【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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 ヒスイの地は厳しい。前時代のサバイバル生活、ぼくらはじめて。生傷は絶えないし、結構大怪我もする。ポケモンたちは人間を見たらだいたい襲い掛かってくるし、長年の付き合いの手持ちたちもいない。
 今日もノボリは左腕をポケモンに焼かれて怪我して、ぼくは右腕をざっくり切っちゃった。お互いサブウェイマスターのコートがボロボロだけど、同じくらいボロボロだからむしろ安心する。
「あいたたたた……」
「ノボリ痛い? 大丈夫?」
「あなたも大概でしょう」
「おそろい」
「軽口を叩けるなら大丈夫そうですねえ」
 違う。ぼくだって痛い。でも、どんな怪我をしても「痛い」も言わなかったノボリがちゃんと痛がってるのが嬉しくて。
「あのモジャンボのオヤブンは大変ブラボーな気迫の持ち主でした。次回は是非わたくしを認めていただけると嬉しいのですが」
「あのね、ぼくもドンカラスのオヤブン気になる」
「あぁあの素晴らしい羽根の! それでは今日これから行きましょうか!」
「ノボリ、それは暴走列車。ぼくらもう今日は終電。明日行こ!」
 それに生まれてからずーっとぼくら二両編成、ふたりだったらなんでも大丈夫に決まってる!

 ◇ ◇ ◇

「あぁ、今度は忘れなくてよかったです」
 男はそう言って、すやすやと眠る弟そっくりの笑みを浮かべた。
「だから残りは全部あげますよ」
 彼らの手は、今日も氷のように冷たい。


手を取り合って笑ってた

 特別なことなんて何もなかったいつもの平日。生真面目なノボリが勤務時間になっても出勤してこなくて心配して、何かあったんじゃないかとギアステーション全体がざわめいた日。

 サブウェイマスターが不在だから、急遽シングル・マルチトレインを運休するためになり、みんなはてんてこ舞い。なんとか仕事を落ち着けたぼくが、絞り出した休憩時間にノボリの家を訪れた日。

 

 忘れもしない、あの思い出したくもない日。

 

 想定していたこととは違って自分の部屋にノボリはいた。いたけど、ベッドの中で真っ青な顔色をして眠っていた。目覚めのいいはずのノボリが昨晩から一切起きた痕跡がなくて、眠りっぱなしだってわかった。

 恐ろしい病気かと思った。あるいはなにか事件に巻き込まれたんじゃないかと思った。だけど証拠が何もなくって、理由は今でもわからない。部屋には確かにしっかり鍵が掛かっていて、そばにいたたくさんの手持ちポケモンたちも何も見ていなかったんだ。

 自発的に呼吸はしていたけれど、誰がどう見てもおかしい状態で、血の気のない肌はびっくりするくらい冷たくって。その日、ノボリは起きてこなかった。心配げにボールから飛び出したたくさんの手持ちに囲まれて、眠ったまま、それだけだった。青い唇が嘘みたいにノボリを死体みたいに見せたけど、細い呼吸は間違いなくあった。

 

 あの日はダブルトレインも午後運休。ノボリは悲しむだろうけど、あれっきり、マルチトレインは動いていない。

 

 でも、悲しむノボリはどこかに行ってしまった。冷たい体だけを残して、ぼくをおいていってしまった。

 

 愕然としていたぼくの目の前で、浮き出るように奇妙な大きな痣がノボリの頬に現れて、ハッと体を確かめるとそこらじゅうぶつけたり転んだりポケモンに噛まれでもしたみたいな痛々しい傷が沢山できていて、ぼくは我に返ってノボリを病院に連れていかなきゃ、と思った。

 

 見ているそばから両方の腕に痛々しい傷が現れ、裂けた皮膚から鮮血が滴った。ひゅっと喉が鳴って、歯がカチカチと鳴る。じんわりとシーツが赤く染まっていく。

 

 ノボリは、そんな傷を負ってもぐったりしたままだったから。痛みで目を覚ますことさえなくて、慌てて、不安そうな顔をしてたオノノクスの背中にノボリを乗せて病院へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようノボリ。今日どうかな。体調いい?」

「……」

「今日も手、冷たい! 上着着よ? 着せたげる」

「……」

「ほらこれであったかいよ。今日の朝ごはんはね――」

 

 あの日の翌日の朝、病院のベッドでノボリは目を覚ました。でもそれだけ。目を開けただけ。ノボリは体を起こさなかった。起こそうともしなかった。目を開ける以外なんにもしようとしなかった。

 ジョーイさんやナースさんの話によるとぼくがどうしてもいられなかった時間も変わらず苦しげな様子はなかったけど、たとえ目を開けたとしても、なんにも出来なくなっていた。

 

 でもぼくにはすぐわかった。ノボリはここにいないって。あの日、起きてこなかった日にはもういなかったんだ。お揃いの体を置いて、魂だけどこかに行ってしまったようだった。ゴーストタイプのシャンデラにもなにか分かったのか、とてもとても嘆いて、悲しさで火が消えちゃいそうなくらい泣いていたのを覚えてる。だから確信したんだ。

 

 あれからノボリは何も話さない。時折どこにもぶつけてないのに体に大きなあざやら傷やらができる不思議な症状を抱えて、でも痛いそぶりも苦しいそぶりも見せなかった。

 

 毎日、ぼくが声をかけると目を開ける。手を引っ張ると体を起こして、手をつないで歩くと後ろを付いてくる。目の前でご飯を食べて見せれば真似するときもある。しないときもあるけど。横に座ったら真似してノボリが利き手じゃない左手で食べようとするから、前に座れば大抵大丈夫。鏡みたいに、でもおぼつかなくぼくの真似をして、でもそれだけ。なんにも話さないし、なんにもしない。

 あんなに溌溂としていたのに、黙ってぼーっとここではないどこかを見て、そこにあるだけ。自分というものを失ったみたいだった。そして、不可解な傷のせいで突然倒れたりする。全くの無感動に、流れる血をそのままにして、本当に体の機能を損なったからという理由だけで倒れる。大抵血が足りなくって倒れるんだ。

 いくらノボリの表情筋がかたいからって無表情のまま貧血になっちゃうことなんてありえないのに。涙ひとつ流さず、ただ呼吸だけがひゅーひゅーとか細くなってうずくまるノボリを何度見ただろう。ぼくは何度自分の無力を嘆いたか。

 

 傷を見る度悲鳴を上げそうになって、だけどどこかにいるはずのノボリに心配をかけたくなくて、なんとか笑顔を作って、ノボリの手当てをするんだ。打撲、裂傷、噛み傷、およそ普通に生きていれば負いそうにもない怪我をどうやって処置すればいいのか詳しくなっちゃった。

 今やノボリの体はひどい傷痕まみれだ。ちっともおそろいじゃない。

 

「ノボリ、ノボリ、痛くないの?」

「……」

「これで大丈夫。痛かったら言ってね、ノボリ。ぼく、すぐに来るから。……じゃあお願いね、シャンデラ」

 

 それでぼくが話しかけてダメなら、大事なポケモンたちと触れ合えば、大好きなバトルを見せれば何か変わるかなって考えた。

 ノボリがこれまで何度も見返していたバトルレコーダーを見せたり、実際にジムに行って観戦させてもらったり、何ならバトルサブウェイで実際のぼくのバトルを見せたりもした。だけど、変わらずぼーっとしていただけ。基本的に白い服のぼくは見つけやすいのか、自分の手持ち含めポケモンたちを見ようともしないでただぼくの方をぼんやり見ていた。

 目の前で繰り広げられたのがどんなにすっごいバトルでも。大好きな手持ちたちが、自分を見なくなって泣いていても。こんなのノボリじゃない、と思った。ノボリはいないと思った。

 

 だけど、この冷たい肉の塊をノボリと呼ばずになんと言う? ぼくと同じ顔をしたノボリの器、ノボリの帰るところということには違いない。だから、ぼくは「それ」をノボリと呼んだし、どこかに行ってしまったノボリの魂がいつ戻ってきてもいいように、体がやせていてびっくりしないように一生懸命世話をした。

 

 そんな日々が続いてもポケモンたちはノボリを見捨てなかったし、ぼくだってそう。流石にポケモンボールを投げることさえできないノボリに以前同様サブウェイマスターをさせることは出来なかったけど、ノボリの居場所を守りたいのはみんな一緒。

 元々半分ぼくの手持ちみたいなところあるし、代わりにぼくがシングルトレインのボスとして待ち受けた。在りし日のノボリのバトルスタイルをコピーした動きで。まあコートは白だけど。

 

 とうに医者は匙を投げた。でもぼくは諦めなかった。原因は不明。何もかも不明。科学が説明できないっていうならポケモンの仕業なのかな? 普通のポケモンがやれることとは思えないからぼくは世界中の伝説や珍しいポケモンについて調べた。何にも、わからなかったけど。

 

 ずっとノボリの体に話しかけ続けた。毎日、忙しくても話しかけた。昼間は手持ちを最低三体は残して任せたり、怪我がひどい時には病院に預けたりもしたけど、絶対に毎日光を失ったノボリの目をのぞきこんで呼んだ。

 そこにあるのは変わらないお揃いの鉄の色。なのに錆びて、よどんで、動かない。

 

 ノボリの体には相変わらず不思議な痣が現れ続けたし、お腹から突然鮮血が吹き出して大きな傷が出来ることもあった。

 理不尽だ。痛いだろうに、痛みになんにも反応しないで、そこで呼吸しているだけのノボリは、それでも思い出したようにぼくだけは目で追った。だから、きっとどこかにいるんだと信じていた。

 

 それでなんとなく、きっとノボリの魂はここではないどこかにあって、そこで怪我するような目に遭っているんだろうって思ったんだ。魂が負った傷が現実のノボリの体にフィードバックされているんだって。

 どこか遠いところで、ひとりで。ぼくはもちろんここにいるから、ノボリはひとりで怪我をしている。一人で辛い目に遭っているんだ。

 

 丁寧に手当をして、辛くて堪らなくてノボリを抱きすくめると、互いに少し痩せたからだとからだの骨がごちんとぶつかり合っておかしくなってしまった。もともと痩せているぼくらは、大人になった今は抱き合うなんて滅多なことではなかったけれども、それでもここまで抱き心地の悪いものじゃなかったと思う。

 おそろいだ、おそろい。そんなところまで。一緒に痩せちゃった。一緒なら仕方ないね。一緒ならいいんだ。ぼくもそっちに行きたかったな。

 

 ぼくを真似した動作が全ておぼつかないから、子どもが使うような握りやすいスプーンを心許なく握るくらいしかやらないのに傷だらけの手を取る。

 そこらじゅうボロボロで細かい傷が乾いて、かさかさだ。あとで保湿クリームでも塗ってあげよう。

 

「ノボリ……」

 

 ふいと顔があげられて光の無い目がぼくを見た。その目に映るぼくはノボリそっくりの仏頂面をしていた。これじゃいけない。クダリはいつでも笑っているんだもの。無理やり口角を上げると、ノボリは一瞬だけ安心したような顔をした、気がした。

 

「ねえ、帰ってきてよ」

 

 ぽたり。

 傷口に沁みる塩が痛かったのか、ノボリはびくりと身震いした。ぼくはますます悲しくなって、何も言わないノボリの胸をどんどんと叩いた。力なくおろされた腕がぼくのせいでぶらぶらと揺れて、ますます悲しくて涙が溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、わかる? ギアステーション、ノボリは久しぶりだよね」

 

 ノボリの手を引く。同じ顔した成人男性が手をつないでいる姿は目立つけど、構うもんか。ぼくらはそれなりに顔を知られているけど、きっとノボリがこうなってしまったことを世間は面白おかしく「悲劇」として消費しているのだろうけど、構うもんか。

 ぼくは好奇の目に晒されることなんてどうでもよかった。ノボリが憐れまれるのだってどうでもよかった。

 

 だってぼくが手をつないで引っ張っているのはノボリじゃない。冷たい手をした、ノボリの身体だ。魂があるならこんなに手が冷たいわけないじゃないか。息をして、怪我をして、それだけ。ノボリの身体だけど、ノボリじゃない。バトルを前にしても眉一つ動かさず、目の前でシングルトレインが発車しても目で追うことすらない。

 なら「これ」はノボリじゃない。きっと心の奥底にさえ、ノボリはいないんだ。勝手に周囲は想像して騒ぎ立ててるだけ。

 

 ……でも、でも、ノボリと呼べるものが他にないんだ。この肉人形をノボリと呼ぶほかないんだ。これまで二両編成で育ってきた、一緒にバトルしてきた片割れを求めるなら、これがきっと一番ノボリに近い。なら仕方ないじゃないか。

 

「おはようございます! いってらっしゃいませ! 本日はバトルサブウェイ運休日です!」

 

 遠くの方で鉄道員がお客さんに挨拶している声が響く。今日はサブウェイマスタークダリの休みの日だから、ただのサブウェイだものね。もちろんただのサブウェイだとしてもお客さんはいるんだもの。

 

 ということで、今日はノボリがバトルの次に愛しているものを見せに来た。つまりぼくらもお客さんってこと。シングルトレインを見ても顔色一つ変えなかったからまったく期待していないのだけど。……正直、もう何の期待もしていないのだけどね。

 

 ちょっと! ぼくが諦めてどうするの。もしぼくがこうなってしまったなら、ノボリは諦める? そんなわけない、絶対にあきらめないよ。それだけは確か。

 

「ノボリ、電車見に行こう。それからいっぱい乗る。小さい頃からぼくたち電車大好き。目的地もなくずーっと乗ってるのも、目的地までワクワクで乗るのも」

「……」

「そうだ、今日はいいものを用意してきたんだ……じゃーん! 一日乗車券! 覚えてる? 八歳の時だったかな、お小遣いをためて、足りない分はトレーナーたちからバトルで巻き上げ……じゃなかった、バトルで賞金を稼いで、それで初めて一日中、親の目もなしに電車乗り放題をやったよね。楽しかったね。また乗ろうって言ったよね」

「……」

「大人になったぼくたちずーっとバトルサブウェイにいた。今更ライモン発の電車に乗ることなくなって何年? でもノボリは久しぶり。じゃあきっと最高抜群に楽しいよ!」

 

 そっとノボリの手に切符を握らせた。今時ライブキャスターにでもアプリを登録しておけば物体の切符なんて必要ないのだけど、思い出の方を大事にしたかった。

 でも、無情にも切符ははらりと床に落ちる。ぼんやりとした目のノボリは懐かしい切符なんて見てなかった。切符を握る動作さえなかった。ノボリはただぼくの方をぼんやりと見ていただけだった。ぼくなんて見えてないのは知ってるけど。

 

 はらはらとぼくらを見守っていたシャンデラが悲しそうに小さく鳴いて、サイコキネシスで切符を拾い上げるともう一度ノボリの手に握らせようとした。

 

 優しいノボリの相棒を傷つけちゃった。ごめんね、僕のひとりよがりで。

 

「いいよ、シャンデラ。いいんだ。ぼく持つから」

 

 最初から無駄だって知ってた。きっと電車に乗っても、どんなに楽しかった思い出をなぞっても、ノボリはここにいないんだから意味なんてない。ぼくの自己満足に過ぎなくて、もしかしたら「ノボリが帰ってくることを諦めていないポーズ」にすぎないのかもしれない。

 呆れるほどひとりよがりなだけ。

 

 ノボリ。あぁぼくの片割れ。

 

 いらいらすることももうない。怒りに任せて言い返すことさえできないノボリに八つ当たりしちゃうことももうない。冷たい手をぎゅっと握って、手を引っ張った。

 

「ノボリ、行こっか」

 

 いつの間にかノボリの頬に瑞々しい赤い線が走っているのを見つけて、ばんそうこうを貼る。笑いかけても虚無しか返ってこない。

 あぁ遠巻きの鉄道員たちも可哀そうに。腫物の上司の腫物の要因だものね。せっかく腫物が休みだと思ったらこれだもの。気が休まらなくってああ可哀そう。

 

 ノボリの手は今日もボロボロ。背中は丸まってて、なんだか老けたみたい。でも、ぼくの顔には年相応にしわが出てきたのに、どこかに白髪だってあるだろうに、ノボリにはない。ぼんやりとした表情と姿勢のせいで誰にも違和感にも思われていないみたいだけど。

 

 ノボリは今日もいない。時間さえ止まって、器だけ残して。冷たい身体だけ残すなんて酷いよ。心の切れ端くらい置いていってよ、ノボリ。

 

 虚しく落ちた切符の音が耳にこびりついて泣きたくなった。もうノボリは何にもできないの。思い出を一緒にたどることさえ。

 

 その日から、ぼくはあれこれノボリに試してやることが出来なくなった。いっそ吹っ切れる日が来るまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、今日って白ボス仕事だっけ?」

「休みだったような。いらっしゃっているんですか?」

「さっき声が聞こえたような……」

「ノボリー! ほら真似して! モンボ持って! うん! 完璧! 似合ってるよ!」

「……いるな」

 

 ギアステーションはイッシュ有数のバトル施設だ。ノッテタタカウ各種バトルトレイン以外にも、駅構内に小さなバトルコートくらいは備えてある。バトル用に整備してあるが、メインの用途はもっぱら観光客による記念撮影だろう。

 

 なぜならここに来るようなバトルジャンキーども、目と目が合ったらポケモンバトルの原則を地で行く。外ではそれでいいかもしれないが、かつてはそんなことをすれば黒い人影がバビュンと競歩で飛んできて、

 

『お客さま! 駅構内でのポケモンバトルは転落事故の恐れがあり大変危険なのでおやめ下さい! 目の前のトレインの中でお相手して差し上げますのでぜひ、ぜひ! わたくしのところまで勝ち進んでくださいませ!!』

 

 という人力ハイパーボイスが聞けたのだが。

 その声が聞けなくなって久しい今なら、目が笑っていないにも関わらず半笑いの白ボスに肩を叩かれ、

 

『もしかしてきみ、血気盛ん? ルールを守って安全運転。ダイヤを守って皆さんスマイル。そこはバトル可能区画じゃない。バトルしたいならダブルトレイン、挑戦しよう? ぼくとすっごいバトルはじめよう』

 

 とか言われて有無を言わさずスーパーダブルトレインに引きずられていくことになるだろう。

 

 それでもトレイン外で一切バトル出来ないのは不満だろうとのことで一応建前として用意された場所があのミニバトルコートだ。

 

 そこに休日のはずの白ボスは十五年前から無期限休職中の黒ボスを連れて来たらしい。

 

「よーしシャンデラ! サイコキネシスでノボリの手からボール落ちないようにしてね!」

 

 そこはかとなくやけくそ気味の大声に釣られてバトルコートにわらわらと鉄道員が集まっている。

 かつてあれほど好んでいたバトルを見せても顔色ひとつ変えなくなってしまった黒ボスにポケモンボールを持たせている。ということは痺れを切らせた白ボスが何がなんでもバトルらしい体裁を整えて荒療治に出た、ということをみな理解していた。

 最近の白ボスは無気力気味で、兄の世話は以前と変わらず甲斐甲斐しいものの、どこかに連れて行ったり何かやらせようとする姿はめっきり見られなくなっていたので、少しだけ良いニュースなのだった。

 

 原因不明の病で最愛の家族のことさえわからなくなってしまったという黒ボスは、かつてのように背筋を伸ばしてさえいない。力なく背中を丸め、目の前に立っている色違いの服を着た弟の方だけを廃人のような目でぼんやり眺めているだけだ。

 その手にはポケモンボールがあったが、かつてのように鋭く構えるどころかだらりと降ろされた手に心許なく握られているだけ。それも隣に控えているシャンデラのサイコキネシスで無理やり手に固定されているだけにすぎない。

 

 だが、それでも。黒ボスが自分の足でバトルコートに立っている。ポケモンボールを持って。

 

 それだけで凛々しい在りし日の姿を幻視して、その場の人間は涙ぐみそうになっていた。

 

「さぁノボリ、真似してみて。こうやって投げるんだよ」

 

 白ボスがサブウェイマスターとしてバトルする時とは違う、分かりやすい動作でボールを投げると、黒ボスはおもむろに真似をした。とてもまともに力が入っているようには見えなかったが、シャンデラがボールを動かした。弧を描いて飛んでいくボール。黒ボスは、白ボスではなくボールの行き先をじっと眺めていた。

 

 青い光の中から繰り出されたのはアーケオスとドリュウズだ。彼らは不安そうに主を見やった。白ボスは隈を作った目元だけでうっすらと笑ったまま何も言わない。

 

 もちろん、これ以上何が起きることは無い。弟の真似をして立ったり歩いたり食べたりと、それなりに出来ることもあるらしい黒ボスだが話すことは一度も真似してくれないんだ、と白ボスはよく零していた。それでは指示の真似は出来ないだろう。

 

 そのはずだったが。

 青い光を眺めていた黒ボスは、目を瞬かせると突然背筋を伸ばした。確かな意志を持った指先が、指示を出すべく自分のポケモンを鋭く指さしたのだ。

 

「やっぱりだめ? ねぇノボリ、ほら、……ノボリ?」

「出発、進行ーッ!! ドリュウズ、すなあらし!」

「……出発進行ッ! アーケオス! いわなだれ!」

 

 その時、懐かしい大きな声がバトルコートをビリビリと揺らした。一瞬の静寂の後、奇跡の事態を飲み込んでわっと、歓声が上がる。バトル中の二人を邪魔したくなくて、だけどもやっと帰ってきた我らのボスを歓迎したくて、一緒くたになった想いが誰も彼も馬鹿みたいに叫ばせた。

 

 二人の生き様と言えるバトルの行く末さえ、とうとうぐしゃぐしゃに泣いた観衆とポケモンたちでは終着点にたどりつけない前代未聞の事態になってしまう。

 「よわき」が発動する前から顔をびしゃびしゃにして泣いているアーケオスと主人の足にすがりついて離れないドリュウズではもうどうしようもない。

 

 もちろん人一倍顔をびしょ濡れにした白ボスもバトルを続行するところではないらしい。

 

「ノボリ! ノボリッ! おかえりなさい!」

「あぁクダリ。クダリがわかる、クダリが見える。シャンデラがいる、姿が見えます! 顔の似た男に、わたくしの相棒!

 わたくしはようやく、終着点のその先へたどり着いたのですね。あの人生を生き抜いて、そしてさいごになってようやく思い出せました……」

 

 感動の再会も束の間だった。何か話した黒ボスが駆け寄ってきた白ボスの前に立ったその時、突如苦しげに胸を抑え、黒ボスの体がぐらりと傾いた。

 

「ノボリ!」

 

 悲痛な悲鳴がこだまする。

 今度こそ白ボスとシャンデラは間に合ったが、捕まえたその体に意識はもうなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ノボリ、ノボリ、もう一度目を覚まして」

 

 それまではぼくの真似をしてそれなりに体を動かし、ご飯を食べてきたから結構ノボリは健康な体だったんだ。なんなら激務を辞めたからぼくよりもある意味元気だったかも。

 

 でも。

 

 今回だって原因不明。いつだって理由なんて分からない。ノボリの体はすごい勢いで衰弱し始めた。ぼくの目には、どんどん歳をとっているように見えた。目元にシワが生まれ、肌から水分が失われていく。髪も白くなってく。でも、それは一応年相応かも。ちょっとやつれていたから分かりにくかったけど、ノボリがあぁなってから……十五年、ぼくは普通に歳を重ねたのにノボリったら時間が止まっているみたいだったから。

 だから最初の頃はぼくは周りの人が思っているほど心配していなかった。ノボリの止まっていた時間がやっと動きだしたんだって。

 

 ……容態は、間違いなく悪化していた。ぼくは現実逃避したかっただけなのかもしれないね。

 

 意識が戻らない。話しかけても目を開けてくれない。点滴でどうにかできる範囲なんてたかが知れていて、すぐにお腹に穴を開けて胃に直接栄養を入れるようになって、そんなんじゃ足りないから痩せこけて、ノボリはどんどん弱っていった。今は息をすることがやっとだ。

 

 ほどなくして覚悟してください、なんて言われた。

 何を。ノボリを失うこと? そんな日は来ないのに。ノボリが死の世界に行ってしまうなら、ぼくはシャンデラに頼んで同じ世界に行くよ。ノボリが死ぬ前に一緒に魂を持って行ってもらうの。ノボリが死んでしまうなら、一緒にずっとうす暗い世界に行って、みんなで面白おかしく化けて出たほうがマシだ。

 ねぇシャンデラ。そうしたらぼくたち、君と同じになれるかな。ゴーストになって、そしていつか黒いシャンデラと白いシャンデラになりたい。それならもう離れ離れになんてならないよね? 

 

 ぼくは、ぼくは、だって。ノボリの片割れ。それ以外じゃないんだもの。分かたれるくらいなら、いっそ。

 

 あぁ! 何にだって祈ろう! 祈って何とかなるならば! あぁ神さま! ぼくはノボリともう一度話したい、ノボリと生きていきたいんだ!

 

 ノボリの手にすがりついて、細く細くなっていく呼吸の音を聞きながら、ぼくは祈った。どうか神さま! 眠りもせずにノボリに付きっきりだったせいか、とうとう意識が遠のいても絶対に手を離さなかった。

 

 そして意識が黒く黒く塗りつぶされて。

 

 ナニカの声が、不思議な声が、ぼくに話しかけた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつしかぼくは半分雪の中に埋もれていた。夢かと思うほど一面真っ白、ぼくびっくり。顔をあげると太陽が出てて、雪が反射してぴかぴか。このままじゃ顔がとんでもない日焼けになっちゃうと思った。まぶしくって目を閉じて、でも、寒くて寒くて、きっとひとりぼっちなんだろうと思った。

 

 なんにも理解できない。思わず俯くと、不意に上から声が降ってきた。焦がれ続けた、あの、優しくて誠実な。

 

「おやクダリも起きましたか」

 

 それは誰よりも聞き慣れているのに久しぶりの声。ばっと見上げると黒いサブウェイマスターのコートを着たノボリもいた。それ着るの、ねぇいつぶり? 

 

 あのね、十五年の中で一番嬉しくってでも寒くって、ぼくはぴょんと飛び上がって起きるとノボリに抱きついた。本当にノボリだった。背筋がピンと伸びていて、懐かしかった。

 

「およしなさいな、確かに寒いとはいえ……」

「だって、だってノボリがぼくと話した!」

「今朝も話したような気がするのですが」

「話してない! 十五年は話してない!」

「? 何の話です? まぁ今はそれは置いておきます」

 

 ノボリはぼくを引き剥がすと、おもむろにコートをまくって、普段ポケモンボールをつけているベルトを見せた。

 

「それよりポケモンたちがおりません。クダリは?」

 

 ぼくもサブウェイマスターのコートを着ていた。いつ着替えたんだろ。反射的に腰に触れると、触れたのはベルトだけだった。

 

 あれれ?

 

「ノボリ、ぼくもいない」

「やはり。一体ここはどこなのでしょうねぇ……」

 

 たしかに不安だったけど、どこだっていい。ここが死後の世界でも地獄でも、死に場所になっても。どこでもいいんだ。ノボリがいるなら。死後の世界だとしても、きっと彼らも天命を全うしたら追いかけてくるはずだし、そうでしょう?

 

 懲りずにノボリに抱きつくと、やれやれとため息をついたノボリはそのまま周囲を見回し……。

 

「あちら、人里のようですね。遠くですが山沿いに何か建っているように見えます」

「ほんとだ」

 

 ここがどこか知る由もなく。ノボリがたった独りでたどり着いた終着点ももうなく。ついでに記憶も失わず、ぼくは兄を失わず。

 

 遠い遠い時代のシンオウの地。雪に埋もれてポケモンなし。白と黒の同じ顔した現代人なんてすっさまじく浮くことになるのだけど、ぼくらの目的地がすり替えられても問題なし!

 

 だってこれが幸せな夢だとしても。ぼくはノボリの隣で目的地を目指す。ノボリがポケモンバトルを広げるならぼくはバトルルールの布教かな、なんて!

 

 神さまありがとう! ノボリが行ってしまった世界にぼくも連れて行ってくれて! そういうことにしてくれたんでしょう? 最初からひとりぼっちのノボリじゃなくて、双子は離れ離れにならなかったという風に書き換えてくれたんでしょう!

 

 ありがとう! 本当にありがとう! なら残りは全部あげる。だってもう、ぼくはこれでいいんだもの! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、遠い時代の二人が現地の人間との初対面に苦労している頃。

 現代文明の利器たる空調が完備されているはずの病室で、ある双子が手を取り合ったまま凍死しているのが発見されたという。

 

 同じ棺に納めなくてはならないほど、かたくかたく凍りついた彼らは、心底幸せそうに見えたらしい。

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