だけで生きていけるようにってそればっかりだった。

 

「あはは、ぼくしらないの。ノボリの好きな食べ物も、しらないの。ノボリはなにが好きなの? ノボリは何をしているとき、幸せだったの?」

 

 「しんと」がノボリのからだを抱き上げる。診断の結果、原因がわからないのでかみさまの部屋に連れて行ってお祈りをしようということになった。

 

「ぼく祈るから」

 

 だらりとたれた腕がぶらぶら、ぶらぶら。吊るされたソーセージのように、食糧庫のベーコンのように。

 

「ぼく、」

 

 今、なにを考えた? 唾がたまる。油断したらだらだら垂らしてしまいそう。ノボリの不健康で青白くて、細い腕を目で追う。もっと肉付きの良い、食べ応えのある人間なんていくらでもいるだろうに、世界でいちばんおいしそうだった。

 

「ノボリのこと、大好きだよ」

 

 あぁおなかがすいた。ぼくおかしくなっちゃった。

 ノボリはぼくの大事な片割れ。唯一の家族で、ぼくのために全部投げ出して全部捨てて、一緒に生きてくれようとしたのに、なんでぼくは。

 

「早く、良くなってね」

 

 だめだ、だめだ、ここにいるからおかしくなったの?

 だめだ、だめだ、ぼくはもともとおかしいのかもしれない。

 

 ノボリ! ぼくがこういう人間だからお父さんは、お母さんは、ぼくのことを捨ててもいいって思ってたの? ノボリは知ってたの? それでもぼくのことが好きだって言ってくれたの?

 

「祈りを込めてお歌を歌いましょう。クダリの歌声はきょうかいでいちばん美しく通ります。そうすれば、すぐにかみさまが聞き届けてくださりますから」

 

 はやく、ここを出なきゃ。ノボリの肉がちゃんと残っているうちに。

 

 ぼくは手を合わせて「せいか」を歌いながら決心した。

 

 

「ほら、これでできあがり。早くノボリのところにいっておいで」

「ありがとうシスター」

「いいえ。私たちのかわいい双子ちゃんのためなんですから」

 

 シスターに促され、お椀におかゆを盛る。ほかほかしていい匂い。きっとこれならノボリも喜んで食べてくれるはず。

 

 毎日、シスターに料理を教わってた。シスターは自分の子どもが死んじゃってから「しんと」になったんだって。だから特別優しくしてくれた。ぼくたちがちょっとでも背が伸びると喜んで、狩りで汚れちゃったケープを洗ってくれて、そろそろ大きくなってきたんだからぼくたちにそれぞれひとり部屋を……ってみんなが言っても「二人は一緒にいたがってるの」って反対してくれた。

 

 シスターの料理はどれも優しい。愛情がたっぷり詰まってる。他の「しんと」に教えてもらったステーキ、ハンバーグ、肉団子……おいしいものばっかりだったけど、でもどれも、ノボリはあんまり食べてくれなかったから。今日はもっと消化に良くて胃に優しいものにしようって言ってくれて、おかゆになった。シスターが教えてくれた料理の時はノボリって結構食べてくれるんだよ?

 

 廊下を歩いていると、背の高いブラザーとすれ違う。最初は無口で、背が高くて顔があんまり見えないからちょっとだけ怖かった。昔、どこかの街でお医者さんをやっていたブラザーで、最近のノボリを毎日診てくれてる。お薬は要らないと思うけど、と言いながら熱の下がらないからだに正しく氷を当てるやり方や眠ったままのノボリのからだの拭き方、どういう様子なら大人の助けを呼べばいいのか、それからいざと言う時のために怪我の手当の仕方とか、そういうのを教わってる。

 

 このブラザーは昔のことをあんまり教えてくれないけど、ノボリが寝込んだ時はすっごく心配してくれるし、本当にちっちゃなけがをしただけですぐに手当てしてくれる。

 

 ノボリにも、シスターにも、ブラザーにも、かみさまにだって言わないけど。優しくしてくれる大人ってぼく初めてで。もし、ぼくが「ふたご」じゃなかったら、お父さんとお母さんってこんな感じだったのかな?

 ノボリと一緒に生まれてこないぼくなんてぼくじゃないし、それならノボリが生まれてくるまで「たましい」のまま何年でも順番待ちするけどね?

 

「クダリ。ノボリは今、よく寝ていたよ」

「もうブラザー、いつもよく寝てるよ」

「それはそうだけどね。とても穏やかに眠ってたよ。熱もない」

 

 ブラザーは穏やかに笑っていた。シスターとブラザーは、「きょうかい」の人間だけれども、本当にぼくたちのことをかわいがる大人だった。ぼくたちは、ううんぼくは、正直言って人間の中ではふたりのことが好きだった。もちろんノボリの次にね? 

 

「かわいい双子ちゃんたち。早く元気におなりなさい」

 

 ぎこちなくて、ちょっと笑顔は怖いけど、本当に心からそう思ってるんだ。こういう風にされると、本当に、本当にここでの暮らしが幸せなんだって思える。思ってしまうじゃないか。

 

 ぼくはなんとか、首を振って振り払った。

 

 走ってノボリの眠る部屋に向かう。

 

 早く逃げないといけないのに。

 

「ノボリ、ノボリからあまいにおいがする……」

 

 今日もお布団に包まれて、ノボリは眠っている。ノボリが起きて歩けるようになったらすぐにここを出て、できるだけ遠くに逃げようって思ったのに、ノボリが起きないからなかなか逃げ出せない。シビシラスとヒトモシを入れるためのモンスターボールも手に入れたのに。一緒に初めてのポケモンをゲットしようねって言ったじゃないか。

 こっそり荷物をまとめようかとも思ったけど遠くに行っちゃうまで逃げたことバレたくないし、病み上がりのノボリにきっと荷物なんて持てないから要らないね。モンスターボールだけこっそり持ち歩いてるけど、それだけ。シビシラスもヒトモシもぼくが誘ったら一緒に行こうって頷いてくれたから大丈夫。今「食いだめ」して準備してくれてる。

 

「あのね、あのね、今日はシスターにおかゆの作り方教わったの。味付けのためにね、骨で出汁をとってね、ご飯をやわらかく煮るんだよ。『きょうかい』で白いご飯を食べる人はいないけど、ノボリは今、お病気だからお肉ばっかりじゃきっと胃がびっくりしちゃうでしょうって、お医者さんだったブラザーが言ってね、みんなが用意してくれたの。スーパーに行ってお米を買ってきたんだよ。この服で行ったからびっくりされちゃった。早く元気になって一緒に、ノボリの好きなもの、食べようね」

 

 おかゆをすくって、フーフー息を吹きかけて冷ます。熱くなくなったら、背中の後ろに枕を挟んで座らせたノボリの口元にそっと持っていく。薄く開いた口にそっとスプーンを差し込む。

 

「あのねノボリ。『きょうかい』はこの街から出るつもりはないみたい。他の街には『ふきょう』しに行かないんだって。なかなか同胞が増えないから、しっかり人を増やしてからの方がいいでしょうって。ぼくたちがもっと大きくなって、大人になるころには世界中に『ふきょう』できたらいいですねってマザーは言ってたよ」

 

 ノボリの目がゆっくりゆっくり開く。ゆるんだ口元となにも見ていない細く開いた目を見ているとノボリは穏やかに笑っているみたいだった。

 最近のノボリはいつもこうだった。ずっと寝てるんだ。目を開けていても、寝てるんだ。きっと全部、嫌になっちゃったんだと思う。ぼくらを捨てた両親のこと、ぼくらを殴ったなんとか団のこと、「きょうかい」のこと、そしてぼくのことも。でも、ぼくは諦められなかった。ノボリの身体はあたたかかったし、きっといつか目を覚ましてくれる。マザーは疲れちゃっただけでしょうって言っていたし、ブラザーもシスターも心配してる。そのうち、きっと起きてくれる。ぼくのことを愛しているって言ってくれたんだから!

 

 ねえ、ぼくたち、幸せになれるよ。ここにあるぬるま湯と真っ赤な血で守られた、……きっと、にせものの幸せじゃなくて。自由な外で、幸せになれるよ。当たり前のものを食べて、いろんなワクワクすることをして、きっときっと幸せになれるよ。

 

 ぼく、ぼく、もう間違えないから。ノボリは食べ物じゃないし、人間は食べ物じゃないし、「きょうかい」のみんなは本当の家族じゃないし、ぼくたちは、きっとやり直せる。

 

 抱きしめてくれるシスターからした花みたいに甘い香り。頭を撫でてくれるブラザーのあったかい手。ぼくたちを笑顔で見守るマザーの優しい目……そういうものがいっぱいいっぱい思い出されたけど、頭をぶんぶん振る。それはにせものなんだよ、全部。それでぼくは幸せで、もういいんだって思っちゃいけないんだ。

 

「だから、いっぱい食べて、早く元気になって。このままじゃもっともっと痩せちゃうよ」

 

 ゆっくりとノボリの口が動いて、何度か噛むみたいな動きをした後ごくんと喉が動く。飲み込み切れなかったおかゆがぼたぼたと口元からこぼれて首にかけたタオルを汚す。

 

「あとね、今ぼくは『きょうてん』を教わっているの。文字を読める『しんと』は珍しいんだって。ノボリが教えてくれたおかげ。ぼくね、前のノボリみたいに一生懸命お勉強して、立派な大人になりたいな。そうすればノボリも安心。お友だちもそう言ってるよ。あったかくて、幸せなご飯を食べて、お祈りをささげて、今日に感謝して、それで、それでね、きっと幸せになれるから」

 

 ゆっくりゆっくりお椀の中身が減っていく。だいたい全部食べ終わったころ、投げ出された手がピクリと動いた。

 

「ノボリ?」

 

 開かれた目はゆらゆらと何かを探す。ゆっくりとおそろいの色の目がぼくを見つけた。

 

「くだり……」

 

 ゆっくり、ゆっくり、ノボリの手がもちあがる。待ちきれなくて、スプーンもお椀も投げ出してノボリの手をつかんだ。同じ部屋にいたお友だちもやってきて、嬉しそうにノボリの顔をのぞき込む。

 

 甘い香り。懐かしい、甘い香り。どこかで嗅いだことのある、甘い、ひたすら甘くて、怖くて、泣きたくなる香りがする。

 

「起きた! ノボリ、早く一緒に逃げよう? 取り返しがつかなくなる前に、」

「にげる?」

 

 ぼんやりとしていた目があちらこちらを見回す。

 

「そうですね、ええ、どこか、どこかへ。ここではないどこかへ、ふるさとではない、どこかへ……」

 

 もぞもぞとノボリの足が布団から出て、ベッドから転がり落ちそうになる。慌てて受け止めると、熱いからだから、とてもとても甘い匂いがして……。握った手も、床に降りようとする足も、首筋も、何もかも、なんてなんんておいしそう!

 

 よだれが止まらない。ノボリが美味しそうに見えるなんて、おかしいのに! 食べたら死んじゃうんだ、死んだらもう二度と会えないんだ、分かっているのに!

 

「鉄の味がするんです。血のように、鉄臭くて、生臭くて、なにもかも。クダリ、早くこんなところから……」

「うん、早く行こうか? ヒトモシもシビシラスも、じゅんびばんたん」

「あれ……クダリ、わたくし、なぜか、立てないんです。立たせてくださいまし……」

 

 伸ばされた手をしっかり掴んで、グイッと引っ張りあげようとして。

 

「クダリ?」

 

 ほっそりとした、骨ばった腕だ。肉なんて全然ついてなくて、肌の色も悪いし、幼いから肉はとってもやわらかそうだけど、ぜんぜん脂もなさそうだし、ちっとも美味しそうじゃない。ぼくひとりでも腕一本じゃ物足りなそう。二本でもぜんぜんぺろっと食べられそうな細い腕。

 

「クダリ、どうしたんですか」

 

 とっても甘い匂いがする。ちっとも食いでがなくて、焼いても煮てもおいしくなさそう。なのに、そのはずなのに、なんでこんなにおいしそうなんだろう? お塩すらかけたくない。きっとそのままがいちばんおいしいから。ノボリを彩るのはその、濃厚でいい匂いのする、肉から噴き出す赤い血だけでいい。

 

「なに、やめなさい、やめなさいクダリ、どうしちゃったんですか、何をしようっていうんです!」

「あのね、ノボリ、とっても、おいしそう」

「ひぃっ……」

「かみさま、ありがとう! いただきます」

「やめ、やめなさい、やめて……!」

 

 まともに力の入っていない腕。ちょっと引っ張ってくるけどなんてこともない。簡単に抑え込めるよ。口を大きく開けて、がぶり。

 

「ああああああああぁぁぁっ!」

 

 口に広がる鉄の味。とろけるようにやわらかくて、目も覚めるほど、濃厚で、幸せそのものの味。

 

「やめてやめてやめて! いたい! 助けて!」

「暴れないで。おいしいよ」

「いたい、いたいよ、くだり、やめてよ、たすけて、やめて、うう」

「なんで泣いてるの」

「わたくしのうで、うで、たべないで、いたい、」

「いいにおい、してた。ずっと。やっぱりおいしい」

「いたい、やめて、……ころさ、ないで、たべないで、やめて、くだり、くだり、くだりぃ……」

 

 ノボリはなんで泣いてるの? なんでって。それは腕から血が出てるからだ。

 

「いけない! ノボリ、怪我してる、手当しないと」

 

 口を離して、急いで包帯を探す。ブラザーに教わった通りにギュッと強く止血するために結んでガーゼを当てる。ぐるぐる巻いて、できあがり。

 

 あれ、あれ? ノボリはなんで、ベッドの上で怪我したの? 

 それは、ぼくがノボリの腕に噛み付いて、食べたからだ。

 

「あ……」

 

 甘い匂い。強烈な甘い匂い。花のような、鉄臭くて、蜜のようで、湿っぽくて、カビ臭くて。甘くて美味しそうな匂いはノボリから。湿っぽくてカビ臭い匂いはぼくからして……。

 

「あ、あ……」

 

 ノボリがしくしく泣いている。腕を抑えて、痛がってる。苦しんで、怯えて、なのに逃げられなくて泣いている。

 

「あぁ、ノボリ、ぼく、ぼく……」

 

 ぼくのせいで。ぼくが、ぼくが!

 

「ノボリ、ごめんね、ごめんね、ノボリ、痛かったね、怖かったね、ごめんね、」

「クダリ、うぅクダリ、目を覚まして、」

「逃げよう、逃げよう、ここにいたら、もうだめなんだ」

 

 ノボリのからだの下に滑り込んでなんとかおんぶする。お部屋にいたお友だちがうんうんと頷くと扉がバン! と開いた。お友だちが開けてくれたらしい。

 

 力の限り走る。すれ違ったたくさんのブラザーとシスターがびっくりしたような顔でぼくたちを見送る。誰も、予想に反してぼくたちを止めようとしなかった。血まみれのぼくの口元を見て、みんなにっこり笑って手を振って、近くにいた別のブラザーやシスターに向かってふらふらと歩いていく。

 

 後ろからたくさんの悲鳴と笑い声が聞こえた。

 

「待っていましたよ。クダリ、ノボリ。行ってしまうのですね」

 

 何とかたどり着いた正門の前にはすべてわかっていたようにマザーがいて、穏やかな顔でそう言った。

 

「うん。ぼくが、ノボリを、食べちゃわないように」

「それはそれは。やはりクダリはここの子になるべくして生まれたのでしょうね。それはこの『きょうかい』の終わりの始まり、ということ」

 

 マザーがすばやく門のかんぬきを外した。ギイギイと重い扉が開かれて、外が見える。

 

「行きなさい。同胞を食べようとする人間は破門です。戻ってきてはいけませんよ。振り返ってもいけません。街道をまっすぐ進めば、上手くいけば、途中で子どものあなたたちは保護されるはず。さようなら、私たちのかみさまに最も近づいた子どもたちよ」

 

 あっけに取られていると、ブラザーとシスターが後ろから走ってくる。お医者さんだったブラザーと、毎日ぼくに料理を教えてくれたシスターだった。白いケープには赤い血がたくさんついていたけど、ふたりは痛そうな顔をしていなかった。ううん、ふたりなら。怪我をしていて痛かったとしてもぼくたちの前では笑っていると思う。

 ふたりはそういう人間だった。「きょうかい」のなまぬるいお湯みたいな幸せの中で、間違いなく、愛をくれた人だったから。

 

「さようなら、かわいい私たちの双子ちゃん。さようなら。幸せになりなさい」

「さようなら、私たちを少しだけ、真っ当に戻してくれたかわいい双子ちゃんたち、さようなら」

 

 微笑んだ二人にドン、と押されて。ふらふらとぼくは門から出る。後ろからついてきたお友だちが滑り込んで、そして鉄の扉がバタンと閉まった。

 

「クダリ! 気をしっかり持ちなさい!」

「ノボリ! いちばん大切なものは何かを、しっかり覚えてなさい!」

 

 いつしか背中を押してくれた声は悲鳴に変わる。

 

 振り返るな、と言われたけどぼくは振り返った。

 

 門の下から、赤い血がじわりじわりと乾いた砂を濡らして、そして、しばらくガヤガヤしていた「きょうかい」から小さな悲鳴があがって、それらが大きくなっていて、叫びは笑い声に変わって、そして。

 

 呆然と眺めていたぼくの耳には、なんの音も聞こえなくなった。

 

「かみさま、かみさま、あぁ、かみさま……」

 

 ぼくの背中でノボリがうなされている。痛くて、苦しくて、ひもじくて。でも何もできないから、ノボリはただただ「かみさま」に救いを求めている。もうノボリにはそれくらいしかできないから。

 

「かみさま、たすけて」

「ぼくがたすけるよ」

「かみさま……」

「ノボリ、ぼくがいるから。ね?」

 

 ぼくが、今度こそぼくがやらなくちゃいけないんだ。

 

 「きょうかい」の門に背を向けて、一歩ずつ進んでいく。お友だちが応援してる。頑張ってって言ってくれているみたい。ゆっくり、ゆっくり、マザーに言われた通りまっすぐ進み続けた。はだしの足に砂が食い込んで、誰も助けてくれなくっても。ぼくは前に進み続けて、今度こそ、ノボリは「正しい」人間に助けられることになった。

 

 ……さようなら、シスター。さようなら、ブラザー。

 

 

 イッシュ警察機関は慌ただしかった。■■番道路で保護された幼い少年たちが、頭を悩ませてきた危険組織のことを詳しく知っているのだと言ったからだ。彼らの服装、容姿には強い説得力があり、そうでなくとも彼らは保護されるべき不憫な子どもたちだった。

 

 彼らの保護によって、前々から児童虐待の容疑がかけられていたある夫婦が逮捕され、そこを糸口にその町の人間たちが行ってきた長年の因習が表沙汰になり、正式に取り締まれるようになったのは余談である。

 

「あのね、あのね、あそこにはもう誰もいないと思う」

 

 クダリ、と名乗った痩せっぽちの少年は双子の兄弟のそばから離れようとしなかった。

 危険な宗教団体と長らく認知されていたが、その暴力性と統率された動きによって詳しい調査すらできなかった……自称「神聖■■■■協会」から逃げ出してきたという幼い双子。重度の栄養失調、錯乱状態のふたり、からだに異常な発達を見せる彼らの手持ちポケモンたちは即刻入院となり、双子の片割れがようやく話せる程度に回復されたと見なされたため、事情聴取が始まった。

 

「それはどうしてかな?」

「マザーと、子どもが死んじゃったシスターと、お医者さんだったブラザーがぼくの背中を押してくれたの。幸せになりなさいって。ほかの人は『かみさま』の声が聞こえてたのかな、気づいちゃって、多分もういないと思う」

「気づいちゃった?」

「ブラザーもシスターも人間だってこと。隣にいるのは同胞だけど、人間だって。人間は食べ物だって、みんな、……ぼくも、思ってたから……あのね、でもね、本当は同胞は食べちゃダメなの。仲間が減ったら狩りができないじゃない? ぼくたち別にお腹減ってなかったよ、でもね、毎日『かみさまのこえ』が聞こえるくらい普通じゃなくなってたし、同じものばっかり食べてるとおかしくなっちゃうんでしょ? 『えいようしっちょう』だっけ? だからみんなそうだった。隣にいるのが人間だって思い出したら、もう止まれなかったの。みんな笑って隣のブラザーやシスターに近づいていくのを見たよ」

「……」

「マザーはぼくのことを破門だって言った。ノボリの腕に噛みついて食べちゃったぼくは、同胞を食べようとする人間は破門だって。ぼくの背中を押してくれたシスターとブラザーはきっと食べられちゃったのかな。あのふたりはぼくを逃がそうとして、さよならを言ってくれたよ。ねぇ、あそこに行ったの? みんな死んじゃってた?」

「……クダリくんの言う『マザー』、『シスター』、『ブラザー』と思われる人物は門を背にしていたよ」

「そう」

 

 クダリはノボリの手を取り、あたためるようにそっと包んだ。

 

「あのね、ノボリが目を覚まさなくなったの。その前からすごく体調が悪そうだった。ずっと顔色も悪かったし、支えてなきゃ倒れそうだった。ご飯も食べたくなさそうだった。ノボリは最初からご飯を美味しいなんて思ってなかった。ノボリはね、『きょうかい』で唯一まともだったんだ。

 ぼくは、すぐにおかしくなっちゃったのにね。ノボリはいつも、自分ってものが強いんだよ」

「きみたちはどうやって『信徒』になったんだい?」

「かんたん。門に行ったら開けて貰えるの。『ぼくたちは同胞です』って言えば同胞になれるの。狩りの時も『同胞です』って言えば同胞になれるの。同胞は食べちゃダメだから」

 

 ゆるゆるとノボリの目が開き、クダリはぱっと立ち上がると片割れの顔を覗き込んだ。

 

「ノボリ! おはよう!」

「くだり、おはよう、ございます……」

「体調は? めまいしない? 気持ち悪くない? 痛いところは? ノボリ、ノボリ、なんでも言ってね」

「ふふ、大丈夫ですよ。クダリこそ怪我はないのですか……?」

 

 今日はこれ以上の事情聴取はできそうにない。この回復速度なら近いうちに兄の方からも話が聞けるだろう。

 

 不思議そうに市販されている一般的なポケモンフーズを眺め、おそるおそる齧っているヒトモシとシビシラスももうすぐ退院出来るだろうし、彼らが四肢を失う前に救われたことはとても喜ばしかった。

 

 とはいえ。

 

 重度の栄養失調の後遺症か、はたまた弟に捕食されかけた恐怖のせいか。震える指、怯えた表情を抑え込みつつ、最愛の弟の抱擁を受け入れるノボリは痛々しかったし、食事の度に狂わされた味覚のせいで吐き気を抑え込み、時折フラッシュバックにより強い罪悪感に襲われ、頭を抱えて絶叫するクダリはただただ哀れだった。

 

 それから数日して、彼らは身柄を警察機関から児童保護施設に移された。

 

 そんな彼らと次に出会ったのはオフでのライモンジムだった。数か月の月日が過ぎ、とうに退院した彼らは制服姿ではない非番の警官を見ても気づかないようで、和気あいあいと仲良く話し合っている。

 

「ポケモンバトルを見るのは初めてですね」

「ぼくも!」

 

 見た目は駆け出しのポケモントレーナー。ジムバッジ集めでもしていそうな年齢の双子の少年。季節外れの長袖が目立っていたが、特に暑そうでもなかった。草むらで粘る虫取り少年とは違う、今どきのシティーボーイに見えるだろう。二人が長袖なのは傷跡を隠すためだろうが、おそろいの服を着た彼らは特に気にしていない様子だった。

 

 とはいえ、昨今、一度もポケモンバトルを見たことがない子どもがいるのだろうか。いくらなんでも、彼らは七歳までは親元にいたはずだ。田舎町でもそんなことがあり得るのだろうか? 虐待の容疑で逮捕されていた彼らの両親は一度も家から彼らを出すこともなかったのか? 

 同じような疑問は受付をしていたジムトレーナーも思ったのか、けげんな顔をした。

 

「おや。どうして初めてなんだ、という表情ですね。出身は田舎町でジムもありませんでしたし。わたくし、この歳までテレビは害悪だ、と親に厳しくしつけられてきたのです」

「ノボリがテレビ見れないならぼくも見れない、ね」

「そうでしょうとも、クダリ。本なら沢山読んできましたが」

「いっぱい面白い本のお話、してくれたね」

「タイプ相性や机上の空論ではありますが、いろんな戦法を学んできました。実戦の迫力に気圧されないように気張らせていただきます!」

 

 目をキラキラさせてバトルコートを見回すふたりはそれぞれポケモンボールからヒトモシとシビシラスを繰り出して、一緒に観戦席の方に走って行ってしまった。

 

「児童保護施設の特例証持ちか……」

 

 彼らを見送ったジムトレーナーはつぶやき、マニュアルを確認するためか事務室へ引っ込んでいった。非番であれば特別彼らをどうこうしろということはない。もちろん、勤務の日だとしても彼らを保護している施設が外出を許可しているのなら問題ないだろう。

 

 最前列に陣取って楽しそうにしている二人のリュックサックにはそれぞれライモンシティ・児童保護施設の紋章が書き込まれた「札」がしっかりとかけられており、それはすなわち、ふたりには相当な訳があるという意味だ。監視役の人間はいなかったが、あからさまにジムバッジ集めのできる年齢のふたりが「児童」扱いされているということは、文字通り「特例」であるということ。たいていの地方がそうであるように、子どもたちは十歳になればかなりの権利を認められ、一人旅さえ許可される。だというのに保護観察下にあるという意味はかなり重い。

 

 最近まで新聞やニュースを騒がせていた例の宗教団体の生き残りか、その関係者か。そう察することは簡単だろう。

 

 とはいえライモンシティは多様の街である。他人の事情を察しこそすれ、気づかないふりをしつつそっと見守るのが「いい大人」だろう。

 

 少年たちがジムチャレンジやジムトレーナーたちの模擬戦に歓声を上げながら観戦しているなら、それでいいのだ。

 

 私たち大人にできることはひとしきり観戦し、ボルテージの上がったふたりがフリーバトルコートへ走っていく姿を見送り、その場を後にした。

 

 

「え! 来週にはぼくたち、ふたりでお外行ってもいいの?」

「もちろん。二人とも十歳をこえているんだから、相棒と一緒にジムバッジを集めに行ってもいいんだよ」

「……警察の方は同行しないんですか? 行き先を報告する必要は? 別地方にはもちろん行ってはいけないんですよね?」

「どこに行ってもかまわないさ。誰に報告することもない。君たちがあそこにいたのは不可抗力なんだから、そんな悪い人間のような扱いを受ける必要はないんだよ。今だってライモンシティ内なら自由だし、公共交通機関を使うならどこに行ってもいいんだよ。ただし、なにも言わないなら施設で夕飯を用意しているからね? 要らないなら夕方までには報告してくれないと」

「もちろんです!」

 

 そうは言ってもいきなり遠くに行こうとしたり、あの砂の街に行こうとすればそれとなく監視はつくのはわかっているのですが。わかりきっていたけれども、無邪気に喜んでいるクダリに悪いので黙っておきましょう。クダリは相変わらず「れいはい」を欠かさなかったし、あの白いケープを着ていないことに違和感を持っているようだけども、いいのですか。食事の矯正は根気強いカウンセリングのおかげか成功したようですが。

 

 「かみさま」はわたくしたちを見放してはいません。このようにわたくしたちが助かり、偶然にもすぐに保護され、因習の街からも砂の街からも遠い、自由な街に逃げ出すことが成功したのもすべてわれらの「かみさま」の思し召しなのです。

 わたくしは、悪い子でしたから、本当の信仰が足りなくて「かみさま」の指し示す「食物」がからだに合わなかったのですが。クダリは本当に敬虔な「しんと」でした。きっとそのおかげでしょう。

 

 とはいえ。同族食いは基本的に忌み嫌われるもの。クダリのカウンセリングが成功したことは素直に喜ばしいことです。そもそも「食物」を調達することはもう難しいでしょうしね。

 

 最初は普通の食品がことごとく受け付けなくて真っ青になっていたクダリが、ごく普通のアイスクリームを美味しいといって食べられるまでになったのは、本当に嬉しかったですとも。

 

 あらゆる呪縛から解き放たれたクダリは無意識に周囲に媚びることなく、怯え縮こまることなく、生来の明るさを取り戻していっているのです。

 

「クダリ、今日のところはライモンシティを回りましょう?」

「いいね!」

 

 ジムバッジ集めは就職において自分のポケモンバトルの腕前を客観的に伝える指標になるでしょうから、やったほうがいいのでしょうけど。

 残念ながら、今のわたくしに「将来の夢」は見当たらないのですが。強いて言うならばわたくしたち、長い間何者にもなれないまま足踏みしていたようなものなので、誰かの役に立てるような……そんな、公共性の高い仕事ができたら幸せですね。

 

 わたくしたちは与えられたお揃いの服を着、ポケモンボールを腰に装着し、いっぱしのポケモントレーナーのような顔をして街に飛び出していくことにしたのでした。わたくしたちを保護してくださった公共団体のみなさんはポケモンセンターを無料で使えること、夕食までには戻ること、これからジムバッジを集めに行くのなら教えて欲しいことなどをしっかり言い聞かせてくださいました。

 

 「きょうかい」で過ごした年数がわたくしたちには夢のように曖昧でした。警察には包み隠さずお話ししましたし、両親の素性はおそらく分かっているでしょう。わたくしたちの正確な年齢を知ることは簡単にできそうでした。

 しかし、わたくしたちは互いの存在と名前以外、持って生まれて来なかったということにしたかったので。あくまで十歳は過ぎていると推定される、幼い時に乾いた砂の街に置き去りにされていた孤児ということになっています。

 

「ノボリ、ノボリ、ぼくね、ノボリが教えてくれたいろんなことを目で見てみたいの。本で読んだこと教えてくれたでしょ」

「ええと……立ち並ぶ大きなビルや、いろんなタイプに対応するジムリーダーや、ピカピカの自転車のことですか?」

「それからうんと遠くに行ける電車とか、おっきなフレンドリィショップとか、『きょうだい』が仲良しで歩いてても大丈夫な街のこと! きっとライモンシティには全部あるんでしょう?」

「えぇ、きっと」

 

 クダリは何も知りません。疎まれた昔には外に出されたことなどないので、あの砂の街で「狩り」をする時以外ろくに出歩いたこともないのです。わたくしは、あの因習の街で多少は出かけることが出来ましたから、田舎町の小さな図書館や個人商店、因習の言いなりになっていた役場や役に立ってくれなかった警察の詰所くらいなら見たことがありました。

 クダリは、それも知らないのです。

 

「ノボリといっぱいいろんなものを見るの。答え合わせみたいにね? きっとなにか好きになるもの、見つかる。そしたら、ぼくたちきっと幸せになれるよ」

「しあわせに?」

「ぼくたちポケモントレーナーになれる! シビシラスもヒトモシも同じポケモンを食べるためにバトルするんじゃなくて、ポケモンバトルをしてどんどん強くなっていくっていう生き方ができる! ぼくたちはもう、『きょうかいの人間だ』って指さされることもないし、だから、やりたいことを見つけたらあとは幸せになるだけ! かんたん!」

「クダリったら」

 

 たしかに、今までのどうにもならない一切合切と比べればなりたい職業に就けるようにいろんな努力することはどれだけ楽しく、幸せなことでしょうか。たとえ素性を知られて忌避され、なかなか叶えられなかったとしても、健全な努力ができるということ自体が「しあわせ」と言えるでしょう。

 

「ノボリの好きなものはなあに? やりたいことは? ぼく、ノボリの好きな食べ物も知らないんだって気づいたの。ノボリは家にいたころ、ぼくのことすっごく気遣ってた。だから言わなかった。そうでしょ?」

「いいえ、違いますよ?」

「じゃあなあに?」

「両親にわたくしのパーソナリティを知られたくなかっただけです。どうせ容姿だけでは『ノボリとクダリ』の区別なんて絶対についていなかったのですから。入れ替わりは簡単だったでしょう。そのためだけです」

「それって結局ノボリがぼくの代わりに捨てられようってことじゃないの。ぼくのこと気遣って」

「……ただのエゴです。自分のためですよ」

 

 わたくしはクダリを愛しています。この世の何より、誰よりも、わたくし自身よりずっと。今も、生まれた時から変わらず。ずっとずっと愛しています。

 

 敬虔なあまり、クダリに食べられそうになった時も。栄養失調のせいで朦朧としていたせいで反射的に痛みに怯えてしまいましたが、もしわたくしの精神状態が真っ当なら「かみさま」の声がわたくしを後押ししてくださったでしょうに。クダリが望むなら、クダリが美味しいと思ってくれるなら、わたくし食べられたって良かったのに。

 

「クダリ。クダリこそ、わたくしに引け目なんて持たないでくださいね」

 

 わたくしはクダリを愛した。クダリの感情を考えず、一方的に愛した。「ふたご」の入れ替わりを企てたのも勝手なことだし、すべてすべて自分のやりたいことを押し通しただけだ。クダリの想いを慮ることもない、ひたすらわたくしが独善的なだけだった。

 クダリが今もわたくしの隣にいてくれるのが信じられないほどの幸せだ。だから、もう、クダリがいつか言った「しあわせ」はずっと叶っているのです。クダリが隣にいて、さらにクダリが苦しんでいない。それだけでしあわせなのです。

 

 まあでも。やりたいことがないわけではないのですが。

 「将来の夢」というほどではないですが、一般的な「ふたご」のように以心伝心、考えていることが手を取り合うようにわかる……目を合わせただけである程度の意思疎通ができて、互いのことを無条件に信頼し、信用し、強いきずなに結ばれている……。

 クダリとそんな風になれたら。このような一方的な感情だけではなく。

 

 そうしたら、「しあわせ」過ぎてどうにかなってしまうでしょうね。

 「かみさま」、ああ優しく恐ろしいかみさま。わたくしの願いは叶いますか? 今度はちゃんと、言いつけを守りますから、どうか。このままで。どうか、隣にクダリがいるならそれだけで幸せなのですから。

 

 

「ご迷惑をおかけしました。なにぶん、これまでわたくしたち、真っ当な人間ではなかったものですから」

「どうだろノボリ。言い訳にもならないかもしれない」

「ですねぇ」

 

 仲良さげな双子の少年たち。手を繋いで電車に乗り、車窓からウキウキと駆け巡るトンネルのライトを見送り、ものめずらしげに揺れる吊革を眺め、まったく同じポーズでブレーキなどの揺れを体感し、笑い合っていたらしい。彼らのリュックに括り付けられた「特例証」さえなければありふれた光景だったろう。

 彼らが駅員室に担ぎ込まれたのは揃って電車内で突然失神したからだった。

 

「汽笛、というのですか? あんなに大きな音、初めて聞きました。突然倒れてご迷惑をかけてしまって……ダイヤに乱れがなければ良いのですが」

「バァン! って、電車と電車がすれ違う時の音! すっごくビックリ! あのねあのね、心臓口から飛び出したかも!」

「クダリの心臓が口から出たのならわたくしのものは粉々ですよ! しかし、本当にわたくしたち本物の電車に乗れたのですね! 夢みたいな心地で、一定のリズムで揺れるのは心地よく、本当に惜しいことをしてしまいました……あんなに楽しかったのに」

「ごめんなさい。本当にね、楽しかったの! 初めてでね、楽しかったのに途中で寝ちゃったなんて……」

 

 ガタガタ震えながらぴっとりと片割れにくっついているふたりは、口々にまた乗りたいと笑顔を見せた。

 

「あのね、ぼくたちすごく田舎の街で生まれたの。電車も自転車もなかったんだよ。自転車くらいあってもいいと思うんだけど」

「わたくしたちの目に届かないようにされていたのかもしれません。しかし、電車というものはいいですね! たくさんの人間を乗せ、目的地まで間違いなく送り届ける……特にこのサブウェイは陽の光が届かないところを走っているので、人目につかないところでそのような重要な任務を遂行しているのです。影の功労者といったところでしょうか? 重要なインフラでありながら飾らず、ダイヤの乱れもほとんどないと聞きました! なんて素晴らしいことなんでしょう!」

「ぼくたち、ぼくたちあのね、おっきい音、びっくりして、最初ね、警報かと思ったの」

 

 少し丁寧な口調の片割れも頷く。

 

「なんでもいいから危ない時は大きい音を鳴らしなさい、と教わってきたので。それが『てきしゅう』の合図でした」

「敵襲って……」

「『てきしゅう』? 火事の時とか? そういう危険なとき。実際は見たことなかったけど、訓練はやったよねえ。ノボリとぼくはいつだっていちばん年下だったから、捕まる人をやるの。侵入者に捕まっちゃった役。ふたりともぐるぐる縛られて、袋に入れられるの。子どもってそうやっちゃえば荷物みたいに運びやすいんだって。あのね、怖かったから訓練だけしかやってないのにびっくりしちゃって、びっくりして寝ちゃったら本当に捕まっちゃうよ、って言われてきたのにね」

「昔は実際にあったらしいです」

「全部返り討ちにしたから、ぼくたちがいるとき、本当の『てきしゅう』はなかったんだね」

「きみたち、ちょっとこれ、読みこんでいいかな」

「いいよ。はい、どうぞ」 

 

 「特例証」の裏に刻まれているコードを読み取る。ふたりの連絡先は……特務警察。

 

 危険コード―黒。ノボリ……■■歳。双子の兄。「神聖■■■協会」元構成員。危険度低。要保護観察期間。体調不良の場合は最寄りのポケモンセンターか保護施設に連絡すること。暴走の際は鎮静の上、特務警察に引き渡すこと。手持ち:ヒトモシ。「神聖■■■協会」元構成員。危険度高。要保護観察期間。霊体マイクロチップ取り付け措置実行中。暴走の際は討伐許可済み。

 危険コード―白。クダリ……■■歳。双子の弟。「神聖■■■協会」元構成員。危険度高。要保護観察期間。体調不良の際は保護施設に連絡すること。挙動不審の際は特務警察に連絡すること。暴走の際は討伐許可済み。補足事項:マイクロチップの埋め込み許可の申請はコード黒の暴走の危険のため保留。手持ち:シビシラス。「神聖■■■協会」元構成員。危険度高。要保護観察期間。マイクロチップ取り付け措置実行中。暴走の際は討伐許可済み。

 

 少し前にイッシュ地方を騒がせた大々的なニュース。「きょうかい」の崩壊の朗報と、生き残りがいるらしいといううすぐらい噂、そして目の前の、とても■■歳には見えない幼い双子。到底ジムバッジを集められるような年齢には見えない。せいぜい七つか、八つか……。

 かの「きょうかい」は不老不死と彼らの信じる神との同一化、そしてその先にあるであろう完璧に至ることを夢見て、曲解の末、カニバリズムこそ人間を完璧に至らせる、同種食いこそその生物を高次元に押し上げることなのだと固く信じていたらしい。

 

 当然ながら人間にもポケモンにも健やかに生きる権利があり、マイクロチップの取り付けを本人が望むことなく行うことはない。特にポケモンの場合、モンスターボールやパソコンの電子機構との兼ね合いでかなり高価な技術を使用することになる。それを加味しても彼らの手持ちに処置がなされているということは相当な危険個体だったということ。

 

 だった、だ。

 

 彼らは「特例証」を持ち、あからさまな監視の目をなしにふたりで街を歩き、ふたりの意思で電車に乗った。それを許されているということは保護観察が解けるのも時間の問題である、ということは簡単にわかる。

 

「とりあえず、ここにふたりが体調不良のときの連絡先が載っているから保護施設に連絡するから」

「はい。ぜひお願いいたします」

「ノボリ、なんか痛いところはない?」

「クダリこそ体調がおかしいなら早く言ってくださいまし」

 

 ふたりは幼い容姿の仲の良い双子にしか見えなかった。

 どこからどう見ても守るべき子どもで、恐ろしい食人鬼には見えなかった。

 

 静かに、ぬるりと、彼らは「当たり前」を携えてそこにいた。双子は目立つ。だから平凡とは言えなかったが、そこにいるべき子どもたちとして、静かに認識の中に食い込んできた。

 

 「きょうかい」だ。どんな人間でも薄らと恐怖を感じる存在。一つの街を支配していたという死の気配。外部に情報を漏らしたら最期、聞いた人間を含んですべて腹の中に収まってしまうのだから、彼らの所在は不透明。まことしやかに、確かに、「存在している」とだけ。

 長年イッシュを悩ませた影。その残り火。そのはずなのだ。たとえ彼らが見慣れた子どもの姿をしていたとしても正体は実年齢と明らかにずれ、人形のように整った顔立ちの、神の仕立てた人形のような双子。非現実的な、夢の中のような、曖昧な影が実像を結んでいる。

 

 甘い香りとともに彼らはここに運び込まれてきて、そして心地いい甘い香りとともにそこにいる。

 

 思考がぼんやりとして、彼らの現状を保護施設に伝えることはできたが、それ以上のことはできなかった。それは、優しい手がそっと目を覆い、彼らのすべてを見えないようにさせているかのようだった。

 

「本当はバトルサブウェイに乗りたかったのですが、手持ちの数が足りませんでした。三体まで持ち込み可能なんですよね」

「ポスター、そう書いてた。でも、勝手に手持ちを増やしたら多分迷惑かける。ジムバッジ集め、やっていいよって言われるまではお預けだねノボリ」

「……ああ、バトルサブウェイ? あれはまだ走ってないよ」

「なんと!」

 

 まだ、というよりは走る予定はあれど予定が立ち消え気味というか。ようはいたいけな子どもたちに聞かせられないような汚い大人の事情や、単純に計画にあった「サブウェイマスター」なるボス的な人物を調達できなかったからというか。

 とはいえ、大きな予算も動いていたようだし、ライモン駅には告知ポスターも張ってある。老若男女問わず楽しみにしている人間が多いのはもちろんだったが。

 

「クダリ、クダリ、わたくしたちまだまだビギナーでございますが、バトルサブウェイが走り始めるまで時間があるのならば少しでも強くなる時間があるはずです。わたくしたちの腕前を鍛える絶好のチャンスかもしれませんね!」

「だね!」

 

 無邪気な少年が弟に熱心に話しかけているのを見ると「予定は未定なんだ」なんて言えなかった。莫大な予算が投じられ、線路の工事や車両の開発まで済んでいるというのに、そこから不気味なほどぴたりと計画が止まってしまっているんだから。そういうわけで、曖昧に微笑みながら彼らを見守ることしかできなかった。

 

 甘い香りが警戒心をそぎ落とす。どうみても、ほら、彼らは仲のいい双子。小さな子ども。なにを恐れる必要がある? ないじゃないか。当たり前の考えがわずかに残っていた脳内の警報を覆い隠した。

 

 ようはちょっと訳アリの子どもたちが、子どもらしく新しいバトル施設の完成を楽しみにしているという微笑ましい光景だった、というだけなのだけども。なぜ、保護施設への連絡に使った端末を握ったままにしておいたのか。

 

 いつまでも嗅いでいたいと思ってしまう甘い香り、それは一体どこから? 菓子のような甘い香りならわかるが、そうではない。花のような甘い香り、うっとりするような、甘い香り……おかしい……? いや、おかしくなんて、ないだろう。

 

 思考がぼやけ、繰り返し繰り返し彼らを思う。彼らの託児を一時任されたのだから、それは当然じゃないか。

 

 保護施設の職員が彼らを迎えに来てから、しばらくして。例の「きょうかい」の関係者ならすべからくもっと恐れるべきじゃなかったか、と思い直す。いくら彼らが無力な子どもだったとはいえ、「コード白」の方は討伐許可が下りている人間だ。人間だぞ? それもあんな小さな子どもなのに! 不可抗力だったにしろ、それだけのことをしてきたという意味だ。

 なのに、いざ彼らを目の前にしていると警戒心や恐怖心というものがまともに働かなかった。ただ、「そういうもの」なんだと思って、普通の子どもを相手にしただけのようなもの。それが当たり前のことのように。当然感じるべき、彼らの浮世離れした雰囲気を異様に感じることもなく、ただ当たり前のように流し、ただ彼らにすべきことをしただけだ。

 

 甘い香りはもうなかった。だけど。

 

「ノボリとクダリ、か」

 

 むしろ、あのふたりが完成したバトルサブウェイに来てくれることを願っていた。それは、哀れな人生を歩んできたであろうかわいそうな子どもへ向けた感情というよりは、出所不明の「期待」だった。

 

 鏡のような容姿を持ったあの少年たちはまぶしい希望の光に輝いて見えたし、ただの子どもから感じられないような、なにか惹かれるものがあった。カリスマ、というのかもしれない。手持ちがそれぞれ一体ずつしかいないような駆け出しのポケモントレーナーだというのに、まるで彼らからジムリーダーや四天王、チャンピオンのような雰囲気……いや、まだ、「予感」だろう。そういうものを感じたのだ。

 一段上の人間、というべきか。前提の違う、高次の存在。そう、自分の手には届かないような憧れの存在のような。

 

 彼らのことなんて全然知らないのに。バトルしている姿すら見たこともないのに。もちろん、己が特別目利きの人間ということもなく。ただの、見当違いの期待なのかもしれなかったが、そうとも思えない。

 

 今思えば。それは全く正しい予感だった。終生尊敬する存在に出会ったのは間違いなくこの日なのだから。

 今思えば。それでもボスたちはまだまともにポケモンバトルも知らないただの子どもだった。だというのに感じた期待の正体こそは。

 

 「きょうかい」が残した最期の傑作への畏怖、だったのかもしれない。単純に、凡庸な自分でも感じ取れるような未来への期待だったのかもしれない。

 なんて、こんなものはただの戯言なのだけども。

 

 

 夕日が沈み、薄暗くなっていく中、足早にぼくらの家に帰る。

 ライモンの公営住宅のこじんまりしたお部屋にぼくらは住んでいて、ぼくらは家事を分担して仲良く暮らしていた。この部屋はぼくたちが決められるものじゃなくて、ライモンシティから出るくらい遠出するときは必ず先に報告しなくちゃいけないし、別地方に行くことは今のところ許されていない。

 

 今日のぼくとシビビールは夕飯の買い出し担当。ランプラーはお洗濯やお掃除をやってくれて、ノボリはお料理担当。お昼ご飯の食器を片付けて、夕飯のメニューを考えながらぼくたちを待ってるはず。

 

 あれ、お部屋の電気が消えてる。ぼくたちライブキャスターを持っていないから、急遽必要になった食材を買ってきて、とか言えないし? ぼくを待たずに買いに行っちゃったのかな?

 

 玄関ドアを開けるとランプラーが飛び出してきた。あれ、一緒じゃなかったの? 何か言いたげなランプラーがくるくるぼくやシビビールの周りを旋回し、はやく入ってと促してくる。なになに、ノボリいるってこと?

 

「ノボリ? どこ? ねぇノボリ?」

 

 ガタン、と台所の方から小さな物音がする。部屋は薄暗く、とっくに沈んだ夕日の残滓も残さずに静まり返っている。ノボリとランプラーがいたはずなのに、静まり返った部屋の中は生き物の気配がなく、静かすぎて耳が痛いくらい。

 

 一拍置いて、明るく大きいノボリの声が返ってきた。

 

「はいはい、わたくしはこちらです」

「なんだノボリ、電気もつけずになにしてる、の……」

 

 ぼたぼたと床に液体がこぼれ落ちる音。「きょうかい」の中心部よりもずっとずっとずっとずっと濃い甘い香りがノボリのいる方からぶわりと漂ってくる。

 

「くだり。分担通り、今日のお夕食はわたくしにおまかせくださいね。うまくやるつもりですが、もしかしたら、仕上げをやっていただくかもしれませんがそこはこらえてくださいまし?」

「あ、あぁ、なんで、のぼり」

「きっとくだりはやわらかい肉の方がいいでしょうね。太もものタンパクな方がお好きでしたら次に……明日にでも食べてくださいまし。わたくしはにのうでの方がいいかな、と思ったので。しっかり火をかけてトロトロに仕上げて見せましょう」

 

 暗がりの中でノボリの目が光ってる。ギラギラ、ギラギラ、ぴかぴか、ぴかぴか。炎に反射した刃みたいに光ってる。その手には二人で選んだ真新しい包丁があって、ノボリは微笑もうとして失敗した無表情のまま、自分の左腕を突き刺している……。

 

 ようやく脳みそが状況を理解し、近くにあったタオルを引っつかむとノボリに飛びかかり、右手を押さえ込みつつ地面に引き倒す。凶行をじっくり改める。良かった、そこまで深く刺さってない! 深呼吸して包丁を引き抜くとタオルをぐるりと巻き付け、あっという間に真っ赤に染まっていくのに焦りながらギチギチに腕を縛りあげる。かつてお医者さんだったブラザーが教えてくれた止血方法だ。

 

「なに、なにやってるの! ノボリ、自分を傷つけないで!」

「はて。どうしたのです」

「ノボリを食べようとしちゃったぼくが言えたものじゃないけど、なにやってるの!」

「いえ。当てつけのつもりではないんですよ。ただじゅんすいに、そろそろくだりの『ほごかんさつきかん』もおわることですし、ここいらでおいしい食事でもとって、えいきをやしなってもらい、万全のじょうたいでジムバッジあつめに行ってほしい、という兄心です。わたくしはあいするくだりのおなかの中でいつまでもいっしょですのでごしんぱいなく?」

「そんなことしたらノボリ、死んじゃう! 死んだら終わりなの、もう二度と会えないの、分かる?!」

「しぬのではありません。かみはいいました、『かてとなってくださった全てのしょくもつは、つねにともにある』と。わたくしはくだりの中で生きつづけるのです。なにもさびしいことなどありません」

 

 熱に浮かされたような目を覗き込んでいられない。ぼくまでまた囚われてしまいそうで。

 

 キッチンの横に置いてある椅子にノボリを座らせ、バスタオルを取ってきて腕をつつみ、頭の上に挙げさせる。ノボリは何が悪かったのか分からないって顔をしながらぼくが取り上げた血染めの包丁の方をじっと見ていた。

 

「くだり、今日は肉の気分じゃなかったんですね。気が利かなくてもうしわけございません。たべたくなったらおしえてください?」

「ノボリの馬鹿! ノボリの肉なんて食べたくない! あのね! 今から病院行くからね!」

「おやおや。はんこうきですか? じゃあ、ちゃんとわたくしが自分でやったって言うんですよ。だまっていたら、わからずやの大人たちはくだりのせいにしてしまうんです。大人っていつもそうなんです、この世でいちばんいい子のくだりがわるいこに見えるんです。本当にわるいこなのはわたくしなのに、わたくしのことなんてまるでちゃんと見てないので。ね、ね、くだり。つよくおなりなさい。だれよりも、勝って、勝って、勝ちまくって、その先にお行きなさい? そうしたらおまえを見くびるにんげんなんてどこにもいませんから。わたくしを食べて、わたくしを全てからだにおさめて、本当のすがたをとりもどすのです。わたくしたち、ほら、わたくしがこんなにくだりをすきなのは、きっと元のひとつにもどりたがっているから、なので、ねぇくだり?」

 

 いつの間にか、ノボリは泣いてた。ノボリの表情が凍り付いてしまったせいで、悲しそうな顔を作ることも出来なくて、いつもとおんなじ表情のまま、だらだら、だらだらと涙が流れて、あごからどんどんしずくが落ちていく。

 痛いから泣いているんじゃなかった。ただ、ノボリはひどく悲しんでた。

 

「くだり。わたくしおまえに、しあわせになってほしいだけなのに、どうしておこるんです? わたくし、いとしいおまえとえいえんにいっしょにいたいだけなのに……しあわせになったくだりを、わたくしいちばん近くで見ていたいのに」

 

 ノボリのしたったらずの夢見がちな声が、柔らかく響いて、ぼくはこんなになってしまったノボリに悲しみを覚えたかったのに、どうしてもできずにいた。

 

 ノボリからは変わらずつい惹かれてしまう強烈な甘い匂いがしたし、部屋に足を踏み入れてから涎が湧き出て仕方なくて、そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。

 

 

「くだり、くだり、ねえくだり」

 

 ノボリがそっと肩をゆすってぼくを起こす。ぼく、しっかり起きていたつもりだったのにいつの間にかウトウトしちゃってたらしい。

 目の前には泣きも笑いもしないでぼくをじっと見つめる灰色の目。いっそ、いっぱい泣いてた方がぼくは安心できるのに、静かな目には今日も怒りも苦しみもない。静かな水面みたいな目。鏡みたいにぼくのまんまるの目がそのまんま映っている目だ。

 ひやっと背中に冷たいものが走って、焦りながら急いでノボリの全身を確認する。

 

「ノボリ、ノボリ、まだ、まだなにもしてないよね?」

「はい、なにを?」

「ひとりで火傷したり、腕を切ったりしてない、よね?」

「あぁ……しておりません。さっき目がさめたんです。くだりったら、今夜はずっとおきているっていっていたのに舟をこいでいるんですもの。これはおこさくては、と」

「ありがとうね、ノボリ。まだ暗いから、寝よ?」

「そうですね。くだりも、いっしょにねましょう?」

「ひとりで『かみさま』のところに行こうとしないって約束できるのなら」

「……」

「約束して?」

「『かみさまの声』が聞こえたなら、そうしなくてはなりません」

「もうどこにもノボリが嫌なことをさせようとする『しんと』はいないんだよ。『きょうかい』にいなくてもお腹いっぱい食べられるし、怪我を治してもらえるし、ぼくたち、幸せになったんだよ」

「しあわせ、しあわせ。はい。わたくし、『しあわせ』ですよ」

 

 眠そうに細められた目。白い腕がすっと伸びてきて、ぼくのからだをやわらかく抱きしめる。

 

「くだりが元気です。くだりがけがをしていません。くだりが苦しい思いをしていません。それはなんて『しあわせ』でしょうか。しかも、わたくしはくだりのとなりにいるのです。くだりが『しあわせ』なさまをとなりで見ているのです。これが『しあわせ』でなければなにが『しあわせ』だというのでしょう」

「ぼくもノボリが元気で、怪我をしていなくて、苦しくなくて、隣にいられることが幸せなんだよ」

「あら。ふふふ、わたくしたち、まるですっかり心が通じ合っているみたいですねえ……」

 

 ぼくを優しく抱きしめるノボリの両腕には数えきれないほどの傷跡がある。治りかけのもの、まだ清潔なガーゼを当てている新しいのも、傷と傷に埋もれている古いのも。切った傷、縫われた傷、擦れた傷、打撲、火傷。いろんな種類の怪我の跡がノボリの身体中を覆っている。その中にはきっと、あの砂の街にいたころにつけられたあの暴力のあともあるのだろうけど、そんなものは見つけられないほどささいなものだった。

 無事なところなんて服で隠れない顔ぐらいのもの。初めてノボリが自分の足を切り刻んだ時、泣いてやめてほしいって頼んだ時に「確かに、食べるときに見てくれがいい方がいいですよね」って頷いてくれたからだ。

 そう。ノボリの怪我はほとんど全部、ノボリが自分の手で自分を傷つけたあとなんだから。

 

「くだり、くだり、強くなってくださいね。ひたむきなおまえならすぐにジムバッジを集められるでしょう。なりたいものになるんですよ」

「ノボリこそ一緒に強くなろうね。あのね、この前駅員さんが言ってたバトルサブウェイにはマルチバトルもできる予定らしいんだよ。開業したら一緒に『サブウェイマスター』に挑むんだよ。いっぱい連勝して挑めるとっても強いポケモントレーナーなんだって。マルチトレインだから『サブウェイマスター』もふたりだよ。きっとぼくたちみたいに仲が良くて、ポケモンバトルが大好きで、とびっきり強いひとなんだよ。楽しみだね!」

「楽しみですね。そしてそして、いつかくだりは勝つのです。一度目で勝ってもいいのですけど、なんにせよ、くだりがいちばん強くなるんです。そうしたらくだりは、『しあわせ』になれますから」

「ぼく、ノボリと一緒に一番になりたいよ」

「ふふふ。そうですね。いちばん強くなったくだりを、いちばんさいしょに見とどけなくては」

 

 とりあえずノボリは大丈夫そうだけど、部屋も調べなきゃ。

 ぐるりと見回すと、案の定ベッドサイドに手のひらサイズの石の破片を見つけた。ナイフと言えるほど上等なものじゃないけど、十分ヒトの皮膚を傷つけられるくらいには鋭い。大きくて硬い石を何かに叩きつけて割って作ったもの、だと思う。「きょうかい」でもし頼れる大人の「しんと」がいない状況で狙われた時、基本は逃げるように教わったけどどうしてもどうしてもという時のために切れるものを作れた方がいいからって、実際作ったこともある。

 そういうカンタンな石のやいばはナイフを無くした時に肉を切り分けるのにも便利だって聞いた。

 

 目を離すとすぐにノボリは血を流してる。危ないから包丁やはさみみたいな分かりやすい刃物以外もノボリに持たせられない。だから怪我しそうなものはノボリの手元に届かないようにしてもらっているのだけど、ノボリはするりとかわして新しいサバイバルナイフや携帯用のマッチ、金属製の肉叩きなんかを手に入れてしまう。

 

 ノボリは、ぼくに食べられかけたあの日からすっかりおかしくなってしまった。二度と元に戻らないほど強い衝撃を受けて、そして自分がおかしいことにも気づけなくなってしまった。全部ぼくのせいだ。あんなにまともに周囲を怖がって、真っ当に痛がって、ごく普通にやめてほしいって思ってくれていたのに今はむしろ今は自分の手で自分の皮膚や肉を切り取ってぼくに食べさせようとしてくる。

 本当に、こころから、ぼくを想って。なにがおかしいのかも、もうわからない。ノボリの中にあった当たり前の考えは粉々に砕け散ってしまって、「かみさまのおしえ」をベースにした恐ろしい考えがぐるぐる、ぐるぐる回っている。

 

 「きょうかい」の教えの通り、完璧な生命体に至るため、果ては「かみさま」になるために。人間であれば人間だけを食べることでからだから「けがれ」をなくしていって、完璧な人間になろうとするってこと。ノボリはその究極、最悪の答えを見つけてしまった。「ふたご」の自分をすっかり食べてしまったのならば、ノボリがこの世でいちばん大好きなぼくは完璧な人間を超え、永遠の「しあわせ」になって幸福な人生を送れる……もちろん、物理的にノボリはいない……って信じ切っている。

 ノボリが隣にいてくれて、つらいことも苦しいことも、うれしいことも新しいことも、ワクワクすることもドキドキすることも全部全部一緒にやって、一緒になにもかもを体験して過ごしたいっていう「ぼくの幸せ」を分かってくれるくせに、自分の考えを変えてくれない。 

 

 今のノボリは髪の毛一本残らずぼくに食べられたいって思ってる。ぼくに自分の持っているものを全部あげてしまって、それでも足りずに。痛いことも苦しいことも普通にあるのに、それよりもぼくに「しあわせ」になってほしいから。

 

 させない。絶対にさせない。ぼくのせいでおかしくなってしまったノボリを元に戻して、一緒に未来を見たいの。ぼくらはもう何にも縛られない。親身になって助けてくれるシスターやブラザーはもういないけど、案外世界は優しくて、ちょっとくらいなら手を差し伸べてくれるって知ったから。

 きっとふたりなら、今度こそ。「幸せ」になれるよ、ノボリ。

 

「ああ! いま、たった今、かみさまがおっしゃいました……」

 

 ぼくがノボリの用意した石の破片を勝手に取ったのを見たくせに、なんにも言わないで許したノボリ。ぼんやりとした無表情のまま、うっとりした夢みたいな喋り方をして、ぼくの胸に頭を押し付け、どくんどくんと早くなっていく心臓の音を聞いている。

 

「『汝、その罪を告白なさい』。

 これまでの人生でやってしまった『わるいこと』をすべていいなさいとおおせなのです。わたくしのつみは、わたくしのつみは、ああ、くだり、とてもとても数えきれるものじゃありません。まず、わたくしは産まれる前から『こい』をしていたのです。たがいに、好きなもの同士がおもいをつたえあう『こい』ではなく、一方的で、じぶんのことばかりで、わたくしったら、そう、かってに好きになったくせに、かってにわたくしのすべてをおしつけようとしている。ゆるされる『こい』ではないのに。どのようなかたちでも、みとめられるものではないのに。くだりはわたくしとおなじおとこで、『きょうだい』で、しかも『ふたご』なのですから」

 

 ノボリの手がぼくの手を探り当て、石の破片を取ろうとしたから遠くに投げてしまう。遠くの壁にぶつかって、ガツンと鳴って、それっきり。

 上目遣いのノボリがぼくを見上げている。少しだけ拗ねたみたいな、ぼくをうるんだ目で見ていて、それはなんとなく、つい見とれてしまう不思議な顔をして。

 

「もう。

 あぁかみさま、聞いてくださいまし。このようにかってな『こい』をしたのです。くだりのことなんてひとつも考えていません。だからせめてぜんぶあげようと思ったのです。そうしたら、少しはくだりの中にわたくしのきおくがのこると思ったのです。それなら、むくわれると思ったのです。それもぜんぶ、じぶんかってなかんがえ。わたくしの『つみ』でございます。くだりがほしいといったわけではないのに。もらってよろこぶかどうかさえ、かんがえていないのです」

 

 ふわふわした話し方でお話ししながらノボリはいもしない「かみさま」に許しを求めてる。ちょっと上の方を見て、もちろんそこには何もなくて、それでもノボリは穏やかな表情をしている。

 

 どうして? あの家でぼくが愛されなかったのはノボリのせいじゃない。むしろノボリがいっぱい愛してくれたから今のぼくがいるのに。

 どうして? ぼくは「きょうかい」に染まってしまってノボリに噛みついて、人間の肉を嫌がらずにむしろおいしいと思って食べていた。狂った人間こそがぼくだった。ノボリはまともな精神を保って、毎日吐きそうになりながら生きるために無理やり出されたものを流し込んで、狂ってしまったぼくのことを辛く思ってた。だから目を覚まさなくなってしまった。ノボリはいつだって被害者だ。

 

 どうしてなの、ノボリ。

 

 どうして、きみは、ぼくのことをそんなにまっすぐに愛せるの?

 

「『かみさま』。ぼくもノボリのことが好きです。だからぼくはノボリとずっと一緒にいたい。ぼくもいっぱい『わるいこと』をしてきました。ぼくのせいでたくさんの人間が死にました。ノボリに怪我もさせました。ノボリからなにもかももらってばかりで、ぜんぜんぼくからはなにもあげていません。『ふたご』なのに、こんなに、ぼくはいっぱい『つみ』を持っています」

「くだり?」

 

 ノボリの冷たいからだが小さく感じる。ぼくたちいつでもそっくりな「ふたご」。今も怪我が見えないような服を着たら見分けなんてつかないはず。

 ううん。ノボリは「きょうかい」にいるころから少しだけ痩せちゃった。少しだけぼくより細い腕、少しだけぼくより浮き出たお腹の骨、少しだけ青白いほっぺた。他の人には区別がつかなくても、ぼくには分かるよ。

 

 ねぇノボリ。ノボリの好きな食べ物はなぁに。いっぱい食べて、おんなじになろうよ。

 頼るなら「かみさま」じゃなくてぼくを頼ってよ。ぼくにすがって、ぼくに助けを求めて、せめてぼくの言うとおりにしてくれたなら。

 

 ノボリ。ぼくの片割れ。ぼくの全部。ぼくがこの世で唯一愛する人。

 

「ノボリ! ねえ、ぼくにも『かみさま』の声が聞こえるよ!」

「なんと! それはすばらしいことです! それで、かみさまはなんとおっしゃっているのですか?」

 

 「かみさま」。ねえ「かみさま」。ううん。

 シスター、ブラザー、マザー。狂った世界の中で、ぼくたちを愛してくれた大人たち。

 

 あなたたちが大切にしていた「かみさま」、少しだけ貸してくれる? ノボリのためなの。ノボリのためなら、許してくれるでしょ?

 

「ひとつ、悪いことをしてはいけません」

「ええ、かみさま」

「ひとつ、良い人でありなさい」

「すくわれない人たちにも手をさしのべなくては」

「ひとつ、家族仲良く過ごします」

「くだりとわたくしはなかよしですからね!」

 

 ノボリが目を輝かせてぼくの声を聞いている。すっかりぼくが取り上げた破片のことなんて忘れて。

 そうだ、ノボリが自分の手で自分をぼくに食べさせようとするから怪我するんだ。ぼくが自分でノボリを食べるっていえばノボリはそうさせてくれるはず。ノボリはぼくのことが大好きなんだもの。

 もちろん本当にノボリの白い肌に歯を立てて食い破ってやろうなんて思ってない。ノボリに怪我させたいわけでもない。二度とあんなことするなんてごめんだ。だからあくまで、ノボリを食べちゃう「ふり」だけだ。「かみさまのこえ」で言われたとおりにやっているとか言えばきっと、きっと、分かってくれるはず。

 

 本当に食べないってことが分かってくれるなら。「かみさま」への捧げるものはあくまで「おいのり」で十分だって理解してくれたなら。少しずつ、きっとノボリは良くなっていくはず。そうしたらいつか。いつか、幸せになれるよ。

 何にも怯えないで。ねぇノボリ。ぼく、ノボリの何もかもをもらわなくたって幸せなのに。ノボリの隣で一緒に未来が見える今がもうこんなに幸せなのに。

 

「そうすれば、今日を平穏に過ごせるんだって。『かみさま』の言葉に従えば間違いないよ」

「ええ!」

 

 ノボリはほっぺたをピンク色に染めて、すっかり凍ってしまった微笑みを何とか浮かべようとしていた。ひきつって笑顔を忘れたほっぺた、真っ黒になった目元。細い指がほっぺたを覆って、本当に喜んでる。灰色の目がキラキラ光って、丁寧に磨かれた金属みたいにまぶしい。

 

「ああ、くだりにもかみさまのこえが聞こえました。ああ、これでくだりは『しあわせ』になれます。ああ……」

 

 心底安心したって顔をしていた。そんなノボリのパジャマのボタンを何個か外して、傷まみれの首筋をぺろりと舐める。舌にざらざらと、傷跡ででこぼこになってしまった皮膚が感じられた。

 

「ふふふ、どうぞ、めしあがれ」

 

 こんなに幸せそうなノボリはいつぶりなんだろう。

 ぼくは濡れてしょっぱくなったノボリの首にそっと噛みつくようなフリをした。

 やっぱりうっとりする甘い匂い。ううん、前ほどじゃない。うっすらするような、気がするだけ。それになるべく気づかないふりをして。

 

 全身の力を抜いてぼくのやりたいようにさせてくれるノボリ。目を閉じ、すべてを許して横たわる姿はどんなに傷跡まみれでもこの世でいちばん綺麗なのに、ぼくにはぼやけてちゃんと見えなかった。

 

 

「あーお腹すいた! ぼくたちも休憩入るね!」

「休憩いただきますね」

「お疲れ様です!」

 

 昼過ぎ。というには夕方が近い時間になってマルチトレインから休憩室に帰ってきたぼくたち。今日のバトルについて口々に話し合いながら家から持ってきたレトルト食品を電子レンジに入れ、スイッチを入れた。

 

 休憩室にはまばらに鉄道員のみんながいる。時間で休憩に入るんじゃなくて、相当バトルが長引かない限りはその日の乗車数で休憩に入るからだ。サブウェイマスターのぼくたちはまったくもってその通りには当てはまらないけど、まあ大体そんな感じ。

 

 色違いのコートと制帽、ピッタリの手袋を外し、ノボリはぼくの腰からポケモンボールを全部持って行ってしまうと隣の部屋に自分の手持ちともども繰り出した。人間の休憩室の隣がポケモン用の休憩室兼ポケモン用の食堂だ。エプロンをした大きな社食勤務のラッキーやハピナスがおなかをすかせたみんなを見て、笑顔でご飯を用意してくれる。

 

「さて。わたくしたちもいただきましょうかね」

 

 レンジで温めるだけで食べられる食べ物って近頃は増えてきた。ノボリは最近のお気に入りらしいメーカーのパッケージを破る。その手には近くで見ればうっすらとした傷跡があるけど、新しいものはない。幸い、力のないノボリは自分に本当の意味で大怪我をさせることができなかったから幼少期のおびただしい傷跡は時間とともにどんどん薄くなっていく。

 「手なんて骨と筋ばっかりで、あんまり食べるところがないですね」って言ってたからあんまり狙われなかったということでもあるだろうけど。

 

 ノボリの傷跡を見ていると昔のことを思い出す。

 

 ライモンシティの児童保護施設に保護されたぼくたちの「保護観察期間」が終わり、ノボリの悪癖が収まってきたころにジムバッジを集めに旅立ったんだっけ。本当に毎日が素晴らしい変化であふれていて、目が回るほど忙しくて、でもすべてのしがらみから解放されて清々しくて楽しかったな。今の手持ちたちのほとんどとも旅の途中で出会ったんだもの。

 

「ボスたちは今日もレトルトですか?」

「これがいちばん簡単。早いし、いろいろ考えなくていい」

「クダリは料理が大変得意なのですが、朝は忙しいですからね」

「白ボスの方が料理が得意なんですね。なんだか意外です」

「そうですか? わたくしはできなくもないのですが、あまり料理をしたことがなくて自信がありません」

「へぇ、そっちの方こそ意外です! なんだかボスたちって何でもできそうなイメージがあって……」

「それは買い被りですねえ」

「ちょっとキミ! こっちに来なさい! 黒ボス、白ボス、お手を煩わせてすみませんでした。よく言っておきますので」

「あれセンパイ? はい。すみませんボス。ちょっと失礼します」

「はい? いってらっしゃいまし?」

 

 別の鉄道員がやってきておしゃべりな新人を休憩室から連れ出していく。きっとかわいそうに、あの子は先輩から長いお説教を受けてしまうんだろう。ノボリは無自覚だけど、ぼくたち、どうしてかとっても人に好かれやすいらしい。なんだかノボリ以外の人間の目は話していたり、そばで一緒に仕事しているうちにぽーっとしてきちゃって、いけないね。

 ……ぼくにはその現象に覚えがあるけど。「きょうかい」に初めて足を踏み入れたあの日に嗅いだ甘い香りだ。恐怖と傷の痛み、ぼくを守らなければならないという極度の緊張感の中でもノボリが楽しそうにくふくふ笑うことしか出来なくなっていたあの感覚。きっと、それに類するもの。

 

 「みそぎ」なんて本当の意味ではできないの。「きょうかい」の残り香は一生ぼくたちを付き纏うんだ。わかってる。でもだからって諦めることなんてできない。ぼくたち幸せになるんだから。平和で、平凡で、穏やかな幸せ。愛する人が隣にいて、ぴったりくっついて、笑い合うだけでいいの。

 

 だから。これからはぼく、料理することないだろうけど。ぼくたち、大きくなって結構からだが丈夫になったから、なかなか体調を崩すこともないし、風邪もひかないけど仮におかゆしか受け付けないって状況になっても市販のおかゆやオートミールのパックを買い込むだけだろうし。

 

「最近はレトルト食品も充実しており、栄養バランスも悲観するほどではありませんが、クダリは細すぎます。もっとしっかり食べなくてはなりません。今日の夕食はステーキかハンバーグでもいかがですか?」

「体重、体格、食べてるもの、みーんなぼくたち同じ。ぼくが食べる必要があるならノボリもある。ノボリも食べた方がいいよ」

「む。それはそうかもしれませんが、それでは本末転倒ではないでしょうか?」

「そうかな? 一緒にスーパーでお肉選んだらいいんだよ」

「……」

「ノボリといっしょにご飯食べるの。今日も、明日も、ずっと」

 

 ノボリは握りしめていたペーパーナイフからそっと手を離し、プラスチックスプーンを握って昼食に手を付け始めた。分かってくれたようでなにより。ノボリはぼくに食べさせたいんであって、ぼくを食べちゃいたいわけじゃないもんね?

 

 デスクの上に乗せてある「捧げもの」の小さなガラス玉をじっと眺めながら、ノボリはぼく以外に聞こえない声量で呟いた。

 

「まったく。クダリったらさびしがりやなんですから」

「うん」

「しょうがないですね」

 

 「しょうがない」で引き下がってくれるようになるまでぼく結構頑張ったんだ。ぼくやシャンデラがちょっと目を離したスキに両腕をコンロで炙ってるノボリを発見して大騒ぎすることももうないし、今のぼくらの家にはペーパーナイフもはさみもあるけど、どれも壊れてない。今でもノボリは信仰の虜だけど、何の相談もなしに自殺まがいの生贄になりにいったりしない。

 

 それもこれも、ノボリの中にあるぼくへの恋心を全力で利用したからだ。卑怯なのかもしれないけど。

 

 ぼくのために生きてくれって言い続けたの。ぼくの幸せはなんだと思う? って。繰り返し、繰り返し、何度でも、うんざりしちゃうくらいぼくは繰り返したのさ。この世の何より愛してるよって、ぼく完璧になんてならなくていい、このままで大丈夫だよって、だからどうかぼくをひとりにしないでって懇願したの。

 

 あっためたばかりのレトルトをスプーンですくいあげる。きっとそのメーカーのマニュアル通りに調理された均一の味を咀嚼する。どれだけ調理工程に人間の手作業が含まれているのか知らないけど、人間らしいちょっとした曖昧さや感情が介在していない、無地の食事。なにも考えなくていいからこっちの方がいい。十分美味しいし、万が一の危険がないんだもの。

 

 いまだに夢見る強烈な甘い香り。ぼくに怯え、泣きわめくノボリから無理やり肉を食いちぎったあの感覚。口に広がった濃厚な旨味。しっかり噛んだ肉の味が忘れられない。でもね、それらは全部、全部、最悪の悪夢なんだ。

 

 いまだにノボリは赦すだろう。ノボリを食べさせてって言ったら絶対に喜んで自らまな板の上に横たわってぼくの手に包丁を握らせて。髪の毛一本、爪のかけらも残すんじゃないですよって言って、幸せそうに笑って目を閉じる。きっとぼくは胸の高鳴りを抑えられないまま、包丁を高々と掲げて深々刺し、ノボリを「食材」に変えてしまう。

 この世でいちばん愛おしい君を、この手で物言わぬ「食材」に変えてしまって、至高の食事のそのあとで、きっと孤独に耐えかね、罪悪感と寂しさの中キミの影を追う。

 

 なにも生産的じゃないさ。一時の欲望のために愛を食いつぶすなんて、なんて無駄なことなんだい。ノボリはいまだにわかってくれない。ぼくたち仲良しだけど、心は重ならない。

 

「ずっとぼくたち一緒。二両編成のまま、高みを目指すの」

 

 小さく口の中でつぶやいた言葉は咀嚼と一緒くたになって、ノボリにさえ届かないで。

 むしゃむしゃ、ごっくん。

 ごちそうさまでした。

 

 

「ノボリ、ねぇ、寝ちゃったの?」

「いーえー……」

「えへへ、眠そう」

 

 大きなサイズのベッドはぼくたちが一緒に寝るからだ。おそろいのパジャマを着て、シャワーも浴びて、あとは寝るだけって時間にノボリとゴロゴロするのが好きだった。小さい頃はいつ両親がノボリを探しに来るのか分からないからびくびくして、ぜんぜん寛げなかったし、ノボリはぼくの前でもこんなにスキまみれの姿を見せてはくれなかったから。

 

 ノボリは横になってるぼくのお腹に頭を乗せ、耳を当てて音を聞いてる。ぼくはさらさらしたノボリの髪の毛をゆっくりと撫でながら、ぼーっと隣の部屋の物音を聞いていた。

 

 隣の部屋はポケモンたちの部屋だ。そろそろ寝ると思うけど、なんだかまだ物音がするからお話でも盛り上がってるのかもしれない。そうであってほしい。朝起きたら手持ちが一匹減ってるとか仕事に差し障るからやめてほしいんだけど、いまだにたまにあるから困るんだけどね。そうなってもいいように同じポケモンの型違いをたくさん用意しているんだけど。

 建前上は何度も挑んでくれるお客様に飽きを感じさせないためであり、簡単に「サブウェイマスター」を攻略させないため。

 

 シャンデラもシビルドンもぼくたちがジムバッジ集めの旅をしていたころからの付き合いの手持ちたちには今のところ手を出してないからいいんだけどさ、ノボリやぼくの努力を少しは見習ってくれていもいいんじゃない? 付き合いが浅いとどうしても同じ生き物に見えないのは仕方ないと思うんだけどさ。

 やっぱり「加工」してないと喋るし、動くし、痛がるし、食べるならポケモンフーズやスーパーで買ってきた食材の方が楽で便利だと思うんだけどな。思うだけ。美味しそうには見えちゃうもんね。

 

 部屋、分けてもいいけど、分けても結局同じだもんなあ。

 いっそ、シャンデラとシビルドンの型違いを用意するの、やめる? 他のポケモンには用意しているのに? うーん。まあいっか。

 

「ふふふ。クダリのお腹、ぐるぐるきゅるきゅるいってますね」

「晩御飯食べてからけっこう時間たつもん」

「うふふ。夜食はいかがですか?」

「健康に悪いよ」

「だから美味しいのですよ」

「言えてる」

 

 ノボリの口調は穏やかで、あくまで軽い気持ちで言っているんだって分かる。分かるようになった。それがたまらなく嬉しくて、そうやって甘えてくれるのがたまらなく可愛い。食べちゃいたいくらい可愛い。本当だよ、ずっとそうだもの。

 

「クダリの口の中でしっかりかき混ぜられて……」

 

 ノボリの指がぼくの唇を撫でる。しばらく感触で遊んだ後、さっき磨いたばかりの歯をなぞり、舌に触れる。しなやかで長い、甘く魅惑のキャンデーがぼくの口の中で存在を主張する。

 

「このしっかりした歯でゆっくりと粉々にしてもらって……」

 

 ぐっぐっと歯を一本ずつ確かめていく。

 

「さいごには力強く飲み込まれる……」

 

 甘い。甘い。甘い。唾液が止まらなくて、慌ててノボリの指を吐き出した。

 

「おや」

 

 ノボリがそんなこと言うから! 分かってて言ってるんだもの、タチが悪いよ。

 

「うふふふふふ。冗談ですよ」

 

 知ってる。ぼく分かるもの。分かるようになったんだ。そっとべたべたになったノボリの手をぼくの胸元に押し当てて、ぼくの心臓がどれだけドキドキうるさく言っているのかを教えてやると、そのうちノボリは幸せそうな顔をしてすっかり眠ってしまった。

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