「おや。ありがとうございます」
「ついでにトイレットペーパーも変えておいたからね。あ、心配しないで! ちゃんと予算はきちんと通しておいたから。再生紙を使用することでエコなバトルサブウェイ計画を進めただけなんだ。たまたま以前よりも柔らかくてグレードの高い紙になったけど、エコを追及すると基本的にコストがかかるからね。ある程度は仕方ないよね? でもトイレは労働者にとって一番身近で一番すぐに反映される福利厚生のようなものだから。給料や待遇は僕の立場でもすぐには変えられないけど、気持ちよく働いてもらうためにも環境整備は上に立つ者の務めだよね。もちろんそれに付随してノボリ兄さんも就労環境が改善されたわけだけど嬉しい誤算ってことだよ。そういうわけで!」
わたくしの返答を待たずに素早く立ち去るクダリ。いくらかの疑問符を浮かべながら見慣れたトイレに入ると。
「なるほど」
今までだって清潔でしたが、比べ物になりません。新品を通り越して鏡のごとく磨かれたタイル、電灯の反射ですらまぶしいほどに拭きあげられた鏡、ほのかに香る不愉快にならないフレグランス、そして先ほど熱弁していたトイレットペーパーは本当に紙なのか疑うほどに柔らかいのです。少なくとも駅に備え付けるレベルではないのは間違いありません。
「なるほど、そうきましたか……」
いえ、いえ、だいたいわたくしのせいなんですけど。さすがはクダリ、想定外からぶっ飛んできましたね。
『クダリはわたくしのものです』
「あっ!?!? ノボリ兄さん! そこはトイレだよ? どうして兄さんがそんな縁のないところにいるの? だって、ノボリ兄さんはトイレに行ったり……し……いや……する……兄さんはトイレに行くしご飯も食べる……あったかいごはんたべて……いっぱい寝て……そうすればノボリ兄さんは健康になる……」
「え?! どうやったんですか黒ボス! あの白ボスが!! あの!! ブッ飛びダブルバトラーがまともなこと言ってますけど!?」
「失礼なことを言うね君」
「はて。これまでクダリの方がわたくしの尊厳に失礼でしたが?」
「はい……僕今日からトイレに行かずに漏らしてきます……金平糖とおみずとお花だけで生きてみせます……」
「やめなさい」
「やっぱり白ボス、相変わらずだなあ」
ジメジメしながら小さく三角座りしたクダリを放っておいてトイレに入りました。外からクダリの慟哭が聞こえないだけでこんなに静かなのですね。
用を済ませて帰ってくると改心したクダリは立ち直っていました。
「まだ、まだね。直視する勇気はないんだ」
「しなくてよろしい。クダリは直視されたいんですか?」
「現実を直視するのは……え?! 今なんて言ったの?! 兄さんが僕の排泄を直視する……?! クダリのクダリを……え?!」
「いきなり激しく身悶えするのはやめなさい」
「兄さんが……僕の……はい。やめます。気持ち悪いこと言うの、やめます」
「おまえ、気持ち悪い自覚あったんですね?」
「最近やっと客観視しました……」
「大人になりましたねえ」
そういうわけで休憩時間にスーパーで買ったお弁当をあっためて食べていても、「兄さん! 出来合いじゃなくて僕の手作りのお弁当の方が……」「兄さん! そういうものは痛まないように食品添加物がもりもりなんだよ! 過度な摂取をしない限り人体に害はないけど僕が個人的に何となく嫌! 僕のお弁当を毎日食べてくれない?!」「兄さんが僕の作ったご飯を食べてる……尊い」「えっ!! おいしいだって?!?!?!?!?!?!?!」などとダイナミックに叫んでいるだけで大変無害です。前は電子レンジに縋り付いて少し問答に時間を取られることもあったのでこれは素晴らしい進歩と言えるでしょう。
そういうわけで愛弟弁当を食べながら過ごす平和な休憩時間なのでした。
「ノボリ兄さん、今日から晩御飯も作っていい?」
「そう来ましたか」
「だって兄さん、自分に無頓着なんだもの。僕、心配だな」
「わたくしこれでもいい大人なのですよ」
「分かってる……でも……」
「もう。クダリってば……まぁ、今日一日くらいならいいですが」
「ありがとうノボリ兄さん!」
「毎日家に押しかけてきて食事についてあーだこーだ言うのはなしですよ」
「わかってるよ! 兄さんだっていい大人なんだし、今までこうして元気にやってきたんだから問題ないことくらいわかってる。でも僕、この目で見て安心したいの。それだけ」
「まったく」
クダリは無邪気に笑って喜んでいます。なんだかんだ言ってもクダリはわたくしにとってかわいい弟。わたくしの、唯一無二の片割れです。であればおまえが喜んでいる姿を見るとなんとも嬉しい気持ちになります。現金なものですね。甘い自覚はありますが、この笑顔を見るとなんだって許してしまいます。
これまでの数々の思い出が脳裏をよぎっても。ええ、この顔ですから、どれだけ外で他人のフリをしたくてもそうは問屋が
なんてね、ちょっと傲慢な考えかもしれませんけど。
だってクダリはわたくしのものでしょう?
「ノボリさんって……」
「はい?」
「いや、なんだか。ノボリさんってやっぱりクダリさんと双子なんだなあって」
「今更なんです?」
「弟に夢見がちなところとかほんとソックリ」
「された所業に対して大概甘い自覚はありますよ」
「なんていうか、それもそうなんですけど」
クダリがいれてくれたコーヒーを飲みながら、わたくしは肩を竦めました。
「何がどう転んでも、アレはわたくしを最終的に悪いようにはしません。それだけは確かです」
ええ、それだけは確かでありますのに、実に物言いたげな顔をされてしまいました。
人が思っているよりも、そしてクダリ自身が思っているよりも。わたくし、片割れを素晴らしく理解しつくしていると自負しておりますのに。
◇
『隙を見せたのはどっちでしょう?』
「もう。やっぱりノボリ兄さんって自分のことには無頓着なんだから。そういう隙が良くないと思う!」
「そうですか?」
「そうだよ! なにこの食生活! そりゃあ疲れる日があるのは分かってる、だけど日常的にカップラーメンで済ませたりお惣菜を食べたり……僕がどうにかしなくちゃ、兄さんが病気になっちゃう!」
「わたくしのような年齢の独身男性の食生活としては平均的だと思うのですが……」
「わかってない! 兄さんはね、ノボリ兄さんなんだよ!?」
「はあ」
冷蔵庫の前で憤慨していたクダリはわたくしをリビングのソファに座らせるとこともあろうに突然ワイシャツをまくり上げてきたのです。
「あ、こら!」
「ほらやっぱり! こんなに痩せちゃって、不健康に肌が白くて、こんなの、こんなの……! もうどこか悪くなってる! 僕にはわかる! 兄さんには健康的な食事が必要なんだ……!」
「ちょっと! くすぐったいです!」
「兄さん、僕もう我慢ならない。兄さんには相応しい食事があるんだ。綺麗で、清らかで、天界から僕のためにやってきてくれた天使様に必要な食事がね。人間界の世俗に汚されてしまって、感化されちゃったんだね。僕がどうにかしてあげるから、今ならまだきっと間に合うから」
おもむろにクダリは半裸に剥いたわたくしを抱きかかえ、どこかに運ぼうとするのでもがくと、いったいわたくしと同じその体格のどこに隠されていたのか、信じられない怪力を見せつけて動きを封じ込めてきました。
「落とさないけど、あんまり動かないで兄さん」
「なんです、なんです、なにをしようっていうんです!」
「いいから寝てて? 兄さんに必要なのはたっぷりの休息と正しい食事なの。僕ご飯作ってくるからそれまでだけでも寝てて? 心配いらない。ちゃんとしたごはん、作るから。兄さんが食べるべきな、清らかな兄さんが摂取しても問題ない、綺麗な綺麗な完璧な食べ物を」
「わたくし子どもじゃないんですよ、そこまで心配してくださらなくて結構です!」
「あぁ兄さん、ノボリ兄さん! 可哀想に、心優しくて慈悲深い兄さんは人間のことを愛してくれているからって自分まで人間の素振りをする必要なんてないのに……兄さん、ありがとう。人間みたいに食べ物を食べて、人間みたいに接してくれるのは僕たちのことを愛してくれてるからなんだよね? でも僕心配なの……」
「生まれた時からわたくしお前の兄で人間ですけど?!」
いつも通りの思考のエスカレートを見せながら、それでいていつもとは何か違うような。有無を言わせずクダリはわたくしをベッドに寝かせると、もがくわたくしにポケットから取りだしたなにかのスプレーを顔に浴びせ、そして優しく、恐ろしく言ってのけたのです。
「ノボリ兄さんは僕だけの天使、僕の妖精、僕の理想、僕のすべて! だから、僕が、完璧にしなくちゃね。ほら、僕がどうこう出来るくらい隙まみれじゃないか」
急速に落ちていく意識の中、わたくしはそんな即効性の薬を使うことこそ不健康では? と現実逃避気味に思考したのを最後に童話のようにかわいらしい現実から逃避したのでした。
もう、クダリったら。
◇
『完璧な関係とは何か?』
「おはようノボリ兄さん」
「……、」
クダリの声で意識が浮上したものの。視界がかすみ、酷い眠気が頭の中をぼんやりさせ、今すぐにでも眠ってしまいたい。きっとこんなに眠いということはまだまだ深夜のはず。
重い瞼に身を任せて再び眠りにつこうとすると、クダリはわたくしからあたたかい布団を引っぺがし、背中の後ろにクッションに突っ込んで無理やりベッドの上に座らせたのです。
不審に思ってなんとか目をこじ開けると、クダリはわたくしの前にスライド式のテーブルを持ってきて体の前に差し込んでいました。かすむ視界ではありましたが、その上になにやら食事が乗っていることまでは理解しました。
「……?」
「眠いよね。でも、ご飯食べてからにしよ?」
「ご、はん?」
「うん。僕作ったからさ。晩御飯食べずに寝るなんて体に悪いよ!」
「わたくし、ねむいです……」
「うん。そうだよね。でも、兄さんのからだのことが心配。だからね、食べさせてあげるから」
「……」
「あっ寝ないで? ご飯食べてから寝て欲しいな? おかしいな、濃度濃すぎたか、かけすぎちゃった? ううん、兄さんがそれだけとびきり疲れてたってことだよね。からだが休息を求めてるんだよ。兄さんったら頑張りすぎなんだから」
クダリの妙に冷たい指がわたくしの頬を軽く叩いているのはおぼろげながらに理解できましたが、目を開けたくなんてありません。
「寝かせてくださいまし……」
「もう。僕が食べさせてあげるから」
「うう……んぐ……」
口元に差し入れられる匙、生ぬるいなにかが口の中に入ったことだけは理解できました。少し甘く、少し苦く、舌触りは悪くないものの変な味です。控えめな量とはいえそのまま喋ることはできず、何とか飲み込み、少しだけ眠気が引いたので目を開けて抗議しようとすると再び口の中に突っ込まれます。
「なんれす、これ……」
「ノボリ兄さんがこの前風邪をひいたのも、あの程度の睡眠薬が最高位の天使のはずの兄さんに効いたのも、全部優しい兄さんが無理に人間らしく振舞ってくれるからだよね。人間の世界のものなんて本当はなんだって兄さんにとっては毒なんだ。だから、少しでもからだにいいものを食べてもらおうと思って。オーガニックのお花のおかゆだよ」
「おはな……」
眠気によってぼやぼやした景色の中、クダリの手元には確かに鮮やかな色の何かがありました。言葉通りなら花を煮込んだもの? そんなものなんて栄養になりやしないでしょう。
いつものおかしな調子で喋り続けるクダリはわたくしの頬を撫で、どんどんその生ぬるい温度の「おかゆ」を口に入れてくるので溺れないためにはなんとか飲み込むしかありません。
「熱々は良くないよね。ノボリ兄さんはこの世でいちばん繊細なんだ。綺麗じゃないといけない。なるべく自然な状態で育ったものじゃないと。人間の食べ物なんてよくない。兄さんは僕の天使で、精霊で、清らかなんだから。兄さんはトイレに行くし、生理現象があるし、病気にもなっちゃう。僕理解したよ、だからだから僕、兄さんを一番いい状態にするために頑張るからね?」
「わたくし、にんげん、なんですけど」
「うん。人間である僕の片割れ、僕の兄さんだもの。だから世界一優しい兄さんはそう言ってくれるね? 僕が寂しくないように。でもね、兄さんの本質を想えば僕との同一性がひとつなくなっても悲しいけど仕方ないの。そんなことよりノボリ兄さんが健やかで元気であるべきだ。そうでしょ?」
「おはなのおかゆなんかで、わたくしが生きていけるわけなんて、ないでしょう?」
「うん。わかってる。栄養としてよくないよね。だからちゃんと完璧な栄養管理ができるようにサプリメントを用意したからあとで飲んでもらうよ。でも世俗に染まった人間の食べ物なんてよくない」
「……」
すっかり眠気に支配されたからだ。完全に言葉の通じないクダリ。睡眠薬を使うなどという強硬手段に出て、こんな、こんな。ああ、なんて。
「かわいい、かわいい、わたくしのクダリ」
「なあに僕の大好きな兄さん」
「あとで覚悟なさい。わたくし、まだ眠いので。しっかり反省できるように何が悪かったのか考えなさい。わたくしに指一本触れるんじゃありませんよ」
「え」
「あんしんなさい、ちょっぴりわたくしの、意に添わなかっただけ。わがままなので。ほとんど完璧ですよ。ほとんど、ね……」
クダリの手を振り払い、布団を引き寄せ、頭までしっかりと巻き込みました。これでクダリは手を出せないでしょう。いいえ、ちゃんと宣告したので指一本でも触れたら蹴り飛ばせばいいだけです。
まったく、まったく、いつまでも幼気な幸せな夢見るクダリ。わたくしのかわいいかわいいクダリったら。
クダリのつくろうとしている華奢な鳥かごでは永遠にはなりえません。計画性があるようでない、妄執の勢いだけでどうにかしようなんて本当にあのクダリが考えたことなのでしょうか? もっともっと時間をかけてゆっくりとわたくしを絡めとってしまえば、あるいはもっと別の手段をとったなら勝算があったかもしれないのに。
とりあえず眠いので寝ます。クダリの溺れそうなほどの愛情の海の中でわたくしは自由なのですから、クダリにはもっと反省していただき、わたくしがどうして欲しいのかを理解してもらうか……あるいは現状維持してもらわねばね。
◇
『わたくしに堕ちる作法を思い出しなさい』
「おはようございます」
「おはよう兄さん。よく眠れた?」
「おかげさまで?」
「うっ……」
兄さんの極寒の目が僕を貫く。もちろん、この世で一番自由であるべき兄さんに睡眠薬なんて浴びせたことに罪悪感がある。でも実際、宇宙で一番偉大な兄さんに睡眠薬が効いたってことはノボリ兄さんには正常な人間的な生理機能があり、つまりそれは兄さんの危機ということだった。僕は間違っていない、と思う。もちろん、兄さんはいつだってなによりも正しいのだけれど。
ノボリ兄さんが指し示したものは兄さんのもの。ノボリ兄さんが大事にしているものこそ宝物で、ノボリ兄さんが笑いかけてくれるなら僕はなんだってする。だって、だって、兄さんは僕のすべてなんだもの。
だって。
「それではクダリには昨日のおかゆの残りは食べてもらいましょうかね」
「えっと」
「もう食べちゃいました? いい子ですね」
「ううんまだ……」
「ではわたくしは適当に済ませるのできちんと食べるんですよ」
「はい……」
まったく許してくれる雰囲気じゃない。兄さんは怒っているんだ。兄さんの自由を奪って、兄さんの意に沿わないことをした。それだけで僕がどれだけただしかろうともうおしまい。極悪人は僕で、兄さんは哀れな被害者だ。
「おまえのそのかわいらしい妄想がクダリにとっての救いなのは理解しています。好きなようにすればいいですよ」
「もうそう」
「でもね、現実としてわたくしはトイレに行きます」
「兄さんはトイレに行くなんてしない! ……ううん、します……」
「ご飯も食べます。お前が思っているよりもたくさん。肉も魚もしっかり食べます」
「うん……」
そう。兄さんはご飯を食べるし、トイレにも行く。僕が兄さんをまるで生きていないもののように扱って、大切なお人形のように扱っていたのは間違いだった。
「でもね兄さん。カップラーメンはからだに悪いんだ」
「わかりましたよ。これからは控えますし、今日はやめておきます。捨てるのはもったいないですし、今家にある分がなくなったら買ってきませんから」
「うん……」
まだちょっと薬が残っているらしく、ふらふらしながら兄さんが台所に向かおうとするのを支える。でもすげなく僕は追い払われ、特製の「おかゆ」をあっためて食べてしまうように言われた。食べ物を無駄にはできないから、兄さんのために作ったそれは僕が全部平らげることになった。
お花と氷砂糖が煮込まれたそれ。見た目は綺麗だけど、甘ったるい花弁の煮込みなんてとても、人間の食べ物じゃない。
なんで僕はこんなものが兄さんのためになって、兄さんに必要だとあんなに信じ込んでたんだろう? ちょっと考えなくてもわかるはず。兄さんが、僕の兄ということは、僕と同じものをからだに必要としているんだし。
どうしてだろう。おかしいよ。そうでなくてもあの風邪の件でノボリ兄さんに必要なのは真っ当な食事であり、兄さんにも人間らしい生理機能があり、それらを守るべきだと思ったのに。兄さんには健やかな生活をしてもらいたい! って心底思ったのに実際の僕は導かれるように「清らかな」食事を作ったし、栄養不足を無機質なサプリメントで補わせようとした。
ノボリ兄さんにはそうするべきだってからだが勝手に動いたみたいだ。ううん、こんなの言い訳なんだけど。
そんなおかしな僕を見て、ノボリ兄さんは自分の危機があったのにも関わらず僕に優しい声色で話しかけてくれる。もうちっとも怒ってなんかないですよって言わんばかりに。
その声を聞くと僕はとろけて、兄さんに縋り付きたくなって、天に昇るような気持ちになってしまう。
「クダリはいい子です。仕事はできるし、誰にでも優しい。わたくしにはとびきり甘くて、いちばんの理解者です。唯一無二の存在で、ライバル」
本物の米で本物の雑炊を作っている兄さんは振り返りもせずに言う。火を使っているからね。
「かわいいかわいいお前はそれでいいんですよ。そのままでいてくださって結構です。変わらなくたって大丈夫です。もし、何か間違えてしまったら、わたくしがちゃんとこうして諭して差し上げますので」
『かわいいかわいいわたくしのクダリ。ね、わたくしだけ信じていれば大丈夫』
「うん、うん、そうだよね……僕やり過ぎちゃった。ごめんなさい」
『わたくしだけを見て、わたくしのものになって、わたくしに溺れ、わたくしに堕ち。わたくし以外の何者にも触れさせないで』
「謝ることなんてありません。結局、わたくしのためを思って行動したことには変わりありません。どこにも悪意はなく、わたくし、昨日はよく眠れました」
ノボリ兄さんが振り返って、小さい時からなーんにも変わっていない、吸い込まれるような銀色の目で僕の目を覗き込んで、うっとりするほど綺麗に笑う。
僕はそれに囚われていて、ノボリ兄さんの醸し出す不思議な魅力から永遠に抜け出せないし、むしろ自分から堕ちていく。
「慈悲深いノボリ兄さんは僕の神様だと思うんだ。こうしてやり直しのチャンスをくれる優しい僕だけの神様!」
「やれやれ」
『それでいいんですよ』
でも兄さんは満足げだった。なら、大丈夫。
僕は身を任せながら、兄の形をした慕わしい愛に溺れていく。
「それでいいのですよ。そうやってわたくしだけ見ていればいいんです。ちゃんとわたくしに溺れて、堕ちて、この世でいちばんかわいらしい、わたくしのクダリを見せてくださいましね」
兄さんはいつものように優しく笑って、僕の頭をゆっくりゆっくりなでてくれた。