今日は正式なバイト初日でSTARRYに向かっている。フジは去年あたりに夏休みにイベントなどで忙しい時期に臨時で手伝いに行ったことがあるので、まっさらの状態でバイトに臨むというわけではない。
ただ、バイトをする上で不安なのは女性とかかわらなければならないことだ。
STARRYのスタッフは虹夏の自宅で結束バンドとして何回も通っていることで顔見知りではあるが、お客さんとして来る人には初対面でも、ほとんど絡まれる。
スタッフさん曰く、フジの顔は女の子を殴ってそうな顔をしているらしく、それ故にリョウの噂が信憑性を増していた。この世界美的感覚が元の世界と差異はそれほどないが、容姿が整っているかはその評価では判断ができない。
「店長おはようございます」
「フジもやっと働く気になったか、これで客も増えるな」
「そういうのは心の中で留めてくださいよ」
店長は虹夏の姉でもあるわけなので当然フジにとっても、よく知る相手である。虹夏と同じく、頭のてっぺんにドリトスを乗せ、ぶっきらぼうな人に見えつつも結構いい人なのだが、経営者の思考が出すぎて今のような残念な発言をすること多々ある。
この世界における男性が労働するというのは基本的に珍しい。単純に一夫多妻で女性が働くならば、男性は働く必要はなくなる。優遇されている分働く男性がいても、ストレスを感じたらすぐやめてしまう現状にある。男性を雇用するのは女性社員のモチベーションは上がるが、会社側からすると一長一短だろう。
「お、フジくんおは~」
「虹夏おはっす。ぼっさん今日からじゃなかった?」
自分のバイトの心配もあるが、極度の人見知りであるひとりはバイトという苦難に打ち勝つことができるのだろうか。しかし、いまのところフジの目にその姿が見当たらない。
「そうだよ~!いま掃除教えてる途中…あれぼっちちゃんどこ?」
「ふぅ…」
「ひと息つかないで!!」
なんとひとりはテーブルの下でくつろいでいた。始まって早々にやり切った感を出しているが、バイトの終了時間までまだまだ先は長い。ひとりがジャージできたことに驚きだ。ライブハウスでは中々見られないファッションスタイルだ。
教育係の虹夏は苦労しそうだが、自分が誘ったこともあり、なんとか仕事を教えているみたいだが、ひとりの相手は一筋縄ではいかないようだ。
準備を進めているとバーカウンター方面からギターの音が突然鳴り響く。もうリハーサル始まっているのかと、見に行くとその正体はひとりが無言でギターを弾いていたもので、虹夏はその様子にひたすら困惑して止めようとしている。
仲間スタッフには奇異の目で見られ、ついに店長の鉄拳制裁を受けてしまったが、フジは彼女たちの知り合いと思われないようにこそこそと持ち場に戻った。
ひとりが勝手にバーカウンターを閉めたりして紆余曲折あったが、チケット販売が始まり、ぼちぼち客が入ってくるので受付の対応をしていく。
「ワンドリンク500円です。今日はどのバンドを見に来られましたか?」
興行場法の都合で飲食店の方が許可は下りやすいため、飲み物を提供し、集客の手段としてライブをしているという形をライブハウスはとっている。お菓子売り場でおもちゃを売るためにちっちゃいガム一個つけるみたいな話だが、チケット代を考慮するとワンドリンク500円は安くはない。ライブハウス経営も大変だとフジは思った。
「お兄さんここでバイトしてんのー?」
「わたしもここで働こっかなー?」
「すみません。後ろが混雑しますのでチケット購入後は入場をお願いします」
チケットを売った後も女性客に話しかけられることは珍しい話ではない。中には連絡先を聞いてくることもあるわけだが、フジはモテたいという欲求があるものの、この場合のモテるは肉食獣に囲まれているような気分になってしまうのである。
「ライブ終ったらまた話に来るね〜」
そもそも女性への耐性がないフジはナンパを受けても、義務的に対応することしかできない。アプローチを続けてくる女性を振り切り、なんとか山場を乗り越えたところで、久々のバイトということもあって、想像以上の疲労感にため息を吐いてしまう。
「フジ、ライブ始まるし受付変わるぞ。勉強のためにライブ見てこい」
「店長ありがとうございます。助かりました」
さっきのお客さんにまた絡まれるかもしれなったので、頼もしい店長の心遣いはフジにとって、本当に助かった。会釈した後、カウンターにいる虹夏たちと合流するとリョウもそこに混じっていた。
「あれ、フジくん受付は大丈夫なの?」
「ライブを見て勉強しろって店長が変わってくれたから。というかリョウいるなら受付変わってくれよ」
「店長がフジの方がリピーター増えるって」
前言撤回、店長全然優しくないわとフジは店長の評価を180度ひっくり返した。商売のためにただの飴と鞭で利用する気満々という店長の悪の部分が存分に現れていた。
といっても店長の打算を抜きにしても、今回のライブは人気バンドが多く、クオリティも高いので見られるのはありがたい。この世界の都合上、出演するのはガールズバンドだけだが、それでもライブの雰囲気は変わらず楽しむことができる。
そして、ライブハウスの熱気に当てられたのか、勇気を出したひとりがお客さんの目を見てドリンクを提供する頑張りを見せたことで人見知り克服に一歩前進していた。
その姿をフジと虹夏は巣を飛び立つ雛鳥を見守るように見ていた。
「じゃ今日はお疲れ。気を付けて帰れよ」
「あっお疲れさまでした…」
「お疲れ様です」
「え?リョウは帰らないの」
「もう少ししたら帰る」
珍しく帰らないリョウに店長が訪ねると、もう少ししたら帰るとは言っているが、時間帯的に伊地知家はこれから夕飯の時間になることを考えると、間違いなくリョウは晩御飯をあやかるつもりで残っていた。
そんなリョウは置いておいて、店長から労いの言葉とあがっていいとお許しが出たので、時間の割に疲れた体をほぐしつつ、ひとりとフジは一足先に帰宅の準備をする。
「どうだった?初バイト」
「あっしんどかったです…」
「慣れるまでが大変だよな。それに…」
フジは途中までの一緒の帰り道にひとりに今日の初バイトの感想を何気なしに尋ねると、なんとも疲れた声で答えが返ってくる。
ライブに出演していたバンドの話やノルマ以外に初給料をどう使おうかの話など、フジとひとりとの会話は以外にも途切れることはなかったが、最終的には苦労が絶えないバイトの愚痴に終着してしまっていた。
「ぼっさんは駅だからここでお別れだな、またな」
「えっあっはいまた明日」
ひとりは駅に向かうために別方向になる道で別れ際にフジが手を振ると、ひとりは小さく手を振り返した。
初めて誰かと帰り道を一緒に歩いたひとりはそのこと噛み締めるようにもう一度フジの背中に向かって、大きく手を振ろうと手を挙げた。フジは中々ひとりが歩き出さないなと思って振り返って確認すると、ちょうどひとりは手をあげていたところをフジに見られて恥ずかしくなり、思わず手を引っ込めてしまった。
フジはなぜひとりが手を上下させているのか、わからなかったが、その姿が少し面白くて、笑って手をもう一度振り返すと、照れてしまったひとりは顔を赤くして、前を向いて歩き始めたことで、いよいよ2人は帰路に着いた。
その夜、ひとりは布団の中で永遠とフジとの帰り道の言動の反省会を心の中でしていた。
「ぼっちちゃん昨日よかったね〜!」
「最初はどうなるかと思ったけど、努力家だよな」
「これで私の仕事も減る」
翌日午前の授業が終わり、昼休みに3人で昨日のバイトについて、雑談しながら、昼食を食べていると、虹夏のスマホにひとりから謎のロインが来ていた。
『すみません…!EDMガンガンかけてリョウたちとエナジードリンク片手に踊りくるいながらバイトしててください』
「なんだこれ。なんかぼっちちゃんから変なロインが来た」
「そういう時期なんだろ。友達いないらしいし派手なことをしたくなっているんじゃないか?」
「絶対そういうのじゃなくない!?」
放課後ひとりの要望通り、理由は不明だが、とりあえずそうしてほしいということで、エナドリの買い出しをしにいくことになった。
「レ○ドブルでいいかな?」
「モン○ナも買っとくか」
どうやらこれを片手に飲みながらEDMをガンガンにかけて踊ってほしいらしいが、一体どういう目的があるのかは本人にしかわからない。
「お!!ぼっちちゃーん!よく分かんないけどエナドリたくさん買ってきたよ~」
「おい!虹夏炭酸振るなって!」
買い物が終わり、STARRYに向っていると同じく偶然、STARRYに向かう途中のひとりとバッタリ会った虹夏は嬉しさのあまりエナドリが入った袋を振り回しながら近づいて行ったので、後の悲劇を考え、フジは慌てて止めに入った。
フジの目にはただ信じられない光景が映っていた。ひとりが見知らぬ少女を連れていたのである。
しかも、連れられてきた子はわかりづらいが、ひとりと同じ制服を着て今どきの女子高生らしいキラキラした女の子であり、ひとりとは正反対な存在で決して交わることがないはずだと誰の目にも明らかであった。
「ってあ~!逃げたギタ~!!」
「あひいいいいいいい!!」
「なに?どうした?」
ただ虹夏はひとりと一緒にいる女の子をまじまじと見つめており、この子に対して、大いに心当たりがあったようで、指を差して不穏な言葉を放っていた。
一方の女の子は出会ってはいけないものに出会ってしまったかのように尋常じゃない驚き方をしているので、なにごとかと蚊帳の外であるフジは何事かと困惑した。
「あれ」
「!!あああ…あう…リョウせんぱい…」
「リョウ今度はこの子に金借りたのか?」
「ほら例のボーカルの子だよ」
「何でもしますからあの日の無礼をお許しください!どうぞ私を滅茶苦茶にしてください!」
リョウを見て、感極まった少女を見て、フジはリョウが今度は年下の女の子にお金をせびるようになったのかと疑っていたが、予想外にその子はコンクリに頭をこすりつけ、渾身の謝罪として土下座を披露した。
こんな女子高生の姿は早々お目にかかれるものではないだろう。
「誤解を生みそうな発言やめて!」
「何か言うことあるでしょ」
「ごめん。リョウが土下座する側じゃなかったのか…」
どうやらリョウが悪いわけではなかったようで、普段の行いによる先入観で決めつけていたにも関わらず、リョウの無罪が証明されてしまったので、チクチクとフジはリョウに責められることになってしまった。
「喜多さんっていうのか」
「えっと…」
「喜多ちゃんは会うの初めてだっけ?キーボードの藤原あやせくん!」
「どうも初めまして」
立ち話もなんだということで、とりあえずSTARRY内に移動して詳しい事情を聴くことになった。
この前のライブのこともあり、フジはある程度この少女について、知っていた。喜多郁代というこの少女は結束バンドの元ボーカル志望であり、ひとりが参加することになったライブを抜け出した張本人である。
喜多さんはリョウ目当てでバンドに加入した風に見えるが、この世界は男女比の関係上、同性愛というのは珍しい話ではない。実際目の前で美少女が触れ合っているところ見ると心に込み上がるものがある。
「音信不通になって死んだかと思って最近は毎日お線香あげてた…」
「こいつ頭おかしいから。香典とかいって僕から金巻き上げようとしたんだぞ」
「あれは冗談」
「嘘つくな。リボ払いして親にバレるかもって言ってただろ」
あの時のリョウの顔は本当にまずいことをしたときの表情をしていたので、緊迫していたのは間違いない。昼食代も可能な限り節約し、スマホを解約とベースも売ろうかどうかの瀬戸際だった。見た目に騙されている郁代に貢ぎ癖がついて取り返しがつかなくなる前に目を覚ませないといけない使命感にフジは駆られていた。
「あっあの怒らないんですか?」
「いやいや気づかない虹夏たちがおかしいって。合わせ練習なしでお客さん入れてライブとか」
ライブをドタキャンしたにもかかわらず、怒るどころか気にしている様子すら見せない虹夏たちに郁代はむしろ罪悪感が一層生まれた。郁代の行動は良くないことではあるが、虹夏たちも虹夏たちでいきなりライブとか勢いに任せすぎな部分もある。
「そういわれると確かにそうだけど、あの日は何とかなったしね」
「でっでもそれじゃあ私の気が収まりません!何か罪滅ぼしさせてください!」
「じゃあ今日一日ライブハウス手伝ってくんない?忙しくなりそうだから」
一方的に約束を破ってしまった側からすると、「あの件は何とかなったので、はい!終わり」と流せるほど軽い出来事ではなく、ずっと後悔していたのだろう。
それ故になんとか食い下がる郁代だが、フジたちは今罪滅びしとして解決できそうな問題を抱えているわけではないので困っていたところ、店長から助け舟が出される。仕事も虹夏が教えることができるので、落としどころとしてはいい塩梅だろう。
「そっそれだけじゃ…」
「じゃあ恥ずかしい恰好もしてもらおう」
臨時のバイトだけでは気が済まない郁代は、まだ何かないかと聞くと店長の私物のメイド服を着て働くことになった。雰囲気がライブハウスから離れてもはやコンカフェになっている。
店長の恥ずかしい恰好をしてもらおうという発想はいったいどういう趣向なんだとフジは店長が上司として怖くなってきた。
「喜多さん手際良いな。愛想いいし、リョウよりも受付向いているから僕の仕事も減りそう」
「リョウ無表情で怖いからね~」
「リョウ先輩はあの顔がいいんですよ!」
郁代のリョウへの思いは、熱狂的なもののようで、かなりバイアスがかかっているよう見える。現実のリョウはいまも惰眠を貪り時給が減らされているにも関わらず、この有様だ。
手際よくスラスラと仕事を覚えていく郁代はひとりが任されていない受付の仕事も虹夏から直々手解きを受け、試しにフライヤーを持ち、接客の練習をして見たところ、笑顔・発声・目線が百点満点である。
その日入った新人が自分よりも仕事をこなしていることで完全上位互換として君臨してしまっている。それによりアイデンティティを喪失してしまったひとりは、いつものごみ箱へこもり、ジャランジャランとギターを弾き始め、ひたすらに自分を慰めた。
「ぼっちちゃん喜多ちゃんにドリンク教えてあげてよ」
「あっはい!」
虹夏が落ち込んでいるひとりに気を利かせてドリンクを教えるように頼んだところ、名誉挽回と意気込んで、しょっぱなから手のひらに熱湯をぶっかけ、郁代に気を使われるという情けない結果となってしまった。この有様ではこれから先できるであろう後輩にひとりが仕事を教えるというビジョンがフジたちには全く見えなかった。
「ぼっちちゃんも学校の友達出来たみたいだね」
「あのままだと本当に高校中退しそうな勢いだもんな」
「ぼっち立派になって…!」
「リョウは何目線なの…?」
それでも、郁代のコミュ力に助けられている部分もあるが、ひとりと郁代はかなり相性が良く、仲良く仕事をこなしているので、ひとりの学校生活はフジたちの想像よりもましかもしれない。
灰色の学校生活を開き直られて、もう何も怖くないされたら、とてもフジたちには手のつけようがなくなってしまう。郁代、君が最後の希望だ。
「じゃあお疲れ今日はもう帰っていいよ」
「「「「お疲れ様でした~!」」」」
「今日はありがとうございました。これからもバンド活動頑張ってください。影ながら応援しています。それじゃ」
新人なのに郁代はそつなく仕事をこなしていたのでバイトは何事もなく終わり、店長からも帰宅の許可が下りる。すると、郁代はそそくさと帰りの準備を進め、今日のお礼と今後のバンド活動を応援する言葉をいって帰ろうとする。
しかし、そこには罪滅ぼしをできてほっとした顔とどこか未練を残して悔いたような表情が伺える。
「きっ喜多さん!あっちょ…まっまっちょ…帰らな…」
「待ってあげるから落ち着いて!!」
その迷いの表情に気づいたひとりが幾代を呼び止めるが、そこでも人見知りが大いに発揮され、発する言葉もままならかなかったが、逆にその挙動不審が郁代を引き留めることに成功していた。
「ぼっちちゃんどうしたの!?」
「虹夏ちょっと待って。ぼっさんに任せてみよう」
ひとりが思いにもよらない行動に出たことに虹夏は二人の元に駆け寄ろうとするが、ひとりが郁代の手の皮の硬さでギター練習をずっとしていたことやバンド活動に今も憧れていることに気づいたのは、ひとり自身が虹夏と出会うまでにずっとバンドを組むことを熱望していたからに他ならない。
だからこそひとりは郁代と一緒にバンドをやりたいと強く思い、バンドに誘おうと決意したのだろう。
「あたしも喜多ちゃんにこのバンドを盛り上げるの手伝ってほしいな!」
「そらもう喜多さんなら大歓迎」
「ギターが増えたら音が賑やかになるし、ノルマもさらに分割」
郁代はひとりの説得に気持ちが揺れ始めると、すかさず虹夏が後押しをする。それに続いてフジとリョウも勧誘するが、リョウの打算まみれの言葉にフジと虹夏は呆れてしまう。
「もー素直な言い方しなよ!」
「…先輩分のノルマ貢ぎたい!!」
「爛れた関係が爆誕しそうなんだけど!!」
女の子同士の恋愛はいいんだが、バンド内でこじれた恋愛関係にお金の貸し借りが複雑に絡むとバンドが崩壊するので勘弁してほしいとフジは心から思った。
「もっもう一回結束バンドに入りませんか…ひっ一人で弾くよりみんなで弾くのは楽しいですよ…?」
「後藤さん…うん、頑張る。結束バンドのギターとして」
一度もひとりの目が郁代と合うことがなかったが、その言葉は間違いなく本心であり、郁代の心を動かした。そして、ひとりの思いの力で結束バンドが元通りとなった。
「あっでも先輩たち今のパリピ路線はやめた方がいいですよ…毎晩踊りくるってるんですよね」
「どこ情報!?」
郁代が結束バンドの情報をひとり経由で受け取っているはずなので、その誤情報を流したのはひとりだろう。
「あっじゃあ、お先に失礼します…」
「ぼっちちゃん待ってよ!一番の功労者なのに」
「ぼっちのおかげで復活できた」
「後藤さんありがとう!」
「あっいや…私なんか全然たいした事なんて…うへへ…」
「後藤さんすぐ顔に出るわ!」
結束バンドの問題が解決され、さらにボーカルギターが再加入するという功績を残したひとりがあっさり帰ろうとするのを虹夏たちは慌てて止めて、べた褒めするとわかりやすく調子に乗り、口角が顔の輪郭を貫いてジョーカー化している。
「でもいくら練習しても本当にギター弾けなかったの…。何かボンボンって低い音がするのよね…」
「「「「え?」」」」
郁代のギターは新品であるはずなのでそこまで異常があるわけではないと思うが、郁代に発言からもしやという疑念がほかのメンバーにも浮かび始める。そしていざケースを開くと…
「それベースじゃ…」
「あはは、私そこまで無知じゃないってベースって弦が4本のやつでしょ」
「弦が6本のやつもあります…」
「それ多弦ベース」
ベースとギターを間違える人なんて実在したんだなとフジは一層のこと感心していた。高い買い物で慎重になるし、間違えようがないと思うんだが、それをやってしまうのが郁代クオリティなのだろう。
「ローンあと30回残ってるのに…あひゅう…」
しかもローンまで組んでいたとは、あまりのショックに郁代から魂が抜けてしまう。霊体になることができるのはひとり以外も会得できたようだ。さすがにギターがなければバンド活動もままならないので、ベースはリョウが買い取り、代わりのギターとしてリョウの私物のギターを貸し出すことになった。
「僕もちょっと出すよ」
リョウだけに負担させるのは悪いと思い、フジが財布からお札をいくらか取り出すと、横から感謝の言葉もなく一瞬でひったくられた。フジが意地汚すぎないかとリョウも見ると、顔に貧さを全面に出して、念入りにお札を数える姿に思わず引いてしまった。
「リョウ先輩!フジ先輩も本当にありがとうございます!」
「これで私は所持金が底を尽きたので草でも食べて生きていきます」
「エナドリ全部やるから飲んで腹ふくらましとけ」
これでついにメンバーが揃い、結束バンドは始動することとなる。
郁代が改めてギターの練習があって大変な道のりとなるが、ひとりという良い先生とともに二人三脚で歩めば、困難な道も乗り越えられるだろう。
翌日、リョウは学生特有のエナドリは一本じゃ効かない、昨日から全く寝てないという謎自慢をしてきて虹夏とフジは呆れていた。