【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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 頭を抱えて道端にうずくまっていた弟をひょいと担いだノボリは進む。見慣れた光景に今更誰も何もリアクションはない。

「はてさて、どこまでおまえの頭の中の出来事だったのでしょう?」

 どちらでもいいのだが。なにせ、二両編成に戻ったことには違いない。


したたる自我、こぼれる白

 耳鳴りが聞こえる。ぼくは無視して、聞こえないふり。そんなことより大事なことっていくらでもあるじゃないか。

 

 ただただ無垢にあどけない表情のキミの頭をそっと抱き抱えて覗き込む。今日も呆けた虚ろな瞳はぼくをすり抜けて遠い遠いどこかを見ている。焦点の合っているようなあっていないような。寝ぼけまなこにぼんやりと、自信なさげで、ちょっと遠慮がち。「こう」なってからキミはずっとそうなんだ。

 それでいて、いつも通り理性的にも見える。ぼくが、そう思いたいだけなのかもしれないけれど。

 

「……さま、今日はぜひポケモンバトルを……ふふふ。あぁ、どうもご乗車ありがとうございます。はて、ああ、……テンガン山の……正確に進行してみせるのです」

「うん、うん、ノボリ。今日はいっぱいしゃべって元気だね」

「定刻通りにただいま到着。……さま、いかがされ……マルマインが草タイプ複合?! わたくしの記憶とは異なりますね……」

 

 まるで脳みその中身をランダムに出力しているみたいだ、と口には出さないけどぼくは思っている。

 ときどき呂律が回っていないことがあったり、明らかに言葉が途中で途切れて全く違うことを言ったり。そもそもが支離滅裂もいいところなのだけど。

 いくら内容が意味不明でも、かつてのノボリのはつらつとしたところや優しいところ、口調から察する端々から感じられるからぼくは、意味が通らなくても、こっちを見てくれなくても、喋ってるノボリを見てる方がいいな。

 

 好きなように喋っていたノボリはふっと口ごもると、再びぼんやりとした目をして、電池が切れた機械みたいに静かになっちゃった。あーあ、せっかく久しぶりにノボリの声が聞けたのに。喋ってくれないことも多いんだもの。何時間いてもずっと寝てることだってあるんだもの。

 

 ノボリが黙ると甲高い耳鳴りがする。高いかな。低くもあり、大きくて、小さい。ノボリの声はかき消されないけど、ノボリが黙ってるととてもうるさい。

 

 ねぇノボリ、もう一回お話してよ。期待を込めてそっとノボリの頭を撫でていると何故か今度は泣き出しちゃった。目を閉じ声を殺して、ひっくひっくとしゃくりあげ、子どもみたいに。嗚咽を押し殺して、意地っ張りに。きっとそのまま泣き疲れて眠っちゃうんだろう。いつものパターンだ。

 泣き虫ノンちゃん、なんて今更からかうのはしないけど。なんだかちょっぴり懐かしい。まぁぼくだって負けず劣らず泣き虫クーちゃんだったのだけど、人目のある病院で泣いてしまうのはちょっとな。みんな困っちゃうよ。それに、ノボリがぼくの分まで泣いてくれるみたいだし。

 

 湧き上がる塩水があっという間に溢れかえり、頬を伝ってしたたって、ぼくの膝をしとどに濡らす。

 

「もー、ノボリったらどうしちゃったの。目が溶けちゃうよ」

「クダリさん? あらあら、ノボリさん泣いてしまわれて」

 

 様子を察したのか見慣れた看護師さんがやってきて、静かに涙を流すノボリを見てガーゼのハンカチを差し出してくれる。有難くぼくは泣き虫にそっと蓋をした。

 

「この前は『思い出せない、思い出せない』って繰り返し仰りながら涙を流されていて、ここのところ涙を流されることが多いんですよ」

「思い出せない?」

「えぇ、そればっかりですよ。いらっしゃる時は仰っていないようですけど」

「……ノボリ、何が思い出せないの?」

 

 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら聞き分けのない子どもみたいに泣き続けるノボリはやっぱりなんにも答えてくれなかった。

 

「ぼくがいる時には言わないよね。いる時には言う。思い出せないって、ぼくのことだったりして」

 

 冗談めかして言ってみたけど。だけどちょっとダメだったみたい。ぼくの声までだんだん震えてきちゃってさ。うん、泣いてないよ、ぼくはもうオトナ。とっくに泣き虫を卒業したんだもの。でも、大人らしくはなかったみたい。気を遣ってくれた看護師さんがそそくさと出てってから、ぼくはノボリを抱えて、わんわん泣きたくなっちゃった。

 

 ねえノボリ。ぼくのライバル。キミはどこに行っちゃったの、どこにいるの。ここにいるのは本当にキミなの? 真面目で気高いキミはどこにいるの。目を覚ましてよ、ぼくを見て。お話ししてよ、一緒にポケモンバトルしようよ。

 ううん、やっぱりなんにもできなくたっていいから。そこでぼくにだけ分かるような微笑みでも浮かべて座ってるだけでいいから。お願いだから正気でいてよ、ねえ。

 

「ノボリ、ノボリ、ノボリぃ……」

 

 堪えきれなくなって、とうとうぼくはノボリと一緒に顔中べちゃべちゃに濡らした。ノボリの病室を個室にしてよかった。まぁでも、ぼくが泣き喚いていることくらい、監視カメラで見られているんだろうけど。

 

 だって、ここは檻付きの精神病院。それもノボリは正体不明の時空間現象に巻き込まれた貴重な「検体」。名目上は「患者」だけど、ノボリの扱いはきっとそうじゃない。実際、ノボリとぼくがイッシュでそれなりの有名人だったから引き剥がされなかったようなもの。一般人だったらどうなっていただろうね?

 ノボリは「時空の歪み」……そう名付けられた怪現象の被害者。いたわしいことに、最近まだジムバッジを集めるような若い男の子も同じ目に遭ったと教えられた。彼の詳しいプロフィールは知らないけれど……彼の身内にそこそこの権力者がいないなら、その子こそ実験のおもちゃにされているのかもしれない。

 

 最近世界各地で発生するようになった怪現象、「時空の歪み」の中に入っても基本的には人体に何も起きない。手持ちポケモンたちも平気。「時空の歪み」の中には珍しいアイテムがたくさん落ちていて、明らかに生息地外のポケモンがいて、なんなら色違いの珍しいポケモンだってかなりの確率で出現する。

 そんな「時空の歪み」のポケモンたちは基本的にはこちらを見れば襲いかかってくる程度には凶暴でレベルも高いから腕に自信がなければ……ガラル地方でいう「ワイルドエリア」くらいには……危険が伴うけど、それだけだと思ってた。

 

 当時は解析はまだ進んでいなかったけど、それまで何人もが「時空の歪み」に遭遇し、何人かは自ら入ったけど、ノボリみたいにおかしくなっちゃうなんてことはなかったんだ。

 

 あぁ、ぼくはどうして、一緒に狂えなかったんだろう。あの日のぼくたち、どうして居合わせちゃったのかな。

 

 たしか屋内で起きる「時空の歪み」は例がなかった。終電後のギアステーション内部で突如起きた「時空の歪み」から逃れる方法なんてなかった。突然空気がバチバチいってさ。紫の光がぼくらを包み込んで、耳鳴りに似た不思議な感覚がした。平衡感覚がおかしくなったみたいで、うるさくて静かだった。

 ぼくたち以外にも何人かの鉄道員が巻き込まれて、力を合わせて凶暴なポケモンたちから身を守った。緊急事態とはいえ、足元にはいくつもポケモンを進化させるときに使う色んなアイテムが落ちていたから、なんとなく怪現象の正体を察していた。

 

 噂の通り、「時空の歪み」は数分程度で収まって。幻みたいに現れたポケモンたちやアイテムはきれいさっぱり消えてなくなり、あとにのこされたぼくたちはなんてことなかったね、なんて軽口を言い合って、それで。

 

「……はて、ここは? 雪……? わたくし、さっきまで、」

 

 ノボリはぼくらから少し離れたところにいた。「時空の歪み」が終わった途端、呆然と周囲を見回して、おそるおそるといった様子で歩いて、突然すっ転んだ。

 トレインにノッテタタカウぼくらは体幹には自信がある。そうそう転んだりしない。だならぼくは足に怪我でもしたんじゃないかって近寄って、でもノボリの近くにいたシャンデラが悲鳴をあげるまではそこまで深刻に思っていなかった。

 

 そう、ノボリの近くにはちゃんと手持ちたちがいたし、見て分かる怪我をしてなかった。「時空の歪み」の最中は大きな声で指示を飛ばす声が聞こえていたし。

 

「ノボリ、大丈夫?」

「あれはユキメノコ? わたくしは、わたくしは? わたくしはさっきまでここにいなかったのでは、わたくしノボリと……ノボリ? ノボリ……えぇ、わたくしの名前でございます。それは確かです」

「ノボリ?」

「空から? いいえ。わたくしは空からではありません。ご存知では? 吹雪の向こうから……このコートは、わかりません。どうして? どうしてどうしてどうして? わたくしは、名前しか、」

 

 長い長いシャンデラの悲鳴。呆然としたノボリは転んだ体勢のままぺたぺたと床に触れながら、かわいそうなくらいガタガタ震えていた。

 

「何、言ってるの……?」

「わかりません、わかりません、どうして、どうしてわたくしひとりぼっちなのです? ご乗車ありがとうございます、ご乗車? あああ頭が痛い! 痛い痛い痛い! ポケモンが、知らないポケモンたちが、あぁ、わたくしは! 寒い、寒い、もうやめてくださいまし! 頭が痛いのです! あぁ!」

 

 ノボリはなにかに突き動かされたようにいきなり立ち上がって、壁に体当たりした。何度も、何度も、何度も。

 

「ノボリやめて、やめてよ!」

 

 何人も使って後ろから羽交い締めにして、無理やり止めればノボリは暴れるのをやめた。やめたけれど今度は人目もはばからず大声で泣き始めたものだからたまったものじゃない。ノボリは、もうその時にはおかしくなっていた。今のノボリと一緒。

 

 最後にノボリは恐怖に駆られたみたいに絶叫をして、それから体から力を抜いた。ぼくは救急車と警察の両方を呼んだ。原因なんてさっきの「時空の歪み」以外に考えられなかったけれど、同じように巻き込まれた自分が無事だったことなんてちっとも嬉しくなかった。

 

「ノボリ! ノボリ! ぼく、わかる!? ねぇこっちを見て! ねぇ!!」

「教えてくださいまし! 教えてくださいまし! わたくしはいったい誰なのですか!」

 

 あの日の悲鳴がこだまする。耳鳴りの正体なのかな? 脳みそに焼き付いてとれないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「記憶がなくともわたくしの心の中、大切なものがあるようですね」

 

 と、テルさまに言ったものの。実のところ記憶が僅かでも戻る前から時折不思議な感覚があった。

 

 周囲に誰も……ポケモンさえも……いない時の、ついぽろりと弱音を吐いてしまうような時。あるいは、単純に記憶のない自分が不甲斐なく思え、様々な葛藤をつい吐露してしまう時。

 

『   』

 

 「それ」は見えはしない。もちろん触れもしない。そこにいるのが「誰」なのか「何」なのかさえ分からない。だが。

 

「そこにいるのは、……きっと、わたくしの大切な、忘れてしまった……」

 

 なんの前兆もない。「それ」はわたくしを後ろから抱きすくめてくる。あるいはわたくしの前にいて、手を握っている時もある。感覚はなく、影すらもなく、もちろん声も聞こえないが。

 わたくしには、「それ」が泣いているように思えた。愛おしいような、慕わしいような、あたたかな感情を向けるべきだと忘れていてもわかる。

 

「どうか、泣かないでくださいまし、……」

 

 傍から見れば虚空に話しかける男なんて誰がどう見ても狂っているだろう。誰もいない場所に向かって手を差し出す姿を見られたならばキャプテン失格だと思われるか、はたまた人ならざる者に魅入られたと認識されるか。

 どちらにせよ、「それ」に対するなんらかのリアクションは危険だった。だけど。

 

「わたくし、おまえがそうだと落ち着かないのでございます。思い出せばしませんが、どうか……」

 

 どうか。その後に続けるべき言葉を探す。喪われた記憶の向こうには、きっと「   」の、■■があったはず。わたくしは時折表情が硬い男と言われますが、「   」は対照的にいつもにこやかで……。

 

「どうか、おまえはいつものように笑ってくださいまし」

 

 ヒスイの大地にこうも気安く接する相手はいない。「おまえ」だなんて呼び方なんて、誰に対しても相応しくない。しかしながら、「彼」にはそれで良いのだと思えた。

 ……「彼」、か。

 

「わたくしに似た顔の男。きっとおまえがそうなのでしょう? おまえはわたくしのなんでしょう。思い出せないのです。おまえなんて呼ぶのですからわたくしの息子? それとも、似ているということは兄弟? ……あぁ、頭が痛い……」

 

 頭が割れるように痛む。きっと本当にどこか悪いのではなく、精神的なもの。されど思い出せず、記憶の残滓を集めようとして成功しない。思い出されるときは本当にふっと湧き上がるようなのだ。無理やり何とかしようとしても無駄だった。それこそ、何十年も。

 

 空を切る手にしたたる涙。空虚なそれはわたくしにしか認識されず、濡れもせずにすり抜けて、哀しみだけがこぼれていく。

 

「あぁ後生ですから泣かないでくださいまし。わたくしも悲しいのです、わたくしだって……いいえ、きっと置いていったのも忘れてしまったのもわたくしだけ。おまえはわたくしのことを覚えていてくれているのに、わたくしのために涙を流す必要なんてありません」

 

 手を伸ばしても届かない。記憶の中に話しかけて、わたくしは無駄を知りながらも必死で目をこらす。

 

 祈ろうが嘆こうが奇跡など起きやしないし、この期に及んでわたくしはちっとも思い出せない。だからおまえを泣き止ませることなどできないし、ならばわたくしは涙を流す権利なんてないのだ。

 だから。

 

 ぱたぱたと地面に落ちる音を聞かないフリをして、歯を食いしばった。わたくしが泣くなんて許されない。なぜならあの子はとても、不憫な立場にいるのだと悟っていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やぁノボリ。今日は大暴れしたって?」

 

 軽く聞いただけでも朝から突然大暴れ、点滴引っこ抜いて、壁とかベッドに頭打ち付けて大絶叫。近寄る人間から逃げるわすっ転ぶわで、その結果、ノボリはそれ以上怪我しないように仕方なくベッドに縛り付けられることになってた。ぼくが来た時にはすでにもう落ち着いていて、大人しくなってブツブツと判別のつかないことを言ってるだけだったのだけど。

 本当は拘束は虐待だからダメなんだけど、成人男性が手加減もなしに大暴れしたらいくら怪我しないようにクッションやマットが敷き詰められた部屋だとしても結構重篤な怪我をする。した。だから、暴れたときはベッドでぐるぐる巻きになるんだ。

 

 だってノボリ、鎮静剤あんまり効かないんだって。体を眠らせるようなものはちゃんと効くけど、心が落ち着くような薬はぜーんぜんダメ。ぼくは何となく、効かないだろうなって思ってたけど。

 

 結局のところ、ぼくはあの「時空の歪み」によってノボリの気が触れたと思うより、ノボリの魂がどこか別の場所に持っていかれてしまって、残された肉体が混乱状態のまま切り離された魂からのフィードバックによって大暴れしてるんだ……と思った方が精神衛生上良かったので。

 あんまり教えて貰えないけど、もう一人の被害者の男の子も似たような症状らしいし。向こうはもっと大怪我を負うような暴れ方をしてるらしいけどね。比較的ノボリは暴れるよりぼーっとしてたり泣いてたり、静かに体を動かしてる事の方が多い。

 

 虚ろな目をしたノボリが何か言っているのを聞きながら、今は手を握ることもできないので頬を撫でる。散々打ち付けた頭には包帯が固定してあって、頬も額も擦り傷が出来ちゃって。伸びたひげがひっかかる。

 ひげはなかなか剃れない。こんなノボリの部屋に刃物なんて置けるわけがないから。今後も許可は降りないだろうね。大人しいうちにひげ剃ってあげようかな。でも今日暴れたばっかりだからまたどうなるかも分からないし、ぼくがやるっていっても勝手にやるのは良くないだろうから後で看護師さんに聞いてみよう。

 

「オヤブン個体が……集落に来ることはないかと思いますが。……さま、ご自愛くださいませ、わたくしもおりますので」

「うんうん」

「わたくしは大丈夫です。大したことはございません」

「大丈夫だけど、なるべく怪我しないようにしてね?」

「大丈夫です。ひとりで帰れます、……もいますから、強くていい子なんです。ご存知でしょう?」

 

 今日はいやにノボリの発言は筋道立っているように聞こえた。いつもみたいにとっ散らかった、脳みその中身を口からぶちまけたみたいな言葉じゃなくて誰かと話しているみたい。

 茫漠と、曖昧な表情がちょっとだけ穏やかで安心する。けど面白くない。ちっともぼくとは話してくれないのに、「そっち」では色んな人と話すんだ? ノボリの心の中は平和そうでいいね、なんて僻んで。

 

 分かってる、こんなの八つ当たりだ。こんなことになったのはノボリのせいじゃないのに。

 

 今日もぼくは無理やり信じ込む、ノボリは狂ったんじゃないって。妄想の世界の中で生きているんじゃない。ノボリの魂はここにはないんだから。だからノボリの口から溢れる言葉は本当に喋ったことだって思ってる。時差はあるかもしれない、あまりにも話すことが支離滅裂なときもあるから。

 兄をおかしくなったと思わないで、無理やりなんとか「物語」を作りあげて正気を保っているぼく。それを否定しないでいてくれる手持ちのポケモンたちや周囲の人たちには感謝してもしきれない。……刺激して兄弟二人とも発狂とか目も当てられないからだろうけどさ。

 

「ねえねえ、ノボリ。ぼくもいい子かな?」

「それでは失礼いたします。……目指して出発進行!」

「聞き取れなかったけどそこに行くの? ぼくも行きたいな。どんなところ? どんなところでもいいや、ノボリがいるんだもの、二両編成でいられるならどこでもいいんだ。暑くても寒くても、つまらないところでも、ワクワクするポケモンバトルがなくたってガマンする」

 

 ひどいや、ひどいんだよ。ノボリはそれっきり黙ってしまって、しばらくするとすうすうと寝息を立て始めた。気持ちよく寝ちゃってさ、ねぇねぇ、もう少しお話ししててもいいでしょ? 暴れたほうがまだましかもしれない。眠ってるだけなんてぼくはどうしたらノボリの無事を信じられるの。どうやったら無理やり納得できるのさ。

 

 あーあ、耳鳴りが始まった。きーんって、ごおおおって、まるで電車みたいだ。全然違うけど。

 

 なんともならない。ノボリは決して呼びかけに応えちゃくれないし、現実世界で起きている一切合切をまったく感じちゃくれないんだ。

 よくある「おはなし」みたいに双子の神秘とかいって痛みや病気、あるいは嬉しいことや楽しいことがなんとなく伝わればいいのにね。容姿はよく似ているのに、ぼくたちそういうものなーんにもないんだもの。仲良しの兄弟として隣にいればだいたい何考えているのかは分かってたけど、今はわかんないよ。なんにもわかんないの。それこそ他人が見て取れるくらいにしかわかんないの。

 

 ねえどうして。どうしてなの。誰か答えをちょうだい。

 

 ただ今まで通りの日々を過ごしたいだけなのに。特別なことなんて何も欲しくなくて、これまでの人生の平穏が続いて欲しいだけなのに!

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれが『時空の歪み』でございますか」

「はい。ノボリさんなら問題ないかと思いますけど、強力なポケモンが沢山出てきますので、注意を呼びかけて欲しいです。捕まえても倒しても『時空の歪み』の間、無限に湧いてくるんじゃないかってくらい出てくるので」

「承知いたしました。安全運転で参りましょう。迂回ルートを調べなくてはなりませんね」

「……ノボリさんは大丈夫でしょうけど」

「? いいえ、わたくしも細心の注意を払い、遭遇しないようにいたしますよ?」

「目をギラッギラさせながら言われても説得力ないですよお……」

 

 おや失敬。たしかに少しは気になっておりましたが。

 

 遠目に見える紫色をしたドーム状の怪現象。雷ごとき光が駆け巡り、ここからでは内部をうかがい知ることはできないものの、禍々しさと忌避感が強くあります。

 真っ当な神経をしている人間ならば近寄ろうとは思わないでしょう。わたくしも本能が危険だと警笛を鳴らしております。

 

 とはいえ! テルさまがおっしゃる通りならばまだ見ぬポケモンと出会うチャンスかもしれません。それも強力な! それはなんて胸躍ることでしょうか!

 

 なんの準備もなしに好奇心の赴くまま飛び込むような危険運転ははばかられるとはいえ、いつか挑んでみたいものですね。

 

「あ、そうだ。多分止めても行かれるでしょうから……『時空の歪み』の中には明らかに僕のいた時代、もしくはそれに近い時代の物が落ちていたんです」

「左様で」

「えーっと今持ってたかな。ありました。こんなヒモとか、パッチとか。ねぇノボリさん、見覚えありませんか?」

「あるような、ないような……」

「あれれ? でも他にもいろいろあると思います。ポケモンもポリゴンとか化石ポケモンとかあからさまに今の時代にいるわけないラインナップでしたし、ノボリさんも多分、僕と同じくらいの時代の人でしょうから、なにか思い出せたらいいですね」

 

 テルさまは微笑んで、わたくしに「アルセウスフォン」を見せました。小さな画面には精巧な地図が記されており、それはこのあたりのようでした。

 

「あそこの『時空の歪み』はもうそろそろ消えてしまいそうですけど、これからシンジュの集落の近くでも発生するみたいです。ノボリさんとしては集落の人たちに注意喚起に行かなきゃでしょうし」

「おぉ、ありがとうございます」

 

 暗に行きたいなら行けばいいと背中を押してくださったのでしょう。わたくしはありがたく活用させていただくことにしたのでした。

 

 早速オオニューラを呼び、まっしぐらに集落に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「やめて、やめて! もうぼくからノボリを取らないで! 今度はなに! ノボリの魂だけじゃなくて、ノボリのからだまで持っていっちゃうの?!」

「クダリさん!」

 

 看護師さんが何か言ってる。ぼくをノボリから引き離そうとしてる。親切心からなのは分かってる、でも!

 

「やだ! 離れない! ねぇ! やめて! 連れてくつもりならぼくもノボリのところに連れてってよ!!」

 

 不快な電流の音。いつもの耳鳴りとはまた違う。シビルドンやデンチュラのものとは違う、禍々しいかみなりの音。ノボリとその周囲二メートルくらいをすっぽり覆うくらいの「時空の歪み」が突然発生し、病院の中は阿鼻叫喚。

 ノボリやテル……最近もう一人の被害者の名前を教えてもらった……みたいにおかしくなってしまうって、みんな逃げ惑う。

 

 ぼくは怖かった。だけど目の前でまた失うのは嫌だった。

 

「ノボリ! ノボリ! ねえ、ノボリ! 起きて! 逃げるなら一緒に逃げよう!」

 

 渦中にいるくせにすっかり眠っているノボリを強く揺さぶると、ああ、奇跡みたいに目を覚ました。普段はこっちから何をしても起きないのに、普段はノボリのやることなすことぜーんぶ干渉できないのに!

 そして。耳鳴りがぴたっと止まる。

 

「ここは?」

「ノボリ!」

「……くだり……」

 

 なんだよ、答えはここにあったの! なんて簡単な終着点! 「時空の歪み」に連れていかれたなら「時空の歪み」に入ればノボリを取り戻せるってことじゃないか!

 ノボリはこっちをむいて、ぼくをわかってた。目を見開いて呆然としていたけど、それはただビックリしただけだってわかった。ノボリの考えてることがこれまで通りちゃんとわかったんだ!

 

「ノボリ! おかえりなさい! よかったよお……」

「え、えぇ、ただいま戻りました。クダリがここにいる、ということはわたくし、戻ってきたのですか?」

「そうだよ! これまでずーっと体だけ、魂はどっかに行っちゃってたんだよ! はやくみんなに教えなきゃ! ほら出ておいで!」

 

 今日はシビルドンを連れているの。シビルドンはこっちをむいて、ぼくらを見比べて、小さく鳴いた。再会の邪魔をしたくないって感じ。優しい子だ。

 

 残念。ノボリの手持ちまで連れてきてない。だけどぼくの手持ちたちだってノボリに会いたがってるんだもの。

 ぼくは「時空の歪み」から出ることをすっかり忘れて大喜びしてハグをした。

 

 あれれ、ノボリがいるのに嬉しいのにきぃいいんって、耳鳴りがする。嬉しすぎて耳がおかしくなっちゃった? 「時空の歪み」の光はだんだんと薄れていく。

 

「なるほどわたくし、『時空の歪み』から来たのですか。空からではないとは確信していましたが……」

「ノボリがこうなったのはギアステーションに『時空の歪み』が発生した時だね」

「なるほど……」

 

 ノボリは頷き、それで。

 

「クダリ、わたくしは」

 

 ノボリは何か言いかけたとき、「時空の歪み」が収まった。途端、ノボリはぼくの腕の中でがくんと崩れ落ちた。

 

「ノボリ?」

「あ、あ、あああああ! 今わたくし、今、いまいまいまいまいま!! わたくし戻っておりましたのに! すっかり思い出せたのに! もうなにも、なにも分からないのです! あああ許して、許して許して許してください、許してくださいまし名前も分からないおまえ! ああ、あ、頭が割れる、ううう、ううううう!」

「ああ、」

「おまえ! おまえは、おまえは誰なのです! 名前も、声も、あぁわたくしと同じ顔をしたおまえ! 愛しいわたくしの……ああ、ああ、許してくださいまし! 思い出せない! あああああ!」

 

 暴れ出すからだを押さえ込み、ぼくはすっかり虚ろになったノボリの目を覗き込んだ。悲しみと苦痛だけがそこにある。

 ノボリは、引き戻されてしまった。

 

「ノボリ」

「止めないでくださいまし! 再度『時空の歪み』に入りさえすればきっと! 止めないでくださいまし!」

「ノボリ」

「ああああ思い出せない! 思い出せない! 思い出せない! ああ、ああああああ! うう、ああ……」

「泣かないで、泣かないでよ、ねぇ、っうぅ、」

「……うぅ、おまえ、泣かないでくださいまし」

 

 変なの。ノボリはもうぼくのこと見えちゃいないのに、ノボリはぼくの名前も忘れちゃったみたいなのに。ぼくが泣いてることだけはわかるらしい。そんなのいいから早く戻ってきてよ。

 なのに、ぼくはノボリが泣くなっていってくれたのが嬉しくて。

 

 一瞬の希望は危険な魅力を放ってる。監視カメラの動画が残ってなかったらとうとう精神を病んで都合のいい幻惑でも見てたと考えた方が自然なくらい。

 完膚なきまでの狂人が、ちゃんと弟を理解して話している。なんて。カメラの動画を見せてくれた人は、ビックリして急いで医者を呼んでいた。医者じゃなくて呼ぶべきは研究者じゃない? って思ったけど兼ねてるのかもね。

 

「ノボリ、ノボリ、ぼくも『時空の歪み』に行ってみるね。だからノボリも行ってよね」

「えぇ、もちろん!」

 

 きっとぼくに返事したのではないのだろうけど。奇跡的に会話が成立して、にんまり笑う。希望だ、なんていい日なんだ。ノボリを取り戻せる手がかりを見つけられたんだから!

 

「クダリさん、少しお話よろしいですか?」

「ごめんなさい、ぼくやることあるの。ノボリをお願いね、また来るから」

「……ではまたあとで」

「わかった!」

 

 そりゃあ話は聞きたいだろうけど! ごめんね!

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 何の因果か、それまで各地で発生していた「時空の歪み」はぱったりと止まった。二人の犠牲者が出ているから普通の人なら喜ばしいことだろうけど、ぼくは困る。

 だけど起きないわけじゃない。そう、ノボリの方が向こうで「時空の歪み」に遭遇するとノボリの周囲が「時空の歪み」になるらしい。

 

「クダリ、気を落とさないでくださいまし。被害者がこれ以上増えないことは喜ばしいこと。わたくしの方では発生率は下がっていないのですし、こうして話せる機会が増えました。着実に前進しているのですよ」

「うん……でもぼく、何にもできない。ノボリは危険な目に遭ってるのにぼく待ってるだけ」

「そんなことはありませんよ」

 

 つかの間の邂逅。「時空の歪み」はそんなに長くは持たない。ノボリは毎回記憶を失うし、戻ってすぐはだいたい叫んだり暴れたり、頭痛を訴えのたうち回る。そんな姿を見てるとやるせなくてぼくはなんて不甲斐ないんだろうって、思う。

 ノボリと沢山お話できるのは嬉しいけれど、そんな姿を見るのは辛くてちょっとぼくもお医者さんのお世話になってるのは内緒。ぼく、何にもできないのに勝手に胃を痛めちゃった。それから眠れなくって、お医者さんはいろいろお薬を処方してくれた。

 

 そうでなくても眠れないよ。だっていつノボリに会えるのか分からないからずっとスタンバイするしかない。そういう理由と不眠症のコンビネーションでサブウェイマスターはぼくまで休職、あーあ、バレたらノボリに怒られるだろうな。でも、危険をくぐりぬけてノボリを待てるのはぼくだけだから許してね。

 

「クダリ、顔色が悪いですよ。よく寝なさいな、どうやらこちらとあちらは時間の流れが異なるようです。ですから毎回おまえがいなくても、目の前で寝ていてもわたくし怒ったりしませんよ」

「分かってるよ」

「ならいいのです。……そろそろですかね。それではまた」

 

 耳鳴りがおさまる。途端、全て忘れちゃったノボリの悲痛な絶叫を聴きながら、抱きしめてやる。そうしたら少しは落ち着くでしょ? 近くにいること、たまにぼくがいること、分かってるみたいだから。時空も空間も超えた向こうでもね。双子の絆もなかなか捨てたもんじゃないね。

 

「クダリさん、先生がノボリさんについてお伺いしたいことがあるようです。こちらから働きかけるためにもぜひご協力願えますか?」

「うん、今行く」

「ありがとうございます。それではこちらに」

 

 白い服のお姉さんは研究助手さんなのかな? 先生っていうのは「時空の歪み」の研究者のことで、ノボリを取り戻すためにいろいろ頑張ってくれているらしい。「時空の歪み」は危険だから立ち入りを禁止してるけど、ぼくは何度遭遇しても平気だったし、一時的に戻ってくるノボリの話は重要な手がかりだもの。

 協力しなくちゃ。ノボリに比べたら全然だけど、こっちでも頑張らなくちゃね。

 

「こんにちは、先生。なにか分かったの?」

「やぁクダリくん。あまり進捗は良くないが、どうやらノボリくんのいる場所が特定できた。話を詳しく覚えてくれているおかげだ」

「ヒスイ地方だよね? なんで今更分かったって?」

「まぁまぁ。私は研究者だから裏取りが出来なくては断定はできない。それにヒスイというのはシンオウの昔の呼び名でね。シンオウの考古学者でもなければピンとくる言葉ではないのだよ」

 

 出された苦いお茶を飲みながら、ぼくは頷いてみせた。パソコンで調べてもほとんどページがヒットしなかったし、図書館の電子ライブラリだってそう。

 

「さて、今日のノボリくんについて教えてくれるかな」

「えっとね、こっちは『時空の歪み』、あんまり起きなくなったけど、向こうはそうじゃないって言ってた。変わってないって。全部把握はしてないと思うけど、わかる範囲でも一日何回か。ノボリが行ける範囲だと一週間に三回くらい。あんまり長いこと起きないから、なおかつ実際に入れるのは一週間に一回くらい」

「ふむ」

「前も言ってたけど向こうとこっち、時間の流れが違うみたい。こっちだとまだ三年ちょっとだもんね。だからずっと見張ってないで寝なさいって怒られちゃった……」

「そうみたいだね。向こうは何十年か経っているようだけど。ノボリくんの言う通りだ、今日はお話出来たんだから、早く寝るといい。眠れないなら適量の薬を飲んだ方が体にはまだマシだ」

「医者みたいなこと言うね」

「私は研究者でカウンセラーで医者だよ?」

「そうだった!」

 

 しばらく話したあと、助手さんがやってきてぼくをノボリの部屋に連れていった。素敵な計らいでノボリと同じ部屋にベッドを置いてもらってる。いつノボリがお話してくれてもいいように。今は……寝てるね。すやすやだ。外を見ると真っ暗だった。さっきまで昼だったのに、長いこと話してたみたいだ。

 

「クダリさんも早めにおやすみなさいね」

「うん、ありがとう」

 

 助手さんが出ていってからぼくは自分のベッドから枕を引っこ抜いてノボリの横に潜り込んだ。ずいぶん子どもっぽいけど、離れて寝てたら多分気づかないもの。

 見られてたって構うもんか。とっくの昔にノンちゃんクーちゃんではなくなったけど、今日くらいは戻ったっていいでしょ。

 

「ねぇノボリ。早く帰ってきてね。おやすみ」

「はいクダリ。わたくし頑張りますよ。おやすみなさいませ」

 

 ノボリは目を閉じたまま返事してくれた。眠いのに優しいね。

 あのね、ずーっと耳鳴りが、やまない。でもいいや。ノボリは返事してくれるし、きっとすぐに会えるから。

 

 

 

 

 

 

 

「……ここどこ?」

 

 モンスターボールひとつ持たず、ということはもちろん手持ちポケモンの一匹もいない。隣にはノボリがいなくて、ぼくはサブウェイマスターのコートをたぐり寄せて寒さに耐える。コートはコートだけど、これはサブウェイマスターの衣装だ。防寒着としてのつくりになってないからあんまり意味はない。

 雪だ。一面雪だ。月明かりに照らされて、夜なのにすっごく明るい。でもまずいな、このままじゃ凍え死んでしまう。

 

 ふらふらと歩く。足が取られる。こんなところで倒れてられない、ノボリを取り戻すまで。ノボリ、ああノボリ。どこにいるの。隣にキミがいるならなんにも怖くないのに、また面白おかしく一緒に過ごそうよ。二両編成のまま、ずーっと。

 

 でも、寒くって。何時間も歩けば疲れちゃった。足が棒のよう。ぼくはとうとう歩みを止める。ここまでかな、なんて覚悟したその時。

 

「おまえ、そこで何をしているんです。ずいぶんかかりましたね?」

 

 「懐かしい」声が聞こえたんだ。弾けるようにぼくは振り返って、飛び込んだ。

 

 ノボリを引き倒しちゃったけど、きっと後で怒られるけどいいんだ。

 

「やぁぼくも来たよ! ぼくのこと覚えてる?」

「もちろんですとも、クダリ」

 

 ノボリのコート、すっごくボロボロで笑っちゃう。でも何故か泣いちゃった。

 

「ノボリ、ノボリ、やっとちゃんと会えた!」

「えぇ、えぇ、そうですとも。泣かないでくださいまし、クダリ」

 

 耳鳴りはもう聞こえない。

 

「嬉し泣きだからいいの! それにノボリも泣いてる!」

「そうでございますとも」

 

 耳鳴りはもう聞こえない。耳鳴りはもう聞こえない。耳鳴りはもう聞こえない。耳鳴りはもう聞こえない耳鳴りはもう聞こえない耳鳴りはもう聞こえない。ノボリが話してる、ノボリに触れられる。ノボリはそこにいて、あぁもう大丈夫もう安心だ。ありがとう、ありがとう、嬉しいよ。

 ノボリ。ぼくたちもう大丈夫だね。

 

 それに、耳鳴りはもう聞こえない!

 

「おまえが何十年もかけてこちらに来てくださって、本当に嬉しく思います!」

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