【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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たまたまひとりで街を歩いていたぼくを路地裏に引っ張り込んだ男がいた。その男はフードで顔を隠していたけれど、ぼくには誰かすぐにわかってしまった。
「僕。今すぐ君のノボリの手足でも切っちゃって閉じ込めて?」
「……は?」
「ね、悪いこと言わないから」
「もうそれが悪いことじゃない、かな?」
「ううん、善意百パーセント。じゃ、僕次の世界に行ってくる。捕まる前にひとりでもたくさんの僕に言っておかなきゃ。そろそろ国際警察とか、時空の観測者のお世話になりそう、だけどね」
 なんてヘンテコな会話があった少しあと。「ハイリンク」の世界にズレ……いわゆるパラドックスが発生して不安定になっている、なんて噂を耳にした。


途中式パラドックス

「ノボリだいすき」

 

 一度目の告白。あれは眩しい笑顔でした。小さな子どもが自分の双子の兄に向かってそう言うなんて微笑ましいものじゃありませんか。周囲の目も温かく、わたくしはとびきり満たされた気分になって、

 

「わたくしもです!」

 

 なんて張り合って言ったのを覚えています。わたくしの返事を聞いたクダリの嬉しそうなことといったら! あの弾けるようなとびっきりの笑顔は今でも胸の内にしっかり焼き付いた、愛しいクダリの最高にかわいい姿なのです!

 

「好きだよ、ノボリ兄さん」

 

 二度目の告白はティーンエイジャーになったばかりのころでした。あふれんばかりの親愛でくるんで誤魔化し半分にしたつもりでしょうがわたくしには全部バレバレでした。用意周到にも周囲には誰もおらず、クダリはクダリなりに緊張して自分の中で想いに区切りをつけたかったのでしょう。

 そうは問屋が卸しませんよ。そんなにかわいい顔をして、わたくしどうしてやりましょう? わたくしいつだってカチコチになった熱いからだを抱き寄せて撫で繰り返してやりたいのを我慢するのに精一杯なんですから! クダリがわたくしのことを一等好きなことはちゃーんと分かっていますけれど、一生懸命表情を作ってわたくしに向き合う姿はとってもとってもとーってもかわいいのでもっと言ってくださいまし。わたくしに照れながら愛を囁いて、わたくしにたっぷり捧げてくださいまし?

 

「わたくしもです」

 

 いつぞやと同じセリフで返してやり、すっかり熟れて真っ赤な頬をそっと両手で包み込んでやりました。ふふふ、クダリが人のいないところを選んだんですものね? おかげさまで役得でございます。熱い頬の感触、潤んだ目の可愛らしかったことと言ったら! なのにこの期に及んでクダリったら、慌てふためき手足をもぞもぞ動かしながらますます縮こまって、

 

「だ、だよね! 当たり前のこと言っちゃった……ぼくたちずっと仲良しだもん」

 

 なんて告白を濁したのです。せっかくわたくしがこたえたというのに! 流石にそれはわたくしに対して失礼ではありませんか? そしてもちろん、クダリの心に秘めてきた想いに対しても不誠実です。

 そんなちょっと奥手なところもクダリのかわいげなのは分かっていますけれど、もう少し、ねえ? クダリ、クダリ、わたくしはずーっとお前のものなんです。もっともっと恥じらってわたくしに愛を囁いてくださいまし。お前のかわいいところを見るのがわたくしの喜びであり、返事を聞いてお前の顔がほころぶ瞬間こそわたくしの幸せなんですから。

 

「えぇそうですとも。それで? このわたくしをそうやって誤魔化すおつもりですか」

 

 少し問いつめてやるとすぐに白状して、わたくしたちは晴れて好き同士になったのです。しかしながらどうやら恋人ではありません。クダリはあくまで「恋人」というのは血の繋がっていない他人同士がなることだと思っていて、どうでもいい世間の目やら生物学的な話やらを妙に気にしていたようでした。そんな無駄なことに思考を費やす暇があったらもう少しわたくしがときめく口説き文句を考えればいいのに。まったく。そういうところもかわいいのですけど。

 かわいいクダリの頑なな心を解きほぐすのはわたくしの役目。そういうわけなのでしょう。腕がなりますね。

 

「ねぇ、ノボリ兄さん。君のことが好きなんだ」

「もちろん、わたくしもですよ」

 

 三度目の告白は鉄道員になってすぐのことでした。ふたりで借りた部屋の中、一緒に眠るベッドの上、わたくしを抱きしめてそう言ったのです。まったくもって今更ではありませんか? いくら双子の兄弟だからといっていい歳をして就職を期に同じ部屋を借り、……そこまではまだいいにしても、同じ部屋で眠り、ベッドも同じで、毎日挨拶ではないハグもキスもするのです。なんて今更なのですか。わたくし、愛しのお前を詐欺で訴えるべきなのでしょうか? ここまで状況証拠を揃えておいて、さらに既成事実まで作っておきながら付き合ってないなどと? 舐められたものです。

 

 ここまでくると「かわいい」では済まされませんよ。相手がわたくしでなければ激しく頬を張られ、詐欺男として有名になってしまうところじゃありませんか。もう。かわいいクダリをきちんとエスコートできなかったのはわたくしの落ち度かもしれませんけど、少しは度胸のあるところを見せて欲しいものです。だってねえ? 散々このわたくしに手を出しておいてそれはないでしょう?

 

「愛してるんだ、どうしても。ノボリ兄さんのことがとっても大事で、だから、」

「なにが『だから』なのです」

「諦めようとしたから。だってぼくと一緒になるよりきっとその方が『普通』で『自由』で幸せだからと思ったんだ」

「まったく。馬鹿なことを考えていますね。ならわたくしがまた惚れさせてやりましょう。クダリがわたくしのことしか考えられないようになればそんな考えも消え失せるでしょうか。わたくしの幸せはお前の幸せ。どうしてそれが分からないのです」

「ノボリ兄さんのそういうところ大好き。ぼくの分まで男前……」

 

 ぽーっとわたくしを見つめ、すでにクダリの眼中にはわたくししかないことを確認し。そんなことはとうの昔に分かっているのですけれどひとつ安心のようなものを覚えて。

 

 とはいえクダリはわたくしが惚れ込んだ人間であるということには間違いありません。いつまでもわたくしに見とれているような人間じゃありませんので。そこでひとつ深呼吸をして、わたくしと額を合わせ、目をしっかり合わせて仕切り直してくれました。

 

「ぼく、ノボリ兄さんのことを愛しているんだ。なによりも」

「よろしい」

「うん」

「わたくしたちは恋人というわけですね。わたくしのおまえ。今日からクダリはわたくしの恋人ですね」

「ぼくは、ノボリ兄さんの恋人……」

「ご不満で?」

「ううん! まるで夢みたいに嬉しい言葉だったから!」

「お前がわたくしのことを好きだと言った時から恋人にすれば良かったのですよ」

「うん、だよね。わかってる。ちょっとぼく、臆病だったね。これからはノボリ兄さんへの好きの気持ち、思ったらすぐに伝えるから!」

 

 そういうわけで、わたくしたちはようやく「恋人」同士になりました。それまでと全く変わらぬ生活を送りながら日々過ごしてきたのです。

 

 月日が流れサブウェイマスターへ昇進してからもわたくしたちの関係性に変わりはありませんでした。正直なところ、それまでもいわゆる「恋人」と何ら変わることのない関係性でしたしね。なので変化らしい変化はなく、ただクダリが少し自分の心に素直になったというだけのこと。喜ばしいことです。前よりもたくさん愛を囁いてくれました。前よりもクダリの恥ずかしがる姿が見られてわたくしはおかしいようなくすぐったいような気持ちにさせてもらいましたとも。

 

 昇進を期に前よりずっと広い部屋に引っ越しても私たちはいつも通り同じ安っぽく窮屈なベッドでくっついて眠りました。毎日同じふたりには少し小さいテーブルで食事し、仕事が終われば小ぶりなふたりがけのソファで寄り添い過ごしました。わざと買い換えずに不足のあるものを使って少しでも大義名分を得ようとするクダリ。わたくしは時折「新しい大きいのを買えばわたくしたちのびのび過ごせますよ」なんてからかってやるのですが、わたくしと少しでも離れるのが嫌な様子のクダリの悲しそうな顔を見ると毎度撤回する羽目になるのですけどね。

 

 そういうわけでわたくしはすべてにおいて満ち足りていました。今後法的に結ばれることはなくとも、その必要はなかったので。だってどんな関係の「家族」よりわたくしたちの関係の方がずっと近しいので。誰がどんなに羨んでも「双子」より近い関係性などあるはずないでしょう? 願う前から同じ血が流れていて、どんな法が文句を垂れようともわたくしたちの関係は否定できません。なんなら元々ひとつのタマゴだったのです。遺伝子さえお揃いのわたくしたち、これほどまでに完璧なことなんてあるでしょうか。クダリは小さいことを気にしていましたがわたくしにとってはむしろ好都合でした。

 

 すべて見せつけてやればよろしい。クダリとわたくしが揃って歩いていれば誰がどう見ても双子だと認識するでしょう? そして寄り添って歩くふたりは家族だとすぐにわかってくれますね。大人になっても小さなふたごちゃんのように私生活も行動を一緒にしている。状況証拠がわたくしたちの仲の良さを証明しているのですよ? もし仲を勘ぐる人間が居るならばもっとよろしい。他人様に迷惑をかけていないのですから後ろ指をさす人間の方こそ悪者にしてやれば良いのです。

 

 とはいえ、別にわたくしから何かをすることはありません。ただただ日々、愚直に清廉潔白に生きていればそれでよろしい。それだけでわたくしたちがいつの間にか正義になり、わたくしたちをそしり、後ろ指を指すような人物こそがいつの間にか悪者として埋もれることになるでしょう。もちろんその者に逆に悪い噂が立つようなことがあればそっと間に入ってそれをゆっくり解消しなくてはなりませんがね。

 わたくしからすれば慧眼にもただしく関係性を見抜いて口に出してしまっただけ。わたくしにとってはむしろ分かってくださって嬉しいくらいなので心底穏やかな気持ちで接することが出来ますとも。そしていつの間にかわたくしたちは肯定される。「なんて寛大で、なんて正しい、なんて真っ当な人間なんだ」と認識される。それだけのこと。人間の思考回路なんて難しいものではありません。堂々としていれば正しく見られるものなんですよ。

 そういうわけでわたくしたちの関係性は安泰でした。

 

 仕事も私生活も充実した日々。それは心地よい疲労と穏やかな休息の繰り返し。なかなかの激務ではありましたが時には揃って休暇をとって羽を伸ばしたり時にはふたりして深夜まで同じ部屋で共通の目的を持って事務作業したりするのは嫌いじゃありません。

 公私共に互いの不足を補い合い、互いの強みを生かし合い、背中合わせになったり寄り添ったり。そんな関係はなんて、あぁ心地いい。

 

 すべてすべてがどこまでも満ち足りていました。なんの不満もありませんでした。そして、クダリもそうだと思っていました。

 

 あぁかわいそうに、クダリは心から幸せそうなわたくしの隣で抱え込んだ本心を言い出すこともできず、ひとり思いつめていたのです。

 

 わたくし、お前のためならなんだってしてやろうと思っているのですよ? 「わがまま」なんてかわいいもの、むしろいくらでも聞きたいくらいです。それが例え、わたくしのポリシーに反していたり、金銭面あるいは肉体的に負担がかかったりすることだとしてもお前のことをこの世でいちばん大事なかわいいかわいい弟であり恋人だと考えているのですから、何が惜しいものですか。

 しかし、お前は控えめでわたくしを過度に尊重することこそが愛だと思っている節があるのです。わたくしがどう考えていようがかわいいクダリはぐっと欲望を堪えてわたくしの幸せそうな顔を見ることこそが幸せなのだと信じ込んでいるようでした。

 

 思いつめているクダリは日に日にその抱え込んだものについて考え込む時間が長くなっていき、わたくしは決心を固めました。

 

・・・・

 

「あ、あの。兄さん近い……」

「わたくしとお前の仲で近いなんてことがありますか」

「ううんないけど!」

「よろしい」

 

 そういうわけでわたくし、家でクダリと水入らずで過ごすとき決まってクダリの凝り固まった理性に囁きかけるのです。そう、それは決まってベッドで。クダリったら少しばかり意識させるだけで面白いくらい動揺するんですもの。今日は乗り上げてやりました。クダリのしっかりと筋肉のついた太ももの上に跨ってやり、からだが擦れ合うほど近寄ってやるとクダリはあっという間に真っ赤になってわたくしから目を離せなくなるのです。いつまで経ってもうぶなティーンのころと変わらず、まるで毎日わたくしに恋するような眼差しを向けてくれるのです。わたくしはそのまなざしを受けるとなんだか優越感があったもので、すっかり癖になってしまったのですよ。

 

「ねぇクダリ。わたくし、お前のかわいいわがままを聞きとうございます。どうか素直になってくださいまし? 胸のうちに仕舞いこんだ『言えないこと』、あるでしょう?」

「う。えっとね、あのね、ぼく、ノボリ兄さんに言いたいわがままなんてないよ! ぼくは心の底からしあわせなんだもの。ノボリ兄さんと両想いなんだよ?」

 

 しあわせ。そうでしょう、そうでしょうね。嘘ではないでしょうね。

 クダリも心底「しあわせ」なのです。それだから本心を押し込めたままにしているのでしょう。今の幸せを壊してしまうことを恐れているのかもしれません。

 

「そうは言いましても。たまには思いっきりわたくしに甘えて、わがままを言って、存分に満足してくださいまし? お前はあぁしまった、少しばかり言い過ぎたかもと後悔してしまうようなわがままを言うべきなのですよ。だってクダリはずーっととびきりいい子なんですもの。わたくし、少しは報いてやりたいのですよ。ね?」

 

 呆然とわたくしを見上げる無防備なからだに乗り上げ、その膝の上に可愛らしく座っておねだり。ごくりと生唾を飲み込んだ素直な喉元を撫であげ、ギラギラとした欲望を必死で抑え込んだ瞳を下から覗き込んでやるとどろどろの欲望がなみなみとたたえられていて、少しつついたら零れてしまいそう! それはなんてなんてなんて美味しそうで、すっかり飲み干してやりたくなるのでしょうね? わたくしの腹の中にクダリの欲望がたっぷりと満ちる。それはなんて素敵なことなんでしょう?

 汗ばんだ両手がわたくしの背中をこわごわ包み込み、磨かれていない鈍い刃のような光を宿した瞳がチカチカ瞬きながら一生懸命に理性を手繰り寄せている様が分かりました。わたくしと遺伝子までお揃いのはずなのに随分違う色のようですね。他人が見れば同じなんでしょうけど。

 

「ぼく、ぼく、ノボリ兄さんを……」

「はい」

「この世でいちばん愛してる、何よりも大事で、何より好きで、かけがえのない、ぼくの生きる意味そのものなんだノボリ兄さん。いつでも健やかでいて欲しくて、いつまでもぼくだけを見て、ぼくだけを赦して欲しい、誰のものにもならないで、ぼくだけが独占していたくて、でもノボリ兄さんはどこまでも自由でなくてはいけないんだ、どこまでもどこまでもぼくにも誰にも縛られない清らかな存在だから、ぼくが、ぼくのエゴで、ぼくの勝手な欲望で偉そうにもどうこうしていいわけがなくてそれで、それでも、」

「はい」

「の、ノボリ兄さん……」

「はい。だからどうしたと言うのです? わたくし、お前の全ての欲望を受け止める気概なのですよ?」

 

 可哀想なほど冷たい汗が滲みだした頬を両手で包み込んでやる。なめらかな肌を無意識にわたくしの手に擦り付けるさまはひどくかわいらしいもの。わたくしはそんなかわいいクダリの精一杯の欲望とやらを見てみたかったし、同時にクダリがかわいいばかりの男ではないことも理解していました。だからなんだと言うのです。それでも構わずクダリの欲望を飲み干したくて堪らなかっただけなのですから。

 

「ぼく、ぼく、ぼく……!」

 

 あぁ、クダリの理性がぼろぼろと決壊していくさまが手に取るようにわかります。言いたいこと、言っておきなさい?

 

 わたくしはただ優しく微笑み見守って、クダリがあくまでも自分の意思で正直になったのだというわざとらしいスタンスを崩しませんでした。だってきっとその方がわたくしに対して正直になれるでしょう? 優しいクダリがわたくしの「お願い」を聞いたという状況ではいけません。わたくしに忖度したのではダメです。クダリがクダリらしく、自分の心を解放してくれなければ。

 そうして、わたくしはどんな無理難題でも叶えてみせます。ええ、わたくしのすべてはクダリのものなので、どこまで許容できるか、わたくしのものであるクダリは分かるに決まっています。

 

「ぼくね、のぼりのことがいちばんだいすきなんだ、いちばんだいじなんだ、だから、ぼくだけのものになってよ、ぼくだけのものになって? そうすればあんぜん、だから」

「えぇ、わたくしの全部をあげましょう」

「ほんと? ぼく、うれしい……もうだれにものぼりのことみせてあげない。ずっと、ずっと、のぼりにみとれるのはぼくだけ。のぼりのことをぎゅってしていいのもぼくだけ。のぼりはずっとぼくのもの……だから、ぼくののぼりは、ぜったいに……」

 

 痛いほどにぎゅっと抱きしめられ、わたくしは歓喜の笑みを止められませんでした。クダリが、あの頑ななクダリがすっかり正直になって! ぼうっと熱に浮かされたような、夢中になった口調でわたくしのことばかりになって。

 

 あぁ一体、クダリはわたくしをどうしてしまうんでしょう? それが楽しみで楽しみで、えぇクダリは優しくて慎重な男ですからそんな彼がどうなってしまうのかわたくし想像もつかないので年甲斐もなく胸をときめかせてしまいます! もちろん双子の弟なのでわたくしこそがこの世でいちばんクダリの行動原理を理解していると言っても過言ではないのですけど、クダリったら想いを自覚したころからわたくしに対して遠慮がちで、まるでガラスのような壊れ物のように扱ってくるのです! わたくしとてかわいげのないいっぱしの大男、そうそう壊れることなどないというのに、わたくしの扱いときたらとびきり箱入りの深窓の令嬢かドラマの主人公でありそうな非常に病弱な少年にでも接しているのかと言いたくなるようなほど過保護な様子まであったのです。

 

 クダリは具体的なことをあれこれ考えているようで、わたくしをベッドに横たえるとそのまま奥手なクダリにしては大胆にもわたくしの横に横たわりました。わたくしの頬にそっと触れるだけのキスをして、かわいらしく微笑んだのでした。

 

「じゃあ、いきなりだけど明日からノボリ兄さんは有給消化に入ろっか。仕事の引き継ぎについては心配しないで? ぼくがやっておくし、職場の私物もぼくが回収するし、退職の手続きもぼくがやるからノボリ兄さんは何もしないでいいからね。もしかしたらびっくりしちゃった部下が電話かけちゃうかもだけど出ないでね。もう会うことはないんだから気にすることはないよ。

 そうだ! ノボリ兄さん疲れてるでしょ? 明日はゆっくり休んでたらいいと思う。あとね、少ししたら引っ越しするからどんな間取りがいいとか、どんな設備があったら嬉しいとか、そういうことも考えてほしくって。だってこれからノボリ兄さんが快適に過ごすための家だものね、ぼくよりノボリ兄さんの方が長く家にいることになるんだから希望は全部叶えたいんだ。壁紙の色とか材質、ベッドから窓が見えた方がいいかな? それともぼくたちらしく地下室がいい? うーん、いろいろ考えることがあるけどこれはぼくの一存じゃいけないからよろしくね。あ でも今日明日って話じゃないから、三か月くらいで全部ケリをつけてくるからそれくらいまでで。家具とかも一新してもいいね。特にベッドはおっきいのに買い替えよっか? 考えてくれる?」

 

 そう、迷いの余地もなく笑顔のまま言い切ったのでした。

 その言葉はどこをとってもまったく意味不明に聞こえました。いえ、言われた言葉の意味は分かってもわたくしは「理解」が追いつかず、思わず半笑いでクダリの笑顔を見返すばかり。

 

 だって。クダリ、お前、わたくしと一緒に仕事をするのが楽しいとあんなに言ったではありませんか。わたくしと色違いの衣装を着て並び立つことが誇りだと、あんなにとろけるような笑顔で。忙しくともやりがいがあると。わたくしと一緒ならば仕事の大変さは半減し、やりがいは倍増していると言っていたのに嘘はないでしょう。それなのに?

 

 それでもクダリの感情はわかります。わたくしを独り占めにしたいのですよね。他の誰にも見せたくないくらいに執着している。それは、わかります。

 でも、わたくしはてっきり、その感情は他の正の感情……それこそ仕事の誇りやありふれた幸福な日々を過ごすことに塗り重ねられ、その色を失った程度のものだと思っていました。人は誰しも叶えられないようなほど不相応な、薄暗い欲望を持つものでしょう? 感情自体に不思議はありませんでしたが、不可解でした。

 

「えっと、ノボリ兄さんの荷物はロッカーの中と、デスクと、あとはどこ? 社員証と社用端末、鍵なんかはぼくが返しておくからね。これは場所知ってるから安心して? なにか心配なことがあったらぼくが代わりにやっておくからいつでも言いつけてね。書類でも、荷物でも、言づけでもなんでも。あ! 仕事帰りの買い物は今まで通りやるからそれも言ってね! あとあと、なんかあったかな?」

「えっと。あの、クダリ、わたくし、仕事を辞めることになったのですか?」

「うん。……あ、えっとね! ごめんねぼく、嬉しくって急いじゃって、説明不足になっちゃったかも。えっとね、ノボリ兄さんのこと、ぼく誰も見て欲しくないの。ぼく以外が見るなんて耐えられないの。だから、仕事なんてしちゃ絶対にダメでしょ? ノボリ兄さんの制服姿もカッコ良かったけど、仕事しているカッコいいノボリ兄さんのことは大好きだけど、でもぼく以外がそれを見るなんて嫌なの。だから明日からはお家にいてもらおうって。ね、ノボリ兄さん呆れちゃった? ぼくこんなにワガママなの。今ならまだ我慢できるけど、……でも……早くしないと……」

 

 これまでのクダリはわたくしと違って幸せではなかったのでしょうか。わたくし、クダリの言葉が本当でないことに気づかなかったのでしょうか。クダリはそうも思い詰めて? いえ、そうとは思えません、わたくしの目を誤魔化せるものですか。あれは間違いなく本心でしたとも。それでいて、今だって嘘をついていないのでしょう。

 

 今のクダリの瞳は希望に満ちて輝き、明るく朗らかで、幸福そのもの。一片の曇りもなく、「わがまま」を抑え込むこともなく。

 ならいいでしょう。ならば受け入れてしまいましょう。クダリの幸福がわたくしの幸せであることには違いなく。クダリがわたくしを仕舞いこんでしまいたいと言うならそれでもいいでしょう。だってクダリはわたくしのかわいい弟なんですもの。すべてを叶えてやりたいのです。ええ、わたくしは恋人の願いを聞いてやれないような甲斐性なしじゃありませんし。

 

「……いいえクダリ、わたくし、何一つ撤回するつもりはありません。クダリがこんなにも自分に素直になってわたくし嬉しいくらいです! 少々想定外だったので驚いてしまっただけで……しかし、クダリ。わたくしたち同じサブウェイマスターですけれど、お前と全く同じ仕事をしているわけではありませんよ。クダリに引き継ぎをさせるというのは少々無理があるのでは?」

「大丈夫。ノボリ兄さんのことなら毎日全部記録してあるから。もしそれでも足りないことがあったら職場の監視カメラとマイクで該当日時をさかのぼって客観的な視点でも確認するし、大丈夫。なにかノイズがあって聞き取れなかったり死角になってたとしても二つの視点から見れば大丈夫だよ。そういうものはないって確認してあるけど」

「そう、なのですか? わたくしの記録とは?」

「えっとね、幽霊電車の一件からATOシステムのセキュリティ強化をしたじゃない? その時についでに駅のあらゆる場所に監視カメラとマイクをつけたんだ。あ! 流石にトイレは別だけど!

 あの一件を重く見て、テロとかの対策についても考えてさ。今度は別の手口を使われても嫌だしさ。だから職場の記録は全部あるの。就職した時からあるわけじゃないけど現在のノボリ兄さんの業務全般はカバーしてると思う」

「なるほど。……わたくし、機械に関してはクダリに及びませんので、クダリが大丈夫というならそうなのでしょうけど」

 

 監視カメラ。マイク。いえ、万が一の不正の確認や侵入者およびテロ対策なのは分かっているのですが、クダリの言い分だと仕事中の会話くらいはしっかり聞き取れるほどの感度ということになりますが。一般的な監視カメラやマイクの性能を凌駕していると感じたのは、わたくしがクダリほど機械分野に詳しくないからでしょうか? クダリは仕事ができる子なので信じていないわけではないのですが、何分頑固なところがあり、大変に一途な人間ですので少しやりすぎていないか心配です。

 それに「二つの視点」、とは? 言葉通りに考えれば監視カメラを複数設置して死角ができないようにしているということなのですよね? それにしたって外部に情報を漏らさないようにしたかったのでしょうけど同じサブウェイマスターであるわたくしにも言ってくれなかったとは。まったくクダリは仕事熱心ですね。少し寂しいくらいです。

 

 とはいえ、わたくしに二言はございません。クダリのわがままが見たいと宣言したのならばわたくしはすべて受け入れるものなのです。クダリがそんなにも嫉妬心を持って日々生きてきたことがわかっただけでも素晴らしい収穫と言えますし。

 優秀で、わたくしに一途で、とびきりかわいいクダリ。クダリのすべての矛先はわたくし。クダリがこうも愛するのも心配するのも独占したいのもみーんなわたくし! なんて気分がいいんでしょう!

 

「職場の荷物についてはクダリが知っている物以上はありませんし、クダリのする仕事ならばすべて信頼できますので特別わたくしから申し上げることはありません。もし何かあればすぐに言ってくださいまし」

「うん、わかった」

「あと……そうですね、少々暇なので職場のバトルビデオを全部コピーして持って帰ってきてくださいまし。明日じゃなくていいですから」

「片手間にやれるから明日で大丈夫だよ」

「おやまあ」

 

 クダリが甘えるようにわたくしの胸元に顔をうずめ、目を閉じて心地よさそうにしながらも、わたくしを包み込むように抱きしめて。わたくしもクダリの髪から香る優しいシャンプーの芳香とクダリから発せられるどことなく甘い、馴染み深い香りにうっとりして、この世界がまるでクダリとわたくしだけになったようだと夢見心地なことを考えながらゆっくりゆっくり眠りへ落ちていったのでした。

 

 こうして、抱きしめあっていると、わたくしは幸福なのです。クダリがぴったりそばにいる。それ以上の安心があるでしょうか。だからわたくし、クダリからもたらされる何もかもを受け入れたくて、だから。クダリの「わがまま」を楽しみにほんの少し胸をときめかせていたのでした。

 

・・・・

 

「ん……」

「起こしちゃったかな。おはようノボリ兄さん。じゃあぼく仕事に行ってくるね。引き継ぎがメインだからあんまり残業長引かないように頑張るから」

「? おはようございます。わたくしも準備しなくては……」

「もう寝ぼけてるよ兄さん。今日はゆっくり家にいてね。買い物とかも全部ぼくに任せてね。家から出なくていいからね? 何かあったらまずぼくに連絡して? 出来るだけ早く対応するから」

「ん……あぁ、そうでした。わたくし、今日からお休みなんでしたね」

「そうそう。だからまだ横になってて? まだ朝早いから」

 

 どうやら、あのまま朝まで眠っていたようでした。とはいえ社会人として定刻通りに目覚めるのは当然というもの。クダリはらしくなく、何やらひどく早口で言っていましたが、寝起きのわたくしには半分も聞き取れず。

 わたくしを丁寧に再度布団に沈めると、クダリはすぐに部屋から出ていってしまいました。そしてガサゴソと物音がしばらくして、玄関のドアがバタンと閉まる音がして。わたくしはあっという間に置いていかれてしまったのでした。

 ライモン駅の顔としてふたり揃っての勤務が原則のサブウェイマスターでしたからこんなことは滅多にありません。なんだかイレギュラーで新鮮な気持ちですね。腹の底がそわそわします。ぼんやりと天井を眺めながらそんなことを考えて数十分は過ぎたでしょうか。

 

 とはいえ一度目を覚ませばだんだんと目が冴えるというもの。普段ならとうに起きている時間ですし。

 

 そろそろご飯でも食べましょう。クダリは外に出るなと言っていましたけどわたくしの朝食分くらいの食材はあるでしょうし。えぇそうしましょう、優雅にゆっくりと朝食を食べれば何かやりたいことでも思いつくでしょうし。

 

 あぁ、こうなるのだったら職場の業務用回復装置に手持ちを預けてこなければよかったですね。今日、クダリは皆を連れ帰ってきてくれるでしょうが今の寂しさを誤魔化せませんし。

 

 なんて少しばかり寂しいながらもキッチンへ行き、手早く目玉焼きを乗せた簡単なトーストと飲み物を用意し、リビングへ。

 

 あら。

 

「おやまあテレビが……」

 

 暇なので食事しながら見ようと思っていたんですけどね。

 残念なことに、それはそれは物の見事にテレビの機械の駆動部分……おそらくは基盤のあたり……だけがきっちりと破壊されていました。昨日の晩御飯の時には無事な姿を確認していますし、先程クダリがやったのでしょうけどあんな短時間に大きな音も立てずによくやったものですね? 

 わたくしが外に出るのが我慢ならないのはなんとなくクダリのかわいらしい独占心ということで分かりますけど、わたくしが家でテレビを見るくらいこちらからの一方通行のことで構いやしないと思うんですがね。だってテレビの出演者にわたくしの存在なんて分かりようもありませんから。

 

 まぁ、理由はそうではないでしょう。どうやらクダリはわたくしに見せたくないことがあるらしいですね。ニュースにでもするつもりでしょうか? 例えば……「サブウェイマスターノボリ、電撃引退!」とか。自惚れを抜きにしてもわたくしの引退がニュースになるような有名人なのかと言いますと、そうかもしれませんしそうなるにしては認知度が限定的かもしれませんが。どうでしょう、自分の評価というものは案外分からないものです。

 クダリがテレビを壊していったということは嬉しいことにわたくしたちもそこそこ有名だったようですね。

 

 当然、わたくし、こんな年齢で仕事を辞めるつもりはありませんでした。きっとクダリは相当無茶なことを無理やり押し通すつもりです。わたくし病気でも怪我でもありませんし、ものすごく一方的ですし、もちろんわたくし自身が引継ぎを用意している訳でも無く手持ちさえ職場に置き去りにして突然名誉と責任あるサブウェイマスターを辞めると申し上げる異常事態となっているわけです。

 当然反対意見も批判もあるでしょう。もしかしたら誹謗中傷さえあるかもしれないですね。他人から見ればそれは目下突然降ってわいた理不尽で、恐ろしいほど唐突で、どうにも納得できませんし?

 

 あぁ、かわいそうにわたくし、これから世間ではどう言われてしまうんでしょう? 犯罪を犯したわけではないのでなんにせよ堂々としていればそんな悪評程度、数ヶ月もあれば完璧に払拭できる自信がありますが、わたくしもうクダリ以外と顔を合わせることはないのでしょう? クダリはうまくやってくれるのでしょうか? それとも会うこともない相手の評価なんて気にするだけ無駄ということでしょうか? なにぶん暇なので要らないことばかり考えてしまいますね。まあ「世間様」なんてどうでもいいんですけど。

 

「これだとわたくしとっても暇ですよ、クダリ。外に出られずテレビもなくて。きっとパソコンも無事ではないんでしょうね。電話はできるでしょうが、ライブキャスターの検索機能も怪しいところですねぇ。これでは何をしたらいいんでしょう? 覚え書き程度でも引き継ぎ資料をここで作った方がマシではないですか?」

 

 なんてね。流石に如何によく気がつくクダリでもわたくしの声の届かないところにいるわけですが。愚痴くらい言ったっていいでしょう? 明日にはバトルレコードが届くので多少マシになるでしょうから今日だけのことですし我慢しますけどね。

 

 さて。洗い物をしたらちょっとしっかり目に部屋の掃除でもしますか。あぁ、早くクダリの準備が整いさえすれば後に引けなくなったクダリの欲望をたっぷり受け入れられるのですよね! それが楽しみで楽しみで! 今のうちに思う存分綺麗にしておきましょう! もしかしたらわたくし数日寝込んでしまうかも? 今時珍しいくらいに紳士なクダリですからわたくし考えすぎですかね? なんて、ちょっと浮かれてしまいます!

 

 疲れて帰ってきたクダリをピカピカのお風呂に入れて差し上げたいので、すでにどこにも汚れは見受けられませんが、チェックイン直後のようにピカピカに浴槽を拭きあげ。料理好きなクダリがいつ触っても気持ちよく使えるように台所をハウスキーパーのように完璧に鏡面に仕上げ。髪の毛一本、塵ひとつ残さぬよう念入りに床を掃除し、ベッドメイクも我ながら皺ひとつなくシーツをぴんと張ることができました! クダリの部屋のベッドも綺麗に整えたいですがそれは本人の了承が必要なので仕方ありませんね。

 掃除ってどうしてなかなか、一度始めると止まらないんでしょうね? だんだん楽しくなってきて止まりません。ついつい時間を忘れてしまい、気づけば陽が落ちていたのでした。途中クダリからのライブキャスターの着信があったようなのですが気づくのが遅くて取れず。かけなおしてもいいですが、きっと休憩時間は終わっていますよね? ということで家で聞くことに。重要なことならもう一度かけてくるでしょうし。

 

 そういうわけで、わたくしってばまるで新妻のようにかわいいクダリをお出迎えでございます。

 

「クダリ、おかえりなさいまし!」

 

 疲れた様子を全然見せないのは流石ですがお疲れですね? だってこんなに大荷物のクダリなんてそうそう見ませんもの。ここまでお疲れさまでした。ここからはわたくしが運びますとも。わたくしのロッカーから回収してきてくださったのですね? それからバトルレコードの記録媒体だけでこの重さですか! 大昔のデータも混じっていて、最近の大容量な記憶媒体ではなかった頃のものまで! まあまあ、こんな貴重な原本を私人になったわたくしが見ても良いのでしょうか? いいですよね、クダリが上手くやってくださったんでしょう!

 

「こんなにたくさん!」

「喜んでくれてよかった! あのね、ノボリ兄さんお掃除ありがとう。ノボリ兄さんがライブキャスターに出なかったってことは外してたってことだし、家にいて起きてるのに外すときなんてお風呂顔掃除くらいでしょ?」

「ご明察でございます! いやね、わたくしやることがなかったものですからね」

「うん。ごめんねぼくそこまで気が回ってなくて……」

「いいえ。クダリは先の先まで読むのがわたくしより得意ですからね。意味のない行動はひとつもなく、すべては布石です。わたくし知っているのですよ」

「買い被りすぎだよ……」

 

 とりあえずこの大荷物はリビングの隅にでも置いておきましょう。あとで整頓するのもわたくしの楽しみです。特にこんなにたくさんのバトルレコードの整頓なんて! ああ、楽しみです! 自室に専用の棚があるのですが、きっとこの量だと入り切りませんよ! 寝る前に新しい棚の発注をしなくてはね! わたくしの大事な参考資料が増えていくのは嬉しいものですね!

 

「ほらクダリ、わたくしの愛しのシャンデラは? 手持ちたちも連れ帰ってきてくださったのでしょう?」

「それなんだけどね。今日のところは育て屋さんに預けてきたの。こういう競技用のポケモンはトレーナーの休止や引退の際には泊まりがけの健康診断をした方がいいって話を聞いてたの。とりあえずみんなこれまで通りの生活はしないからさ。一応あれが確認の電話だったけどどっちにしろノボリ兄さんが手持ちのみんなに健康診断を受けさせないなんてありえないじゃないか。だからそのまま預けてきたんだ。事後報告でごめんノボリ兄さん」

「そうでしたか。そういうものなのですね。クダリ、ありがとうございます。迎えはいつです?」

 

 おや、事後報告ではわたくしに怒られると思ったのでしょうか? 妙な早口だったクダリは、こちらの様子を見てホッとしたのかいつもの聞き取りやすい口調に戻りました。

 

「明後日かな。今日は遅かったからもうお休みしてもらって、明日一日かけてしっかりみてくれるって」

「分かりました。クダリ、お前は本当に気がつくデキる男ですこと。わたくし思い当たりもしませんでした」

「ううん。ぼくも実はね、この前、退職した鉄道員の先輩にたまたま話を聞いてただけなんだ。思い出すのだって今朝なら良かったのに、ちょっと遅かったし……」

 

 正直今すぐ会えないことには落胆しましたが、クダリは手持ちたちとわたくしを思ってやってくださったのですから。毎日丁寧なケアを心がけてきましたが、わたくしポケモンブリーダーは専門ではありませんし、わたくしが気づかなかった故障がなければいいのですが……。

 

「みんな今日も元気いっぱいでノボリ兄さんに会いたがってたよ」

「それはなにより」

 

 いけない、いつまでも話し込んでいてはいけませんね。クダリは疲れているのですから。

 上着を脱がせ、部屋着を渡して部屋に追い立てました。その間に食卓に夕食を並べましょう。ちょうどそろそろ帰ってくる時分だと思って温め直したところだったのです。

 

 わたくしが用意したのはからだに優しい、たっぷりの野菜を煮込んだシチューです。これがクダリの仕事の疲れを少しでも癒してくれるといいのですが。あ、もちろんからだを温めるのが良いから用意したのですし、クダリはわたくしに日ごろから栄養たっぷりのシチューだのカレーだのを作ってくれるのでそのお返しでもあります。クダリの魔法の手にかかればじっくりやわらかく煮込んだ肉が最高に美味しく仕上がるのですよ。

 仕事終わりの疲れ切った自炊では到底できない、気が向いた日の休日のランチのように時間のかかる料理ですしきっとクダリも喜んでくれるでしょう。

 

 しかし、明日には食材が足りないかもしれませんね。

 

「わぁ、いい匂い!」

「ふふ、ありがとうございます。ほら食べましょう? おかわりもありますよ」

「やったぁ!」

 

 こうして無邪気に笑うお前のかわいい顔を見ると次はどんな風に喜ばせてやりたいか考えたくなるのです。何よりクダリが幸福になるように。誰より優しいお前。この世の誰よりも愛おしく、誰よりも無垢で思いやりを持った大事なお前……。

 

「あ、でも。ノボリ兄さんご飯のあとね、ぼくやりたいことがあるんだ。だからあんまりおなかいっぱい食べると良くないかも……」

「あら」

「ごめんね、ぼくは大丈夫なんだけど……」

「わたくし、夕食を抜いた方がいいんですね?」

「うん……」

「分かりました。クダリが言うことならいつだってそれが最適なんですよ。それにわたくし一日家にいたんですからそうお腹が減ったわけではありませんし。お前の喜ぶ顔を見ていたらあっという間に満たされますからご心配なく?」

「どうしよ、それなら先にやった方がいいかな? でも冷めちゃうし……先にやったら、ノボリ兄さん晩御飯食べられるよね? でもどっちにしろ冷めちゃうから冷凍して、温め直しになっちゃう……」

「? 珍しく煮え切らないですね」

「そうかな……じゃあ、説明するね」

 

 クダリは困り顔のまま持って帰ってきたカバンの中から瓶入りの液体と厳密にパッケージされた注射器を取りだし、わたくしの前に並べました。

 クダリお得意の「説得」が始まるのでしょう。仕事のプレゼンでもそうでしたが、クダリの説得や説明というのはいつでも「誠実」です。裏も表も真摯な言葉で飾り立てられ、時に具体的な物品を持ち出し、数字の躍るデータ、信用できる機関が担保する動画を渡され、実例をまざまざと見せつけられた相手はクダリの言葉をすっかり信用して任せたくなるものです。そのからくりを一番そばで見てきて知っているわたくしはその「説明」が必ずしもすべての真実を語っているわけではないと知っています。

 おそらくはこの世の大半の営業マンがそうであるようにこちらにとって都合の悪いことは敢えて言っていないわけですが、気づくべきその欠落にどこからどう見ても真摯で真っ当な姿を見ると気づけなくなってしまいます。それにクダリもその欠落については意識していて、相手の不都合にならないように尽力はしますから問題にならないわけです。

 

 ええ、でも。被るのはいつだってこちらではなく。ええ、いつだってクダリは泥をかぶらず白いまま。この手管をわたくしは知っている。だから警戒すべきで、でも。

 クダリはわたくしだけにはどこまでも真っ当ですから。クダリはいつだって自分よりわたくしを優先するほどの人間。クダリの言葉にちょっとでもまともに耳を傾ければ飲まれてしまうと分かっていても、本当にわたくしに「背負わせる」つもりでも。まあ、それもかわいいクダリの「わがまま」なのですからそれでもいいかと思ったわけです。

 

「これ、医療用の麻酔薬なんだ。手術なんかで使うやつ。注射器も医療用のちゃんとしたやつね。やり方は何度も『予習』してるから心配しないで? 色んな体格の人間のパターンを百は試してきて一度も失敗しなかったから。ノボリ兄さんは平均より背が高いから体重からちゃんとお薬の量を計算するよ。もしそれでも心配ならぼくが目の前で同じ量打って、翌日にピンピンしてるのを確かめてもらってもいい。そのための延期なら喜んで受けるから」

「……麻酔、ですか?」

「あ、ぼくまた説明がすっ飛んじゃった……」

「落ち着きなさいな。わたくし逃げたり取られたりしませんよ」

 

 途端、クダリの目には瞳が揺れるほどの怯えが現れ。食卓の席についていたわたくしにつかつかと歩み寄ると痛いほどにぎゅうぎゅうと抱きしめたのです。

 

 あぁ。クダリ。クダリは恐れているのですか? わたくしが誰かに取られてしまうかもしれないって! それはなんて笑い飛ばしたいほどのかわいらしさ! でもクダリにとっては一大事なんですね。クダリにとっては統計的にあり得ない確率……例えば、わたくしは何らかの超常的な転移事故に巻き込まれた挙句記憶喪失にでもなり、クダリのことをすっかり忘れてどこか知らない土地でそれなりに幸せに暮らすような、そんな夢物語すら否定できなくて、恐ろしいのですね!

 

「わかってる、ノボリ兄さんはぼくから逃げたりしないって。わかってるんだけど。でも早くしないといけないことなんだよ。このままの生活を続けていたらきっと取り返しがつかなくなる。ノボリ兄さんは本当ならぼくがここに繋ぎとめていいわけないんだもの。ノボリ兄さんの心身は健全で、いつだって十全にその能力を発揮できる用意がある。こんなに魅力的で有能な人物がぼくの両腕程度におさまっているのは道理に合わないんだよ。本当ならライモンシティのみんなが、ううんイッシュ地方の誰もが、いや世界中の生命体全部がノボリ兄さんを口々に称えるような大事業を手掛けていてもおかしくないし、今の時点でもそうなるべきなんだけど、ノボリ兄さんはそれくらい偉大な人物なのに、ぼくはぼくだけのものにしたいって欲望を抑えられないんだ。

 だって、ノボリ兄さんが自ら望んで仕事を辞めたわけでもないし、ノボリ兄さんにとって外の世界が特別に危険な訳でもない。これはぼくの勝手でありエゴだよ。もちろん外の世界には油断ならないものが山ほどあるわけだけど、ノボリ兄さんならほとんどすべてにいつだって対処できる。それこそ突然のテロリズムだってノボリ兄さんは爆心地でもひとり生き延びるに違いないし、なんならそんな恐ろしい事件の収拾さえノボリ兄さんが挑めば叶うと思う。でもね、でもね、それでもノボリ兄さんはひとりの人間だしこの世に絶対というものはないんだ。だったらあらゆる策を講じて用意した高いセキュリティを敷いた部屋の中にずーっといてもらったほうがどうしようもなく安全だ。客観的事実として。ぼくはね、これまでそれ以外に一番安全な方法が他にもないか長いこと考えたけど見つからなかったんだ。ぼくの力不足かもしれないけどぼくの大事な大事なノボリ兄さんの安全のためなら仕方ないよね。仕方ないさ。ノボリ兄さんの安全というものはお金じゃ買えないしかけがえのないもの。なら仕方ないね、どうなっても。そういうわけなの。

 ノボリ兄さんは誰よりも魅力的な人間だから自由にどこにだって行けるし、どこでもうまくやれる。そうしたらぼくのことを心底愛してくれていたとしても心の中に占める割合が少し減ってしまうことだってあるかもしれない。『サブウェイマスター』というぼくらにとっての誇りも、ぼくらにとっても生き甲斐も、ぼくが無理やり捨てさせてしまったぼくらをぼくらたらしめるものも、いつかぼくと一緒に終着点を探したり進んでいくことが目的じゃなくて、まだ若く光り輝く挑戦者たちを導くことこそそのものに自分の生き甲斐や存在意義を見出してしまうかもしれない。

 本来なら尊いことがぼくにとってはどうしようもなく恐ろしくて、やるせなくて、その確率がこの世界にある砂粒全部の中のひとつぶんくらいでもあるなら、ぼくの『わがまま』を聞いてくれる優しい優しいノボリ兄さんから取り上げてしまうし、こうして部屋に閉じ込めてすべての連絡手段を断って外部の情報さえ遮断した挙句ノボリ兄さんが物理的にどこにも行けないように仕立て上げたいって思うんだ。

 ぼく分かってるよこんなのまともじゃないって、どう考えても異常だって。でもね、ノボリ兄さんはぼくのこんな『わがまま』、聞いてくれるんでしょう? ねえぼく、ノボリ兄さんとずーっといたいんだ。誰にも取られないって信じたいんだ。ノボリ兄さんが誰よりも一途な人だって分かっているけれど『誰かがかっさらってしまう可能性』を減らしたいんだ。ノボリ兄さんが一人でなーんにも出来ない、健全じゃなくて、有能じゃなくて、ただただぼくの帰りを待たなきゃなーんにもできない存在になってしまえばそれが叶うと思ったんだ。

 ねぇ、ノボリ兄さんの手足をぼくにして? 君が願うならぼくはなんだってするから。手を汚してもいいし、ぼくのことすっごくこき使ってくれたら嬉しい。だから、だから、ぼく以外にとっては価値にならない君になってよ。手も足もぼくがもぎ取ってしまって、君はぼくの用意したベッドの住人になるんだ。一人で移動することもできない、一人で食事することもできない、自分の意思でなに一つできないでぼくの大事な大事なかわいいかわいい存在になって? ぼくは君の足になって君を甲斐甲斐しく抱き上げて丁重に運ぶし、望むもの何だって持ってくるよ。衣食住のすべてを永遠に保証するし、絶対にこの世の人間誰にも見せないし、安心して。そこでぼくに指図するだけでいいようにするから」

 

 あぁクダリ。

 お前はなんて愚かでかわいい子なんでしょう! 目に入れても痛くないとはこのことですか! わたくし、お前の不安を晴らせるならなんだってしてやっていいのに。手だろうが足だろうが心だろうが脳みそだろうがクダリにならあげますのに。ああ、わたくしの命だけは取られては困りますが。死して離れ離れにはなりたくないでしょう? それはクダリも同じですから完全なる取り越し苦労というやつですけどね。

 

 嬉しくて、嬉しくて、わたくしは込みあがってくる感情をそのままにして口を開きましたとも。

 

「いいですよ、クダリ。それがかわいいお前の『わがまま』なんですね? なんてかわいいんでしょう。わたくしすぐに叶えて差し上げたくなりました。さあ、足からですか? それとも腕からですか? その麻酔とやらを打つと痛くはないのでしょうけどわたくしの意識はどうなるのでしょう? せっかくなら凄腕外科医に転身したクダリを見たいのですが、そんなに大掛かりな処置なら意識を失ってしまうのでしょうかね?」

「……ねえノボリ兄さん。ノボリ兄さんの理解力なら絶対に勘違いしていないと確信できるけどそれはそれとして、分かってるの? ぼく、ちょっと指先を切りたいって言ってるわけじゃないんだよ?」

「ええ。わたくしの両腕および両足を切り落とすのですよね? そうですね、肩のあたりの関節から切り落とすのですか? うふふわたくしすっきりとしたトルソーのようになってしまいますね。それとも、二の腕や太ももの骨の途中からすっぱり切り落として、さながら腕の短いテディベアのような様相にしてしまうのですかね? それとも肘、膝のあたりからですか? 眺めに残っていた方が服を着せた時の見てくれは良くなりそうですね? 

 わたくしが思案せずともクダリならいちばんいいようにしてくださりますね? なるべくわたくしが死なないようにしてくださいましね。ポケモン用の強い薬でもなんでも使ってなるべく失血のないようにするんですよ。後遺症で口をきけなくなるのは嫌ですから。お前がそう望むなら別ですけど。ですがお前もわたくしの形をした肉人形を囲いたい訳ではないんでしょう? ならうまくやってくださいますね。あぁそうそう、もしわたくしを死なせたらなるべく早く来なさいね。こんなこと言わなくてもわかっているでしょうがわたくしひとりぼっちだけは嫌なので」

 

 あぁでも。最後にクダリの頬の感触を覚えておかなくては。両手で滑らかな白い頬を覆い、わたくしと同じ欲望と独占に濁った瞳を覗き込む。あぁお前、わたくしの許可を喜んでいますか? あぁかわいいかわいいわたくしのクダリ! わたくしを自分だけの素敵なお人形に仕立てあげ、着せ替えから食事、排泄から我儘、すべてを背負う覚悟を持っておいでなのですね。

 惜しむらくはわたくしの血でお前の両手が汚れてしまうことでしょうか。しっかりと医療用の手袋をしてもらい、わたくしのからだは風呂場にでも放り込み、部屋もお前も汚さないで済ませて貰えたら幸いなのですがね。とはいえ、クダリはもう既に作戦を練ってあるでしょうからわたくしが後から口出しするのは無粋でしょう。

 

「大丈夫。ノボリ兄さんにぼくが害のあることなんてしたことないでしょ? 絶対に安全。ぼくね、ここのところ人間の手足を切り刻んでから少しずつ残りのからだを切り取っても殺さなかったよ。心臓を一突きするまでぴんぴんしてぼくに文句ばっかり言ってた被検体だっているんだから」

「そうですね、えぇもちろん信頼しておりますよ」

「うん、うん、この器用でなんでもつかみ取れる指をぼくのものにしちゃうね。この、世界のどこへでも行ける素敵な足をぼくがただの肉の塊に変えちゃうね。ノボリ兄さんの何もかもを奪い取ってぼくだけのものにして、それで、それで、ぼくはやっと安心できるの。ノボリ兄さんはそこで幸せに眠ってて? 全部終わらせておくから。痛みなんて感じさせない。すっかり良くなるまできっちり痛みはお薬で管理するからね。眠って、起きたら、もうぼくの腕の中だから……」

 

 いよいよ取り上げられた注射器をわたくしはうっとりと見つめていました。わたくしのために何度も何度も「練習」までしていた健気なクダリ! わたくしを想って何回も何回もその白い指が力を込めて骨を断ち、きっときっとクダリによる永遠の変化を受け入れていたのでしょうね!

 

「ノボリ兄さんがすっかり眠ってしまったら。ぼく頑張るね」

 

 ちくり。

 

 銀の細い針がわたくしの首筋に突き刺さり、瞬間、冷たく熱い液体がじわじわと流れ込んできました。それはほどなくして終わり、からだに起きるはずの変化に備えて大人しくからだを縮めているわたくしをそっと抱き上げると、クダリは自分の部屋に連れていきました。ほとんど着替えと物置にしか使っていないクダリの部屋には見覚えのない大掛かりな「装置」があるのでした。

 沢山のチューブ。これみよがしなボンベ。機械に取り付けられた窓からは透明な液体がぶくぶくと泡を立てているのが見え、ブーンブーンと機械が動作している耳鳴りのような音がしています。

 

「ここに横になって。今から口にマスクをつけるから。眠くなったら眠っちゃって大丈夫だからね」

 

 機械とチューブで繋がった樹脂製のマスクを取りだし、それを、わたくしの口に押し付けたクダリは天使のように美しく笑っていました。あぁ、わたくしのかわいいクダリ。わたくしだけを一途に想うクダリ! すっかり安心しきったわたくしは笑顔を返してやり、シューッと鼻と喉に吹きかかった形容しがたい臭いのガスを胸いっぱいに吸い込み……そして意識が途切れたのでした。

 

・・・・

 

 カチ、カチカチ。カチカチ、パチン。ぷち、ぷち、ぷち。

 

 耳に飛び込んできたのは時計の針の調べでしょうか? それとも、小さなピンセットが獲物を狙っている音? 同時にポップコーンが弾けるように何かが切れる音も聞こえて……いいえ、わたくしのからだに直接響いているようでした。

 

 わたくしの意識は不意に浮上し、その途端誰かに四肢を押さえつけられているように錯覚するほど重いからだを自覚しました。指先一つ動かず、関節全てが凝り固まっているようで、痛みはないのですが不気味としか言いようがない不快感が確かにそこにありました。

 

「脳波が変わった……ノボリ兄さん? 起きたんだよね? 良かった。そろそろ起きるはずだったからね。あ、無理して返事しなくていいからね」

 

 なんとか目をこじ開けたものの、視界は白くかすんでいるので何も見えません。同時にわたくしにわかるのはそれだけで、何やら耳に届いた音はすべてそのまま素通りしてしまったよう。どうにもこうにも長く長く停止していた脳みそが動き出すことはなく、ぼーっとからだに規則的に響く「カチカチ」、あるいは「ぷちぷち」を感じることに注力しました。

 

「さぁ、できた。綺麗に抜糸できたよ。えへへ、ノボリ兄さんのまるーい手足、とってもかわいい! 万が一寝返りなんかでぶつけても大丈夫なようにクッション入りのカバー、つけてあげるね。蒸れないといいけど……ガーゼ素材でぼくが作ったの!」

 

 あぁ、何も周囲の状況が分からないというのは困ります。わたくしのかわいいクダリは元気にしていますか? わたくしがこんな様子では寂しくてあの子、泣いていないでしょうか? いいえ、寂しいのはわたくしの方ですね。あのやわらかくとろけるような微笑みと、わたくしに向けられた焼け焦げるような愛情を感じていないと生きている心地がしないのです。

 

「鎮痛剤を入れた時間は……うん、二時間前なら絶対まだ効いてるね。でもなんだか寝苦しそう……ここのところ点滴と胃瘻ばっかりだもんね。はやく一緒にご飯食べたいな?」

 

 クダリ。わたくしの、かわいいかわいいクダリ。

 

 あぁ、お前に与えられるすべてがわたくしにとって苦労でなくとも。それでもお前が分からないのは辛いのです。

 

 だんだん思い出してきましたよ。わたくし、お前によって麻酔され、手足を切り落とされたのですね? その瞬間について覚えていないですし、今も痛みはないですが、痛みを抑えるためにかなり強い薬を使われているようで手足どころかほとんど全身の感覚が無茶苦茶になっていて生きているのか死んでいるのかも曖昧です。

 あぁ、そこにいるのですかクダリ。いますよね。

 

 遠く遠く、意識が深く吸い込まれる。次に目を覚ます時はお前を認識できますように。

 

「パラドックスなんて知ったものか。ぼくのノボリ兄さんはもう五体満足じゃないから、きっと別人が選定されるはず。そういう歴史なんだから、きっと大丈夫、大丈夫……」

 

・・・・

 

「ノボリ兄さんおはよう。体調は悪くない?」

 

 えぇ、お陰様で。

 

 ノボリ兄さんはそう言ってくれたみたいに安らかな顔をして眠っている。手足の傷はふさがったし抜糸も済んだけど関節のあたりから骨ごと切り取る大手術の影響でノボリ兄さんのバイタルは思わしくない。感染症を起こすことはなかったし病気にもならなかったけどやっぱり弱ってるみたいだ。ノボリ兄さんは鎮静剤の量を減らしてもなかなか目を覚まさなかった。

 一度だけ測定している脳波が「覚醒」を示したけどそれもすぐに鎮静状態に戻ってしまったし。ノボリ兄さんの意識は遠い水底に沈み込んでしまったみたい。

 

 でも大丈夫、ノボリ兄さんはすぐに戻ってくるってぼく知ってる。ノボリ兄さんは万全の状態で目を覚まして、ぼくだけのノボリ兄さんとしてそこで笑ってくれるんだよね。どこにも行かない、ぼくだけのノボリ兄さんが。

 

 肩からすぐのところで両腕を切り落としたから、もうノボリ兄さんは指差し確認できないしポケモンボールを繰り出すことも出来ない。声帯に問題はないから指示出しはできるけど、前みたいに技の飛び交うバトルコートで自力移動がまったくできない人間が戦うのは危険すぎてぼくが許さない。

 足は膝から下を切り落とした。手も足も全く残ってないと寝返りを打つのも苦労すると思うし、ノボリ兄さんの白くて綺麗な太ももがこの世から失われるのは世界の損失だからね、仕方ないね。それ以外にもそれだけ足があれば椅子でもベッドでも安定して座っていられるでしょう? これからぼくの用意した食事をとってもらうんだから、食事以外のことにノボリ兄さんが気にかかるのは良くないよね?

 

 さぁ、ノボリ兄さんは目を覚まさないけど食事の時間だ。起きてくれたら重湯から徐々に元の食事に戻していくんだけどなぁ。

 

 あぁ寂しいな。少しだけ。ノボリ兄さんは何も悪くないのに早く起きてくれないかなって思っちゃう。ぼくがノボリ兄さんに負担をかけたんだから、ぼくが背負うべきことなんだから、ノボリ兄さんは沢山失血して疲れているんだからゆっくり眠ってもらうべきなのに。

 

 あーあ、缶詰、ひとつ食べようかな。そうしたらきっと寂しくないから。

 

 なんて考えていた時、ノボリ兄さんの脳波を測っている機械がアラームを鳴らした。「鎮静」とさっきまで表示されていた画面に「覚醒」の文字が彩られ、ノボリ兄さんの両のまぶたがゆっくりと開いた。

 

「ノボリ兄さん!」

「……、けほっ」

「まってて、今お水持ってくるから!」

 

 ノボリ兄さんを起こし、背中にクッションを当ててすぐにノボリ兄さんの口に吸い飲みをあてがう。ゆっくりゆっくり赤ちゃんが哺乳瓶に吸い付くように一口ずつ飲み込んでくれる健気な姿にぼくは感動した。ノボリ兄さんはもう、ひとりでは何も出来ない。ぼくがこうして水を差し出さなければ一滴さえ得ることが出来ない。でも、ノボリ兄さんがいるだけでぼくはこんなに満たされるし、もうノボリ兄さんを奪われるんじゃないかっていう恐怖に襲われることもないし、四肢を失ったノボリ兄さんはこの世でいちばん安全だ!

 

 だって。ノボリ兄さんがここにいる限りあらゆる災害の脅威は最小限に抑えられる。あらゆる事件のリスクも最小限だ。ノボリ兄さんが標的ではなくても巻き込まれることも有り得るんだから。他の人間と接点がないのならノボリ兄さんを魅力的に思う機会もないってことだ。ノボリ兄さんの心を手に入れたくても不可能なようにしておかないと。

 それに、ノボリ兄さんのやることなすことに一切の不正解はないのだけど、それでもノボリ兄さんだって人間だからね。頭ではわかっていても栄養バランスが崩れた食事を選ぶことだってあると思う。それはノボリ兄さんの尊重されるべき感情だけど今のぼくはノボリ兄さんのからだを完璧に考えた食事を出すことができる。ノボリ兄さんにはぼくが差し出す何もかもを拒む権利はあるけれど、きっとぼくの真意を理解してくれるはずだ。からだに悪い全ての生活習慣に向かって「提案」ができるんだ。空調やベッドとかの環境についてはほぼ完璧に「管理」できると言っても過言じゃない。ノボリ兄さんが過ごすのにおよそ完璧な状況を作り上げることができるんだ。

 それに、今のノボリ兄さんは「歴史」から相違が大きすぎる。つまり、大丈夫。

 

 もちろん。ぼくはノボリ兄さんと約束した通りノボリ兄さんが望むこと全てを叶えようと思う。ノボリ兄さんが欲しいものならなんでも用意するし、ノボリ兄さんがやって欲しいと思うならぼくはなんだってする。だからぼくが思うままにノボリ兄さんの過ごす環境やらをコントロール出来るとは思っていない。でも、ほら、前よりはできそうだろう?

 

 強いノボリ兄さんに憧れていた。まっすぐ前を向いてキビキビ歩く背中を見ることや、一緒に歩く時の横顔を見るのが好きだった。ノボリ兄さんの願いは全部叶えたかったし、それはぼくも実現したいって思うことばかりだったから。

 でも、ノボリ兄さんは魅力的だった。関わる人みんながノボリ兄さんのことを多かれ少なかれ好きになって、ノボリ兄さんに認められたくて、ノボリ兄さんの役に立ちたくて、あわよくばと考えたり、どれだけ純真で正しい想いだとしてもぼくには分かったし、許してはいけないと思ってしまった。

 ノボリ兄さんはぼくだけを見てくれたさ。でもね、でも、あんなに沢山の人間の視線を集めてしまうノボリ兄さんをこれ以上外に出しておくなんて耐えられるかい? 大事に大事に、ぼくの命よりも大事に。奥深くにし舞い込んで、慎重に。たとえなにもなかったとしても、太陽の光の当たらないところにしっかりと隠しておかないと危険じゃないか!

 

「くだり……ずっと、そこにいてくれたのですか」

「うん」

「そうですか。ふふ、そうですか」

 

 なんだかノボリ兄さんは嬉しそうだった。少しだけからだを動かして太もものあたりをもぞもぞさせ、すっかり自分の四肢が無くなっていることを確認すると……ぼくを見上げ、恍惚と微笑んだ。

 

「これでわたくし、おまえがいなくては、いきていけないのですね。おまえがわたくしのすべてをにぎり、わたくしはおまえがあたえるすべてをうけいれる……」

 

 ノボリ兄さんの心電図が激しく波打った。脈拍が上がり、ずっと青白がった頬に赤が差して、閉じられていた瞳はキラキラ輝いていた。

 

「クダリ。わたくしはね、ずっとおまえをひとりじめにしたくって」

 

 もう存在していない腕が伸ばされて、ぼくを抱き締めているとすぐにわかった。だからぼくはノボリ兄さんに繋げられたたくさんのチューブを傷つけないように注意しながらノボリ兄さんを抱きしめる。眠っていた時間があったから痩せてしまったね。ごつごつとぼくのからだに骨が当たる。だけど甘く優しいノボリ兄さんの香りは健在で、ぼくはひどく安心した。

 

・・・・

 

「暇ですね」

 

 名残惜しくもクダリは買い物に行ってしまいましたし、手持ちたちはまだ育て屋に預けられているらしく。わたくしは大変暇でした。

 

 四肢がない生活にもそこそこ慣れ、やっと鎮痛剤を飲まなくても良くなりました。とはいえ過保護なクダリがカバーを付けた手足の先をぶつけないようにわたくしを赤ん坊にやるように毛布でおくるみにするように巻いて行きましたが、すっかり体調の戻ったわたくしにとっては少々過剰な……というか余計なお世話です。クダリが心配性でわたくしに何くれとしてくれるのは気分がいいので断りませんでしたが少々暑いです。そりゃあ少し前まで体温調節が上手くいかず、暑いだの寒いだのそりゃあもうめちゃくちゃだったのですが空調もきいているので布団がなくとも快適に過ごせます。

 

 ふむ。暇ですから、部屋の物色でもしましょうかね。外出はできないようにさせられてしまいましたし、さすがに両手がなく、義手もないわたくしでは例え電動車椅子を持っていてもどこにも行けませんからね。

 ここはわたくしの部屋ですが、クダリが模様替えをしてしまいましたので暇つぶしくらいにはなるでしょう。どこに何が入っているのやら。わたくしが知っていても仕方ないということで聞いていないのですが、どこかにタブレットがあるはず。あれなら音声認識で動画を再生したり検索したりできるはずです。……クダリがネット回線を切断していなければ、ですが。しかし、確かオフライン再生できるようダウンロードしてあったはずですし見つけることが出来れば暇を潰せるでしょう。手も足も出なくとも体当たりすればものを取るのは何とでもなります。口を使って拾うこともできますからね。そうときまれば。

 

 ごろごろと寝返りを打って「おくるみ」から離脱。わたくしがベッドから落ちても痛くないようにと敷き詰められたふかふかのカーペットに降りると転がるようにしてわたくしのデスクに移動。流石に引き出しは開けられませんが、掛け布をしているカラーボックスなんかは中身を見ることができるでしょう。

 

 よいしょ、と腹筋に力を込めて起き上がると掛け布の下に首を突っ込んで潜り込みます。なんだか四足歩行のポケモンみたいな動きをしている気がしますねぇ。わたくしのシャンデラがいればきっときゃらきゃらと笑ってくれたでしょう。オノノクスがいればよくわたくしたちの服の裾から顔を突っ込んで甘えていた自分の幼少期を思い出したでしょう。あぁ、手持ちたちが恋しい。はやくバトルレコードでも見てバトルのインスピレーションを得、そして新しい戦術を組みたいです。それなしでもやれなくはないですけど、わたくし、今すぐ見たい気分なので!

 

 棚の中には書籍や衣類ではなく、なにやら金属製の物品が整然と積み重ねられ、並んでいました。どれも同じ形で円筒型ですね。これは……缶詰でしょうか? どうしてわたくしの部屋に食料のストックがあるんでしょう? 食料品店で見る缶詰には紙のラベルが貼ってあるのですがこれには何も書いておらずむき出しのブリキの鈍い輝きがずらりでは、何が入っているか分からないじゃないですか。

 ま、このからだじゃどうやったって開けられませんけど。

 

 とりあえず缶詰がいくらあろうとわたくしにとって無用の長物です。切り替えて次に行こうと隣のカラーボックスに顔を突っ込むとそちらも同じ。その隣も、そのまた隣も。わたくしが使っていた衣装ケースは半透明なのでなかに衣料品が入っているのが分かりますね。では見当たらないわたくしのタブレットは恐らくデスクの引き出しに入っているのでしょう。それだと取れませんね。

 

 仕方ありません。とりあえずクダリの帰りを待つしかありませんね。そうしたらわたくしひとりにされると暇なのでタブレットを用意してもらわないと。寝転んだまま音声入力で操作して動画を見られるように固定できるアームか何かを用意してもらいましょう!

 

 ごろごろと毛の長いラグの上に転がって背中に感じるふわふわ感を楽しんでいると、玄関のドアが開く音がしました。ドアの前でお出迎えしましょうかね。

 よいしょ、と勢いをつけて起き上がった時にはもうクダリったらドアを開けたんですけどね。手ぶらですけど、買い出ししてきた食材はもうキッチンにほっぽりだしてきたんでしょうか。

 

「わあぁ?! ノボリ兄さんどうしたの?!」

「暇だったので。クダリ、おかえりなさいまし」

「ただいま……?」

 

 クダリはわたくし専用の車椅子、というよりは買い物カートに近い形状の移動式椅子形状の座面から薄いブランケットを取り上げると手慣れた手つきでわたくしをくるみ、座らせてくださいました。クダリが家にいる限りは同じ部屋にいるものですからね。しかし何度も椅子やらラグやらに置いたり抱き上げたりを繰り返していては負担でしょう? だからわたくしを運べるように用意してもらったものです。

 

「わたくしのタブレットをどこにやりました? 今日みたいにクダリがいないときに眺めてようと思うのですが」

「引き出しに入ってる。あとで見やすいように設置しておくね」

「ありがとうございます」

 

 そんなふうに話しながら、そういえば引っ越した時からこの部屋は、バリアフリーが売りではなかったものの、このようなカートを引き回すのに不都合がない、ほぼバリアフリーの構造だと思い当たって……クダリの先見性に感心しておりました。

 キッチンで食材をしまい込む姿をぼんやり眺めながら、音声認識で操作できるモニターの前に運んでもらったので、オフラインで閲覧出来るたくさんの動画データを一覧にして眺めていました。とはいえどれも擦り切れるほど見ているので……タブレットの方はせめて閲覧に制限をかけられてもオンラインでなければつまらないかもしれません。映画もドラマもすっかり見飽きてしまいましたし、バトルレコードは見返しこそすれ中身自体は一度見たら覚えていますもの。

 

 えぇ分かっています。クダリと過ごしていれば時間なんてあっという間。例え隣で眠っているだけでも暇なんて感じません。ようはわたくし、クダリに構ってほしいのです。このからだになってからすっかり甘えたな人間になってしまったようですねぇ。クダリからすれば計算通り、なのかもしれませんね?

 そういうわけで、モニターを眺めるのをやめてクダリの方を見ていることにしました。

 

 ここのところ、クダリは買い物の回数を極力減らすべく生鮮食品よりも缶詰やらレトルトパウチやらを優先して大量に買い込んでいるように見えますね。くるくると動き回りながら手際よく片付けていく様はさすが仕事がデキる男といったところでしょう。要領の良さは私生活をも豊かにしてくれるのですよね。クダリと暮らしているとそれをひしひしと実感するのです。生まれてこの方クダリと離れて生活していたことなんてありませんけど。

 それにしても。あのラベルのない缶詰はたくさんありましたけど、それなのにまたそんなに買ってきたんですか? 災害用の備蓄にしても相当な量でしたけど。

 

「クダリ、わたくしの部屋に新しく設置されていたカラーボックスにたくさんの缶詰がありましたけど。あんなに用意するの大変だったでしょう?」

「あ、あれ見たんだ。大変じゃないよ! ぼくあれ作るのとっても楽しかったよ?」

「作る? 作ったのですか?」

「あれぼくの自作なの。空っぽの缶を買ってきて、専用の道具で閉じられるんだよ。ぼく調べるまで知らなかったんだけど」

「へぇ。わたくしも初めて知りました。クダリは多才ですねえ。ですが手作りなら早く食べないといけないのでは? いくら注意しても工場で作るほど滅菌できるわけじゃないですよね」

「そうだよね。分かってるんだけど勿体なくてね」

 

 クダリの作った缶詰。そして、作るのが楽しかった、食べるのは勿体ない、ですか。

 

 わたくしなんだか嫌な予感がするんですけど。

 

 すぐにクダリは昼食の支度にとりかかり、部屋中に美味しそうなにおいが漂ってきたというのにまったく空腹など感じず。ただ背中を伝う冷たい汗だけが不快で、クダリの楽しそうに食事を用意してくださっている様子はいつも通りいくら見ていても飽きないほど可愛らしいはずなのに素直な気持ちで見ていられないというか。

 なんと言いますか、現実から目をそらしたいというか、この予想が外れていて欲しいというか。

 

 だって、だってだってだって、わたくし、基本的にクダリになにをされても平気ですけどこれは!

 わたくしがすっかりクダリに食べられてしまってある意味では真実「ひとつになる」のがクダリの望みなのだとしたら! 「わたくし」はすっかり胃に収められ、この世からいなくなってしまって、つまりクダリと過ごすことはできなくなってしまい、もうあの可愛らしい顔を見て眠りにつくこともたくさん互いに愛を囁いて笑い合うことも分かたれて生まれてきた幸運を感じながら体温を分け合うことだってできなくなってしまいます!

 それに何より、クダリはわたくしを追いかけますが、それにしたってタイムラグがあるのが耐えられない。我慢なりません。そんなこと、いくらかわいいクダリの行動だとしても許しません。

 

 「わたくし」を口いっぱいに頬張り、「わたくし」に舌鼓を打ち、「わたくし」を五感でたっぷり感じて満腹になったクダリが満足げに息を吐きだすのをわたくしどうやっても見ることができないのです! すっかりわたくしで膨れた腹を撫で、充足感に微笑んだ顔にキスしてやりたいのにもう肉体がないんですよ? 耐えられない、耐えられない、わたくしそんなこと耐えられません!

 

「クダリ、」

「なぁに?」

「あの缶詰の中身は『わたくし』ですね。つまり、あれらは切り落とした手足の加工品ですね?」

「うん。まだノボリ兄さんびっくりしちゃうと思ったから言わなかったけど、『ノボリ兄さんの』だから全部部屋に置いておいたの」

「わたくしはお前のもの。気にせずどこに持って行ってもらってもいいのですが。そうではなくて、クダリとわたくしに意見の相違があるのではないかと危惧しているのですが?」

「え! なにかな? ぼくノボリ兄さんの考えすべてに同意できるもの。ノボリ兄さんが欲しいものは最低でもぼくだって毎回気になってたものだし、ノボリ兄さんのアイデアはいつだってぼくにしっくりくる! ノボリ兄さんの思いつくことはどれも最高に素晴らしいことなんだから!」

「えぇわたくしだっていつだって思慮深く完璧な仕事をこなす慎重なお前をこの世でいちばん信頼できる存在だと思っています。わたくし自身が為すことよりクダリに任せた方がずっと安心できることですからね。それが命にかかわることだとしても、わたくしのプライドを傷つける可能性があったとしても、お前ならうまくやりますから。ですが、」

 

 言わなくては。クダリの陽だまりのような温かな笑顔を曇らせる可能性があってもこればっかりは譲れません。

 

 想像するだけでこの部屋の温度が下がったように震えてしまうんですもの。クダリより先に逝くわたくしと、わたくしを追わなければならなくなったクダリのことを。ひとりぼっちのクダリ、わたくしの亡骸すらないさみしい部屋の中で冷たい指先のお前がわたくしを追うことになるなんて、ダメです。

 

 死ぬときはどうにかしてタイミングをコンマ数秒たりともずらさずに同時に。手を取り合ってあの世に行くのです。クダリも同じ気持ちだと思っていたので口に出したことはなかったのですが、間違いでした。クダリがわたくしを食べてしまいたいと思っているなんて!

 分からなくはないですよ? クダリは目に入れても痛くないほど可愛いですし、あのすべすべのほっぺたを口に含みたいと思ったことは一度や二度ではありません。もっと幼かったころのぷくぷくまんまるなほっぺたを思い出すだけで甘嚙みしたらさぞや素晴らしい心地だろうと妄想したことだって数多くありますから。

 

「わたくしを食べる、というのはいただけませんね」

「え……」

「わたくしの手足を保管しておきたいというのはお前の考えですので尊重いたします。それがどのような手段であっても問題ありませんけど」

「……ノボリ兄さんは、嫌なんだ」

「えぇ。クダリとの見解の相違ですね。意見が食い違ってしまうなんていつぶりでしょう」

「ほんと、いつぶりだろう……でもそっか。分かった。あれはそのまま保管しておくね。大丈夫、ぼく許可もなく行動しないもの。ノボリ兄さんに関わることはすべてノボリ兄さんにちゃんと確認してからじゃなきゃ」

「そうですね? クダリのそういう慎重なところ、そして気遣いのできるところ。わたくし好いておりますよ」

「そう? 良かった……ぼくのわがままでこんなにノボリ兄さんに不便を強いているのに、大事なノボリ兄さんに嫌なことまでするなんてことになったらぼくどうやって償えばいいのか皆目見当がつかないから」

 

 クダリは少しだけ落ち込んだようですが、すぐに聞き分けてしまいました。可哀そうなことを言ってしまったかもしれません。あの缶詰の中の「わたくし」なら今更どうなったって構いませんからそれくらいなら良いと付け足すべきでしょうか。

 

 クダリがわたくしに何度も想いを伝えてくれたとき。親愛ではないキスを初めてしたとき。クダリとひとつに戻ったとき。そして、わたくしを自分の手元に置いておくためにわたくしの四肢を切りたいと言ってくれたとき。

 わたくしはなにより嬉しかったのです。間違いなく歓喜しましたとも。あの真面目な、人に嫌がることなんて絶対しないクダリが。とりわけわたくしに対しては砂糖菓子よりも甘く、時に神さまのごとく頼り、同時にあたかも幼い子どもの大切なぬいぐるみのようにわたくしを溺愛するあのクダリが強い独占心を見せてくれたのですから。

 

 クダリはとびきりいい子です。クダリはどこでもやっていける子です。わたくしではなく、器量の良い人間を選んで添い遂げたならきっと人並みに幸せな人生を送れるはずの人間です。でも、クダリはわたくしといるのが一番幸せなのでそうしません。わたくしもそうです。

 臆病なわたくしは、いつでも慎重なクダリは、「どんな手段を使ってでも」離れ離れにならない方法があるなら飛びついてきました。

 

 わたくしたちは本当によく似た容姿の双子ですし、実際に示し合わせていなくともじゃんけんの手や歩幅などシンクロするものこそあれ……本当に鏡のように同じ動きで行動できるわけではありません。本来はね。でもわたくしたちは訓練しました。ミラーツインと呼ばせるためにクダリなんて利き手を入れ替えてわたくしの鏡になったのです。

 笑顔の苦手なわたくしは素敵な笑顔が自然に出るクダリの鏡になるために長い時間をかけて表情を自在に変える訓練をし、自然と笑えるように自分を変えましたし、わたくしたちはもともとよく似た外見を維持するために全く同じ食事を摂り続けなるべく同じ生活習慣を送れるようにしてきました。

 

 ええ、手足を失ったわたくしはこれから手足以外もクダリからズレていくのでしょうが、本来の目的はクダリと同じであることではなくそうやって少しでも離れることのないようにジンクスを信じていたり、仲の良さを証明するためのものでしたから、いいのです。

 

「わたくし、お前と未来永劫離れたくないのです。手足がなくなるより離れ離れになる可能性が少しでもある方が嫌でした。だからクダリの提案を飲んだのです。理解できますね」

「うん。どうしたらノボリ兄さんとこの先もずーっとふたりでいられるか考えたんだ。どうしたって危険な外にノボリ兄さんが行き続けるのも反対だったし。気持ちは同じ。ぼくもずっと一緒にいたい」

「そうですね。それを言うならば、わたくしもできればクダリにも危険な外に行ってほしくないのを理解してくださいまし。もちろん、わたくしが寂しいからというのもありますけど」

「あは、兄さんかわいい! あぁ、かわいいなあ……」

 

 機嫌を直してくれたようですね。缶詰については折を見て話すことにしましょうか。

 

 今は、こうしてわたくしのからだをブランケットごと抱き上げて愛おしそうに頬ずりしてくる幸せを享受することにしましょう。

 

「だいすき。ノボリ兄さんだいすき!」

「わたくしもですよ、わたくしのかわいいクダリ」

 

・・・・

 

 いくらなんでもですよ、ずっとベッドと「カート」の上でじっとしていたら全身の筋肉が衰えてしまい年齢不相応になってしまうと思ったわけです。ですのでわたくしはベッドの上でタブレットを使うとき以外はもっぱら床のラグの上に降りてゴロゴロと転がって部屋中を動き回っています。たまには短い脚を使って這ってみたり。まあ速度は出ないですが、いい運動にはなります。

 わたくしの希望通り、なるべく外に出ないようにしてくれたクダリも大抵わたくしと同じ部屋にいてじっとわたくしの動きを眺めていたり、わたくしと一緒にタブレットで動画を見たり、なにやらわたくしのバイタルを測って記録していたり、それをもとになにやら計算をしたりしています。

 

 そんなとき、クダリは「わたくし」の缶詰をひとつ取り出してじっと見ているではありませんか。

 そのなかに「わたくし」のどの部位が入っているのかはわかりませんが、ちょっと焼けますね。わたくしはここにいるのに、そんな死んだ細胞の方がいいのですか? なんてね。

 

「クダリ?」

「……」

「クダリ!」

「……あ、どうしたのノボリ兄さん」

「どうしたもこうしたも。今もわたくしを食べてしまいたい気持ちが強いのですか?」

「……そう、なんだと思う」

「正直なのはよろしい」

 

 あぁ、でもそれは恐ろしいことです。

 

「わたくしを食べてしまいたいのですね。すっかりお前の胃の中に満たされて、満腹のお前を腹の内から拝むのも、それ自体が悪いこととは思いませんけど、……食べられるというのはとても怖いです」

「ノボリ兄さんが怖がることなんて絶対にしないよ」

「えぇ。信頼しております」

「缶詰も食べちゃいたいからこうしたんじゃないんだ。ノボリ兄さんのひとかけらでもこの世から失われるのが惜しくて保存していただけなんだ」

「……ホルマリン漬けでもいいではありませんか。わざわざ誰が見ても食品のような形で保存するというのは……」

「だって、食べちゃいたいくらい可愛いんだもの……」

 

 なんて口をとがらせて言うクダリの可愛いことといったら! この世で最もかわいいわたくしのクダリですよ? その幼い動作が良く似合っていますね! わたくし今すぐお前の願いを叶えてやりたいのにどうしてあぁほとほと困ってしまいました。こればっかりは聞いてやれないなんて。

 食べられること自体はいいんですよ? ええ。むしろクダリになら食べられても良いのです。でもすっかり食べられたら死んでしまうじゃありませんか。そこがどうしてもいけませんね。血の一滴も残さずに食らいつくしてもらうにしてもそれを見届けられないのも良くありませんし。

 

「わたくしクダリになら食べられたっていいんですけれど、どうしてもクダリとは別れがたいのです。それも分かってくださいますね」

「ぼくだってそうだよ! なにもノボリ兄さんを丸ごと食べちゃいたいわけじゃないんだ……食べちゃいたいくらい好きなだけで……ノボリ兄さんを軽くして置いていうのもなんだけど、ノボリ兄さんがこの世から減るなんて耐えられない。理性もなくノボリ兄さんを食べようなんて、なんのために徹底した食事管理をしているのか分かんないよ。そりゃあ、ノボリ兄さんは絶対にこの世の何よりも美味しくて、食べたら最高に幸せになるって分かってるんだけど、でも生きている兄さんから直接どうこうってことは考えてないから! そんな恐ろしいことをしてこの世の『ノボリ兄さんの比率』を不必要に減らすくらいなら自分の腕にがぶって噛みついてろって話だもん……この世でいちばん近い味だし」

「それはやめなさいね。たとえ自分の手によってでもわたくしのかわいいクダリが傷つくことは許しません」

「う、うん。ノボリ兄さんの傷つかないいいアイディアだと思ったんだけど」

「『わたくしのもの』を傷つけるなんて許しません」

「あ……えへへそっかぁ」

 

 つまりこれは。単に缶詰の「わたくし」が食べたかっただけですか? ようは「わたくし」を味わってみたい、ということですよね? なら何の問題もありませんね!

 

「大丈夫。ぼくも一緒にいたい気持ちは一緒だから。ずっと一緒にいようね。ずーっと、ずーっとここにいて、そしたら安全!」

 

 わたくしを抱き上げて、この世で最も大事なものを見るうっとりした目をわたくしに向けて。

 

 なんだ、わたくしの考えすぎだったというわけなんですね。それはようございました。

 

 わたくしはクダリに「よろしい」の意味を込めて微笑みかけました。わたくしは今日も幸福で、すべてすべてがどこまでも満ち足りていました。なんの不満もありませんでした。そして、クダリもそうだと思っていました。いいえ、クダリもそうでした。そしてこの幸せは永遠に続きます。

 

 だってもう因果はわたくしのものではないので。あぁ聡明なわたくしのクダリは無意識にちゃんとわたくしを「誰かがかっさらう前に」自分のものにしましたから。ちょっとばかり行き過ぎて、わたくしがいなくとも何でもできたクダリはもういませんが。

 

 わたくしが近くにいないと全く落ち着かないんですって。何も手がつかないくらい、と。以前はそこまでではなかったというのに。ちゃんとそれぞれのトレイン業務、できていましたよね? ほぼ丸一日会えない日だってありましたのに、まったくクダリはかわいいんですから。

 

・・・・

 

 ぼくのモーニングルーティン、ううんこの新しい生活すべては充実している。

 

 朝起きると、まだすやすや眠っているノボリ兄さんが目の前にいるんだ。起こさないようにそっとベッドから出て手早く着替えると、すっかりベッドの毛布から抜け出しているノボリ兄さんの体を起床時用のブランケットでくるみながら起こすんだ。それがぼくが朝一番に感じる幸福ってわけ。ノボリ兄さんの体温で温まった布団から出るのは名残惜しいけど、ブランケットにくるまれて寝ぼけまなこのノボリ兄さんがぼくを見上げる瞬間、胸に込みあげてくる途方でもない大きさの安心感と「かわいい」って気持ちが溢れる幸福感がたまらないんだ。

 

「おはよう、ノボリ兄さん」

「……ん、おはようございます。うふふ、今日もいっとう愛していますよ、クダリ」

「あ! 先に言われちゃった! ぼくもだーいすきだよ!」

 

 そのままノボリ兄さんを抱き上げて「カート」に乗せるの。ぼくは「玉座」とか「お神輿」とかそういう方面で名付けたいんだけど兄さんが「カート」って言うから仕方ない。そういう合理的なところ、いいと思う。

 ノボリ兄さんと一緒に洗面台に行って、昨日の夜にホットキャビンにセットしておいた顔拭き用のタオルで顔を拭いてあげて、髭剃りや整髪、歯磨きなんかも全部やらせてもらう。ぼくの分も終わったらやるんだ。ノボリ兄さんはその間、カートに取り付けてある改造した音声認識システムを搭載した端末に向かって話しかけて今日届く荷物がないかとか、今日の予定をチェックしてくれるんだ。そういう家事なんてぼくに任せてくれたらいいのに、スケジューラーがしたいって言ってくれて甘えちゃってる。

 うん、ちょっと前までちょくちょくノボリ兄さんやぼく宛てにいろんな連絡が入ったものだけど、ノボリ兄さんがそういうのはふたりの生活には無粋ですねって言って全部来ないようにしてくれたんだ。もちろん連絡先を遮断するなんていう角の立つ方法じゃない。ノボリ兄さんらしく「お話」して納得の上で連絡させないようにしてくれたんだ。ノボリ兄さんの人心掌握術は絶対に真似できるものじゃないな。

 

 それからノボリ兄さんをリビングに連れて行って、リビングのテーブルに「カート」をつけるの。そしたら大抵ノボリ兄さんはテレビを起動して、それで朝のニュースを見るから。

 最近はもっぱら別地方の、まだバッジ集めをするような若い子がおうちの近所で行方不明になったっていう「神隠し」のニュースとか、「ハイリンク」先の世界との「ズレ」がだんだん大きくなってきて、それがどういう影響を及ぼすか良くわからないから今後は世界間の交流について政府の特別許可が必要とか、そういうのばっかりなんだけどね。なんだか明るいニュースはないのかなあ。ニュースによると「ハイリンク」先の世界でも「神隠し」が増えてるらしくて嫌だなあ。向こうだと「神隠し」はひとりじゃないとか。リンクしている同一人物が行動を変えて世界のズレがこれ以上大きくならないように名前は公表されてないけど……嫌だなあ。

 「神隠し」なんて、いくらなんでもぼくには対処できないよ。億が一つノボリ兄さんが「神隠し」に遭うならぼくも連れて行ってもらわないと。でも、今なら大丈夫。このニュースを見たらもっとぼく、取り乱しちゃうかと思ったけど落ち着いて見れた。もう大丈夫って安心感があるからかな?

 

 淡々としたニュースキャスターの声を聞きながら用意する朝ご飯はここのところぼくらがハマってるメーカーのシリアル。器に入れてミルクを上からかけて出来上がりのとっても簡単な準備。朝はからだの水分が不足しているから昨日作っておいたハーブティーを冷蔵庫から出してたっぷりグラスに入れるのも忘れない。

 

「なんだか物騒ですねえ。たしかにクダリの言うとおり外部の情報なんかを見ても面白くありません」

「でしょ? でも、まあ見ても遠い他人事みたいだし今更『サブウェイマスター』についてあれこれいうこともなくなってきたしいいかなって」

「なんとでも言わせておけばいいんですよ。そうでしょう?」

「そうだね」

 

 そうだった。ノボリ兄さんはぼくが思っているよりずっと強い人だからそんなぼくたちの知り合いでも何でもない人間が口さがなく言っていることなんて気にするわけなかったな。むしろそういうの、こんな暗いニュースよりずっと面白がって観てたかもしれないな。

 

「今日は先におあがりくださいまし」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 ノボリ兄さんは代わり映えのしないニュースの話題が切り替わって宣伝に変わるのを真剣に見ていた。えーっと。ライモンシティでシンオウの過去に迫る、ヒスイ時代の展示会ってのをやるんだ。

 

「あら、あの写真の子。行方不明の……さんにそっくり。他人の空似ってあるものですねえ。たしかシンオウの方でしたからご先祖様なんですかね」

「そうなんだ」

「ニュースで何度も何度も写真が写されていましたからねえ。あ、『神隠し』で過去に飛ばされていたりして」

「まっさかあ」

「でもほら。こっちの写真は……地方のバトル施設の、……様にそっくり。案外ご先祖様だったりするんですかね。展示会はともかく、昔の写真を見るのはいいですね。自分の知らないルーツを知ることができたりして面白そう」

「そうかも。にしても、このひとの遺伝子強すぎじゃない? もはや本人レベルだったね」

 

 なんて取り留めのないおしゃべりしながらシリアルを掻き込んで、次はノボリ兄さんのご飯。一口ずつスプーンで食べてもらっているとニコニコしたノボリ兄さんといっぱい目が合うからすっごく幸せ! 何度か途中にハーブティーを挟んで、ふたりでテレビを見ながらゆっくり食事を摂るんだ。

 

 食器をさっと洗ったら、次は洗濯とかお掃除。こればっかりはノボリ兄さんもいろいろ思案してくれたけどどうにもならないからぼくに任せてくれているんだ。とはいえ、床の大半はロボット掃除機が定期的に自動運転するようになっているし、洗濯乾燥機もボタン一つで終わりだから汚れ物を入れるだけ。洗濯物を畳むのはしなくちゃいけないけどそれは今じゃないし。

 机や棚をさっと拭いて、オッケー。もっとしっかり大掃除するときはノボリ兄さんが埃を吸っちゃわないようにマスクしてもらわなきゃだしね。

 

 そういう感じで、すっごく毎日充実してるんだ。

 

 手を洗ってノボリ兄さんのところに戻ると、あれ。ノボリ兄さんったらうとうとしちゃっている。そうだよね、刺激がなくてお腹がいっぱいで、眠くなるよね。ぼくも一緒にお昼寝しちゃおう。

 

 起こさないようにそーっと。「カート」を寝室まで押して、それから優しく抱き上げる。あぁ、かわいいなあ。大事に大事に布でくるまれて、何もできない無力なノボリ兄さん。ぼくに全幅の信頼を向けて、こんなに無防備なノボリ兄さん。いつでも鋭くて油断なんてしない人だったけど、その警戒心はぼくには向かないんだものね。あぁ、なんてかわいいんだろう。こんなにかわいいひとをぼくだけのものにできたなんて、こんなに嬉しいことはないよね。

 

 力が抜けて、眠ってしまってすっかりふにゃふにゃのからだをやわらかなベッドに戻して、ぼくも潜り込む。

 

「食べちゃいたいくらい、かわいいな」

 

 あの缶詰よりずーっと。ノボリ兄さんの方が美味しそう。でもね、絶対に食べたりしないよ。こうしているほうがいいじゃないか。生活のすべてをぼくにお世話されて、バイタルのすべてを記録されて、このベッドにマイクもカメラも仕込んでいることも知らなくて、もう二度と外の世界を見ることもない、かわいい、ぼくのキミ。

 

「ぜーんぶぼくの。えへへ」

 

 ずっと一緒にいようね。ずっと、ずーっと。このままでいようね。

 

 ねぇありがとう、遠い世界のぼく。願わくはキミも報われますように。

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