【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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うやうやしく、ガラス細工に触れるよりも丁寧に触れるおまえ。
少しばかり物足りませんが?
わたくしはちょっと乱暴なほどにおまえを抱き寄せて、暑苦しいハグをしてやるのです。


リンカーネーション・ドリーマー

「夢みたいだ……」

「なんです、夢みたいだなんて。おまえらしくもない気弱な言葉ですね?」

「だって! だってぼく、こんなになにもかもネガイが叶うなんて思ってなかったんだもの!」

「ふぅん?」

 

 へにゃりとゆるんだ口元、真っ赤な耳、その癖にへりと笑った顔。「ぼく幸せ!」とそれはもう全身全霊で表現している恋人はわたくしに照れ隠しにクッションを押し付けながら早口でまくしたてた。ここにはふたりしかいないのだから、照れ隠しなんてしなくてもいいのに。とてもかわいらしいので指摘しないですけど。

 

「ぼくねぼくね、ノボリとずーっと二両編成でいたいって思ってた。ノボリもそうでしょ? でもねでもね、だってぼくたち兄弟なんだよ? 双子の兄弟。きっとずっと一緒にいられると思ってた。だってぼくたち仲がいい。お仕事まで一緒、ポケモンバトルでも相性、最高抜群! でもね、でもね、『伴侶』にはなれないじゃない。普通なら」

「一般論、つまらない常識ならそうですね。しかしクダリ、わたくしたちは『伴侶』よりも『恋人』よりも、すでにそれ以上の特別だったではありませんか? 生涯、絶対に切っても切れないものというのは血の関係。水より血は濃いと言うじゃありませんか、ねぇ?」

「うん。うん。ノボリの言うとおり。そうだよ、ぼくわかってて、そう思ってノボリになにも言わなかったの」

 

 頬まで紅潮させてクダリは微笑む。愛おしげに目を細め、熱っぽくこちらを見つめて。わたくししか知らない、とろけるような微笑みを。

 

「でもね、でもね、ぼくは生まれた時からノボリのトクベツだったけど、それ以上にぜーんぶが欲しかったの。ぼくはノボリの弟で、家族で、唯一無二のライバルで。もうとっくになにもかも持ってるようなつもりだったけど、それでもノボリを『ぼくのかわいいひと』にしたかったの」

「おや、今日は随分と熱烈ですね?」

「えへへ、ノボリ顔まっか」

「だまらっしゃい」

 

 クッションをぶん投げるとクダリは甘んじて受けて、ふたりで選んだひとかかえもあるヒトモシのクッションは遠くに吹っ飛んで行った。彼女の相棒、シビシラスの抱き枕からの咎めるような目線が気恥ずかしく、彼をそっとそっぽ向かせておく。

 

「初めて好きだよって言ったとき。ノボリったら『わたくしもですよ』なんて言うんだもの。ぼくの気持ちも知らないで」

「それは……すみません。あの時のわたくしったらクダリを弄ぶ悪い男で」

「愛してるよって言ったとき、なにもわかってないで首をコテンってしたノボリはどうしてやろうかと思った」

「だってあれは、おまえが恥ずかしげもなく言うから!」

「ぼくだって恥ずかしかったよ! 生まれてきてからいちばん緊張して、すごくすごーく恥ずかしかった! でも決めるときは決めなきゃね、ノボリだってそうでしょ。いちばんいいタイミングで四倍弱点効果抜群を叩き込んで、相手の戦略をひっくり返して勝つときと言ったらもう! ってね!」

「それはそうですが! 明日の休憩時間はバトルしましょうね!」

「うん!」

 

 手持ち無沙汰な両手で枕を掴むと、今度は先にぐいっと取り上げられてまたまたぽーんと遠くに放られてしまう。ベッドの上にはもう何もなく、いたたまれずにソファに逃げるとクダリも着いてきたのでなんの意味もない。

 

「ノボリってば鈍感! すっごく鈍感! なのにぼく頑張ったよね? そう思わない?」

「えぇ、そうでございます。ところでなんでそんなに追ってくるんですか!」

「え?」

 

 コテンと首をかしげ、無邪気なクダリの微笑みが空恐ろしい。笑っているのに無表情に見える。いや。口角が上がっているだけできっと笑ってはいないのだとわたくしは知っている。

 

「なんでだと思う?」

「さぁ。とんと理解できませんね」

「またまたぁ」

 

 そのまま壁際に追い詰められたわたくしはぽーんとベッドに投げ込まれる。まったくもう、今日は嫌だと言っているのに!

 

「クダリ! 恋人だろうが兄弟だろうがこの暑苦しい真夏にまでべったりくっついて添い寝するのは嫌だと言っているでしょう!」

「ぼくは暑くてもいいもん!」

「わたくしは嫌なんです!」

「ちゃんと冷房下げるから!」

「接触している部分は暑いんですって!」

「いいじゃん! 一緒に寝てるって実感あるんだもの!」

 

 逃げられないように壁とクダリに挟まれて。哀れ、先客の抱き枕も蹴落とされる。いくらなんでも平均的なサイズのダブルベッドに成人男性ふたりは荷が重い。寝返りも打てないほど狭く暑苦しい寝床の中、クダリは暑さに溶けかけたのか真っ赤な顔のまま。耳まで真っ赤でなんてこと。

 まったく、仕掛けてきたのはクダリの方だというのに!

 

「クダリ、暑いです」

「ぼくたちアツアツだね」

「おまえ暑いの好きでしたっけ」

「好きになったの」

「わたくしまだ寒い方が余程マシです」

「ノボリってばホントにつれないね! 全部わかってるんでしょ?」

「おや? うふふ」

 

 つれない、ノボリったらつれない。

 なんて歌うように繰り返したクダリはわたくしの身体をしっかとホールドしたままストンと眠ってしまったので仕方なく、本当に仕方なくわたくしは許してやることにしてクダリの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜると、せめて枕だけは返してほしかったと胸の中で呟いて目を閉じました。

 

 べたつく肌と汗のにおい、腕にのしかかる重さと深い呼吸。そして体温が逃げず暑い。なのに、そんななにもかもが愛おしい、なんてこともない日のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに自分の身体が限界なのは知ってた。頭はずっと冴えているように冷え切っている。指先も冷たい。まるでぼく自体が氷の塊になっているかのよう。ノボリの帰ってくる場所を守りたくて戦い続けるバトルサブウェイでも、ノボリを探し続けてさまよう夜も、ずっとずっと進み続けて進み続けて足の感覚なんてとうにない。

 

 なんにも夢中になれない。どんなバトルでも楽しくない。なにが目の前で起きても淡々と対処するだけ。

 冷え切った脳みそはとっくに死んだ細胞でできているのかもしれなかった。在りし日の写真やバトルレコード、果ては鏡にまでノボリの面影を求めている目は腐り落ちているのかもしれなかった。君と同期した鼓動を打たなくなった心臓はどうして今ものうのうと動いているのか。

 

 何年経とうが諦められなかった。なんの手掛かりもなくても諦めたくなかった。きっとノボリなら諦めないし、ぼくだってそうだ。ノボリ、どうして君はいなくなってしまったの?

 心の中でノボリを責めて、心の中で運命を呪って、きっと不可抗力だったんだって自分を慰め、ノボリがいなくても当然みたいな顔をして回るこの世のありとあらゆるものが遠くに見えて。

 

 痛くて痛くてたまらない。半身を無理やりもぎ取られた痛みは和らぐことなくそこにある。

 寒くて寒くてたまらない。ノボリはぼくのものなのに、ぼくはノボリのものなのに、どうして。

 ずっとずっと。起きていても眠っていても。

 

 昼はたったひとりのサブウェイマスター。ダブルもシングルもぼくが担当。マルチはスーパーじゃなくてもすっごく難しくして、それでもたどり着いた挑戦者がいた時だけ鉄道員の誰かと組んでバトルする。ノボリがいつ帰ってきても大丈夫なように物理的に不可能なところ以外は減便しないで維持し続ける。だってそうでしょう? ノボリはこの地下空間の王様だった。ぼくと対等な、唯一無二だった。ノボリの王国をぼくの怠慢のせいで衰退させるなんて許しちゃいけない!

 ぼくにはノボリがサブウェイマスター以外をしているところなんて思いつきもしない。創造なんてしたくもない! きっと、きっと、ぼくたちがなにごともなく二両編成のままであり続けたのなら、「それ以外の目的地」をふたりでじっくり話し合い、円満に退職したそのあとでならあり得たかもしれないけれど。

 ぼくは、ひとりで目的地を変えるなんてできなかった。終着点を見失い、どうやって立っていたらいいのか、もうわからないんだ。

 

 夜はあてもない放浪人。なんの手掛かりもなく消えた片割れを探し続ける壊れた機械みたいだ。あれから何年経ってもただのひとつも手掛かりはない。ノボリが目の前で「消えた」その瞬間から、まるで最初から生まれてこなかったみたいに……いやだな、悲観的になってしまった……ひとかけらの情報も得られなかった。

 ただただあてどなく「原因」を求めて、ありとあらゆる研究所を回る。あらゆる地方のあらゆる研究を、イッシュ地方のサブウェイマスターの肩書と単純な懇願に泣き落とし、そして一般的に「非合法な組織」相手にはポケモンバトルで押し切っては無理やりにノボリとの関連がないのか調べ上げる。

 メインで調べたのは人間が、あるいはポケモンがある日突然いなくなってしまう現象。ハイリンクにウルトラホール、時空の歪み、ポケモンでも何種類か人間を時間・空間ともに移動させることができる子たちがいるらしい、とか。どれもこれもノボリがいなくなった原因だと断定することはできなかったし、そうだとしてもぼくになにができるというのか。

 

 目的地、ノボリ。終着点は再会すること。

 

 ぼくは悪いトレーナーで、その永遠にも思えるひとりぼっちの時間をポケモンたちにも付き合わせて日々を過ごす。シャンデラもシビルドンも、もちろん他の手持ちたちだってぼくと変わらない熱意を持ってノボリの捜索に協力してくれた。きっと人間とは違う視点があって、きっと彼女たちも必死だったのだけど、ぼくと変わらない結果を得ることになったけれど。

 サブウェイマスターをやる日は仕事が終わってから。休みの日は太陽が昇ったら。

 

 進み続けないと。目的地はわかってる。

 足を止めるな! きっとノボリなら諦めない。

 君に会いたい。君に会いたい。君に会いたい! その一心で。

 

 ノボリがいなくなって一か月、半年、一年、五年、十年、二十年! そしてそしてそして! 時間だけが流れていく……知ったことか! 進め進めと衝動が込み上げる。一度探したところだろうがどんな遠い未開の地だろうが関係ない! シビルドンがぼくを止めても、シャンデラがぼくを眠らせようとしたって知るものか! 手持ちたちが泣いてすがってぼくを止めても振り払うだけ。ああ、君たちまでにこの苦しさを背負わなくなっていい、だけど、どうか、止めないで。

 

 だんだんと鈍る足、凍える指、冴え切った思考。ひと時たりとも休まらず、引き裂かれた痛みが身体を蝕む。

 

「止めないで……」

 

 あとはなんだ? あとはあとはあとは。探していない場所はどこ。

 

「どこにいるの……」

 

 ノボリ。ぼくのかわいいひと。ぼくの片割れ、ぼくのライバル、ぼくの憧れ、ぼくのいちばん大事な……。

 

 不意にがくんと力が抜ける。ううん、ずっと前から力なんてまともに入っていなかったのかもしれない。とうとう自分の身体さえ支えきることもできなくなってしまったらしい。まだまだ前に進みたいのに動けない。

 あっという間に地面が迫る。叩きつけられるように倒れこみ、全身を殴打した痛みもどこか鈍く、遠い。

 

「いやだ」

 

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! このまま終わるのか、ノボリを取り戻せずにぼくの命は尽きてしまうのか。当たり前の結末、寝る間を惜しんで探し続け、ろくに休んでこなかったんだから当然のこと。冷静で意地の悪い自分がささやく。わかってる。わかってるけど、こんなことってないよ。

 

「いやだよ、いやだ、ノボリ、ノボリ、ノボリ……」

 

 もがく。まだ進めるはず。ほら、指先が動いて、また立てるよ、きっと。

 かすむ視界。白く白く世界が塗りつぶされていく。ぼくはとうとう、諦めた。もう、ぼくにはノボリを取り戻せないんだって。

 

 でも、でも! ノボリとのあたたかで、ささやかな、幸せな日々が脳裏をよぎる。ああ、ああ、あの日々をぼくは取り戻したかっただけなんだ。

 

「ねぇ、ねぇ、聞こえてる? シャンデラ。ねぇ、そこにいるんでしょ、シビルドン」

 

 舌は回っているのかな。もしかしたらもう声なんて出てないかもしれないけど。ぼくは手を伸ばす。あたたかな紫の光が、きらめく黄色の閃光がなんとかわかって微笑みかける。優しい君たちはきっと悲しい顔をしているんだろうけど、それでも安心させたくて最期の力を振り絞る。

 なのに「お願い」することはとっても自分本位で、ぼくって最期の最期まで良いトレーナーではなかったんだなって。

 

「ぼくの魂、ぼくの記憶、ノボリへの想い。全部預かって、全部向こうに持ってって、いつの日か、ぼくたちが、再会できるように」

 

 わかったよ、とでも言うようにあたたかな光が強く強くなっていく。

 ねぇシャンデラ。死んだらノボリに会えるかな。なんでだろう、なんとなく、ただ死んだだけじゃあ会えない気がするんだ。死ぬことにさえ救いを見いだせない、だって死んだらすべておしまいだ、そうだろう?

 

「ねぇ、祈ってて、ぼくたちが、また、」

 

 そっと寄り添う君。ぼくの相棒。ここまでついてきてくれたシビルドンはホントに優しい。ひんやり冷たいはずの君の身体がこんなにあたたかく感じるなんてぼくってやっぱり、寂しくて悲しくて身体が氷になってしまったのかな。

 

「また、再出発できる、ようにって」

 

 そしてぼくは無念のまま。

 

 

 

 

 

 事切れた白のマスターの身体に寄り添い続ける。手加減なしでこちらを燃やし尽くすシャンデラにはもうなんの言葉も届かない。白のマスターはきっと「最期のお願い」のつもりで言ったのだろうけど、実のところ結構な無茶を言ったということは知らずに逝ってしまった。

 

 そもそもシャンデラは「ゴーストタイプ」なので生身のポケモンではないし、人間やポケモンの魂を吸うだの、その光で生活しているとすぐに死ぬだの言われている恐ろしい娘だが、わりとありふれたポケモンだ。バトルサブウェイでは黒のマスター以外にも何人もの人間が手持ちに入れていたものだ。

 わたしは年齢を重ね、やむを得ずバトルサブウェイでのバトルからは引退して久しいが、ともに戦ってきた彼女の限界は理解しているつもりだ。

 だから。

 

『わたしの命も使いなさいな。マスターたちの願いをかなえるためなら、この死にぞこないの老いぼれの命くらい燃やしてしまいなさい』

『いいの?』

『白のマスターの手前、頷いたのだろうが』

 

 たったひとりで凍え死んでしまった白のマスターの顔。安らかとは言い難いが、死ぬ間際にようやくわずかばかりの希望を抱いた。そんな複雑な表情のまま永遠の眠りについている。

 

『一匹では不可能だ。そうではないのかね』

『おじいちゃんにはいつもまるわかりだね』

 

 ゴーストタイプとしてはまだ幼いシャンデラは黒のマスターの手持ちだが、少しだけわたしのマスターに似ている。きっとわたしは黒のマスターに似ていて、それはあの二人のマスターがずっと一緒にいた証左なのだ。彼女とわたしがちっぽけな小魚と小さな蝋燭だった頃からの付き合いなのだから。

 

『置いていかないで、白いマスター』

『ねぇ、ぼくたちも燃やしてよ、一緒なら大丈夫。みんな一緒にいたいよ』

 

 ボールに戻されていた手持ちたちがどんどん飛び出してきて死を嘆く。そしてまるでわたしの提案が素晴らしいことかのように口々に懇願する。

 「シビルドン」としてわたしはかなり高齢だったが、すべてのポケモンが「そう」な訳ではない。シャンデラやギギギアルはまだまだ平気で百年以上は生きるだろうし、わたしほど寿命が残っていないのはアーケオスくらいなものだ。

 

 だけども、わたしたちは「同じ」だった。黒のマスターを探し求め、そしてたどり着けなかった白のマスター。その無念を知っている。痛いほど、焼け付くほどに! 焦がれる想いをずっと見てきたのだ。この命を燃やし尽くして彼らが再会できるなら。それはある種の「目的地」ではないだろうか?

 

『全員を燃やしたら、きっと、きっと足りる。最後に私も燃やしてきっと、うん。やってみせる』

『そしたら、ぼくたちもマスターたちのところに行ける?』

 

 ドリュウズがシャンデラを不安げに見上げる。仲のいい二匹が最期の会話を終わらせる。

 

『大丈夫。しっかり祈ってて。きっと、きっと叶うから。目を覚ましたら最初に私たちのマスターを探すの、それだけなの。そしたらまたみんな一緒なんだから。それでね、今度こそ離れ離れにならないように頑張るの』

 

 一匹、また一匹とマスターたちのもとに旅立っていく。灼熱の時間はひどく長かったが、それでも少しも「苦しい」とは思わなかったのは黒のマスター譲りの彼女の優しさだろう。

 魂が吸い出され、すべてが燃え落ち、奇跡を起こすためのエネルギーに変換されていく。幼い娘さえ、すべてすべてなげうち、祈りだけがその場を支配する。

 

 神がいるなら。

 無情な結末の向こうに。それでもなお、この世に神がいるなら。

 

 祈れ、祈れ、祈れ。もうそれ以上のことができるだろうか。

 

 神よ。はじまりの神よ。

 彼らをもう一度、引き合わせてくれ。

 

 そう願い、白く誇り高きマスターの氷が解けるように祈って。わたしも静かに燃え尽きた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今夜が峠かもしれません」

 

 水を隔てたように遠い声。それを聞いて嘆き悲しんでいるのはいったい誰か。名前を呼びながら泣いているのは誰だろうか。

 せめて返事が出来たらよかったのに、残念なことにもうその元気は残っていない。

 

 代わる代わる手を握られる。わかりますか? ノボリさん。そう声を掛けられ、なんとか浅くうなずく。

 

 わたくし、これでもかなり長生きしたと思うのですが。それでもなお、こうも別れを惜しまれるというのは周囲の人間に恵まれ、幸福な人生を送れたということなのでしょうね。

 

 ヒスイに来る前の記憶は結局おぼろげなまま。しかし、この厳しいヒスイの大地では「己の使命」を見出すことができたし、与えられた役目も完遂し、次代に託すことができた。死にゆく時には血の繋がらない、しかし親しい大勢の人間たちに囲まれ、あたたかな寝床で惜しまれながらとは。

 これこそ人間の願う幸福な死の集大成。これ以上「報われる」ことなどそうそうあるでしょうか?

 

「寒くない? 苦しくない? ノボリさん、ノボリさん! もっと一緒にいたかったのに……」

 

 立派に成長して大人になられ、今も昔も変わらずシンジュの長として邁進するカイさま。

 嘆かないでくださいまし、悲しむ必要などないのです。いつかユウガオさまを見送った時のように、誇り高く前を向いてくださいまし。わたくしもまたただの人の子であり、大いなる旅に出るだけなのですから。この魂は「パルキアさま」のお導きで……きっと悪いようにはならないでしょう。

 

「あの子もここに来れたらよかったのに……」

 

 その気持ちだけで十分でございます。きっと離れていてもわたくしたちは同じことを考えていますとも。きっとあの高潔なヒスイの英雄は、わたくしが生きていようとも旅立とうとも暗闇の中だろうとも、間違いなく正しい道を進み続ける方なのですから。

 

 口々に声をかけられ、そのたびに共に過ごした日々を思い出して懐かしむ。思えば長い人生だった。とはいえ、過ぎてみればあっという間の人生だった、と。

 

 果報者でいいのだろうか。こんなに穏やかな気持ちで次なる目的地に向かって旅立ちを迎える。本当に、恵まれた人生でした。

 

 呼吸が緩やかに遅くなっていくのが分かる。聴覚が最期まで残っているというのは本当らしく、大きく最期の息を吐きだした後も悲しみの声や感謝の言葉が耳に届いている。

 

 そしてとうとう、意識が途絶えかける、ほんのわずかな時間。

 

 霧の向こう、暗い暗いトンネルの中にいたかのようにおぼろげな姿が正しい形を取り戻す。世界でいちばん愛おしい白い姿が、脳裏によみがえる。いつでも心を温める明るい笑顔、わたくしに向けたとろける微笑み、そして鋭く前を見つめるあの視線!

 

 ああ、ああ! どうしてどうしてどうして! どうして忘れてしまっていたのか!

 

 わたくしが置いてきてしまったもの、わたくしが忘れてしまったもの、わたくしが置き去りにしてしまった片割れが、未来の世界にはいたはずなのに!

 

 どうして思い出せなかったのか、どうして本気で帰ろうとしなかったのか、どうして、どうしてあの子を! わたくしはあの子をひとりぼっちにしてしまったのに、どうして!

 

 もう一度身体を動かそうとするも、もはやたった一度の呼吸さえ叶わない。穏やかなままの死に顔さえ、みじんも動かせず、わたくしの地獄は秘められたまま朽ち果てる。

 

 あのあたたかな手がそっと頬に触れて、愛しいあの子がとろけるように笑って、ずっと一緒だよと、永遠を誓おうよ、なんて、わたくしは、わたくしは、なんと返事したのだったか。

 照れ隠しに真っ直ぐ目を見れなくて、まるで夢みたいだと思って、わたくしもずっと一緒にいたいとささやいて……。

 

 意識がもう、保てない。

 あぁクダリ! クダリ! わたくしの愛、わたくしの半身、わたくしの、ああ、わたくしの「かわいいひと」!

 

 あの微笑みにもう一度会いたい。渇望した、焦がれて願って、手を伸ばしたい。なにも最早わたくしには叶わないが、ああ、来世では、次の命では、次の命でも!

 

 笑っていてほしい。おまえに笑っていてほしい! きっと、とても、泣かせてしまったから。

 今度は、おまえを安心させられるような人間に……。

 

 キャプテンノボリの死因は穏やかな老衰? まさか。わたくしはその日、あまりの悲しみに狂い死んだのだ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ねえノボリ。君は覚えてる? 悪夢そのものの日々を。毎日毎日、まるで夜の海の中で溺れたみたいにまともに息が出来ないあの日々を。

 

 僕はノボリに聞きたかったけど、「前」より随分とやわらかな表情の君は本当に無邪気で、ただの子供だった。

 

「くだり、ねぇクダリ?」

「なぁにノボリ。次はなにするの?」

 

 幼児らしく力加減なく思いっきり僕の腕を引っ張り、積み木を引き倒し、君は笑う。おもちゃを投げつけ、ヒトモシに噛み付こうとしたり、シビシラスを食べようとしたり、かと思えばティッシュを全部出しちゃったり。本当にただの子どもだ。

 でも、君はいつもニコニコ笑ってる。こんなに笑う君なんて見た事ない。

 

 変わらないよ、ノボリ。ちょっと違っても君は君だった。無垢なまま、真っ白の子どもになってようやく僕の元に帰ってきてくれた僕の大事なノボリだった。

 そのみずみずしい健やかな手が僕と繋がれ、甘い香りのする口元がゆるやかに弧を描き、まだまだ未熟だけども力強い足が前へ前へ進むのを僕は隣で見ていられるんだ。

 

「くだりもたのしい? もっとあそぼう!」

 

 まるでぼくを安心させるように君は笑う、だからぼくも笑いかける。

 

 じんわりとした幸せと、同時にこみあげる焦り。

 

 二度と君を手放したくない。二度とひとりぼっちになんてなりたくない! 「前」はどうしてノボリはいなくなったのだろう? 結局原因にたどり着けぬまま僕は死んだ。だから推測にしかならないし、合っていないのかもしれないけれど、僕がもっとしっかりしていれば防げたことかもしれないんだ。

 

 「もっとしっかり」。なんとも曖昧だ。もっと、ノボリを見て、もっと仕事も私生活も完璧にこなして、隙なく生きてこれば? ノボリは真面目で頼れる人間だったけど、それに甘えて僕は寄りかかりすぎてしまったのでは? 

 

 小さなノボリがまたしてもシビシラスを食べようとするのを止めながら、ヒトモシと顔を見合わせて笑う。ねぇ、「前」も僕たち小さいころからの付き合いだったけど、こんなだったかな?

 相変わらずポケモンの言葉はわからない。でも心は繋がっているから、ヒトモシが気まずげに目を逸らしたのを見て「前」にシビシラスを食べかけたのは僕だったのかもしれなかった。抗議するかのようにノボリの手をペシン! と尻尾ではたくシビシラス。君もきっと覚えてる。そうでしょ? 僕の思慮深い相棒。

 

「ね、ね、ノボリ! ぼくたち、ずっと一緒だから!」

 

 あたたかな気持ちのままに、でもどこか焦りがあるので。とりあえず「前」と同じ(てつ)を踏まないようにしないと。そしてノボリはずーっとぼくのもので、ぼくはずーっとノボリのものなんだから小さい時から言っておかなきゃ。

 

「いっしょ? うん!」

 

 無邪気な君が笑ってる。電車のおもちゃを振り回し、嬉しそうに黒い車掌の制帽のレプリカをかぶり、手足に擦り傷をいっぱい作って大はしゃぎ。その隣でちょっとだけ大人ぶってる双子の弟、僕クダリ。白い方の制帽は僕のもの。

 ああなんて、なんてなんて、幸せなんだろうか。こんなに幸せで、むしろちょっと不安になってくるくらいだ。

 

 ぎゅうとノボリを抱きしめたままノボリの手元をじっと見ていたり、ノボリの服のすそを掴んだまま昼寝していたり、風呂だろうがトイレだろうが小さい子どもなことをいいことになんでもかんでもついて回る、その癖大人ぶりたい甘えたな弟。そんな風に見えるように日々を過ごしつつ、絶対に「前」よりも頼れる大人になろうと誓った。

 それこそ「ノボリ兄さん」が僕をいちばんに頼ってくれるように。

 

 僕は思い出した記憶を抱きしめる。いや、「思い出させてもらった記憶」だ。そしてそのきっかけになった事件を静かに思い出した。

 

 

 

 

 

 おすなばでさっきまで遊んでいたのに、今見るとノボリがいない。見回しても見つからない。わかった瞬間、怖くて怖くて心臓がどくんどくんといった。もしかして、もしかしたら、今度は、ノボリが早く連れていかれてしまったんじゃないかって心がざわめく。

 

 ……「今度は」? ねぇ、ねぇ、なんのことなの?

 

「ノボリ! ノボリ! かくれんぼ? ノボリ! どこ?」

 

 声が震える。怖い、怖い、怖いよ。

 ヒトモシやシビシラスも慌てて近寄ってきて、みんなで一緒に探すけど、いない、いない、いない! どこに行っちゃったの!

 おくつもない。おぼうしもない。ぽつんとノボリのスコップだけが取り残されて、僕はそれを握り締めながら広い公園中を走り回る。

 

「ノボリ、ノボリ、ノボリ、ノボリ、どこどこ、どこなの、どこ、どこに、ノボリ、どこ、ノボリ……!」

 

 そんな場合じゃないのに、座り込みそうになる。怖い、怖くて! どうしたらいいのかなにもわからない! ひたひたと背中にやってくる冷たい感覚。指先があっという間にしびれて、イヤな痛みが身体中にやってくる。身体の半分を無理やりちぎられてしまったような、そんなものすっごい痛さ。

 

 ノボリ、ノボリ、ねぇ、どこにいるの! そばに寄ってきたノボリのヒトモシが僕を見上げている。何かを決断したように、ノボリにそっくりな真っ直ぐな目で小さな手を差し出してくる。シビシラスが早くつかめと僕をせっつく。

 シビシラス。ヒトモシ。僕たちの、初めての友だち。初めに目を開けた時にはそこにいて、僕たちを「待っていた」。

 

 そうだ、そうだ、僕はその手を取らなくちゃいけない。僕はやっとそうわかって、小さな手を握る。

 

 瞬間、すべてすべて焼けた。

 あぁ熱い。熱い! 焼けただれる! 手から伝わってくるなにもかも。僕のすべて!

 脳みその中が全部焼かれたみたいに、熱い熱い熱い! でも歯を食いしばって耐えなくちゃ。これは僕がノボリと過ごした平穏で幸せな時間と、穏やかな日々、愛し愛される幸福、ただ笑いあっているだけの夜。そして、それらを全部理不尽に唐突に奪われてから始まった、孤独で冷たい地獄の日々。それらがすべてこみ上げる。繋いだ手先から凍死した悲しい男の魂が流れ込んできて、「僕」と混ざり合いひとつになっていく。

 

 そう、蘇るのは僕の決意、彼女の献身、みんなの犠牲……。

 

 ああ、ありがとうシャンデラ。ありがとうシビルドン。君たちが預かっていてくれたおかげで、僕は思い出せた。ノボリとの日々を今度は失わずにいられるように、しないと。

 

 「前」を思い出したからって、余韻に浸っている暇はない。

 

「あ、あぁ、さっきまでいた、ということは、連れ去られたとしても遠くには、」

 

 シビシラスが僕を引っ張った。顔をあげれば、なにか向こうで騒ぎになっているみたいだった。

 

「行ってみよう!」

 

 「そらをとぶ」や「テレポート」で連れ去られたならとっくに追いつけなくなっているんじゃないか、とか。ノボリがひとりで怪我をしていたら、それが原因でノボリを失ってしまったら? せっかくみんなのおかげで僕たち再会できたのに!

 

 悪い予想は止まらない。恐怖に震える膝に鞭打って、走る、走る、走る、走る! そして、騒ぎたてられている場所につけば何かの施設が囲まれているみたいだった。カメラやマイクを持った報道関係者がたくさんいて、耳を澄ますと子どもが連れ込まれたとか、大きな悲鳴が聞こえたとか、そういう話が聞こえた。

 

 きっとここだろうけど、人目が多すぎる。僕が正面から潜り込めばきっと騒ぎになってしまう。だからこっそり裏口に回り込み、小さな身体を生かして塀を越えた。施設の中は、だだっ広かった。

 「前」の記憶を参考にすればおそらくはプラズマ団かその前身、あるいはその関連施設だろうと推測できた。厄介な組織だから「今回」もなるべく早くどうにかしたいところだけど、先にこんなことになるなんて。

 

 またお前たちか。覚えておけよ。

 僕はこっそりと考え、最優先でどうにかするように記憶した。次点の危険はもちろん怪しさ満点のロケット団だけど、そっちよりこっちが問題だ。

 進んでいくと喋り声というか、悲鳴というか、そういうのが断続的に聞こえてきた。まさか。

 

 急いで進むと、そこはところせましと頑丈そうな「ゲージ」が設置されている部屋みたいだった。怪しげな機械や薬品もあるし、雑多なポケモンたちがいっぺんに集められていたということがわかる。いろんなにおいが混ざってた。この手の、とっととつぶしたって誰にも文句を言われない組織には必ずと言っていいほどあるよね、こういうの。

 なんだか妙な懐かしい気持ちだったけど、それより憎らしいというか忌まわしいというか。こんなことわざわざ思い出したくなんてなかったよ。

 

「なんだこのガキ! あっちに行けよ!」

「ねぇ、そのポケモンたち、いやがってるの、わからない?」

 

 周囲を警戒しつつ部屋の中をうかがっていると、はっきりとノボリの声が聞こえた。あわてて現場に飛び込むと、もうそこはなんというか。大惨事というか。目も覆いたくなるような惨状が広がっていた。

 

 だって!

 まずノボリが怪我してる。それはもう、この世のおしまいに等しい。顔は可哀そうに頬が腫れあがってきっとこの中の誰かに殴られたんだろう。両足も擦りむいている。これは前からあったかもしれないけどわんぱくなノボリは生傷が絶えないからわからない。けど多分こいつらのせいだ。服も少し埃っぽいし、腕にも黒い汚れがついてるし、ああ、ああなんてことだ! 家に帰ったらちゃんと消毒して、この服は捨ててもらって、それで、しばらくお家にいてもらわなきゃ。今後どうなるのかわかったものじゃない。もしかしたら傷が化膿して悪くなってしまうかもしれないじゃないか!

 

 それから、組織の構成員と思わしき十人の大人たちがそこらじゅうに倒れていて、唯一喋る程度の元気があった男もヒトモシが生気を吸い取ったのですぐに黙った。とりあえずはよし。

 

「あれくだり? きたの?」

「ノボリ! 怪我してる! なんでここにいるの?」

「ポケモンたちがね、泣いてたから。ほら見てクダリ」

 

 ノボリのそばには。ああ、懐かしい顔ぶれがいた。まだまだ進化せずに小さなアーケン、くるくる回って喜んでいる二匹のギアル、ノボリの足に隠れてこちらを見ていたのは恥ずかしがり屋だったヤブクロン。君たちがここの人間を倒したのかな? それ以外にも小さな未進化ポケモンたちがノボリに助けられたらしい。きっと運搬中のトラックかなにかがノボリの目を引いたんだろうな……。

 

 でもね。「前」はこんな出会いじゃなかった。でも、きらきら目を輝かせてノボリと僕を見ている彼らにもちゃんと記憶があるみたいで、だから出会いが変わったのかもしれなかった。

 そもそも僕たちの性格も、なんなら生まれた時代も少し違うのだから違うことくらいは当然。ライモン駅にギアステーションは今もあるけど、バトルサブウェイがメインコンテンツというよりは普通の地下鉄だったし。サブウェイマスターは存在するけどエキシビションマッチやイベントごとでポケモンバトルを行う程度のもの。

 

 まあ、細かいことなんて考えたって仕方ない。それよりも今大事なのはなるべく早く家に帰って、ノボリの怪我の手当をすることじゃないか。きっとみんなも賛同してくれるだろう。手持ちたち以外のポケモンはどうしようかな。施設の外に出たらあれだけの大人がいるんだから何とかするか。

 

「もう帰ろ、ノボリ」

「うん」

 

 かつての手持ちたちはヒトモシとシビシラスと再会を喜び合ってて、結果的には良かったのかもしれないけど。でもノボリが怪我するのは良くない。みんなにももう一度言っとかないと。ノボリがまたいなくなっちゃうようなことが起きないように、細心の注意を払おうねって。なにが原因だったのか結局わからなかったのだから全部疑わなきゃって。

 

 とにかくノボリが怪我することは全部だめ。ひとりになることだってもちろんだめ。見えてる範囲にいてもあんまり離れるのはだめ。ぼくか手持ちの誰かがぴったりくっついて、いつでもどこでも手首でも足首でもいいから掴んで引き戻せる位置にいなきゃ。それから、それから、それから……。

 

「あのね、帰ったら消毒。怪我してるよ、ノボリ」

「そう? 痛くないよ?」

「あとから痛くなるかもしれない」

「そうなの?」

 

 無邪気な子どものノボリは首をかしげる。消毒は痛いだろうに、いい子のノボリはそれを嫌がったりしないけど、自分が傷つくことや痛みに相変わらず鈍感気味だ。良くない。でもそれは僕が気を付ければいいってことだから。

 

 念押しに、ノボリの左手をぎゅうっと握ってお願いする。

 

「ね、ノボリ。次になにか気づいたら、今度は一緒に行こ? 僕、ひとりぼっち、イヤだったから」

 

 小さなノボリは真剣な顔をして頷いた。この前母親に「兄」はノボリだと言われてからちょっとだけ兄ぶっていて、その延長なのかもしれなかった。今日ひとりで行っちゃったのもそれが原因なのかもしれないね。

 僕はあからさまにほっとした顔をして見せた。「お兄ちゃん」なノボリはそれを見て満足そう。かわいいね。

 

「ノボリ、無事でよかった」

「? うん」

 

 擦り傷のある右手を傷めないようにそっと握る。皮膚が少し擦れたのか、ちょっとだけ赤くなっている右腕をしっかり見て、あれもちゃんと消毒しなきゃと記憶する。

 

「クダリ、しんぱいしょう」

「どこで知ったのそんな言葉」

「ん、言ってた!」

 

 誰だろう。親のどちらかだろうか、それとも誰か町の人間だろうか。なんでも良かったけど。「大人っぽい」言葉遣いに自分が「兄」なんだぞ! と言わんばかりの背伸びした態度。かわいらしい子どもらしさを微笑ましく見つめながら、僕は大人しく手を引かれて帰路につく。

 もちろん、ノボリが転んだりしないように細心の注意を払い、無邪気なふりして先行して前の安全確認をしてくれるアーケンや後ろを守ってくれるヤブクロンたちと一緒に「今度こそ」をきちんと守りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダイヤを守って皆さんスマイル!」

「指差し確認、準備オッケー!」

「それでは今日も張り切って参りましょう。あのクダリ、ちょっと邪魔です」

「あっ、ごめんねノボリ兄さん」

 

 おっと失敗。接触はしていなかったけれど前に出すぎたか。少し下がってノボリに進路を譲る。にっこり笑って頷いたノボリにぴったりくっついて後を追いかける。ぶつからなきゃ後ろにいる分にはノボリは邪魔だとは思わないらしい。「前」よりも随分距離が近いのだけど、小さいころから少しずつ慣らしていったのでノボリにとってはこれが普通だった。

 

 僕たち仲良し双子車掌。サブウェイマスターは双子でもちろんそっくり、いつでもニコイチ。決めポーズさえまったく一緒で、ふたり並んで左右反転で決めポーズをするのは「そういうキャラクター」として売り込んでいると思われている。そういうところは「前」もそうだったし、「前」ほどポケモンバトル主体のサブウェイマスターではないとはいってもやっぱり「強いポケモントレーナー」だとは認知されている。

 

 連戦を勝ち抜いた先に待ち構えている「サブウェイマスター」よりも車掌業務がメインとはいえ、あのコートの衣装も一緒だし、勤めている鉄道員もほとんどが見慣れたメンツ。彼らも人並み以上にポケモンバトルが好きで、もちろん人並み以上の実力を持っている。

 だから、もしノボリの気が向けば上層部と掛け合って「バトルサブウェイ」仕様の車両を用意してもらうのもいいかもしれない。まあでも、「前」のバトルサブウェイを再現しようと思っているわけじゃないけどね。

 だってさ、列車の数や種類がなければ全部マルチになるよね? その方がいいな、シングルトレインの中でひとりでいるときに神隠しとかホントにどうやったって防げないじゃないか。これはあくまでノボリを喜ばせたいってだけなんだから。

 

 幼いころから、ノボリは「前」とは違うところがあった。僕の記憶にある限り、小さいころから「前」のノボリはあんまりわかりやすく笑うような人間じゃなかったし、だけどテンションが上がったり感銘を受けたりするとすぐに声が大きくなっちゃうタイプの人間だった。

 でも仕事やポケモンのことに関してはすごくすごーく真面目だったし、天才型の人間というよりは秀才型というか、コツコツ努力を続けることができる人間だった。少なくとも「今」と比較して。もちろんその強さには才能もあったんだろうけどさ。

 そして何事にも全力で挑む。そして自分が「いいな」と思ったことがあればすぐにでも相手に教えたがるような面倒見の良さがあって、自分だけじゃなくて相手にも「目的地」に到達してほしいという願いを持っていた。もちろん、自分が勝つことだって捨ててるわけじゃなくて、勝利したときには少しだけ顔を綻ばせながら相手の健闘を称えることだってある。

 

 今のノボリはかつてとは真反対に、人好きのする笑顔をいつも浮かべてる。そして前より天才型の人間らしい。前ほど物事に打ち込み、努力に努力を重ね、何事にも万全に整えて迎え撃つ……というスタンスよりは「なにか必要になったらやる」という感じ。

 そしてそれはいつだって上手くいき、なにをやっても人並み以上であり続ける。きっとさらに努力もしたら物凄いんだろうけど、このノボリはそれよりも足並みを揃えてみなさんスマイル! となることに重きを置いているらしい。おそろしく突出した天才上司よりも親しみ深い笑顔の身近な上司の方がいい、ということ。

 

 「前」との考え方の違いに最初は戸惑ったけど、ノボリは今も昔も僕のことをとても大切にしてくれるいい兄だったし、変わらずポケモンバトルが大好きで、バトルの腕前は微塵も変わらない。「前」と「今」、不思議な事だけど好む戦法は変わらないし、バトルの最中だけはあの地下空間の絶対王者の風格が漂う。

 

 まぁ、なんにせよ。ノボリはノボリってことなの。「今」は僕の抱いている兄弟へ向けるものではない愛を伝えていないし……伝えるつもりもないけど、それはそれ。僕からは変わらず、欠片も違わず愛している。

 

 この気持ち、伝えたいよ、ホントはね。でも。ノボリがいなくなったのはなにが原因かなんてわからないんだもの。そうでしょ? もしかしたら道ならぬ恋、それを成就させたことがダメだったのかもしれない。だってノボリとぼくは兄弟で、その上双子で、それはどう足掻いたって事実だ。なんて目を覆いたくなるようなおぞましい禁忌の重ねがけだったんだろうか。

 

 生き物として次代を残すことが「より強いもの」を残すための手段だということを僕は当然知っている。他ならぬ僕たちだって、これまで数え切れないほどの先祖が積み重ねてきた集大成。脈々と受け継がれてきたすべて……今を生きる生き物の存在意義とも言えるかもしれない。

 

 生産性がなかろうとそこに愛があるからいいじゃないか、なんて。

 強さを求め、勝利のために手段を選ばずおびただしい数の「孵化余り」を誕生させてきた僕が言っていいことじゃない。

 わかってるよ、わかってるんだ。想いが通じあったあとも、他でもない僕の憧れ、最強の王たるノボリが強い「次代」を残すことがないという事実を決定したのは他でもない僕だと思うと、ゾッとしたさ。

 

――そんなこと関係ないね、僕の知ったことじゃない、だって他ならないノボリは僕を受け入れた! 僕の道ならぬ執念、小さな子どもの時から抱え続けていた愛を受け入れたじゃないか。ノボリが赦してくれたのなら、他の誰が赦してくれなくても関係ない。なら、なら、これこそが正しいんだ。神様が文句を言おうと、たとえ親が、たとえ友が、たとえ僕を知る人間全てが僕の愛を糾弾しようとも、僕の「かわいいひと」を手放せるわけがないだろう?

 そんな風に。愚かな「前」の僕は思っていたのさ。ホントの悲しみを知らなかった僕、考え無しで愚鈍な僕は引き裂かれる激痛を知らず、喪失の痛苦になすすべもなく凍り付く。ただ諦めず、ただ歩き続けることさえできなかった! そして、無様に死に絶えてからようやく痛感したのさ、「きっと、僕のなにかが悪かったのだ」、とね。

 

 なにが悪かったのか? なにが原因で、なんの要因で、どうしてノボリだったのか、どうしてひとりだけだったのか、なにもなにもわかりやしないけど。それは僕の道ならぬ恋のせいかもしれなかったし、それ以外のせいかもしれなかった。

 

 ノボリに頼っていたのが悪かった? 僕たち黒と白のサブウェイマスター、双子の車掌。シングル・ダブルに担当をわけているとはいえ、僕らのことを知っている人間なら僕がどれだけノボリを頼りにしていたか知っている。僕はノボリの「ブラボーなアイデア」、なんだって叶えたい! って思って、公言してはばからなかったけど、それってつまり自分でなにかを思いつき、ノボリやお客様のためになにかをしよう! っていう気概が足りなかったってことじゃないの?

 

 いつでも丁寧な口調のノボリと違って「カタコト」な僕は同い年の双子なのに誰が見たって弟だってわかる。そりゃあ名前からして「ノボリとクダリ」なら「ノボリ」が兄に決まってるけど、名前を知らなくたって黒い車掌の方が兄だって思うよね。僕は言動が子どもっぽくて、対照的にノボリは年齢相応に見えただろう。そういう「不釣り合い」なところがダメだったってことかも。

 

 あるいは、ちゃんとノボリを大事にしていなかったってことなのかもしれない。

 思えば、ノボリだっていちポケモントレーナーなのだから、ポケモンバトルの余波で怪我をしてしまうことは結構あったし、僕はノボリのことを「かわいいひと」だとうそぶいているくせにこの世のありとあらゆる危険からきちんと守ろうとする気概が足りなかったのではないか、と。

 

 どうして僕は「前」にノボリが怪我をしたとしても救急箱や軽い手当をやるくらいだったんだろう? もちろん心配くらいはしたけどそんなこと当然のことで、「前」のノボリが例えば、いわなだれの余波を受けてしまい、頬にガーゼ、口元に絆創膏を貼って出勤していた時に僕はなんて言った? 「男前だね、ノボリ」なんて言って笑ったんじゃなかったか。

 

 思い当たった事実に背筋が凍る。わかってしまった! やっぱり、やっぱり、原因はこの僕だったんだって!

 

 ああ、ああ、ああああ! それだそれだそれだそれしかない! そのせいに決まってる! そもそも誰に赦されることもない愛だった、この世でノボリにだけ赦される愛! ならばノボリを大事にしなきゃ成り立たないじゃないか! あの時の僕はノボリの傷が治るまでしっかりと療養してもらうべきだった! 傷が化膿しないように手当てし、定期的に傷まないか確認し、万が一悪い菌が入ってしまわないように清潔に保った家の中にいてもらい、すっかり肌が元通りになるまでは絶対に外に出すべきじゃなかったのに。

 

 そうか、そうか、そうなんだ。きっとこれが完全な真実じゃないにしても、とても近いことに気づいたのは間違いない。ノボリを傷つけるもの、なにもかもからノボリを今度こそ護り抜きなさいというおぼしめしだ。もちろん、なにも叶えちゃくれない神様じゃなくて、ノボリや手持ちのみんなからのね。もう一度チャンスをくれるなんて、なんて寛大なんだろう!

 すべて理解して、僕は少しだけ安心した。良かった、もう一度ノボリが奪われてしまう前に気づけてよかった!

 

 僕は早くなった鼓動を静かに抑えつけつつ、なんとか何気ない声色を絞り出した。

 

「ノボリ兄さん? そういえば、この前ちょっと、怪我してたけど。今は大丈夫?」

 

 目の前の黒いコートがくるりと回り、僕を安心させる優しい微笑みが僕に向く。嬉しくなって、僕は努めて爽やかな「弟のクダリ」らしい微笑みを浮かべる。

 

「はい? 怪我? はて。覚えがありませんね」

「えっと、書類で指を切ってなかった?」

「あぁ。そうですね、もう一週間も前のことなのですっかり忘れていました」

「忘れてた?」

「ん、なにかおかしいことを言いましたか?」

「あ、ああいや。別に。痛そうだったから、そういえば大丈夫だったのかなって思っただけ」

「ふふ。クダリは優しい子ですからね。細やかなことをきちんと覚えているし、心配してくれる。まったく、いい弟を持ったものです」

 

 手袋を外し、すっかり傷のふさがった指を見せてくれたノボリ。じっと見つめると、一見何の傷もない白い指には薄く透明な線が残されている。

 だけどかさぶたも赤みもない。さすがにこれは大丈夫かな。

 

「良くなっててよかったよ、ノボリ兄さん」

 

 それ以外は制服でなにも見えないけど。もしかしたらどこかに他の傷があるのかもしれないな。確かめてみなきゃわかんない。ノボリのすべてを安全に清潔に完璧に保ち、どんな手段を使ってでもノボリを守護しないと。

 

 思い立ったが吉日と言うじゃないか。家に帰ったらすぐにでも確かめなきゃ。だってだってこれは義務なんだ。ね、だってそうでしょう。「前」のノボリは僕のものだった。「今」はそうじゃないけれど、この身体を守る義務があるじゃないか。だって、僕はノボリの弟、ノボリの片割れ、ノボリのライバル。そして最もこの世でノボリをわかってるのはこの僕だ。それすなわち、ノボリに関するありとあらゆる義務があるってこと。

 神様に言われなくてもわかってる。誰に命令されなくても自明の理、この世の真理じゃないか。

 

 ノボリ。僕は鉄の色の瞳を覗き込み、にっこり笑う。刃のようにきらめく瞳に僕の顔がくっきりと映り込んでいる。僕はノボリと同じ顔をしているけれど、こんなにも違う。僕を安心させるような微笑みの中に、肥大していく愛をひたすらに押し込めて隠し通す僕の顔が映っている。

 

「心配性もほどほどになさいな」

「ノボリ兄さんはいつもそう言うね」

「そうかもしれませんね」

 

 ノボリ、ノボリ、ノボリ。今日も君は僕のかわいいひと。今度はおこがましい願いを口に出さないから、僕のものだって言わないし、僕は君のものだけどそれを伝えないでおくから、だから。

 

 せめてこっそりと君を守ることだけは赦して。二度と半身を失わないで済むために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ノボリ兄さん、ノボリ兄さん、ねぇ待ってよノボリ兄さん!」

「ほら、わたくしについてまわって、タマゴから孵ったばかりのベィビィポケモンみたいでしょう? 最近のクダリはどうしちゃったのでしょうねぇ」

「せやな。それで白ボスはなんでそうなったんや?」

「さて。昨日からこうなのですが心当たりがとんとありませんねぇ」

「らしいで。ほな追っかけっこ頑張りや白ボスぅ」

「うううう! ノボリ兄さん〜!」

 

 ノボリは愉快犯だ。僕が必死になって追いかければ追いかけるほど早足になって廊下をスタスタ歩いていく。ついでに鉄道員を巻き込んで楽しそうに話しかけては通り過ぎる。

 なまあたたかい笑みを浮かべた鉄道員たちが僕らに敬礼し、労いの言葉をかけては見送っていく。大したこともない兄弟喧嘩だと思われているんだろうか!

 

「ノボリ兄さん! 覚えがないって? あのね、まだ今日、今日は取り替えてないから! 腕のガーゼと包帯! 足の塗り薬! 朝忙しいからお昼にやるって約束したじゃないか! ねぇノボリ兄さん! 待ってよ!」

「あぁ。そうでしたね。ですが、包帯ならさきほど取ってしまいましたって。もうしっかりカサブタなんですからそんなに大袈裟な処置をするより自然に乾燥させた方が早く治りますよ。足ももう痛くないです」

「えっ? ……だったら見せて! ノボリ兄さんは自分の怪我に鈍感なんだもの、心配なの!」

「まったく、クダリはいつにもまして心配性ですねぇ」

 

 本当にノボリってば自分の怪我に無頓着! 僕たちヤキモキが止まんないよ。ねえ? 同意するようにシャンデラが困った顔をする。シビルドンがヤレヤレと首を振る。ノボリの横でわけも分からず併走していたオノノクスがノボリに何かと話しかけて説得してくれているようだけど、ノボリは僕の「心配性」がうつったんだと認識しただけだった。

 

 そう、ノボリは怪我をしている。それもあちこち! いわく、腕の傷はポケモンバトルでうっかりと、らしい。足の方はかたくなに原因を教えてくれないからどっかで転んだんじゃないかと思ってる。

 

 「今」のノボリは明るくて親しみやすい人物をやろうとしてるけど本質は「前」と変わらないから愛想がいいぶん使った時間をプライベートで割いてるわけで。ポケモンバトルの戦法からバトル業務よりも複雑化している業務内容、前の十倍以上のお客様対応……そんなあれこれを考え込んでいるものだから、プライベートのノボリはスキまみれで気が気じゃないんだよね! しかもそのまま歩くから転ぶし! ハラハラするからもう部屋に閉じこめてしまいたい。

 毎日僕が服を洗濯してるけど、五日前にズボンに妙なスレがあったから気になってたんだよね。その日のうちに改めさせてもらって発見したんだけどさ!

 

 本当に悔しいことだけど、仕事中に四六時中一緒にいるのは無理。本社の上層部の人間がサブウェイマスターの実力をはかりたいなんて馬鹿なことを言い出して、僕が業務上の都合で不在のときを狙ってノボリに外部から雇ったエリートトレーナーとバトルをさせたらしい。

 まぁもちろん、僕のノボリが負けるわけないんだけど?

 

 ノボリはきちんと対応した。お客様としてではなくいちポケモントレーナーとしての実力を見せるために誠実なバトルをした。相手の雇われエリートトレーナーも礼節のある人物で、見せてもらったバトルレコードは見事なものだったさ。

 そこまでは問題じゃない。

 

 ないんだけど、そのエリートトレーナーはいわタイプを好んで使う人間だった。それで本社の人間が追い詰められるエリートトレーナーを見て、すっごくいいところでバトル中に口出ししたのさ。

 いくらなんでもマナー違反だよね?

 

 僕だって分別がない人間じゃない。そのエリートトレーナーは誠実だった。真っ当なバトルをする、真摯な人間ならいくら加害者だとしても僕は許すさ。もちろんノボリもね。横槍を入れられたせいで指示が狂い、そのせいで相手のポケモンの技がノボリに当たってしまって怪我をさせたとしても……本当に心からの謝罪を受けたのを僕は知っているから、それ以上なにもしないさ。彼はこれからもワクワクするポケモンバトルをする人間であり続けて欲しい。

 

 で、それはいいんだけど。元凶の方だよね、どうにかすべきなのは。

 とっくに本社なんて掌握したと思ったんだけどなぁ。ダメじゃないか、ねぇ。そんな勝手な行動を許すなんてさ。

 

 今回はシャンデラが乗り気だったから僕、任せちゃったけど。僕は僕で仕事のあと本社でたっぷりお話する羽目になっちゃった。これでちゃーんとわかってくれたらいいんだけどね。

 

「ただのカサブタですよ、こんなの。心配させるようなものじゃありません。それよりクダリ、貴重な昼休みをわたくしとの追いかけっこで終わらせるつもりですか?」

「ノボリ兄さんが心配なんだよ!」

「心配性も過ぎればしつこいですよ、クダリ。わたくしたち分別のつかない子どもじゃないんですから」

「ノボリ兄さん、ねぇ、お願い」

「もう、仕方ないですね」

 

 なんだかんだと僕に甘いノボリは足を止めて振り返った。今だ、逃がさない! 僕は勢いそのままノボリをひっ捕らえてそのまま安全な場所に連れて行って、なにもかもあらためようと思った。

 だってさ、基本的にノボリは僕の好きなようにさせてくれる。なのに今日に限ってこんなにのらりくらりと逃げるんだもの、なにかあったって考える方が普通じゃない? なにかあるんじゃない? きっと僕になにか言われると思ってさ、ノボリ、ねぇ、ホントのところはどうなの?

 

 だから、僕はちょっとしつこいくらいに追っかけてたってわけで。

 

 でも、そういうのは都合のいい想像。希望的観測ってやつ。現実っていうのはいつでも思った通りにならないの。

 つまり捕まえられたのは僕の方だった。完全に僕の動きを読み、腕を広げて待ち構えていたノボリの腕の中にがっちりと。しかも抱き留める力が強い。無理やり出ていけばノボリの腕を傷つけてしまうかもしれない。

 

 どうしよう、困った。

 

「はい、いい子になさい。それで? 医務室にでもいけばよろしいので?」

「う、うん……あのね、離して?」

「いい子にしたら離してやりますよ」

「えっとね、えっと、ノボリ兄さん、いい子ってどんなの? 教えて……」

「そうですねぇ」

 

 ノボリはぴとりと額と額を合わせた。制帽のつばがとっても邪魔。ずれた制帽を気にも留めることなく、ノボリの頬はえくぼを作る。

 ともすれば射抜くような鋭い目。きらめく瞳は研ぎ澄まされた刃のよう。僕は口をきゅっと閉じて待った。

 

 待つのは嫌いだけど、もうホントにうんざりなのだけど、待ったって報われないって知っているのだけど。さすがにゼロ距離状態で「今すぐノボリがどこかに消えてしまったらどうしよう!」なんて考えるより「今なら僕もきっと一緒に行けるだろうな」とゆりかごの中にいる心地だった。

 

「普段からもう十分いい子なのでわたくしからどうこう言うことはないのですけどね。なんだかそのうち焦って慌ててつんのめって転びそうなクダリを見ているともう少し大きく構えて欲しいというか、なにごとにものんびりしてほしいというか、えぇ、わたくし別に逃げたりしませんし」

「……うん」

「ええと、わたくし、あんまり逃げたりしませんし」

「そうかもね」

「まったく、こういう時は素直じゃない弟ですねえ」

 

 ノボリは優しく微笑んだままだった。なのに目を逸らすことを許さないような圧力があって、ついぼーっとしながらじっと顔を見ていると笑みが深まり、ハグはますます強くなっていく。ぎちぎちと締め上げていると言ってもいい。肋骨がぎしぎし軋んで、甘い痛みが胸いっぱいに広がる。

 

「クダリ。いい子っていうのはですね?」

 

 白い歯がのぞく口が笑顔の形に歪む。僕はそれをぽーっと眺めていた。完全に心奪われていた。そしてかわいらしいこのひとが紡ぐ言葉のすべてを聞き取ろうと耳をそばだてていたのだけど。

 

 その時、ライブキャスターのアラームが鳴ったんだ。就業時間開始の合図。昼休みは終わりを迎え、僕はまんまと逃げきられたってわけ。

 ようやくノボリから目を逸らした僕の落胆を見て、小さく笑われてしまった。ねぇ、どんな顔して笑ったの?

 

「うふふ。まあ退勤後にでも時間はありますしね」

「そうだね、ノボリ兄さん」

 

 ぱっと手を離したノボリは何事もなかったかのように持ち場に向かってカツカツと歩いて行ってしまう。僕はにっこりといつもの笑顔を作ってその背中を追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クダリはいい子ですよ」

 

 わたくしはそう言って笑う。

 

 いつだって冷静で、真面目で、仕事熱心。仕事に必要な知識は誰よりも詳しく、困っている部下がいればすぐにでも駆けつける。もちろんサブウェイマスターとしても実力にだれも異論などないだろうし、同じだけの仕事を抱えていながらわたくしの仕事を隙あらば奪おうとする出来すぎた双子の弟……それこそがクダリなので。

 

 そういう意味で捉えてもらうためにわたくしは笑う。とうに慣れきった、柔和な微笑みを浮かべて。

 

 ええもちろん。もちろん、その真意なんて。

 

 二重の景色の中でわたくしは笑う。きっとおまえを安心させることができるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ノボリ兄さん、僕、本当に心配したんだからね!」

「ええ、……その顔を見ればわかります。これはわたくしの注意不足です。クダリまで仕事を早退させてしまいました……サブウェイマスターとしてなんて体たらくでしょう。皆様にもご迷惑をかけてしまい……」

「自分を責めないで。ノボリ兄さん、僕のことはいいんだ。職場のこともいいんだ。みんなきちんと回しているよ、きちんとあらゆる『もしも』を想定して教育を行き届かせているんだから」

「そうでしたね、そうでした。しかしご迷惑をおかけしてしまったのは事実ではありませんか。左腕が使えないのは不便ですが、なんとか片手でお仕事をしながらリハビリしていくしかありませんねえ」

 

 片手でお仕事?

 ノボリ。君は一体、何を言っているんだ?

 

 冷静な僕がそうささやく。カッと熱い血が脳に巡り、僕はノボリを半ば転ばせるようにソファに座らせるとその腕を痛めないように折れた腕をうやうやしくとった。うやうやしく、なんてノボリは思わないだろうけど。無遠慮に掴んでいる、と言い直しても良かった。痛み以外なんにも配慮しないで、僕はノボリを見下ろす。

 

「ノボリ兄さん。腕が折れてて、全身にそんな怪我してて、それでも仕事に行こうっていうの? ちゃんと治して、万全になってからにしなきゃ、なにか後遺症が残ってしまうかもしれないじゃないか! ノボリ兄さん、ノボリ、ねぇぼくは家族として絶対に許せることじゃないって思うよ、しっかり休んで、お願い」

「あのですね、明日にでも出勤しようとは思っていませんよ?」

「そうじゃない。そうじゃないよノボリ兄さん、外はやっぱり危ないんだ、僕がどれだけ警戒しようが手持ちがどれだけ気を付けていようがどうしたって君は怪我をする、傷つけられて、割を食う。そんなの絶対に良くないことじゃないか」

「まあ生きていればときどき怪我ぐらいしますけれどね。おまえもでしょう? クダリ、どうしたっていうんですか。おまえらしくもなく遠回りな言い方をして。はっきり言ってしまいなさいな」

 

 僕の背が光源を遮る。切り取られた影の中でノボリの目が細められ、ほのかに光を放つ瞳の意味が読めない。その温度は怒りだろうか呆れだろうか、それとも。それともいったいなんだっていうんだ。

 なんだっていいじゃないか、みんな準備なんてとっくにできてる。覚悟なんてとうの昔に決まってて、ただ「前」には覚悟なんてなんの意味もなかっただけ。

 

「仕事中に、ううん仕事中じゃなくてもだけどさ、君が怪我をするなんてもう真っ平ごめんだって言いたいの! 骨まで折ってさ、ボロボロじゃないか、お客様の安全は第一だ、なんて言うけど、僕にとって唯一の家族が傷つくなんて見たくない!」

「しかしあれは悪意のあるものではなく、事故でした。そうでしょう?」

「経緯なんてどうでもいい、結果だけが真実なんだよ、ノボリ。どこに原因があったとしても、僕がどれだけ悪かったとしても、結果だけがあるんだよ」

「……ですから、そんな遠回しな言い方ではよくわかりません。クダリ、おまえが怒ってくださっているのはわかりますが、少々」

「ノボリ」

「頭に血が上りすぎています。極論ですよ、そんなものは」

 

 なんでその腕が傷つけられたと思ってるの? お客様同士のトラブルだとか、ポケモンバトルの余波だとか、直接のどうでもいい理由なんてなんでもいいの。そもそもの原因はノボリがなんでもかんでも解決しようとする、人が良くって優しくて、誰にでも頼られるサブウェイマスターだからだ。

 僕がどれだけ「前」より頼れる人物になったって関係ない。僕がどれだけノボリの仕事をやったって関係ない。「前」をなぞるのはただただノボリの喪失を黙ってみているだけと同じだから絶対にないにしても、僕がどれだけ頑張ったとしても、みんながどれだけ警戒したとしても、他ならないノボリがあっちこっちに動き回って傷つけてくるんだったら意味がないじゃないか。

 

 もうノボリを自由にさせておくなんて我慢ならない。全部全部見えるところで、管理しきって護らなきゃ。そうでもなきゃ、きっと連れていかれてしまう!

 

「わたくし、確かに少しばかり無茶をしてしまったかもしれませんね。優しくていい子なクダリがこうも怒ってしまうほど。ポケモンボールもさっきから揺れっぱなしであとで怒られてしまうのでしょうけど。ええ、もちろん。クダリが怒ってくださるのはわたくしにもわかりますとも」

「ねぇノボリ、君って思ってるより楽観的。ぼくたちもう我慢ならないの、わかってる?」

「楽観的とは。ええ。まあ悲観的なクダリよりは楽観的でしょうけどね。おまえたちの思う気持ち、わかっているつもりではありますが」

 

 煽ってるの? ねぇ。

 

 今日のギアステーションは大荒れだった。いつも通りの大盛況の中、やたらトラブルが多いな? と思ったのが全部の始まり。

 仕事中もずーっとノボリと一緒にいられたらいいんだけど、僕たちのメイン業務が「車掌」って時点でそうはいかない。ノボリだけがトレインに乗っているとき、僕だけがホームにいるとき、当然ある。だからサブウェイマスターという立場を利用して手持ちを常に一緒にいてもらっているわけだけど。

 やっぱり常にポケモンを出し続けるってわけにもいかない。バトルサブウェイ仕様じゃない車両はやっぱり狭いし、お客様でごった返しているときなんて特にそう。

 

 今日のノボリはお客様の喧嘩を仲裁し、ホームで起きかけたポケモンバトルを阻止し、やっと捻出した休憩時間中に外で追加でなんか怪我してくるし、挙句僕の見てないところでボールを全部置いてホームに出てトレインに接触して骨折! もう全部が我慢ならないのにノボリが危機感ってものを持ち合わせてなさすぎて最悪だ。最悪なことが重なり合って、ノボリがこんな目に遭った!

 

 ノボリは「前」とは違う。もちろんノボリはノボリなのだけど。「前」のノボリは隙がなくて、僕なんて必要としていないのに隣に立つことを許してくれる優しいノボリ。「今」のノボリは僕が手を掴もうが寄りかかろうが好きにさせてくれて、だけどいろんな人間にも「許して」しまうような、誰にでも優しくて、僕だけのものになってくれない、そんな人間で。

 

「ねえノボリ兄さんは、なにもわかってないよ。この日常だって気を抜いたらすぐになくなってしまうの。平和なんてかりそめで、幸せなことなんてあっという間に過ぎ去って、僕たちはひとりぼっちになってしまう」

「クダリ?」

「ううん。知らなくていいよ。ノボリ兄さん。ただ僕たちすっごくすっごく心配してるってことだけわかってくれたらいいんだ。ノボリ兄さん、ちゃんと治そうね」

「ええ……」

 

 ホントは全部全部ぶちまけたかった。僕たちのかつての寒さを全部ぶちまけて、ノボリにわかってもらいたかった。でも、ノボリはなにも知らないんだ。知らなくていい。知らなくていいんだけど、僕たちは焦っていた、だって!

 ノボリがこんな大きな怪我をして、今回はたまたま帰ってきてくれたけどこんなことが続いたらノボリはまた僕たちの目の前からいなくなってしまうに違いない。僕はノボリをちゃんと守れてない、みんなもきっとわかってる。不甲斐ない僕の前からまたノボリがいなくなったら……あああああ、考えたくない!

 

「シャンデラ、ドリュウズ、シビルドン。明日はお留守番、お願いね? ノボリ兄さんがまた無茶しないように」

「無茶なんてしないですよ? 大人しくお留守番してます。というか右腕は全然いつも通りなんですよ?」

「ノボリ兄さん、僕たち不安なの」

「……心配かけてしまって、本当に申し訳ないとは思っています」

「ちょっとは甘んじててよ。いつもノボリ兄さんは仕事を頑張ってて、だからそうなったんでしょ。もしかしたら疲れがたまっていたのかもしれないし。ちょっと長めの休暇だと思えばいいよ」

 

 もちろんノボリが仕事を休むならノボリの手持ちも休みだ。きっと明日は大丈夫、流石に昨日の今日で僕まで仕事を休むことはできないけど、みんながついてるなら少しは安心できる。僕と同じものを見てきたみんななら、同じ寒さを分かっているみんななら、きっとしっかり見ていてくれるよね。

 

 もうこれまでの通りではいられない。僕たち二両編成でサブウェイマスター。その原則はなぜか守ってなくちゃいけないって思ってたけど。そうじゃないよね、大事なのはノボリを守ること、二度とノボリを失わないようにするにはギアステーションは危険な場所すぎる。

 少しもあの場所が名残惜しくない、とは言えないけどさ。ノボリと毎日一緒にいられるなら……あの日々との正反対で、どれだけ幸せなことだろう。なら他のことなんてどうでもいい、すべての危険を排除した、安全で平穏な日々になるのならそっちの方がいいに決まってるじゃないか。

 

 引っ越すのもいいけど。外に出るのは危ないよね。今の部屋に不満はないけど、ギアステーションから近すぎる。ノボリに未練があるのなら、ある日突然ひとりでふらふらっと退職した仕事場に行ってかつての仕事仲間に挨拶して……とかやりそうだよね?

 よくない! 絶対によくない!

 

 早いところ引っ越そう、別に外に出る必要もないんだしどこでもいい、遠くに行こう、すべての危険から遠い所へ。大丈夫、みんなも一緒、僕も一緒、寂しい思いはさせない。

 

 ノボリは変だと思うかな? 「今」の僕たち、前みたいに想いが通じ合った仲ってわけじゃないんだもの。双子で、トクベツ仲がいい双子の兄弟で。それだけ。寂しいけど、だって血の繋がった兄弟が「そういう関係」になるなんて普通じゃない。普通じゃないことをしたからノボリがいなくなったのかもしれない、だからノボリを奪われてしまったのかも。

 

 怖い怖い怖い! 嫌だ嫌だ嫌だ! またノボリがいなくなってしまう、また、またまたまた、またいなくなってしまう! 恐ろしくて、どうしたらいいのかわからなくなって、ノボリはでも、目の前にいる。なら大丈夫、まだ大丈夫、そうだよね?

 

「クダリ、なんて顔をしているんですか」

「どんな顔?」

「泣きそうな顔」

「そうかも、しれない」

 

 ノボリの腕が伸びて僕を抱きしめる。

 

「心配性で優しいわたくしの弟。もったいないくらいです」

 

 なんの含みもないノボリの優しい言葉が耳を打つ。僕たちのドロドロの妄執とは真逆の清らかさ。穏やかな優しさと、ごく普通の親愛を込めて僕らを見ているんだから。

 僕たちはずるいの、「知っている」んだから。僕はずるいの、ノボリとは違う温度の感情なのに、それを黙っているんだから。僕はずるいの、なのにノボリの優しさにつけこんでいるの。

 

 なんだって構うものか、ノボリを二度と失わずに済むのなら。僕はどんな悪魔になったって、構わないの。ノボリに嫌われたっていい。失わずに済むのなら……。

 

 そのあたたかさに触れながら、僕はそっと抱きしめ返す。もうこれから、僕は君を危険な外には出さないし、全部守るために頑張るから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リビング。すっかり定位置になったふかふかのソファにノボリはいる。擬似的なふたりきりも悪くないけど、ちょっとでも寂しいとどっかに行っちゃうんじゃないかと心配で、引っ越してからはすべての手持ちは出しっぱなしにしている。

 もちろん、寂しいかもしれないというのはホントだよ。ノボリはあんまり単独行動する人間じゃないし。みんながノボリともっと一緒に過ごしたいと思っているのもあるし、単純にノボリを見る目は多ければ多いほどいざと言う時のためにいい、という考えもあるからなんだけど。

 

「思っていたよりもクダリって心配性なんだなとこの療養生活を通して思いましたね」

「そうかな? 普通に家族として当然じゃない?」

「心配性ですよ。それから手持ちたちもクダリによく似て心配性というか」

 

 すっかり動くようになった腕を曲げ伸ばししながらノボリは笑ってた。新居にもすっかり慣れて、リハビリも順調、ほぼ完了と言ってもいい。

 

 そして、ちょっとだけだけど、僕たちの関係性が変わった。

 

「ちょっと見せて」

「はいはい」

 

 ノボリの左腕に触れて、曲げて、伸ばす。相変わらず僕たちは太陽の光を浴びない生活を続けているからシミも日焼けもない。そっと手首をさする。腫れもなく、なめらかな皮膚。あたたかくて、きっと耳をすませばその血潮の流れさえわかるはず。

 手のひらをそっととって、右手の傷跡に触れる。この前まではすっかり傷自体は塞がっていたものの、色素の沈着があって触れると少しばかり皮膚が薄いのがわかったけどそろそろそれもなくなっている。感慨深くなってじっと眺めていると、ノボリはおどけてピースサインを作った。……なんでそんなかわいいことするの?

 

 次にひざまついてすそをまくり、足を改め、ふくらはぎを目で確かめる。力の抜けたやわらかな筋肉に今日もなんの問題なし。ここはあんまり触るとくすぐったがるから確認は手短にすませる。

 最後に腹。ノボリったら隠してたんだよね、どこで作ってきたんだか、あざがあってさ。痛々しい青あざ。人にぶつかった? いやいや。なにかにぶつけたのか、殴られたのか。聞き出すことはできなかったけど、本当に痛々しくて。痛みに対して湿布を貼るくらいしか僕にはできなかったけど少しずつ薄くなっていき、どんなに目を凝らしてもようやくわかんなくなったね。

 

 あとはこの前日記を書く時に紙で指を切ったのと、ドアを開ける時に足を挟んだ時のあざだね。ノボリはなんにも思ってなさそうだけど、どうして怪我を増やしちゃうの! ってヤキモキしちゃった。今度は大きな怪我じゃなかったけど、本当にどうして! って。

 

 でもいいこともあって、この「療養生活」でノボリは僕に隠し立てしなくなったっていうか、ようやく隠したり誤魔化したりしたら余計「心配性」になってしまうって分かったみたいで。嫌がることは前からあんまりなかったけど、今は結構服をまくっても嫌がらないっていうか。

 僕を見る目は完全に「弟」を見るそれで、微笑ましく見られてるんだけどね。

 

 「前」もそうだったけど。ノボリは僕の「かわいいひと」だけど、ノボリも同じ感情になってくれるのはこっちから意識させなきゃいけないかもしれないね。まあ今回は意識しないでいてくれた方がいい。

 

「わたくしこの通りすっかり元気になったつもりなのですがねぇ」

「次、指見せてノボリ兄さん」

「はいはい」

 

 指の傷を改める。化膿することなくカサブタになっているね。新しい処置はいらないね、経過よし。

 その間にアイアントがノボリの靴下をひっぺがしてくれていた。ドリュウズとアイアントが先に検分してくれていた足のあざ。いまだ赤黒く痛々しい。どうやったら家の中のドアで挟んでこんなに痛そうになるの。うっかりしてましたって言ってたけど、ノボリってそんなうっかりさんじゃないでしょ。

 きっと考え事とかしてたんだろうけど……それこそ仕事のこととか。真面目なんだもの。もう行かせないけどさ、ノボリはまだそうとは思ってないのかもね。

 

 あんまりにも僕が心配するから、と今回の退職は認めたみたいだけど。まさか一生働かせないし、本気で家からも出られないとは思ってないのかも。

 

 いいよ、今はそう思ってても。そのうち僕たちが本気なんだってわかるだろうから。

 

「ノボリ兄さん、足のアザはどう? 痛い?」

「なにもしなければ痛くありませんよ。強く抑えたらさすがに痛みますが」

「そっか。まだ痛そうな色してるし、湿布変えておくね」

「えぇ、ありがとうございます」

 

 包帯をとって湿布を剥がす。新しい湿布に貼り替えて、新しい包帯を巻き直し、傷を痛めないようにそっと靴下を履かせなおす。

 

 痛くなかったかな? 不安になってちらりと表情をうかがうと、ノボリはにこりと笑った。小さな花が咲いたような、そんな微笑み。

 

「痛くありませんよ」

「なら、いいんだけど……」

 

 いけないいけない。ノボリと手持ちと過ごしているとつい気が抜けちゃっていけないね。これじゃあ「前」の頼りない僕に戻ってる。ノボリに甘えて、楽観的で、ニコニコ笑ってなんだって大丈夫、乗り越えていけるって信じてる僕に逆戻り。

 そんなのダメ。いつでもどこでもノボリに全幅の信頼をしてもらえる、頼れる弟にならなくちゃ。サブウェイマスターをしていたころと同じようになんでもそつなくこなせるってことをアピールしなくちゃ。

 

 ただでさえ不便な思いをさせているんだから。きっと生活のなにもかもが不満だと思う。ノボリは優しいから受け入れてくれているけど、ホントは僕なんていなくても全然ひとりで生きていける。「前」とノボリの本質は変わらないんだもの。

 やろうと思えばノボリはこの家から簡単に出ていける。手持ちたちが阻んだって、僕が止めたって。きっとあの日のように、霧のように消えてしまう。ノボリが嫌になったら、簡単だ。あっという間にこの穏やかな日々はおしまいになって、僕たちはまた永遠の放浪者になるんだろう。

 

「よいしょっと」

 

 アイアントの頭を撫でながら考え込んでいると、ノボリが僕の頭をぽんぽんと撫でた。思わず見上げるとノボリが足をかばいながら立ち上がる。立つの、手伝えばよかったかな、とも思ったけどさっさと立ち上がったノボリは足を軽く引きずりながら窓へ向かう。外なんて気にして欲しくなくて、掃除の時以外はシャッターをおろしっぱなしの窓へ。

 

 もしかして外が見たいの? 外なんて意識して欲しくないんだけどな。無理やりにでも窓のない家にしたら良かったかも。それか地下室の部屋にするとか。僕たち地下の住人なんだもの、その方が良かったかも……。

 

 あっ! ノボリ、最近ぼーっとしてることが多いから。窓なんて開けたら手を挟んじゃうかも。さすがに落ちるってことはないだろうけど、あの足で踏ん張ったら痛いかもしれないし。なんせ滅多に開けることがないからいつでも錆つきかけてる。

 ぱっと立ち上がって回り込む。寝起きみたいに気が抜けてぽーっとしていた目が僕を見ると光を取り戻す。

 

「ノボリ兄さん、僕が開けるよ!」

「え、そこまでしてもらわなくても」

「僕も外の空気、たまには吸おうかなって」

 

 嫌だな。ノボリが自由な外へ行きたいって言うならどうやって止めればいいの? 僕たちは結局、もはや幻より頼りない、なんの証拠も証明もできない「記憶」に囚われているだけ。ノボリはそれを知らないし、知る術もない。

 「心配性」な弟と、そこがよく似ちゃった手持ちたち。きっとこの荒唐無稽な話を打ち明けたってなにもかも悪いように考えすぎですよって言うだけさ。

 

 なにも知らない無垢な横顔のまま、ノボリは窓枠に手をおいて外を眺めている。シャンデラがぴったりとうしろに張り付き、オノノクスが真横に寄り添って。

 

 久しぶりに見た外。大雨で降っていたらよかったのに、生憎(あいにく)どこまでも見通せそうな天気だった。透き通る空にゆったり流れる雲、みずみずしい外の空気が部屋を循環する。鼻をくすぐる土の香りとどこか甘い香り。新鮮な空気を胸いっぱい吸い込むと気持ちがいい。ノボリのちょっと不健康なほど白い肌が夕日に照らされて赤く染まる。僕の頬も熱くて、みんなみんないっしょくたに夕焼けに吸い込まれていくみたいな綺麗な光景だった。

 

「なにか、懐かしいような気がします」

「なんだか夕日を見ると物悲しくなるね」

「かなしい?」

 

 バッと振り返ったノボリはなぜか僕の顔を見ると急いでシャッターをおろし、窓を勢いよく閉めた。誰も止める暇なんてないくらい、鬼気迫る勢いで。

 

「わ! 危ないよノボリ兄さん! 怪我してない?」

「するものですか。したところで大したものではありません。そんなことより!」

 

 そのまま機敏な動きでずんずんと、足の怪我なんて全く忘れてしまったように勢いよく迫ってくる。そしてぎゅうと、痛いほどにぼくを抱きしめた。

 

「かなしい思いをさせてしまったなんて! おまえを安心させられる、そんな人間になりたいのに。どうしておまえは泣きそうな顔をしているんです?」

「泣きそう?」

「不安な顔をしています。どうしたって言うんですか。クダリ。涙がこぼれて、あぁ、泣かないでクダリ。わたくしの大事なクダリ」

 

 指が目元をぬぐう。あとからあとからぼろぼろとこぼれ落ちていく涙が止まらない。

 違う、違うんだ、悲しくなんてないよ。寂しくもないし、寒くもないんだ。だってノボリはここにいる。優しい兄は、かわいい君は、霧の向こうに行ってしまわないでぼくのそばにいるじゃないか。

 

 なにを恐れることがある? どんな凶悪な組織を滅ぼした時だって怖くなかった。後ろ指をさされ、片割れと一緒にあたかかい心ってものを失ったんだって言われてもなんとも思わなかった。ノボリを取り戻すためならなにを犠牲にしたって良かった。そんな日々に比べてみたら今なんて、幸せの絶頂じゃないか。

 一体ぼくはなにが不満で、なにが悲しくて、なにが怖いっていうのさ。

 

「ノボリ、どこにもいかないで……」

 

 なのに、か細い声は頼りない。到底「ノボリ兄さん」に聞かせられたものじゃない。こんな頼りない弟なんて簡単に振り払えて、君は自由に生きられる。なにかと理由をつけて狭い家に閉じ込めて、真綿にくるんだかのように大事に大事にされるつまらない日々じゃなくて、ノボリが胸を躍らせるであろう、あらゆる目新しい目的地に向かって進んでいける日々の方がずっといい。

 

 ノボリ、君はホントは、こんなところにいるべきじゃないよ。さびついてしまうじゃないか、魅力的な君のすべてが。わかってるんだ。なのにぼくは手を離せない。かつての穏やかな日々、想いの通じ合った幸せをなぞりたくて、耐え難くて、ぼくは戻りたがっている。

 ならまた、愛を伝えればいいのに。そっちも恐ろしくてできやしない。臆病なまま中途半端。

 

「わたくしが、どこかに行ってしまうのではないかと恐れている? クダリ、わたくしがどこかに行ってしまうのではないかと思って、かなしくて、そんな顔をしているのですか?」

 

 涙で歪む視界の向こう、表情の乏しいノボリは気づかわしく言った。きっとなにも知らない人が見たら仏頂面に見えるけど、優しい優しい兄の顔をして。

 

「クダリ。わたくしはね」

 

 涙でべたべたになった頬を優しい手のひらが撫でさする。強く抱きしめた左腕が、ノボリが確かにそこにいるんだって教えてくれる。あたかかい体温、僕が好きな君の鼓動が直接伝わってくる。

 

「かわいいおまえとずっと一緒にいたいのです」

 

 それは在りし日の、情けない「ぼく」の告白。それの再現。

 反対の立場で、だけど相変わらずぼくは情けなく泣いている。世界一決まらない告白が思い出されて、耳まで真っ赤になったのがわかった。

 

「ずっと一緒にいませんか。この世が終わろうとも、ずっと一緒にいませんか。だから泣かないで、かなしがらないで、わたくしのおまえ」

 

 ノボリはちっとも笑ってなかった。いつもの、「僕」を安心させる微笑みなんてなかった。だけど、この世で一番やさしい顔をしていた。

 

「あのね」

 

 ぼくは情けない顔のままそっと顔を寄せた。わぁ、とても塩辛い。ぼくのせいで。いつだってしまらないね、ぼくって。でも、こんなぼくを君は「かわいい」って想ってくれるんでしょう?

 

「またぼくから言いたかったのに」

「だって、だって遅いんですよ」

 

 ノボリはどこまで知っている? そんなこと野暮だった。どこまで覚えているの? なんて聞くまでもなかった。「ノボリ」の魂のかけらから飛び出した奇跡なんだから。

 

「おかえりなさいノボリ。ぼくずっと、待ってたの」

 

 謎めいた薄い微笑みを浮かべてかわいい君はそこにいた。

 いつまでも、いつまでも、ぼくたちは今度こそわかたれることなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生まれた時から心の底はいつも乾いている。正体不明の罪悪感が常にあって、わたくしは焦り、答えを探していた。

 

 「答え」を見つけてからは、ええ。なんとも毎日が快適で、あんまりにも穏やかなものだから拍子抜けしてしまったのですけれど。

 

「ノボリ兄さん、足もすっかり良くなったね。これで全部良くなった!」

「おかげさまで。どこまでも走っていけそうな気持ちですよ」

「えっ! ……僕も行っていい?」

「それくらい元気ってだけですったら」

「だよね。ノボリ兄さん、ずっとここにいてね」

「もちろん」

 

 ちょっとからかうだけで打てば響くクダリはすぐにわかりやすく動揺する。なんてかわいらしいのだろう。わたくしのかわいいおまえを手放すなんて絶対にないのに。

 

 「渇望」の正体はなんてこともない。クダリだった。簡単な答えなんでしょうね? 生まれたときにひとつだったものをふたつにされてしまったのは見えざる神の残酷な行為でしたが。こうして寄り添って暮らしていけるならなかなか悪くないものです。

 

 クダリは、決してわたくしを離しやしないでしょう。

 

「しかし運動不足気味なので久しぶりにランニングするのもいいものですね」

「ならランニングマシン、出そうか? 待ってて、今準備してくるねノボリ兄さん!」

「待ちなさいな。準備くらい自分でやりますよ、もう。世話焼きなんですから」

「僕もやりたいから……ダメかな?」

「一緒にやれば二倍の速度で終わるじゃないですか。そうしませんか?」

「そうだねノボリ兄さん」

 

 決して、決して離しやしないでしょうが。ええ、天と地がひっくり返っても。そんなこととっくの昔に確信しているのに。

 

 わたくしは、この悪癖をやめられない。

 

 物入れから協力してランニングマシンを引っ張り出す。大型の機械ですから二台分を用意するのはなかなか骨が折れる作業です。

 ええ、文字通り、ね。

 

「おっと……」

「ノボリ危ない!」

 

 サイコキネシスが使えるシャンデラや素早さの高いアーケオスが近くにいないのは確認済みですよ、クダリ。そしてわたくしはかわいいおまえに怪我なんて絶対にさせたくありませんのでそちら側に倒したりしません。

 

 家に閉じこもっているっていいものですね。クダリに怪我をさせないように振る舞うなんてとても簡単なことです。反対に自分をいかに痛めつけるのかは思いついても実行するのはちょっと難しいのですが、なんだかんだとわたくしに甘いクダリの隙なんていくらでもあるじゃないですか。

 

 決して。決してわたくしもクダリを手放すつもりなんてありません。どんな手段を使っても。

 

「ノボリ、ノボリ! 大丈夫!? ああ、ぼくが、ぼくがちゃんとしてなかったから……」

「クダリのせいじゃありません。そんなに痛くも、ないですよ。見た目だけちょっと派手ですけど」

 

 足の負傷を連続でするのも芸がない。左腕を折ったときはなかなか良かったのですが、やはり利き腕を派手に破壊した方が絵になるでしょう? 不便そうで哀れっぽくて。それにこんなに「うっかり」ならきっともう崇高な「使命」なんて任せられるほどの人物には見えないでしょうね? 

 わたくし「もう一度」やるのはごめんです。おぼろげな記憶の中でもはっきりと覚えていることがありますからね。だって! クダリと離れ離れになってしまうので。

 

 無残にもあらぬ方向に折れ曲がった右腕。付随する焼け付く痛みなんて全然大したことありません。

 

 可哀そうなほど真っ青になったクダリがどこかに電話して医者の手配をしているのを聞きながら、すっかり定位置になったソファにわたくしはゆっくり腰を下ろす。心配げにくるくるわたくしの周りを旋回している幼いレディ・シャンデラにはショッキングな光景だったかもしれません。物入れからリビングに来るまでの間に何度も転んでしまうほどシビルドンをびっくりさせてしまったことには少々罪悪感がありますね。

 

「最近うっかりしていることが多い気がします。仕事をやめて気が抜けているんでしょうかねえ」

 

 壊れ物に触れるかのようにそっとわたくしの腕を調べ、応急処置に走るクダリの背を見てのんびりと言う。どれだけ痛くともクダリを安心させるための微笑みは絶やさずに。

 

 ああ、なんだか喉が渇いていた。本当の渇きではなく、わたくしの魂が求めている乾きだ。

 ここまでやってもクダリを絶対に我が物にしたと確信していないのかもしれなかった。がんじがらめの愛のつもりでいるかわいらしいクダリ。本当は糸を伸ばし、鎖で縛りつけているのはこちらなのに。

 

 どこまでもやさしくかわいらしいおまえと違って、悲しみのあまり狂い死んでしまったわたくしは、どうやっても満足できない、確信できない。こんな方法でおまえを縛り付けなくては安心できないのです。

 

 こんなわたくしの心を知ったら呆れますか? クダリ。

 ですが呆れても手放したりしないでしょう? わたくしの、かわいいおまえ。

 

 泣きそうな顔をして医者の到着を待っているクダリをちょいちょいと手招きし、寄ってきた無防備な耳にささやく。

 

「夢みたいに幸せじゃありませんか?」

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