ミリア・アークライトは聖女にして悪魔使いである。
世界各地を巡礼し、布教活動を続ける彼女の本来の仕事は、神を冒涜する異端者を狩る事であった。これは、民に慈愛を注ぎ、その裏で冷酷な断罪者として生きる聖女と、その使い魔であるお調子者悪魔テスタの、捻くれた恋の物語――かもしれない。

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断罪聖女は悪魔と踊る

――バギャアッ!

 

 金属で作られた重厚な扉が、外部からの強烈な圧力に屈してへし曲がりながら吹き飛ぶ。

 

 獣脂を燃やすランプ独特の匂いに包まれた薄暗い地下室の床には、どす黒く変色した血液で描かれた冒涜的な紋様と……胸を無惨に切り開かれた少女の死体。

 

「何者だ!」

 

 そして、その周囲を囲むように立つ、黒ずくめの人影たちの姿があった。

 

「チッ」

 

 破られた入り口からずかずかと踏み込み、舌打ちを一つ飛ばしてぎろりと人影たちを睨めつけたのは、美しい顔を憤怒に歪めた一人の女だった。

 

 血生臭いこの場に相応しくない穢れなき純白のローブ。聖堂を模した形状の頭冠。激情に染まった顔には、これもまた純白に染められた革製の眼帯が横一文字に両眼を覆っている。大陸に住まうものであれば間違えようもない。それは、唯一神ファルレアスに加護を受けし神の使徒、聖女の装いであった。

 

「バカな……聖女だと? 何故この場所が?!」

「そんな事などどうでも良い!悪魔召喚を急げ! 貴様らはヤツの足を止めよ!」

「ちくしょう、神の狗如きがっ! 死ねええっ!」

 

 黒ずくめの、声からして男だろう一人が懐から取り出した短刀を腰だめに走り出す。眼の見えぬ女に防ぐすべなどあるはずも無い。床の哀れな死体と共に、邪悪な儀式の生贄と成り果ててしまうのだろう。それが聖女でなければ――。

 

――ボギュッ!

 

「あぼッ!」

 

 深く引いた短刀を接近と同時に突き出した刹那、聖女は手足を弛緩させた自然体から、抜き打ちの如く右拳を振り抜く。カウンターをマトモに顔面に受けた男は、冗談のように首を180度グルリと回転させ、豚の様な悲鳴を上げて即座に絶命した。

 

 一斉に息を呑んで恐怖に慄いた黒ずくめたち。ヒト一人を躊躇いなく死に至らしめた聖女は、彼等の前で首に片手を当ててコキコキと骨を鳴らすと、ランプの明かりに照らされて艶めかしくぬめり光る唇を開く。

 

「あー……ゴミどもには必要ない事だと個人的には強く思うが、これも唯一にして絶対の神たる使途の務めだ。これより審問を開始する。汝らは神に背く異端者であるか? ああ、返事は結構。すでに裁定は下した。我が名はミリア・アークライト。唯一神ファルレアス様の代行者にして聖堂教会所属、神罰聖女第二席を賜る者。判決を述べる――」

「う……うわあああっ!」

 

 淡々と機械のように口上を述べ始めた聖女――ミリアに対し、恐慌状態に陥った黒ずくめの男のうち三人が、ナイフや禍々しい装飾の施された曲剣を手に襲い掛かった。まるで、最後まで聞けば手遅れだと言わんばかりに。

 

「死刑! 死刑! 死刑! 疾く死すべし異端者(ゴミ)ども。神敵悉く、我が拳にて惨滅せよ!」

 

 唇を大きく歪ませあげて、聖女ミリアが無慈悲なる判決を下した。と同時に、もっとも近くまで接敵していた黒ずくめの異端者(ゴミ)に向かって右拳を固め、その腹部に神速の拳打を叩き込む。

 

「ゴボッ!! おげええええあ――がヒュッ」

 

 くの字に肉体をへし曲げた男の、()()()()な位置まで下がった顔面を左拳のフックで殴り飛ばすミリア。頚椎を折られた男はそのままずるりと床に崩れ落ちた。

 だが、すでに二人の男は得物を大きく振り上げている。即座に一人を迎撃したとしてもあと一人……。負傷は免れまい。誰もがそう思うであろう場面で、しかし聖女ミリアは慌てる事無く床を蹴りつけて神鳥の如く飛翔した。

 

 地下室の天井まではおよそ五メートル。その距離を難なく跳び上がり、天井に両手を接触させてばねの様に全身を撓ませた聖女ミリア。次の瞬間、銃身から飛び出した弾丸の如き勢いで発射されたミリアのつま先が、曲剣を構えた男の頭部を蹴り砕く。

 

「あ……あ……化け物……」

異端者(ゴミ)が使徒たる私を化け物呼ばわりとは笑える。だが許せん、死ね」

 

 常軌を逸した聖女ミリアの闘法に、思わず襲い掛かる事も忘れて呻くもう一人の黒ずくめの男。聖女の怒りに触れた男の頭部に、野で花を摘むかの如き麗しい所作でミリアの掌が置かれた。

 

「ひっ! ひあああああッ!! 許してっ! 許して下さあ゛あ゛あ゛あ゛ぎあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ――」

 

 メリメリと、白魚にも例えられる様な五つの指先が男の頭蓋に食い込んでいく。成人男性の頭部を握り潰す握力とは……一体如何ほどのモノなのであろうか。

 

「何をしている貴様ら! 早く奴を止めろ! 我、深淵より汝を招かん。無垢なる乙女の魂を贄に、開け辺獄の門――」

 

 地下室の最奥。ひと際高い場所に作られた禍々しい装飾の祭壇の前で、金糸の縁取りがなされた豪奢な黒ローブに身を包んだ男が他の黒ずくめたちに指示を出すやいなや、忌まわしき詠唱を唱え始める。

 

「やはり悪魔召喚の儀式か。飽きもせずよくもやるものだ。異端者(ゴミ)の一つ覚えというやつだな」

「あがッ……ぎぃっ……ヒヒ……ヒヒヒヒヒヒ」

 

 頭蓋骨を突き破り、大脳にまで五指を食い込まされた男が呻き声の代わりに気狂いじみた笑い声をあげ始める。すでに痛みは無いのだろう。想像を絶する臨死の激痛に、男の脳髄は生きる事を諦め、死を誤魔化す為の快楽物質を分泌し続けていた。

 

「召喚者を含めて残り五人。面倒だ、さっさと殺すか」

「キヒヒヒ……キヒヒヒヒヒィッ!!」

 

 そう告げると、聖女ミリアは空いた左手で男の肩を抑えつけ、頭蓋骨を掴んだ右手に力を籠めて引き上げ始める。

 

――ミシリ……ミチミチ……メリメリ……ぶちぶちぶちぶち。

 

 首元の皮膚が音を立てて裂け始め、ついで筋肉が断裂する生々しい音が地下室に響き渡る。男の首が、東方に伝わる夜な夜な首を伸ばすというあやかしの様に引き伸ばされていく。

 

 余りに現実を逸した狂気の光景に、足止めをしろと命じられた四人の男達は動く事も出来ずただ身体を震わせていた。襲い掛かれば()()()()のだ。例えこのあと確実な死が訪れるとしても、一秒でも長く生にしがみついていたいのは、生きとし生けるモノ共通の願望だろう。

 

――ぶち……ぶちぶぢぶぢィ゛ッ゛!!

 

 男の首が完全に引き抜かれた。黒々と長い……脊髄を伴って。

 

 尾骶骨に当たる部分を握りしめてブンッと一振り。ようやく己が死に気付いた男の生首が、ぐるりと白目をむいて絶命した。そうして、狂気の武器を構えた眼帯の聖女が口許に酷薄な笑みを浮かべて男達に告げる。

 

「ふむ。今回は綺麗に()()()な。知っているか? 聖女の武器といえば、昔から鎖付き鉄球(フレイル)と決まっているらしいぞ?」

 

 臨界点を超えた恐怖に半ば狂った四人の男達が、一斉に聖女ミリアに襲い掛かった。

 

 

 アルブレヒト・バーレスの人生は順風満帆だった。あの日までは。

 

 商家の下積みを地道にこなし、やがて貯まった資金を元に自らの商会を神聖国に立ち上げた。下積み時代から支えてくれていた女性とも結婚し、息子と娘という二つの宝にも恵まれた。

 

 軽い気持ちでした事だった。金持ちであればだれでもしている事だ。家の外に愛人を囲うなどという事は。彼にとって不幸だったのは、成金だったが故に作法を知らなかった事だろう。

 不義の結果の子も含め、一生の面倒をみる覚悟が無ければ駄目なのだ。特に神聖国においては。アルブレヒトは共和国の出身だった。

 

 妊娠したという愛人に、男は手切れ金を渡して別れを告げた。とても一生を暮らしていくには足りない額のそれに、愛人は教会へと訴えを起こした。あるいはそこで、考えを改めていれば良かったのかもしれない。

 

 大幅に額を上乗せするか、今までの様に養うか、どちらも厭うた彼は、こっそりと愛人の飲み物に薬を混ぜ……自らの血を分けたはずの腹の子を流させた。そして、それが明るみに出た日、彼は聖堂教会に捕縛されたのだ。

 

 共和国と違い、神聖国において堕胎の強要は重犯罪である。辛うじて、蓄えた財産の半分を賠償金にあてたお陰で刑罰は免れたものの、長年連れ添った妻にも見捨てられて残りの財産全てを慰謝料とした結果、彼は全てを失った。

 

 彼は神聖国を憎んだ。己の全てを奪い去った神を憎んだ。そして己を追い込んだ女という存在を憎んだ。

 

 そうして憎悪に心を焦がした男の夢に、悪魔が現れた。

 

 

 アルブレヒト・バーレスの第二の人生は順風満帆だった。 あの日までは。

 

 夢の悪魔の言葉に従い、己と同じ様に神を憎む男達と出会い、組織を作った。

 

 神聖国の中に拠点を幾つも用意し、邪悪な儀式場として作り上げた。

 

 女を攫い、惨たらしく殺して生贄とし、悪魔を召喚した。召喚された悪魔は地に混乱を呼ぶために解き放たれた。

 

 彼らの目的は悪魔を使役する事ではない。世に解き放ち、神の恩寵を信じる人間たちの世を破壊するためであった。

 

 召喚を終え、用済みとなった女の死体を同志たちと共に犯し、汚し、魂のみならず肉体すらも凌辱し尽くす。

 

 魔宴の痕跡が残らぬ様すべてを土に埋め、彼らは新たな獲物を求めて神聖国を転々と巡った。

 

 そうして欲望に取り憑かれた男達の前に、死神が現れた。

 

 

「あとは貴様だけだぞ異端者(ゴミ)。お得意の悪魔召喚(どぶあさり)はまだ終わらないのか?」

 

 生首付きのフレイルは一人目の頭を砕くと同時に砕けて壊れた。残りの三人を順繰りに素手でなぶり殺し、だというのに返り血の一滴すらも浴びていない美しき純白の衣装のまま……聖女ミリアがアルブレヒトに告げた。

 

「――天より堕とされし穢れし者ども、七つの罪を背負いて君臨せし魔王よ、我が渇望を聞け――」

 

 アルブレヒトは詠唱を続けながらも困惑していた。もはや詠唱を止める事は出来ない。半ば繋がりかけた異界との交信中にこれを放棄すれば、術式の反動をまともに受けた己が魂は輪廻すら許されずに滅びるだろう。だというのに、目の前の聖女は愉悦の笑みを浮かべながらこちらを見ているだけだったのだ。

 

「いでよ! 神を嘲笑する悪の冒涜者! 悪魔召喚(サモン・デーモン)!」

 

 いくら神の加護を受けた聖女と言えど、召喚された悪魔そのものに抗する術などある筈がない。なにを考えているのかは不明だが、もはや詠唱は完了した。アルブレヒトは己が勝利を確信し、目の前の聖女が召喚された悪魔に蹂躙される光景を心待ちにしていた。だが、赤光を放って悪魔を呼び出す筈の血の魔法陣にはいくら待てども変化はなかった。

 

「――それで? つまらない芸だったな。この後はもっと面白い芸を披露してくれるのか?」

「バカな! なぜ悪魔が出てこない?!」

「クハハハ! とんだ道化ぶりだな。なるほどそれも含めての芸だったか! クハハハハ……あーあ、つまらん」

 

 アルブレヒトの狼狽ぶりを眺めて笑っていた聖女ミリアが突如真顔に戻ると、奇妙な行動に出た。魔法陣の中心に転がっていた少女の死体につかつかと歩み寄り、なんと蹴り飛ばしたのだ。無辜の被害者に対するあまりに無体な行動に、さしものアルブレヒトも目を剥いて驚愕する。

 

「きさま……本当に聖女か? 罪なき少女の死体にその様な仕打ちをするなど……」

「鏡を見て言え異端者(ゴミ)。おいクソ虫、さっさと起きろ。ゴミ箱としての役目を果たせ」

 

 恐るべき変化が起きた。

 

 聖女ミリアが死体に語り掛けるや否や、胸部を無惨に切り開かれた死体が闇色の靄に包まれたのだ。地下室全体の温度が急激に下がっていく。体感などではない。魔なる存在の顕現に、空気中に含まれる分子すらも恐怖して停止した結果である。

 

 闇の靄が晴れた時、そこに立っていたのは無邪気な笑みを浮かべた金髪の少年――いや、悪魔だった。

 

「相変わらずミリアは悪魔使いが荒いよね。ボクじゃなかったら叛逆を企てているところだよ」

「虫が喋るな。黙って仕事をしろ」

「ぴゃーこわい! ボク知ってるよ、これツンデレってやつだよね。それじゃあ――頂きます」

 

 アルブレヒトは絶望の中で理解した。

 生贄に選んだ無垢なる乙女は、本当は悪魔だったのだ。悪魔を贄に悪魔を召喚できる筈もない。だが何故、聖女が仇敵である悪魔を? アルブレヒトは疑問を抱いたまま、その答えを得る事無く頭部を大きく肥大化させた悪魔に喰われてその生涯を終えた。

 

「残った異端者(ゴミ)の魂も残さず喰らえ。やつらに輪廻を許すな」

「はいはい。でもさぁー、いっつも醜い魂ばっかりじゃ胃もたれしちゃうよ。たまには無垢な魂を食べたいなぁ……例えばミリアの魂とか、きっとほっぺたがおっこちるほど美味しいんだろうね」

「クソ虫には穢れた魂(クソ)が似合いだろう。それに私の魂は主に捧げている」

「それは死んでからの話でしょ? ねぇねぇ……ちょっとつまみ食いさせてよ。一口だけ! ねぇお願い」

 

 絶対零度に凍り付いた、見えざる聖女の視線が悪魔を射抜く。だが、聖女の聖別された白銀のガントレットが唸りを上げる事はなかった。どれほど言葉を重ねようとも、使い魔である悪魔が自分に逆らう事は無いとわかっていたからだ。

 

「駄目だ。早くクソを喰らえ。私はもう帰る」

「ちぇっ、つれないなぁ……。まぁいいや、ボクもこんな所なんかより早くミリアとの愛の巣に帰りたいもの」

「勝手にしろ」

 

 かつて聖堂教会で、このような議論がなされた事がある。

 物質界(マテリアルプレーン)受肉(インカネート)した悪魔は、たとえこれを討滅したとしても魂が地獄へと還るだけだ。やつらは何度でも異端者によって召喚されてしまう。であるならば、悪魔の魂を拘束して消滅するまで使い潰すべきではないか? 神敵である悪魔を捕らえ、神聖術式にて何重もの強制契約(ギアス)にて魂魄を縛り付ける。理論の上では可能なそれを、聖堂教会は何千もの悪魔の魂を贄にしてようやく成功させたのだ。

 

 地下室を出て地上へと戻ったミリア。漂っていた異端者たちの魂を慌てて喰らい、あとを追ってくる金髪の悪魔の足音を聞きながら、彼女はハァ……と一息、溜息をついて心の中で誰にも言えぬ感想を呟いた。

 

 私の悪魔、相変わらずウザ可愛い――と。

 

 

 ※

 

 

 聖堂教会に認定された、教会所属の聖女たちの数は常に十人と定められている。いわゆる聖十姉妹(テン・シスターズ)と呼ばれる彼女らの仕事は、教会の広告塔や各施設の慰問、各地への布教など多岐にわたる。

 教会の総本山がある聖都レアス・カナンに居を構える聖女たちであるが、彼女達が自宅で過ごす事は余り無い。広大な大陸全体を常に跳び回って布教や地方教会への巡礼をおこなっているからだ。表向きは。

 

 教皇を含むごく一部の上層部と聖女本人たちのみが知る、裏の仕事を疑われる事無く行うための隠れ蓑に過ぎないのだ。裏の仕事とはつまり、異端者狩りである。

 

 そんな、数少ない仕事明けの休暇をゆったりと、聖女第二席であるミリア・アークライトは自宅で楽しんでいた。

 

「ふむ。昼間から呑むワインはたまらんな。貴様もそう思うだろう? クソ虫」

「その姿を信者たちがみたら幻滅するだろうね。でもボク的には良い感じに堕落みがあっていいかな? もっと頽廃的におつまみのチーズと全裸の美少年なんてどう?」

「チーズは貰おう。全裸の美少年はいらん。天然モノならともかく、どうせ貴様だろうが」

「天然モノなら良いんだ……」

 

 純白のローブと頭冠ではなく、下着の上からインナーシャツを着ただけというあられもない恰好でソファーにどかりと座ってワイングラスを傾けているミリア。両眼を覆う眼帯も純白ではなく、無骨な黒革で作られた普段遣いのものだ。

 

 聖女は皆、肉体の器官を一つだけ神に捧げて恩寵を得ている。ミリアであれば両の眼だ。とはいえ、代わりに得られた人の域を大きく超えた超感覚によって視覚に頼る必要はまったく無い。聖女ミリアには見えている。神より与えられた視座にて、全てが。

 

「でもさぁ……。せっかくの休みだよ? 買い物とかいいの?」

「必要ない。欲しいものは全て注文すれば勝手に届く。わざわざ出かける必要が何処にある?」

「ほら……お日様の下で気分転換とか? あんまり閉じこもってると陰キャ聖女になっちゃうよ?」

「悪魔が太陽の下で気分転換をしろだと? それはもしかして高度なジョークか? あと私は陰キャにはならん」

「ミリアって外面だけはいいもんね。表ではあらあらうふふって感じで、吹き出しそうになるのを我慢するの大変なんだけど?」

「殺すぞクソ虫」

 

 部屋の空気が一瞬で凍りつく程の殺気がミリアから発され、半裸の美少年に叩きつけられる。叩きつけられただけだ。悪魔はただ、平然と笑みを浮かべていた。

 

「あーこわい。こわいからもう部屋で寝ちゃおうかな。外にもいかないみたいだし」

「待てクソ虫」

 

 くるりとミリアに背を向けて、悪魔が部屋から退出しようとしたタイミンクでミリアが声を掛けた。

 

「一杯くらいつきあえ。ペットは飼い主の無聊を慰めるものだ」

 

 ミリアに背を向けたままの悪魔の顔が、歪んだ笑みを形作り――即座に無邪気な笑みに戻る。くるりと踵を返して主人の向かいに、悪魔は腰をおろした。

 

「仕方ないなぁ……。というか家の中では名前で呼んでよ。ちゃんとテスタってさ」

「うるさい、貴様はクソ虫で十分だ。注げ」

 

 ガラス製のローテーブルに置かれたワインを自分のグラスに注ぎ、ついで主のグラスにも注いでやりながら悪魔――もといテスタはおかしそうに笑う。

 

「あはは! ()()()()()では呼んでくれるくせに、でもミリアのそういうツンツンしたところ好きだよ」

「誰がいつクソ虫と褥を共にしただと? 私はいまだ純潔だクソ虫が! お仕置きが必要のようだな……」 

 

 さしものミリアといえど、この発言は看過できなかったようだ。眼帯の下に隠された瞳をギリリと釣り上げて、彼女は豊かな胸の谷間に右手を差し入れ……白銀に輝くロザリオを取り出した。

 

「冗談だって冗談……ってちょっとまって、それはダメだって――ピギャアアアア!!」

 

 悪魔を使役する神罰聖女としての標準装備である魂縛調伏端末(ソウルギアス)だ。法力を籠めた強さによってギアスの強度を劇的に高めれば、並の人間であれば一瞬で発狂して死に至る程の激痛を悪魔に与える事が可能なそれで、迂闊な発言をしたテスタを痛めつけていくミリア。その眼帯で覆われた顔には確かに、反抗できぬ者を嬲る愉悦の笑みが浮かんでいた。

 

「クソ虫の悲鳴はいつ聞いても面白い。一日に一度は聞かなければな」

「はぁ……はぁ……うちの御主人様がドエス過ぎる件について……まったく、悪魔虐待罪で逮捕されてよ」

「残念だったな。悪魔に人権は無い」

「人間はこれだからさぁ! きぃーっ! 許せない!」

 

 その後は迂闊な発言をしなくなったところを見ると、お仕置きの効果はそれなりにあるようだ。とはいえこの程度のやりとりは二人にとっては日常茶飯事であった。

 

「ところでさぁ……もぐもぐ……ミリアって好きな男とか……もぐもぐ……いないの? 別に聖女でも結婚しちゃいけない事は無いんでしょ?」

「話すか食うかどっちかにしろクソ虫。私は恋などしない。私が愛するのは唯一神ファルレアス様のみだ」

 

 チーズを頬張って咀嚼しつつ、ミリアの答えを聞いたテスタは沈痛な面持ち――などする訳も無く、ゴクリと嚥下を終えてから笑い始めた。

 

「アダマンタイトも真っ青のお堅さだね。ボクとしては恋に狂ってくれたほうが堕落させやすいから助かるんだけどなぁ」

「そもそも私から恋を奪ったのが――いやなんでもない。私としたことが喋りすぎたな。やはり紛い物の美少年ではいくら見た目が良かろうとダメだ。もう部屋に戻っていいぞクソ虫」

「なになに? 気になるじゃん。あれかな? 恋人を殺されたとかかな? でもミリアって聖女になったの子供のころだよね? 片思いの相手とかかな?」

「もう一度喰らいたいらしいな……」

「あ、ボク読みたい本があったんだった! 部屋に戻るね!」

 

 再び胸の谷間に右手を差し入れたミリアを見て、脱兎のごとくリビングから出て行ったテスタ。流石にあの激痛を続けて味わうのは厳しいようだ。

 

「ふん、私とて人並みに恋をした事もあったさ。だが、もうあの人はいないし、私もあの頃のようには戻れない」

 

 部屋の中に一人、ソファに座ったまま自嘲するかの様に呟いて、ワイングラスを呷るミリア。

 かつて心を焦がした悪魔たちに対する憎悪はもはや薄れている。自分が使役する使い魔を内心で可愛らしいと思えるほどには。むしろ今の彼女は、悪魔よりも彼等を使って悪事を為そうとする人間たちの方が嫌いだった。

 

 悪魔は単にそういう生き物だ。人を騙し、殺し、堕落させて嘲笑う。ただそれだけの哀れな生き物だ。だが、彼等を使う人間たちは醜く、悍ましかった。同じ生き物である筈なのに、弱者を虐げて支配する有り様は吐き気がする。そしてそれは、ミリアの自分への想いと同じだった。

 

「度し難いのは私たちの方か。まったく、ファルレアス様の創り給うた存在とはおもえんな……と、これは聖女としてあるまじき失言か。クハハ……はぁ、つまらん」

 

 手酌でグラスにワインを注ぎ、再び呷る。神の加護を受けた聖女の肉体は即座にアルコールを分解してしまう為に、何杯干そうとも彼女が酔う事は無い。だがそれでもその晩、ミリアの手が止まる事は無かった。

 

 ※

 

 なんて事は無い任務の筈だった。

 

 規模の大きな異端者の組織を完全に潰す為に、異端者が潜伏しているとおぼしき地方都市に先行して偵察を行っていた神罰聖女第七席次と合流し、二人掛かりで一人残らず皆殺しにする。 

 

 聖女ミリアにとって誤算だったのはただ一つだけ。先行していた第七席の聖女であるノエル・グシオンが、すでに堕落していた事だ。

 

 

――ギャリィッ!!

 

 白銀に輝くガントレットと、闇色に昏く輝く刀が火花を散らしてぶつかりあう。

 

 燃え盛る聖堂教会の礼拝堂。

 本来であれば、司祭が神の言葉を伝える神聖な場所で――二人の聖女が凄絶に殺し合っていた。

 

「あはははっ! てめぇは前から気にいらなかったんだよォ! 陰険めくらァッ! 死ねッ!」

 

 純白であったはずの装束を漆黒に染め、下腹部に何重にも革製のベルトを巻きつけたノエルが罵声を浴びせかけながらミリアに斬り掛かる。

 

 ノエルの得物は刃渡り五尺(およそ150cm)を超える冗談の様な長さの長刀だ。その長さに見合った厚重ねの刀身は、素材である神鋼の密度も加味すれば総重量50キロは下らぬ代物である。それをまるで藁の様に振り回しているのだ。軽々とガントレットで重い斬撃を弾いているミリアも含めて、聖女とはまさに人を超えた神に近しい存在であった。いや、堕落したノエルにとっては地獄に君臨する悪魔王に近しいと表現するべきか。

 

「ノエル! 何故貴女が! あんなにも優しく、神への信仰篤き貴女が何故! 堕落したのですか! 誰に惑わされたのです?! それとも異端者どもに囚われ……無体な拷問と凌辱の末に魔が差したのですか?!」

 

 白銀の籠手で重く鋭い太刀を弾き、受け流し、正面から殴りつける。

 堕落した聖女であるノエルの一撃は素早く――そしてひどく重かった。

 

「ずっと狙ってたんだ。異端者を喰らう事しかできないザコ悪魔と組んで、俺らの中でもトップクラスの討滅数を誇る聖女ミリア。貴様が居なければ、俺はもっと上にいけるのに。もっと上へ……神に近い場所へ。だがその傍らにはいつもてめぇがいた。許せねぇよなァ……神の傍に在るべきなのはこのボク何だから!!」

 

 がなり立てる様な言葉の勢いと共に、腰だめに構えた長刀を増幅法術にて強化された超人的な身体能力のままに一閃。ただ一振りしかしていないにも関わらず、ミリアに対し三条の刃が襲い掛かる。

 

「ぐうっ!!」

 

――ギャリギリィッズシャッ!!

 

 二つの刃を両拳にて凌ぎ、それでも防ぎきれなかった一条の刃がミリアの顔面を僅かに外して振り斬られる。

 

――ぱさっ……。

 

 断ち切られた純白の眼帯が地に落ち、焦点の合わぬ白濁した瞳が白日に晒された。

 

「気持ちワリィ目ん玉しやがって……さっさと死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねえええええええっ!!!!」

「もう戻れないのね。そう……いいでしょう。神罰聖女第七席次、ノエル・グシオン。汝を今より神敵と認定する。もはや是非は無い……せめてもの慈悲として、苦しませずに殺してやろう。裏切り者の大淫婦(ベイベロン)!!」

「うるせえええええっ!! 刀の錆になれやめくらボケェ!!」

 

 狂乱した戦士(ベルセルク)の如き狂気に歪んだ表情で、ミリアに斬り掛かっていくノエル。その太刀筋はもはや常人には視認する事も不可能な、超速の極致にあった。反応すら出来ずに全身を膾に斬り刻まれて死ぬミリアの姿が、周囲で見守る使い魔の悪魔たちの脳に幻視される。だが――

 

――ガキィン!!

 

「なっ! バカなァ!!」

 

 法力を纏わせた左手にて、ガッチリと迫る刀身を掴み取ったミリア。その掌からは、食い込み続ける刃によって滝の様に鮮血が溢れ出していく。しかしそれだけだ。肉に食い込んだ刀身は、満身の力を籠めた筋肉にて食い止められていた。

 ノエルの表情に、初めて焦りの色が生まれた。しかし、もう手遅れである。

 

「教会式格闘術奥義――砕魔絶神掌!!」

 

 純白を遥かに超える、真なる光そのものがミリアの右拳から溢れ出る。つかみ取られた刀を捨てさり、即座に離脱しようとしたノエルにほぼ等速の跳躍で追いついたミリアが、血塗れの左手でノエルの肩口を掴んで肉体を固定し――光輝の塊と化した右拳を、指先を揃えた掌の形に変えて腹部に軽く、ぽんと触れた。

 

――ズンッ!!

 

「おごっ……ゴポッ……ごぶっ………………」

 

 軽く触れただけにしか見えぬ接触がもたらした結果は凄惨の一言に尽きた。

 

 立ったまま白目をむき、腹腔内を荒れ狂った衝撃波の圧力によって口から止め処なく、鮮血と内臓の破片らしき肉片を大量に吐瀉していくノエル。その内臓は既に心臓や肺も含めて粉々に砕けていたのである。

 

「む……。妙な感触が……子宮……なのか? ノエルに?」

 

――パチパチパチ。

 

 冗談の様な笑顔で、拍手を打ち鳴らしながらノエルの近くに寄ってきたのは彼女の使い魔であった。あどけない少女の姿をしたその悪魔は、堕落したとはいえ同僚を殺してしまったと、内心で動揺していたミリアに告げる。

 

「さすが第二席の聖女様は違うわね。うちの聖女とは大違いだわ」

「貴様は封印施設に戻って貰うぞ。ノエルの悪魔」

「はぁ? そんなもの願い下げよ。せっかくノエルちゃんが堕落して、しかもこんな死に掛けになっちゃったんだから……はい、ピタッと」

「貴様……一体何を!」

 

 少女悪魔が、瀕死で棒立ちしているノエルに抱きつく。すると闇色のもやが二人の肉体を包み込み始めた。

 

 今すぐバラバラに吹き飛ばすべきか。だが、あの闇色の靄は厄介だ。テスタの時もそうだが、あの霊質はひどく法力と相性が悪いのだ。そう考えたミリアは、己が相棒を傍に呼びつけてしばしの間様子を見る事にした。いつでも拳を抜き打ちにできる自然体を維持したままに。

 

「アレはなんだ? 何が起きているかわかるか?」

「多分だけど、依り代にしようとしてるんじゃない? 本来なら聖女の肉体なんて危なすぎて憑依できないんだけど……堕落した今なら――あっ、出てくるよ」

 

 闇の靄が晴れていく。

 

 そこから現れたのは、魔に魅入られて堕落した聖女、ノエル・グシオン……では無かった。

 

 確かにその顔にはノエルの面影が残っている。だが、その頭部からは捩子くれた禍々しい角が左右から伸びて天を突き、背中には漆黒の被膜を持った蝙蝠の如き翼が生えている。そして、くるりと悩まし気にこちらに向けた尻には、先端がフォークの様に割れた闇色の尻尾。

 

 完全なる悪魔……否、魔人と化したノエルの姿がそこにはあった。

 

「ンはァ……やっぱり堕落した聖女の肉体は格別ね♡ 魔力が無限にあふれてくるわ」

「貴様、ノエルではないな? 先ほどの悪魔か!」

「そうよ? 貴女は知ってるわよね、この娘が神に捧げたモノを……」

「子宮だろう。かつてのトラウマから、彼女はソレを捧げる事を選んだと聞いた」

「可哀想な娘だったのよ? でもね、失ったモノが大事であればあるほど、取り返したくなるものなの。たとえ神が相手でもね。彼女は恋をした。そして愛する男の子を産む為の子宮を願った。あとはわたくしがちょちょいと……で堕落した聖女が出来上がりってわけ。堕落すれば失われた器官は戻ってくるからね」

「ならその男と一緒にどこまでも逃げればいいだろう。何故私を襲った?」

 

 ミリアの言い分ももっともである。逃亡先で捕まる可能性はあったが、少なくとも正面から上位席次の聖女に挑むのは無謀に過ぎる。そして普段と違う妙に荒れた口調。どうでも良い理由で襲い掛かってきた事そのものもおかしい。

 

「いや、先ほどのアレは貴様だな? 大方この状態になる為に、ノエルを唆して堕落させ、その際に脳髄に己が一部を寄生させて操ったのだろう」

「やっぱアンタ嫌いだわ。めくらの癖に察しが良すぎるってんだよ。どのみちこのカラダを得たなら目的は果たせたもの、ついでに試運転も兼ねて貴様らを血祭りにあげてやろう!」

 

 魔人ノエルが咆哮の様に告げた瞬間、全身から莫大な魔力がオーラとなって吹き上がった。可視化できる程に圧力と密度を高めた魔闘気はそれでも、体内で練り上げられる力の万分の一の余波にしか過ぎない。

 

「また地が出てるぞ。所詮クソ虫はクソ虫か……。テスタ、私の装備に憑依しろ。コイツは本気を出さねば勝てん」

「はいはい、まさか魔人化するとはね。油断しないでよ、魔魂憑依形態(デモノエンチャント)は確かに強力だけど、法力との相性は悪くて10分程度しか持たないんだから」

 

 ミリアの両手両脚に装備された、聖別された白銀の手甲と足甲。それぞれに闇色の靄が纏わりつくと、白銀の輝きは歪みねじれ……紫煙のごときオーラを纏う。そして、聖女ミリアは神に祈る清浄な心のままに、闘争の雄叫びと奇跡の祈りを発した。

 

「ファルレアアアアアッス!! ご照覧あれい!! 我が唯一の神!! 汝の恩寵を給う……我、聖なる戦に挑みし使徒にして、神敵悉く滅ぼす者なり! 【聖戦(ジ・ハード)】」

 

 聖女が行使する幾つかの奇跡。その中でももっとも強力な奇跡が【聖戦】である。

 効果そのものは単純だ。対象者の肉体と装備品の能力は大幅に強化し、心から恐怖という感情を失わせるだけだ。もっとも最後の効果が極めて危険なのだが。

 そして、範囲をある程度操作する事が可能なこの奇跡は、大人数を祝福すればするほどに効果が下がっていく。逆に言えば、今回の様に一人だけに掛けた場合、その増幅率はおよそ10倍を超えるだろう。

 

――ドゴォッ!

 

 聖女の肉体がブレて掻き消えたかの様に見えた瞬間、その右の拳が魔人ノエルの右頬に突き刺さっていた。

 元々の肉体性能がすでに人外の領域にあるミリアが、【聖戦】の加護を受けたのだ。その強さはもはや、地上最強といっても過言では無い。

 

――ボゴォッ! ドガァッ! ズドォォォォン!!

 

 神鳥の如く飛翔し、組み合わせた両手で叩きつける様に頭部を打ち据える。

 着地の瞬間に合わせて両の掌を揃え、奥義である砕魔絶神掌を両手で放つ。

 その場で素早く回転して全体重を乗せ、力を十分に乗せた足刀で蹴り穿つ。

 

 先ほど戦った堕落した聖女であれば、100回は即死してもおかしくはない程の檄烈な破壊の力が荒れ狂った。だが――。

 

「あたた、流石に痛いわね。特にあの掌でやるやつね。内臓二個くらい破裂したわよ? もう治ったけど」

 

 無傷……とまではいかない様であったが、どうやら喋り終える頃には回復しきってしまった様子だ。正に魔人の名に相応しい化け物ぶりであった。

 

「ふん。いい加減弱者を嬲るのにも飽きていたところだ。今度はそちらから来い。()()()()()やろう」

「あら強がりさんね。でもいいわ。その綺麗な顔が絶望と苦痛に歪むのを見せて頂戴」

 

――ヒュパッ!

 

 雷鳴もかくやという超高速で魔人ノエルがミリアに接敵し、納刀していた長刀を神速で抜き討つ。まるで次元そのものを切断したかの様にミリアの周囲に10を超える数の斬線が刻まれた。

 

――キュガガガガガガガガガガッッ!!

 

 そのすべてを四肢に装備した武器で弾き、流していくミリア。見えぬ聖女には見えていた。すべての死の線が。

 実力は完全に拮抗していた。であれば肉を斬らせて骨を断つ他なし。それぞれに無傷の勝利を諦めた二人が、より一歩踏み込んだ殺し合いにのめり込んでいく。

 常人には知覚すら出来ぬ超高速の世界で、残像とソニックブームの舞い散る、生と死の極限まで近づいた空間で、二人は幾度となくぶつかり合い、鮮血と闘志を迸らせながら殺し合い続けていた。

 

――魔人ノエルの長刀がミリアの肩口を貫いて右腕を斬り飛ばす。即座に左手で斬られた右腕を掴み切断面に押し付けるミリア。自動再生法術(リジェネレイト)の効果により、コンマ一秒で右腕が完全に接着された。

 

――ミリアがアギトの如く組み合わせた両拳から、極限まで圧縮した法力を収束して撃ち出し、魔人ノエルの翼を丸く大きく抉り取る。次の瞬間には闇色の靄に包まれ、晴れた時には治っている。

 

――誘う様に長刀を誘導し、己が腹部に根元付近まで刀身を埋め込ませたミリア。そのまま股間まで斬り下げようとした刀身そのものを腹筋の収縮で抑え込み、胸部目掛けて貫手を放って心臓を抉り出すミリア。

 

――表情を激痛に歪めつつも、魔人ノエルは心臓を抉り取られたまま更に力を籠めて、ミリアの腹から股間までを斬り下ろした。夥しい血を噴き出させながら距離を取った両者。どちらにも追い打ちをかける余裕などない。

 

「ぐぶっ……げぼおおおっ……心臓の再生にはさすがに時間がかかるわね……」

「おげえ゛え゛え゛っ……内臓が零れ……ヒーリング……ゲボッ……カヒュッ……。だめ、間に合わない。神の御手にて癒したもう――【完全治癒(リフレッシュ)】」 

 

 例え瀕死に至ろうとも、それぞれの回復力はまさに化け物のそれだ。とはいえ、大きく損壊した肉体の再生には、それに見合う魔力や法力が必要となる。ここにきて、ミリアの不利は明らかだった。

 

「あなた辛そうねぇ……その力、地獄に君臨する七大悪魔王とも渡り合えそうだけど、長くは持たないんじゃない? 段々あなたの悪魔が剥がれかかっているわよ?」

「ぐううっ……その前にクソ虫……貴様を殺せばいいだけだ。絶対に殺す……例え我が身が滅したとしても……引き換えに()()()()は絶対に殺す」

「あら……? あなたもしかして……ノエルちゃんも救おうとしてるの? こんなに不利な状況で? あっはっはっ!! だからなるべく傷を付けない様にしていたのね。心臓だけを抉り取るなんてスマートに過ぎたもの」

 

 ミリアは諦めていなかった。悪魔に唆されて堕落させられ、今や魂が残っているかも定かではないかつての同僚。そんな事で悩んでいるなんて知らなかった。せめて相談してくれれば……いや、まだ遅くは無いのだ。ノエルの魂も肉体もそこにある。であれば、なんとかなる筈だ。私は唯一神ファルレアス様の聖女。【聖十姉妹(テン・シスターズ)】の第二席次、ノエルの姉なのだから。ミリアはそう己の心に言い聞かせて、ニヤリと口角を歪ませあげて立ち上がった。

 

「黙れクソ虫。貴様は殺す。ノエルは救う。どちらも簡単な事だ。私は唯一神ファルレアス様に仕える神罰聖女第二席。異端者(ゴミ)を狩り、クソに集る悪魔(クソ虫)を滅ぼす者。怯え震えろ……哀れなる魂……その魂魄、極彩に砕き散らしてくれよう」

「またお得意の強がり? 聖職者って皆そうよね。大言壮語で見栄っ張り。いい加減飽きてきたし、そのザコ悪魔ともどもさっくり殺してあげるわ」

 

 魔人ノエルは長刀を漆黒の鞘に納刀し、腰だめに構えたまま敵手を見つめた。

 

 純白のローブを血に塗れさせ、眼帯は切り裂かれて虚ろな瞳を晒している。何度も致命傷を負い、その度に回復法術で癒しているせいで法力は残り僅か、契約した悪魔の憑依術式も切れかかっている。正に満身創痍と言っても過言ではない。

 

 だが、それでもなお聖女は美しく、高潔であった。

 

 言葉とは裏腹に、魔人ノエルの心にはさざ波の様な微かな揺らぎが生まれていた。悪魔にとっては慣れ親しんだ感情、だがけして感じてはならぬ感情、それは悪魔にとって与えるモノではあっても与えられるモノでは無かった。

 

 不屈の闘志で何度も立ち上がる敵手に抱いたそれは――恐怖だった。

 

「ノエルっ!! 神罰聖女第七席次ノエル・グシオンっ! まだそこに在るのなら矜持を見せよ! 例え信仰を捨てようとも、貴様には叶えたい望みがあったのだろう! ならば足掻けぇっ!」

「戯言を……――ぐうっ……嘘……たかが言葉ごときで……」

 

 魔人ノエルの微小な心の揺らぎ。されど悪魔が恐怖するというあってはならぬ事態に、畳みかける様にミリアの叫びが礼拝堂に木霊する。聖女ノエルを封印していた悪魔の術式が、恐怖によって僅かに緩み、ミリアの呼びかけが微かではあれど届いたのだ。

 

 生まれたのはほんのわずかな隙。内側から抗するノエルの意思を抑えつける為のほんの僅かな時間。だがミリアにはそれで十分だった。

 

 ゆらりと、掻き消える様に残像を残して消えたミリアが、貫手を翳して魔人ノエルの目の前に現れた。

 

「そして貴様が憑依の核にした場所もわかったぞ。ノエルの願いそのもの。堕落のきっかけとなったもっとも大切なモノ――」

「人間如きがあああああッ!!」

 

――ぞぶり。

 

 ミリアの繊手が、魔人ノエルの下腹部に抉り込まれる。皮膚と肉を裂き、生命の揺り籠となる分厚い筋肉に包まれた器官に五指が食い込み、まるで胎児の様に内部で丸まっていた悪魔の霊核を法力を帯びた掌が包み込んだ――刹那。

 

「ごめんミリア! もう限界!」

 

 ミリアの肉体から【聖戦】の加護が失われ、同時に弾かれるようにテスタの憑依が解ける。

 

「せめて貴様も道連れにしてくれる!」

 

 霊核を砕くのは言うほど容易い事ではない。物質界と半ば重なる様に存在する異界との()()()に存在する悪魔の霊核を破壊するには、それなりの法力が必要なのだ。

 素の状態のミリアでも砕く事は可能だ。だが、確実に一秒は掛かる。それは、魔人ノエルがミリアの首を斬り飛ばすには十分な時間だった。

 

――ヒュパッ!

 

 ノエルの子宮に憑依した魔核を握り潰した瞬間、見えぬミリアの首すじに冷たい鋼の感触が触れた。

 

 ああ、己もここまでか。だが、妹を救って死ぬのなら、まぁ悪くはない。

 神の御許に召される覚悟を決めたミリアの耳に、悪魔の断末魔の叫びが届く。

 

 いつのまにか首筋に感じた冷たい感触は消えていた。

 

「ミリ……ア……」

 

 使い魔の呻きにも似た呼びかけに、我に返ったミリア。その超感覚が周囲を走査し、彼女は悟った。

 

「このクソ虫が……なぜ私を庇った」

「えへへ……ボクは悪魔だけど、封印される前の事はあんまり覚えてないし……それにミリアと一緒にいるのは……楽しかったから……」

 

 ミリアを庇い、魔人ノエルの一閃を受けたテスタ。胸部から横一文字に霊核ごと両断されて転がっている彼の上半身は、何かを掴むかのように震える両腕を空に彷徨わせていた。

 

「ごぷっ……だから……ミリアが死ぬのは嫌で……げぽっ……あのね……君はきっと嫌がるし……怒ると思うけど……言いたかった事が……ごぼっ」

「もう喋るな。いま修復してやる」

 

 胸元からロザリオを取り出し、霊核補修術式を起動させようとするミリア。

 

「そんな法力なんて……残ってないでしょ……げぶっ……あのね……ボクはきっと……君に恋――」

「おいクソ虫! 使い魔の癖に勝手に死ぬんじゃあない! おいっ! クソ……ちくしょう……テスタアアアアアアッ!!」

 

 虚空を彷徨っていたテスタの両腕が、力を失ってだらりと下がる。破壊された霊核から急速に魂魄が霧散し、テスタと言う悪魔を構築していた要素が還元されていく。悪魔に滅びは無い。例え死のうとも、その魂は異界へと還り、また生まれてくる。以前の記憶を持たぬ、新たな悪魔が――。

 

 ミリアはテスタという悪魔が嫌いではなかった。

 

 聖堂の封印施設で記憶を消され、使い魔として調整を受けた悪魔たちの中で一つだけ気に入った悪魔に名を付け、己が使い魔とした。気に入った理由はわからない。ただ、どこか寂し気なその魂が、何故だか己と似ている様だったかもしれない。

 

 共に過ごすうちに能天気で捻くれたテスタを眺めていると、渇いた心が満たされる様な気がしていた。鬱陶しいと思う事も多かったが、そうやって感情を動かされる事すらも心地よかった。

 

 悪魔に家族や村の人達、そしてひそかに心を寄せていた兄の様な幼馴染を奪われた時、ミリアは絶望の中で神の声を聞いた。そして、凄惨な光景を焼きつけた己が両の瞳を捧げたのだ。

 

 全てを奪った悪魔が憎かった。だが、聖女として活動を続けるうちに、己の村を襲った悪魔に指示を出した者が人間だった事に気付いた。それからミリアは、悪魔ではなく悪に染まった人間を憎む様になったのだ。

 

「駄目だ。お前が死ぬ事を許さない――唯一神ファルレアス様……お許しください」

 

 ロザリオを握りしめたまま神に許しを乞うと、ミリアはテスタの上半身を抱き起こして己が顔を安らかな彼の死に顔に近付けていく。

 

「我が魂の一部をもって汝と再び契約を結ばん――【聖魔契約(テスタメント)】」

 

 血に塗れた互いの唇がゆっくりと重なり合い、術式に従ってミリアの魂の一部がテスタの欠けた霊核を補っていく。

 

「んっ……んぅっ……ンっ……」

 

 血と唾液の交じり合った背徳のくちづけ。どこか淫靡めいて、だが荘厳でもあるその光景はまるで、一つの宗教画の様に美しかった。 

 

「ぷはっ……。ふふ、私の初めてを捧げたのだ。早く起きねばお仕置きだぞ――テスタ!!」

「はえっ!? 今ミリアがテスタって……あれ? ボク死んだよね? ていうか今ボク、キスされてなかった?」

 

 己が名を呼ぶ主の声に驚いて目を覚ましたテスタ。霊核の補修に伴い、両断されていた肉体もすでに元通りになっている。

 

「気のせいだクソ虫。そんなわけがあるか」

「えー……でもなんか前よりもミリアと近い感覚があるんだけど……もしかして魂――」

()()()()()()()()!! 理解したらさっさと起きろ。ノエルを癒して帰投するぞ」

「アッハイ。了解ですマイマスター」

「よろしい」

 

 こうして、聖女ミリアとノエルの任務は幕を閉じた。

 

 聖女ノエルは堕落の代償として神罰聖女の任を解かれたが、ミリアの口添えもあって過大な罰が下されることは無かった。そもそも唯一神ファルレアスはそこまで狭量な神格ではないのだ。たとえ堕落しようとも神の奇跡は変わらずに行使できる事がその証左であった。勿論聖女としての超人的な肉体能力はもはや無い。だが、想い人と幸せそうに暮らし始めたノエルの事を咎める者は教会内部には誰一人としていなかった。

 

 そして、より深く魂という絆で結びついたミリアとテスタはと言えば――。

 

「ワインが切れたぞ。さっさと地下蔵から取ってこいクソ虫」

「はいはい、おつまみにアグレイラ産のチーズと全裸の美少年はどう?」

「チーズはもらう、だが偽の美少年はいらん。天然モノを持ってこい」

「もう……ベッドの中ではあんなに素直なのに――ピギャアアアアア!!」

「うるさい! 黙らないと殺すぞクソ虫がぁっ!!」

 

 ロザリオを握りしめてお仕置きをしつつ、憤怒の声で眼帯の聖女が吠えた。悪魔の言葉を否定せぬままに――。




最後までお読みいただきありがとうございます。
たまには全年齢向けもいいかなという事で、恋愛ものを書いてみました。

もしよろしければ評価やブクマなど頂けると滅茶苦茶嬉しいです。特に感想など頂けると大変励みになります。(∩´∀`)∩ワーイ


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