「コーヒーをしこたま飲ませておきながらこの暴言、これぞクダリ」
わたくしのからだにしがみつくクダリ。かわいい顔に懇願を浮かべ、しかしがっちりと離してはくれません。どうしてこうなったのか。
いえ、どうしてもこうしてもないですけど。
「今おまえが押し込んでいるのはわたくしの膀胱です。わかりますか、張っているのが」
「わかるよ。ここにたっぷり幸せが詰まってるんだね?」
クダリに何をされても、それこそ目に入れても痛くないほどかわいいはずではありますが。しかし神聖なる職場で尊厳を失うわけにはいきません。申し訳ないのですがスラックスを濡らすわけにはいかないのですよ。
ですから、執拗に腹を撫でるのはやめなさい。
『クダリはそういう子なのです』
すっかりまるで終わりのない書類作業も煮詰まり、もはや今月の残業時間を数えるのはやめました。繁忙期なので仕方がないとはいえこの時期はなかなか帰れなくて嫌になりますね。
そういうわけでそろそろ作業効率も落ちてしまって良くありません。新しいコーヒーを淹れがてらトイレに行こうと席を立ちました。するとまったく同じタイミングで流石双子と言いますか、クダリも新しい飲み物を淹れるべく給湯室で鉢合わせ。ハイになって目をぎらつかせてこんもりと山のように砂糖を注ぎ込む姿は世間のイメージである爽やかな白の白のサブウェイマスターとは思えませんがすべて過重労働が悪いんです。
そこまではまあ良かったのですが、やはり双子と言いますか、もよおすタイミングも一緒だったようです。ひとつしかない従業員用のトイレ、その入り口。別に中のトイレまでひとつではないので鉢合わせるのはいいのですが。
クダリのやさぐれ過重労働フェイスはさっきまでのどことなく茫漠とした虚無顔から信仰対象の偶像を無残にも焼き討ちにされたかの如く驚愕顔に変わり、わたくしの腕を両手でがっしり掴んで引き留めてきました。
ああ、はじまりますよ。
「あのね、ノボリ兄さん。もしかして疲れてる? ノボリ兄さんはそこに用事はないよね?」
「はぁ……」
それ見たことか。
出ました、それ以外は完璧なのにすべてを台無しにするクダリの唯一にして最大の
そう。双子の弟であり、わたくしと寸分変わらぬ肉体スペックを持ち合わせているはずのクダリは兄であるわたくしがトイレに行かないと固く信じ込んでいるのです。本気で。
正確には「ノボリ兄さんはトイレに行くなんてしない!」らしいですが。いえ、これだと少しばかり語弊がありますね。
わたくしにとって「排泄」はまったく生命維持に必要のない行為……もっと言えばわたくしのからだからは涙と唾液以外の分泌物など存在せず、ゆえに一切トイレに行く必要がないし……有り体に言うとわたくしの不浄の穴は生まれてこの方一度たりとも使われたことのない最も清潔な器官だと全く疑っておりませんし、わたくしには微塵も性欲がなく、永遠に清いからだであり続けると信じ込んでおりますし、いくらカフェイン入りの水分を摂取しても膀胱が膨らむことなど絶対にありえないと心の底から信じ切っているのです。厄介なことに。ええ、面倒くさくも健気なことに。
それでいてわたくしのことをちゃんと双子の兄だと認めているし、真っ当に生物として生きているとも分かっているんですからまったく手に負えません。もちろんクダリは信じたいことの否定をしたくがないためにお勉強を拒否しているわけでもなく、人体の構造なんて常識的なことは把握していますし、同時にわたくしのことをなにか別次元から飛来した、人知を超えた不可思議な存在として崇めているのです。厄介なことに。
「この手を離しなさい。さもなくばこの場でお小水を漏らしますよ」
「あー! あー! なにも聞こえない! ノボリ兄さんはトイレに行くなんてしない! ノボリ兄さんから出るのはとろけるように甘い涙と銀に煌めく唾液だけ! ノボリ兄さんは、ノボリ兄さんは僕のアイドル! もちろんアイドルだからトイレに行かない!」
「おーやっとるやっとる」
同じく一息入れに来たのかトイレ近くの喫煙室から出てきた鉄道員の皆さま方から生暖かいものを見る目で見られてしまいました。あの、可哀想なわたくしを助けてはくださらないのですか。こんな愛しくも大変気持ち悪い男に絡まれているわたくしって非常に哀れではありませんか? 助けるべきですよね? それともすでに人類にはもう手に負えないのですか?
いえわかってます。クダリはこの世の誰よりもわたくしを妄信執着しきった驚愕のブラザー・コンプレックス。こうなってしまえばわたくしの言葉が通じないならば他の誰の言うことも聞かない、というのは分かり切っておりますとも。それでも、親愛なる「黒ボス」を助けるそぶりくらいしてくれてもいいのではありませんか? 査定に響くかもしれないですよ? いえ、職権乱用なんてしませんけど。
……多少の評価よりこの状態のクダリに目を付けられたくはありませんよね。当たり前のことでした。
なんて遠い目をしてクダリを振り払おうと力いっぱい腕を振っていると突然クダリはわたくしを抱き寄せ、そっと首の後ろ辺りに顔をうずめて深呼吸するという不思議な動きをし、かと思えばさり気なく胸元をほおずりし、いきなりからだの密着をやめてぱっと目を合わせ、瞳を輝かせて言ってのけました。
「あ! わかった! ノボリ兄さんって本当に優しいんだからもう! 僕たちここのところ毎日クタクタ、ぜーんぜん書類作業終わらないし! そのせいでトイレ掃除がおろそかになったんじゃないかって心配してくれたんだね? 兄さんったら優しいね! なんて配慮してくれるんだろう! でもね大丈夫、僕やっておくから! ほら、席に戻ってあったかいコーヒーで一息入れてきなよ!」
「いい加減になさいクダリ。わたくし今すぐここで漏らしますよ」
「うわああああああ聞こえない! ノボリ兄さんは漏らすなんてしない! 健気な命への感動と物語のような悲しみのための世にも美しい涙と、そのテノールの優しくてなんだか少しだけいけない気持ちになってくる心地いい響きの声を維持するための銀色の唾液しかノボリ兄さんから分泌される液体なんて存在しない! だってノボリ兄さんは清らかな朝露と天使が集めた極上の花の蜜、僕らの信仰心、秘密の花園で育まれた最高の花の花弁だけを食べて生きているんだ! コーヒーは人間社会に興味を持ってくださった兄さんが見つけた嗜好品で金平糖は元居た天上世界を懐かしんでいるから好んでいるんだよね?!?! だからもちろんトイレに行くなんてしないし! いっぱいコーヒーを飲んだからってトイレが近くなるなんて人間みたいなことなんてありえない! だってノボリ兄さんが漏らしていいのは小さくてかわいい秘密と僕にだけ見せてくれる密やかな微笑みだけだよ?! ねえ?! ノボリ兄さんはトイレに行くなんてありえないんだもの! 僕の兄さんは神さまが特別に創りあげた最高の最高位のこの世でいちばん偉くて尊くて優しくて慈悲深い僕の天使様なんだから! そんな機能備わってないよ! だってだってそれはなんて人間的で親しみ深くてダメだダメだダメだ僕の大事なノボリ兄さんが取られちゃうよお嫁に行かないでえええええ!! ノボリ兄さんはトイレになんていかないよ!」
耳をふさいで絶叫するクダリを尻目に腕から抜け出すことに成功。なんだかいつもよりこじらせているようですがまあ平常運転でしょう。いつも通りなので特別なリアクションは必要ありません。なんとか個室に入り込み、しっかり鍵をかけました。小便器なんて使用した暁にはどんな妨害を受けるのか分かったものじゃありません。幸いにもトイレの入り口でその独特な感性をフル稼働して慟哭するのに忙しかったのか、ゆっくり用を足してもクダリはまだ外にいました。
足早にゴミを見るような目で女性の鉄道員がクダリを見て通り過ぎていき、わたくしを見るとまるで洗脳済みのDV被害者かギャンブル依存症の配偶者を持つ可哀想な人間を見るような目になり、結局一礼だけして黙って事務室に戻っていきました。
いえ、クダリは決して何者にも手を上げるような人間ではないのですが、一般的な感性を持つ人間なら関わり合いになりたくないと思って当然でしょう。これでも普段のクダリはとっても真っ当で当たり前に紳士的で素晴らしく頼れる白い王子様なのですがひとたびスイッチが入るとこうなると知っていれば視界にいれたくもありませんよね。わたくしはクダリのことを長年理解し、ひっくるめて愛していますのである程度は許せるのですがそれはそれとして関わり合いになりたくない気持ちも理解できます。だってわたくしもこの状態のクダリと一緒に外なんて歩きたくないですよ。ちゃんと正気に戻ってからでないといけませんね。
……どの面下げてそんなことを、とは思いますけど。
「ほらあきましたよ。もともとあいてましたけど」
「ううううノボリ兄さんはトイレになんていかない! ノボリ兄さんは大精霊で、可憐な妖精で、僕だけの天使様なんだ! だから人間みたいに食べ物を食べたりしないし飲んだりもしない……ノボリ兄さんに生理現象なんて存在しない! コーヒーを飲むのは兄さんなりに人間界の嗜好品を楽しんでいるからで、金平糖は見た目が綺麗で懐かしいから食べるんだ! 絶対に肉や魚なんて食べないし、どんな気候でも汗なんてかかないし、ノボリ兄さんは常になにもかも綺麗で完璧だ! ああノボリ兄さん、僕のための天使様……お救いください……」
「クダリ。そろそろトイレに行かないんですか? お前こそここに用事があったのでは?」
「ノボリ兄さんはトイレになんて行かない……いや待てよ? 僕はノボリ兄さんの祝福を浴びたい。祝福というのは聖水を頭から振りかけてもらう行為のことで、もちろんその聖水っていうのはノボリ兄さんの……ノボリ兄さんはトイレになんていかない! ノボリ兄さんの聖水を浴びたい!」
「駄目ですねこれ」
まあいいでしょう。「あれ」でもどんなに発作で発狂したとて仕事を遅らせたことはないので。クダリはそういう子なので、いちいち構っていられませんよ。
この通り、クダリはかわいい弟でありつつ大変気持ち悪い男なので目の前で冷凍食品を温めて食べようものなら一瞬で気絶しかねません。わたくしの主食をかわいらしい金平糖だと思っている節がありますし、美しい泉の汲みたての水と朝露で生きていると完璧に信じています。
もちろん、クダリとわたくしは双子の兄弟なので同じ家で育ち、横で何百回と食事してきたのでこのありさま。やむを得ない状況でも頑としてわたくしの食事風景を視界に入れないことで認めないできました。両親にはそういう不治の病だと諦められています。ついでにわたくしは憐れまれています。とはいえ無駄にスペックの高い世間一般的には気持ち悪い男から誰も助けてはくれないのですが。
席に戻り、クダリがプレゼントしてくれた肌触りの良いひざ掛けをかけなおし、少し冷えてしまったコーヒーを一口。あら、淹れ方が悪かったのか大変苦いこと。まあ眠気覚ましにはちょうどいいですね。
さて。ずいぶん時間が経ってしまいましたが仕事に戻りますか。
いつの間にか立ち直ったクダリが爽やかに今日の分のかわいらしい金平糖を差し入れてくれたのを有難く口に含みながら、目の前の仕事に追われるのでした。
◇
『ほら、クダリは優しい子でしょう?』
「うぅ……げほっ……ゴホッゴホッ」
ピリリリリリリリ。
湿った咳と荒い呼吸だけが響く部屋にライブキャスターがけたたましく鳴り響き、なんとか浮上した意識。昨日から何となく体調が悪かったのですが、踏みとどまることができなかったようで。翌朝、目を覚ました時にはすでに高熱が出ており、なんとか職場にその旨を伝えたところまでは記憶があります。その後意識を失ってしまったようでした。
なんとかからだをねじって時計を見ると正午を過ぎています。が、熱は一向にひいておらず、むしろ朝よりだるさが勝っているような気さえします。
「はい、こちら……げほっ、ノボリです」
『僕クダリ! ねえ今日はお休みをもらうって珍しい……え!? 大丈夫なの兄さん! うわすっごい顔色! なにか飲み物ある? お医者さん行った?!』
「なにも……」
『なんだって! 僕、僕も早退するから寝てて! 病院付き添うから! お水も! その様子だと今日何も食べれてないでしょ! お医者さんに行ったら僕用意するから何も心配しないでね!』
珍しい。
ありがたい、より先にそれが出ました。
健康が取り柄なわたくし、これまで病気らしい病気をしたことがありませんし、軽い風邪くらいなら引いたこともありますが仕事を休むほどのことはありませんでした。そのたびにあのふさげたクダリは「ノボリ兄さんは風邪ひいたりしない!」とか抜かして金平糖を差し入れてきたのですが、今回は真っ当に弟として心配してくださっているように感じます。
それどころか水分補給の心配をし、医者まで付き添ってくれようとするなんて。
なんだ、普段はトイレひとつに大騒ぎし、肉や魚などのタンパク源を口に入れようものなら「妖精の兄さんが生物由来のものを口に含むなんて有り得ない!」「せめて植物性にして!」などと発狂してきたのですが緊急事態ならちゃんとした対応ができるのですね。少し見直しました。そうなのですね、クダリは昔からとびきり優しい子なんですものね。
とはいえ、熱は上がる一方。ぐるぐると回る視界、それに付随する酷い眩暈、ぜいぜいとした呼吸、時折こみ上げる激しい咳。無事とは言い難く。クダリの到着をただ待つことしかできません。
いい歳した兄弟なので当然住んでいる部屋も違いますが、家族なのでいざと言う時のために合鍵は渡してあります。このまま眠ってしまってもきっと問題ないでしょう。苦しいあまり、正直なところ眠るどころではないのですが。
永遠にも感じられる時間が過ぎ、ようやく玄関のドアがガチャンと音を立てました。ちらりと見た時計はたったの二十分しかすぎていなかったのでそこでようやくからだが弱ったあまりに体感時間が引き延ばされていただけだと気づくことができました。
「ノボリ兄さん!」
「……くだり……」
「良かった! 意識はあるね! 立てる? ダメダメ、その前にお水飲まなきゃ! どうせ朝から何も飲めてないでしょ? 脱水症状は怖いんだから! ほら、近所で新しくできたデリバードポーチの天然水だけど、こんなものノボリ兄さんの口に合わないし飲ませるようなものじゃないけど水道水よりはましだから!」
「ありがとう、ございます……」
目の前で封を切られた冷たい水がひどく心地よくて。熱を持ったからだに染み渡るよう。一気にボトルの半分を飲んで、それでようやくかすんだ視界がマシになったようでした。
「ごめんね、クローゼット開けるよ!」
寒くないようにか、季節不相応に分厚いコートを取り出し着せてくれるクダリ。そしてわたくしの腕を自分の肩に乗せ、立たせてくれました。このまま病院に連れていってくれるのでしょう。
「ほら、病院、行くよ!」
「はい……」
揺れる視界、ぼんやりとした頭。だけども確かに感じているじんわりとした喜び。そうなったのはだいたいわたくしが強く窘めなかったせいですが、日頃から悩みの種であった弟のまともな一面を見れて心底ほっとしたのです。この子ったら私生活ではわたくしを信仰することしか趣味がないんですもの。同時に大変不安でした。こんな状況は想定外。このまままともなクダリは一体どんな突飛な行動に出るのかしら、と。むしろ勝手が違う分予想ができないではありませんか。
しかし、状況はいい方向に予想外だったのです。
そのままクダリの肩を借りてなんとか担ぎ込まれた病院では酷い風邪だと診断を受け、きちんと薬を処方され。帰り道もクダリに頼り切って這う這うの体になりながらもそのしっかりした足取りに救われ。
再びベッドに戻されたわたくしをに寝るように言いつけたクダリは家を飛び出していったかと思うと驚くべきことに大きく膨らんだスーパーマーケットの袋を持って帰ってきて、なんとわたくしのキッチン……普段は「ノボリ兄さんが人間界のおままごと遊びをするための設備」だと言ってはばからないのですが……であたたかい食事を用意してくれ、軟らかく煮た美味しいおかゆを食べさせてくれたのでした。
「食べたら貰ったお薬飲んで、しっかり寝て。明日も休みの連絡、入れておいたからね。仕事のことは心配しないでね」
「ありがとうございます……なにからなにまで、していただいて」
「僕たちたったふたりの兄弟なんだよ? こういう時は助け合って当然!」
「くだり……」
なんて真っ当なんでしょうか。なんてなんて、想定外! 感動のあまり思わず涙ぐむと、クダリは優しく笑ってわたくしの涙を指で拭ってくれたのでした。
「ほら。ゆっくり休んで。早く元気になって? 元気な兄さんがいちばんだよ。兄さんは僕にとって神さまなんかよりずっと素晴らしい存在だけど、たまにはこういうこともあるよ。いつも頑張っているんだものね。ノボリ兄さんがいるだけで世界が明るくなるし、ノボリ兄さんがそこにいるだけでどんな存在も救われるんだから! だから、だから。しばらく何もかも忘れてしっかり休んで?」
「もう。クダリったら、そこはいつも通りなんですから」
「うん。僕、いつも通りだよ! だからノボリ兄さん、なーんにも心配することないの!」
「ほんとうに、クダリは優しい子、ですね」
「兄さんは昔からそう言ってくれるけど。こんなの当たり前のことだよ。僕にとって一番大事なのはノボリ兄さんなんだから」
そう言って布団をしっかり肩までかけてくれ、ちっとも慣れない手つきで氷水で冷やしたタオルをわたくしの額に乗せてくれたのです。そこで市販の解熱シートを張らないところがなんとも「らしい」というか、手間がかかる方を惜しまずにやってくれるのに確かな愛を感じるというか。
わたくしはクダリに甘えて目を閉じ、まだからだは苦しいもののようやく穏やかな気持ちで眠りにつくことができました。
「ノボリ兄さんって、病気になるんだ」
クダリの感極まったつぶやきが妙に引っ掛かりましたが、クダリの発言が「変」なのはいつものことです。これならほぼいつも通りと言ってもいいですね。そろそろ日ごろの態度についてクダリと話し合う必要があるのではないかと思っていたのですがどうやら杞憂だったようです。
【後編に続く】