すっかり脱力した身体、しとげなく伏せた目、それだけ見たらリラックスしてるみたいで皮肉だね。
「何か困ったことはない?」
ぼくはことあるごとにそう聞くことにしている。もしなにかあるならぼくだけの王さまのお願い、叶えてあげたいじゃない。
もちろん理由はそれだけじゃないけれど。
ぼくをしばらく眺めて考えた末、君は静かに口を開いた。
「今日くらいはゆっくり寝かせてくださいまし」
……ごめんね?
ダイニングテーブルに並べられた二人分の朝食。栄養バランスの考えられた彩り鮮やかな食事。目の前に並べられた二種類のメニュー。品目も多く、盛りつけさえ一切のそつがありません。
白いカーテンが窓から吹き込んだ爽やかな風に揺れ、優しく頬を撫でていく。鼻をくすぐる空腹を誘うはずの香り、そして作り手の弾ける笑顔がそこにあって、美しく磨き上げられた銀色に輝くカトラリーがクダリの前に一列に並んでいました。
まさしく、世界中の人々が普遍的に理想的な幸福に思う朝食の風景を、わたくしはただただしつらえられた「玉座」でふんぞり返って見ているのでした。食器を出す手伝いもせず、パンひとつ切ることなく、食事のために用いられたフライパンの始末をつけることもありません。
そのうえ、仕上げとばかりにクダリは当たり前のように座ったままのわたくしの前に丁寧に剥いて刻んだモモンを置きました。今日は艶やかな果汁滴る食後のデザートまで完璧というわけです。今時ホテルの朝食でさえもここまで至れり尽くせりではないでしょうね。
あたかもわたくしは玉座に座った王さまのようです。
「今日はね、パンにしてみたんだ」
「とても、おいしそうですね」
かけた言葉は無機質になっていないだろうか。朝からこんな面倒な家事を一手に担い、毎日毎日素晴らしく綺麗な食事をこしらえてくれたクダリを労うような口調になっているだろうか。
「そうでしょ? 喜んでくれたら嬉しいな! じゃあ、いただきます」
わたくしより先に手を伸ばし、大きな口ががぶりがぶりとトーストに噛り付くのを尻目にスプーンですくいあげた「食事」を見て、覚悟を決め、ちっともいうことを聞かない震える指を抑え込む。
……きっと望めば、わたくしはあたかも何不自由のない傍若無人な王さまのように、食べさせてもらうことさえ叶うのでしょうが。スプーンを握る手に、わずかに力が加わり。わたくしは黙って食事を開始しました。
口に広がる少し甘味を感じる優しい味や噛むまでもなく口に入った瞬間にふわりと溶けるほどのやわらかな舌触りは間違いなくクダリの愛情によるものでした。
「ノボリ、おいしい?」
「……えぇ」
幼児が使うようなシリコン製のスプーンさえ鉛のように重く感じ、どうにも鈍い指がこらえきれずについ落としそうになるのを何とか堪えました。目の前でハムやジャム、チーズなどを乗せて焼いた分厚いトーストを三枚、具沢山のスープ、山盛りのサラダ、ジョッキに注いだコーヒーを平らげたクダリがニコニコとわたくしの食事を眺めはじめてから既にかなり経っていました。
正直なところ、半分も食べないうちに満腹で、せっかく手間暇かけて用意していただいた食事を残すのが忍びないがために無理やり口に押し込んでいる状況でした。昔より随分小さくなった胃がはち切れんばかりに膨らみ、腹部に強烈な苦痛を感じながらようやく最後の一口を咀嚼し、気力でなんとか飲み下しました。
……今日はこれ以上ものを食べたくない気持ちですね。
「……ごちそうさまでした」
「うん、おそまつさまでした!」
見届けニコッと明るく笑ったクダリは素早く皿を集めるとさっさとシンクの片付けを始めたようでした。羽根が生えているように軽やかな足が動き、衰えを知らないたくましい腕がふたり分の食器を軽々と運び、まっすぐぴんと伸びた背がきびきびと動きます。シンクから水の音がたち始めてからクダリに気づかれないよう小さくため息をこぼしました。
どうか気づかれないように、とは願いつつもせいぜい座ったまま少しうつむくくらいしかわたくしには出来やしないので、実のところ気づかれているのかもしれなかったですが。
顔を見せないよう後ろを向くこと、いたたまれずに部屋から出ていくこと。そして立ち上がってクダリの手伝いをすること、分担すべき家事をやること。それ以前に自分の面倒を見ること。それらすべてが今のわたくしにとっては不可能なことでした。わたくしはただ身体の力を抜いて座っていることしかできません。
大きな玉座に座っているかのようにその場でふんぞり返り、ただ勤勉に働くクダリの姿を見ていることしかできないのです。
……玉座、とは言いましても。これは罪人のように重い鎖で縛りつけられているような、聖なる杭で縫い留められているような皮肉なものでしかありませんが。ええ、見た目だけ、ほんの少し似ているだけです。
そう、わたくしが座っているのはただの椅子ではありません。背中はもちろん、頭までしっかりと支える頑丈な車椅子に乗せられているのでした。介助者がベッドや車いすに要介護者を乗せる際、うっかり手や足を引っ掛けたりしないようにはね上げ式になっている肘掛け、簡単に取り外せる足置きが実装されたもの。
街中で見かけることは少ないかなり大掛かりなタイプで、勝手に車椅子の内に曲がってしまう弱り切ったふくらはぎを支え、足置きの台の上に乗せたままに出来るように据え付けられた二対のプレートがあり、頭の後ろにはマジックテープで高さ調整のできる備え付けの枕も完備されたもので、ただでさえかなりかさばるタイプなのにわたくしのような背丈がある男の思うように力の入らない身体を余すことなく支えるため、通常よりかなり大型で頑丈らしいのです。
頭までしっかりホールドするひじ掛けのついた車椅子。それはわたくしが自分の世話さえできない証明でした。身の回りの世話をすべてをやってもらわねばならないという烙印。ええ、まさしく「玉座」でしょう? かつてサブウェイマスターの執務室に置いてあった革製のひじ掛け付きの回転椅子よりよほど大型でかさばる車椅子にわたくしはただこの身を預けるしかないのです。自棄になって床に降りることさえ不可能なのですから。
これほどまでに自分の高身長を恨んだことはないでしょう。クダリとそっくり同じはずの肉体スペックが邪魔に思える日が来るなんて! もし自分がもう少し小柄なら……そう思わない瞬間はないのでした。
「こんなもの」を一日に何度もリビングや寝室を行き来させるためにクダリは家をバリアフリーにリフォームする必要があったほどなのです。とはいえ、わたくしがいくら車椅子を邪魔に思おうとも最早杖で歩くことさえ出来ません。ひざ掛けに隠された足はもはや何も言うことを聞かず、両手こそ動くものの重いものなど到底持てそうにないほど萎え衰えて。
自力で歩く? そんなことは未来永劫不可能でしょう。相変わらず健常な肉体を持ち、年相応かそれ以上に力強いクダリならすっかり細く軽くなったわたくしの両脇を抱えて軽々持ち上げ、歩かせるフリくらいならできましょうが。車椅子を自分で漕いで動くことさえ困難な体たらくのため、車椅子のタイヤを動かすための持ち手などの機構はなく、完全に介護者が後ろから押すことで前に進む構造になっています。
それもこれも原因は明白。あれは事故。ええ、きっと、自業自得な、不慮の事故でした。せめてそう思い込むことしかできやしません。あれからもう三年が経とうとしているのですね。すっかり細くなった腕を反対の手でゆっくりと擦り上げながら、まめまめしく働くクダリの背中を気力なくぼんやりと眺めるのでした。
わたくしは、もはやクダリの手によって余生を過ごす老人のように面倒を見られ、身のまわりの一切合切に世話を焼かれなければ生きていけないのです。わたくしのことはどうでもよろしい。すなわち、愛しく可愛い最愛の弟の一生を縛り付けているようなもの。それは呪いでした。
自業自得なら良いのです。クダリにさえ迷惑をかけず、ひとり朽ち果てるだけならどれだけ良かったでしょうか。
クダリは常々、わたくしになにも気にする必要は無い、もし反対の立場だったとしたらまったく同じようにしたはずだと繰り返し言いますが、だとしても、だから一体、なんだというのか。
あぁ。
再度のため息が口からこぼれたのを、クダリが気づいていなければいいのですが。
◇
これまでの人生でバトルの最中に怪我をしたことは一度や二度ではありません。うっかり熱中したあまりわざを避け損ね、そのまま病院送りになったことはわたくしたち双子にとって珍しいことでもありませんし、結構な大怪我を負ったこともあります。そんな怪我をしてしまった片割れのことはもちろん心配ですが、それはそれとしてわたくしたちのこの性分を変えることはまったくもって出来ない相談です。
特に、二ヶ月前も利き腕を無惨にへし折ったクダリにだけは怪我の説教をされる筋合いはありません。
死ななければどうとでもなります。怪我なんてものは早めに病院に行き、そこで正しい処置を受け、骨の位置などが正しいことを確認してからポケモン用の急速回復薬を飲めば簡単に治ります。町から外れた場所で行き倒れたり骨や筋が滅茶苦茶な状態で薬を使ったりなどの無茶をしなければ問題ありません。
まぁ。人間がポケモン用の回復薬、それも効果が強い急速回復薬を使用するのは「まったくもっていいことではない」と言われていますが。単純に効果が強すぎるのです。効きすぎて逆に体調が悪くなってくることがあるほど。それでも使えば瞬く間に砕けた骨がくっつき、ちぎれた肉が一瞬で繋がるのですから使わない手はないでしょう。
とはいえかかりつけの医者にバレるのはよろしくありませんので即日使用するわけにはいかないのが歯痒いところですが。別に……一応、ポケモンの回復薬を自分の身体に使うことは法を犯しているわけでもなく、これまできちんと効いてきたのにやんわりと暗黙の了解をもって非推奨とされているのです。
なんと表現すればいいのでしょうね。便宜上違法ではないけれど、決して歓迎されるべきことではない。「だいばくはつ」の連打でバトルサブウェイを周回するような輩は敬遠され、人からもらった高レベルのポケモンでジムバッジを集めることは懐疑の目で見られ、近親相姦の同性愛は一般的に忌避される……はさすがに一緒くたに出来る倫理観ではありませんが。
閑話休題。ええ、その常軌を逸した強すぎる効果というものが問題で、本来人が持ち合わせている自然治癒能力を酷使した結果、かえって身体の虚弱性を招いたり、急速回復薬なしでは傷が癒えにくくなったりと明確なデメリットがあるのは存じ上げておりますが。
あくまで自己の治癒能力の前借り、というわけです。ええ、存じ上げておりますとも、それでも。それでもです。そこに方法があるなら、決して止まることなどできないではありませんか。
だから。存分にバトルするためにはわたくしたちは良くないとわかっていてもこの方法を手放すことは出来なかったのです。怪我は避けましたとも、できうる限りは。使わないで済むなら使いませんとも。ええ、わたくしたちが止まらないで済むならば。
目を覚ませばまばゆいばかりに清潔な白が周囲を取り囲んでおり、クダリがわたくしの手を両手で掴んでいました。わたくしが目を開けたのに気付くと、クダリは何か言いかけ、口を閉じ、しばらくしてようやく言葉を絞り出しました。
言わんとすることはわかります。言わなくても伝わっていることも承知の上でしょう。それでもなお、クダリは言っておくべきだと判断したのです。
「あのね、ノボリ……」
「くだり」
でも、言われる前から分かっていたので。わたくしは「わざわざ言う必要はない」と咎めましたがクダリは取り合いませんでした。
「もういいかげんにして、死んじゃうよ……」
「しななかったではありませんか」
「それは、そうだけど」
「わたくしたち、どうしようもないのです。かわれません。ごぞんじでしょう?」
「……うん」
「くだりならとまるのですか」
「……ううん」
あぁこれはきっと手酷く両足を負傷した、と無感動に自分の身体を観察しながらトレードマークの笑顔を引っ込めて縋り付いたクダリの頭をゆっくり撫でてやったのを覚えています。その瞬間は麻酔がきいていて痛みはなく、意識がない間に無事に手術は成功した、と言われたのを覚えています。
そう、それは久しくなかった結構な大怪我だったようでした。今から思えばまるでどうでもいいことではありましたが。
しばらく入院した後退院し、すぐに傷を癒せば気づかれてしまうので大人しく自宅でひとりリハビリをしながら。またギアステーションを己のミスで開けてしまったことを様々な方面に詫びなければと考えていた頃。シフト通りクダリが出勤してひとりきりの家の中、いつも通りに痛みをこらえて松葉杖を掴み、そろそろ薬を使うべきかと考えながら立ち上がろうとして……わたくしは突然立てなくなりました。
両の足の力がまったく入らず、手の力もみるみる抜けていく。自分の身体の異変を感じる前に杖を巻き込んで派手に倒れ、意識を失ったわたくしが発見されたのはそれからゆうに六時間はあったでしょう。帰宅して倒れ伏していたわたくしを発見したクダリはさぞや肝を冷やしたことでしょうね。
それで。
わたくしはそれまでです。それだけ、それだけのこと。
そのような命を削る方法で目指すべき目的地に着けましたか、それで満足なのですか、それしきのことで諦めるなど愚かなことではありませんか。
脳裏にいろんな言葉がよぎりました。方法を探してもみました。とはいえ、とはいえ。それまでだったので。
脱線事故が起きたならまた線路に乗り上げればいいではありませんか、何事も失敗はつきものです、諦めるなんてあってはならないこと。
ポジティブな言葉はいくらでもあるでしょうね。
仮に。自分で立てなくとも、力が入らずとも、試行錯誤すればやれることはあるのでしょうが。
わたくしはストンと腑に落ちてしまったのです。ここまでだ、と。ああ、これで、おしまいなのだと。
実際、試行錯誤とやらでどうにかなる範疇は超えていました。倒れてすぐは指の力さえまともに入らず、頭までぼんやりとして助け起こしてくれたクダリの顔さえしばらく認識できなかったほどです。
病院に逆戻りし、わたくしは無感動に無機質な白い天井を眺めました。ぶら下がってる点滴の袋が邪魔に思えましたが、しばらくするとクダリが見舞いにやってきて枕元に座ったのでやがてすべてどうでもよくなりました。
「じごうじとくです」
「ノボリ、自棄になってる?」
「いいえ。そもそも、しょうちは、していました」
「うん」
クダリとの間に言葉は本来要りません。でもこの時ばかりは口に出してひとつひとつ確認したい気分でした。
「ただ、おもっていたよりずっとはやかったな、と」
「お医者さんにすっごい怒られてたね」
「おこったって、しかたがないでしょう? もう、」
「うん」
「えぇ。わるいのはわたくし」
すっかり諦めてしまった片割れを見てクダリは失望したでしょう。それでもなお生き残ってしまったことを残念に思っているでしょう。それならいっそ、すっぱりと息絶えてしまえればよかったのに。いいえ、想定通りクダリと同時に倒れ、完璧なタイミングで助かる間もなく朽ち果てられるように調節できなかった未熟さ、見通しの甘さに苛立ちを感じているでしょう。
「珍しいねノボリ。見誤るなんて」
「そうですね」
「ぼくたちどうしようもなくって、変われないけど」
「そうですね。それでいつですか?」
「君のお葬式のこと?」
「そうです」
「それだけどねノボリ。ぼくたちおそろいだけど今日からおそろいじゃなくなったから、きっと考えてることも違うと思うな」
「そうですか」
「もう。ノボリったら話、ちゃんと聞いて?」
「それは、もうしわけ、」
「これから謝るの禁止ね。ノボリ、なにも悪くないもの」
クダリは来る日も来る日も病院に通い……サブウェイマスターが一人欠け、増えた仕事だけではなく自身も引継ぎ業務にも忙しいというのにただの一日たりとも欠かさずに……わたくしにいろいろと言って聞かせました。
「何か困ったことはない?」
「あのねノボリなら他に新しい目的地を見つけられるよ」
「どうなっても君はぼくの憧れ。ぼくのライバル、ぼくの大事な人。あのね、憧れだった、ライバルだった、じゃないよ」
「いきなりのことだった。少しびっくりしちゃったんだよね。でもぼくがいるよ」
「お家に帰ったらびっくりすると思うな。楽しみにしておいてね」
「ノボリ。あのねあのね、大好き」
「今日は何を考えてたの? ぼく、混ぜて欲しい。一緒がいい」
「食べたいものはなあに? 退院祝い、ぼく作るから!」
「今年のポケモンリーグのバトルレコード置いとくね。いっぱい分析するでしょ?」
「あれ、観ないの? 今日は考察の気分? 違うの?」
「ねえ、笑ってよ、ノボリ」
「ぼく、なんでもするから、ねえノボリ」
クダリは優しかったし、何一つ責めもしなかったし、ひたすらわたくしを気遣い変わらず愛してくれていましたが。一方でクダリの考えていることがまったく分からない。そんなことは初めてでした。
なにせクダリはわたくしを家に帰し、そのまま自分で面倒を見る気でした。そのために己がこれまで築き上げてきた一切合切をなげうつことに何の躊躇もなかったのです。
理屈としてはわかります。かけがえのない、唯一の家族であり愛しい人。身体が多少不自由になったくらいで見捨てられるものですか。しかし、それは本人の生きる意志があっての話。
同じ状況でクダリの心から折れない闘志を感じれば同じようにしたでしょう。至極あっさりとサブウェイマスターを辞し、勝負に明け暮れる日々を取り上げられた大半の手持ちたちに誠実な里親を探しだし、我が家を大幅にリフォームし、人より大柄でこれからどうなっていくかもわからない片割れの一生の面倒を見る覚悟を決めて引き取る。
それでも、ええ、寸分たがわず同じようにやったでしょうね。
ですが、そもそも前提が違います。それは肉体がどうなっていようともあくまでその心が生きていたら、という話です。わたくしはぽっきりすっかり心が折れ、眼前に広がっているのは一寸先も見通せない暗闇で、誰かの助けさえなければ当たり前に押し寄せる「死」……それは衰弱死、あるいは餓死となるでしょう……をなすすべもなく、足掻くつもりもなくすっかり受け入れる気でした。当たり前の自然淘汰であり、自業自得で誰に同情されるべきでもないものですから。
そのような崇高な愛情、なにくれとしてやろうという献身は果たしてなにもかも諦めきった生ける屍にしてやるべきことでしょうか?
とはいえ、こんな腐りきった心中を語って、差し伸べられた手を払いのける元気さえわたくしにはありませんし、クダリがやりたいことをわざわざ阻む必要なんてあるでしょうか。少しばかり重なっていた心がずれ、死んでいるも同然の双子の兄を養ってやることで死別を回避し、ただあの子の心の慰めとなるなら……受け入れるくらいはするべきです。
「あのね、退院の日、決まったよ!」
数か月後。やはり忙しいのか目元に色濃く隈をつけたクダリが朝一番にやってきて言ってのけました。少しやせたのか私服のコートがだぶついて見えましたがもっと痩せたわたくしに比べれば誤差みたいなものですし、健康的な生活に戻ればあっという間に戻る程度のもの。
わたくしに残った少しばかりの兄心と言いますか、愛情の残滓は見るからに痩せて疲れ果てたクダリを心配していましたが、もはやそれを表に出したり口に出そうという気にはなれませんでした。これまでのわたくしたちならば言うまでもなく理解しているはずですが、ここのところまったく重ならない心、久しく同調しないあれこれ、そしてぱったりと歩みを止めたわたくし……悪条件がここまで揃った今では言葉にせずとも伝わっているなどと自惚れる気にはなれませんが。
ほんの気持ちばかり回復したわたくしは人の手を借りずとも自分で食事くらいは摂れる程度になっていましたが、一体それがなんだというのか。人の倍以上時間をかけて特別にやわらかく調理、加工された食事が摂れるというだけで健常な人間と同じものは到底受け付けないでしょうし、どうやって口に運べばいいのか見当もつきません。
まあでも、今更それを悲観することもありません。これはどこまでも自業自得なので考えたって仕方がないでしょう。
「そうですか。では、どうやってわたくし、家に帰るのでしょうか。ご存じのとおり、少しも立てません。一切歩けません。普通の車椅子でただ座ってもいられません。そのうち踏ん張ることもできずにずり落ちるのが関の山。病院から担架でも借りますか?」
「やっぱり気になる? えっとね!」
そのころになればわたくしの気のない返事も日常となっており、クダリは全く気にせずにぱたぱたと軽い足音を立てて部屋から出ていきました。すぐに扉の向こうからなにかを押して持ってくるのを無感動に眺めていると、クダリは誕生日プレゼントに欲しかった新しいおもちゃをもらった子どものように目を輝かせて見せびらかすのでした。
「ほら見て!」
「はあ」
「これがノボリの足になるの。おっきな車椅子!」
「特注ですか?」
「うーんとね、えへへ」
やはり特注ですか。一体こんな生きる気力もないわたくしにいくら無為にお金を使う気なんでしょうか。まあわたくしたち人より背丈はある方ですから、横幅はともかく大男の部類であり、既製品ではなにかしら……主に足がはみ出すでしょうけど。
その大きな車椅子は普通のものとは違っていて……まるで車輪のついた移動式の玉座のようでした。見た目はなんの装飾もない武骨なものでしたが、素人目にも様々な機構が搭載されていて、クダリは目の前で両方のひじ掛けを跳ね上げて見せ、足を置く台を留め具を外して引き抜きました。そして枕までついた背もたれをまるで特急シートのリクライニング座席のようにぐいと倒し、あっという間に車椅子は担架のようにフラットになりました。
「ベッドの頭をリモコンであげたみたいにちょっと後ろに傾いてたら座ってられるでしょ?」
「ええ、まあ」
「座っててもし辛くなったらこうやって背もたれ倒せるし、休んで少し元気になったらベッドに行ったらいいよ。いいでしょ」
「至れり尽くせりですね」
「でしょ?」
もしかして、今のは嫌味に聞こえただろうか。少し心配になってクダリをうかがうも、わかってるよとばかりににっこり微笑まれただけでした。
「今ね、いっぱい練習してるの」
「わたくしを車椅子の乗せる練習ですか?」
「うん! ぼくね、ほら身長があるからやりやすいはずだって。車椅子もひじ掛けとか足置きとか外れるからやりやすいし」
「車椅子はともかく……わたくしたち、同じ背丈ではありませんか」
「ね。全然ぼくが大きくたって関係ないけど、筋がいいって」
クダリの手は冷え切ったわたくしの手と違って血色がよくとてもあたたかい。ピンク色に上気した頬が優しい微笑みの形を作り、手を握ったまま気遣わしげにわたくしの全身をあれこれ観察していました。
相変わらず少しも動かない足、まともに座ってもいられないほど衰えた背筋、常に浅い呼吸、すっかり細くなったものの動くことを思い出した両腕、声は張れないもののそれなりに流暢に話せるようになった喉。かつてと比べるべくもないのですが、ほんの少しだけは改善しているでしょう。
クダリに言わせてみれば「ものすごく」回復したらしいわたくしはお眼鏡にかなったのか何度も大きくうなずいて。
「ねぇノボリ」
「はいクダリ」
きらきらと輝く瞳の中に泥に沈んだようによどんだ目が映り込んでいる。
こんなの、こんなに明るく希望に満ち溢れたクダリの隣にあるべき表情じゃないでしょう。片割れにふさわしくないのはよろしくありません。たとえ心が折れていようとも、良くないということだけは理解できますし、どうにかすべきだと思います。ほんの少しだけ底なし沼からもがいてみましょうか。これではあまりにクダリが不憫ではありませんか。こんな片割れにあれこれしてやろうと覚悟を決めたのに、当の片割れが自分の生命に対して自暴自棄では。
「あ、ちょっと笑った?」
「えぇ」
「よかった、ノボリ。よかった、よかったよぅ……」
そういえばあの日からクダリが泣いたのは初めてでした。
ちくりと心を刺す罪悪感は本物でしたが、変わらずわたくしの世界は既に終わっているのです。そればかりはどうしようもなく。
大きな車椅子にわたくしを乗せて、まるで素敵な玉座に座っているみたいだと夢見る口調で褒めそやした。わたくしはそんなクダリの慰めになるために生きようと、それだけは心に決めたのでした。それがいかに屈辱的で、日々心が削られるような想いであろうとも、クダリの心を救えるのはわたくししかいなかったようなので。
◇
「ノボリ、おはよう」
「……」
「窓、カーテン開けるよ?」
「……おはよう、ございます……」
「ノボリってば今日もすっごい低血圧!」
「それは、クダリも、同じ……」
「ノボリよりはマシかな」
「うう……」
もそもそと布団の下から細い腕が出てきてくしくしと目元をこすってる姿は昼寝をしてた大きなネコちゃんみたい。あちこちに散らばった鬱血痕と気だるそうな表情を見ているとちょっぴりその気になっちゃいそうだけどこれ以上は冗談抜きでノボリ死んじゃう。昨日もぜんぜん本気じゃないけど、これ以上はノボリの命が危ないもん。
今もいつにもましてなんだかくたーってしてる。全然力入ってないね。
「ダーリン、朝ご飯はベッドに持ってきてあーんってしていい?」
「ハニー、それは大変、魅力的な提案ですね」
そうと決まればさっそくご飯を作ろう。今日はぼくも同じの食べようかな。たまにはいいよね。いつもノボリからしたらかなり多めに作ってるけど今日はさすがにいつもの量を食べたらノボリ、吐いちゃうと思うし。
トレーの上に二人分のおかゆを乗せ、ノボリの分にはしっかり今日の分のお薬を混ぜてから部屋に戻ると布団を被りなおしたノボリは半分夢の中に戻ってた。だよね。
「ノボリ起きて、ねえ起きて。朝ご飯!」
「……はい」
「今日はね、ぼくも一緒の食べようかなって」
「ん……それで身体、もつんですか?」
「ノボリがもつんだからぼくももつよ?」
「一概に比べてはいけないと思いますが。クダリとわたくしではそもそもの運動量が違いますよ」
少しずつ目が覚めてきたらしく相変わらず目を細めたままのノボリの口調がはっきりしてくるのを見計らってベッドのリモコンを操作し、ノボリをゆっくり座らせる。電動式のモーターが小さな駆動音を立てて頭が上がるにつれ自分の意思に関係なく体勢が変わって血流が変化したせいでノボリが目を回しているのが分かった。
うめき声を上げないように歯を食いしばって目を閉じて耐えているノボリの布団を少しまくって両手を出してあげて、その間にサイドテーブルに乗せたおかゆを掻きまわして冷ます。いつもより気持ち少なめだし、食べられるだけ食べてもらおうかな。今日はいつもよりしっかり顔色は見ないとね。
「大丈夫?」
「もう、すこし……」
「うん。ゆっくりで大丈夫」
ぼくは先に食べちゃおうかな。……うん、味付けはばっちりおいしい。
「はいどうぞ」
「ん」
ノボリの顔色がちょっぴり良くなったのを見計らって……それでも結構悪いけど……スプーンを差し出すとベイビィポケモンみたいに食いつく。ああもうすっごいかわいい。そして一生懸命に咀嚼して、かなり悪くなった喉が咽込まないように注意しいしい飲み込むのをじっくり観察する。
ノボリ。君って本当にかわいくってどうしようもなくかわいそう。ぼくなしじゃ絶対に生きていけなくて、本当はこうやって無理やり生かされたくもない高潔な魂の持ち主。そのくせ致命的に優しくて、だからぼくの言うことに従って、ぼくの願いを叶えるために生かされてる。もうちょっと君が冷静でぼくのことを愛していなかったら……ねえ、ぼくの本心に気づいてもいいんじゃない?
無理か。だってノボリは誰よりも純真だから。まっすぐすぎて、善良すぎて、疑うことを知らなくて、この世すべてに顔向けできる高潔な人間で、いつだって犠牲にしていいのは自分だけで、結構向こう見ず。しかも自分とぼくが幼い時と同じようにおんなじ考えを持ち、ずーっと同調し続けてたって思ってたんだもの。さすがに最近は違うって気づいたみたいだけどもう遅いのにね。
「おいしい?」
「はい」
ぼんやりとしてた目にはかなり光が戻ってる。発作を起こした時からかなり回復している割に虚弱なのはぜんぜん治らない。ううん、治させない。
毎日毎日かなり薄めているとはいえノボリがこうなった元凶であるポケモン用の強力な急速回復薬を飲ませ続けているんだもの。ぼくたち一卵性の双子で体質もそっくりだし、怪我のタイミングこそ違うけど同じ頻度で同じような負傷をしてきて、同じだけ急速回復薬で怪我をなかったことにしてきたのに……ノボリだけ、こんなに劇的に発作を起こしてしかも回復しないっておかしいよね。もちろん個人差は本当にあるんだろうけど。
実際、ぼくの傷の治りが常人より遅いのは事実だもの。ぜんぜん病気はしないから身体は頑丈だけどね。
ポケモンの薬……というよりは単純に強力すぎる急速回復薬の濫用による副作用。異常な虚弱体質、自然治癒能力の低下、無理やり治してきた傷による心身の異常。全部事実だ、実際に症例があるのをノボリもぼくも知ってる。だけど、ノボリに徹底的に隠してきたのはそれらにはちゃんと回復事例があること。それもかなり多い。むしろ治る方が普通。じゃなきゃ規制されてるはずでしょ。
「むう」
「ごめん、はやかった?」
「……、少し」
「ごめんね。ゆっくり食べよう」
計画実行の時期から自分で使って見せることで急速回復薬の使用ハードルを下げ、時に無茶なバトルの仕方を見せて双子の同調が強いノボリに無意識的に真似をさせ、日常的に急速回復薬を盛り続けてノボリの薬剤耐性を滅茶苦茶にして。同時に身体には常に薬が回っているものだから小さな傷は気づかないうちに治っちゃうから痛みの耐性もないらしい。これは計算外だったけど、ぼくにとっては好都合なことにノボリはぼくよりはるかに我慢ができなくて怪我をしたらすぐに薬を使っちゃう。
おかげでノボリは完全に自分のせいだと思い込んでて、おかげでノボリはこの先一生、ぼくだけのものになった!
本当はお腹いっぱいですっごく苦しいのに食事を作ってくれたぼくの手前、もういらないと言い出せずにぼくにだけわかる程度に表情をゆがめながら必死に食らいつく君。諦めたつもりだけど高いプライドまでは捨てきれなくて自分で動くことができない現状が嫌で嫌でたまらない君。虚弱になりすぎたせいで普通の食事ができなくてやわらかいおかゆみたいなものを食べるたびに傷ついている君。ぼくのことが大好きで、大好きだから払いのけられなくて、良いようにされちゃっている君。身体がこんなになっているのに求められたら身の回りの世話をされている手前あとがどれだけ苦しいと分かっていても拒否しない君。
「ねえノボリ、お昼はリビングで一緒に食べようね」
「……えぇ」
あは、なんだか嫌そう。本当はもう寝てたいんだよね。こんなにはち切れそうなくらい食べさせられて眠れないんだよね。でもそんな仕打ちをしてきたぼくのことを嫌いになりきれなくて、一緒にいるのもまんざらじゃなくて、日々の負い目もあって、君は絶対に断らない。
「身体、辛い?」
「……少しだけ」
「なら予定変更。一緒にここにいる。ぼくもお昼寝!」
別にね、わざわざ苦しめたいわけじゃないの、絶対にどこにも行ってほしくないし、他の誰かのものになってほしくないからやってるの。特注の、君だけの大きな玉座に縛り付けて、圧倒的だった地下王国の王さまを引きずりおろして、ぼくだけの王さまにしたかっただけなの。
新しく用意した君専用のなにもかも。それに頼らないと生きていけないいろんな道具さえ愛おしい。君にとっては屈辱的ないろんな道具とそれを与えてくるぼくに歩ける道を全部塞がれて、ぼくの腕で抱き上げられ、乗せられた玉座がなきゃどこにもいけない君になってくれて。
「何か困ったことはない?」
「では、」
ノボリ、君はなんにもできないんだから。
そういう意味を感じ取って顔をゆがめていたはずの君はもはや全て諦めて、むしろ少したくましくぼくに甘えた。びっくり!
「抱きしめてくださいまし。満腹でお腹が苦しいので、優しくですよ」
ほんと、君って可愛いね!