サブウェイマスターは「なにより大好き」な事柄を声に出さない。
手元にあるのは鏡像に過ぎないと、孤独な冬の王は、本当はわかっていたから。
カツン、カツンと反響するひとつ分の足音が耳につく。どんなにピタリと揃った足音でも、反響音には不思議とブレを感じるのだけど。あいにく歩いているのはぼくだけで、反響は真っ平らに広がるだけ。
薄暗い構内、ライトに伸びる影はひとつ分。ぼくに寄り添う影はない。
指差し確認、手を伸ばして。暗い影はまるできみ。そっくりぼくと同じ動きをして、ただの影にノボリを見出して……やめだやめだ。ここにノボリはいないんだ、いないんだもの。
きっとこれは夢なんだ、きっとこれは悪夢で、目が覚めたらきっときっとノボリがいる。だってこんなの夢なんだから、そのうちうなされているぼくを覗き込んでいて、呆れながら揺すり起こしてくれるかもしれない。
きっと、そうだ。そうでしょう?
ぼくはそう信じて、なんとか信じ込んで、毎日を過ごしてる。
ひとりぽっちのままゆっくりゆっくり降り積もっていく日々が、ノボリがいないまま当然のように過ぎ去っていく時間が信じられなくて。いつしか家に帰るのをやめた。もぬけの殻のベッド、静かなリビング、向かい側にある減らない食事。そんなものを見ているより地下鉄の構内にいれば、ノボリがふらりと現れると信じて、仮眠室を陣取ってぼくは薄い空気を吸う。
ノボリが愛した地下鉄の、澄んでいるとは言い難い空気を。
どこにいても気が滅入る。でも、夜はいい。夜なら、終電の後の夜なら、ぼくはひとりぽっちになっていても不思議じゃない。昼間はぼくたち二両編成、いつでもどこでもニコイチ仲良し。でも夜なら、ぼくらは離れていることも普通だった。宿直のぼく、帰宅するノボリ。あるいは逆。あるいは単にシングルトレイン担当だけが飲みに行く夜。仕事が終わらなくて同じギアステーションにいてもまともに会わない、そんな日もあったじゃないか、と言い訳できるから。
「ノボリに会いたい」
夜はいい。人気のない構内なら、ぼくの声は誰にも届かない。おいそれと弱音を他人には言えないから。
「もう一度、ノボリに会えるならなんだっていい」
ゆらりゆらり、そのまま消え入りそうな足取りでたどり着いた部屋。ここはノボリの部屋、ノボリの執務室。
そこでぼくは唯一、ノボリに「会う」ために鏡を今日も覗き込む。服装確認、準備オッケー。かつてノボリがネクタイをしめる時に向き合っていた大きな鏡にすがりつく。ぴったりのサイズの黒いコートを羽織れば、スラックスを変えてしまえば、ほら。
黒い制帽を目深に被った、黒のボス、サブウェイマスターノボリのできあがり!
今日も寸分たがわず、自分たちでさえまともに見分けがつかないほどそっくりの顔がそこにある。憎らしいほどノボリと同じ、狂おしいほどその瞳は同じ色、愛おしい家族の証明、ぼくの片割れと同じ容姿!
灰の髪のはねを抑えて、ノボリのようにきっちり髪をかきあげて制帽をかぶり直してみる。
鏡に映る陰気な男がこうして見るとノボリにそっくりなんだ!
あぁ。ノボリノボリノボリ! ノボリがここにいる!
おかえりノボリ、ぼく待ってたの! そう、つい微笑んで。
ダメダメダメ、ノボリはこんな風に笑わない。ノボリはこんな目でぼくを見ない。ノボリはきっと、そうだ、きっと慈しむような眼でぼくを見て、ノボリはほら、もっと強いまなざしを持っている。決して折れず決して負けない、強い癖にいっぱいの優しさを持っている。信念に向かって出発進行、目的地が変わろうとも構いやしない。前へ、前へ! 足をとめずに進み続けるあの強さ。ぼくが再現できなくてだれができるというの。
試行錯誤の末、鏡に映るぼくは今日も少しだけ、記憶の中のノボリに近づいていく。
ひたりと冷たいガラスに触れる。あぁ、ノボリがぼくの手に触れている。ほんのわずかに微笑んで見せて、締め付けられる胸の痛みにとうとう息ができなくなった。鏡の中のノボリの頬に伝う涙がぼたぼたと床に落ちて、最後にはなんにも見えなくなってしまった。
「ノボリ、ノボリ、ノボリ! おかえり、おかえりなさい! ぼくね、本当に寂しくって……」
鏡に呼びかけるのはいつもきみの名前。繰り返し繰り返し鏡に呼びかけるたびに見えない何かがすり減っていく。
本当にある日突然、ノボリが失踪した。
失踪、というよりは神隠しと言った方が正しいかもしれない。ある時外でふらっといなくなった訳ではなくて、シングルトレインという動く密室の中で掻き消えるようにいなくなったのだから、それがノボリの意思じゃないことくらいわかりきっていた。記録されていた監視カメラの映像は、本当に何の前触れなくノボリが消えうせる光景だけを残していた。
ぼくは手を尽くしたし、荒唐無稽な現実にジュンサーさんや国際警察はできる限りのことをしてくれたと思う。なんらかのポケモンの仕業なのか、あるいは何か超科学的な現象なのか、いろいろ、本当に手を尽くしてくれた。
ほうぼう探して、やっぱり待って、狂ったように探して、ただただ待って。結局やみくもに世界中をぐるぐる回るよりは「サブウェイマスター」の名前をもっともっと売った方がきっと見つかると信じて、ノボリの帰る場所を守る方が大切だと結論を出した。
二両編成でなくなってから十年が経ち、二十年が経ち、法的にはとっくにノボリが死亡したと認定されてしまってからの、ぼくの一種の諦めだった。
「今日はシングル二本、ダブル四本ね。よろしい、今日も安全運転で参りましょう」
「白ボス……」
「うん、冗談。指差し確認、準備オッケー。それでは皆さま、持ち場について? 今日もダイヤを守って皆さんスマイル!」
そうだ結局、ぼくは自分の力でノボリを見つけられないと考えてただただ「待つ」ことを選んだわけだ。「探す」ことに疲れてしまって、なんの手がかりも得られないことに折れてしまった。
ノボリの目撃情報は十年間でただの一度もなく、それでも探し続けてありとあらゆる研究所を回っていたころ、わざわざぼくのライブキャスターの番号を入手して連絡を取ってくれた、この手の失踪事件を扱っている専門家には「諦めた方がいい」と何時間もかけて諭されたくらいだ。
それでもノボリを探す旅をしたけれど、最初はぼくより乗り気だったノボリの手持ちたちが最終的にはぼくにやめるように説得してきたときに、ぼくはとうとう前に進めなくなった。ノボリなしで太陽の下を、一歩も進めなくなった。
ギアステーションに取って返し、地下に戻ったぼくは二度と地上に上がることもできなくなった。生きながら地下の亡霊になって、ただシングルトレインとダブルトレインを維持し続ける亡霊。ノボリの代替として、抜け殻のクダリとしてさまよい続けるだけの亡霊。
シングル担当のサブウェイマスターの不在、代理を立てることへのあらゆる方面からの反対……ぼくやファンの声だ……により、マルチトレインはほぼ廃止となって、ノボリの居場所を守るためだけの最低限の維持しかできないぼくが規模の縮小したバトルサブウェイを何とか回す日々。白いコートのサブウェイマスターが当然になって、サブウェイマスターといえば「クダリ」になってしまった現実を見たくなくて。
でも、未練がましくノボリを忘れてほしくなくて、ノボリの居場所はここなんだと叫びたくて、ノボリの帰るところなんだって言いたくて、だからぼくは「口上」を変えた。
変わらずひたすら待ち受ける日々、迎え撃つぼく。たどり着いた挑戦者に向かってぼくは両腕を広げる。
「ぼくクダリ。サブウェイマスターしてる。さて、きみの次の目的地はきみの実力で決めようかな? ポケモンのことをよく理解しているのか、どんな相手にも自分を貫けるのか……勝負のその果てはどちらに向かうのか。ここで見定めさせていただきます。だって、戦ったあとのことは戦わねばわからない。そうでしょ? でもぼく本気、すっごい本気。シングルでも勝利するのが……大好き! じゃあ目指すは勝利、出発進行!!」
白いサブウェイマスターのコート、白い制帽。笑顔がトレードマークのぼくクダリ。
いつもいつでも挑戦者を叩きのめす。ノボリが帰ってくるまで負けられないもの、それが例えスーパーでなくても、ぼく本気、いつでもすっごい本気!
「きみもすごーく強かった! パートナーとの絆、伝わってくる! えっとね……コホン、あなたさまの終着点はこちらになりましたが次はどちらが上回るかなど分かりません。見えた景色はいかがでしたか? あなたさまの糧になればいいのですが。じゃあ、またの挑戦、待ってるね!」
見送って、試して、はかって、楽しもうとして、楽しくなくて、でも。勝って、勝って勝って勝って勝って勝ちまくり、その先に見えるものはノボリじゃなくて。言うならば、何もない。それでもノボリに胸を張るためには負けるなんて選択肢は考えられない! それが挑戦者の成長につながるのだと分かったとしてもぼくは容赦なく叩きのめし続けた。サブウェイマスターの不敗神話をノボリに捧げるために。
なんて酷いサブウェイマスターなんだろう。半減した便に乗ってくれるお客さまに対して思うことじゃない。マルチを楽しむことが出来なくなったのに、それでも来てくれる人たち。ノボリの居場所を守るために来てくれているのに。
ノボリ。ねえどこにいるの。ノボリ。ねえ、きみは帰ってこられるの? どうして、なんで、どうしてなの。どこに行ってしまったの! 行き場のない感情が腹の中でぐるぐる、ぐるぐる。
帰ってこないノボリを恨んで、求めて、僻んで、繰り返し。いなくなったのは自分の意思じゃないって分かるのに、ノボリの無事さえ、分からないのに。
ぼくにできることはただ信じて待つことだけ。きっとノボリが戻ると信じることしかできない。なんて無力なんだろう、そう嘆き悲しみながら日々を過ごすだけ。
そして、辛くて辛くて仕方なくなった時、ぼくはノボリの格好をして鏡の前に立つ。
こんなことしても無駄だって知ってる。ようは、よく似た人間を見て心を慰めているだけなんだから。ぼくはクダリで、生まれた時から死ぬ時までそうじゃないか。分かってる。無駄なことだよ、本当に意味のない事だ。分かってる。
ノボリが見たらなんて言うだろう? こんなに弱ったぼくを軽蔑する? 悲しむ? それとも慰めてくれる? 分からない。ノボリについて分からないことなんて、なかったのに、分からない!
「おやクダリ、どうしたのです。そんな情けない顔をして」
鏡の中のノボリが情けないぼくを一瞥する。最初はただの演技だったのに、だんだん「ノボリならなんて言う?」なんて考えなくても言葉や動きが出るようになってきた。
「しっかりなさい、このコートを着ている時はサブウェイマスターなのですから。弱音はただのクダリになったときにしなさいな」
「どうしたのです、クダリ。泣きそうな顔をして、何かあったのですか?」
「泣くんじゃありません。黙って泣かれても分からないですよ。わたくしに言ってご覧なさい」
「こちらにおいで、クダリ」
「クダリ、クダリ、どうしましょう。夕飯が思いつかなくて……」
「クダリ! ネクタイが曲がっておりますよ!」
「あーあー、わたくし、サブウェイマスターのノボリと申します。……どうですか? 今日もサブウェイマスターとして互いに頑張りましょうね」
「わたくしはノボリ、あなたはクダリ。鏡合わせ、背中合わせ、生まれた時から二両編成のわたくしたちのコンビネーションに敵うものなどそうそうありません。そうでしょう? 謙虚に、堅実に、しかし決して気弱にならず。……クダリ、わたくしはここにいるのですよ」
「わたくしはノボリ」
わたくしはノボリ。
ぼくはそう言いながら、鏡から目を逸らさない。
ノボリのコートは当然ぼくにもピッタリのサイズだ。同じ顔をしているんだから、コートはよく似合っている。ノボリの、生真面目な真顔を真似しながら重々しく繰り返す。鏡の中のノボリがだんだん形を成していくのを感じながら。
ノボリに会う方法は、これしかない。
「わたくしはノボリ」
生来そっくりの魂がきみに寄っていく。あの、何物にも代えがたい刃の色に染まっていく。煌めく鉄の色、研ぎ澄まされた意志の色。そこにあるのは懐かしく慕わしい、ぼくの片割れのまぼろし。
「わたくしはノボリ」
不安げに揺れる瞳が、だんだん焦点を合わせていく。だってノボリはそんな表情をしないでしょ?
「わたくしはノボリ」
自信満々に宣言する。ぴっしり伸びた背筋、真っ直ぐな眼光、そっと右の手で鏡に触れる。冷たいガラスさえわたくしの熱を覚ますことは出来ない。
「わたくしは、ノボリ」
繰り返す数だけ煮えたぎる感情が胸の中に広がったが答えは分からない。熱い想いを秘めたまま、力強く唱え続ける。
「わたくしは」
微笑む。ほんのわずか、口角が緩む。ぼくは、それがノボリの笑顔だと知っているのです。
ノボリ。なんだ、ここにいたのですか。
「わたくしはノボリ!」
踵を返して歩き出す。もう、鏡に用なんてないのだから。
澄み渡る空、吹き抜ける穏やかな風、春を迎えて白い雪の下から美しい新緑が覗く頃。生命あふれる景色を眺めながら一息つく。ヒスイの地にようやく春が来た、長い長い冬を超えて春が来た! それだけで胸が子どものように踊り、ついつい浮き足立ってしまうのはこの地に生きる者のさがなのだとか。
わたくしも数十年、ヒスイに馴染んできた証拠ということ。
そういう訳で、柄にもなく美しい景色を眺めながら携帯してきたイモモチを頬張る。シンジュの春を今回も迎えられたことに感謝しながら。
「ノボリ、休憩? なんだかお花見みたいだ」
不意に聞こえた声。鮮明なそれに振り返りそうになったが、わたくしはひとりきりでその場にいたはずだった。
だから、わたくしは顔をあげなかった。本当は「それ」に返事もしない方が良い、と何度も言われてきたが無視をすることは出来なかったので、せめてもの抵抗として。
「えぇ、たまにはゆっくり、春を楽しむのもいいものかと思いまして。この景色を見ていると厳しい冬を越えてきた実感が湧いてくるのですよ」
どこか遠くで何かが崩れ落ちる音が聞こえる。顔をあげて確認しようとしたが、分からない。どこか遠くの氷土が溶け落ち、またひとつ芽吹きの季節へ歩みを進めた音だろうか。
絶え間なく割れる音、砕ける音、取り返しのつかない破壊の音を聞きながら。
「雪解けの時期はどこか騒がしいものですが、いやはや、それも春だと実感するものですね」
「雪解け? ノボリ、なんだか言ってることが変。雪なんて絶対に溶けない。こんなに寒いのに!」
「ずいぶん暖かくなりましたが、そこらじゅうまだ白い雪がたくさん、おかしいですね」
一際大きな破砕音を聞いてからまばたきすると、そこらじゅうに残っていた白が消えていく。人間一人分ほどの白い塊がその辺りにへばりつき、時には足を取られていたのだが、奇妙なことに跡形もないのだ。
「おや。わたくし疲れているようですね。雪なんてとうにないというのに。冬が長すぎましたね……」
冬。必死にこの地を生き抜く者たちにとっては「死」に近い概念。歓迎するべき春の対極、白く全てを覆い隠す季節。
わたくしはそれでも冬が好きだった。白く白く、なにもかもすべてを埋め尽くす景色を見ているとどうしてか落ち着いたから。
「実は冬が、好きなのですよ。厳しくとも、白い雪の世界が好きです。だから寂しいのかもしれません」
涙がこぼれる。慕わしい白への決別の時だった。
どうしてか。涙は風にさらわれる前に消えていく。見えない手が拭うように。
「春ですね。きっと今年も良い年になるでしょう」
「まだ、冬だよ」
わたくしはノボリ。
頭の中でただひとつ、わたくしというものを示す言葉が繰り返し聞こえていたから名前までは失わずに済んだのだ。
しかし、ふと気づけば、もう名前を告げる声は聞こえなかった。まるで雪の中、全ての音が吸い込まれている時のように、静かだった。
「……冬の終わりですね、寂しくなりますが」
「まだ冬だよ。凍えるみたいに寒いのに。寒いのに、寒いよ、ねぇ……」
「冬は終わったのです」
どこか懐かしくも慕わしい「なにか」に声をかけるのをやめて、黙ってわたくしが生きる世界の景色を眺めていた。
「なにか」に向き合って答えるのは、全てを思い出してからにしようと思ったのだが、それっきり声は聞こえなくなってしまった。それはそれで寂しいもので。慣れ親しんだソレに初めてこちらから声をかけてみたのだが。
「勝利するのが何より大好き。この言葉を最近思い出したのですが、これはおまえの言葉ですか?」
残念なことに二度と返事はなかった。
「わたくしはノボリ」
黒いコートがひるがえる。地下に君臨するのは唯一無二のサブウェイマスター。
「わたくしはサブウェイマスター、ノボリです。さて、早速ここまでたどり着いてくださったのですが、残念ながらあなたさまの終着点はこちらでございます」
亡霊となった冬の王は凍りついた無表情で腕を広げた。
「なぜなら、『ノボリ』が負けることなんてありえない」
彼が焦がれた鏡像は歪み、歪みに耐え切れず、とうの昔に耐えられずに粉々に砕け散っていることも知らずに。
「目指すは……いいえ。出発進行!」
地下の雪は溶けない。凍りついた涙だけがカツン、カツンと床にぶつかって砕け散り、彼はそれを遠い昔に聞いた兄の足音のようだ、と思った。