ブラック・ブレット -弱者と強者の境界線- 作:緑餅 +上新粉
お待たせして申し訳ありません。いやもう忘れられてたりして....
今話は我堂長正の回想編です。彼は過去の設定をかなり盛りました。
────何故、こうまでアルデバランに拘るのですか?同胞を失ったという理由はあれど、死するまで戦う、というのは些か逸った判断です。
今からでも遅くはありません。まだ退路はあります。延命措置だってきっと。
退路は、確かに作れるだろう。そして、私が助かる術もあるやもしれぬ。だがな、ここを退いたら誰があの怪物を止める?障害がなくなれば彼奴の侵攻は再開するだろう。阻まねば、いずれにせよ此方の敗北だ。
私たち以外に、美ヶ月樹万という青年がいますが、彼は....
言いたいことは分かる。確かに、善戦はしていた。だが、アルデバランは未だ戯れの域を脱していない。あれが本気で攻勢に出た時、仮に背の触椀全てが動くのだとしたら、単独で受けるのはあまりにも危険だ。
では────結局。
ああ。結局は戦うしかないのだよ。....しかし、この戦場で死ぬのは私だけでいい。字義通り、死んででも撃退だけはしてみせよう。そのための策も、もう頭にある。
貴方は、強い人ですね。
ふん、世辞は止せ。真の強者は、この状況にあってもなお生を渇望するだろう。そして、生きながらにして勝利する方策を模索するのだろうさ。....私は諦めた。無力な己を自覚してな。であれば、敵が如何な異形であろうと、もはや弱者よ。
いいえ、嘘はおやめください。もしも先のお言葉が真で、無力さから生存を諦めたというのなら....きっと、貴方はこの場で自害なさる筈です。
故に、諦観とは違います。それは恐らく、乾坤一擲、というものでしょう。
────ク、これは一本取られたか。しかし、ほとほと私も往生際の悪い男よ。これでは、天に昇った
ふふ。母上ならば、これからのことを全てご覧になった後でも、赦してくださるでしょう。ご安心ください。貴方には私がついております、長正様。
莫迦者。これから黄泉へ行く私に付くなど、縁起でもない。
ああ、しかし。そうか。────私は、やっと。お前を守ることが出来るのだな。
****
「ああ、
「はい、久方ぶりです。母上」
無機質な白い病室の中に、その女性は横たわっていた。彼女は来客に気が付くと、そのか細い身体をおもむろに動かし、黒い瞳を湛えた目尻を優し気に緩める。
それを見た少女────壬生朝霞は、手に持った白桃色のプリザーブドフラワーを揺らしながら、笑顔と共に挨拶を交わす。
つまり、この白く広い室内の中に居る女性こそが、その人だ。
朝霞は手に持った鮮やかな花々をベッド脇のチェストへ置くと、包装を取って透明な花瓶へと移し替える。それだけで、殺風景だった室内の雰囲気が、幾分か明るくなったようだ。
開け放たれていた窓から吹き込む爽風に、華やかさを感じる。
凍える冬は既に去った。もうすぐ、春だ。
そんな暖かい風に踊る朝霞の黒く艶やかな長髪を、春歌の白く嫋やかな手が撫でる。掬い上げては指の間から零れ落ちていくその様は、彼女の歩んで来た人生を形容しているようだった。
「ふふ。朝香はこうして出会うたびに、きれいになっていくわね」
「あ、ありがとうございます。己の持つ女性としての魅力を考えたことはあまりなく、自信はありませんでしたが....母上が仰るのなら、自恃心を持てます」
「そうよ、もっと自信をもって、笑顔でね。でないと、ただでさえいっつも仏頂面のあの人の顔、戻らなくなりそうだから」
そう言いつつ、口元に手を持ってきて上品に微笑む春歌。朝霞もそれにつられたか、控えめな笑みを漏らす。
春歌の言うあの人とは、夫である長正のことだ。この場には居ないが、彼女はまるですぐ傍にいるかのように虚空へ手を伸ばし、言葉を続ける。
「私ではもう駄目だけれど、朝香なら大丈夫。娘の笑顔を見て、つられない親は居ないわ」
「......そうですね。私も、そう思います」
朝霞はまるで生きているかのような色彩を放つ、生きていない花の表面をそっとなぞる。にもかかわらず、ふわりとした感触が指先の触覚へ応答し、俄かには生花でない事実へ猜疑を抱いた。が、やはりと言うか、それはどこかうそくさかった。
この世にあるものすべてが、そして自身の知る全てが真実である必要はない。厳しい現実を覆い隠すための都合の良い嘘がなければ、人は簡単に潰されてしまう。自由や平等といった概念は、こういった集団無意識を流布させるのに適した社会なのだ。
今、こうして春歌と親し気に会話する朝霞も、都合の良い嘘を利用し、本来の『現実』を塗り潰している。それは自分にとっての益からか、あるいは他人にとっての益からか。
「朝香、座って?いつものように髪を結んであげるわ」
「ぁ、はい。お願いします」
「私もね、若い頃はこれぐらいきれいな黒髪だったのよ?....今はこんな『飾り』になっちゃったけれど」
木製の櫛で、朝霞の髪を優しく梳いていく春歌。その慣れた手つきから、彼女が朝霞の髪を扱うことが一度や二度でない事実は明白だろう。瞬く間に所々跳ねた毛先は纏められ、黒く艶やかな流線を形作る。
両者の間に言葉は交わされない。何者の介入もない、静止したと錯覚するほど穏やかな時間の流れの渦中で、壁掛け時計が刻む一秒ごとの動作だけが、時の経過を認識させる。
病室には、他の患者の様子を見に来た看護婦の足音や、風がカーテンを叩く音、そして櫛が滑る音が響く。
そこへ、新たな音が加わる。
「ぁ────たしが」
「?母上、何かおっしゃいましたか?」
「私がいなくなっても....泣かないでね?」
「────」
春歌の言葉に、朝霞は二の句が継げなくなった。
それは、内容が重いくせに話題の発起が唐突だったのもあるし、何より....声色がいつもと明らかに違ったからだ。
「泣くと悲しいことばかり思い出すし、悲しいことばかり、想像するから」
「母上」
「私は、母親として失格だったけれど....それでも、朝香のことは本当に愛しているわ」
春歌は、自分の髪をまとめていた白い髪留めを外し、きれいに整えられた朝霞の髪につける。純白の飾りは、黒い長髪によく似合っていた。
いつもの通りだと、春歌が朝霞の髪を梳いて、その間に雑談に花を咲かせ、そして最後に沢山持っているという色とりどりの髪飾りのうち、一つをプレゼントとしてつけてくれる。この髪飾りの贈答が、『今日のお話はこれでお終い』という合図にもなっていた。
だが───春歌自身が今まで付けていた髪飾りを渡したことは、これまで一度もない。ましてやこの髪飾りは、朝霞が出会ってから今まで、ずっとつけていたものだ。
朝霞は座っていたパイプ椅子から立ち上がり、春歌の姿を目に映す。いつも笑顔を絶やさずいた、
この役割を担うようになってから、我堂春歌の病室を訪問し、そして出会った回数は、既に二十あまり。無駄だと思っていた。無為だと思っていた。この時間に、何の意味があるのかと思っていた。
最期となる今日で、ようやく。忘れかけていた己の中にある大切なものを、手繰り寄せることができた気がした。
「ごめんなさい。でも、ありがとう────
この翌日、我堂春歌は栄養失調が原因の衰弱により、死亡した。
****
壬生朝霞。お前は暫く、この病院にいる私の妻と会え。理由は問うな。
....我堂長正。貴方は気でも触れているのですか?私はイニシエーター、ガストレアを殺すための武具そのものです。それを知った上で民警などという組織に属し、私を雇ったのでは?
今のお前は抜き身の刀だ。人であることを忘れている獣に等しい。そんなものを近くに置いたとあっては、戦場で先ずお前を斬りかねんからな。
本気で仰っているのでしょうか。貴方が私を斬れると?
ああ、信念無き者の刀に技は宿らん。そして、術理の無い刀に窮みは有り得ぬ。驕りも大概にしておけ。
......それ以上の愚弄は、いくら主と言えども見過ごせませぬ。
フ、気に障ったか。なら、やはり私の言葉通りにするのだな。お前にはまず、人であることを思い起こして貰わねばなるまい。
────いいでしょう。そこまでおっしゃるのならば、貴方の妻に一度は見えましょう。これ以上の下らぬ問答が繰り返されないことを祈りますが。
ハハ、そうさな。ああ、言い忘れていたが、あれと会うに当たり私から一つ、助言がある。....お前はあれの子として振る舞え。何、特別な身振りや態度は必要ない。意識してさえいればいい。
****
私では、あれの心を癒せなかった。
両親を、そしてようやく生まれ落ちた愛し子さえガストレアに奪われた、その絶望。まこと、計りかねよう。
だからこそ、私たちは夫婦となれたのやもしれぬが。
私も、かつての妻をあの怪物どもに殺されている。息子の英彦は、それを見た影響で必要以上にガストレアを恐れ、また同時に戦場へ立つことを忌避するようになった。
どうしようもないことだ。弱き者は食み貪られるのが世の常。理不尽など、人が勝手に設定した、人にとって都合の良い結末の見方だ。
人は弱かった。ガストレアは強かった。であれば、この過程や結果は灼然たるものだろう。
それでも、私は戦わなくてはならない。勝てる勝てない、死ぬ死なないの問題ではないのだ。
奪われたものが、失くしたものが多すぎる。
単純に、
そう。
私は絶望に屈しなかった。それに勝る理由を手に入れたからだ。
だが、あれは心を折った。生きる理由を見失うほどの絶望に呑まれたからだ。
もう、私とあれはかつてのように笑い合えない。立つ位置が致命的なほどズレてしまった。
だが、それでも。せめて最期くらいは、たとえ偽りであろうと安息を与えたい。
そのための、朝霞だ。
あの少女は、
私が民警となるにあたり、イニシエーターを彼女に選んだ理由も、それが大半だ。実力も戦闘法の傾向すら、一切目に入れてはいない。
だというのに────数奇なものよな。彼女は私と同じく、剣鬼となることを望む外れ者だった。....いいや、業は既に
外見は瓜二つであるにもかかわらず、中身は似ても似つかない。本当に、神とは残酷なことをするものだ。
朝霞。お前はきっと私を恨むのだろうな。
どのような美辞麗句で誤魔化そうと、お前に朝香の代わりという役割を求めたのは、言い逃れできぬ事実だ。朝霞というお前の本当の側面を、私は蔑ろにした。
────ああ、そのことを謝れなかったのが、心残りだ。
そして、何より。これまでのことの全てに、感謝をしていると。救われていたのは、私も同じなのだと。伝えたかった。
或いは......過去の業を清算し、再びお前と歩みだせる勇気と決意が私にあれば、もう一度やり直せたかもしれない。
そう考えるのは、事ここに至っては....もはや詮無いことだろう。
────復讐とは、哀しいな。春歌────。
****
────我堂長正は、信念を貫き通した。
「これは、流石のアルデバランも堪らんだろうな!」
壮絶な爆風が俺の四肢を叩く。頭上で蜷局を巻いた爆炎は悠に十メートルを超え、頭部どころか首の半分ほどまですっぽりと覆った。
と、俺の立つところから一メートルほど離れた場所に、しゃん、という静かな音を奏で、黒い刃の破片が落ちた。それは、我堂が俺の腰から引き抜いていった、朝霞の太刀だ。
その刃を拾い上げる白磁の手が、視界に映る。
「行きましょう、美ヶ月さま。長正さまは、無事に最期のお役目を果たしました」
「....ああ。そうだな」
悲しいかどうかを問うなどと言う残酷なことはしない。少なくとも、この場でしていい問答ではないだろう。
俺は我堂との約束を果たすため、彼女────壬生朝霞を抱え、駆けた。
長正や春歌の過去をもう少し詳しく知りたい方は、人物紹介の方を覗いてみてください。